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日本サッカー通史の試み(28) 第9回極東選手権対中華民国戦「引き分け」の経緯

28. 第9回極東選手権対中華民国戦「引き分け」の経緯

 この日本サッカー史上歴史的な試合が引き分けになった経緯について、山田午郎「覇権を目指して(結) 極東大会回顧」 『蹴球』第2巻第2号 1934.4には、

“真に華々しい稀有の大試合は各種目ともこれを決定する迄試合するといふ規則はあるが二十九日夜の日華蹴球委員集合の席上で中華委員は再試合を希望せず日本委員もこれに賛意を表したので試合はこれを打切って日華はともに一等覇権は次回まで預りとなり比島は三等と決定した。”(p.37)

と述べられている。従来の日本サッカー史文献では、日本側が再試合を提案したが、中華民国側が拒んだことになっていた。後藤健生氏の『日本サッカー史・代表篇 : 日本代表の85年 : 1917-2002』(双葉社 2002)によれば、中国のサッカー史文献では逆に解釈されており、日中で見解の相違があるようだ。

 実は90分で3-3ドローの後、中華民国側は延長戦を主張したが、日本側がそれを無視し、当日の夜になって再試合を提案したが、中華民国側が拒否した、というのが真相であった。この件に関して日本の当時の新聞も報じているので、紙面を紹介しよう。

『読売新聞』1930年5月30日付

“延長説と再試合説折合はず 共に第二位

 日華蹴球戦は共に同成績で廿九日の試合の結果により極東選手権が決る筈のところ、三対三で引分けとなったため、日本側は極東規則に従ひ再試合を行ふ事として試合を終了したが、中華側では延長戦に依って試合を決定せんと要求し、異常なる興奮の中に其儘各宿舎に引き揚げ、中華側応援団は蹴球は中華唯一の選手権の目標であるため極度に憤慨して「極東大会を脱会せよ」と叫び、日本青年館前を去らず紛糾して来たので、日本側役員は午後六時野津役員、馬中華監督、李コーチの会合を求め、協議の結果改めて体育協会理事の判定を受ける事となり、再び協議会が開かれたが、両国の説折合はず、遂に選手権は次回大会迄保留することとなり、共に第二位(比島第三位)となった。”

『東京日日新聞』1930年5月30日付

“日華の決勝戦結局行はず 中華側友情を提唱 大会当局の不用意が因

 なほ廿九日の日華蹴球戦が別項の如く引分けとなったので決勝戦は大いに期待されたが試合終了と同時に日本選手は再試合するものとみ(ママ)で直ちに退場したのに中華側は延長戦を主張してフヰールドに暫く留っていたが、要するにかうした引分けの場合決戦するか、しないかにつきはっきり決めてゐなかったためかかる結果となったもので中華の李監督は突如「試合が余りエキサイトし双方大分怪我人も出来てゐるからこれ以上決戦を行ふ必要はない、われわれは試合などどうでもよいのであってフレンドシップを傷つけたくないから次回の大会まで決勝戦を保留することにしたい」と極東同胞の友情発露を主唱し出したのでわが大会役員も比軍のイラナン総監督の意見を求めることになったが決勝戦は結局行はれぬ模様である。”

『読売』は“中華側では延長戦に依って試合を決定せんと要求し”たこと、『東京日日』も“中華側は延長戦を主張してフヰールドに暫く留っていた”ことを明記している。この試合は3-2でリードした日本に中華民国が3点目を取って追いついたので、延長戦では中華民国側に分があったのではないだろうか。

 『東京朝日』の記事は上記2紙と異なっている。

『東京朝日新聞』1930年5月30日付

“蹴球決勝中止し選手権保留 日華の協議で決定

 二十九日日華蹴球戦は三対三で引分になり再試合を行ふや否やについて日本側の役員野津氏、中華側から総監督馬約翰氏コーチ李瀚淦氏体協理事立会ひの上二十九日夜日本青年館において協議を行った結果、その選手権を次回の大会まで保留する事より比島側委員の諒解を求めた。

国際親善の為に 日本代表野津氏談

蹴球部日本代表総務委員野津謙氏は語る。

 試合が同点でタイム・アップとなったので日本側は再試合を行ふつもりでそのまま試合を中止し、両軍委員コーチと共に再試合について議した所、中華のコーチは最早期日も迫り両軍負傷者も多くあの大接戦の後であるから若き選手をエキサイトさせて試合をラフにさせたくない。再試合を行ひ強ひて選手権を決定するにも及ぶまい。優劣を争ふよりも極東大会にとっては国際親善の方が大切な事である。日華お互に手をとって世界の舞台へ乗り出そうではないか。この選手権は次回の大会において争ふ事にして保留しようといはれたので日本側もこれに賛成して岸会長今村氏等に報告し選手権を保留する事になった。決して両軍の意見が折合はなかったのではなく意見の一致を見たのでこれは寧ろ非常な美談だと私は思ふ。しかし両国のみで勝手に決定すべき問題でないので一応比島側の代表イラナン氏の諒解を求める事になったのである。規則についていふと唯国際規則によるとのみしか記してなく、その国際規則には同点の時は引分とするとあるだけで勝敗決定についてそれ以上明文がない。

勝敗は第二の問題 中華コーチ李氏談

中華蹴球チームコーチ李瀚淦氏は語る。

 試合はご承知の如く日華双方の規則の解釈が異なって居た為一寸議論が起りましたが、両国代表間に行はれた会見の結果、試合は中止に決定し、選手権は次回大会まで留保される事となりました。是で日本も中華も互角となり、互に恨む事なしになった訳です。もともと極東大会は相互の親善といふ事が主眼であって勝敗は第二、第三の問題です。”

朝日の記事は当事者へのインタビューをふまえて詳細だが、中華民国側が延長戦を主張したことにはまったく触れていない。

 90分で勝負がつかない場合の明文化された規定がなく、日日の見出しにあるようにそれは「大会当局の不用意」だった。この大会の蹴球委員長は大日本蹴球協会理事の野津謙であるが、朝日の記者山田午郎も同じく協会理事であり、山田は野津をかばって延長戦に触れなかったのかもしれない。

 野津は“規則についていふと唯国際規則によるとのみしか記してなく、その国際規則には同点の時は引分とするとあるだけで勝敗決定についてそれ以上明文がない”とのべているが、オリンピックの先例はどうだったのか。1928年オリンピック・アムステルダム大会のサッカー決勝ウルグアイ対アルゼンチンは1928年6月10日に行われ、90分を1-1で終り、15分ハーフの延長戦でも1-1のままで決着がつかず、6月13日に再試合が行われ、2-1でウルグアイが勝った。従って、中華民国側が延長戦を要求したのは、根拠のあることだったといえる。野津は体協役員としてこのオリンピックに参加しているので、サッカー決勝で延長戦が実施されたことを知らないはずがない。日本側は再試合を主張したが、サッカーの日本対中華民国戦は8日間の大会期間中の6日目に組まれており、そもそも再試合を行う日程的余裕はなかった。

 結局、大会の公式記録では、

“The Contest Committee of the Ninth Far Eastern Championship Games hereby announce that on account of lack of time the tie game of Football between China and Japan contested on the 29th, May shall be declared drawn and not be replayed.”

と、再試合は「時間がないため(on account of lack of time)」行われなかったことになった。


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