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日本サッカー通史の試み(34) オリンピック選手銓衡委員会

34. オリンピック選手銓衡委員会

 翌年のオリンピック代表を目指す1935年秋のサッカー・シーズンが始まった。関東で2連覇中の早大はリーグ戦5戦を、対東京商大7-1、対立大13-1、対東大4-2、対東京文理大5-3、対慶大8-2、と全試合2点差以上の差をつけて全勝し、3連覇した(総得点37 総失点9)。

 銓衡綱要で代表選考参考試合とされた明治神宮体育大会兼全国地方対抗選手権大会は、1935年10月30日~11月3日に開催された。結果は以下のとおり。

1回戦 京城蹴球団(朝鮮代表) 6-2 臥虎蹴球団(中国代表) 函館蹴球団(北海道代表) 7-1 鉄蹴球団(台湾代表)
2回戦 慶大BRB(関東代表) 9-0 熊本倶楽部(九州代表) 峰章クラブ(東北代表) 3-2 名古屋高商(東海代表) 関学大(関西代表) 4-1 四高(北陸代表) 京城蹴球団 2-1 函館蹴球団  
準決勝 慶大BRB 6-0 峰章クラブ 京城蹴球団 2-0 関学大
決勝 京城蹴球団 2-0 慶大BRB

 6月の全日本綜合選手権に続いてこの大会も初参加の京城蹴球団が優勝した。優勝チーム名とメンバーを記した額が明治神宮に奉納される慣例になっており、現在でも秩父宮記念スポーツ博物館で京城蹴球団を刻した奉納額を見ることができる。オリンピック代表選手銓衡委員会が決勝の当日11月3日に開催(出席:竹腰、濱田、工藤、斎藤)され、以下の結論となった。

“参考資料トセルコレマデノ試合ニ現レタル限リニ於テ著シク優秀ナルテイーム無ク銓衡綱要第一項(イ)(ロ)ニ該当スルテイーム無シ、優勝セル朝鮮テイームニ於テモ個人的ニ優秀ナルプレーヤーハ僅ニ金永根、金容植等二三ノ者ヲ挙ゲルノミ”

名前の挙がった金永根、金容植はこの時点で代表候補となったようである。

 関西学生リーグでは関学大が優勝した。国内単独チームの最高峰を決する東西大学争覇戦は1935年12月15日明治神宮外苑競技場で開催され、早大が関学大を12-2で粉砕した。オリンピック代表選手銓衡委員会が当日12月15日に開催(出席:竹腰、濱田、工藤、斎藤)され、以下の結論となった。

“(一)早大ハ選手銓衡綱要第二項ニ係ル諸試合ニ出場シタルテイーム中最モ優秀ナリト認メラルルモ尚同綱要第一項(イ)ニ該当スルモノトハ認メ難キニ依リ、委員合議ノ上同綱要第一項(ロ)ノ場合ニ拠り関東協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡スルコト
(二)斎藤委員ヨリ関西協会所属テイーム中ニハ優秀ナル選手アルニ依リ昭和拾一年一月十九日ニ行ナハル可キ関東関西対抗選抜試合ニ於ケル関西側選手ヲ観察セラルベキ旨提案アリ一同之ヲ承認シタリ”

 リーグ戦を全勝で3連覇し、東西大学争覇戦でも関学大に完勝して3連覇した早大が「今シーズン断然タル強味ヲ有スルテイーム」に認定されなかったのは不可解だが、関西側委員が反対したのかもしれない。1930年第9回極東選手権東京大会優勝時のチームの中核だった東大は前年1929年度のリーグ戦でやはり5戦全勝(総得点30 総失点6)だった。この時点で「関東協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡スルコト」となったが、関西からただ一人出席した関学OBの斎藤が、翌年1月19日の東西対抗戦で関学現役以外の関西在住選手も観察すべきことを主張している。この日の銓衡委員会は大紛糾したに違いない。

 1936年1月19日全関西対全関東の東西対抗戦は南甲子園運動場で開催された。全関西は関学、神戸高商、関大、京大、慶應(OBの市橋は当時関西在住)のピック・アップ・チームで、2年前の極東選手権マニラ大会代表、後藤靱雄(関学OB)や大谷一二(神戸高商OB)も入っていた。対照的に、全関東はイレブンのうち左FBの竹内悌三(東大OB)を除いて全員早稲田の現役選手だった。強風下の試合で、前半風上を利してロングキック戦法で2得点した全関西が、後半全関東の猛攻を凌いで3-2で逃げ切った。

 「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」『イレブン』v.6 no.1 1976.1 p.168-169 によれば、試合後全関東FW川本泰三(早大)のところに後藤靱雄から電話があった。

“うん、こんなことがあった。試合に負けた東軍は解散し、ボクは大阪の家に帰っていた。夜中にゴットンから電話がかかってきた。“関西が勝ったから、オリンピックも関西が代表でいくんや。ただ、お前(川本)は関西にいれたる。いま、どこやらで飲んでいる。右近(徳太郎)も来ているから、お前も出てこい”というんだ。行きはしなかったがネ。”

後藤は東西対抗に勝ったことで関西中心のオリンピック代表になるものと思いこみ、関東在籍でも関西出身の川本泰三(市岡中→早大)や右近徳太郎(神戸一中→慶大)は関西中心の代表チームに入れてやってもよい、という気分だったようだ。過剰な「東西対決ムード」により、最強の代表チームを作ることよりも、代表チームに1人でも多くの関西関係者を送り込むことを優先していた、当時の雰囲気が伝わるエピソードである。

 当日1月19日、最後の銓衡委員会が開催(出席:竹腰、濱田、工藤、斎藤、永野)されたが、関東の3人と関西の2人の意見はまとまらず、大紛糾の末銓衡委員会はこの時点で解散してしまう。  

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