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河合勇「思い出のスポーツマン(4) 山田午郎さん」

山田午郎はサッカー・ジャーナリズム創世記の朝日新聞記者。東京蹴球団主将として1921年第1回全国優勝競技会(現天皇杯全日本サッカー選手権大会)に優勝している。朝日運動部の同僚による人物評。山田の人物像だけでなく、戦前の東京朝日新聞運動部、師範学校全盛時代のサッカーのレベルについても言及されている。

→「日本最初のサッカー・ジャーナリスト、山田午郎

東京朝日新聞運動部長も務めたが、下記によれば部下を使いこなすのは上手ではなかったようである。

河合勇「思い出のスポーツマン(4) 山田午郎さん」『新体育』40(5) 1970.5 p.110-111

“今年3月、山田午郎さんの13回忌が郷里の福島県二本松で行われた。午郎さんが死んでから、もうそんなになるのかなと思った。

 午郎さんは私より少しおくれて朝日新聞の運動部に入られた。当時の運動部は、部長が小高吉三郎さん、次長が植村睦郎さん、その他に野球の久保田高行さん、テニス、ラグビーの岡本隆さんと私の5人きりだった。

 山田君は青山師範出身で、東京蹴球団の役員で、朝日新聞後援の蹴球大会を主催していたので、朝日新聞とは昔からなじみがあった。だが、当時のサッカーは貧弱なもので、日比谷公園でやるサッカー大会の見物人は関係者だけパラパラという淋しいものだった。私たち運動部員は手伝いにいったが、寒空にお客も少なく、参加校も高師附属、暁星のアストラ・クラブ、青山師範、豊島師範ぐらいで、少ないものだった。

 今日のサッカー・ブームで、神宮競技場がいっぱいになるくらいの盛況を、一度、午郎さんに見せてあげたかったと思う。当時から熱心だったのは今の会長野津さん、竹腰さんなどで、午郎さんはとうとう一生縁の下の力持ちで終ってしまった。

 事実、当時のサッカーというものは、見ていてつまらないものだった。ポンポンと大きく蹴ってタッチへ出して領域を進めてゆくだけで、ボールをパスして全員が前進するなんてことはなかった。フォワードもバックもその位置を守って球のくるのを待っているのだから面白いはずがない。たまにロング・シュートでどちらかが1点でもいれると、その1点を守るためにリードしたチームはやたらにタッチへ蹴出して時間かせぎをして、タイムアップを待つというのだから、お客は退屈して途中で帰り、あとは役員だけが残っているという有様だった。

 それがオリンピック大会でサッカーを見て来た人が、欧米のサッカーは違う。一旦、自分ボールとなると、こまかくパスして、フォワードもバックも一体となって前進してゴールへ迫り、ボールを相手方に渡さず攻めて行く。タッチへ出してチャンスを失うなどというのは、もってのほかのことだ。また、相手が一旦ボールを奪うと逆に素早いスピードで攻め返して行くので、スリルがあって、サッカーほど面白い球技はなく、欧州の大会で、サッカーの観衆が一番多いのも無理はないということであった。

 こういう話をきかされて日本のサッカーも改善されて、単なる陣地とりで引分けの多い試合方法が少なくなってきた。要するに、守りのサッカーから攻めのサッカーに変ってきたのだ。

 筆者もベルリン大会のサッカー試合を見て、つくづくサッカーの面白味が判ってきた。おまけに精鋭を揃えた日本のサッカー・チームが強豪スエーデンを破ったので、わが国のサッカー熱は上昇を見たのだった。

 ところが、戦争で中断したが、戦後、オリンピックを東京で開くにあたり、国民の前で下手な試合は見せられないというので、強化合宿をやったり、海外に遠征をしたり、西独のクラマー・コーチをやとったりして技術も格段に進歩した。

 第1戦に南米の雄アルゼンチンを破り、準々決勝にまで残る偉功を立てた。これで活気づいた日本チームはメキシコ大会でも好成績を収めて、国内におけるサッカー熱はもの凄いものになった。一時ラグビーの進出に気押されたかに見えたサッカーは、今や日本の球技の第一の人気ゲームとなった。それにつけても振わない時代のサッカーのために、心身をすりへらした午郎さんをもう少し長く生かしておきたかった。

 戦争がはげしくなって、日本はスポーツどころではなくなったので、午郎さんも庶務部から非常時対策本部などに移って、社内の防火から資材の獲得などの元締めをやることになり、社の自動車から電話線の確保までも受持つようになり、運転手から交換手、給仕さんまで午郎さんの支配下になり、社内の青少年の大親分になってしまった。

 運動部をはなれてから午郎さんは、スポーツの報道批評よりも実践に移り、社内に「山とスキー」の会など作って、社内の青少年を集めて山登りやスキーのリーダーとなった。

 スキーは僕らといっしょに始めたのだが、安全一方のしゃがみっぱなしのあんまり恰好のいいスキーではなかったが、熱心で彼のために社内にスキーをやるものが非常に多くなった。

 志賀高原に朝日のスキー小屋が建ったのも、午郎さんの努力のお陰であった。この小屋の落成式には村長をはじめ村の有力者、県から役人も来て盛大な落成式であった。しかし、出資者代表として朝日新聞本社からみえた東口編集局次長は面白くなかった。余りに午郎さんが土地の人と親しく、また努力していたので、村や県の感謝状は朝日新聞本社に対してはあまりなく、山田午郎さんの表彰のようなものであった。朝日本社を代表として出席した東口さんが怒るのも無理はない。これは少々、午郎さんの勇み足である。

 午郎さんは仕事を始めると、誰一人他人にまかせず、一人でやってしまうのである。デスクにいた時分でも、電話のベルが鳴ると素早く受話器をとり、決して他人に受話器を渡さなかった。こんなことが同僚には一人で仕事をしているようだ。他の人は一人もいらないというやり方だといって、不快に思うものも少なくなかったようだ。

 協同生活では、同僚も生かして働くということでないとうまくいかない。やっぱり長としての包擁力が少なかったのは遺憾であった。

 サッカーでも自分ひとりでドリブルしてゴールをねらっていては、得点出来にくい。早くパスして同僚に得点のチャンスを与えることも必要である。午郎さんはよく一人で仕事をしたが、同僚を生かしてチームの成績をあげることはあまり上手ではなかったようだ。やっぱり一時代前のサッカー選手だったので、独走も止むを得なかったのであろう。”
 

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Comments

ベルリン五輪が、日本サッカーの夜明けだった理由の一つがわかりました。古い時代のラグビーに似てます。

Posted by: 蹴球邸 | September 10, 2012 08:32 PM

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