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ユース・レベルにおけるアメリカの女子サッカー

『Soccer & society』誌に掲載された以下の論文(無料全文アクセス可)による。数値の出拠は原論文の参考文献を参照されたい。

Andrei S. Markovits & Steven L. Hellerman (2003): Women's soccer in the United States: Yet another American ‘Exceptionalism’, Soccer & Society, 4:2-3, 14-29

1. ユース・サッカー人口は男女とも急速に拡大している

ユース・サッカーの3全国組織、American Youth Soccer Organization(AYSO)、United States Youth Soccer Association(USYSA)、Soccer Association for Youth(SAY)の登録人口は、

1980年  888,705人
2001年 3,884,423人

と20年間で4.37倍に増加。ユース年代ではサッカーは野球を凌ぎ、バスケットボールに次ぐ2番目の人気スポーツとなった。

2. ユース・サッカーでは女子の競技人口が男子を凌いでいる 

・American Youth Soccer Organization(AYSO)の2001-2002年の6~18才登録者数は、

女子 348,000人
男子 317,000人

で女子の方が多い。

3. ユース・レベルでは男子サッカー人口は減少しているが、女子は増加している

スポーツ用品製造協会(Sporting Goods Manufacturers Association)によれば、サッカー参加者(participants)は、

1987年 100人中 男子 9.0人 女子 5.4人
2001年 100人中 男子 8.6人 女子 6.7人

で男子は4.4%減、女子は24.1%増。参加者(participants)の定義は、前年に一度でもサッカーをしたことがあるというもの。6~11才では男子490万人(38%)、女子390万人(31%)、12~17才では男子306万人(24.1%)、女子313万人(25.1%)のサッカー人口がある。

4. 高校女子サッカー部の人口も急速に増大している 

1980-81年  41,119人
2000-01年 292,486人

と20年で7倍に増加した。

これら草の根レベルでの普及が、大学、プロリーグ、代表チームの基盤となっている。

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武井群嗣『厚生省小史 私の在勤録から 』(厚生問題研究会 1952)

1941年2月号の『少女倶楽部』で大政翼賛会生活指導部副部長だった野津謙はしきりに健康と体力の向上を説いているが、国民の健康・体力の改善は同時代の国家目標でもあり、それを専管する厚生省が1938年に内務省から分離独立している。第一次近衛内閣時代のことである。

その厚生省の5代目事務次官として1941年11月~1944年4月に在任した武井群嗣の回想録。武井は1917年第3回極東選手権にサッカー日本代表として出場した最初の日本代表の一人。1921年創設の大日本蹴球協会初代理事の一人でもある。没落した地主の家に生まれ、苦学して群馬師範から東京高等師範学校、京都帝国大学法学部卒業後、内務省に入省した。官選の山口県知事から1941年8月に厚生省に新設された人口局長に転じ、同年11月事務次官に昇格。サッカー日本代表から官僚のトップ事務次官になった異色の人物である。

本書で多少なりともサッカーに関わる部分は「体育練成」の章において明治神宮国民体育大会の開催に言及したことくらいで、

“嘗て極東選手権競技大会に日本代表選手として出場し、後大日本蹴球協会を創設した体験から、時局下体育運動を一層活発化する必要を痛感した私は、人口局設置前既に開催中止と決定済の神宮体育大会を、万難を排して復活実施する決意を固め、大臣を始め、陸軍、文部、鉄道その他関係官庁を歴訪して協力を要請した結果、幸に情勢好転して、これを断行し得ることとなった。それを公表したのは昭和十六年九月一日のことである。”(p.81)

と記されている。学校体育を所管する文部省、武道を所管する陸軍と、選手そっちのけでいつに変らぬ熾烈な縄張り争いをしていたことも記されている。

興味深いのは、内務省から「分家」した厚生省には人事権がなかったことである。地方行政、警察、土木のような「花形」部門が内務省に残り、社会、衛生のような地味な仕事しか厚生省にはなかったので、厚生省員の士気を保ち、内務省から優秀な人材を確保するため、厚生省から内務省の官選知事に転出できるよう、両省の人事を内務省が一元管理していたそうである。知事ポストは数十あるので、高等文官試験に合格して内務省に入省すればだれでも「知事閣下」にはなれたようだ。武井の経歴からみると、知事ポストは本省課長の上、本省局長の下だったようである。人事に限らず重要案件は何事も内務省の了承なしには決められなかった厚生省は「満州国」と陰口されていたそうだ。満州国が日本の傀儡であるように、厚生省は内務省の傀儡であるという意味である。

人事権がないということは、官僚に対して大臣のニラミが効かないということでもあり、当然厚生大臣は人事権を内務省から奪回したがっていたことも記されている。武井が次官として仕えた厚生大臣は小泉親彦という陸軍軍医(陸軍医務局長)上がりの軍人。武井の在任期間は東条内閣時代と完全に重なるのであるが、軍医といえども職業軍人、元陸相の総理の「上官命令」には全然逆らえない人物であった。

“労務動員問題などで、今日省議で右と決定した事が、翌日掌を反す如く左に変ったり、栄養学者として反対した玄米食の奨励を、自ら提案するに至っては、部下をして、その真意の那辺にあるかを疑はしめ、「適従する所を知らず」と歎ぜせしめるのも、強ち無理とは言はれまい。”(p.15)

玄米食については、別に「国民生活」の章に「玄米食普及の問題」という一項をたてている。

“玄米食の問題が朝野の間に論議され出したのは、昭和十七年の春、所謂長期戦の段階に入った頃からである。衆議院の請願となり、大政翼賛会中央協力会議の議題となり、或は栄養の点から或は食糧確保の見地から、これを国民の主食として決定せよ、と主張するのである。勿論、これには、日本学術振興会、厚研国民栄養部を初め、学者の間に有力な反対があった。小泉博士もその一人である。然し、東條首相が玄米食愛用者だと伝はったことから、巷間所謂玄米家の輩出を見るは勿論、閣議の日に官邸で玄米食の炊き方食べ方を実演する学者が出たり、地方長官会議でこの普及を進言する知事があったり、大政翼賛会の首脳部がこれを推進する態度に出たことから、世は滔々として玄米食時代を現出するかに見えた。果せる哉、それが遂に政府の問題として取上げあられた。・・・”(p.109)

米の配給が玄米になったので、白米を食べたければ、家庭で精米する必要があった。戦時中の写真でビール瓶に米を入れて棒のようなもので搗いているのがあるが、それが家庭での一般的な精米法だったらしい。玄米の配給は、白米に精米すると嵩が減るというミミッチイ理由もあったようである。→戦時中の生活 1:自宅で米を搗(つ)く

東条が玄米食主義者と知ったとたんの茶坊主ぶりが・・・ しかし、玄米食を原子力に置き換えればあまり昔のことを笑えない気がする。

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「子供と大政翼賛お話会」における野津謙の発言

「子供と大政翼賛お話会」『少女倶楽部』19(2) 1941.2 p.66-77 は座談会形式で大政翼賛会を少女向けに説明したもの。出席者は加藤武雄(作家)、佐々木鶴一(東京市高田第五小学校)、入沢文明(大政翼賛会宣伝部副部長)、野津謙(大政翼賛会生活指導部副部長)、江藤俊明(東京市鶴巻小学校)、香川綾子(大政翼賛会生活指導部)。

野津謙第4代JFA会長は、東大医学部卒の医師であり、医学関係の著作が多い。社会医学方面でも活躍し、大政翼賛会、大日本産業報国会の要職にもついていて、この面での著作も多い。戦前のものは堅いものが多いので、その中からひとつ児童向けのものを紹介したい。司会者の質問と野津の回答のみを抜粋。

新体制の心構え

記者:では、そのやうな新体制下にある現在の日本の子供は、どんな心構えでゐたらよいでせう。

野津:ここに雄鶏と雌鶏がゐたとします。鶏一家を栄えさすためには、雌鶏が卵をうんで、それをかへして育てて行かねばなりません。日本の歴史をこの鶏の一家にたとへると、明治維新の時に幾つもの卵がうまれたわけで、うむ時雌鶏も大へんな苦労をしたし、まはりの雄鶏も雌鶏を助けて苦労して来たのでした。そして、どんな方針で育てて行かうかと考へた末、外国の文化を取入れて育てたところ六十年たち七十年たつうちに、りっぱに成長し大きな鶏が出来、一家は繁栄しました。ところがその鶏兄弟がどうかすると自分本位になり勝ちで、利己主義で、わがままなのです。せっかくりっぱに育ってみたものの、この鶏兄弟の欠点は何とかしなければなりません。即ちこれが今までの日本の姿であったのではないでせうか。ところが、今日またこの鶏一家は卵をうむ時機になってゐます。どんな卵をうんだらよいか。その苦しみを今の日本は経験してゐるのであります。うんだ卵を雛にかへして、りっぱな鶏に育て上げるには、自分本位、わがまま勝手はいけません。やはり鶏一家全体といふものを考へた育て方をせねんばなりません。育て方の悪かった鶏一家フランスなどは、もう潰されてしまひましたが、うむのにも大へんな苦労をしたし、うんでかへして鶏に育て上げるのにも一そう苦労した模範家族のドイツなどは、日本の育て方を真似しながらりっぱに栄えてゐます。今後の日本は、よい卵をうみ、雛にかへしりっぱな鶏に育て上げて永久に栄えなくてはなりません。つまり世界一番の鶏家族につくり上げなければならないのでありまして、これが今日の日本の進むべき方向です。それには自分だけうまい物を食べたり、自分だけ楽をしたり、自分だけ出世して外の者はちっともかまはないだといふ考へは捨て去らねばなりません。こんな考へ方、心構が新体制の心の持ち方であると思ひます。

大政翼賛の道

記者:それでは、次に大政翼賛とはといふことはどんなことか・・・・わかりやすく御説明下さい。

野津:今日本は支那大陸でもう五年も戦争を続けて居りまして、多くの若い人たち、あなた方のお兄さんや、お父さん叔父さん方が戦場に行って働いて下さってゐます。これも大政翼賛の道ですが、子供としては、この通りをそのまま真似ることは出来ませんね。いったいこの戦争はいつまで続くか、我々国民としては永久の戦争になってもいいといふ覚悟をもたねばなりません。さうなると、今の子供さんが十年もたてば体もりっぱになるし、もう一人前の女子となって世の中のため、お国のために働かねばなりません。それには学校で一生けんめい勉強することも必要ですが、勉強ばかりしてゐて体の弱い人間になっては役に立ちません。そこでどうしてもこれからの子供は、自分の体を国家のお役に立つやうに毎日鍛へて行くことが肝心です。健康な体を作ってほんたうに国家のために身を捧げるのだといふ決心をもって体を鍛へることは大切なことで、大政翼賛の一つ道だと思ひます。朝は早く起きて自分のことは自分でする、よくお母さんのお手伝ひする。台所の仕事もお使もする。ことに拭掃除は女子の健康に非常によい。女中さんをごらんなさい。りっぱな体格をしてゐます。今後の女子は柳のやうな体ではだめです。

これからはどんな子供が必要か

記者:それではこれからの子供はどんな子供でなくてはなりませんでせうか。

野津:先づ何といっても体の丈夫な健康な子供、どんなことも堪へられるだけの旺盛な体力を持ってゐることが必要であります。”

国家を鶏一家に例えているのは、昔は鶏を飼っている家庭が多かったっからだろうか。“育て方の悪かった鶏一家フランスなどは、もう潰されてしまひました”がシャレになっている。

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竹腰重丸のサッカーに関係ない著作

日本サッカー黎明期に東京高等師範学校の中心選手だった新帯国太郎は、没後専門誌『地学』に追悼特集号が出るほどの地質学者でもあった。戦前のサッカー選手はアマチュアで概して高学歴だったので、「本職」でも著作のある人が多い。

戦前のミスター・サッカー竹腰重丸は、1927年第8回極東選手権で日本代表国際線初勝利時の選手、1930年第9回極東選手権初優勝時の代表主将、1936年ベルリン・オリンピック代表コーチ、1956年メルボリン・オリンピック代表監督、日本蹴球協会理事長とそうそうたるサッカー歴の持ち主。東大時代、サッカーをやるために実験の多い薬学部から農学部(農業経済学)に転部し、卒業後帝国農会に就職した。

竹腰重丸(訳)「オーストラリアに於ける小混合農業の経済状態」『帝国農会報』 20(7) 1930.7 p.64-68 
 「Economics of small mixed farming in Australia」『International review of agriculture』pt.2 1930.1の翻訳。

竹腰重丸(訳)「ラトヴィアに於ける穀物専売問題」『帝国農会報』 20(10) 1930.10 p.82-86
 「The problem of the grain monopoly in Latvia」『International review of agriculture』pt.2 1930.1の翻訳。

記事が掲載された1930年は竹腰が主将として優勝した第9回極東選手権と同年。ベルリン・オリンピック対スウェーデン戦と並ぶ戦前日本代表の名試合となった対中華民国戦は3-3で引き分けた。この試合竹腰(たけ“のこ”し)は、

“ノコさんはパスの起点となり、相手の強力なFWを抑える守りの軸となった。
 延長戦はなく、3-3で引き分けとなったあと、全力を尽くしたために歩けなかった。体格の良い田辺五兵衛が背負ってすぐ近くの合宿所、日本青年館へ運んだ。
「途中で背負いなおそうとしたら、彼はズルズルと落ちてしまった。ボクの肩に手をかける力も残っていなかった。全力をしぼって戦ったのだなと思った」(五兵衛の話)”「第17回 竹腰重丸(3)ひたむきに極東の王座へ 上海でフィリピンに勝ち 東京で中華民国と3-3」(賀川サッカーライブラリー)

と、試合後立ち上がれないほど大奮戦したが、サッカーだけをやってたわけでもなかったのである。

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目障りなフラッグ

がウチのマンションの出入口に

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近所の中学校は権田の母校らしい

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さすが日本代表GKをOBにもつ中学校。正門とゴールポストが近い!

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新帯国太郎が満州で油田を見つけていたら・・・

わが国サッカー黎明期に東京高等師範学校のサッカー選手だった新帯国太郎は1924年以降満鉄地質調査所技師として満州の資源探査に携わっていた。小松直幹「満州における日本の石油探鉱」『石油技術協会誌』 70(3) 2005.5 p.250-258 によれば、満州事変(1931年)以前の1929年に、中ソ国境満州里近くのジャライノールにおける油兆を新帯が調査したのが、満州における日本の石油探鉱の最初だったようである。満州事変後、全満州を支配下に置いた日本はジャライノールと阜新の2か所で本格的に石油探鉱を行ったが成功しなかった。太平洋戦争が開戦し、オランダ領東インド(インドネシア)の油田地帯を占領すると、石油探鉱機械はそちらに優先使用され、満州の石油資源開発の可能性はなくなる。戦後、旧満州地区の大慶や遼河で油田が発見されたが、戦前の日本の石油探鉱技術水準ではこれらを発見するのは難しかったようである。

しかし、もし戦前の満州で日本が油田を発見し、大日本帝国が石油を自給できたなら・・・、「南進」論は弱まり、ヒトラーが期待した「北進」が実現し、独ソ戦はドイツが勝利し、蒋介石も抗日戦をあきらめたかも・・・

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』やジョー・ウォルトンのファージング3部作のような歴史改変小説を、新帯国太郎も主要登場人物にして誰か書かないかな。新帯の在満時代の満州には石原莞爾、板垣征四郎、土肥原賢二、東条英機、岸信介、川島芳子、溥儀、鮎川義介などメチャ濃いキャラの面々がいっぱい。満州が舞台の大河小説『人間の条件』の著者五味川純平は、大連中学における竹腰重丸の後輩にあたる。

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新田純興「新帯国太郎先生が我が国サッカーの初期から尽された功績の一端」

新田純興「新帯国太郎先生が我が国サッカーの初期から尽された功績の一端」『地学』22(11/12) 1971 p.440-442 は、『地学』誌の地質学者新帯(にいのみ)国太郎追悼特集号に掲載された追悼文。他の追悼文が新帯の地質学への貢献について述べているのに対し、学術専門誌『地学』に新帯のサッカーへの貢献について書かれた異色なもの。

新帯国太郎は1882(明治15)年愛知県知多郡知多町生。
1899(明治32)年愛知第一師範学校入学、1903(明治36)年同卒業。
内海小学校訓導を経て1904(明治37)年東京高等師範学校入学、博物学専攻。同年卒の中村覚之助とは入れ替わりになる。同年蹴球部入部。
1908(明治41)年2月9日の対Yokohama Cricket & Athletic Club戦初勝利にGKとして出場。同年刊の日本2番目のサッカー専門書『フットボール』(大日本図書, 1908)の共同執筆者となる。同年東京高等師範学校卒業。→「草創期の東京高等師範学校のサッカー 対YCAC戦と2冊の専門書
群馬県女子師範学校教諭を経て1909(明治42)年東京高等師範学校研究科(地質鉱物学科)入学、1912年卒業。
1912~1918年滋賀県師範学校教諭。1917年第3回極東選手権に出場した最初の日本代表イレブンのうち4人は滋賀師範出身、師範学校時代に新帯の指導を受けたと考えられる。→「最初の日本代表の出身校
1918年南満州鉄道に転職、奉天中学校教諭、1920年現職のままアメリカ留学、1921年コーネル大学大学院入学、1924年卒業博士号取得。同年満鉄復帰。
地質調査所技師として1947年まで在満。同年引き揚げ、占領期間中進駐軍顧問。
1952年愛知学芸大学地質学講師。
1971年没。

下記によれば、戦後浦和市立高校サッカー部を全国制覇に導いた鈴木駿一郎とは満州時代に同じ仕事をしていたようである。

新田純興「新帯国太郎先生が我が国サッカーの初期から尽された功績の一端」『地学』22(11/12) 1971 p.440-442

“先生は現在の日本蹴球協会という組織の時代に入る前の古い初期、全くの未開の時代に新しい力となり、光を与えて下さった方なのに、最近まで正確な資料を整理することができないでいました。幸にして、東京高等師範学校校友会誌が創刊号から発見され、蹴球部に関する部分の複写を借用できたので、極く簡単に先生に関係のある個所を書いてみます。

 明治37年4月に東京高等師範学校に入学されると、上級生の勧誘が縁で蹴球部に入部されました。当時の指導者は35年に欧米視察から帰国された生徒監であり蹴球部長である坪井立道教授でした。やがて同年9年(ママ)スコットランド生れの英国人の英語講師デ・ハビランド(De Havilland)が本務の傍ら自分の愛好するフットボール(サッカー)を生徒と共に行ない、体験を通じて実技を指導してくれました。

 新帯先生は以前テニスをやって運動神経のよいものを持っておられたので、サッカーでも一番最後方の守り、ゴールを守るゴールキーパーとなられましたが、日本人として外人チームと行った第2回目の試合を38年1月28日に横浜でやった時には左のフルバックをしておられました。

 デ・ハビランド先生は39年7月で2年の任を終え高師を去られましたが、その頃新帯先生の手元へ、小学校時代の同窓でエディンバラ大学に留学している者に頼んでおいた、イギリスのフットボールの参考書が5冊届きましたので学業の余暇日夜これを精読、翌40年の夏期休業中、蹴球部の友人3人(ママ)浅間山の山麓にある新鹿沢温泉に立て篭りこれら資料から得た知識と3年間の体験、外人チームと試合した経験などを織り込んで日本人向けに新しく、全く新しく参考書を書き上げられたのです。これは秋の新学期になって更に筆を加えたり、組み替えもした上で、校長嘉納治五郎先生の校閲を受け、“Football”という名で大日本図書会社から1,000部の単行本を刊行することができました。実に明治41年6月のことでした。これは近年しきりに嘉納校長の手元へフットボールというゲームを教えてほしい、指導の方法に便を計ってほしいという手紙が来るのに対応する上に又とない便宜を与え効果をあげることができたといわれました。

 一方、本科2年の時代に蹴球部理事、本科3年になると理事から主事となって校内の指導・運営・連絡の中心要務に当られ、校外に対しては青山の京都府師範学校(ママ)、地方では栃木県・茨城県・群馬県・山形県などの師範学校へ迄、実地指導に出向されています。外人との試合は大塚の校庭でも行なうことができるようになり、明治41年1月25日、2月1日、2月9日と三回続けて1:0、4:1、2:1と連勝し、若人の血を高鳴らせ都下の新聞は大々的な報道をし、同好の士は大きな希望と喜びに湧いたという痛快事がありました。学校当局としてもここ数年の練習振りや研究努力を十分認めてくれたのですが、何といっても我が国サッカーの発展史上決して忘れられない大功績であります。

 博物科を卒業されて後、研究科生として又教授の副手として高等師範に居られた時代、校内大会や校外から来るチームとの試合にもよく審判の笛を吹いておられる記録もありますが、省略し、こうした後輩の指導は滋賀県師範学校に赴任後は京都・奈良・御影・姫路など関西各地に及んでいます。

 満州に在勤されました頃、八高・東大の蹴球部OBである鈴木駿一郎と共に各地の地質調査という本務に当られる傍ら、満人青年の愛好するスポーツサッカーを奨励されました。晩年愛知県に寓居されてからは表面には立たれませんでしたが、サッカーに対する熱意は少しも衰えず、英字新聞を通じて外国のサッカー情報を読んでおられ、お孫さんを通じて若い人のために力となって居られた若々しい熱情には敬服の他ありません。

 日本のサッカーが東京オリンピック以来目ざましい発展をみつつあることは喜びに絶えないところではありますが、日本のサッカーは他の国での体・肉体から覚えたサッカーとは異り、本格的に正しく知的に頭で覚え込んだという特質をもっています。又礼節の正しいという事も、高師系統で永年広く根をひろげてあった結果だと思います。若さの勢いだけで動いていったのではあのメキシコオリンピックでのフェアプレー賞、ユネスコからの1968年度という1カ年間全世界のあらゆるスポーツ界からただ一つ選び出されたクーベルタン・フェアプレー賞(金メダル)は手にすることは出来なかったと思います。遠く明治という時代から坪井先生・新帯先生という筋で、サッカーという競技の正しい立法精神の上に技術面を開発して下さった新帯先生の功績を今年9月10日、日本蹴球協会創立50周年の祝賀に当り、協会創立前の功労者第1号としてお迎えし表彰も申し上げ、又共に将来の発展についてお話を承りたいと準備をしていたのでありました。

 古い校友会誌が我々の目に触れられるようになった機縁に一度お尋ねしたいと思いつつ仕事に追われていた事を申し訳けなく残念に存じます。 (昭和46年2月)”

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『イレブン』掲載新田純興著「サッカーの歴史」

蹴球亭さんにご教示いただいた『イレブン』掲載新田純興著「サッカーの歴史」は、FAが創立され、統一ルールができるまでの世界サッカー史。

1972.10 元祖はメキシコの神聖ボールゲーム? p.114-118
1972.11 2千年前kら行なわれていたユーゴスラビア地方 p.122-124
1972.12 前漢時代からあった中国の蹴鞠 p.124-126
1973.1 英国・・・・・ボールの代用に家畜の頭? p.144-146
1973.2 元祖は敵の大将の首蹴り遊び? p.124-126
1973.3 不祥事防ごうと国王が禁止命令 p.124-126
1973.4 禁止令に背く者は重い罰金刑 p.124-126
1973.5 陽が当たり始めた英国フットボール p.124-126
1973.6 学生には甘かった禁止令 p.158-160
1973.7 特種なゲームが多かったパブリックスクール p.124-126
1973.8 ボールを抱えて敵陣へ乗りこんだエリス少年 p.124-126
1973.9 協会に採用されたケンブリッジ・ルール p.124-126
1973.10 世界最初のフットボール協会ザFAの設立 p.124-126
1973.11 統一ルールをめぐる協会内の紛争 p.132-134
1973.12 努力と忍耐が生んだ最初の統一ルール p.124-126
 

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ビジネスの種

『エコノミスト』2012年08月28日号の「ワイドインタビュー問答有用」は大野祐介・FIFA公式代理人。インタビューアは元川悦子。大野氏のプロフィールは、

“1973年、埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。97年に三菱商事に入社。メディア事業ユニットでサッカー放映権ビジネスに携わる。2004年春にFIFA公式代理人資格を取得し、05年に宮本恒靖と契約。これを機に本格的に業務をスタートする。06年1月に(株)アスリートプラスを設立。イビチャ・オシム前日本代表監督、日本代表の中村憲剛、細貝萌らもマネジメントする。12年6月現在の資本金は1000万円、従業員数は7人、売上高は1億4800万円(2010年度)”

三菱ダイヤモンド・サッカーは、三菱商事のロンドン支店長だった諸橋晋六氏(後三菱商事会長)が三菱化成社長の篠島秀雄氏に、BBCの「Match of the Day」の日本における放映を進言したのがきっかけだったそうだが、かなり後年になったとはいえ、三菱商事はサッカー放映権もしっかりビジネスにしていたわけだ。

インタビュー記事も面白いので一読をおすすめしたい。

なお、本号の「名門高校の校風と人脈」シリーズは「筑波大学附属高校(国立・東京都文京区)/上」。諸橋晋六氏の母校である。

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アメリカ女子サッカーはカレッジ・スポーツ 代表選手の出身・在学校

野球、アメリカン・フットボール、バスケットボールと同様、アメリカ女子サッカーもカレッジ・スポーツとして発展してきた。ロンドン・オリンピック代表選手は全員大学OBまたは大学生で、その出身・在学校は、

ホープ・ソロ (Hope Amelia Solo) ワシントン大
ニコル・バーンハート(Nicole Barnhart) スタンフォード大
ヘザー・ミッツ(Heather Mitts) フロリダ大
クリスティ・ランポーン(Christie Rampone) モンマス大
ベッキー・サワーブラン(Becky Sauerbrunn)  バージニア大
ケリー・オハラ(Kelley O'Hara)  スタンフォード大
エイミー・レペイルベット(Amy LePeilbet)  アリゾナ州立大
レイチェル・ベーラー(Rachel Buehler)  スタンフォード大
シャノン・ボックス(Shannon Boxx) ノートルダム大
ヘザー・オライリー(Heather O'Reilly)  ノース・カロライナ大
カーリ・ロイド(Carli Lloyd)  ラトガース大
ミーガン・ラピノー(Megan Rapinoe)  ポートランド大
トビン・ヒース(Tobin Heath)  ノース・カロライナ大
エイミー・ロドリゲス(Amy Rodriguez)  南カリフォルニア大
シドニー・ルルー(Sydney Leroux)  UCLA
ローレン・チェニー(Lauren Cheney)  UCLA
アレックス・モーガン (Alexandra Patricia Morgan) カリフォルニア大バークレー校
アビー・ワンバック (Mary Abigail Wambach) フロリダ大

各地域カンファレンスにおけるリーグ戦に加えて全米大学選手権もあり、大学スポーツとしての厚みがアメリカ女子サッカーの基盤になっているようだ。プロ・サッカーは経済的な浮沈があるが、大学スポーツは経済的な影響を受けないのが強みであろう。草の根の「少女サッカー」からハイスクールを経て大学まで、アメリカではレベルに応じて女子がプレーできる場所が確保されている。

日本男子サッカーもかつてはカレッジ・スポーツだった(JFA幹部人事やJリーグ監督にその名残りがある)が、Jリーグ発足以降男子代表チームの学歴構成は激変した。→世界大会・同予選における日本代表登録選手中の大学生・大学(サッカー部)OB比率

アマチュアの日本サッカーリーグ(JSL)時代に日本代表が低迷したのは、JSLが日本のトップリーグであるにもかかわらず、終身雇用制下の大企業での引退後の処遇を考慮した有望高校生が低レベルの大学サッカーに「迂回」してしまう構造に原因があった。

なでしこでは大学サッカー部出身者は少数派。女性は「終身雇用制下の大企業での引退後の処遇」など考える必要もないし、女子サッカーが普及したのは比較的近年で、最初から有望高校生やクラブユース所属選手が「迂回」なしでトップリーグのなでしこリーグでプレーできる環境が整っていた。ただしトップ・リーグがこれからも常に順風満帆に存在できるかどうかは不明なのは、過去の歴史が示している。

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無料で読めるアメリカ女子サッカーに関する論文

を見つけた。

Andrei S. Markovits & Steven L. Hellerman (2003): Women's soccer in the United
States: Yet another American ‘Exceptionalism’
, Soccer & Society, 4:2-3, 14-29

約10年前の論文。アメリカでは2002年のワールドカップ日韓大会のテレビ解説者は女子サッカー選手だった(p.14-15)ことは、「サッカーは女のスポーツ」であることを象徴している。草の根レベルからの普及ぶりがすごい。

1920年代から学校女子体育に導入されて普及していった。

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18切符チープ旅会津編

7月20日前に買った青春18切符をまだ1回しか使用してないので、消化のために会津に行った。

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東北線経由の予定だったが、早起きできたので水戸から水郡線経由でいくことにした。土浦近辺のレンコン畑。

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水郡線は単線非電化。久慈川に沿っていて景色がよい。

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磐越西線は単線電化。磐梯山。

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白い花は蕎麦畑?

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ホテルの部屋。1泊朝食付き4,500円。値段の割りにテレビが大きい。夜はなぜかてんぷらが食べたくなり、天麩羅屋へ。会津で海鮮?という感じだが、突き出しで出た枝豆や山菜の煮浸し、注文したナスの揚げだしはうまかった。会津の夏は野菜だね。

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来年の大河ドラマの主人公は新島襄夫人(会津出身)だそうで、町中にこれがあった。

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千円札の肖像の方。「忍耐」とあるが、伝記を読むと、借金の名人でしかも全然返済しなかったらしい。大金を得ると貯蓄なんかしないで一晩で遊興に使ってしまったそうだ。

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帰りの磐越西線快速は特急車両だった。東北線経由、宇都宮から湘南新宿ラインで直接渋谷に。


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最初のワールドカップテレビ放映

『「ダイヤモンドサッカー」の時代』(エクスナレッジ 2008)によれば、1970年9月28日のメキシコ・ワールドカップ決勝イタリア対ブラジル(前半戦)。

新聞のテレビ欄をみると月曜日の22:00~23:00で、上記図書ではゲスト二宮寛になっていたが、長沼健氏もゲストで呼ばれている。実際に決勝があったのは6月21日だから約3ヶ月遅れだったことになる。

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私も見たはずだが、同日のサンテレビではダイヤモンドサッカーを放映してないので、残念ながら関東の人より遅かったことになる。

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スポーツ観戦は中産階級の娯楽?

昨日述べたように、「スポーツ観覧料」支出はさいたま市の14,972円から青森市の17円まで地域別でかなりの違いがあったが、家計調査の「スポーツ観覧料」でもうひとつ調べることができるのが、年間収入別分布である。

家計調査 > 家計収支編 > 総世帯 > 詳細結果表 > 年次 > 2011年で「10 年間収入五分位階級別  総世帯・勤労者世帯」のExcelをクリック。

年間収入             スポーツ観覧料
~252万円                140円
252~371万円              474円
371~508万円              626円
508~731万円             1,522円
731万円~                1,001円
平均                    753円  

スポーツ観戦に行くと入場料以外にも交通費や飲食費もかかるから、ビンボー人は行けないのは無理もないが、金持ちになるとかえって行かなくなるようだ。Excel表の「スポーツ観覧料」のひとつ下が「ゴルフプレー料金」だが、こちらはさすがに「731万円~ 」が突出している。

世代別もあれば興味深いのだが、 家計調査 > 家計収支編 > 総世帯 > 詳細結果表 > 年次 > 2011年で「4 世帯人員・世帯主の年齢階級別  総世帯・勤労者世帯」のExcelをクリックすると、「スポーツ観覧料」は「教養娯楽サービス」に丸められているようである。

世帯主の年齢         月間「教養娯楽サービス」支出(カッコ内は持家率)
~29歳                  12,277円(8.8%)
30~39歳                 15,358円(45.0%)
40~49歳                 17,920円(64.6%)
50~59歳                 14,758円(74.7%)
60~69歳                 15,784円(86.0%)
70歳~                  11,820円(85.4%)

注目されるのは、「60~69歳」がピークの「40~49歳」に次いで多く、「30~39歳」、「50~59歳」を上回っていることである。巷間日本の消費市場はシニア世代が支えているといわれるが、家計調査もそれを裏付けている。

子育てを終り、自宅の住宅ローンの返済も終了し、年金給付が始まったシニア世代が消費と人口分布の中心になるのだから、Jリーグ各チームは入場料のシニア割引や祖父母・孫割引セット、必ず座れるシニア専用バスw、なんかも考えてもよいのではなかろうか。


 
 

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2011年次家計調査における1世帯あたりのスポーツ観覧料

家計調査は“一定の統計上の抽出方法に基づき選定された全国約9千世帯の方々を対象として,家計の収入・支出,貯蓄・負債などを毎月調査”しているもので、支出項目がかなり細かく、「うどんの町、高松」や「餃子の町、宇都宮」などは、この調査に基づいている。支出項目のひとつに「スポーツ観覧料」があり、都道府県庁所在市、および指定都市毎の数値を比較できる。

1) 家計調査 > 家計収支編 > 総世帯 > 詳細結果表 > 年次 > 2011年で「11 都市階級・地方・都道府県庁所在市別 総世帯」のExcelをクリック。

2) 左下の「4」をクリック。883が「スポーツ観覧料」。ちなみに、「日本そば・うどん」は「2」の390、「ぎょうざ」は同じく「2」の371にある。

期間は年間、単位は円。太字はJリーグ・チーム所在地。

札幌市 1,135
青森市 17
盛岡市 162
仙台市 901
秋田市 928
山形市 380
福島市 50
水戸市 599
宇都宮市 1,153
前橋市 193
さいたま市 14,972
千葉市 476
東京都区部 614
横浜市 779
新潟市 65
富山市 3,705
金沢市 487
福井市 94
甲府市 412
長野市 422
岐阜市 488
静岡市 1,278
名古屋市 620
津市 270
大津市 797
京都市 1,970
大阪市 297
神戸市 1,105
奈良市 624
和歌山市 661
鳥取市 113
松江市 178
岡山市 840
広島市 2,071
山口市 270
徳島市 97
高松市 146
松山市 426
高知市 119
福岡市 1,155
佐賀市 1,049
長崎市 80
熊本市 366
大分市 361
宮崎市 78
鹿児島市 415
那覇市 215

川崎市 568
浜松市 571
堺市 433
北九州市 1,261

全国 753

都道府県庁所在市・指定都市別のトップ10は、

1. さいたま市 14,972
2. 富山市 3,705
3. 広島市 2,071
4. 京都市 1,970
5. 静岡市 1,278
6. 北九州市 1,261
7. 福岡市 1,155
8. 宇都宮市 1,153
9. 札幌市 1,135
10. 神戸市 1,105

すべてJチームのホームタウン。プロ野球チームもあるのは、広島、福岡、札幌のみ。さいたまの14,972円は突出している。。サンプルの中にレッズの年間シート購入者がいるんじゃなかろうか。総務省統計局「特徴的な品目について,その購入金額の多い上位5市」によれば、さいたま市民はスポーツ観戦だけでなく、紅茶も大好きなようだ。富山の2位も意外だが、同じくサンプルにカタ―レの年間シート購入者が混じっているのかもしれない。富山はBJリーグ・チームの本拠地でもあるが。富山市民は全国一鰤にも金を使っている。プロ野球とは縁のなさそうな富山、静岡、宇都宮あたりはJリーグ・チームの存在がスポーツ観覧料支出に影響しているといえるのかもしれない。

逆に、ワースト10は、

1. 青森市 17
2. 福島市 50
3. 新潟市 65
4. 宮崎市 78
5. 長崎市 80
6. 福井市 94
7. 徳島市 97
8. 鳥取市 113
9. 高知市 119
10. 高松市 146

唯一のJ1所在地は新潟だが、アルビレックスの動員力は相変わらずタダ券によるものなのだろうか。清酒の購入には全国一金を使っているのだが。徳島や鳥取もこの組にいて、果たしてJリーグ・チームの有無と世帯の「スポーツ観覧料」支出に高い相関関係があるのかどうか、議論の余地がありそうだ。年次が2011年なので、特に仙台や福島は東日本大震災の影響もあったはずである。

 


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メキシコ・オリンピックにおけるサッカーのテレビ放映

1) グループリーグ対ナイジェリア戦

対ナイジェリア戦は1968年10月14日に行なわれ、3-1で勝利。釜本がハット・トリック。

放映は10月15日。番組欄に「サッカー」の表示があるのは以下。以下以外に「ハイライト」でも放映されたに違いない。

NHK 7:20~8:00

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日テレ 9:00~10:30 24:15~

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12ch 16:10~17:10

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グループリーグの初戦からサッカーのみを単独で放映したのは12chのみ。

2) グループリーグ対ブラジル戦

対ブラジル戦は1968年10月16日に行なわれ、1-1の引分け。

放映は翌10月17日。

NHK 7:20~8:12 19:30~21:00

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日テレ 9:00~10:30 24:15~

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12ch 16:10~17:10

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3) グループリーグ対スペイン戦

対スペイン戦は1968年10月18日に行なわれ、0-0の引分けだった。

放映は翌10月19日。

NHK 7:20~8:12 19:30~21:00

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日テレ 9:00~10:30 24:00~24:15

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フジ 16:00~17:00

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12ch 16:30~17:25

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なお、翌10月20日(日曜日)に12chは14:00~16:00に「メキシコ・オリンピックサッカー特集」を2時間番組として放映している。この時点でグループ・リーグは終了、決勝トーナメント開始直前だった。この日は10:00~11:00に「イギリス・プロサッカー」(「三菱ダイヤモンド・サッカー」の前名)も放映。金子アナ、下村幸男氏は両方の番組に出演している。

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4) 準々決勝対フランス戦

準々決勝対フランス戦は1968年10月20日に行なわれ、3-1で勝利した。

放映は翌10月21日。

NHK 19:30~21:00

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日テレ 9:00~10:30

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5) 準決勝対ハンガリー戦

準決勝対ハンガリー戦は1968年10月22日に行なわれ、0-5で敗退した。

放映は翌10月23日。

NHK 7:20~8:12 19:30~20:30

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日テレ 17:00~17:30

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TBS 15:00~16:00

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フジ 17:00~17:45

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12ch 12:00~13:00

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6) 3位決定戦対メキシコ戦

3位決定戦対メキシコ戦は1968年10月24日行なわれ、2-0で勝利した。

放映は翌10月25日。

NHK 7:20~8:12 19:30~21:00

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7) 決勝戦

決勝戦ハンガリー対ブルガリアは1968年10月26日に行なわれ、4-1でハンガリーが勝利した。

放映は翌10月27日。

NHK 19:30~21:00

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日テレ 10:00~10:30

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8) まとめ

メキシコ・オリンピックにおけるサッカーのテレビ放映は、録画によるダイジェストではあるものの、グループリーグ3試合、決勝トーナメント2試合全試合が放映されていた。ゴールデンタイム枠でハイライト(19:30~21:00)を放映していたのはNHKのみで、民放はゴールデンタイム枠では放映していない。

オリンピック期間中にサッカーの特番を放映したのは12chのみで、グループリーグ終了の時点だった。オリンピック期間外では11月3日(日)10:00~11:00に12chが「イギリス・プロサッカー」(ダイヤモンドサッカーの前名)で「メキシコオリンピック特集」を放映し、釜本、杉山、長沼氏をゲストに呼んでいる。

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東京オリンピックにおけるサッカーのテレビ放映

1) グループリーグ対アルゼンチン戦

対アルゼンチン戦は1964年10月14日14:00から駒沢競技場で行なわれ、3-2で勝利した。

中継および録画で放映された。

NHK 15:00~16:00

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TBS 14:30~17:50

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フジ 14:00~16:45

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NET 15:30~16:00

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12ch 21:00~21:30

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多元中継されているようなので、実態は不明だが、チャンネルを回せば、試合開始から終了まで中継で観られたのかもしれない。試合開始時間は後藤健生『日本サッカー史 : 日本代表の90年 : 1917-2006. 資料編』(双葉社 2007)による。

2) グループリーグ対ガーナ戦

対ガーナ戦は1964年10月16日14:00から駒沢競技場で行われ、2-3で敗退した。

この日は同時間帯に陸上女子100mの準決勝、決勝があり、中継はなかった。同日テレビ欄に「サッカー」の表記は見当たらず、録画放映もなかったのかもしれない。ハイライトでごく一部が放映された可能性はあるが。

3) 準々決勝対チェコスロバキア戦

準々決勝対チェコスロバキア戦は1968年10月18日14:00から駒沢競技場で行われ、0-4で敗退した。

完全中継ではないが、中継で放映されたようだ。

NHK 14:50~15:40

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同時間帯に女子バレーボールの対ポーランド戦があり、NHK、民放ともそちらを優先したようだ。NHKは後半のみの中継だが、前半終了時点では0-1だったので、それなりに楽しめたのでは。

4) 準決勝戦

準決勝戦ハンガリー対エジプト(秩父宮ラグビー場)、チェコスロバキア対東ドイツ(駒沢競技場)は1964年10月20日14:00から行なわれ、ハンガリーが6-0、チェコスロバキアが2-1でそれぞれ勝利した。

中継および録画で放映されたようである。

NHK 13:00~14:00 17:50~18:54(チェコスロバキア対東ドイツ戦)

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NET 17:00~17:58

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FIFAの14:00試合開始は正しいのであろうか。この日5、6位決定戦予備戦日本対ユーゴスラビア戦を大阪長居競技場で14:00から行ない、1-6で敗退している。ユーゴのFWにイビチャ・オシム氏がいた。

5) 決勝戦

決勝のハンガリー対チェコスロバキアは10月23日14:30から国立競技場で行われ、2-1でハンガリーが勝利した

中継で放映されたようである。

NHK 16:30~18:10

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日テレ 15:30~16:15

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TBS 15:40~16:30

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フジ 14:00~16:30

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NHKの解説が小沢通宏、TBSの解説が小沢通彦。小沢通彦って誰?

翌日の朝日新聞朝刊記事では試合開始は14:30。FIFA記録(16:30試合開始)はあてにならない。NHKは録画放映だったようだ。

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血糖値

が100になった。35歳で職場の健康診断を受けて以来20余年、やっと糖尿病患者(110以上)でなくなった。

去年の11月に引っ越して毎日ミストサウナを浴びているのが効いたのか。他に健康に良いことはやってないはず。食生活ではとっくの昔に「植物化」してるはずなんだけど。

毎日肉をモリモリ食えればいいけど、食の嗜好が変わったのがこの結果だとしたら、この歳だとちっともありがたみが・・・

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世田谷公園めぐり

家の前の道路にFC東京のフラッグが。

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近所でイベントでもあるのかとFC東京のHPを見たが、なにもなし。

自転車で馬事公苑に。

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森林浴コース? 蝉がうるさい。ツクツクボウシも鳴いていた。夏も峠を越したか。

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砧公園へ。

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だだっ広い。公園の中を川が流れている。

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駒沢公園にも行ってみようと思ったが、雨が降ってきたので帰る。

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全米体育教育協会女子運動全国委員会の刊行物

全米体育教育協会女子運動全国委員会(American physical education association. National committee on women's athletics)でアメリカ議会図書館目録を検索すると以下があった。

1) 書名:Winter activities in snow and ice; ice hockey, snowshoeing, outing club, skating, skiing, tobogganing ...
出版地、出版者、出版年:New York, American sports publishing co. [c1931-]

2) 書名:Official handbook of the National committee on women's athletics of the American physical education association
出版地、出版者、出版年:New York, American sports publishing co. [c1923-]

3) 書名:Outdoor baseball for girls and women; official baseball guide of the National section on women;s athletics of the American physical education association
出版地、出版者、出版年:New York, American sports publishing company, c19

4) 書名:Official soccer rules for women. Supplement to Official soccer guide for women
出版地、出版者、出版年:[New York] c1928

5) 書名:Soccer for women, official soccer guide of the National section on women's athletics of the American physical education association
出版地、出版者、出版年:New York, American sports publishing co. [c1928]

6) 書名:Soccer for women : official soccer guide of the National section on women's athletics of the American physical education association
出版地、出版者、出版年:New York : American sports publishing co., c1929

7) 書名:Soccer for women; official soccer guide of the National section on women's athletics of the American physical education association
出版地、出版者、出版年:New York, American sports publishing co. [c1930]

8) 書名:Soccer for women and girls, official soccer guide of the Women's rules and editorial committee of the Women's athletic section of the American physical education association; including rules for speedball for women and field ball
出版地、出版者、出版年:New York, American sports publishing co. [c1932]

9) 書名:Soccer for women and girls, official soccer guide of the Women's Rules and Editorial Committee of the Women's Athletic Section of the American Physical Education Association; including rules for speedball for women and field ball
出版地、出版者、出版年:New York, American Sports Publishing Co. [c1933]

10) 書名:Soccer for women and girls, official soccer guide of the Women's rules and editorial committee of the Women's athletic section of the American physical education association; including rules for speedball for women and field ball
出版地、出版者、出版年:New York, American sports publishing co. [c1934]

11)書名: Soccer for women and girls, official soccer and speedball guide of the Women's rules and editorial committee of the Women's athletic section of the American physical education association; including rules for field ball
出版地、出版者、出版年:New York, American sports publishing co. [c1935]

12) 書名:Soccer for women and girls, official soccer and speedball guide of the Women's rules and editorial committee of the Women's athletic section of the American physical education association; including rules for field ball
出版地、出版者、出版年:New York, American sports publishing co., c1936

13)書名: Individual sports guide, archery, golf, tennis; a handbook for participants, and for teachers
出版地、出版者、出版年:New York city, American sports publishing company, c1936

14)書名: Soccer for women and girls, official soccer and speedball guide of the National section on women's athletics of the american physical education association: including rules for field ball
出版地、出版者、出版年:New York, American sports publishing co., c1937

15) 書名:Individual sports guide; archery, golf, tennis [by] Mary E. Korn, chairman. Riding [by] Phyllis Van Vleet, chairman
出版地、出版者、出版年:New York city, American sports publishing company, c1937

1920年代のアメリカでは男子競技とできるだけ同じルールで行うのではなく、女性用ルールを別に作ってジェンダー、すなわち「女らしさ」を強調したようである。女子サッカー規則については西山敏子「アメリカに於ける女子サツカー : 主として規則の解説」『体育學研究』12(5) 1968 p.271を参照。

『Soccer for women』は、日本では東京大学総合図書館が1928年版を1冊所蔵しているのみのようだ。男子のみ入学できた東京帝国大学が本書を所蔵しているのは、関東大震災で壊滅した図書館に対して各国から寄贈があったそうなので、おそらくそのうちの1冊なのであろう。→「総合図書館の歴史と現在」(東京大学附属図書館)

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初期アメリカ女子大学サッカー史

下記の論文が東明有美、入口豊、山科花恵「女子サッカーの日米比較研究(1)アメリカ女子サッカーの歴史と現状について」『大阪教育大学紀要. 第4部門, 教育科学』51(1) 2002.9 p.165-180 に引用されていた。

Shawn Ladda「The early beginnings of intercollegiate women’s soccer」『Physical Educator』, 57(2) 2000 p.106-112 英文抄録は無料アクセス可。

少なくとも1924年以来、ニュー・イングランドの名門女子大学セヴン・シスターズのひとつ、スミス・カレッジでサッカーが体育プログラムに取り入れられただけでなく、寄宿舎対抗、クラス対抗などの学内対抗サッカー試合が行われていた。ただし、学則により対外(対校)試合は禁じられていた。

アメリカにおける大学女子サッカー対校試合の嚆矢はカナダに接するバーモント州の3大学で、1950年代に始まった。3大学はJohnson State College、 Castleton State College、Lyndon State Collegeで国境を越えてカナダの3大学(Bishop's University、McDonald University、McGill University)とも対校試合を行った。

今オリンピックでアメリカと死闘を演じたカナダ女子サッカーの歴史もアメリカと同じくらい古いようである。

なお、上記日本語論文の(2)は「日本女子サッカーの歴史と現状について」でこちらも全文アクセス可。

東明有美、入口豊、山科花恵、松原英輝「女子サッカーの日米比較研究(2)日本女子サッカーの歴史と現状について」『大阪教育大学紀要. 第4部門, 教育科学』51(2) 2003.2 p.433-451

なぜ女子の対校競技が禁ぜられたかについては、熊安貴美江「19世紀末から20世紀初頭アメリカの女子体育とジェンダー : AMERICAN PHYSICAL EDUCATION REVIEW(1896-1929)より」『女性学研究』(1) 1992 p.1-20 のp.14で言及されている。

工業化、都市化した社会では日常生活で「男らしさ」を発揮できなくなり、スポーツがその代償となった。イギリスではラグビー、アメリカではアメリカン・フットボールが「男らしさ」を象徴する人気スポーツとなったという説は興味深い。

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日本語論文による初期アメリカ女子サッカー史

西山敏子「女子のキッキンク・ゲーム--その歴史とアメリカの女子サッカー規則--付随DGWS」『神戸女学院大学論集』19(3) 1973 p.33-54

“アメリカの女子サッカーは男子の規則の一部を変更したものである。女子には激しすぎると考えられる部分が削除され、規則の数ヵ所が女子の体力にあわせて規正された。1919年ペンシルバニアのブリアン・マウア大学に於て行われた試合が女子サッカー試合の皮切りであったと記録されている。アメリカ健康体育レクリェーション協会(American Association of Health, Physical Education and Recreation-以後AAHPERと略す)の婦女子スポーツ部(National Section on Women's Athletics-現在は改名してDivision for Girl's and Women's Sports、略してDGWS)が女子のために最初のサッカー公式規則を編成、出版したのは1927年のことであった。

米国に於ける女子サッカーの普及状態

 こうして1927年に公式規則が初めて設定され女子体育プログラムにとりあげられたサッカーは徐々に各地の小・中・高等学校・大学に浸透していった。その原因となるものは第1に経済的理由である。設備としては競技場とゴール、用具はボール、服装は運動服と運動靴があれば事足りた。2つのチームを識別するためには赤のピニィ(2枚の布を胸と背中に位置するよう両肩で紐でつなぎ下部にもひもをつけて腰の両脇で締める。ゼッケン)があれば充分である。第2には多数の競技者が同時に参加出来る。第3には年齢や技術の程度にあわせて適用できる。第4には巧緻性・敏捷性・バランスを発達させるものであり、特に脚・足が主体となるこのスポーツには他にみられない魅力があった。

 こうして1930年代になると多くの小学校と中学校がサッカー・リードアップ・ゲームを単純なものから複雑なものに学年にあわせて発展させてゆき、中学の最高学年・高等学校・大学に於ては女子規則によるサッカーを行なうようになった。現在過半数の小・中学校が生徒の身体発達に応じて修正されたサッカータイプのゲームを採用し、約半数の大学がサッカーをカリキュラムにとりあげている。就中サッカーは高等学校女生徒に最も人気があり、大学レベルになるとバトミントン・テニス・水泳・カヌー・ボーリング・ゴルフ・トランポリンなどの個人スポーツが中心となり、サッカーのみならずスピードボール・ホッケー・バスケットボールなどのチーム・スポーツは高等学校に比べて普及率が低い。”(p.36-37)

掲載誌は神戸女学院大学の紀要だが、神戸女学院中等部は1967年3月19日に福住女子サッカー少年団と日本最初の女子サッカー試合を行なっている。

American Association of Health, Physical Education and RecreationはAmerican Physical Education Associationの改称後名。

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アメリカ女子サッカーの強さを書誌的に読み解く

アメリカ議会図書館目録で1910~1920年代のアメリカ国内出版サッカー本を検索すると、イギリスや日本と異なった際立った特徴があることに気づく。その特徴とは、サッカーを女性用スポーツとして紹介している本が多いことである。

1) 著編者 : Morgan, Mary C., ed.
書名 : Girls and athletics, giving a brief summary of the activity, rules and method of administration of the following games in girls' schools and colleges, women's clubs, etc.: archery, basket ball, cricket, fencing, field day, field hockey, gymnastics, golf, hand ball, ice hockey, indoor base ball, rowing, soccer, skating, swimming, tennis, track athletics, volley ball, walking, water polo, water basket ball, ed. by Mary C. Morgan.
出版地、出版者、出版年 : New York, American sports publishing company [c1917]

2) 著編者 : Frost, Helen.
書名 : Field hockey and soccer for women, by Helen Frost and Hazel J. Cubberley, with an introd. by Ethel Perrin.
出版地、出版者、出版年 : New York, Scribner, 1923.

3) 著編者 : American physical education association. National committee on women's athletics.
書名 : Soccer for women, official soccer guide of the National committee on women's athletics of the American physical education association.
出版地、出版者、出版年 : New York, American sports publishing co. [c1927]

4) 著編者 : American physical education association. National committee on women's athletics.
書名 : Official soccer rules for women. Supplement to Official soccer guide for women.
出版地、出版者、出版年 : [New York] c1928.

5) 著編者 : American physical education association. National committee on women's athletics.
書名 : Soccer for women, official soccer guide of the National section on women's athletics of the American physical education association.
出版地、出版者、出版年 : New York, American sports publishing co. [c1928]

6) 著編者 : American Physical Education Association. National Committee on Women's Athletics.
書名 : Soccer for women : official soccer guide of the National section on women's athletics of the American physical education association.
出版地、出版者、出版年 : New York : American sports publishing co., c1929.

1920年代のアメリカではサッカーはマイナー・スポーツでサッカー本は十数点しか出版されていないが、約1/3強はサッカーを女性用スポーツとしている本なのである。連邦制のアメリカでは日本における文部省のような中央集権的な教育行政機構は存在しないが、代わりに教育に関する全国的な影響力を民間職能団体がもっていた。全米体育教育協会(American Physical Education Association)が『Soccer for women』を毎年刊行し(30年代に続く)、ルールブックも発行しているのが興味深い。サッカーが女性用スポーツであることがなかば公的に認定されていたともいえる。

出版物でみるかぎり、アメリカではサッカーは1920年代くらいから学校女子体育スポーツとして普及していったと推察される。同年代の日本のサッカー本に、サッカーを女性用スポーツとして紹介しているものは、当然ながら皆無である。

アメリカでは、

男性用フットボール → アメリカン・フットボール
女性用フットボール → サッカー

としてサッカーが定着したので、女子サッカーの歴史が古く、層も厚い。反面、男らしさ(マチズモ)が尊重されるアメリカでは、サッカーは「女のやるもの」として男性に忌避され、男子サッカーの普及のさまたげになったのではないだろうか。


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1934年の朝日新聞運動部員

昨日紹介した小高吉三郎「運動部の組織と活動」(『綜合ヂャーナリズム講座. 2』 内外社 1931 所収)に、1931年当時の東京朝日新聞運動部員数として、

“部長 一名
 次長 一名
 記者 十一名(兼務を含む)”

とあり、さらに11名の内訳を

“元早大野球部監督 元早稲田実業野球部選手
 元早大陸上競技部主将 元慶大ホッケー部長及スケート部選手
 元立大ラグビー部主将、籠球部選手 現日本蹴球協会理事
 現水上競技連盟理事 元大倉高商庭球部選手
 元二高野球、ボート、柔、剣道部選手 元東京高商ボート部選手
 元東京高商庭球部選手”

としている。『朝日新聞社社員写真帖』(朝日新聞社 1934)に1934年時点での運動部員が記載されているので紹介したい。

東京朝日新聞運動部:小高吉三郎(部長) 植村睦男(次長) 伊藤寛 加納克亮 久保田高行 小出秀世 佐藤俵太郎 山田午郎 飛田忠順(嘱託) 

大阪朝日新聞運動部:東口真平(部長) 渡辺文吉(次長) 芥田武夫 大石雄一郎 織田幹雄 小久保政雄(病気休職中) 坂口[?]作 杉森一(応召中) 西野[?]三 三宅二郎

記者11名と数が合わないが、元早大野球部監督は飛田忠順(穂洲)、元早稲田実業野球部選手は久保田高行、元立大ラグビー部主将は加納克亮、元慶大ホッケー部長及スケート部選手は小出秀世、現日本蹴球協会理事は山田午郎であろう。大阪の織田幹雄や芥田武夫もその分野で高名な人物であり、さすがに朝日運動部は人材揃いだった感がある。野球の飛田芥田、サッカーの山田はそれぞれの分野で殿堂入りしている。

 

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【史料紹介】1931年の東京朝日新聞運動部 小高吉三郎「運動部の組織と活動」

昨日紹介した伊藤正徳『新聞五十年史』(鱒書房 1943)に

“部の組織も一流紙に至ると、部長一名、次長一名、記者十余名を擁する大所帯となった”

とあるが、その具体例が小高吉三郎「運動部の組織と活動」(『綜合ヂャーナリズム講座. 2』 内外社 1931 所収)である。小高は現役の東京朝日新聞運動部長。1931(昭和6)年当時の東京朝日新聞運動部の組織と活動が具体的に記されている。本文献は日本におけるスポーツ・ジャーナリズム史の重要文献のひとつであろう。

運動部の組織と活動
                小高吉三郎

運動記事の重要性 

 各新聞社が運動部といふものを設けたのは極く最近の事に属してゐる。勿論今迄絶無とはいへなかったが、それはほんの名目だけであって実際は社会部の一記者が運動の時だけ、その記事を受持つといふぐらゐに過ぎなかった。それが時代の推移と共に運動がますます盛になり、同時に国民生活の一部としてどうしてもわれわれの社会から引き離す事が出来ないまでに根強い関係をもって来た。

 新聞の任務が社会時相を映し出す一種の鏡である以上、これを顧みない訳にはどうしても行かない。そこで今迄の社会部の一記者の担任であり社会部面の一記事であった運動は、ここに漸く運動記事といふ一つの形が編み出され、そして僅かながらも各新聞とも「運動界」あるひは「運動欄」といふ紙面を設けられるやうになって来た。これは運動部といふものが今のやうに独占されるまでの簡単な経路であって、この間の経緯を詳しく話したならば滑稽な挿話が随分と多い。

 けれどもそれはむしろ余談に類するからここに省くとして、話を本筋に向って進めなければならない。

運動部の組織

 現在各社とも運動部といふ名義は付けられてゐるが、実際運動部として独立もし、また独立的の仕事をしてゐるのは東京でも三四の新聞を指折るにすぎない。その他の新聞は昔ながらのシステムで社会部の一員がやってゐる。いふまでもなくその社、その社によって運動部の仕事にも多少の相違があるが、大体に於て左の二つに分ける事が出来る。

  一、運動記事の報導(ママ)
  二、運動に関する主催、後援ものの事務

 かう分けて見ると、その仕事は極めて簡易であって今時の青年なら誰にでもすぐ出来るやうに考へられるが、さて実際になって見ると決してさう容易な仕事でないのに気がつく。成程以前まで―言葉を換へていへば新聞に運動といふもののスペースが与へられていない時分までは、社会部記者あるひは「運動好き」「運動を知ってる」くらゐの知識でお茶を濁せたものだったが、昨今はそれでは読者が許さない。報導(ママ)の外に専門的の立場から観察した特殊の記事を要求するやうになって来た。一例を言へば野球の記事に試合経過と専門の立場から見た「戦評」といふやうなものを付け加へなければ満足しない。そこで新聞社としてもその記者を専門家から選ぶやうになり、やがてはそれが運動部独立の機運を促進させたのだった。

 今参考のため東京朝日新聞社の運動部の組織をのぞいて見る。

  部長 一名
  次長 一名
  記者 十一名(兼務を含む)

 部長、次長の仕事は部内の統一、対内対外的の接衝などにあるのは勿論だが、これは所謂行政的の事務であって、本流の仕事はその日その日の方針やシーズン中の計画、記事の取扱ひ方などについて一般方略を定めるにある。記者の書いた記事に一々目を通す事はいふまでもない。

 けれども断はっておかなければならない事は、他部の取扱ふ報導記事―悉くとはいへないが―と違って専門的の色彩を多分にもってゐるから、部長、次長の憶測や推理で矢鱈に筆を入れる事を許るされない。紙面が幅輳して来た場合に、整理部で泣かされるのもこの運動記事で、直さうにも簡単にしようにも、専門的の記述だけに筆を入れる事がむしろ不可能に近いとさへ、されてゐる。

 現在の運動部員を色分けにして見ると、

  元早大野球部監督 元早稲田実業野球部選手
  元早大陸上競技部主将 元慶大ホッケー部長及スケート部選手
  元立大ラグビー部主将、籠球部選手 現日本蹴球協会理事
  現水上競技連盟理事 元大倉高商庭球部選手
  元二高野球、ボート、柔、剣道部選手 元東京高商ボート部選手
  元東京高商庭球部選手

などで、この外にもいざとなれば各専門の記者が他部にひかへてゐて、いつでも応援をうけるだけの組織は出来上ってゐる。そして以上の記者がそれぞれ自身専門の運動記事を担任してゐる事はいふまでもない。

運動季節と運動記事

 今新聞記事として取扱はれてゐる運動の種類を列記すると、可成に沢山の名称を挙げる事が出来る。勿論運動には大体その季節があって、季節以外のものは「アウト、オブ、シーズン」の余技として多少扱ひを簡略にする時もあるが、日本ではまだ外国ほどそれが厳密に実行されてゐないだけに、記者にも新聞社にもいろいろの悩みがある。

 冬季に属するもの

  スキー(登山 競技) スケート アイスホッケー 
  ホッケー ラグビー蹴球 アッソシエーション蹴球

 春秋に属するもの

  陸上競技 野球 庭球(軟式 硬式)
  水泳 ボート

 其他のもの

  拳闘 排球 籠球
  卓球 柔、剣道

 以上の運動の中、季節といふものを超越して殆んど一年中紙面を占領してゐるのが野球だ。それに次では庭球、陸上競技、水上競技といふやうな順序になるが、その他の運動も昨今では甲乙ないまでの勢で熾に紙面を侵蝕しつつある。

 今新聞紙が取扱ってゐる各種の運動の中で年中行事ともおもはれるやうな、代表的なものをあげてその参考とする。

 野球

  六大学リーグ戦(春秋) 全国高等専門学校戦(初夏)
  全国都市対抗戦(初夏) 全国中等学校優勝戦(盛夏)
  米国世界選手権争奪戦(秋)

 庭球

  全日本選手権大会(秋) 全日本学生トーナメント(同)
  朝日招待トーナメント(春) 早慶戦(春秋)
  デヴィス盃争奪戦(夏より秋)

 陸上競技

  全日本選手権大会(春或は秋) 全日本学生対抗選手権大会(春)
  全日本中等学校選手権大会(秋) 早慶対抗競技(初夏)

 蹴球(アッソシエーション)

  全国学生選手権(秋より冬) 関東学生リーグ戦(秋より冬)
  全国中等学校大会(秋より冬)

 ラグビー

  早慶戦(秋) 関東大学リーグ戦(秋より冬)
  京大、三高、同志社戦(秋より冬)

 ホッケー

  全日本選手権大会(秋より冬) 学生リーグ戦(同上)

 水上競技

  全日本選手権大会(夏) 全日本学生競技大会(夏)
  関東大学専門学校対抗戦(夏) 全日本中等学校選手権(夏)
  ○汎太平洋大会(夏)

 ボート 十二大校レガッタ(秋)

 籠球 全国高等学校大会(夏)

 スキー 全日本選手権大会(冬) 全日本学生選手権大会(冬)

 スケート 全日本選手権大会(冬) 全日本学生選手権大会(冬)

 この外に五年目に行はれる万国オリムピック大会、四年目の極東選手権競技大会、隔年の明治神宮体育大会などはその尤なるものに属する。もし一高対三高の野球のやうな二流以下の対抗競技をあげたら際限がない。

運動部活動の実際 

 そこで運動部員の仕事はどういふやうにして行はれるかといふ事に入ってゆくが、勿論他の部に比べて少しも変はる所はない。強ひていへば通信鳩をさかんに利用する事と、刻々に電話でその結果を通信しなければならない事だ。

 しかし刻々に結果を通信するといふ事は他の部員でもけっしてやらない事ではない。事件や問題の如何によっては刻々と通信しなければならない事は当然の事である。ただ運動部はそれが特種の場合だけでなく普通日常のやり方だから、他部員と働き方が違ってゐるといへばいへない事もない。

 かういふと「何故さうしなければならないか」といふ質問がきっと起って来るに違ひない。しかし運動そのものの性質をよく考へて見ると他部の事件と違って時間的に刻々とその結果が得られる事に気がつくだらう。

 丁度選挙時の開票のやうに、縦令それが最後の結果でなくっても一節、一節の結果だけははっきりと片付けられる。極く解り易い例を引いて見ると野球や陸上競技などがまづそれだ。一回、一回毎にその結果はきちんと決められてしまふ。しかもそれが一部分の出来事ではあるが一節だけでも立派にニュースの価値がある。読者はその一節を見ただけでもどっちが勝ってゐるかとか何秒台で走ったとかいってうれしがる。この点が他部の記事と全く性質が違ってゐる所でもあり、亦記者の仕事ぶりが自から違ってくる点でもある。しかしここではニュースの蒐集方やその価値を論じるところではないから、議論めいた下手な御説教は止めて、以上の電話や鳩の通信をどうして受けとるかを話して見たい。

通信鳩

 現在東京にある新聞社では大きな運動競技がやられるやうな競技場には大概自社専用の電話が敷いてある。たとへば明治神宮の競技場とか野球場とかいふやうなところには、記者席の前に卓上電話が置いてある。記者はそこで競技を見ながら刻々と本社にその結果を通信する。時によっては電話をつなぎ放しで話する事もある。早慶野球戦の時などはラヂオ放送と少しも変らない。

 「今宮武がモーションをつけてゐ・・・・・投げた投げた・・・・・・」

 かういふやうに微細な所までも洩らさず通信する。

 勿論以上の外交記者からかける電話は運動部にであって、運動部の机の前には内勤記者がちゃんと頑張ってそれを待ってゐる。そこには原稿用紙や鉛筆が山のやうに埋まれて専属の給仕が何時でも来いとばかりに差控へる。卓上の電話が鳴る。

 『何処だ? 野球場か? よし、第三回慶應川瀬四球、岡田投飛後川瀬二盗を失敗したが・・・・・・』

 内勤記者の手は原稿用紙の上をすらすらと滑べる、紙は代へられる、また鉛筆が走る・・・・・・これは内勤の仕事ぶりをちょっと失敬して見たまでだが、かういふやうにして書かれたものはすぐさま原稿となって、部長なり次長なりの手を経て片ッ端から整理部の手に廻はされる。

 この間にも他の競技場から電話もかかって来れば鳩の通信もやって来る。今朝日新聞の運動部には三つの卓上電話が敷かれてあるが、それでも猶且つ不足を感じる場合がなかなか多い。

 これは私の説明する範囲ではないが序手だから鳩通信の用途を簡単に書いておきたい。この通信はいふまでもなく電話や電信の代用に使はれるものであって、主として不便の所や遠隔の土地からの通信に用ゐられる。運動部で使用する時も市外の競技場や付近に電話の設備がない時に用ゐられてゐる。

運動記者の任務

 以上の話だけで考へると、運動記者は、運動そのものの記事だけにしか係はらないやうだがけっしてそうではない。運動家は勿論運動界の間にもいろいろの問題や事件は起って来る。事件の性質によっては当然社会部記者の取扱ふ範囲内に入ってゆくが、運動家乃至運動界の実情を知ってゐるものは運動記者に勝るものはない。例へば運動家が何かのアクシデントに遭遇した場合、或は運動団体の紛擾問題などには社会部記者が乗出すよりも運動記者が飛出した方が問題の真相なり何なりを早く掴み易い。運動記者といってもその仕事は必ずしも専門的の運動競技の記事を取扱ふのみに限らない。普通の記者としてのすべての心掛けと用意を必要とする。

 したがって勤務方も他の部の部員と変る事がない。早出もあれば夜勤もある。時によっては宿直や徹夜もしなければならない。殊に海外に行はれる競技会は電話の到着する時間の関係で、夜中の二時から三時頃までさもなくば朝早くから働くやうな場合が多い。万国オリムピック大会などはその好適例といって宜い。

 この外仕事の中の一つとして分けて置いた運動の主催ものや後援ものの事務といふのは、当然計画部乃至企画部などの領分に属してゐるが、便宜上運動部員が仲介の労を執ったり交渉の任に方ったりするぐらいに止まる。勿論運動部が中心になってプランを樹てる場合もあるが本統の事務的の仕事は計画部か企画部に移るのはいふまでもない。(了)”

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【史料紹介】伊藤正徳『新聞五十年史』によるスポーツ・ジャーナリズム形成史

新聞社の運動部がいつ頃生まれ、どのように発展してきたかについて、伊藤正徳が『新聞五十年史』(鱒書房 1943)に「第十二章 大正期に於ける編輯と經營 5 學藝部と運動部」を記している。運動部に関する部分を紹介する。

(5) 学芸部と運動部 社会部から独立した事情 

 社会部の一隅に、居候然と席を占めてゐたに過ぎなかった学芸部と運動部が、独立の一部として編集局内にその存在を明かにし、紙面の上に於ても重要な地位を獲得するに至ったのも、大正期の後半期に於てである。

 運動部の如きは、最初から設置していた社はなく、シーズンが来ると社会部記者中で運動の好きな者や、その経験のある者が臨時に運動記事を書いてゐたので、運動記者なる特別の名称も存在もなかった。然るに第一次世界大戦後の平和時代に、青少年の生活力の捌け口として、同時に国民の保健問題として政府の運動競技の奨励もあり、欧米の競技が次々と輸入されて燎原火的に流行し、オリンピックの開催に至って、競技は世界的興味の中心にまで昴楊された。此世相は最も敏感に新聞に感応した。いつの間にか専門の運動記者が生れ、運動課となって社会部を離れ、やがて運動部として編集局内に一独立国をなし、特定の紙面を領して毎日これを編集するようになった。

 のみならず、各社は競って自から各種の運動球技大会を開催し、又後援者となって自社の宣伝と販売政策とに利用するやうになって来た。この新聞社の各種競技大会の開催や後援は、運動競技の流行に拍車をかけた。その間、運動記事そのものも長足の進歩を示し、単なる報道に止まらず、『戦評』即ち専門的な競技の批評が掲載されるやうになった。初め国技と言はれる『相撲』に全力を注いだ各社は、やがて世間の興味が『野球』に移ると、今度はこれに全力を注いだ。試合の経過と得点を速報するために、野球場から社までの通信連絡に伝書鳩が利用されたのを見ても、如何に当時の各社がこれに熱中したかが判る。朝日の飛田穂洲、東日の橋戸頑鉄、時事の新田恭一の野球評が華を競ったのもこの頃であった。

 まことに大正の末から昭和の初年にかけては、之をスポーツの時代の現出といって宜い。而して最初はシーズン的であったものが殆んど毎日何等かの競技がどこかで行はれることになり、運動記事は毎日の紙面の一角をしめることになり、部の組織も一流紙に至ると、部長一名、次長一名、記者十余名を擁する大所帯となったのである。仕事も単に紙面の作製のみでなく、自社主催或は後援にかかる運動の事務までこの部で処理されることになった。各種の運動記事がそれぞれ専門家を必要とするに至って、運動記者には多く各大学専門学校等の元運動選手が採用された。”(p.313-315)

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戦前の日本サッカーの東西対立構造

賀川浩氏による川本泰三氏インタビュー「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」に記されているように、戦前の日本サッカー界は重要試合が東西対抗の形式で行われ、極東選手権やオリンピックの代表選考においても東西が対立する図式があった。1924(大正13)年に関東、関西で大学リーグ戦が始まってサッカーがカレッジ・スポーツ化するとともに、「東西対抗」の図式が成立する。

まず、1929(昭和4)年に関東、関西の大学リーグ戦の1位同志が対戦する東西大学争覇戦が始まる。いわば日本版チャンピオンズ・カップである。戦前の成績は以下の通り。

第1回 1929(昭和4)年12月25日 明治神宮外苑競技場 東大 3-2 関学
第2回 1930(昭和5)年12月28日 南甲子園運動場 東大 2-1 京大 JOBK 
第3回 1931(昭和6)年12月13日 明治神宮外苑競技場 東大 2-2 関学 JOAK第二放送(河西)
第4回 1932(昭和7)年12月12日 南甲子園運動場 慶大 2-1 京大
第5回 1933(昭和8)年12月10日 明治神宮外苑競技場 早大 5-2 京大 JOAK第二放送(河西)
第6回 1934(昭和9)年12月16日 南甲子園運動場 早大 6-0 京大 JOAK、JOBK第二放送(島浦)
第7回 1935(昭和10)年12月15日 明治神宮外苑競技場 早大 12-2 関学 JOAK第二放送(河西)
第8回 1936(昭和11)年12月13日 南甲子園運動場 早大 3-2 神商大 JOAK第二放送(島浦)
第9回 1937(昭和12)年12月12日 明治神宮外苑競技場 慶大 3-0 京大 JOAK第二放送(和田)
第10回 1938(昭和13)年12月4日 南甲子園運動場 関学 3-2 慶大
第11回 1939(昭和14)年12月10日 明治神宮外苑競技場 慶大 4-2 関学
第12回 1940(昭和15)年12月8日 南甲子園運動場 慶大 4-2 関学
第13回 1942(昭和16)年7月4日 明治神宮外苑競技場 東大 8-1 関学

1930年の第2回は日本でサッカーが中継放送された最初の試合であり、以後も毎年のように中継されている。このことが示すように、国内最高格のサッカー試合とみなされ、新聞報道も全日本選手権(現在の天皇杯)よりずっと扱いが大きかった。13回の東西対決の結果は、関東の11勝1敗1分けだった。

次に、1932(昭和7)年からOBも含む全関東代表、全関西代表が対戦する東西対抗戦が始まる。イングランド対スコットランドのような英国のホーム・インターナショナルの日本版といえよう。戦前の成績は以下のとおり。

第1回 1932年2月7日 南甲子園 全関西 6-3 全関東 第二放送
第2回 1933年2月12日 神宮 全関東 3-2 全関西 第二放送(河西)
第3回 1934年1月21日 1回戦:南甲子園 全関西 3-5 全関東 1月28日 2回戦:神宮 全関東 1-6 全関西
第4回 1935年1月20日 神宮 全関東 6-5 全関西 第二放送(和田)
第5回 1936年1月19日 南甲子園 全関西 3-2 全関東
第6回 1937年2月7日 神宮 全関東 0-4 全関西 第二放送(和田)
第7回 1938年1月23日 南甲子園 全関西 1-4 全関東 第二放送
第8回 1939年2月5日 神宮 全関東 3-2 全関西 第二放送(和田・飯田)
第9回 1940年1月28日 南甲子園 全関西 1-4 全関東 
第10回 1941年2月2日 神宮 全関東 3-2 全関西

この試合も東西大学争覇戦同様、国内最高格の試合とみなされ、ラジオで全国中継された。戦後も続き、昭和天皇による日本最初のサッカー天覧試合となったのもこの試合である。11戦して全関東の7勝4敗であった。

どちらの試合も1年毎で神宮と南甲子園で開催する、ホーム・アンド・アウェー式で行われているように、関東・関西が同格扱いされるよう気配りがなされている。この点でも、毎回神宮で開催された明治神宮大会(現在の国体に相当、サッカーは現在の天皇杯にも相当)よりも「格上」だったといえる。

本家英国同様、サッカー・スタイルも対照的で、関東がスコットランド式のショート・パス戦法、関西がイングランド式のロング・キック戦法であった。

国内最高格の試合が東西対抗形式で開催されたことにより、地域対抗意識が過熱し、「【史料発掘】ベルリン・オリンピック代表候補選考をめぐって関西蹴球協会が出した声明書に関する新聞記事」に記したような代表選考をめぐるトラブルまで起きた。しかし、現在のように簡単に国際試合ができなかった当時、東西対抗戦のような「疑似国際戦」は日本サッカーを活性化させ、レベル向上に役立ったのではなかろうか。

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【史料発掘】ベルリン・オリンピック代表候補選考をめぐって関西蹴球協会が出した声明書に関する新聞記事

ベルリン・オリンピック代表候補選考をめぐって、関西蹴球協会が大日本蹴球協会と対立したいきさつは、「日本サッカー通史の試み(35) 代表候補選考に関西側不満爆発」、「ベルリン・オリンピック代表選考の舞台裏」に記したが、毎日系の『大阪毎日新聞』、『東京日日新聞』にも記事があったので紹介したい。大毎、東日の記事が朝日系の東朝、大朝より詳細で具体的なのは、代表詮衡委員5人(竹腰重丸(東大OB)、濱田諭吉(慶應OB)、工藤孝一(早稲田OB)、斎藤才三(関学OB)、永野武(京大OB))の1人、斎藤才三が大阪毎日新聞記者で選考の舞台裏を知りつくしていたことによるためであろう。さすがに東日は関東側の松丸貞一へのインタビューも加えている。関西蹴球協会の『第十一回国際オリンピック大会出場選手詮衡経過報告書』なるものの主旨を具体的に記しているのは毎日系2紙の記事だけなので、サッカー史的価値は大きいと考えられる。なお、大日本蹴球協会理事会があったのは1936年3月9日、関西蹴球協会がこの報告書を出したのは3月27日だが、そのちょうど一ヶ月前の2月26日に二・二六事件が起きている。大日本帝国も大日本蹴球協会も「内乱の時代」だったのである。

●『大阪毎日新聞』1936(昭和11)年3月29日付

オリンピック候補詮衡に発端
   蹴球協会改造運動
      理事会の専横を非難
         関西協会から火の手

ベルリンオリンピック大会初参加のサッカー代表候補選手は過日発表されたが、関西蹴球協会ではその詮衡方法を不満とし、大日本蹴球協会理事会の問[題?]を指摘して再三理事会を開き協議するところ(ママ)あったが、代議会の承認を得てこのほど関西蹴球協会加盟機関に「第十一回国際オリンピック大会出場選手詮衡経過報告書」なる左の主旨の声明書を発表して大日本蹴球協会の根本的改造に邁進せんとする運動が起ってゐる。即ち声明書は
一、大日本蹴球協会理事会は何等の手続を踏まず、また詮衡の機関をも定めず昨年度の全日本綜合選手権、全国地方対抗選手権、東西学生対抗の全然性質を異にする三大会の優勝ティームをもって派遣ティームに撰せんとするごとき不合理なる発表をしたこと
二、全国代議員会の痛烈なる反対を受けて組織した派遣選手詮衡委員の人選を独断的に関東を有利にせんとするごとき人をあげたこと
三、派遣ティームのコーチング・スタッフに関東側の詮衡委員竹腰、濱田、工藤の三氏のみを任命し関東側の意見を全国的に押しつけんとしたこと
以上の如く代表ティームを選出するのに当って関東に比して何等遜色なき関西の蹴球勢力を無視して大日本蹴球協会理事会が独断専横をなしつつあるのはこの理事会が関東協会加盟ティーム関係者のみをもって組織されてゐるためで、これを公正無私の理事会に改造せんとするにあり実行委員を挙げて目的の貫徹を期してゐる。
 なほ選抜された関西側代表候補市橋時[蔵?](慶應OB)小橋信吉(神戸高商)上吉川梁(関大)の諸氏は一身上の都合と称して合宿練習に参加してゐないがこの三候補の不参もこの関西蹴球協会の運動に重大な関係を有するものと見られてゐる。”

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●『東京日日新聞』1936(昭和11)年3月29日付

蹴球代表詮衡に
   関西側爆弾声明
     協会理事会の独断を指摘して
        改造の火の手を揚ぐ

【大阪発】過日発表されたベルリン・オリムピック大会蹴球競技に出場する日本代表選手候補につき関西蹴球協会では全日本蹴球界を真に代表すべき人材を網羅せずなほ万人の首是し難きチームでありこれは大日本蹴球協会理事会の独断の結果であるとし再三理事会を開き協議の結果代議員の承認を経ててこのほど関西蹴球協会加盟機関に対し第十一回国際オリムピック大会出場選手詮衡経過報告書なる左の主旨の声明書を発表してして大日本蹴球協会の根本的改造に邁進せんとする運動を起してゐる。即ち声明書の要旨は
一、大日本蹴球協会理事会は何等の手続を踏まず、また詮衡の機関をも定めず昨年度の全日本綜合選手権、全国地方対抗選手権、東西学生対抗の全然性質を異にする三大会の優勝ティームをもって派遣ティームに撰せんとするごとき不合理なる発表をしたこと
二、全国代議員会の痛烈なる反対を受けて派遣選手の詮衡委員は詮衡委員会を組織して候補を選出することとしたのであるがその詮衡人選を独断的に関東を有利にせんとするが如き不当を敢えてしたこと
三、派遣ティームのコーチング・スタッフに関東側の詮衡委員竹腰、濱田、工藤の三氏のみを任命し関東側の意見を全国的に押しつけんとしたこと
以上の如く全日本的に考慮されるべき代表チームを選出するに当って関東に比して何等遜色なき関西の蹴球勢力を無視して大日本蹴球協会理事会が独断専横をなしつつあるのははこの理事会が関東協会加盟チーム関係者のみをもって組織されてゐるためであり、これを全日本的事項に関して公正無私の大日本蹴球協会理事会に改造せんとするにある。なほ選抜された関西側代表候補市橋時[蔵?](慶應OB)小橋信吉(神戸高商)上吉川梁(関大)の諸氏は一身上の都合と称して合宿練習に参加してゐないがこの三候補の不参もこの関西蹴球協会の運動に重大な関係を有するものと見られてゐる。

関東蹴球協会理事松丸貞一氏談
代表選手候補はすでに決定後大日本蹴球協会から全国の加盟協会に対して通告諒解済みで今更とやかくいひ出すことはオリムピック参加前、各方面に及ぼす影響も重大で関西側の声明が事実ならば実に遺憾至極です。関西側の代表選手候補の市橋、小橋、上吉川三君の合宿練習不参は就職問題や勤務先の都合等いづれもやむを得ない事情で関西蹴球協会の反対運動とは無関係なことと思ひます。”

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●『東京朝日新聞』1936(昭和11)年3月29日付。

蹴球代表銓衡に関西側が不満表明

[大阪電話] 過般発表されたオリムピック蹴球候補選手の顔触れが甚だしく関東中心に偏し、関東に比して余り遜色なき関西蹴球界を殆んど無視せる嫌ひあり物議を醸してゐたが、右につき関西蹴球協会は過日来数回に亘って理事会を開き協議した結果二十七日長文の「第十一回国際オリムピック大会出場選手候補者銓衡報告書」を関西蹴球協会加盟の各団体に発送するとともに実行委員を挙げて大日本蹴球協会の改革に邁進することとなった。
報告書要旨
大日本蹴球協会理事会はオリムピック選手の銓衡に当り関東から三名、関西から二名の銓衡委員を任命して銓衡に当らしめることとしたが、右五名は数次の会合を重ねるも意見合致せず、遂に銓衡委員会を解散、コーチング・スタフを新に作って其スタフが技術上の見地から選手を選抜することになったところ先の銓衡委員中関東の三氏をそのままコーチング・スタフに任命し、即時二十五名の候補選手を決定発表した(後略)”

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●『大阪朝日新聞』1936(昭和11)年3月29日付。

蹴球協会へ一石
   オリンピック選手選定を繞り
     関西協会から改革の火の手

過般発表されたオリンピック蹴球候補選手の顔ぶれは甚しく関東中心に偏し、関東に比してあまり遜色なき関西蹴球界の実勢力を殆んど無視せる嫌ひがあり、物議を醸してゐたが右につき関西蹴球協会は過日来数回にわたって理事会開き協議した結果、廿七日『第十一回国際オリンピック大会出場選手候補者銓衡経過報告書』を関西蹴球協会加盟の各団体に発送するとともに実行委員をあげて大日本蹴球協会の改革に邁進することとなった。かくて現在推薦されてゐるオリンピック候補選手には異動がないとしてもその成行は注目されてゐる。”

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メルボルン・オリンピックにおけるサッカー放送

対オーストラリア戦は1956年11月27日16:30から行なわれ、0-2で敗退した。

ラジオはNHK第二放送で14:00~16:00の枠で陸上、ボクシングとともに中継されている。

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メルボルンとの時差は1時間なので、試合開始は日本時間では15:30。「(前半)」とあるのは、最初の30分だけ実況中継されたのだろうか。オーストラリアの得点は26分と61分なので、それなりに楽しめたのかもしれない。21:00~21:30の「オリンピック放送」でもサッカーが取り上げられている。

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当時すでにテレビはあったが、中継放送はなかった。番組欄もラジオがテレビの上にある。テレビでは、NHKに「オリンピックニュース」(18:00~18:10、21:50~22:15)、日テレに「オリンピック特報」(?~22:15)、KR(TBSの前身)に「オリンピック特報」(22:20~22:40)があった。この時代、東京のテレビ局はこの3局のみ。果たして、画像(動画)は放映されたのだろうか。

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ベルリン・オリンピックのラジオ中継

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ベルリン・オリンピックのラジオ中継予定が1936(昭和11)年8月1日付『東京朝日新聞』ラジオ欄に掲載されている。以下時間は日本時間。開会式は「実況録音放送」されると記されている。放送種目と日本人獲得メダルは以下のとおり。

2日 午前6:30 開会式実況
2日 午後10:45 午後11:00 100m予選 走高跳決勝 女子槍投決勝

3日 午前6:30 1万m決勝 砲丸投決勝

4日 午前6:30 100m決勝 3千m障碍予選

5日 午前6:30 女子100m決勝 走幅跳決勝(田島直人 銅)

6日 午前6:30 棒高跳決勝(西田修平 銀 大江季雄 銅) 200m決勝

7日 午前6:30 槍投決勝 1500m決勝 三段跳決勝(田島直人 金 原田正夫 銀)
7日 午後10:45 午後11:00 5千m決勝

8日 午後10:45 午後11:00 100m自由形準決勝

9日 午後10:45 午後11:00 400m競走決勝 女子走高跳決勝 マラソン出発(陸上競技場) 100m自由形決勝(遊佐正憲 銀 新井茂雄 銅)(水泳場)

10日 午前6:30 マラソン到着実況(孫基禎 金 南昇竜 銅)  

11日 午後10:45 午後11:00 400m自由形決勝(鵜藤俊平 銀 牧野正蔵 銅) 女子100m背泳予選

12日 午後10:45 午後11:00 800m継泳決勝(遊佐正憲・杉浦重雄・田口正治・新井茂雄 金) 女子200m平泳決勝(前畑秀子 金)

14日 午後10:45 午後11:00 200m平泳準決勝 1500m自由形準決勝 100m背泳決勝(清川正二 銅)

15日 午後10:45 午後11:00 200m平泳決勝(葉室鐵夫 金 小池禮三 銅) 女子400m自由形決勝  

16日 午前6:30 1500m自由形決勝(寺田登 金 鵜藤俊平 銅)

「ベルリンの奇跡」を演じたサッカーは対象外。日本人のメダル獲得種目の決勝をことごとく放送しているのはお見事。

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東京オリンピックにおけるサッカーのテレビ放映 ⑤ 決勝戦

決勝のハンガリー対チェコスロバキアは10月23日14:30から国立競技場で行われ、2-1でハンガリーが勝利した

中継で放映されたようである。

NHK 16:30~18:10

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日テレ 15:30~16:15

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TBS 15:40~16:30

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フジ 14:00~16:30

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NHKの解説が小沢通宏、TBSの解説が小沢通彦。小沢通彦って誰?

翌日の朝日新聞朝刊記事では試合開始は14:30。FIFA記録(16:30試合開始)はあてにならない。NHKは録画放映だったようだ。

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