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日本サッカー通史の試み(30) 最後の極東選手権(1) 代表チームの編成

30. 最後の極東選手権 代表チームの編成

 1933年12月12日付『東京朝日新聞』は「蹴球極東選手選抜方法決定」の見出しの下、以下の記事を掲載している。

“日本蹴球協会では十一日正午から協会事務所において第十回極東大会蹴球代表選手選抜委員会を開催、左の諸項を決定発表した。
△選抜方法 来春一月廿一日大阪甲子園及び一月廿八日東京神宮競技場において前後ニ回東西対抗選抜試合を挙行し決定する。
(以下略)”

 前回1930年第9回極東選手権東京大会は大学リーグを一シーズン通して観察し、そこから代表候補を絞り、さらに代表候補合宿を経て代表を決定するという、現在と同様の選抜法になったのであるが、東西対抗戦が1932年から始まっていたので、これを「代表選考参考試合」とする方式に「後退」してしまった。

 2試合の結果は、

1934年1月21日 1回戦:南甲子園 全関西 3-5 全関東
     1月28日 2回戦:神宮 全関東 1-6 全関西

と東西ともアウェー戦で勝利して1勝1敗だった。代表17名は全員大学生、大学OBで、早大7名、関学6名、慶大2名、神戸商大1名、京大1名となり、関東9名、関西8名で東西ほぼ同数ということになった。ところが、これを関西側の陰謀ととらえた人がいたようだ。田辺五兵衛「神戸一中のサッカー」『ボールを蹴って50年』(神中サッカークラブ,1966)では以下のように述べられている。

 “昭和9年(1934年)5月、マニラの極東大会には一中OBとして大谷一二、右近徳太郎の両君が参加した。選抜委員会は選抜の利便のため、東西対抗をこの時に限り二回行なうことにした。その結果は奇しくも東西同数の選手の選抜となった。これに対して関東側、とくに早大側に、これを最初から関西がしくんだ陰謀だとする説が生まれた。これはその委員会の経緯をみてもわかるように偶然の結果にすぎなかったが、早大OBである当時の日本協会理事長鈴木重義氏が説明を怠ったことによって火がつきかけたのだった。しかし一応説明してことなきをことなきを得たかにみえたものの、チームの練習実施に当たるべき竹腰君は満州国参加問題で体協代表として、陸上の渋谷寿光氏とともに満州国に飛び、東伏見グラウンドに残されたチームはいわゆる自習する生徒のようになってしまった。これは第二期の碑文谷合宿練習においても、五十歩百歩の域を出なかったのである。”

当時、関東と関西ではサッカー・スタイルが全く異なっていた。2回戦の観戦記「第二次戦の印象」 『蹴球』第2巻第2号 1934年4月 p.25-27 を書いた松丸貞一(慶大OB)は東西のサッカー・スタイルの相違を以下のように記述している。

“関東は複雑なやや緻密なパスワークに依って自軍のわくの中に球を持ち続け乍ら理詰に敵をゴール前迄しめつける。
 関西は之と対照的だ。
 長蹴に相俟つ単独の強い動きに依って敵の一ヶ所を突き破り強引にゴールを陥し入れるのが特徴である。”

 急拵えのピックアップ・チーム同士の対戦は単純なロングキック戦術の関西に有利で、緻密なパスワークを身上とする関東に不利に作用した。東西それぞれにピックアップ・チームを作り、その対戦の結果から代表を選ぶという選考法自体が関東(特に早大)に不利で、関西に有利な結果となった。おそらく、それが「陰謀」ととられたのであろう。

 本大会は総監督鈴木重義(早大OB)、監督竹腰重丸(東大OB)、マネジャー工藤孝一(早大OB)が予定されていたが、鈴木、工藤が辞退したので、マネジャー(兼コーチ)は田辺五兵衛(大阪高商OB)となった。監督、マネジャーの後輩が選手に1人もいないというチーム構成になった。 

 ピックアップ・チームはチームワークに問題がありがちだが、代表合宿の段階からチームワークは乱れていたようである。松丸とともに代表に選ばれた川本泰三は「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」『イレブン』v.6 no.1 1976.1 p.168-169 で以下のように述べている。

“関東は早大が主力、関西は学校にこだわらずOBもだいぶいたかナ。なかなかいいメンバーだった。1勝1敗だから、関西、関東同数で代表をつくろう、ということになって、マニラ行きのチームができた。関西はOBが多いし、関東は学生だし、年齢も違ってなんらつながりのないチームだった。国内の合宿でもキャプテンのゴットン(後藤靱雄)ら関西の連中は、門限に帰ってこず、竹腰監督が選手を集めて一説ぶち、泣き出すなどといった一幕もあった。おまけにこの大会には満州国の参加問題がからんで、右翼が日本選手団の参加を妨害したりした。”

 満州国参加問題というのは、1931年の満州事変により誕生した満州国を、日本は極東選手権に参加させようとし、当然中華民国が反対した。結局満州国は参加しなかったことで、右翼は満州国参加を認めない極東選手権をボイコットせよと主張したが、体協はフィリピン体協の面子を立てて参加した。詳細については、高嶋航 「「満州国」の誕生と極東スポーツ界の再編」 『京都大学文学部研究紀要』 (47) 2008 p.131-181 を参照されたい。監督の竹腰は体協役員として満州体協と折衝のため渡満するなどこの問題に奔走し、十分な準備ができなかった。極東選手権は満州国問題のため1934年第10回マニラ大会が最終回となる。

 松丸貞一も「成城の人たち」『成城蹴球・サッカー60年史』(成城蹴球・サッカー60年史編集委員会,1988) でこの代表合宿を以下のように回想している。

“キャプテンは関学のゴットンである。彼だけが前回の極東大会(東京)生き残りのベテランである。合宿は学芸大学に近い勧銀のグラウンド、宿舎は「大国」という旅館?である。
 芝生の国立競技場よりなめらかなグラウンドであった。監督は不在だし、いいかげんなキャプテンなので生活も練習もまことにダラシない。だれも見てくれないし、自分から立ち直る自覚も乏しく、僕の相談ができるのは早稲田の選手諸君(立原、堀江、高島、名取)位のものであった。これが関東、関西の対立と見られて、田辺の治太さん(助監督)から注意されたが、それは的はずれで、もっと本質をつかんでくれるべきであった(しかし生活をともにしない役員に当時のムードをつかめというのは無理かもしれない)。”

 監督が不在がちなので、チームを締めるべきは主将の後藤靱雄(関学OB)だったが、主将自ら門限破りしている始末だった。田辺によれば、チーム内の不和はマニラ行きの船中にまで持ち越された。

“こうしてキズを残したままチームは船出したのである。不幸はこの時にはじまる。船中での日課の研究会はやがて話題を尽し、毎日同じことのくり返しで、これに対する反発と、その反発に対する反発が乱れ飛んだ。船出した以上このチームで最高の成績を残すよりほかに方法はないのではないかと、一人一人をなだめた。このあつれきはマニラの宿舎に入っても残った。このチームのもう一つの弱点は昭和5年のときと違い、選手の年齢にやや開きがあるため、統制上簡単にゆかない点もあった。それを一途に押していったのが無理だったのだ。その余燼がベルリン大会選手選抜委員会の成り行きまで飛び火しようとは思いもかけなかった。”

 田辺も述べているように、本大会代表チーム編成の問題は2年後のオリンピック・ベルリン大会代表選考に「飛び火」することになる。

 

 

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