« 『イレブン』掲載新田純興著「サッカーの歴史」 | Main | 新帯国太郎が満州で油田を見つけていたら・・・ »

新田純興「新帯国太郎先生が我が国サッカーの初期から尽された功績の一端」

新田純興「新帯国太郎先生が我が国サッカーの初期から尽された功績の一端」『地学』22(11/12) 1971 p.440-442 は、『地学』誌の地質学者新帯(にいのみ)国太郎追悼特集号に掲載された追悼文。他の追悼文が新帯の地質学への貢献について述べているのに対し、学術専門誌『地学』に新帯のサッカーへの貢献について書かれた異色なもの。

新帯国太郎は1882(明治15)年愛知県知多郡知多町生。
1899(明治32)年愛知第一師範学校入学、1903(明治36)年同卒業。
内海小学校訓導を経て1904(明治37)年東京高等師範学校入学、博物学専攻。同年卒の中村覚之助とは入れ替わりになる。同年蹴球部入部。
1908(明治41)年2月9日の対Yokohama Cricket & Athletic Club戦初勝利にGKとして出場。同年刊の日本2番目のサッカー専門書『フットボール』(大日本図書, 1908)の共同執筆者となる。同年東京高等師範学校卒業。→「草創期の東京高等師範学校のサッカー 対YCAC戦と2冊の専門書
群馬県女子師範学校教諭を経て1909(明治42)年東京高等師範学校研究科(地質鉱物学科)入学、1912年卒業。
1912~1918年滋賀県師範学校教諭。1917年第3回極東選手権に出場した最初の日本代表イレブンのうち4人は滋賀師範出身、師範学校時代に新帯の指導を受けたと考えられる。→「最初の日本代表の出身校
1918年南満州鉄道に転職、奉天中学校教諭、1920年現職のままアメリカ留学、1921年コーネル大学大学院入学、1924年卒業博士号取得。同年満鉄復帰。
地質調査所技師として1947年まで在満。同年引き揚げ、占領期間中進駐軍顧問。
1952年愛知学芸大学地質学講師。
1971年没。

下記によれば、戦後浦和市立高校サッカー部を全国制覇に導いた鈴木駿一郎とは満州時代に同じ仕事をしていたようである。

新田純興「新帯国太郎先生が我が国サッカーの初期から尽された功績の一端」『地学』22(11/12) 1971 p.440-442

“先生は現在の日本蹴球協会という組織の時代に入る前の古い初期、全くの未開の時代に新しい力となり、光を与えて下さった方なのに、最近まで正確な資料を整理することができないでいました。幸にして、東京高等師範学校校友会誌が創刊号から発見され、蹴球部に関する部分の複写を借用できたので、極く簡単に先生に関係のある個所を書いてみます。

 明治37年4月に東京高等師範学校に入学されると、上級生の勧誘が縁で蹴球部に入部されました。当時の指導者は35年に欧米視察から帰国された生徒監であり蹴球部長である坪井立道教授でした。やがて同年9年(ママ)スコットランド生れの英国人の英語講師デ・ハビランド(De Havilland)が本務の傍ら自分の愛好するフットボール(サッカー)を生徒と共に行ない、体験を通じて実技を指導してくれました。

 新帯先生は以前テニスをやって運動神経のよいものを持っておられたので、サッカーでも一番最後方の守り、ゴールを守るゴールキーパーとなられましたが、日本人として外人チームと行った第2回目の試合を38年1月28日に横浜でやった時には左のフルバックをしておられました。

 デ・ハビランド先生は39年7月で2年の任を終え高師を去られましたが、その頃新帯先生の手元へ、小学校時代の同窓でエディンバラ大学に留学している者に頼んでおいた、イギリスのフットボールの参考書が5冊届きましたので学業の余暇日夜これを精読、翌40年の夏期休業中、蹴球部の友人3人(ママ)浅間山の山麓にある新鹿沢温泉に立て篭りこれら資料から得た知識と3年間の体験、外人チームと試合した経験などを織り込んで日本人向けに新しく、全く新しく参考書を書き上げられたのです。これは秋の新学期になって更に筆を加えたり、組み替えもした上で、校長嘉納治五郎先生の校閲を受け、“Football”という名で大日本図書会社から1,000部の単行本を刊行することができました。実に明治41年6月のことでした。これは近年しきりに嘉納校長の手元へフットボールというゲームを教えてほしい、指導の方法に便を計ってほしいという手紙が来るのに対応する上に又とない便宜を与え効果をあげることができたといわれました。

 一方、本科2年の時代に蹴球部理事、本科3年になると理事から主事となって校内の指導・運営・連絡の中心要務に当られ、校外に対しては青山の京都府師範学校(ママ)、地方では栃木県・茨城県・群馬県・山形県などの師範学校へ迄、実地指導に出向されています。外人との試合は大塚の校庭でも行なうことができるようになり、明治41年1月25日、2月1日、2月9日と三回続けて1:0、4:1、2:1と連勝し、若人の血を高鳴らせ都下の新聞は大々的な報道をし、同好の士は大きな希望と喜びに湧いたという痛快事がありました。学校当局としてもここ数年の練習振りや研究努力を十分認めてくれたのですが、何といっても我が国サッカーの発展史上決して忘れられない大功績であります。

 博物科を卒業されて後、研究科生として又教授の副手として高等師範に居られた時代、校内大会や校外から来るチームとの試合にもよく審判の笛を吹いておられる記録もありますが、省略し、こうした後輩の指導は滋賀県師範学校に赴任後は京都・奈良・御影・姫路など関西各地に及んでいます。

 満州に在勤されました頃、八高・東大の蹴球部OBである鈴木駿一郎と共に各地の地質調査という本務に当られる傍ら、満人青年の愛好するスポーツサッカーを奨励されました。晩年愛知県に寓居されてからは表面には立たれませんでしたが、サッカーに対する熱意は少しも衰えず、英字新聞を通じて外国のサッカー情報を読んでおられ、お孫さんを通じて若い人のために力となって居られた若々しい熱情には敬服の他ありません。

 日本のサッカーが東京オリンピック以来目ざましい発展をみつつあることは喜びに絶えないところではありますが、日本のサッカーは他の国での体・肉体から覚えたサッカーとは異り、本格的に正しく知的に頭で覚え込んだという特質をもっています。又礼節の正しいという事も、高師系統で永年広く根をひろげてあった結果だと思います。若さの勢いだけで動いていったのではあのメキシコオリンピックでのフェアプレー賞、ユネスコからの1968年度という1カ年間全世界のあらゆるスポーツ界からただ一つ選び出されたクーベルタン・フェアプレー賞(金メダル)は手にすることは出来なかったと思います。遠く明治という時代から坪井先生・新帯先生という筋で、サッカーという競技の正しい立法精神の上に技術面を開発して下さった新帯先生の功績を今年9月10日、日本蹴球協会創立50周年の祝賀に当り、協会創立前の功労者第1号としてお迎えし表彰も申し上げ、又共に将来の発展についてお話を承りたいと準備をしていたのでありました。

 古い校友会誌が我々の目に触れられるようになった機縁に一度お尋ねしたいと思いつつ仕事に追われていた事を申し訳けなく残念に存じます。 (昭和46年2月)”

|

« 『イレブン』掲載新田純興著「サッカーの歴史」 | Main | 新帯国太郎が満州で油田を見つけていたら・・・ »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 『イレブン』掲載新田純興著「サッカーの歴史」 | Main | 新帯国太郎が満州で油田を見つけていたら・・・ »