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日本サッカー通史の試み(33) ベルリンへ

33. ベルリンへ

 1935年5月26日大日本蹴球協会は全国代議員会を開催し、

“(一)第拾一回万国オリムピツク大会絶対参加
(二)派遣選手ノ決定ハ「オリンピツク派遣選手銓衡委員会」ヲ設置シ、同委員会ニ依ツテ決定ス
(三)同委員会委員ハ各地方協会ニ於テ其候補者ヲ推薦シ最後的ノ決定ヲ大日本蹴球協会理事会ニ一任ス”

と、オリンピック参加と選手銓衡委員会の設置を決定した。同時に空席だった会長に深尾隆太郎がつき、オリンピックに備えて従来4名だった理事を11名に増員した。

 この全国代議員大会の1カ月前、協会機関誌 『蹴球』3巻2号 1935.4 の「巻頭言」は以下を記している。

“大日本蹴球協会は四月中旬から六月初旬にかけて、第一回全日本綜合選手権大会を開催する。各ティームは夫々に加盟地方協会の管轄内に於て予選を行ひ、その予選に優勝したティームが、五月三十一日から六月二日迄の三日間(予定)明治神宮競技場に於て全日本の選手権を争奪することになる。従来全日本的な大会は勿論あったが、ティームの参加資格に夫々何等かの拘束があった。が今度の大会には全然それがない。我々はこれによって全日本蹴球の「一般的な」昂揚を企画してゐるのである。そして又我々はこれによって「野心ある」ティームの出現を望んでゐるのである。
 この大会に優勝したティームは今年七八月に行はれる対満州国々際定期戦に日本代表軍として派遣され、又明年の伯林大会への派遣ティームとしての最も有力な候補者となる。”

1920年代の代表選考予選会の亡霊が復活したかのようだが、この段階では協会は未だオリンピック参加を正式決定していなかったのである。“明年の伯林大会への派遣ティームとしての最も有力な候補者となる”は「余計」というものであろう。

 第一回全日本綜合選手権大会は1935年6月1日~2日に明治神宮外苑競技場で開催され、以下の結果となった。

1回戦 東京文理大(関東代表) 4-2 北大(北海道代表) 関西大(関西代表) 4-2 仙台サッカー(東北代表)
準決勝 東京文理大 3-0 関西大 京城蹴球団(朝鮮代表) 6-0 名古屋高商(東海代表)
決勝 京城蹴球団 6-1 東京文理大

遠来の京城蹴球団が1日2試合のハードスケジュールをものともせず、圧勝した。「対満州国々際定期戦」の日本代表には京城は選ばれず、早大が満州に遠征した。

 1935年7月8日大日本蹴球協会は理事会でオリンピック選手銓衡委員を以下の5名に決定した。

竹腰重丸(東大OB) 濱田諭吉(慶大OB) 工藤孝一(早大OB) 斎藤才三(関学OB) 永野武(京大OB)

5名の出身校関東3大学と関西2大学は、1935年時点で関東・関西の大学リーグで優勝実績のある大学だった。サッカー・シーズンが始まる直前の1935年9月15日に第1回のオリンピック選手銓衡委員会を開催(出席:濱田、工藤、永野)し、以下の「銓衡綱要」を決定した。

“(一)従来ノ経験、現時ノ蹴球界ノ状態ニ鑑ミ全国的ピツクアツプテイームハ不適当ト認メラルルニ依リ
  (イ)今シーズン断然タル強味ヲ有スルテイームノ出現シタル場合ニハ該テイームヲ主体トシテ銓衡ス
  (ロ)右ノテイーム無キ場合ニハ 一地方協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡シ他地域ヨリモ補充スルコトヲ得
 (二)銓衡ニハ全日本選手権大会、神宮大会(全国地方対抗選手権大会)、東京学生リーグ戦、東西学生リーグ代表対抗試合其他ヲ参考トシ、猶必要ト認メラルル場合ニハ更に銓衡試合ヲ行フコトモアルベシ”

 「全国的ピツクアツプテイームハ不適当」は、1934年第10回極東選手権マニラ大会の代表が関東・関西ほぼ同数の「全国的ピックアップチーム」であり、1勝2敗と不満足な成績だったことを反映したものであろう。

 「今シーズン断然タル強味ヲ有スルテイームノ出現シタル場合ニハ該テイームヲ主体トシテ銓衡ス」は単独チーム主体の代表選考を行うということである。極東選手権で初勝利した1927年第9回上海大会は早大主体、優勝した1930年第10回東京大会は東大主体の構成だったことを反映したものであろう。1933年、1934年の東京学生リーグを連覇し、東西大学戦も連覇していたのは早大だったので、「断然タル強味ヲ有スルテイーム」は早大を意識していたはずである。

 「右ノテイーム無キ場合ニハ 一地方協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡シ」の「一地方協会」とは関東蹴球協会であり、関東中心の選考をこの時点で決定していた。参考試合に東京学生リーグ戦はあるが、関西学生リーグはなく「其他」扱いされている。

 上記のように、この「銓衡綱要」は過去の極東選手権の経験を反映し、「関東主導」をにじませたものであった。

 なお、上記に引用した代表の選考経過は 『蹴球』4巻2号昭1936.4 p.2-3 に掲載されている。

 

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