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日本サッカー通史の試み⑥ 大正期におけるサッカーの普及パターン

6. 大正期におけるサッカーの普及パターン

6.1 中等教育への普及

 ルーツ校東京高等師範学校で始まったサッカーは、同校が中等教員養成機関であったことから、まず師範学校に普及する。師範学校には師範学校附属小学校があり、師範学校からその附属小学校にも普及する。師範学校附属小学校は地域の有力中学進学校であることが多く、師範学校附属小学校OBが中学校に進学して中学校で蹴球部を作る例が見られる。このパターンの例は神戸一中(現・神戸高校)で、図式化すると以下のようになる。

東京高師→御影師範(東京高師OB玉井幸助1909年着任)→御影師範附属小学校→神戸一中(1913年創部)

 上記はボトムアップ型であるが、大正期に「校技」としてサッカーを採用した中学校では、校長のトップダウンによる例が多い。当時野球人気が過熱しており、野球に熱中して勉学がおろそかになったり、度の過ぎた応援合戦が教育に与える悪影響を考慮し、野球に代わるスポーツとしてサッカーを採用した。広島一中(現・国泰寺高校)はそうした中学校のひとつであり、『広島一中国泰寺高百年史』(母校創立百周年記念事業会 1977)はサッカー導入の経緯を以下のように記している。

“本校では野球に生徒が夢中になり、上級学校の進学率が低下し、学校当局を悩ませていた。弘瀬校長は蹴球を校技として奨励したいという願望をもち、一一年日本サッカーの誕生の地東京高師で蹴球部のマネージャー(役員)として活躍していた新進の教師松本寛次(数物科卒業)を懇望した。松本寛次は卒業を前にして校長との間に、本校に就職することを約束し、卒業後の四月に赴任した。この松本寛次の赴任によって蹴球部の道は開かれていくのである。”(p.232)

 広島一中は明治期創立の伝統校であるが、大正期の新設中学校では初代校長がサッカーを「校技」に定め、野球部を作らせないようにした例がある。刈谷中(現・刈谷高校 1919年創立)、志太中(現・藤枝東高校 1924年創立)、湘南中(現・湘南高校 1921年創立)、東京府立五中(現・小石川高校 1919年創立)などがその例である。

 野球に代わる競技としてサッカーが選択されたのは、当時の中学校が英国のパブリック・スクールを教育モデルとしており、そのパブリック・スクールの校技がサッカーであったからであろう。東京府立五中OB池島信平は、制服を背広とネクタイに定め、紳士教育を志向した初代校長伊藤長七を以下のように回想している。

“校長の口ぐせは「かの英国のイートン校においては・・・・」
 このイートン校が時どき、ハーロウ校になったり、ラグビー校になるが、要するに英国の名門校の校風にならって、服装からまず「紳士」としての自覚と誇りを持てというわけである。
 「諸君は若年といえどもジェントルマンである。故にわが府立五中は紳士の学園である・・・・・」”(池島信平「伊藤長七(折り折りの人<7>)」『朝日新聞』1967年10月24日付夕刊)

 中等教育レベルでは東京高師OBが就職することの多かった師範学校とパブリック・スクールと親和性があった一部エリート中学校に普及したが、実業学校(商業学校や工業学校など)にはそれほど普及しなかった。ひとつには東京高師OBが師範学校や中学校教員にはなったが、実業学校教員になる例が少なかったこともあろう。戦前の全国中等学校蹴球大会における師範学校・中学校の圧倒的優勢は、全国中等学校優勝野球大会における実業学校の優勢と好対照をなしている。第9回~第22回全国中等学校蹴球大会(1926.1~1940.8)優勝校とそれに対応する第11回~第25回全国中等学校優勝野球大会(1925.8~1939.8)優勝校の校種別分布は以下のとおりである。

サッカー 師範学校・中学校 14 実業学校 0
野球 師範学校・中学校 4 実業学校 11

6.2 大学への普及

 サッカーの大学への普及は、東京高師から早慶などの大学に直接普及したわけでなく、中学校のサッカー経験者が進学先の大学でサッカーを始めるパターンで普及した。大正期の強豪中学は関東の東京高師附中、関西の神戸一中、中国の広島一中であったが、この3校はいずれも地域を代表する進学校でもあり、そのOBが各地の大学、高校、高専にサッカーを普及させた例が多かった。例えば、1924(大正13)年創部の早稲田大学ア式蹴球部創部の中心人物、鈴木重義は東京高師附中OB(1921年卒)、1921(大正10)年の第1回全日本選手権大会に慶應義塾アッソシエーションフットボール倶楽部主将として参加、慶應で初めてサッカーを始めた範多龍平は神戸一中OB(1918年卒)である。1918(大正7)年創部の関西学院体育会サッカー部創部の中心人物、平田一三は広島一中OBである。図式化すると以下のようなる。

東京高師→東京高師附中→早大
東京高師→御影師範→御影師範附小→神戸一中→慶大
東京高師→広島一中→関学

 このように、大学へは東京高師から中学校経由で普及したので、早慶のような古豪校でもサッカーを始めたのは1920年代であり、1903(明治36)年に初めて早慶戦を行った野球よりもかなり遅い。1920年代後半には日本代表が大学生・大学OBで占められるようになり、大日本蹴球協会でも大学OBが主導権を握るようになるが、当時壮年期だった野球界のリーダー飛田穂洲(1886年生)や腰本寿(1884年生)よりサッカー界のリーダーたちはかなり若かった。早稲田大学ア式蹴球部の創設者である鈴木重義(1902年生)は、28歳で1930年の第9回極東選手権東京大会の代表監督を務め、29歳で1931年大日本蹴球協会に事務方トップである主事に就任し、34歳で1936年オリンピック・ベルリン大会の日本代表監督を務めている。1934年の第10回極東選手権マニラ大会で代表監督を務めた竹腰重丸は鈴木よりさらに4歳若い(1906年生)。戦前のサッカー界のリーダーたちは若く未経験ではあったが、うるさい先輩にわずらわされることもなく、未開拓の地を切り開いていくことができたのである。

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