日本サッカー通史の試み(31) 最後の極東選手権(2) 本大会の結果
31. 最後の極東選手権(2) 本大会の結果
1934年第10回極東選手権マニラ大会のサッカー競技には従来の3国・地域にオランダ領東インド(インドネシア)が加わった。対オランダ領東インド1-7、対フィリピン4-3、対中華民国3-4と1勝2敗であった。本大会の記録については、 『蹴球』第2巻3・4号 1934.8が「第十回極東選手権大会オフィシャルリポート」特別号として刊行されており、準備段階(合宿)から帰国まで詳細に報告されている。
1-7で大敗した対オランダ領東インド(現インドネシア)戦について、竹腰は自著『サッカー』(旺文社 1956)で以下のように述べている。
“昭和九年(一九三四年)五月、マニラでの第十回極東選手権競技大会における蘭領インド(現在は地域としてはインドネシア)との試合で大量七点を失ったが、これらの失点は蘭印がその長身のセンター・フォワードに後方から長蹴を送り、ボールの飛ぶ間に後方から鋭くダッシュしてくるレフト・インナーにヘッディングで軽く落し、そのレフト・インナーの強蹴で得点という簡単な経過をたどったのが過半であったが、これはそのセンター・フォワードを緊密にマークしない体制がそのようにさせたのであった。”
現在ならCFのポスト・プレーというところだが、やはり完敗したベルリン・オリンピックの対イタリア戦(0-8)もまったく同じ戦法にやられたようだ。極東大会当時は2FB・3HB・5FWのいわゆるピラミッド・システムで、CFのマークが甘かった。そのうえ、相手にリードを許すと、主将で左FBの後藤靱雄が上がってしまい、ディフェンス・ラインが乱れ、ますます敵CFのマークが緩くなってしまった。竹腰は『蹴球』第2巻3・4号の「戦績報告」で次のように述べている。
“加之、第四点を失ふに至る頃から、LB後藤は積極的に攻撃する希望の下に殆んどHBライン中に加はる程進出し、RB堀江は相手左WFを警戒する位置に開いて居たので相手はそのHBから我がCHとLB及LHを結ぶ線の後方に長蹴してFWの走力と体躯を利用して強引に突破する戦法を採って来たのであったが、我が守備陣がそれに対する配置に変る隙もなく続け様に第五点、第六点を奪はれて了った。”(p.47)
左FBの後藤がハーフの位置まで上がったうえ、右FBの堀江忠男は相手ウイングを警戒してサイドに引きつけられ、ポッカリあいたスペースにロングボールを放り込まれたようだ。後藤は185cm近い巨漢FBで、関学および全関西では、ロング・キックを前線に送り、彼自身もどんどん押し上げて、ハーフ・ライン近くから豪快なロング・シュートを放つのが持ち味の選手だった。関東側はビルマ人留学生チョー・ディンが伝えたショート・パス戦法を、彼の「直伝」を受けた早稲田の鈴木重義、東大の竹腰重丸が独自に発展させてそれぞれのチーム戦術としていた。極東選手権対オランダ領東インド戦は、木に竹を接いだような関東・関西混成チームの戦術的欠陥が露呈した試合だったようだ。
中華民国とは激戦のうえ引き分けながらも「優勝」した1930年第9回極東選手権が「成功」だったのに対し、本大会は「失敗」と位置づけられた。協会機関誌 『蹴球』第3巻2号 1935.4の「巻頭言」は、翌年のオリンピック・ベルリン大会への参加について言及した後、
“我々は昨年の極東大会に失敗してゐる。古来戦勝の要訣として、「天の時、地の利、人の和」と云ふ事が云はれてゐる。昨年の失敗は正しくこれらの要訣のいづれをも欠いてゐたからに外ならぬ。
来年こそは、主観的にも客観的にも昨年の如き愚を繰り返へしはしないし又繰り返へされることもないだらう。”
と述べている。本大会は「失敗」であり、オリンピックではその「愚」を繰り返さないという決意が協会内に満ちていたことが推察される。
全体の結果は以下の通りである(左から1、2、3位)。
陸上:日 比 中 蘭印
水上:日 比 中 蘭印
野球:比 日 中
テニス:日・比 中・蘭印
サッカー:中 日・比・蘭印
バスケットボール:比 中 日
バレーボール:比 中 日
2年前のオリンピック・ロサンゼルス大会で金メダル7、銀メダル7、銅メダル5を獲得した日本は陸上と競泳で圧勝した。これらの種目では極東選手権は「勝って当たり前の大会」化しており、その意味でも極東選手権は役割を終えていた。バスケットボールとバレーボールは最下位だった。バレーボールは初参加以来全大会を最下位で終えた。
Comments