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日本サッカー通史の試み(29) 東西対抗戦

 1929年から関東、関西の大学リーグ優勝校が対決する、日本版チャンピオンズ・カップというべき東西大学争覇戦が始まり、日本における単独チーム戦の最高峰となった。3年後の1932年には関東、関西の大学リーグ(OBも含む)選抜チームが対戦する東西対抗戦が始まる。この試合も明治神宮外見競技場と南甲子園運動場で隔年開催された。結果は以下のとおりである。

第1回 1932年2月7日 南甲子園 全関西 6-3 全関東 第二放送
第2回 1933年2月12日 神宮 全関東 3-2 全関西 第二放送(河西)
第3回 1934年1月21日 1回戦:南甲子園 全関西 3-5 全関東 1月28日 2回戦:神宮 全関東 1-6 全関西
第4回 1935年1月20日 神宮 全関東 6-5 全関西 第二放送(和田)
第5回 1936年1月19日 南甲子園 全関西 3-2 全関東
第6回 1937年2月7日 神宮 全関東 0-4 全関西 第二放送(和田)
第7回 1938年1月23日 南甲子園 全関西 1-4 全関東 第二放送
第8回 1939年2月5日 神宮 全関東 3-2 全関西 第二放送(和田・飯田)
第9回 1940年1月28日 南甲子園 全関西 1-4 全関東 
第10回 1941年2月2日 神宮 全関東 3-2 全関西

 東西対抗戦は東西大学争覇戦と並ぶ国内サッカー最高峰に位置づけられる試合とみなされ、第1回からラジオ中継されている。11戦して全関東の7勝4敗であった。第3回1934年で2回戦があったのは、同年の第10回極東選手権マニラ大会の代表選考参考試合とされたからである。第5回1936年も同年のオリンピック・ベルリン大会の代表選考参考試合とされた。この3戦に限ると、全関西が2勝1敗で勝ち越しており、代表に選考されるため全関西の選手が発奮したことがわかる。

 戦前の日本サッカーはカレッジ・スポーツであり、東西の大学リーグ1部が日本のトップリーグだった。東西大学争覇戦と東西対抗戦の存在はいやがうえにも「東西対決」ムードをあおった。地域協会も当時は府県別ではなく、関東蹴球協会、関西蹴球協会があった。全関東と全関西はいわば地域のナショナル・チームであり、英国におけるイングランドとスコットランドの関係に似ているともいえよう。

 過剰な地域対抗意識は1934年第10回極東選手権マニラ大会の代表選考に影響を及ぼし、東西の対立は1936年オリンピック・ベルリン大会の代表選考でピークに達することになる。

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