中等蹴球大会の全国選手権化についての毎日新聞関係者の回想
“全国予選制の実現
元毎日新聞事業部
中村元一
全国高校サッカー大会も40回になった。大毎フットボール大会が誕生した豊中は私には思い出の地である。豊中運動場は大正2年に出来上がったが、その少し前から阪急宝塚線(当時箕面有馬電車)岡町(豊中市桜塚)に出来た新住宅地に私は住んでいたので豊中運動場が近く、そこで色々の催し物がある時にはよく見に行った。また私もその催しに2、3回参加したことがある。
フットボール大会の第1回はちょうど東京にいたものだから見れなかったが、第2回大会の時は(大正8年1月)帰阪していたので見る事が出来た。たしかサッカーの決勝戦は御影師範と明星商業で御影師範が優勝し、ラグビーは三高が優勝したことを覚えている。また11年の第5回大会に早大蹴球部(ラグビー)が出場したので、それには私も参加したりしてフットボールにはいろいろ関係を持っていた。
●盛んになったア式蹴球
大阪毎日新聞に入社したのは大正13年3月で、その時分は日本の運動界の勃興期であった。長らく中絶していた早慶の対抗競技が11年の秋にラグビーで復活し、12年には大阪で第6回極東選手権競技大会(今のアジア大会の前身)が催され、13年にはパリで第7回オリンピック大会があって日本選手が多人数出場して初めて入賞した。その年の夏には阪神甲子園の大運動場が出来たりして運動競技は次から次へと盛んになって行った。毎日新聞で私のはじめての仕事は事業部だったので運動関係の仕事をすることになり野球、庭球、蹴球、水泳などを次々とやらされた。当時の運動課長は木下東作さんだったが、たまたま豊中運動場が住宅地になってなくなった時なのでフットボール大会を別の所で催すため、あちこち捜さなければならなかった。ちょうど甲子園球場が出来たので阪神電鉄の山口覚二さんに世話になった結果同運動場を使う事になり、第8回大会は大正14年1月7日から3日間阪神沿線鳴尾、甲子園、甲陽中学のグラウンドと3ヵ所を使って開催した。(サッカーはア式蹴球と云いラグビーはラ式蹴球といっていた)。中等学校サッカーは常勝の御影師範が敗れて神戸一中が優勝し、ラグビーは京都一商が優勝した。専門学校サッカーは早稲田高等学院がラグビーは三高がそれぞれ優勝した。
●8地区で全国予選開始
第8回大会がすんだ時委員会で参加校が多くなったから予選制をやらないかと云う話が出たので、それを木下さんに話した所それでは奥村さん(当時編集総務奥村信太郎氏、後の毎日新聞社長)に相談してみようといわれた。その結果翌年から中等学校蹴球大会と高等専門学校大会とに分けてそれぞれ全国予選を行うことになり、中等学校サッカーは(大阪、和歌山)、(兵庫、山陰)、(京都、滋賀、奈良)、(関東北)、(西部)、(北陸)、(東海)、(鮮満)の8地区で開催した。その後大会が発展するにつれて甲子園の南運動場も出来るしサッカー界はますます盛んになって今日に至った。
日本フットボール大会に関しいろいろの思い出もあるが、第10回大会(昭和3年)鮮満代表の平壌崇実中学が優勝した事は一つの話題だった。特に大会に色々協力して頂いた方々は野津謙、範多竜平、下出重喜、田辺治太郎(五兵衛)、大阪サッカーの神田、原田、杉本貞一、富樫与一、久富達夫、中島道雄の各氏でその他大会運営には各方面の方々にお世話になったのでこの機会に御礼を申上げたいと思う。
(毎日新聞社々友)”
全国高等学校体育連盟サッカー部編『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部 1983) p.37-38
実際の第9回大会の予選区分けは(大阪・和歌山・奈良)、(兵庫)、(京都・滋賀)であり、上記は第10回大会の区分けと混同しているようです。
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