« 戦前の日本サッカーの東西対立構造 | Main | 【史料紹介】1931年の東京朝日新聞運動部 小高吉三郎「運動部の組織と活動」 »

【史料紹介】伊藤正徳『新聞五十年史』によるスポーツ・ジャーナリズム形成史

新聞社の運動部がいつ頃生まれ、どのように発展してきたかについて、伊藤正徳が『新聞五十年史』(鱒書房 1943)に「第十二章 大正期に於ける編輯と經營 5 學藝部と運動部」を記している。運動部に関する部分を紹介する。

(5) 学芸部と運動部 社会部から独立した事情 

 社会部の一隅に、居候然と席を占めてゐたに過ぎなかった学芸部と運動部が、独立の一部として編集局内にその存在を明かにし、紙面の上に於ても重要な地位を獲得するに至ったのも、大正期の後半期に於てである。

 運動部の如きは、最初から設置していた社はなく、シーズンが来ると社会部記者中で運動の好きな者や、その経験のある者が臨時に運動記事を書いてゐたので、運動記者なる特別の名称も存在もなかった。然るに第一次世界大戦後の平和時代に、青少年の生活力の捌け口として、同時に国民の保健問題として政府の運動競技の奨励もあり、欧米の競技が次々と輸入されて燎原火的に流行し、オリンピックの開催に至って、競技は世界的興味の中心にまで昴楊された。此世相は最も敏感に新聞に感応した。いつの間にか専門の運動記者が生れ、運動課となって社会部を離れ、やがて運動部として編集局内に一独立国をなし、特定の紙面を領して毎日これを編集するようになった。

 のみならず、各社は競って自から各種の運動球技大会を開催し、又後援者となって自社の宣伝と販売政策とに利用するやうになって来た。この新聞社の各種競技大会の開催や後援は、運動競技の流行に拍車をかけた。その間、運動記事そのものも長足の進歩を示し、単なる報道に止まらず、『戦評』即ち専門的な競技の批評が掲載されるやうになった。初め国技と言はれる『相撲』に全力を注いだ各社は、やがて世間の興味が『野球』に移ると、今度はこれに全力を注いだ。試合の経過と得点を速報するために、野球場から社までの通信連絡に伝書鳩が利用されたのを見ても、如何に当時の各社がこれに熱中したかが判る。朝日の飛田穂洲、東日の橋戸頑鉄、時事の新田恭一の野球評が華を競ったのもこの頃であった。

 まことに大正の末から昭和の初年にかけては、之をスポーツの時代の現出といって宜い。而して最初はシーズン的であったものが殆んど毎日何等かの競技がどこかで行はれることになり、運動記事は毎日の紙面の一角をしめることになり、部の組織も一流紙に至ると、部長一名、次長一名、記者十余名を擁する大所帯となったのである。仕事も単に紙面の作製のみでなく、自社主催或は後援にかかる運動の事務までこの部で処理されることになった。各種の運動記事がそれぞれ専門家を必要とするに至って、運動記者には多く各大学専門学校等の元運動選手が採用された。”(p.313-315)

|

« 戦前の日本サッカーの東西対立構造 | Main | 【史料紹介】1931年の東京朝日新聞運動部 小高吉三郎「運動部の組織と活動」 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 【史料紹介】伊藤正徳『新聞五十年史』によるスポーツ・ジャーナリズム形成史:

« 戦前の日本サッカーの東西対立構造 | Main | 【史料紹介】1931年の東京朝日新聞運動部 小高吉三郎「運動部の組織と活動」 »