« 日本サッカー通史の試み(34) オリンピック選手銓衡委員会 | Main | JFA選出体協役員 »

日本サッカー通史の試み(35) 代表候補選考に関西側不満爆発

35. 代表候補選考に関西側不満爆発

 1935年度のサッカー・シーズンは1936年1月19日の東西対抗戦をもって終了したが、同日オリンピック代表選手銓衡委員会は関東側と関西側に分裂して空中分解してしまう。その後代表候補選考は関東側委員により一方的に行われ、3月9日大日本蹴球協会理事会で承認された。代表候補25名は以下のとおり。

FW 市橋時蔵(慶大OB) 右近徳太郎(慶大) 加茂正五(早大) 川本泰三(早大) 加茂健(早大) 金永根(崇実) 高橋豊二(東大) 西邑昌一(早大) 播磨幸太郎(慶大) 松永行(東京文理大)
HB 石川洋平(慶大) 種田孝一(東大) 金容植(普成) 小橋信吉(神戸高商) 笹野積次(早大) 関野正隆(早大) 立原元夫(早大) 高山英華(東大OB) 吉田義臣(早大)
F・B 鈴木保夫(早大) 竹内悌三(東大OB) 堀江忠男(早大)
G・K 上吉川梁(関大) 佐野理平(早大) 不破整(早大)

大学別では早大12名、慶大4名、東大4名、東京文理大1名、神戸高商1名、関大1名、残り2名は京城蹴球団の朝鮮人だった。早大の12名は全員現役選手で、GKの補欠まで代表候補になった。慶大OBの市橋時蔵は関西在住で関西蹴球協会所属であり、それを含めても関西協会所属選手は3名のみだった。

 関西側から選ばれた人数が少なかっただけでなく、戦前最高のウイングといわれた大谷一ニが漏れたことに関西協会関係者は激怒した。「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」『イレブン』v.6 no.1 1976.1 p.168-169 によれば、

“――関西から何人か代表に入ったが、大谷(一二)さんが入らなかったので、関西側が怒ったという話でした。

川本 関大の上吉川(かみよしかわ、上吉川梁)、神戸高商の小橋(信吉)……といったメンバーも入っていたのだが、大谷が行かないというので辞退した。竹腰、工藤(孝一)、浜田諭吉さんたちが選考委員だったと憶えている。大谷がいかん、という理由は昭和9年のマニラで、中国との試合で、みんなの前で、相手が足を蹴りに来たとき逃げた、というんだ。

――大谷一二さんは、そのころ関西を代表する名選手でしたから……。古いスポーツファンは、今でも東の川本、西の大谷の名を覚えていますョ。釜本君が有名になってきたときにうちの新聞社の古手に、まず尋ねられたのは“川本や大谷と比べて釜本はどうだ”ということでした。その大谷さんが外れたから関西側は怒ったんですネ。

川本 選考委員会では、Mさんが浜田さんに主張させたんだとか聞いたがネ。ボクは選手でそういう協会側のことは直接知らなかったが、チームという点から見てもおかしいんだ。選考されたメンバーはCFがボクと松永(文理大)、高橋(豊二=東大)と3人もいてウイングがいない。これでは試合に困る。大谷を連れて行ってほしいとノコさんにも、言ったんだが……。
 スウェーデン戦は、その松永が右ウイングをやって1点を入れたがネ。大谷がおればまた違ったゲームができただろう。

――このとき関西協会は、日本協会から脱退しよう、という意見も出たようですネ。それを田辺さんがなんとか、まとめた……この話は田辺さんが亡くなる前にもよく話しておられたし、戦後の東西対抗などで西軍が集まると、後藤さんはじめ、大先輩たちから、その都度、聞かされたものですが……。

川本 ボクも早稲田だが、一選手の立ち場で、やはりああいう選考はおかしいと思った。だから結局、オリンピックでは、実際にゲームに全然出ないプレーヤーも連れて行ったんだ。ゴールキーパーも早稲田から2人も連れて行ったしネ”

川本のいう「Mさん」とは慶大OBの松丸貞一、「ノコさん」とは竹腰重丸。大谷一ニが選抜されなかったことに抗議して、関西3選手は代表候補合宿をボイコットした。3月27日関西蹴球協会は大日本蹴球協会を非難する声明を発表した。『東京日日新聞』1936年3月29日付は以下の記事を掲載している。

蹴球代表詮衡に
   関西側爆弾声明
     協会理事会の独断を指摘して
        改造の火の手を揚ぐ

【大阪発】過日発表されたベルリン・オリムピック大会蹴球競技に出場する日本代表選手候補につき関西蹴球協会では全日本蹴球界を真に代表すべき人材を網羅せずなほ万人の首是し難きチームでありこれは大日本蹴球協会理事会の独断の結果であるとし再三理事会を開き協議の結果代議員の承認を経ててこのほど関西蹴球協会加盟機関に対し第十一回国際オリムピック大会出場選手詮衡経過報告書なる左の主旨の声明書を発表してして大日本蹴球協会の根本的改造に邁進せんとする運動を起してゐる。即ち声明書の要旨は
一、大日本蹴球協会理事会は何等の手続を踏まず、また詮衡の機関をも定めず昨年度の全日本綜合選手権、全国地方対抗選手権、東西学生対抗の全然性質を異にする三大会の優勝ティームをもって派遣ティームに撰せんとするごとき不合理なる発表をしたこと
二、全国代議員会の痛烈なる反対を受けて派遣選手の詮衡委員は詮衡委員会を組織して候補を選出することとしたのであるがその詮衡人選を独断的に関東を有利にせんとするが如き不当を敢えてしたこと
三、派遣ティームのコーチング・スタッフに関東側の詮衡委員竹腰、濱田、工藤の三氏のみを任命し関東側の意見を全国的に押しつけんとしたこと
以上の如く全日本的に考慮されるべき代表チームを選出するに当って関東に比して何等遜色なき関西の蹴球勢力を無視して大日本蹴球協会理事会が独断専横をなしつつあるのははこの理事会が関東協会加盟チーム関係者のみをもって組織されてゐるためであり、これを全日本的事項に関して公正無私の大日本蹴球協会理事会に改造せんとするにある。なほ選抜された関西側代表候補市橋時[蔵?](慶應OB)小橋信吉(神戸高商)上吉川梁(関大)の諸氏は一身上の都合と称して合宿練習に参加してゐないがこの三候補の不参もこの関西蹴球協会の運動に重大な関係を有するものと見られてゐる。

関東蹴球協会理事松丸貞一氏談
代表選手候補はすでに決定後大日本蹴球協会から全国の加盟協会に対して通告諒解済みで今更とやかくいひ出すことはオリムピック参加前、各方面に及ぼす影響も重大で関西側の声明が事実ならば実に遺憾至極です。関西側の代表選手候補の市橋、小橋、上吉川三君の合宿練習不参は就職問題や勤務先の都合等いづれもやむを得ない事情で関西蹴球協会の反対運動とは無関係なことと思ひます。”

Cimg0456

同日の『大阪毎日新聞』も以下の記事を掲載している。

オリンピック候補詮衡に発端
   蹴球協会改造運動
      理事会の専横を非難
         関西協会から火の手

ベルリンオリンピック大会初参加のサッカー代表候補選手は過日発表されたが、関西蹴球協会ではその詮衡方法を不満とし、大日本蹴球協会理事会の問[題?]を指摘して再三理事会を開き協議するところ(ママ)あったが、代議会の承認を得てこのほど関西蹴球協会加盟機関に「第十一回国際オリンピック大会出場選手詮衡経過報告書」なる左の主旨の声明書を発表して大日本蹴球協会の根本的改造に邁進せんとする運動が起ってゐる。即ち声明書は
一、大日本蹴球協会理事会は何等の手続を踏まず、また詮衡の機関をも定めず昨年度の全日本綜合選手権、全国地方対抗選手権、東西学生対抗の全然性質を異にする三大会の優勝ティームをもって派遣ティームに撰せんとするごとき不合理なる発表をしたこと
二、全国代議員会の痛烈なる反対を受けて組織した派遣選手詮衡委員の人選を独断的に関東を有利にせんとするごとき人をあげたこと
三、派遣ティームのコーチング・スタッフに関東側の詮衡委員竹腰、濱田、工藤の三氏のみを任命し関東側の意見を全国的に押しつけんとしたこと
以上の如く代表ティームを選出するのに当って関東に比して何等遜色なき関西の蹴球勢力を無視して大日本蹴球協会理事会が独断専横をなしつつあるのはこの理事会が関東協会加盟ティーム関係者のみをもって組織されてゐるためで、これを公正無私の理事会に改造せんとするにあり実行委員を挙げて目的の貫徹を期してゐる。
 なほ選抜された関西側代表候補市橋時[蔵?](慶應OB)小橋信吉(神戸高商)上吉川梁(関大)の諸氏は一身上の都合と称して合宿練習に参加してゐないがこの三候補の不参もこの関西蹴球協会の運動に重大な関係を有するものと見られてゐる。”

Cimg0455

 オリンピック代表選考をめぐる東西間のトラブルは新聞種にまでなってしまった。当時関西蹴球協会会長だった田辺五兵衛は「神戸一中のサッカー」『ボールを蹴って50年』(神中サッカークラブ,1966)でこのいきさつを以下のように回想している。

“昭和11年8月、ベルリンでのオリンピック大会に関西からも数名の選手が選ばれたが大谷一二君が入っていないことでもめ出した。当時肝心の竹腰君は満州遠征で疫病に臥し、わたしは兵役にあり、斎藤才三君の孤軍奮闘空しく選考委員会を終ったのである。
 果然憤激した関西協会の役員会はついに日本協会分裂論にまで発展した。役員会は不当な選抜の改正と、協会運営組織の改革に火の手をあげた。決をとったらわたしの一票を除いて全部打倒日本協会論になってしまった。わたしは過去の極東大会において、マニラ行きの船中あわやチーム分裂になりかねなかったことを思い、たとえ協会機構運営上の問題はあるにせよ、代表チームだけは傷つけづに送り出してやれと力説した。
 決議を留保してまた会合、また決議、また留保と、役員会をくり返すこと五度、ついにわたしの説を認めてくれた。そして最初の代表選手選抜やり直せの案が、協会運営改革というスローガンにすりかえられ、わかったようなわからないような関西協会決議文の発表となった。そこでわたしは電報を打ち電話をかけ再三上京し、野津謙氏(現日本協会会長)とともに、最終発表を留保したまま調整に当たった。
 病気で倒れ、満州から帰ってきた竹腰委員長も調整に参加してくれたが、結局押し切れず大谷一二君の件は今回保留ということになってしまった。したがって大谷一二君に歩調をあわせ関西から誰も参加しないという問題も解決しないままに、小橋信吉君(神高商、一中OB)上吉川君(関大)らの関西勢はついに参加しなかった。
 このときの声明書について、東京では「君がついていてこのわけのわからん声明書はなんたることか、なにをいうているのかわからん」と叱る人がいる。あたりまえのことで、最初の筋のとおった声明書を、ただやる方ない憤りのはけ口を残してすりかえた“迷文”だからである。苦心の文章であることにご存知ないだけの話である。
 東西両協会の調整握手はその後わたしの父が故深尾隆太郎会長と話をして、円満にゆくようにし、協会の団結を固めることになった。(しかしいまにして思えば、わたしの仲裁がよかったのか、東西争ってしまってその結果を待った方がよかったのか疑問である)”

関西蹴球協会所属選手は代表候補合宿の段階でボイコットしたので、オリンピック代表には1名も含まれないことになった。1936年2月26日にニ・ニ六事件が勃発しているが、同じころ大日本蹴球協会も「内乱」寸前だったのである。

 大島裕史著『日韓キックオフ伝説 : 宿命の対決に秘められた「恨」と「情」』(実業之日本社 1996)、康奉雄著『知られざる日韓サッカー激闘史 : 韓国と日本をつなぐショートパス : Long and winding road to 2002 』(廣済堂出版 1998)によれば、この代表候補選考は朝鮮でも不評で、朝鮮蹴球協会内には代表候補を辞退せよとの声もあったそうだ。

 かくして代表候補は決定したものの、大日本蹴球協会(関東)と関西蹴球協会、朝鮮蹴球協会との間にしこりの残る結果となった。


|

« 日本サッカー通史の試み(34) オリンピック選手銓衡委員会 | Main | JFA選出体協役員 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 日本サッカー通史の試み(35) 代表候補選考に関西側不満爆発:

« 日本サッカー通史の試み(34) オリンピック選手銓衡委員会 | Main | JFA選出体協役員 »