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日本サッカー通史の試み③ 明治期におけるサッカー普及の限界

3. 明治期におけるサッカー普及の限界

 東京高等師範学校々友会蹴球部編『フットボール』(大日本図書, 1908)には、1908(明治41)年当時のサッカー普及状況が以下のように記されている。

“一昨年頃から東京府師範学校でも亦フットボールを始め、昨年の十一月に高等師範学校とマッチをした。惟ふにこれは我が国に於ける日本人同士のフットボール・マッチの始めてであらう。続いて高等師範と慈恵医院医学専門学校とのマッチがあった。東京に於てこのやうに一時に勃興しつつあるのみならず、各地方に於ても亦頻りにフットボールの声が高くなって、愛知県、山形県、福島県、茨城県、埼玉県等の各師範学校では、已に盛にやって居る。その他中学等でもやってゐる所もあるし、又始めようとしてゐる所も沢山あるやうである。”(p.14)

地方では、主として東日本の師範学校から普及していったようである。しかし、サッカーに限らず、明治期におけるスポーツ普及には以下の社会的要因による限界が存在した。

3.1 学校数と学生・生徒数

 この時期におけるスポーツの担い手は中・高等教育機関の学生・生徒であるが、明治期においては中・高等教育が後の時代ほど普及しておらず、学校数、学生・生徒数の絶対数が少なかった。文部省編『学制百年史 資料編』(帝国地方行政学会 1972)によれば、1907(明治40)年の学校数、学生・生徒数は以下のとおりである。

中学校 学校数 278 生徒数 111,436
師範学校 学校数 69 生徒数 19,359(注:女子師範学校を含む)
高等学校 学校数 7 生徒数 4,888
専門学校 学校数 64 生徒数 31,852
高等師範学校 学校数 3 生徒数 1,340(注:女子高等師範学校を含む)
大学 学校数 3 学生・生徒数 7,370 

この時期の大学は帝国大学令による大学で、東京、京都、東北の3帝大のみである。慶應や早稲田のような私学は専門学校に含まれる。高等学校も一高~七高のいわゆるナンバー・スクールのみで、全国でも高等教育学生・生徒数は5万人未満である。

 一部地方の師範学校・中学校にもサッカーが普及したが、学校数が少ないうえ、活発に活動する蹴球部が少なかったので、対校戦を行うことは困難であった。仙台一中は明治期にサッカーを始めた数少ない中学校のひとつであるが、仙台一中・一高百年史編纂委員会編『仙台一中、一高百年史』(宮城県仙台第一高等学校創立百周年記念事業実行委員会 1993)の「第Ⅱ部 仙台一中・一高百年史 第一編 明治時代 第四章 茶畑初期 明治四十(一九〇七)年~大正二(一九一三)年 第四節 学友会の活動」の「蹴球部」の項に以下の記述があり、対戦校がなっかたので、校内大会としてサッカーが行われていたことが記されている。

“蹴球部 やはり校内大会が盛んに行われた。明治四十年伊藤運治先生が着任され、部長として指導されてからそれまでの遊戯的な蹴球から本格的な活動に入った。しかし、当時においては今日の如く選手ばかりの運動部ではなく、運動部本来の精神に立脚して生徒全般の運動を目的としていた。勿論適当な相手を校外に求めることが出来なかった為もあった。この間の消息を明治四十一年発行の学友会雑誌は次のように伝えている。すなわち、「現に仙台市内の各学校で蹴球部の設備されているのはニ中と師範と吾が校の三校であるが、ニ中のも師範のも有志だけのもので微々たるものだ。勿論吾が部としても毎日正式の練習をしているわけではなく、ただ生徒全般の運動を目的としてやって来たものであるから、競技という点においては不完全であるが、毎日全校六百の健児をして遺憾なくこの勇壮なる運動の趣を解せしめ、奮闘力を養いつつある故に盛大という点においては目下仙台市の蹴球界では吾が部が独り覇を唱えているわけである。しかも吾が校の運動部の範囲は未だ何れの部においても全校生徒の希望を悉く充たさしむることを得ない時に、独り吾が部は全校の諸君を満足せめて居る。」 こういう趣旨のもとに校内大会は毎年春秋二回、盛大に行われて全校の血を湧かせた。校長を始め全職員、全生徒がこれに参加して技を競った。”(p.94-95)

近隣では仙台二中と宮城師範に蹴球部があったが、活動は不活発で対校戦ができるレベルではなかったようである。

3.2 鉄道網の未発達

 仙台のような都会では他に中学校や師範学校、高等学校、大学があり、仮にサッカーが普及していれば、東京高師対青山師範、慈恵医院のような対校戦を行なうことができる。しかし、都会でない地域の学校が対校戦を行うのは鉄道網が未発達な時代では大変なことだった。山形県鶴岡の荘内中は1912(明治45)年5月11日に上記仙台一中と仙台において対校戦を行う。これが両校にとって初の対校戦なのであるが、『山形県立鶴岡南高等学校百年史』(山形県立鶴岡南高等学校鶴翔同窓会, 1994)はその行程を以下のように記している。

“大正元年、蹴球部は漸く技が熟してきたとはいえ、未だかつて他校と試合するの機会がなく脾肉の嘆にたえなかった。折り柄今年の修学旅行は日光仙台方面であることを聞き好機至れりとして、仙台第一中学校に向って対校試合を申込んだ処、許諾の快報を得た。五月七日、放課後から夜通し新庄まで五寸の草鞋で踏破し、そこから汽車で八日の晩は福島泊り、翌日は松島遊覧、仙台に行き諸所見学、いよいよ十一日の午後試合の運びとなった。”(p.155)

当時、鶴岡まで鉄道網が延びておらず、現在の陸羽西線に相当する鉄道は未開通で、鶴岡から新庄まで徹夜で歩かなければならなかったのである。さらに福島で1泊しており、鶴岡から仙台まで、新庄からは鉄道を利用しても3日かかっている。新庄-余目間の陸羽西線が開通するのは1914(大正3)年、余目から鶴岡まで延伸し、鶴岡駅が開業するのは1919(大正8)年、羽越本線が全通するのは1924(大正13)年である。

 都市交通も同様に未発達であった。野球では1903(明治36)年最初の早慶戦が三田の慶應グラウンドで行われるが、早稲田の選手は早稲田から徒歩で三田に向っている。東京に路面電車が初めて開通するのは、最初の早慶戦と同年の1903(明治36)年のことである。

Further readings:
1) 「明治45年(1912年)5月11日の東北(みちのく)ダービー

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Comments

いよいよですね。従来の日本サッカー史はダグラス少佐(本当は中佐)以降、日本フートボール大会や極東選手権までの間が無視されていましたから、師範学校が頑張って大正時代を迎えたことを書き記しておいて下さい。

Posted by: 藤大納言 | May 11, 2011 at 09:00 PM

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