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河合勇「思い出のスポーツマン(3) 東口真平さん」

東口真平は1923(大正12)年に大阪朝日新聞初代運動部長になった人物。この年、大阪で第6回極東選手権大会が開催され、朝日新聞社は『アサヒスポーツ』を創刊した。スポーツ・ジャーナリズム史の史料として紹介したい。

河合勇「思い出のスポーツマン(3) 東口真平さん」『新体育』39(11) 1969.11 p.80-81

“日本のスポーツ界の黎明期には、嘉納治五郎さんを校長とする東京高等師範学校の卒業生が指導的立場で活躍した。中でも金栗四三、野口源三郎、岡部平太、東口真平さんの4人は傑出していた。

 だが、東口真平さんだけは誰も悪口をいうものがなかった。それは東口さんのあの真面目な性格によるもので、これは高師関係の人々ばかりでなく、兎角、議論の多かったスポーツ界で、東口さんほど信頼された人は少なかった。何か争い事が起こっても、東口さんが仲裁されると、片付いた場合が多かった。

 これらの人々はみな個性の強い人々だったから、野口さんと岡部さんなどは、いつも対立して相容れない点が多かった。

 東口を略して通称「グチさん」とよばれて親しまれ、内外の信用は絶大であった。

 高師の卒業生は大体、中学の体育教師として各地に赴任されるのが常であったが、東口さんが朝日新聞社に入られたことは異色ある道を選ばれたものである。在学中は柔道を主体として陸上競技にも活躍され、全日本選手権で大正4年に槍投げで31m54、大正5年には100ヤードで10秒6、220ヤードで24秒6の記録で優勝している。大正4年の上海の極東選手権でも、槍投げで活躍されたと記憶している。

 当時、野球以外のスポーツ選手で新聞記者となったのは恐らく初めてのことであったろう。入社されてから東西対抗陸上競技会を寝屋川競技場で開催したり、世界の4大選手を招待したり、体操大会を催したり、スポーツ界に貢献されることが多かった。

 私は大正12年に同じ朝日新聞社に入社して以来、長い間おつき合いを願ったが、あの真面目で、さっぱりとした性格は実に後味のよい印象を心に残している。大正12年には当時としては珍らしいグラビア印刷のアサヒ・スポーツを創刊し、大阪の渡辺文吉君と、東京の私とがその助手をつとめた。

 大正13年には、パリのオリンピック大会に特派員として派遣され、昭和14年には、編集局次長、昭和19年には取締役に昇進された。運動記者が新聞社でここまで出世されたのは、やはり東口さんが誰にも信頼された性格によるものである。

 太平洋戦争が激しくなり、昭和20年にはジャワ新聞社長となり、7月13日にシンガポールへ出張の途中、飛行機事故で殉職されてしまった。戦後、昭和21年の5月に朝日新聞社の大阪本社で社葬が行なわれた。半生を朝日新聞社とスポーツ界に捧げられたのである。

 永いおつき合いのうちで、いまだに印象に残っているのは、大阪から上京されると、必ず私の席へ来られて、静かにじゅんじゅんと話しをされる。煙草はあまりのまれなかったが、原稿紙をこまかく引きさかれる癖があった。編集局次長になられたとき、局長の北野吉内さんが、東口さんをスポーツ以外は何もわからぬ男と思ってか、編集に関することも何一つ相談しないで、直接各部長に命令するというので、「これじゃあ、まるでロボットにすぎない」といって、さすがの東口さんも憤慨された。そのときの長時間の話で、東口さんのまわりは原稿紙の紙片で真白になってしまったくらいだった。

 また、満州事変以来、英米に対する軍部の挑発で、何事も反英、反米で日本主義が昂揚された時代があった。その頃は、野球の用語などすべて英語を廃して日本語でやるところまで発展してしまった。そのときアメリカに追従せず、すべて日本式にルールも改定すべきだという議論も起こり、東口さんは野球専門家の飛田穂洲氏をとらえて、「野球でかくしだまなどするのは卑怯である」とか、「四球敬遠もいけない、カーブも相手をだます、盗塁などもってのほかだ」と、敵をだますようなことは許さないという日本式野球に改正すべきであるといって、武士道精神を重んずるさすがの飛田先生を困らせたこともある。

 また、体協の専務理事をやっていた野口源三郎氏とアンチ体協で日本陸連創立を企てていた岡部平太氏とは、パリのオリンピック大会以来仲が悪かったが、同じ高師のOBで、いつまでもこれじゃあいけないと、日仏対抗陸上競技会のために上京された岡部平太氏と野口源三郎氏とを東口さんは一夜料亭に招いて会議したこともある。

 更に、第3回早慶対抗陸上競技会のとき、東口さんは審判長をつとめたが、400m競走で当時オープン・コースだったので、慶応の浅野選手と早大の朝比奈選手が接触してファウル問題が起こり紛争があった。そのときの判定には早慶ともに不満があった。

 だが、大会後、慶応の先輩平沼亮三氏が東口氏の労を謝するという名目で宴会を開いて、ご馳走をした。その後で平沼氏がまた慶応の選手に対して、「あの判定はおかしい、なってない」という手紙を送ったというので、東口さんは「あんなご馳走をうけたことは残念だった」と口惜しがっていた。「これでつまらぬ借りが出来た。新聞記者はご馳走になってはいけない」といましめられた。

 思い出はつきないが、みんな東口さんの真面目な性格を物語るものばかりで、いつまでもなつかしいスポーツマンであった。”


 

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