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戦前の関東実業蹴球大会(関東蹴球協会主催)

戦前の社会人サッカーの記録が『蹴球』誌の以下の記事にある。日立製作所や日本鋼管のように、後に日本サッカーリーグに参加するチームもあるが、日立は大学出の選手はいないとのことなので、JSLの日立「本社」とは異なる系譜なのかもしれない。逆に、JSLの日本鋼管は川崎の工場チームだったので、これも系譜が異なっているようである。

第1回 『蹴球』4号 1933.6 p.18-19

1回戦 1933.2.26 LGクラブ 9-0 共同火災 千代田生命 棄権 三五クラブ 川村電気 2-0 航空技術
2回戦 1933.3.5 油面小学校 5-0 日立鉱山 川村電気 4-0 三共 千代田生命 4-0 LGクラブ 航空研究所 7-2 東京火災 
準決勝 1933.3.12 油面小学校 9-0 航空研究所 川村電気 3-2 千代田生命
決勝 1933.3.19 油面小学校 2-0 川村電気

第2回 優勝:日立製作所

第3回 優勝:慶応病院

第4回 『蹴球』3巻3号 1935.9 p.22

1回戦 1935.3.17 航空技術本部 3-1 興業銀行 帝大小児科 2-1 航空研究所 日立製作所 7-0 記者団 日本鋼管 5-0 本郷倶楽部 
1回戦 1935.3.24 千代田生命 7-3 慶応病院 浅野セメント 6-0 三共 東京火災 8-6 共同火災 第一生命 棄権 油面小学校
2回戦 1935.3.31 千代田生命 6-0 航空技術本部 東京火災 2-0 浅野セメント 日本鋼管 棄権 帝大小児科 日立製作所 4-1 第一生命
準決勝 1935.4.14 千代田生命 4-0 日本鋼管 日立製作所 6-0 東京火災
決勝 1935.4.14 千代田生命 1-0 日立製作所 

松丸貞一「関東実業団大会に優勝して 出場ティーム総まくり」 『蹴球』3巻3号 1935.9 p.30-32 によるチームのプロフィールは以下のとおり。

本郷クラブ:東大ア式蹴球部のファンが結成。すし金の大将、ミクニ、八百屋父子など
記者クラブ:山田午郎(朝日)、工藤孝一(聯合)など
共同火災:早大OB鈴木重義
興業銀行:東大OB山田
三共製薬:
慶應病院:慶應OB長阪、日歯OB福島
帝大小児科:
油面小学校:
第一生命:名高OB大森、慶應OB塚部、溝口など全員高商、高校OB
浅野セメント:工場長が監督。工場のチームか
航空研究所:早大OB野村正二郎
航空技術本部:全員陸軍軍人
東京火災:東大OB竹内悌三、早大OB井出多米夫
日本鋼管:慶應OB津村
日立製作所:大学・専門学校出身の選手なし
千代田生命:慶應OB濱田諭吉、松丸貞一

トーナメント大会だけでなく、リーグ化を求める声もあった。

栗田茂(千代田生命蹴球部)「実業団にリーグ制度を!(投書)」 『蹴球』4巻4号 1936.9 p.38


 
 

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『蹴球』誌の広告 料亭「幸楽」

大日本蹴球協会機関誌 『蹴球』6巻1号 1938.6 p.42に「スポーツマンの御会合は 赤坂山王下 幸楽 電話銀座(57)一八〇〇番」という広告が掲載されています。

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1936年10月4日付『東京朝日新聞』の「オリムピック選手各チームの歓迎会」という記事には、

“◇蹴球・・・オリムピック蹴球チーム歓迎会は三日午後六時から幸楽で大日本蹴球協会主催の下に行はれた。鈴木監督ほか役員選手一同は初舞台の土産話を披露し歓を盛して午後九時散会した。”

とあり、ベルリン・オリンピック代表チームの歓迎会が1936年10月3日幸楽で行われています。幸楽の廃業を報じた1943年9月16日付『東京朝日新聞』では、

「幸楽」けふ限り廃業
赤坂山王下の「幸楽」が十五日限り暖簾を外す。明治四十四年日比谷の四つ角に牛肉店として開業、昭和四年現在地に移り、ニ・ニ六事件を経て三十三年、時局の要請にもとづく廃業である。” 

とあり、牛肉店から転業した肉料理の店だったようです。サッカー以外の競技の会合にも利用されており、おそらくボリュームたっぷりの体育会系御用達の料亭だったのでしょう。記事にあるように、ニ・ニ六事件当時、1936年2月26日~29日の4日間にわたって、安藤輝三大尉率いる歩兵第三連隊第六中隊が幸楽に宿営していました。田々宮英太郎著『二・ニ六叛乱』(雄山閣 1983)に引用されている電通社員宇多武次の手記によれば、

“幸楽の中は大変だった。...前垂れがけの女中が大勢、牛肉の大皿を持って右往左往しているという風景であった。”

とのこと。『東京朝日新聞』1936年3月22日付号外「幸楽の四日間」によれば“女中百名と男衆八十名ばかり”とあり、かなり大きな料亭だったようです。

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『東京朝日新聞』1936年3月3日付には3月2日から営業再開したという広告が掲載されています。

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現在跡地はプルデンシャルタワーになっています。

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学校体操教授要目(1913)におけるサッカー

1913(大正2)年文部省訓令第1号として公布された『学校体操教授要目』は戦前を通じて学校体育の基礎となりました。制定の中心人物、永井道明東京高等師範学校教授によって、普通体操からスウェーデン体操に転換されることとなりました。木村吉次「学校体操教授要目 (大正2年) の制定過程に関する一考察」『中京体育学論叢』 6(1) 1964.12 p.47-119 によれば、兵式体操を導入させたがっていた陸軍との葛藤の末、学校体育の「独立」をまっとうしたとのことです。

内容を具体的にみてみると、遊戯(p.15)中に球技として「デットボール」、「センターボール」、「バスケットボール」、「フットボール」の4種があります。ベースボールやバレーボールはありません。

カリキュラムをみると、尋常小学校5年で対列フットボール、同6年でフットボール(○は男子のみ)、中学校2年でフットボール師範学校本科1年でフットボール、となっています。「ベースボール」、「ローンテニス」は「体操科教授時間外ニ於テ行フヘキ諸運動」となっていて、サッカーより優先順位が低くなっています。

永井道明は1917年に結成される東京蹴球団の初代団長になる人物であり、1921年創立の大日本蹴球協会の初代理事の一人です。学校体育のカリキュラムに大きな影響を及ぼしたのはサッカーのルーツ校東京高等師範学校とその後身東京文理大学、東京教育大学関係者ですが、サッカーは学校体育がカリキュラム化された大正初期から、すでに他の球技と比較して優位に立っていたのではにでしょうか。

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節電の成果

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なるべく電気を使わないようにはしてましたが、1,598円とは!


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世界最初の女子サッカークラブ、British Ladies Football Club

British Ladies Football Clubで、1894年に30名の女性を集めてクラブを作ったのはNettie Honeyball(1874-?)

Nettie Honeyball

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トッテナム・ホットスパーのCH、J.W.Julianをコーチとして招き、練習を開始します。

練習風景

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クラブの創設者Honeyballは大工の娘ですが、会長(President)にはクイーンズベリー侯爵の娘で、探検家、戦場ジャーナリスト、詩人、小説家であり、Honeyballと同じく婦人参政権論者であるFlorence Dixieが就任します。

1895年3月23日にはクラブを北ロンドン・チームと南ロンドン・チームに分けてロンドンのクラウチ・エンドで試合を行い、1万人以上の観客を集めました。

世界最初の女子サッカー試合風景

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北ロンドン・チーム

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南ロンドン・チーム

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結果は 北ロンドン 7-1 南ロンドン でした。その後、イギリス国内をツアーして回り、ニューカッスルでは8千人以上の観客を集めています。

このチームに関しては、James Lee著『The Lady Footballers : Struggling to Play in Victorian Britain』(Routledge 2010)という専門書が昨年刊行されています。

また、Patrick Brennanという人のHPも大変詳細な情報があります。同HPによれば、英国でも British Ladies Football Clubが最初の女子サッカー・チームであるというのが定説だそうですが、1881年に女子サッカーのイングランド対スコットランド戦があったそうです。同HPの「Women's Football」は英国女子サッカー史を調べるのに有用です。


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日本サッカー通史の試み(36) オリンピック代表決定

36. オリンピック代表決定

 1936年3月26日~4月15日に代表候補合宿が早大東伏見グラウンドで行われ、4月22日以下の代表16名が発表された。

FW
加茂正五(浜松一中→早大) 21歳 172cm 62.5kg
川本泰三(市岡中→早大) 23歳 172cm 68kg 
加茂健(浜松一中→早大) 22歳 168cm 59.5kg
高橋豊二(成城中→成城高→東大) 22歳 170cm 65kg
西邑昌一(甲陽中→関学高商部→早大) 25歳 168cm 57.8kg
松永行(志太中→東京文理大) 23歳 170cm 64kg

HB
右近徳太郎(神戸一中→慶大) 24歳 171cm 60kg 
種田孝一(東京府立五中→水戸高→東大) 23歳 175cm 67kg
金容植(普成専門学校) 26歳 165cm 64.5kg
笹野積次(志太中→早大) 23歳 165cm 61.5kg
立原元夫(東京高師附中→早大) 24歳 164cm 64kg
 
FB
鈴木保男(東京府立八中→早大) 24歳 169cm 64kg 
竹内悌三(東京府立五中→浦和高→東大 OB) 29歳 170cm 62kg
堀江忠男(浜松一中→早大) 24歳 167cm 64kg
 
GK
佐野理平(静岡中→早大) 25歳 172cm 68kg
不破整(東京府立五中→早大) 21歳 175cm 64kg

平均年齢:23.7歳 平均身長:169.6cm 平均体重:63.5kg

早大10名、東大3名、東京文理大1名、慶大1名、普成専門学校1名という内訳になった。主将の竹内と朝鮮から選出された金を除けば、全員前年秋時点で関東学生リーグの現役選手だった。スタッフは監督:鈴木重義(早大)、コーチ:竹腰重丸(東大OB)、工藤孝一(早大OB)、マネジャー:小野卓爾(中大OB)となった。

 2年前の第10回極東選手権マニラ大会代表が関東・関西ほぼ同数のピックアップ・チームで、しかもOB選手が多くてチームがまとまらず、1勝2敗の不成績だった反動で、単独チーム(早大)を土台とし、年齢的にも現役大学生(平均年齢23.7歳)を中心とした。また、監督・コーチの出身校の後輩選手が大部分で、チームのまとまりを重視した構成となった。単独チームを主体とし、主として関東学生リーグから選抜することは、前年9月15日の「銓衡綱要」で決定し、協会機関誌 『蹴球』1935年10月号 p.4 に「大日本蹴球協会公告 オリムピック選手銓衡綱要」として公表されていた。関西、朝鮮から批判されたが、関東側からすれば「既定の方針」どおりに選考したというところだろう。

 出身中学別にみると、静岡県6名、東京府6名、兵庫県2名、大阪府1名、朝鮮1名であり、他の府県からは選ばれていない。1936年時点でも静岡県は「サッカー王国」だった。個別中学では浜松一中(現・浜松北高)3名、東京府立五中(現・小石川高)3名、志太中(現・藤枝東高)2名で、この3校で半分をしめた。

 『蹴球』4巻2号 1936.6 に選手のプロフィールが掲載されている。加茂正五、加茂健、西邑昌一、金容植、竹内悌三は小学生時代にサッカーを始めている。それ以外の選手全員も中学生時代にはサッカーを始めている。川本泰三、西邑昌一、右近徳太郎、立原元夫、鈴木保男、堀江忠男の6名は1934年第10回極東選手権マニラ大会の代表で、竹内悌三も1930年第9回極東選手権東京大会の代表だった。川本泰三や右近徳太郎などのように、大学予科1年からレギュラーとして関東学生リーグ1部に出場していた選手も多く、平均年齢は若いチームだったがサッカー選手としてのキャリアは豊富なメンバーだった。

 4月23日から碑文谷の勧業銀行グラウンドで3次にわたる合宿を行い、以下のように多くの練習試合を重ねた。

4月26日 代表 9-0 早大
5月2日 代表 4-1 関東学生選抜
5月7日 代表 9-5 慶大
5月9日 代表 6-0 明大
5月10日 代表 3-1 東大
5月18日 代表 2-0 早大
5月20日 代表 2-1 東大
5月21日 代表 13-0 明大
5月24日 代表 8-0 東京蹴球団
5月26日 代表 2-4 慶大
5月29日 代表 6-1 東京商大
6月12日 代表 9-2 東大

 6月13日にはレインボーグリルで歓送会が行われ、6月20日選手団本隊として明治神宮参拝、皇居遥拝の後、平沼亮三団長ら150名と東京駅を出発した。なお、この時サッカーの主将、竹内悌三が選手団全体の先頭に立つ旗手を務めた。 
 


 

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1940年幻の東京オリンピックのサッカー場

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ベルリン・オリンピック時のIOC総会で1940年東京オリンピック開催の正式決定を伝える、1936年8月1日付『東京朝日新聞』紙面に、サッカーなどの球技用の「戸外球技場」構想が掲載されています。

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戸外球技場

蹴球、ホッケー、自転車競技等を行ふためのこの戸外球技場は神宮外苑から遠くない青山南町の射的場跡に敷地を選んで新設される筈である。観覧者席は約五万の予定。日本最初の球技専門の競技場となるわけだ。” 

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大三島紀行(4)

因島土生の日立造船(範多龍平氏の祖父E.H.ハンター氏が創業した大阪鉄工所が母体)

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その裏側?

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今治から新居浜のひとつ先の多喜浜駅へ 徒歩で新居浜東港へ おれんじ8特等室に乗船

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レストランでサザエの煮付け、じゃこ天、アジフライ

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早朝6時大阪南港着なのですが、8時まで滞船できるうれしいサービスがあります。大浴場のサウナでたっぷり汗を流し、のんびり出発できます。池尻大橋に停車する東海道昼特急は13:10なので西宮まで行って時間をつぶします。

阪神武庫川団地駅(阪神電鉄完乗w)

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一級河川武庫川上に位置する阪神武庫川駅

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甲子園球場にも行ってみました

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私の子供の頃からある土手上の茶屋も健在でした オッチャンはコーユーのになじんでたんで、サッカー場のチャラチャラした出店は苦手・・・w

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アメリカのボールパークみたいになってしもた甲子園球場

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蔦も生えてます

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ミュージアム(入場料500円)もあったので入ってみます

なつかしい!

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私が卒業した春風小学校の前に家があった村山実

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バース様

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バックスクリーン裏に出られます

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意外にまじめで甲子園開発史に関する展示もありました

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「7」がサッカー史上有名な甲子園南運動場です

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この後難波に出て、551蓬莱本店で豚饅(2個 320円)のランチを食べてバスで帰りました

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大三島紀行(3)

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本日は
大三島宮浦→大崎上島木江→今治(赤点線)
今治→因島土生往復(青線)
を行きます

宮浦港

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木江港

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今治から土生行きへ

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海上路線バスみたいなもんです

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土生港

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昭和な商店街

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スーパーの鮮魚コーナー 昨日の晩御飯のアコウがありました

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因島(尾道市)は広島県、やたらお好み焼き屋さんがあります そのうちの一軒の「うえだ」へ 500円と格安でした

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土生港名物らしきイカ焼き(200円)も食べて今治へ


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大三島紀行(2)

宿泊したのは神社参道にある老舗旅館の茶梅さん

夕食です

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アコウ、生蛸、ハマチのお造り

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メバルの煮付けと焼き穴子の茶碗蒸し 以下すべてアツアツでいただきました

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オコゼの空揚

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天然鯛の塩焼き

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ご飯は鯛の釜飯でした

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朝食です 干しカレイを焼いて食べます

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昨晩お造りで出たアコウのアラが味噌汁に

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大三島紀行(1)

JRバスの中央道昼特急で出発

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市橋達也が捕まった大阪南港フェリーターミナル

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おれんじ7に乗船 特等シングル室

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夜食を食べにレストランへ

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夜食の続き

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船内公室

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下船後

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無料送迎車で壬生川駅へ JRで今治へ 大三島行きのフェリーまで時間があるので、港近くの今治城へ

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堀の水は海水で港からの水路にはチヌ?らしき魚影が

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港近くの商店街には「早朝喫茶」があります かつては夜行船便や港近くに多い鮮魚店、蒲鉾屋さん相手だったのでしょうか 入ってみると昭和の世界でした

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橋の影響で瀬戸内でもだんだん少なくなってきたフェリー 「みしま」

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今治-大三島(宗方)航路は来島海峡を通ります

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大三島宗方港

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バスで宮浦へ 宿に荷物を預け大山祇神社へ

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御神木の楠

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時間があったのでマーレグラッシアという潮湯温浴施設へ

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潮干狩りしてる人がいました

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JFA選出体協役員

「本会役員の変遷」『日本体育協会七十五年史』(日本体育協会 1986)p.477-523 より作成

1925 理事:内野台嶺 野津謙
1927 専務理事:野津謙(理事の互選) 理事:内野台嶺
1929 専務理事:野津謙(会長一任) 理事:山田午郎
1931 理事:鈴木重義 注:野津謙は専務理事の互選により留任のはずだったが、留学のため辞任
1933 専務理事:鈴木重義 理事:竹腰重丸
1934 専務理事:鈴木重義 理事:野津謙
1935 評議員:鈴木重義 野津謙
1936 理事:深尾隆太郎 評議員:深尾隆太郎 野津謙
1937 理事:深尾隆太郎 評議員:深尾隆太郎 野津謙
1938 理事:深尾隆太郎 評議員:深尾隆太郎 野津謙
1939 理事:深尾隆太郎 野津謙
1940 理事:深尾隆太郎 常議員:深尾隆太郎 野津謙
1942 大日本体育会 幹事:大日本産業報国会企画局主任 野津謙 蹴球部会部会長:野村正二郎(常務理事)
1945 大日本体育会 理事:野津謙 評議員:野津謙 監事:深尾隆太郎
1946 日本体育協会 理事:新田純興 評議員:野津謙
1947 常務理事:竹腰重丸 評議員:竹腰重丸
1948 評議員:木内就一
1949 理事:竹腰重丸 評議員:竹腰重丸
1952 理事:竹腰重丸 評議員:竹腰重丸
1953 理事:竹腰重丸 評議員:小野卓爾 JOC理事:竹腰重丸
1955 理事:竹腰重丸 評議員:小野卓爾 JOC理事:竹腰重丸 同学識経験者理事:野津謙
1957 理事:竹腰重丸 評議員:小野卓爾 JOC理事:竹腰重丸 同学識経験者理事:野津謙 同監事:小野卓爾
1959 理事:竹腰重丸 評議員:小野卓爾 JOC委員:小野卓爾 同ISF:市田左右一 同学識経験者:竹腰重丸
1961 理事:竹腰重丸 評議員:小野卓爾 JOC委員:小野卓爾 同ISF:市田左右一 同学識経験者:竹腰重丸
1963 理事:竹腰重丸 評議員:小野卓爾 JOC委員:小野卓爾 同ISF:市田左右一 同学識経験者:竹腰重丸
1965 理事:竹腰重丸 評議員:小野卓爾 JOC競技団体選出委員:野津謙 同学識経験委員:竹腰重丸
1967 理事:竹腰重丸 評議員:小野卓爾 JOC競技団体選出委員:野津謙 同学識経験委員:竹腰重丸
1969 理事:竹腰重丸 評議員:小野卓爾 JOC競技団体選出委員:野津謙 同学識経験委員:竹腰重丸
1971 理事:竹腰重丸 野津謙 評議員:小野卓爾 JOC競技団体選出委員:野津謙 同学識経験委員:竹腰重丸
1973 理事:竹腰重丸 評議員:小野卓爾 JOC競技団体選出委員:野津謙 同学識経験委員:竹腰重丸
1975 理事:岡野俊一郎 評議員:小野卓爾 JOC競技団体選出委員:野津謙 同学識経験委員:竹腰重丸
1977 理事:岡野俊一郎 評議員:長沼健 JOC競技団体選出委員:長沼健 同名誉委員:竹腰重丸 野津謙
1979 理事:岡野俊一郎 評議員:長沼健 JOC競技団体選出委員:長沼健 同名誉委員:竹腰重丸 野津謙
1981 理事:岡野俊一郎 評議員:長沼健 JOC競技団体選出委員:平木隆三 同名誉委員:野津謙
1983 理事:岡野俊一郎 評議員:長沼健 JOC競技団体選出委員:平木隆三
1985 理事:岡野俊一郎 評議員:島田秀夫 JOC競技団体選出委員:平木隆三

 

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日本サッカー通史の試み(35) 代表候補選考に関西側不満爆発

35. 代表候補選考に関西側不満爆発

 1935年度のサッカー・シーズンは1936年1月19日の東西対抗戦をもって終了したが、同日オリンピック代表選手銓衡委員会は関東側と関西側に分裂して空中分解してしまう。その後代表候補選考は関東側委員により一方的に行われ、3月9日大日本蹴球協会理事会で承認された。代表候補25名は以下のとおり。

FW 市橋時蔵(慶大OB) 右近徳太郎(慶大) 加茂正五(早大) 川本泰三(早大) 加茂健(早大) 金永根(崇実) 高橋豊二(東大) 西邑昌一(早大) 播磨幸太郎(慶大) 松永行(東京文理大)
HB 石川洋平(慶大) 種田孝一(東大) 金容植(普成) 小橋信吉(神戸高商) 笹野積次(早大) 関野正隆(早大) 立原元夫(早大) 高山英華(東大OB) 吉田義臣(早大)
F・B 鈴木保夫(早大) 竹内悌三(東大OB) 堀江忠男(早大)
G・K 上吉川梁(関大) 佐野理平(早大) 不破整(早大)

大学別では早大12名、慶大4名、東大4名、東京文理大1名、神戸高商1名、関大1名、残り2名は京城蹴球団の朝鮮人だった。早大の12名は全員現役選手で、GKの補欠まで代表候補になった。慶大OBの市橋時蔵は関西在住で関西蹴球協会所属であり、それを含めても関西協会所属選手は3名のみだった。

 関西側から選ばれた人数が少なかっただけでなく、戦前最高のウイングといわれた大谷一ニが漏れたことに関西協会関係者は激怒した。「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」『イレブン』v.6 no.1 1976.1 p.168-169 によれば、

“――関西から何人か代表に入ったが、大谷(一二)さんが入らなかったので、関西側が怒ったという話でした。

川本 関大の上吉川(かみよしかわ、上吉川梁)、神戸高商の小橋(信吉)……といったメンバーも入っていたのだが、大谷が行かないというので辞退した。竹腰、工藤(孝一)、浜田諭吉さんたちが選考委員だったと憶えている。大谷がいかん、という理由は昭和9年のマニラで、中国との試合で、みんなの前で、相手が足を蹴りに来たとき逃げた、というんだ。

――大谷一二さんは、そのころ関西を代表する名選手でしたから……。古いスポーツファンは、今でも東の川本、西の大谷の名を覚えていますョ。釜本君が有名になってきたときにうちの新聞社の古手に、まず尋ねられたのは“川本や大谷と比べて釜本はどうだ”ということでした。その大谷さんが外れたから関西側は怒ったんですネ。

川本 選考委員会では、Mさんが浜田さんに主張させたんだとか聞いたがネ。ボクは選手でそういう協会側のことは直接知らなかったが、チームという点から見てもおかしいんだ。選考されたメンバーはCFがボクと松永(文理大)、高橋(豊二=東大)と3人もいてウイングがいない。これでは試合に困る。大谷を連れて行ってほしいとノコさんにも、言ったんだが……。
 スウェーデン戦は、その松永が右ウイングをやって1点を入れたがネ。大谷がおればまた違ったゲームができただろう。

――このとき関西協会は、日本協会から脱退しよう、という意見も出たようですネ。それを田辺さんがなんとか、まとめた……この話は田辺さんが亡くなる前にもよく話しておられたし、戦後の東西対抗などで西軍が集まると、後藤さんはじめ、大先輩たちから、その都度、聞かされたものですが……。

川本 ボクも早稲田だが、一選手の立ち場で、やはりああいう選考はおかしいと思った。だから結局、オリンピックでは、実際にゲームに全然出ないプレーヤーも連れて行ったんだ。ゴールキーパーも早稲田から2人も連れて行ったしネ”

川本のいう「Mさん」とは慶大OBの松丸貞一、「ノコさん」とは竹腰重丸。大谷一ニが選抜されなかったことに抗議して、関西3選手は代表候補合宿をボイコットした。3月27日関西蹴球協会は大日本蹴球協会を非難する声明を発表した。『東京日日新聞』1936年3月29日付は以下の記事を掲載している。

蹴球代表詮衡に
   関西側爆弾声明
     協会理事会の独断を指摘して
        改造の火の手を揚ぐ

【大阪発】過日発表されたベルリン・オリムピック大会蹴球競技に出場する日本代表選手候補につき関西蹴球協会では全日本蹴球界を真に代表すべき人材を網羅せずなほ万人の首是し難きチームでありこれは大日本蹴球協会理事会の独断の結果であるとし再三理事会を開き協議の結果代議員の承認を経ててこのほど関西蹴球協会加盟機関に対し第十一回国際オリムピック大会出場選手詮衡経過報告書なる左の主旨の声明書を発表してして大日本蹴球協会の根本的改造に邁進せんとする運動を起してゐる。即ち声明書の要旨は
一、大日本蹴球協会理事会は何等の手続を踏まず、また詮衡の機関をも定めず昨年度の全日本綜合選手権、全国地方対抗選手権、東西学生対抗の全然性質を異にする三大会の優勝ティームをもって派遣ティームに撰せんとするごとき不合理なる発表をしたこと
二、全国代議員会の痛烈なる反対を受けて派遣選手の詮衡委員は詮衡委員会を組織して候補を選出することとしたのであるがその詮衡人選を独断的に関東を有利にせんとするが如き不当を敢えてしたこと
三、派遣ティームのコーチング・スタッフに関東側の詮衡委員竹腰、濱田、工藤の三氏のみを任命し関東側の意見を全国的に押しつけんとしたこと
以上の如く全日本的に考慮されるべき代表チームを選出するに当って関東に比して何等遜色なき関西の蹴球勢力を無視して大日本蹴球協会理事会が独断専横をなしつつあるのははこの理事会が関東協会加盟チーム関係者のみをもって組織されてゐるためであり、これを全日本的事項に関して公正無私の大日本蹴球協会理事会に改造せんとするにある。なほ選抜された関西側代表候補市橋時[蔵?](慶應OB)小橋信吉(神戸高商)上吉川梁(関大)の諸氏は一身上の都合と称して合宿練習に参加してゐないがこの三候補の不参もこの関西蹴球協会の運動に重大な関係を有するものと見られてゐる。

関東蹴球協会理事松丸貞一氏談
代表選手候補はすでに決定後大日本蹴球協会から全国の加盟協会に対して通告諒解済みで今更とやかくいひ出すことはオリムピック参加前、各方面に及ぼす影響も重大で関西側の声明が事実ならば実に遺憾至極です。関西側の代表選手候補の市橋、小橋、上吉川三君の合宿練習不参は就職問題や勤務先の都合等いづれもやむを得ない事情で関西蹴球協会の反対運動とは無関係なことと思ひます。”

Cimg0456

同日の『大阪毎日新聞』も以下の記事を掲載している。

オリンピック候補詮衡に発端
   蹴球協会改造運動
      理事会の専横を非難
         関西協会から火の手

ベルリンオリンピック大会初参加のサッカー代表候補選手は過日発表されたが、関西蹴球協会ではその詮衡方法を不満とし、大日本蹴球協会理事会の問[題?]を指摘して再三理事会を開き協議するところ(ママ)あったが、代議会の承認を得てこのほど関西蹴球協会加盟機関に「第十一回国際オリンピック大会出場選手詮衡経過報告書」なる左の主旨の声明書を発表して大日本蹴球協会の根本的改造に邁進せんとする運動が起ってゐる。即ち声明書は
一、大日本蹴球協会理事会は何等の手続を踏まず、また詮衡の機関をも定めず昨年度の全日本綜合選手権、全国地方対抗選手権、東西学生対抗の全然性質を異にする三大会の優勝ティームをもって派遣ティームに撰せんとするごとき不合理なる発表をしたこと
二、全国代議員会の痛烈なる反対を受けて組織した派遣選手詮衡委員の人選を独断的に関東を有利にせんとするごとき人をあげたこと
三、派遣ティームのコーチング・スタッフに関東側の詮衡委員竹腰、濱田、工藤の三氏のみを任命し関東側の意見を全国的に押しつけんとしたこと
以上の如く代表ティームを選出するのに当って関東に比して何等遜色なき関西の蹴球勢力を無視して大日本蹴球協会理事会が独断専横をなしつつあるのはこの理事会が関東協会加盟ティーム関係者のみをもって組織されてゐるためで、これを公正無私の理事会に改造せんとするにあり実行委員を挙げて目的の貫徹を期してゐる。
 なほ選抜された関西側代表候補市橋時[蔵?](慶應OB)小橋信吉(神戸高商)上吉川梁(関大)の諸氏は一身上の都合と称して合宿練習に参加してゐないがこの三候補の不参もこの関西蹴球協会の運動に重大な関係を有するものと見られてゐる。”

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 オリンピック代表選考をめぐる東西間のトラブルは新聞種にまでなってしまった。当時関西蹴球協会会長だった田辺五兵衛は「神戸一中のサッカー」『ボールを蹴って50年』(神中サッカークラブ,1966)でこのいきさつを以下のように回想している。

“昭和11年8月、ベルリンでのオリンピック大会に関西からも数名の選手が選ばれたが大谷一二君が入っていないことでもめ出した。当時肝心の竹腰君は満州遠征で疫病に臥し、わたしは兵役にあり、斎藤才三君の孤軍奮闘空しく選考委員会を終ったのである。
 果然憤激した関西協会の役員会はついに日本協会分裂論にまで発展した。役員会は不当な選抜の改正と、協会運営組織の改革に火の手をあげた。決をとったらわたしの一票を除いて全部打倒日本協会論になってしまった。わたしは過去の極東大会において、マニラ行きの船中あわやチーム分裂になりかねなかったことを思い、たとえ協会機構運営上の問題はあるにせよ、代表チームだけは傷つけづに送り出してやれと力説した。
 決議を留保してまた会合、また決議、また留保と、役員会をくり返すこと五度、ついにわたしの説を認めてくれた。そして最初の代表選手選抜やり直せの案が、協会運営改革というスローガンにすりかえられ、わかったようなわからないような関西協会決議文の発表となった。そこでわたしは電報を打ち電話をかけ再三上京し、野津謙氏(現日本協会会長)とともに、最終発表を留保したまま調整に当たった。
 病気で倒れ、満州から帰ってきた竹腰委員長も調整に参加してくれたが、結局押し切れず大谷一二君の件は今回保留ということになってしまった。したがって大谷一二君に歩調をあわせ関西から誰も参加しないという問題も解決しないままに、小橋信吉君(神高商、一中OB)上吉川君(関大)らの関西勢はついに参加しなかった。
 このときの声明書について、東京では「君がついていてこのわけのわからん声明書はなんたることか、なにをいうているのかわからん」と叱る人がいる。あたりまえのことで、最初の筋のとおった声明書を、ただやる方ない憤りのはけ口を残してすりかえた“迷文”だからである。苦心の文章であることにご存知ないだけの話である。
 東西両協会の調整握手はその後わたしの父が故深尾隆太郎会長と話をして、円満にゆくようにし、協会の団結を固めることになった。(しかしいまにして思えば、わたしの仲裁がよかったのか、東西争ってしまってその結果を待った方がよかったのか疑問である)”

関西蹴球協会所属選手は代表候補合宿の段階でボイコットしたので、オリンピック代表には1名も含まれないことになった。1936年2月26日にニ・ニ六事件が勃発しているが、同じころ大日本蹴球協会も「内乱」寸前だったのである。

 大島裕史著『日韓キックオフ伝説 : 宿命の対決に秘められた「恨」と「情」』(実業之日本社 1996)、康奉雄著『知られざる日韓サッカー激闘史 : 韓国と日本をつなぐショートパス : Long and winding road to 2002 』(廣済堂出版 1998)によれば、この代表候補選考は朝鮮でも不評で、朝鮮蹴球協会内には代表候補を辞退せよとの声もあったそうだ。

 かくして代表候補は決定したものの、大日本蹴球協会(関東)と関西蹴球協会、朝鮮蹴球協会との間にしこりの残る結果となった。


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日本サッカー通史の試み(34) オリンピック選手銓衡委員会

34. オリンピック選手銓衡委員会

 翌年のオリンピック代表を目指す1935年秋のサッカー・シーズンが始まった。関東で2連覇中の早大はリーグ戦5戦を、対東京商大7-1、対立大13-1、対東大4-2、対東京文理大5-3、対慶大8-2、と全試合2点差以上の差をつけて全勝し、3連覇した(総得点37 総失点9)。

 銓衡綱要で代表選考参考試合とされた明治神宮体育大会兼全国地方対抗選手権大会は、1935年10月30日~11月3日に開催された。結果は以下のとおり。

1回戦 京城蹴球団(朝鮮代表) 6-2 臥虎蹴球団(中国代表) 函館蹴球団(北海道代表) 7-1 鉄蹴球団(台湾代表)
2回戦 慶大BRB(関東代表) 9-0 熊本倶楽部(九州代表) 峰章クラブ(東北代表) 3-2 名古屋高商(東海代表) 関学大(関西代表) 4-1 四高(北陸代表) 京城蹴球団 2-1 函館蹴球団  
準決勝 慶大BRB 6-0 峰章クラブ 京城蹴球団 2-0 関学大
決勝 京城蹴球団 2-0 慶大BRB

 6月の全日本綜合選手権に続いてこの大会も初参加の京城蹴球団が優勝した。優勝チーム名とメンバーを記した額が明治神宮に奉納される慣例になっており、現在でも秩父宮記念スポーツ博物館で京城蹴球団を刻した奉納額を見ることができる。オリンピック代表選手銓衡委員会が決勝の当日11月3日に開催(出席:竹腰、濱田、工藤、斎藤)され、以下の結論となった。

“参考資料トセルコレマデノ試合ニ現レタル限リニ於テ著シク優秀ナルテイーム無ク銓衡綱要第一項(イ)(ロ)ニ該当スルテイーム無シ、優勝セル朝鮮テイームニ於テモ個人的ニ優秀ナルプレーヤーハ僅ニ金永根、金容植等二三ノ者ヲ挙ゲルノミ”

名前の挙がった金永根、金容植はこの時点で代表候補となったようである。

 関西学生リーグでは関学大が優勝した。国内単独チームの最高峰を決する東西大学争覇戦は1935年12月15日明治神宮外苑競技場で開催され、早大が関学大を12-2で粉砕した。オリンピック代表選手銓衡委員会が当日12月15日に開催(出席:竹腰、濱田、工藤、斎藤)され、以下の結論となった。

“(一)早大ハ選手銓衡綱要第二項ニ係ル諸試合ニ出場シタルテイーム中最モ優秀ナリト認メラルルモ尚同綱要第一項(イ)ニ該当スルモノトハ認メ難キニ依リ、委員合議ノ上同綱要第一項(ロ)ノ場合ニ拠り関東協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡スルコト
(二)斎藤委員ヨリ関西協会所属テイーム中ニハ優秀ナル選手アルニ依リ昭和拾一年一月十九日ニ行ナハル可キ関東関西対抗選抜試合ニ於ケル関西側選手ヲ観察セラルベキ旨提案アリ一同之ヲ承認シタリ”

 リーグ戦を全勝で3連覇し、東西大学争覇戦でも関学大に完勝して3連覇した早大が「今シーズン断然タル強味ヲ有スルテイーム」に認定されなかったのは不可解だが、関西側委員が反対したのかもしれない。1930年第9回極東選手権東京大会優勝時のチームの中核だった東大は前年1929年度のリーグ戦でやはり5戦全勝(総得点30 総失点6)だった。この時点で「関東協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡スルコト」となったが、関西からただ一人出席した関学OBの斎藤が、翌年1月19日の東西対抗戦で関学現役以外の関西在住選手も観察すべきことを主張している。この日の銓衡委員会は大紛糾したに違いない。

 1936年1月19日全関西対全関東の東西対抗戦は南甲子園運動場で開催された。全関西は関学、神戸高商、関大、京大、慶應(OBの市橋は当時関西在住)のピック・アップ・チームで、2年前の極東選手権マニラ大会代表、後藤靱雄(関学OB)や大谷一二(神戸高商OB)も入っていた。対照的に、全関東はイレブンのうち左FBの竹内悌三(東大OB)を除いて全員早稲田の現役選手だった。強風下の試合で、前半風上を利してロングキック戦法で2得点した全関西が、後半全関東の猛攻を凌いで3-2で逃げ切った。

 「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」『イレブン』v.6 no.1 1976.1 p.168-169 によれば、試合後全関東FW川本泰三(早大)のところに後藤靱雄から電話があった。

“うん、こんなことがあった。試合に負けた東軍は解散し、ボクは大阪の家に帰っていた。夜中にゴットンから電話がかかってきた。“関西が勝ったから、オリンピックも関西が代表でいくんや。ただ、お前(川本)は関西にいれたる。いま、どこやらで飲んでいる。右近(徳太郎)も来ているから、お前も出てこい”というんだ。行きはしなかったがネ。”

後藤は東西対抗に勝ったことで関西中心のオリンピック代表になるものと思いこみ、関東在籍でも関西出身の川本泰三(市岡中→早大)や右近徳太郎(神戸一中→慶大)は関西中心の代表チームに入れてやってもよい、という気分だったようだ。過剰な「東西対決ムード」により、最強の代表チームを作ることよりも、代表チームに1人でも多くの関西関係者を送り込むことを優先していた、当時の雰囲気が伝わるエピソードである。

 当日1月19日、最後の銓衡委員会が開催(出席:竹腰、濱田、工藤、斎藤、永野)されたが、関東の3人と関西の2人の意見はまとまらず、大紛糾の末銓衡委員会はこの時点で解散してしまう。  

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日本サッカー通史の試み(33) ベルリンへ

33. ベルリンへ

 1935年5月26日大日本蹴球協会は全国代議員会を開催し、

“(一)第拾一回万国オリムピツク大会絶対参加
(二)派遣選手ノ決定ハ「オリンピツク派遣選手銓衡委員会」ヲ設置シ、同委員会ニ依ツテ決定ス
(三)同委員会委員ハ各地方協会ニ於テ其候補者ヲ推薦シ最後的ノ決定ヲ大日本蹴球協会理事会ニ一任ス”

と、オリンピック参加と選手銓衡委員会の設置を決定した。同時に空席だった会長に深尾隆太郎がつき、オリンピックに備えて従来4名だった理事を11名に増員した。

 この全国代議員大会の1カ月前、協会機関誌 『蹴球』3巻2号 1935.4 の「巻頭言」は以下を記している。

“大日本蹴球協会は四月中旬から六月初旬にかけて、第一回全日本綜合選手権大会を開催する。各ティームは夫々に加盟地方協会の管轄内に於て予選を行ひ、その予選に優勝したティームが、五月三十一日から六月二日迄の三日間(予定)明治神宮競技場に於て全日本の選手権を争奪することになる。従来全日本的な大会は勿論あったが、ティームの参加資格に夫々何等かの拘束があった。が今度の大会には全然それがない。我々はこれによって全日本蹴球の「一般的な」昂揚を企画してゐるのである。そして又我々はこれによって「野心ある」ティームの出現を望んでゐるのである。
 この大会に優勝したティームは今年七八月に行はれる対満州国々際定期戦に日本代表軍として派遣され、又明年の伯林大会への派遣ティームとしての最も有力な候補者となる。”

1920年代の代表選考予選会の亡霊が復活したかのようだが、この段階では協会は未だオリンピック参加を正式決定していなかったのである。“明年の伯林大会への派遣ティームとしての最も有力な候補者となる”は「余計」というものであろう。

 第一回全日本綜合選手権大会は1935年6月1日~2日に明治神宮外苑競技場で開催され、以下の結果となった。

1回戦 東京文理大(関東代表) 4-2 北大(北海道代表) 関西大(関西代表) 4-2 仙台サッカー(東北代表)
準決勝 東京文理大 3-0 関西大 京城蹴球団(朝鮮代表) 6-0 名古屋高商(東海代表)
決勝 京城蹴球団 6-1 東京文理大

遠来の京城蹴球団が1日2試合のハードスケジュールをものともせず、圧勝した。「対満州国々際定期戦」の日本代表には京城は選ばれず、早大が満州に遠征した。

 1935年7月8日大日本蹴球協会は理事会でオリンピック選手銓衡委員を以下の5名に決定した。

竹腰重丸(東大OB) 濱田諭吉(慶大OB) 工藤孝一(早大OB) 斎藤才三(関学OB) 永野武(京大OB)

5名の出身校関東3大学と関西2大学は、1935年時点で関東・関西の大学リーグで優勝実績のある大学だった。サッカー・シーズンが始まる直前の1935年9月15日に第1回のオリンピック選手銓衡委員会を開催(出席:濱田、工藤、永野)し、以下の「銓衡綱要」を決定した。

“(一)従来ノ経験、現時ノ蹴球界ノ状態ニ鑑ミ全国的ピツクアツプテイームハ不適当ト認メラルルニ依リ
  (イ)今シーズン断然タル強味ヲ有スルテイームノ出現シタル場合ニハ該テイームヲ主体トシテ銓衡ス
  (ロ)右ノテイーム無キ場合ニハ 一地方協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡シ他地域ヨリモ補充スルコトヲ得
 (二)銓衡ニハ全日本選手権大会、神宮大会(全国地方対抗選手権大会)、東京学生リーグ戦、東西学生リーグ代表対抗試合其他ヲ参考トシ、猶必要ト認メラルル場合ニハ更に銓衡試合ヲ行フコトモアルベシ”

 「全国的ピツクアツプテイームハ不適当」は、1934年第10回極東選手権マニラ大会の代表が関東・関西ほぼ同数の「全国的ピックアップチーム」であり、1勝2敗と不満足な成績だったことを反映したものであろう。

 「今シーズン断然タル強味ヲ有スルテイームノ出現シタル場合ニハ該テイームヲ主体トシテ銓衡ス」は単独チーム主体の代表選考を行うということである。極東選手権で初勝利した1927年第9回上海大会は早大主体、優勝した1930年第10回東京大会は東大主体の構成だったことを反映したものであろう。1933年、1934年の東京学生リーグを連覇し、東西大学戦も連覇していたのは早大だったので、「断然タル強味ヲ有スルテイーム」は早大を意識していたはずである。

 「右ノテイーム無キ場合ニハ 一地方協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡シ」の「一地方協会」とは関東蹴球協会であり、関東中心の選考をこの時点で決定していた。参考試合に東京学生リーグ戦はあるが、関西学生リーグはなく「其他」扱いされている。

 上記のように、この「銓衡綱要」は過去の極東選手権の経験を反映し、「関東主導」をにじませたものであった。

 なお、上記に引用した代表の選考経過は 『蹴球』4巻2号昭1936.4 p.2-3 に掲載されている。

 

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日本サッカー通史の試み(32) 1932年のサッカー普及状況

32. 1932年のサッカー普及状況

32.1 協会登録チーム

 何故か昭和7(1932)年度のみ『蹴球年鑑 昭和七-八年度』(大日本蹴球協会 1933)が刊行されており、「昭和7年度加盟チーム調一覧」(p.97-129)が掲載されている。当時の登録チーム数を各地域協会別にまとめると以下のとおりになる。

北海道蹴球協会(チーム総数12) 社会人チーム数(2) 高等教育機関チーム数(1) 中等教育機関チーム数(9)
東北蹴球協会(チーム総数16) 社会人チーム数(2) 高等教育機関チーム数(8) 中等教育機関チーム数(6)
関東蹴球協会(チーム総数124) 社会人チーム数(26) 高等教育機関チーム数(46) 中等教育機関チーム数(52)
東海蹴球協会(チーム総数33) 社会人チーム数(4) 高等教育機関チーム数(6) 中等教育機関チーム数(23)
北陸蹴球協会(チーム総数9) 社会人チーム数(4) 高等教育機関チーム数(3) 中等教育機関チーム数(2)
関西蹴球協会(チーム総数79) 社会人チーム数(16) 高等教育機関チーム数(14) 中等教育機関チーム数(49)
中国蹴球協会(チーム総数36) 社会人チーム数(4) 高等教育機関チーム数(8) 中等教育機関チーム数(24)
九州蹴球協会(チーム総数26) 社会人チーム数(1) 高等教育機関チーム数(7) 中等教育機関チーム数(18)

全国(チーム総数335) 社会人チーム数(59) 高等教育機関チーム数(93) 中等教育機関チーム数(183)

 協会登録チームが存在しない空白県は秋田県、福島県、新潟県、長野県、三重県、鳥取県、徳島県、香川県、高知県、宮崎県、沖縄県であった。新潟県、鳥取県、徳島県を除いて、2011年現在もJリーグチーム空白県であるのは興味深い。

 中等教育機関183校の内訳は、

中学校 115校(62.8%)
師範学校 32校(17.5%)
実業学校 36校(19.7%)

だった。同年の1932年第18回全国中等学校野球優勝大会予選出場校663校の内訳は、

中学校 384校(57.9%)
師範学校 35校(5.3%)
実業学校 244校(36.8%)

であり、野球の方が圧倒的に実業学校に普及していることがおわかりいただけるであろう(朝日新聞社編『全国高等学校野球選手権大会史』(朝日新聞社 1958)より算出)。文部省編『学制百年史 資料編』(帝国地方行政学会 1972)によれば、昭和7(1932)年度の中学校数は558校であり、中学校へのサッカーの普及率は20.6%、野球の普及率は68.8%ということになる(『学制百年史』の師範学校と実業学校の校数は女子校を含むので、普及率を算出できない)。

32.2 1932年当時のサッカー大会・リーグ戦

 同年鑑に掲載されているサッカー大会・リーグ戦は以下のとおりである。

・社会人

全国地方対抗選手権 1932年4月 南甲子園 慶應倶楽部 芳野倶楽部

・大学・高専・高校

東西大学争覇戦 1932年12月 南甲子園 慶大 京大
東京カレヂリーグ戦1部 1932年10-11月 慶大
同2部 成城高
同3部  商船
同4部 商大
同5部 東医
同6部 日医
関西カレヂリーグ戦1部 1932年10-11月 京大
同2部 大阪外語学校
大阪学生連盟春季リーグ戦 1932年5-6月 関大
東海学生連盟リーグ戦 1932年9-11月 名古屋高商
東西対抗 1933年2月 神宮 全関東
東北カレヂリーグ戦 1932年11月 ニ高
全国高校大会 1933年1月 京都岡崎公園 六高
全国高工大会 1932年12月 東京工大 浜松高工
全国高商大会 1932年12月 東京石神井清水組G 関西学院高商部
西日本大学高専大会 1932年11月 九大医学部G 九大
九州帝大主催高専大会 1932年12月 九大医学部G セブランス医専
東海選手権 1933年3月 名古屋鶴舞公園G 一般の部 芳野倶楽部 少年の部 名古屋商
東北選手権 1932年10月 東北大G T.G.サッカー倶楽部
関東OB選抜試合 1933年1月 神宮 紅組

・中等学校

第15回全国中等学校大会(全国中等学校蹴球選手権大会) 1933年1月 南甲子園 神戸一中 青山師範
関西大学主催第6回全国中等学校大会 1932年4-5月 関大 御影師範 甲陽中
富山薬専主催北陸近県中等学校大会 1932年5月 富山薬専 富山師範 富山中
池田師範主催関西中等学校大会 1932年5-6月 池田師範 御影師範 天王寺師範
高松高商主催第5回近県中学校大会 1932年6月 高松高商 関学中 甲陽中
六高主催第1回近県中等学校大会 1932年8月 六高 修道中 岡山二中
関学主催第8回中等学校大会 1932年8月 関学 御影師範 甲陽中
岐阜蹴球団主催第10回中等学校大会 1932年7月 岐阜中 岐阜師範 甲陽中
東京文理大主催第9回全国中等学校大会 1932年8月 神宮 第1部 東京高師附中 志太中
同                                     第2部  京都師範 埼玉師範
東北学院主催北日本中等学校大会 1932年8月 東北学院 仙台一中 仙台二中
和歌山高商主催第6回関西中等学校大会 1932年9月 和歌山高商 都島工 京都師範
水戸高校主催茨城近県中等学校大会 1932年9月 水戸高 埼玉師範 宇都宮中
桐生高工主催群馬近県中等学校大会 1932年9月 桐生高工 不動ヶ岡中 浦和中
広島学連主催第12回全国中等学校大会 1932年10月 広島高 広島一中 修道中
松本高校主催近県中等学校大会 1932年9月 松本高 韮山中 岐阜中 
松山高校主催関西中等学校大会 1932年1月 松山高 松山中 愛媛師範 
五高主催全国中等学校大会 1932年1月 五高 熊本師範 佐賀師範 
埼玉蹴球団主催第6回近県中等学校大会 1932年1月 埼玉師範 埼玉師範 栃木師範
関門日日新聞主催第3回近県中等学校大会 1932年12月 長府球場 豊国中 山口中
天王寺師範主催第8回近畿中等学校大会 1933年2月 天王寺師範 姫路師範 都島工
北九州体育指導者協会主催第3回中等学校大会 1932年12月 豊国中 嘉穂中
東京蹴球団主催第15回関東中等学校大会 1933年1月 神宮 青山師範 茨城師範 


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日本サッカー通史の試み(31) 最後の極東選手権(2) 本大会の結果

31. 最後の極東選手権(2) 本大会の結果

 1934年第10回極東選手権マニラ大会のサッカー競技には従来の3国・地域にオランダ領東インド(インドネシア)が加わった。対オランダ領東インド1-7対フィリピン4-3対中華民国3-4と1勝2敗であった。本大会の記録については、 『蹴球』第2巻3・4号 1934.8が「第十回極東選手権大会オフィシャルリポート」特別号として刊行されており、準備段階(合宿)から帰国まで詳細に報告されている。

 1-7で大敗した対オランダ領東インド(現インドネシア)戦について、竹腰は自著『サッカー』(旺文社 1956)で以下のように述べている。

 “昭和九年(一九三四年)五月、マニラでの第十回極東選手権競技大会における蘭領インド(現在は地域としてはインドネシア)との試合で大量七点を失ったが、これらの失点は蘭印がその長身のセンター・フォワードに後方から長蹴を送り、ボールの飛ぶ間に後方から鋭くダッシュしてくるレフト・インナーにヘッディングで軽く落し、そのレフト・インナーの強蹴で得点という簡単な経過をたどったのが過半であったが、これはそのセンター・フォワードを緊密にマークしない体制がそのようにさせたのであった。”

 現在ならCFのポスト・プレーというところだが、やはり完敗したベルリン・オリンピックの対イタリア戦(0-8)もまったく同じ戦法にやられたようだ。極東大会当時は2FB・3HB・5FWのいわゆるピラミッド・システムで、CFのマークが甘かった。そのうえ、相手にリードを許すと、主将で左FBの後藤靱雄が上がってしまい、ディフェンス・ラインが乱れ、ますます敵CFのマークが緩くなってしまった。竹腰は『蹴球』第2巻3・4号の「戦績報告」で次のように述べている。

“加之、第四点を失ふに至る頃から、LB後藤は積極的に攻撃する希望の下に殆んどHBライン中に加はる程進出し、RB堀江は相手左WFを警戒する位置に開いて居たので相手はそのHBから我がCHとLB及LHを結ぶ線の後方に長蹴してFWの走力と体躯を利用して強引に突破する戦法を採って来たのであったが、我が守備陣がそれに対する配置に変る隙もなく続け様に第五点、第六点を奪はれて了った。”(p.47)

 左FBの後藤がハーフの位置まで上がったうえ、右FBの堀江忠男は相手ウイングを警戒してサイドに引きつけられ、ポッカリあいたスペースにロングボールを放り込まれたようだ。後藤は185cm近い巨漢FBで、関学および全関西では、ロング・キックを前線に送り、彼自身もどんどん押し上げて、ハーフ・ライン近くから豪快なロング・シュートを放つのが持ち味の選手だった。関東側はビルマ人留学生チョー・ディンが伝えたショート・パス戦法を、彼の「直伝」を受けた早稲田の鈴木重義、東大の竹腰重丸が独自に発展させてそれぞれのチーム戦術としていた。極東選手権対オランダ領東インド戦は、木に竹を接いだような関東・関西混成チームの戦術的欠陥が露呈した試合だったようだ。

 中華民国とは激戦のうえ引き分けながらも「優勝」した1930年第9回極東選手権が「成功」だったのに対し、本大会は「失敗」と位置づけられた。協会機関誌 『蹴球』第3巻2号 1935.4の「巻頭言」は、翌年のオリンピック・ベルリン大会への参加について言及した後、

“我々は昨年の極東大会に失敗してゐる。古来戦勝の要訣として、「天の時、地の利、人の和」と云ふ事が云はれてゐる。昨年の失敗は正しくこれらの要訣のいづれをも欠いてゐたからに外ならぬ。
 来年こそは、主観的にも客観的にも昨年の如き愚を繰り返へしはしないし又繰り返へされることもないだらう。”

と述べている。本大会は「失敗」であり、オリンピックではその「愚」を繰り返さないという決意が協会内に満ちていたことが推察される。

 全体の結果は以下の通りである(左から1、2、3位)。

陸上:日 比 中 蘭印
水上:日 比 中 蘭印
野球:比 日 中 
テニス:日・比 中・蘭印
サッカー:中 日・比・蘭印
バスケットボール:比 中 日
バレーボール:比 中 日

2年前のオリンピック・ロサンゼルス大会で金メダル7、銀メダル7、銅メダル5を獲得した日本は陸上と競泳で圧勝した。これらの種目では極東選手権は「勝って当たり前の大会」化しており、その意味でも極東選手権は役割を終えていた。バスケットボールとバレーボールは最下位だった。バレーボールは初参加以来全大会を最下位で終えた。


 

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日本サッカー通史の試み(30) 最後の極東選手権(1) 代表チームの編成

30. 最後の極東選手権 代表チームの編成

 1933年12月12日付『東京朝日新聞』は「蹴球極東選手選抜方法決定」の見出しの下、以下の記事を掲載している。

“日本蹴球協会では十一日正午から協会事務所において第十回極東大会蹴球代表選手選抜委員会を開催、左の諸項を決定発表した。
△選抜方法 来春一月廿一日大阪甲子園及び一月廿八日東京神宮競技場において前後ニ回東西対抗選抜試合を挙行し決定する。
(以下略)”

 前回1930年第9回極東選手権東京大会は大学リーグを一シーズン通して観察し、そこから代表候補を絞り、さらに代表候補合宿を経て代表を決定するという、現在と同様の選抜法になったのであるが、東西対抗戦が1932年から始まっていたので、これを「代表選考参考試合」とする方式に「後退」してしまった。

 2試合の結果は、

1934年1月21日 1回戦:南甲子園 全関西 3-5 全関東
     1月28日 2回戦:神宮 全関東 1-6 全関西

と東西ともアウェー戦で勝利して1勝1敗だった。代表17名は全員大学生、大学OBで、早大7名、関学6名、慶大2名、神戸商大1名、京大1名となり、関東9名、関西8名で東西ほぼ同数ということになった。ところが、これを関西側の陰謀ととらえた人がいたようだ。田辺五兵衛「神戸一中のサッカー」『ボールを蹴って50年』(神中サッカークラブ,1966)では以下のように述べられている。

 “昭和9年(1934年)5月、マニラの極東大会には一中OBとして大谷一二、右近徳太郎の両君が参加した。選抜委員会は選抜の利便のため、東西対抗をこの時に限り二回行なうことにした。その結果は奇しくも東西同数の選手の選抜となった。これに対して関東側、とくに早大側に、これを最初から関西がしくんだ陰謀だとする説が生まれた。これはその委員会の経緯をみてもわかるように偶然の結果にすぎなかったが、早大OBである当時の日本協会理事長鈴木重義氏が説明を怠ったことによって火がつきかけたのだった。しかし一応説明してことなきをことなきを得たかにみえたものの、チームの練習実施に当たるべき竹腰君は満州国参加問題で体協代表として、陸上の渋谷寿光氏とともに満州国に飛び、東伏見グラウンドに残されたチームはいわゆる自習する生徒のようになってしまった。これは第二期の碑文谷合宿練習においても、五十歩百歩の域を出なかったのである。”

当時、関東と関西ではサッカー・スタイルが全く異なっていた。2回戦の観戦記「第二次戦の印象」 『蹴球』第2巻第2号 1934年4月 p.25-27 を書いた松丸貞一(慶大OB)は東西のサッカー・スタイルの相違を以下のように記述している。

“関東は複雑なやや緻密なパスワークに依って自軍のわくの中に球を持ち続け乍ら理詰に敵をゴール前迄しめつける。
 関西は之と対照的だ。
 長蹴に相俟つ単独の強い動きに依って敵の一ヶ所を突き破り強引にゴールを陥し入れるのが特徴である。”

 急拵えのピックアップ・チーム同士の対戦は単純なロングキック戦術の関西に有利で、緻密なパスワークを身上とする関東に不利に作用した。東西それぞれにピックアップ・チームを作り、その対戦の結果から代表を選ぶという選考法自体が関東(特に早大)に不利で、関西に有利な結果となった。おそらく、それが「陰謀」ととられたのであろう。

 本大会は総監督鈴木重義(早大OB)、監督竹腰重丸(東大OB)、マネジャー工藤孝一(早大OB)が予定されていたが、鈴木、工藤が辞退したので、マネジャー(兼コーチ)は田辺五兵衛(大阪高商OB)となった。監督、マネジャーの後輩が選手に1人もいないというチーム構成になった。 

 ピックアップ・チームはチームワークに問題がありがちだが、代表合宿の段階からチームワークは乱れていたようである。松丸とともに代表に選ばれた川本泰三は「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」『イレブン』v.6 no.1 1976.1 p.168-169 で以下のように述べている。

“関東は早大が主力、関西は学校にこだわらずOBもだいぶいたかナ。なかなかいいメンバーだった。1勝1敗だから、関西、関東同数で代表をつくろう、ということになって、マニラ行きのチームができた。関西はOBが多いし、関東は学生だし、年齢も違ってなんらつながりのないチームだった。国内の合宿でもキャプテンのゴットン(後藤靱雄)ら関西の連中は、門限に帰ってこず、竹腰監督が選手を集めて一説ぶち、泣き出すなどといった一幕もあった。おまけにこの大会には満州国の参加問題がからんで、右翼が日本選手団の参加を妨害したりした。”

 満州国参加問題というのは、1931年の満州事変により誕生した満州国を、日本は極東選手権に参加させようとし、当然中華民国が反対した。結局満州国は参加しなかったことで、右翼は満州国参加を認めない極東選手権をボイコットせよと主張したが、体協はフィリピン体協の面子を立てて参加した。詳細については、高嶋航 「「満州国」の誕生と極東スポーツ界の再編」 『京都大学文学部研究紀要』 (47) 2008 p.131-181 を参照されたい。監督の竹腰は体協役員として満州体協と折衝のため渡満するなどこの問題に奔走し、十分な準備ができなかった。極東選手権は満州国問題のため1934年第10回マニラ大会が最終回となる。

 松丸貞一も「成城の人たち」『成城蹴球・サッカー60年史』(成城蹴球・サッカー60年史編集委員会,1988) でこの代表合宿を以下のように回想している。

“キャプテンは関学のゴットンである。彼だけが前回の極東大会(東京)生き残りのベテランである。合宿は学芸大学に近い勧銀のグラウンド、宿舎は「大国」という旅館?である。
 芝生の国立競技場よりなめらかなグラウンドであった。監督は不在だし、いいかげんなキャプテンなので生活も練習もまことにダラシない。だれも見てくれないし、自分から立ち直る自覚も乏しく、僕の相談ができるのは早稲田の選手諸君(立原、堀江、高島、名取)位のものであった。これが関東、関西の対立と見られて、田辺の治太さん(助監督)から注意されたが、それは的はずれで、もっと本質をつかんでくれるべきであった(しかし生活をともにしない役員に当時のムードをつかめというのは無理かもしれない)。”

 監督が不在がちなので、チームを締めるべきは主将の後藤靱雄(関学OB)だったが、主将自ら門限破りしている始末だった。田辺によれば、チーム内の不和はマニラ行きの船中にまで持ち越された。

“こうしてキズを残したままチームは船出したのである。不幸はこの時にはじまる。船中での日課の研究会はやがて話題を尽し、毎日同じことのくり返しで、これに対する反発と、その反発に対する反発が乱れ飛んだ。船出した以上このチームで最高の成績を残すよりほかに方法はないのではないかと、一人一人をなだめた。このあつれきはマニラの宿舎に入っても残った。このチームのもう一つの弱点は昭和5年のときと違い、選手の年齢にやや開きがあるため、統制上簡単にゆかない点もあった。それを一途に押していったのが無理だったのだ。その余燼がベルリン大会選手選抜委員会の成り行きまで飛び火しようとは思いもかけなかった。”

 田辺も述べているように、本大会代表チーム編成の問題は2年後のオリンピック・ベルリン大会代表選考に「飛び火」することになる。

 

 

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日本サッカー通史の試み(29) 東西対抗戦

 1929年から関東、関西の大学リーグ優勝校が対決する、日本版チャンピオンズ・カップというべき東西大学争覇戦が始まり、日本における単独チーム戦の最高峰となった。3年後の1932年には関東、関西の大学リーグ(OBも含む)選抜チームが対戦する東西対抗戦が始まる。この試合も明治神宮外見競技場と南甲子園運動場で隔年開催された。結果は以下のとおりである。

第1回 1932年2月7日 南甲子園 全関西 6-3 全関東 第二放送
第2回 1933年2月12日 神宮 全関東 3-2 全関西 第二放送(河西)
第3回 1934年1月21日 1回戦:南甲子園 全関西 3-5 全関東 1月28日 2回戦:神宮 全関東 1-6 全関西
第4回 1935年1月20日 神宮 全関東 6-5 全関西 第二放送(和田)
第5回 1936年1月19日 南甲子園 全関西 3-2 全関東
第6回 1937年2月7日 神宮 全関東 0-4 全関西 第二放送(和田)
第7回 1938年1月23日 南甲子園 全関西 1-4 全関東 第二放送
第8回 1939年2月5日 神宮 全関東 3-2 全関西 第二放送(和田・飯田)
第9回 1940年1月28日 南甲子園 全関西 1-4 全関東 
第10回 1941年2月2日 神宮 全関東 3-2 全関西

 東西対抗戦は東西大学争覇戦と並ぶ国内サッカー最高峰に位置づけられる試合とみなされ、第1回からラジオ中継されている。11戦して全関東の7勝4敗であった。第3回1934年で2回戦があったのは、同年の第10回極東選手権マニラ大会の代表選考参考試合とされたからである。第5回1936年も同年のオリンピック・ベルリン大会の代表選考参考試合とされた。この3戦に限ると、全関西が2勝1敗で勝ち越しており、代表に選考されるため全関西の選手が発奮したことがわかる。

 戦前の日本サッカーはカレッジ・スポーツであり、東西の大学リーグ1部が日本のトップリーグだった。東西大学争覇戦と東西対抗戦の存在はいやがうえにも「東西対決」ムードをあおった。地域協会も当時は府県別ではなく、関東蹴球協会、関西蹴球協会があった。全関東と全関西はいわば地域のナショナル・チームであり、英国におけるイングランドとスコットランドの関係に似ているともいえよう。

 過剰な地域対抗意識は1934年第10回極東選手権マニラ大会の代表選考に影響を及ぼし、東西の対立は1936年オリンピック・ベルリン大会の代表選考でピークに達することになる。

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日本サッカー通史の試み(28) 第9回極東選手権対中華民国戦「引き分け」の経緯

28. 第9回極東選手権対中華民国戦「引き分け」の経緯

 この日本サッカー史上歴史的な試合が引き分けになった経緯について、山田午郎「覇権を目指して(結) 極東大会回顧」 『蹴球』第2巻第2号 1934.4には、

“真に華々しい稀有の大試合は各種目ともこれを決定する迄試合するといふ規則はあるが二十九日夜の日華蹴球委員集合の席上で中華委員は再試合を希望せず日本委員もこれに賛意を表したので試合はこれを打切って日華はともに一等覇権は次回まで預りとなり比島は三等と決定した。”(p.37)

と述べられている。従来の日本サッカー史文献では、日本側が再試合を提案したが、中華民国側が拒んだことになっていた。後藤健生氏の『日本サッカー史・代表篇 : 日本代表の85年 : 1917-2002』(双葉社 2002)によれば、中国のサッカー史文献では逆に解釈されており、日中で見解の相違があるようだ。

 実は90分で3-3ドローの後、中華民国側は延長戦を主張したが、日本側がそれを無視し、当日の夜になって再試合を提案したが、中華民国側が拒否した、というのが真相であった。この件に関して日本の当時の新聞も報じているので、紙面を紹介しよう。

『読売新聞』1930年5月30日付

“延長説と再試合説折合はず 共に第二位

 日華蹴球戦は共に同成績で廿九日の試合の結果により極東選手権が決る筈のところ、三対三で引分けとなったため、日本側は極東規則に従ひ再試合を行ふ事として試合を終了したが、中華側では延長戦に依って試合を決定せんと要求し、異常なる興奮の中に其儘各宿舎に引き揚げ、中華側応援団は蹴球は中華唯一の選手権の目標であるため極度に憤慨して「極東大会を脱会せよ」と叫び、日本青年館前を去らず紛糾して来たので、日本側役員は午後六時野津役員、馬中華監督、李コーチの会合を求め、協議の結果改めて体育協会理事の判定を受ける事となり、再び協議会が開かれたが、両国の説折合はず、遂に選手権は次回大会迄保留することとなり、共に第二位(比島第三位)となった。”

『東京日日新聞』1930年5月30日付

“日華の決勝戦結局行はず 中華側友情を提唱 大会当局の不用意が因

 なほ廿九日の日華蹴球戦が別項の如く引分けとなったので決勝戦は大いに期待されたが試合終了と同時に日本選手は再試合するものとみ(ママ)で直ちに退場したのに中華側は延長戦を主張してフヰールドに暫く留っていたが、要するにかうした引分けの場合決戦するか、しないかにつきはっきり決めてゐなかったためかかる結果となったもので中華の李監督は突如「試合が余りエキサイトし双方大分怪我人も出来てゐるからこれ以上決戦を行ふ必要はない、われわれは試合などどうでもよいのであってフレンドシップを傷つけたくないから次回の大会まで決勝戦を保留することにしたい」と極東同胞の友情発露を主唱し出したのでわが大会役員も比軍のイラナン総監督の意見を求めることになったが決勝戦は結局行はれぬ模様である。”

『読売』は“中華側では延長戦に依って試合を決定せんと要求し”たこと、『東京日日』も“中華側は延長戦を主張してフヰールドに暫く留っていた”ことを明記している。この試合は3-2でリードした日本に中華民国が3点目を取って追いついたので、延長戦では中華民国側に分があったのではないだろうか。

 『東京朝日』の記事は上記2紙と異なっている。

『東京朝日新聞』1930年5月30日付

“蹴球決勝中止し選手権保留 日華の協議で決定

 二十九日日華蹴球戦は三対三で引分になり再試合を行ふや否やについて日本側の役員野津氏、中華側から総監督馬約翰氏コーチ李瀚淦氏体協理事立会ひの上二十九日夜日本青年館において協議を行った結果、その選手権を次回の大会まで保留する事より比島側委員の諒解を求めた。

国際親善の為に 日本代表野津氏談

蹴球部日本代表総務委員野津謙氏は語る。

 試合が同点でタイム・アップとなったので日本側は再試合を行ふつもりでそのまま試合を中止し、両軍委員コーチと共に再試合について議した所、中華のコーチは最早期日も迫り両軍負傷者も多くあの大接戦の後であるから若き選手をエキサイトさせて試合をラフにさせたくない。再試合を行ひ強ひて選手権を決定するにも及ぶまい。優劣を争ふよりも極東大会にとっては国際親善の方が大切な事である。日華お互に手をとって世界の舞台へ乗り出そうではないか。この選手権は次回の大会において争ふ事にして保留しようといはれたので日本側もこれに賛成して岸会長今村氏等に報告し選手権を保留する事になった。決して両軍の意見が折合はなかったのではなく意見の一致を見たのでこれは寧ろ非常な美談だと私は思ふ。しかし両国のみで勝手に決定すべき問題でないので一応比島側の代表イラナン氏の諒解を求める事になったのである。規則についていふと唯国際規則によるとのみしか記してなく、その国際規則には同点の時は引分とするとあるだけで勝敗決定についてそれ以上明文がない。

勝敗は第二の問題 中華コーチ李氏談

中華蹴球チームコーチ李瀚淦氏は語る。

 試合はご承知の如く日華双方の規則の解釈が異なって居た為一寸議論が起りましたが、両国代表間に行はれた会見の結果、試合は中止に決定し、選手権は次回大会まで留保される事となりました。是で日本も中華も互角となり、互に恨む事なしになった訳です。もともと極東大会は相互の親善といふ事が主眼であって勝敗は第二、第三の問題です。”

朝日の記事は当事者へのインタビューをふまえて詳細だが、中華民国側が延長戦を主張したことにはまったく触れていない。

 90分で勝負がつかない場合の明文化された規定がなく、日日の見出しにあるようにそれは「大会当局の不用意」だった。この大会の蹴球委員長は大日本蹴球協会理事の野津謙であるが、朝日の記者山田午郎も同じく協会理事であり、山田は野津をかばって延長戦に触れなかったのかもしれない。

 野津は“規則についていふと唯国際規則によるとのみしか記してなく、その国際規則には同点の時は引分とするとあるだけで勝敗決定についてそれ以上明文がない”とのべているが、オリンピックの先例はどうだったのか。1928年オリンピック・アムステルダム大会のサッカー決勝ウルグアイ対アルゼンチンは1928年6月10日に行われ、90分を1-1で終り、15分ハーフの延長戦でも1-1のままで決着がつかず、6月13日に再試合が行われ、2-1でウルグアイが勝った。従って、中華民国側が延長戦を要求したのは、根拠のあることだったといえる。野津は体協役員としてこのオリンピックに参加しているので、サッカー決勝で延長戦が実施されたことを知らないはずがない。日本側は再試合を主張したが、サッカーの日本対中華民国戦は8日間の大会期間中の6日目に組まれており、そもそも再試合を行う日程的余裕はなかった。

 結局、大会の公式記録では、

“The Contest Committee of the Ninth Far Eastern Championship Games hereby announce that on account of lack of time the tie game of Football between China and Japan contested on the 29th, May shall be declared drawn and not be replayed.”

と、再試合は「時間がないため(on account of lack of time)」行われなかったことになった。


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日本サッカー通史の試み(27) 極東選手権初優勝

27. 極東選手権初優勝

27.1 代表の選考

 1930年第9回極東選手権は東京で開催された。開催国として必勝を期した大日本蹴球協会は前年1929年7月17日の理事会で選考方針を決定し、同年度のシーズンの成績をふまえて、1930年3月18日代表候補選手を発表した。1930年4月1日~22日に第1次合宿を行い、5月12日には大会宿舎の日本青年館入りして第2次合宿を始めるという万全の準備を整えた。

 まず代表候補を選び、その中から決定した代表15名は東大9名、早大3名、関学2名、慶大1名で、東大OBの竹腰重丸を除いて全員現役大学生であった。この代表は、前回までと異なって予選会方式ではなく、1929年度の大学リーグ戦の戦績により、ピックアップ方式で選考された。東京コレッヂリーグ4連覇中で、前年から始まった第1回東西大学争覇戦でも関学を破って「日本一」になった東大主体でチームが編成された。東西大学争覇戦のようなトップレベルにおける東西交流を反映して関学からも2名選考され、「全日本」的なチーム編成となった。監督は早大OBで大日本蹴球協会常務理事(筆頭理事)の鈴木重義、主将は東大OBで大日本蹴球協会理事の竹腰重丸。

 代表選考における大学リーグ戦と東西大学争覇戦の徹底した重視と代表監督・主将の人選は、前年の協会理事改選によって大学勢が協会運営の主導権を握ったことを反映したものであろう。リーグ戦重視の代表選考は現在と変わらなくなったのだが、この選考法はすぐには定着せず、この後「代表選考参考試合」なるものができて、1930年代の代表選考は迷走することになる。

27.2 大会の結果

 結果は対フィリピン7-2対中華民国3-3であった。フィリピンには完勝し、中華民国とは激戦の末引き分けた。1929年5月29日の対中華民国戦は明治神宮外苑競技場を満員にし、名勝負は日本サッカー史上最高の試合として高く評価され、サッカーファンを増やしたといわれる。日本と中華民国はともに1勝1分けで同位優勝となった。

 監督鈴木重義と2試合とも先発出場している竹腰重丸、本田長康、春山泰雄は初勝利した前回大会から連続出場で、チョー・ディンの直伝を受けた人々である。竹腰重丸はその著書『サッカー』(旺文社1956)において、この頃日本のショート・パス戦術が完成したと述べている。

“その時代に日本の参加する唯一の国際試合であった極東選手権競技大会には、常に敗退を続けていたのであったが、昭和二年(一九二七年)上海での第八回大会に至って、早大W・M・Wを中心とする日本代表が初めてフィリピンに勝ちえたのは、このショート・パス戦法の発展期に当っていた。”

“東京大学を中心に編成した昭和五年(一九三〇年)の東京での第九回極東大会への出場チームは、中華民国に対して常に一点リードしながら、ついに三対三の引分けに終ったのは、中華民国の強力なウィング・フォワードに対する日本側のマークが徹底せず、その活躍を許した結果であると思われる。

 ショート・パス戦法と呼ばれるいき方は、昭和五年(一九三〇年)ごろがその完成期であったといってもさしつかえなかろう。”

 ショート・パス戦術の完成とともに日本は極東の頂点に立った。その後もショート・パス戦術は日本の基本戦術となり、サッカーの日本スタイルが定着する。

 試合の詳細については後藤健生『日本サッカー史・代表篇 : 日本代表の85年 : 1917-2002』(双葉社 2002)、山田午郎「覇権を目指して(結) 極東大会回顧」 『蹴球』第2巻第2号 1934.4 p.32-37 を参照されたい。

 なお、「引き分け同位優勝」の経緯については別項で詳述する。

27.3 全体の結果

 全体の結果は以下の通りである(左から1、2、3位)。

陸上(個人):日 比 中
陸上(団体):日 比 中
水上:日 比 中
野球:日 中 比
テニス:日 中 比
サッカー:日・中同位 比
バスケットボール:比 日 中
バレーボール:中 比 日

2年前、1928年オリンピック・アムステルダム大会の三段跳びと200m平泳ぎで初の金メダルを獲得して意気上がる開催国日本が、バスケットボール、バレーボールを除く全種目で優勝し、総合優勝した。バスケットボールはやっと最下位を脱したが、バレーボールは地元開催の本大会でも初参加以来の最下位を続けた。


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日本サッカー通史の試み(26) 協会理事選とFIFA加盟

 日本サッカー通史の試み⑩ 東京蹴球団の創立と活動でも述べたように、1921年の大日本蹴球協会設立時点ではサッカーはそれほど大学に普及しておらず、協会の中心となったのは東京高師、青山師範、豊島師範のOBチームであった東京蹴球団系の人々だった。初代理事7名中過半数の4名が東京蹴球団関係者だった。

 代表チームで主導権を握り、1927年極東選手権で初勝利する実績をあげた大学関係者は師範系関係者による協会運営に不満をもち、1929年の理事改選で「選挙工作」を行い、協会運営でも主導権を握る。その経緯は「日本のサッカー古代史(下)」(『サッカー』no.15 1962所収)という座談会で以下のように述べられている。

“新田(純興):「このあと協会の改造がありますね。日本サッカーは高等師範や青山、豊島の師範系の人がリードして来たんだが、大学の関係者が理事に多数送りこまれるようになっている。」
鈴木(重義):「昭和四年の改選だね。今や日本のサッカーが国際蹴球連盟(FIFA)に加盟して世界的に伸びるためには、ぜひとも大学の連中が出なければいかん。大学系の人たちが基幹となって全国的にまとめていこうといううんでやったんですよ。」
野村(正二郎):「僕らはそのころのことしか知らないんだ。今までの古代史はどうもネ(笑い)」
鈴木:「それで各大学の主だった人々が私の家に集まって、どうも協会はこのままではいかん。大改造をするか、つぶしてしまうかという動きが出ましてネ。私が遅く家に帰ると私の家は各大学の主だった人がもういっぱいに集まっていて今度の(昭和四年)改選期にはぜひ何とかしたいと協議中だった。そのころ大学出で協会の役員をしていたのは野津さん、岸本武夫さん、慶応の千野正人さんと僕。それが並び大名的存在だった地方代表の理事にも呼びかけて、従来のような白紙委任や、前回通りという投票ではなく、新らたに堂々と投票してもらいたいという運動をやったんだ。理事会の席上での野津さんとのチームワークも成功して、われわれの提案が採用された。その結果われわれの申し合わせた人達は最下点ではあったが、とにかく理事に就任した。その顔振れは、中島道雄、井染道夫、峯岸春雄、竹腰重丸の四人だった。その時の最高点は山田の午郎さん。」
新田:「しかも一年ばかりすると、その午郎さんを、運動部担当の新聞記者を理事にしておくのは具合が悪いといって辞めてもらったりしている。他の理事が辞めた時に例をみない記念品贈呈なんかをやってるところをみると、よっぽど苦心したんだネ。(笑い)」”

 1927年代表チーム主将だった鈴木重義(早大)が中心となり、当時まだ代表の現役選手だった竹腰重丸(東大)も参加している。改選後の理事の顔ぶれは常務理事:鈴木重義(早大)、理事:吉川準治郎(豊島師範)、野津謙(東大)、山田午郎(青山師範)、千野正人(慶大)、井染道夫(明大)、中島道雄(東大)、峯岸春雄(東京農大)、竹腰重丸(東大)となった。筆頭理事の鈴木で27歳、最年少理事の竹腰は23歳という若さだった。

 師範系と大学系が何をめぐって対立したかは不明である。1928年オリンピック・アムステルダム大会では陸上と水泳で金メダルを獲得し、両競技は世界を制していた。三段跳びの金メダリスト織田幹雄は早稲田大生で、鈴木の後輩にあたる。代表チームを構成し、大学体育会や体協で両競技と横並びになる大学系が「世界」を意識し、代表チームの水準向上により重きを置く協会運営を図ったようである。この後、鈴木と竹腰は代表チームも主導することになる。

 日本サッカー通史の試み⑯ 大日本蹴球協会の創立(3)で述べたように、1928年オリンピック・アムステルダム大会には野津謙が体協役員として参加し、当時アムステルダムにあったFIFAの役員と会合して、日本のFIFA加盟の内諾を得ていた。1929年5月にバルセロナで開催された第18回FIFA総会で日本の加盟は正式に承認された。なお、このFIFA総会は翌年の第1回ワールドカップ開催を決議した歴史的な総会でもあった。

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日本サッカー通史の試み(25) 東西大学争覇戦

25. 東西大学争覇戦

 1927年極東選手権上海大会で初勝利した日本代表が早稲田大学主体のチームであったことに象徴されるように、日本サッカーの最高峰は大学サッカーとなり、サッカーはカレッジ・スポーツ化した。日本サッカーのトップレベルのチームは関東、関西の大学リーグ1部の上位校となる。1929年には関東、関西の大学リーグ優勝校が対戦する、日本版チャンピオンズ・カップというべき東西大学争覇戦が始まる。最初の試合の3日前、1929年12月22日付『東京朝日新聞』は見出しで「蹴球界空前の決戦」と報じている。戦前は第1回1929年~第13回1942年まで13回行なわれた。結果は以下のとおり。

第1回 1929(昭和4)年12月25日 明治神宮外苑競技場 東大 3-2 関学
第2回 1930(昭和5)年12月28日 南甲子園運動場 東大 2-1 京大 JOBK 
第3回 1931(昭和6)年12月13日 明治神宮外苑競技場 東大 2-2 関学 JOAK第二放送(河西)
第4回 1932(昭和7)年12月12日 南甲子園運動場 慶大 2-1 京大
第5回 1933(昭和8)年12月10日 明治神宮外苑競技場 早大 5-2 京大 JOAK第二放送(河西)
第6回 1934(昭和9)年12月16日 南甲子園運動場 早大 6-0 京大 JOAK、JOBK第二放送(島浦)
第7回 1935(昭和10)年12月15日 明治神宮外苑競技場 早大 12-2 関学 JOAK第二放送(河西)
第8回 1936(昭和11)年12月13日 南甲子園運動場 早大 3-2 神商大 JOAK第二放送(島浦)
第9回 1937(昭和12)年12月12日 明治神宮外苑競技場 慶大 3-0 京大 JOAK第二放送(和田)
第10回 1938(昭和13)年12月4日 南甲子園運動場 関学 3-2 慶大
第11回 1939(昭和14)年12月10日 明治神宮外苑競技場 慶大 4-2 関学
第12回 1940(昭和15)年12月8日 南甲子園運動場 慶大 4-2 関学
第13回 1942(昭和16)年7月4日 明治神宮外苑競技場 東大 8-1 関学

 1921年大日本蹴球協会創立と同時に始まった全日本選手権(現在の天皇杯)もあったが、大学チームはリーグ戦を優先し、全日本選手権を軽視していた。『天皇杯65年史』(日本サッカー協会、1987)に「草創期から「ベルリン」後まで」と題する座談会があるが、東大OBの新田純興は以下のように述べている。

“鈴木(武士):早大WMW,慶応BRBなどはOB現役の混成チームですが、東大LBもそうだったのですか。
新田(純興):コーチのノコさん(竹腰重丸氏)があんまりやかましいので、のんびりやれるチームを作った(笑い)。学生リーグに出ているレギュラーでない連中が、全日本に出て勝ったんだよ。
鈴木:ということは、学生の意識は全日本より大学リーグの方が重要、ということだったんですね。
新田:そうです。LBの方は文句を言われないでやりたい、という連中の集まりだったんだ。”

 現在のヨーロッパ・チャンピオンズ・リーグが各国のカップ戦と比較にならないくらい重要視され、その決勝は「世界一」チーム決定戦とみなされているのと同様に、東西大学争覇戦は「日本一」チーム決定戦とみなされた。試合会場も当時のナショナル・スタジアムであった明治神宮外苑競技場と南甲子園運動場が隔年で使用され、東西でハンデがないように配慮されている。

 日本で最初にサッカーが(ラジオ)放送されたのも東西大学争覇戦で、第2回1930(昭和5)年12月28日に南甲子園運動場で行われた京大対東大戦だった。その後も1937年までほぼ毎年中継されており、この試合がいかに重要視されていたかの傍証となろう。東京のJOAKで中継を担当した河西氏とは1936年オリンピック・ベルリン大会中継の「前畑ガンバレ」で知られる河西三省アナウンサーである。ちなみに、英国(BBC)最初のサッカー中継は1927(昭和2)年1月22日のアーセナル対シェフィールド・ユナイテッド戦(於ハイベリー)であり、日英のサッカー初中継にそれほど時間差はなかった。

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1930(昭和5)年12月28日付大阪朝日新聞朝刊ラジオ欄

 13回の東西対決の結果は、関東の11勝1敗1分けで、関東の圧勝だった。「アウェー」の南甲子園運動場で開催された試合でも5勝1敗であり、大学サッカーは東高西低だったといえる。

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日本サッカー通史の試み(24) 極東選手権(代表戦)初勝利

24. 極東選手権(代表戦)初勝利

 1927年第8回極東選手権上海大会代表も予選会方式で決定された。山田午郎「覇権を目指して(四) 極東大会回顧」 『蹴球』第2巻第1号 1934年2月 p.10-13 によれば、第1次予選が北海道、仙台、東京、名古屋、京阪、兵庫、広島、九州、朝鮮の9地域で行われ、第2次予選が1927年7月29~31日に明治神宮外苑競技場で行われた。5地域の代表が出場し、結果は以下の通りだった。

1回戦 広島蹴球団(広島) 8-2 関大蹴球団(京阪)
2回戦 WMW(東京) 2-1 神戸一中倶楽部(兵庫) 広島蹴球団 6-3 八高(名古屋)
決勝 WMW 2-1 広島蹴球団

 早稲田の現役・OB混成チームであるWMWが優勝し、早稲田の選手が主力となった。代表チームは早稲田大(予科・OB含む)14名、水戸高2名、東京帝大1名(竹腰重丸)、法政大1名(西川潤之)で構成された。日本代表史上初めて大学チームがベースとなり、全員が大学生(高校・予科含む)、大学OBとなった。チョー・ディンの直伝を受けた東京高師附中OBが鈴木重義、本田長康(以上早稲田)、近藤台五郎、春山泰雄(以上水戸高)、西川潤之(法政大)と5名いる。さらに山口高校時代にディンのコーチを受けた竹腰重丸もいた。早大勢は4年前早稲田高等学院時代にチョー・ディンの指導の下、全国高等学校蹴球大会に優勝している。この代表チームは主将鈴木重義以下「チョー・ディンの弟子たち」のチームといえた。チョー・ディンについては「日本サッカー通史の試み⑳ チョー・ディンの登場と日本サッカーの高度化」参照。

 結果は、対中華民国戦1-5対フィリピン戦2-1で、対フィリピン戦で日本代表は国際戦初勝利した。7月31日に予選会決勝が行われ、1カ月足らずの8月27日には極東選手権本戦を迎えるというあわただしさだった。どれだけ準備ができたのかと思われるが、対フィリピン戦の先発イレブンは早稲田7名で、残り4名も東京高師附中OB3名と竹腰重丸であり、単独チームをベースに主将鈴木重義の中学校の後輩を補強した、息の合ったチームだったようである。従来の全国的補強が成果をあげなかったことを反省したのかもしれない。

 日本代表の初勝利はチョー・ディンの優れたコーチングを受けてショート・パス戦術をマスターし、大学に進学した選手たちによるものだった。日本の3得点はチョー・ディンの直弟子、竹腰重丸2点、鈴木重義1点(PK)。この2人は現役引退後もJFA、日本代表の指導者として日本サッカーを牽引する存在となる。

 全体の結果は以下の通りである(左から1、2、3位)。

陸上(個人):日 比 中
陸上(団体):日 比 中
水上:比 日 中
野球:日 中 比
テニス:中 日 比
サッカー:中 日 比
バスケットボール:比 中 日
バレーボール:中 比 日

 上海開催という「アウェー戦」であったが日本が総合優勝し、日本スポーツ界全体の躍進を示した。これまで最下位の常連だった3種目のうち、サッカーは最下位を脱したが、バスケットボール、バレーボールはまたも最下位だった。陸上競技と水上競技は翌年の1928年オリンピック・アムステルダム大会で初の金メダルを獲得することになる。


       

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日本サッカー通史の試み(23) 東京高等師範学校(東京文理大学)主催全国中等学校蹴球大会と関東中等学校蹴球選手権大会

23. 東京高等師範学校(東京文理大学)主催全国中等学校蹴球大会と関東中等学校蹴球選手権大会

 1926年から全国選手権化した大阪毎日新聞主催全国中等学校蹴球大会に次いで規模が大きく、当時の中等学校から重要視されたのが1924年から始まった東京高等師範学校(1929年から東京文理大学)主催全国中等学校蹴球大会である。1932年第9回まで行われた。本大会の特徴は、

1) 全国中等学校蹴球大会が地区大会を経た選手権であるのに対し、いわゆる「選手権」ではなく、オープン参加の大会である。
2) 全国中等学校蹴球大会が中学校・師範学校を区分しなかったのに対し、第1部:中学校、第2部:師範学校、と中学校と師範学校に区分していた。
3) 参加校は主として東日本であるが、京都から参加した例もある。

優勝・準優勝校は以下の通り。

第1回 1924年11月 1部 暁星中3-0豊山中 2部 豊島師範3-2青山師範
第2回 1925年9月 1部 東京高師附中3-1暁星中 2部 豊島師範0-0栃木師範(CK数で豊島師範勝ち)
第3回 1926年9月 1部 東京高師附中6-0成城中 2部 ?
第4回 1927年9月 1部 東京高師附中2-0東京府立五中 2部 青山師範6-2栃木師範
第5回 1928年9月 1部 東京高師附中3-2東京府立五中 2部 豊島師範3-2栃木師範
第6回 1929年9月 1部 東京高師附中2-0東京府立五中 2部 豊島師範3-2静岡師範
第7回 1930年9月 1部 東京高師附中3-1湘南中 2部 青山師範8-1鎌倉師範
第8回 1931年8月 1部 志太中2-1東京高師附中 2部 青山師範6-1鎌倉師範
第9回 1932年8月 1部 東京高師附中5-3志太中 2部 京都師範1-0埼玉師範

中学校にとって、開催月が8~9月で最上級生も参加しやすく、師範学校と対戦しないで同年代の中学校のみと対戦できることもあり、本大会を目標としていた中学校も多かったようである。東京高師グラウンドで開催されたので、中学校の部では自分の「庭」だった東京高師附中が圧倒的に強かったが、静岡の志太中(現・藤枝東高)が台頭しているのが注目される。

 本大会が1932年8月の第9回、東京蹴球団主催の関東蹴球大会が1933年1月の第15回で終了しているのは、1932年の野球統制令の影響だと考えられる。野球統制令は中等学校レベルでは商業目的で乱立した中等学校野球大会を整理するため、以下の制約が課せられた。

“イ、全国的優勝大会及び全国的選抜大会はそれぞれ年一回全国中等学校野球協会の公認の下に開催し得ること。但し明治神宮体育大会に関するものはこの回数に含まず。

ロ、地方大会(「府県対抗試合」又は参加学校が三府県以上にわたる試合をいふ)は関係府県の体育団体(第一項記載の事項参照)共同主催の下に同一地方に関し年一回に限り公認を受けて開催し得ること。”

 「野球統制令」ではあるものの、他競技にも準用されたらしい。サッカーでは「全国的優勝大会」は全国中等学校蹴球大会が該当したので、東京文理大学主催全国中等学校蹴球大会は開催できなくなった。また、東京蹴球団のようなクラブチームは地方大会を主催できなくなった。

 上記2大会に代わって1933年12月から関東蹴球協会主催東京朝日新聞後援関東中等学校蹴球選手権大会が始まる。本大会は関東1府6県+山梨県の地区予選を経た代表8校による「選手権大会」として開催された。中学校と師範学校の混合戦だった。決勝の結果と参加校は以下の通り。

第1回 1933年12月 豊島師範2-0埼玉師範(出場校:豊島師範、千葉師範、埼玉師範、神奈川師範、茨城師範、栃木師範、藤岡中、山梨師範)
第2回 1934年12月 韮崎中4-1府立五中(出場校:府立五中、神奈川師範、千葉師範、埼玉師範、水戸中、栃木師範、藤岡中、韮崎中)
第3回 1935年12月 豊島師範4-2埼玉師範(出場校:湘南中、千葉師範、真岡中、豊島師範、韮崎中、水戸中、埼玉師範、藤岡中)
第4回 1936年12月 豊島師範2-1韮崎中(出場校:豊島師範、埼玉師範、千葉師範、茨城師範、湘南中、韮崎中、藤岡中、宇都宮中)
第5回 1937年12月 青山師範2-1埼玉師範(出場校:埼玉師範、千葉師範、藤岡中,湘南中、韮崎中、茨城師範、青山師範、烏山中)
第6回 1938年12月 青山師範4-2埼玉師範(出場校:青山師範、千葉師範、湘南中、埼玉師範、水戸中、藤岡中、韮崎中、宇都宮中)
第7回 1939年12月 豊島師範1-0湘南中(出場校:湘南中、水戸商、宇都宮中、浦和中、藤岡中、千葉師範、豊島師範、韮崎中)
第8回 1940年12月 湘南中2-1明倫中(出場校:豊島師範、湘南中、水戸商、烏山中、甲府商、藤岡中、明倫中、浦和中 藤岡中は出場辞退)
第9回 1941年12月 湘南中2-1青山師範(出場14校は推薦による 東京府立九中、安房中、茨城工、浦和中、暁星中、湘南中、埼玉中、東京高尋常科、宇都宮中、青山師範、韮崎中、千葉師範、豊島師範、小田原中)

本大会は東京朝日新聞後援だったので、最後の大会まで同紙が詳報している。


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竹内至著『日本蹴球外史』における第5~8回極東選手権代表選手の出身校

竹内至著『日本蹴球外史』(竹内至 1991)に第5~8回極東選手権代表選手の出身校が掲載されている。代表TIMELINEにも所属チームは記載されているが、出身校は記載されていないので、代表チーム構成の変化を知るには重要な資料と思われる。全員ではないが判明した分だけのようである。

1921年第5回極東選手権上海大会 (p.19)

清水芳介 豊島師範卒
露木松雄 青山師範卒
守屋英文 豊島師範卒
大橋準  青山師範卒

1923年第6回極東選手権大阪大会 (p.36)

原田福三郎 明星商卒
深山静夫 慶大 広島一中卒
日高卯三郎 明星商卒
神田清雄 明星中(ママ)卒(注:明星商が普通科になるのは戦後なので明星商だと考えられる)
藤原良夫 御影師範卒
清水直右衛門 神戸高商 広島一中卒
井上俊平 御影師範卒

1925年第7回極東選手権マニラ大会  (p.58)

宮地利雄 都島工卒
大山義松 関学卒 市岡中卒
神田清雄 同志社卒? 明星商卒
八田卯一郎 明星商卒
高田正夫 関学 明星中卒(注:明星商が普通科になるのは戦後なので明星商だと考えられる)
香川幸 京大 六高卒
安積四郎 明星商卒
高橋栄 都島工卒
丸谷清之介 明星商卒
原田福三郎 明星商卒

1927年第8回極東選手権上海大会 (p.78)

出身中学校のみ転載

本田長康 東京高師附中
近藤台五郎 東京高師附中
鈴木重義 東京高師附中
杉村正三郎 天王寺中
有馬暎夫 記載なし
高師康 浦和中
高橋茂 佐倉中
玉井操 明治学院中
春山泰雄 東京高師附中
竹腰重丸 大連中
西川潤之 東京高師附中
瀧通世 市岡中
杉村正二郎 (暁星中) (注:天王寺中ではないかと思われる)
横村三男 横浜二中
鈴木義弘 早稲田中
伊藤聖 横浜二中
 

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日本サッカー通史の試み(22) 極東選手権での敗退続くも代表チームには変化が 

22. 極東選手権での敗退続くも代表チームには変化が

 1923年第6回極東選手権大阪大会は、第4回大会に参加をを拒否した体協が同大会に参加した大阪の日本青年運動倶楽部から参加権を回復した代償として、大阪で開催された。この大会の代表チームも勝ちぬき方式で、第2回全国優勝競技会が予選会を兼ねた。1922年11月に4地域予選の勝者が準決勝、決勝を戦った。結果は、

準決勝 名古屋蹴球団 2-1 大阪サッカー倶楽部 広島高師 3-1 アストラ倶楽部
決勝 名古屋蹴球団 1-0 広島高師

で名古屋蹴球団が優勝したが、代表チームとなるにはさらに代表決定戦で「挑戦チーム」を退けなければならなかった。挑戦チームには東京蹴球団と全国優勝競技会で名古屋蹴球団に敗れた大阪サッカー倶楽部選手を主体とする関西サッカー倶楽部が名乗りを上げた。名古屋でまず挑戦者決定戦が行われ、関西サッカー倶楽部が東京蹴球団を3-1で破った。決勝戦は3回戦方式で行われ、2勝1敗で関西サッカー倶楽部が代表となった。不可解極まりない代表決定法だが、「どうしても地元大阪から代表選手を」という思いが働いたのかもしれない。

 代表チームは明星商、関学のOBクラブである大阪サッカー倶楽部9名、広島一中のOBクラブである鯉城クラブ4名、東京蹴球団1名(清水隆三)で構成された。関西、広島、東京のチームから代表選手が構成されているのは、全国優勝競技会の開催によりサッカーの全国交流が始まった成果であろう。

 地元開催にもかかわらず、結果はまたしても対フィリピン1-2対中華民国1-5と全敗であった。対フィリピン戦で1点差まで縮め、対中華民国戦では初得点を記録した。対中華民国戦の得点者は清水直右衛門(鯉城蹴球団 広島一中→神戸高商)で、広島出身者の代表初ゴールであった。試合経過の詳細については、安達太郎(山田午郎)「覇権を目指して」 『蹴球』第6号 1933.10 p.5-8 を参照されたい。

 全体の結果は以下の通りである(左から1、2、3位)。

陸上:日 比 中
水上:日 比 中
野球:比 日 中
テニス:日 比 中
サッカー:中 比 日
バスケットボール:比 中 日
バレーボール:比 中 日

地元開催にもかかわらず、サッカー、バスケットボール、バレーボールはまたしても最下位であったが、他競技の成績により日本が総合優勝した。 

 1925年第7回極東選手権マニラ大会の代表も予選会方式で選ばれた。

準決勝 大阪サッカー倶楽部(関西代表) 2-1 早稲田大学(関東代表) 広島黒猫(中国代表) 5-0 岐阜蹴球団(東海代表)
決勝 大阪サッカー倶楽部 1-0 広島黒猫

 代表チームは前回同様大阪サッカー倶楽部(8名)を中心に、関学(5名)、関大(1名 三宅二郎)、京大1名(香川幸 広島黒猫に参加)、東大1名(竹腰重丸 広島黒猫に参加)で構成された。この時点で関東、関西で大学リーグ戦が始まっており、日常的にリーグ戦を戦っている現役大学生が代表でも活躍し始めていることが注目される。大阪サッカー倶楽部には大山義松(市岡中→関学)のような大学OBが含まれているので、この代表から大学生・大学OBが過半をしめるようになる。

 過去、東京、上海、大阪と温帯地域で開催された大会のみにしか参加しておらず、マニラの気候になじめないでフィジカル・コンディションの調整に失敗し、対フィリピン0-4対中華民国0-2で2試合とも零敗した。試合経過の詳細については、山田午郎「覇権を目指して(三) 極東大会回顧」 『蹴球』 第7号 1933年12月 p.2-5 を参照されたい。なお、この大会の代表監督は山田午郎であったのだが、山田はこの記事で代表編成の経緯詳細に言及していない。

 全体の結果は以下の通りである(左から1、2、3位)。

陸上:比 日 中
水上:日 比 中
野球:比 日 中
テニス:日 比 中
サッカー:中 比 日
バスケットボール:比 中 日
バレーボール:比 中 日

サッカー、バスケットボール、バレーボールは初参加以来の最下位を続けた。水上とテニスは「アウェー戦」で優勝しているが、極東選手権参加以来初の快挙であった。

 1923年、1925年の両大会は全敗ではあったものの、日本代表チームの構成をみると、全国大会や大学リーグ戦の開始のような日本サッカーの発展を反映して、

1) 代表選手所属チームの全国化
2) 代表選手の高学歴化

が進展していた。成果こそ伴わなかったものの、日本代表は着実に進化していたのである。
 

  

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