« 河合勇「思い出のスポーツマン(3) 東口真平さん」 | Main | 河合勇「思い出のスポーツマン(1) 野口源三郎さん」 »

河合勇「思い出のスポーツマン(4) 岡部平太さん」

岡部平太は東京高師柔道部出身であるが、アメリカに留学して当時世界最先端のコーチ学を身につけ、下記にあるように後半生は陸上長距離のコーチをしていた。柔道とプロレスの異種格闘技をめぐって嘉納治五郎と対立し(嘉納が積極的で、岡部は反対した)、講道館を破門されたのを皮切りに、陸上競技では体協主流派と対立、満州では張学良政府の高官と交流していたので関東軍から敵視されるという波乱続きの前半生を送っている。→「岡部平太の略歴とサッカー

サッカーとの関わりは1921年第5回極東選手権大会で体協の蹴球委員長を務め、東京高師+東京蹴球団+野津謙からなる関東蹴球団なるチームを作り、予選会を突破させて代表チームとして送り出している。極東選手権の後に創立された大日本蹴球協会の役員にも名を連ねている。サッカーに関しても造詣が深く、1924年パリ・オリンピックのサッカー観戦記を書いている。→「岡部平太のイングランド・リーグ、1924年パリ・オリンピックサッカー観戦記

陸連創立の契機となった1925年の体協改革により、体協は各競技団体の連合体となり、理事は各競技団体から選出されることになった。JFAも1925年から理事2名(最初は野津謙と内野台嶺)を出し、野津は2年後の1927年に会長、副会長に次ぐNo.3のポジションにあたる専務理事(4名)になっている。パリ・オリンピックの陸上競技選手選考にともなう体協のトラブルは体協改革につながり、体協内での蹴球協会の地位を高めることになった。→「JFA選出体協役員

河合勇「思い出のスポーツマン(4) 岡部平太さん」『新体育』40(1) 1970.1 p.128-129, 123

“東京高師の卒業生のうちで一番型破りなのは岡部平太さんだろう。何しろ負けず嫌いで横紙破りだった。

 高師在学中は柔道部の大将で、一ツ橋の高商との対抗試合に、敵の大将でこれも負けず嫌いの尾高の首をしめ、「これでもか、これでもか」と締めあげて気絶させてしまったという猛者であった。

 だが、当時、柔道の世界選手権などは思いもよらなかったので、柔道では到底世界に覇をとなえることは出来ない。所詮、「日本一が関の山だ」と考えたので、アメリカのスタンフォード大学へ留学して、陸上競技の理論と実際を学び、何時かは日本選手をして世界の覇者たらしめんと志した。

 帰国してから一高、東大の選手のコーチなどしていた。とりわけ東大の岡崎選手に目をつけて、彼は東大の400mリレーの選手もしていて、スプリントもあったが、短中距離ではまだ到底、欧米の選手に及ばないことを知っていたので、5千、1万の長距離選手に育てようと熱心に1周毎のラップタイムなどをとってやって激励していた。岡崎は後にパリのオリンピック大会の5千mに出場した。

 大正10年頃、岡部さんは水戸高校の体育主任に就職した。仙台二高と対抗競技をやるというので猛練習を始めた。早大から私や内田庄作、平井武、下田貞晴などが、不得意な競技種目のコーチに招かれた。こんな思い切った手段は岡部さんならでは出来ないことだった。

 水戸校校は二高を破り、更に全国高校大会でも優勝したと記憶している。何でも勝つためにはあらゆる努力をするというのが岡部式なのである。

 その後、岡部さんは満鉄に入社して、満州へ赴任、大正13年のパリのオリンピック大会には、満州体育協会の主事として視察に行き、ここで落ち合った全国学生連合の主事森田俊彦、大阪体協の竹内広三郎、名古屋体協の日比野寛、朝鮮体協の河津彦四郎などと協議して、国際陸上競技連盟へ加入を申込んだ。一方、体協もこれはいけないと加入を申込み、加入権を争うことになった。これで国際陸連は日本から2つの申込みをうけて困ったが、国際陸連のエドストローム会長、岡部らの全日本陸上競技連盟は数日前にこのパリで大いそぎで即製的に結成された団体で、まだ一ぺんも日本の選手権大会を開催していない。一方、体協の方は10年も前に創立され、毎年、選手権大会も行なっているのだからという理由で、体協の加入を認めて、即製の全日本陸上競技連盟の加入は拒否されてしまった。この運動の主役は岡部平太であり、体協の主事同窓の野口源三郎と鋭く対立することになった。だがこの運動が後に全日本陸上競技連盟を作って、後年、国際陸上競技連盟に加入した今日の姿となる出発点であったことは否めない。

 日本の国内の陸上競技会は、このパリ大会の選手派遣をめぐって、官学偏重に抗議し、13校問題など起こしていたが、岡部さんは満州にあって、当時の北支満州地方の実力者張学良に近づき、大連に大競技場を作らせるなどして力を養っていた。

 昭和3年の秋、満鉄はフランス選手を招待して、日本は始めて国際対抗陸上競技会を行った。これは全く岡部さんの働きで、体協もグウの音も出なかった。対抗競技は日本78点、フランス点で、接戦の結果勝った。フランス・チームは東京へもきて、日本学生チームとも戦い、これも77点5対71点5で日本学生軍が勝ち、大いに日本陸上競技界に自信を持たせた快挙であった。

 この時、東京へやってきた岡部さんを高師で同窓の東口真平さんは、パリ大会の国際陸連加盟問題以来、不破となっている野口源三郎との仲を心配して、一夜、料亭で語りあかした。野口さんには体協万能、専横はよくない、岡部さんには、君のスポーツは勝つためにやるのだ、勝つためにはどんな手段でもやるという考えはよくない、とあの真面目一方の東口さんは、徹夜で2人を説得した。

 だが、岡部さんの負け嫌いと、横紙破りは、生れつきで、なかなか改らなかった。

 岡部さんはパリ大会の後にも、大正14年のマニラの第7回極東選手権大会でも、比島役員の未熟な誤審と不公平な判定に抗議して、参加の53名の選手団を率いて退場して途中で棄権させた。そのために体協から岡部監督始め12名が除名されている。このマニラ事件も岡部さんが体協改造運動を始める一因ともなっていたのだ。

 だが、あれだけ愛国心に燃え、日本と満州の親善をはかった岡部さんにとって何よりの痛手は柳条溝の爆破事件以来、日本の軍部の張学良との戦争であった。張学良に絶大な信頼を得ていた岡部さんは敵方に好意を寄せるものとしてしばらく北京で監禁されていた。

 大東亜戦争があの通りの始末で、日本へ帰ってきた岡部さんは、郷里福岡へ定住して、九州大学へ通って博士論文を出して医学博士となった。これは多年の陸上競技の指導によって得た理論と実際によるもので、彼が無茶苦茶な横紙破りでないことを証明するものである。

 敗戦後、凋落した日本の陸上競技界を眺めて岡部さんはいまの日本の陸上競技界で一番に世界の競技界で飛躍出来るのはマラソンであるとねらいをつけて、金栗さんや、当時朝日新聞社の西部本社の運動部長をしていた伊藤寛などと共に、「オリンピックでマラソンを優勝させる会」を作って朝日国際マラソンで外国選手を招待して九州で毎年マラソン大会を行ない、マラソンの国際的向上をはかった。

 昭和26年にはボストン・マラソンに参加して田中茂樹を優勝させている。

 オリンピックでは、ベルリン大会の孫選手を別にして、東京で行なわれた大会で円谷選手が3位にまでなったが、まだ戦後は優勝していない。もう一息というところまできている。負け嫌いの岡部さんの最後の希望はマラソンの優勝であった。その成果を見ずして病没されたのは、岡部さんにとって残念なことだったろう。早くその希望をかなえて岡部さんの霊を慰めてあげたい。”
 


|

« 河合勇「思い出のスポーツマン(3) 東口真平さん」 | Main | 河合勇「思い出のスポーツマン(1) 野口源三郎さん」 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 河合勇「思い出のスポーツマン(3) 東口真平さん」 | Main | 河合勇「思い出のスポーツマン(1) 野口源三郎さん」 »