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河合勇「思い出のスポーツマン(1) 野口源三郎さん」

野口源三郎は陸上競技畑の人物で、サッカーとは関係ないが、体協改革の引きがねとなった1924年パリ・オリンピックの陸上競技代表選考について詳述されているので、紹介したい。

1924年時点で体協は陸上競技と水上競技の、
1) 全日本選手権の開催
2) 国際大会(極東選手権、オリンピック)の代表選考
3) 国際競技団体(陸上の場合は国際陸連)への加盟
を直轄しており、日本陸連は下記の13校体協ボイコット事件を経て結成されることになる。1921年結成の大日本蹴球協会は特に体協と対立することもなく、上記3点を実現しており、サッカー界の体協との関係は陸上とは対照的に円満であった。

1924年パリ・オリンピックの陸上といえば、映画『炎のランナー』を思い浮かべるが、短距離の代表となった谷三三五(たに ささご 明大OB 当時満鉄勤務)は100mの1次予選で、映画では上昇志向の強いユダヤ人として描かれたハロルド・エイブラハムスと実際に対戦している。谷の著作『競走と練習 百米十五年』(三省堂 1930)では、「第五篇 實戰の體驗と參考」中に「アブラハムス選手(英国人)」の項(p217-.225)をたて、エイブラハムスの走法について9ページにわったて詳述している。

河合勇「思い出のスポーツマン(1) 野口源三郎さん」『新体育』39(8) 1969.8 p.126-128

“これから書いてゆくスポーツ界の思い出の人々は、みな日本のスポーツ界の黎明時代に活躍した人々で、近頃、次々に世を去って行かれるので、その印象を後の世に伝えるために筆をとった次第である。

 野口源三郎さんの一番華やかな印象は大正11年、今の国立競技場となった当時の明治神宮競技場の開場式の時であった。モーニング姿で大正天皇を競技場へお迎えした野口さんは、ユニホーム姿に着替えてフィールドに現われた。新設された跳躍場で棒高跳びの模範演技を行ない天覧に浴し、3mを跳えて拍手をあびた。

 野口さんの競技歴は明治44年、日本が初めて参加したストックホルムのオリンピック大会の羽田における予選参加に始まる。

 野口さんは嘉納校長(東京高師)に出ろといわれて出場し、先輩の金栗さんについて走った。1着金栗、3着佐々木、3着井手で、野口さんは4着で、兎に角、25マイルを走り通したのでえらいとほめられた。金栗さんの記録は2時間36分42秒で、当時伝えられていたオリンピック記録をはるかに破っていたので、文句なくオリンピック選手に選ばれた。

 その後、野口さんはフィールド競技に転じ、棒高跳びで大正2年に2m38で全日本選手権大会で優勝した。つづいて大正6年にも3mで優勝している。

 均整のとれた体格をしている野口さんは万能選手で、十種競技にのり出した大正5年の大会で、この種目の第1回の選手権を獲得した。

 大正9年のアントワープのオリンピック大会に選ばれて十種競技に出場した。相当の期待を持たれていたのだが、日本は全競技に惨敗した。野口さんの十種競技も最後まで競技した12名中12位というみじめなものであったが、競技中は常にトラックとフィールドの中にいられたので、世界の強豪の実力と技術を目のあたり観察出来たので、後の日本選手の指導に大いに役立ったのであった。

 この大会に参加した日本選手は、この惨敗を肝に銘じて、ベルギーで零点だったので、白黎会という会を組織して、次のオリンピックまでに入賞出来る選手を育てようと決心したのであった。

 そのためには、既成選手ばかりでは駄目だ。新しく若い素質ある選手を発見して育成して行かなければならないと決心し、全国を陸上競技のコーチをして歩いた。後にオリンピック大会で初の優勝をした織田幹雄も野口さんが最初に広島で発掘して指導した選手であった。

 次の大正13年のパリのオリンピック大会には前回の失敗にかんがみて、精鋭主義をとることになった。そこで選手選考の標準を左の如く公表した。

 まず、少なくともオリンピック大会で予選をパスする見込みのあるもので、国際記録に近いもの、第2に帰国後、わが国の競技界に関係して指導し得るもの、第3に日本青年の代表として恥かしくない人格を備うるものという条件であった。これは当時、体協の幹事として中心になって働いていた野口さんの起案したものであった。

 大正13年の4月13日に行なわれた派遣選手の最終予選会の結果その夜発表されたメンバーは左の如くであった。

 (短距離)谷三三五、(中距離)納戸徳重、(長距離)田代菊之助、(マラソン)金栗四三、(跳躍)織田幹雄、(槍投、五種競技)上田精一。

 これにロンドンにいた外務省の岡崎勝男、ベルリンにいた三浦弥一の8名で、これに見学員として二村忠臣(高師)、佐藤信一(高師)を加えた。

 この選手決定がわが陸上競技界に大波瀾を起した。全国学生陸上競技連合から5千m優勝者の早大の縄田尚門を除いて、1万mの田代を加えたのに対する不満、これは多年アマチュア資格を厳格に守ってきた体協が、その資格に疑のある田代を推選したのはおかしいというのが一つ。更にもう一つは精鋭主義をとなえながら記録において予選通過の望みのない投擲競技の上田を加えたこと、更に見学員として高師生のみ採用したことなどであった。

 この非難で体協はあわてて、当時、全国学生陸上競技連合の主事をしていた森田俊彦を見学員に加えて学生連合側の不満を緩和しようとしたが、これが却って体協の不純な政策だといって逆効果を来たした。

 野口さんとしては、パリ大会ではまだ日本は好成績はあげられまい。この際、見学員にはオリンピック大会を実際に見て帰国後、青少年を指導して日本の陸上競技の技術のレベルをあげる人を是非派遣したいと考えた。それは高等師範学校の在校生から見学員を選ぶのが、一番良策と考えたのであった。

 ところがこれが私学派の猛反撃を喰った。早慶明を始め13校が選手選考の公平を期するために、体協の組織の改造と、役員の改選を迫ったが、すでに出発直前だったので、体協は回答を拒否して出発してしまった。

 これがいわゆる13校同盟で、13校は今後、体協主催の競技会には一切出場しないという決議を行なった。これが尾を引いてパリのオリンピック大会を前にして、大阪体協の竹内広三郎、朝鮮体協の河津彦四郎、満州体協の岡部平太と、奇怪なことには見学員に加えてもらった全国学生連合の森田俊彦もこれに加わって、国際陸連に体協を除外して、まだ生れていない全日本陸上競技連盟が直接加盟すべく運動を始めた。

 この運動は国際陸連に拒否されて成功はしなかったが、野口さんは日本の陸上競技の将来の進歩発展を目指しての構想が理解されず、しかも高等師範での同窓生の竹内、河津、岡部らに反旗を翻されたことは、野口さんにとっては大きな痛手だった。後年、私がこの時の事情を日刊スポーツ紙上で書いたら、野口さんからは「あの時の僕の心情を理解してくれている」と感謝された。

 とにかく、野口さんは日頃は円滑な社交家であったが、一面こうと腹をきめたら飽くまでも貫くという堅い信念を持っていた。だがあの事はやはり公平に見て、野口さんは母校の高師偏重と、官僚的な頑固さがあったことは否めない。

 後年、日仏対抗競技会のために満州から上京した岡部平太と野口さんとの仲直りをさせようと、やはり高師の同窓で当時大阪朝日の運動部長をしていた東口真平氏が新橋の料亭へ招いたことがあった。この時は私も同席したが、岡部氏の「競技の目的は勝つことにある」という主張に対して、野口さんは「いやそればかりではなく、青少年の心身の鍛練と人間生活の親睦にある」と反論して、徹夜で議論したこともあった。私も野口説に同調したが、「あの時は若い君もなかなか鋭かったね。あの強情な岡部も君の逆襲には閉口していたよ」と後年思い出して笑ったこともあった。

 野口さんがアントワープの大会から帰国されて、欧米の新しい技術競技法を身につけて帰国されたとき、早大競走部の代表委員だった私は、内田庄作君と共に駒場の野口さんの自宅を訪問してコーチを依頼したことがあった。

 当時インター・カレッジで優勝を争っていたのは早大と東京高師であった。いわゆるライバルからコーチを依頼されたので、野口さんも面喰ったらしい。だが、野口さんは快諾してくれた。そのために、早大は従来不得手であったフィールド競技に大きな進歩を見せ、殊に野口さんの得意だった棒高跳びと円盤投げに早大から幾多の名選手を育てあげ、日本の陸上競技の記録の向上に貢献した。

 とにかく、当時の野口さんを初め、われわれの考えは、世界の標準に対してあまりに低かった日本のレベルの向上で頭がいっぱいで、学校の派閥なんてことは眼中になかったのである。

 野口さんはその後、陸連の運営からは退かれたが、後進の指導には終始力をつくされた。戦後は新設された順天堂大学の陸上競技部長となり、後輩の帖佐氏を監督にして指導し、順天大を今や学制陸上競技界の強豪に育てあげた。

 野口さんの一生はわが国の陸上競技に輝かしい功績を残したが、一面誤解も多かったので、これを解明して、ご冥福を祈ろう。”

 

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