« August 2012 | Main | October 2012 »

牛木素吉郎「新時代を迎える日本サッカー」

牛木素吉郎「新時代を迎える日本サッカー」『読売新聞』1961年8月18日付は第7回全国都市対抗サッカー選手権の総評記事。本大会で古河電工が全日本選手権(現在の天皇杯)、実業団選手権に続いて3冠を達成した。日本サッカーの重心が大学から社会人に移行したことを指摘した上で、4年後に日本サッカーリーグとして実現することになる社会人の全国リーグ結成が提言されている。

牛木素吉郎「新時代を迎える日本サッカー」『読売新聞』1961年8月18日付

新時代を迎える日本サッカー
   社会人チームに選手層の厚み
      強豪同士でリーグ戦を

総評 

 読売新聞社後援の第七回全国都市対抗選手権大会は古河電工の優勝で十六日閉幕した。古河電工が史上初の三大タイトル(全日本選手権、実業団選手権、都市対抗)独占で、日本では無敵の実力を証明したことは、日本のサッカー界が新しい時代にはいったことをますますはっきりさせた。ちょうどことしは日本サッカー協会の創立四十周年、東京オリンピックを控えこの機会に従来の大学チーム中心のサッカー界を再編成し、社会人チームに脚光をあてる時期がきたようだ。

 決勝を争った古河電工と八幡製鉄はともにこの大会で芽を出したチームである。八幡は三十二年に、古河は三十四年に、それぞれこの都市対抗で全国大会のタイトルを初めて握り、これを踏み台に伸びてきた。また四位の名古屋も三十二年にニ位となってから毎回出場して好成績をあげ地歩を固めた。名古屋に続いて浦和、巴川製紙、茨城日立などがずらりと並んだ今大会をみると、社会人チームの層が都市対抗とともに厚くなったことが感じられる。

 ただ古河の勝ちっぷりが示すように古河、八幡などのトップ・レベルと、名古屋のような中堅級の間にはだいぶ差がある。全日本代表になるような一流選手をスカウトして集めるチームと、ふつうの社会人チームでは差ができるのが当然であろう。

 そこで古河、八幡のほか日立本社、東洋工業のようなトップ・クラスは別に一グループとしてリーグ戦を組むことも考えられる。外国では全国的なリーグ戦をメーン・エベントとしてサッカーが大衆のものとなっており、また西ドイツから招いたクラマー・コーチも「オリンピック級の一流選手を育てるには連日のトーナメントは不適当。いい試合はリーグ形式でないと見られない」と勧告している。社会人サッカー・リーグの実現はサッカー界の宿題といえよう。

 都市対抗では予選地域からの選手補強が認められているが、東京の古河電工が新三菱重工や日立本社の選手を補強したのに対し、八幡製鉄は地元九州には他にいいチームがないためアナを埋められなかった。古河が補強選手を自分のチーム・カラーの中にとけこませたのはりっぱで、補強さえすれば勝てるというものではないのはもちろんだが、もともと補強はメンバー不足の地方チームのためのものである。そういう意味でも都市対抗をふくめて年間スケジュールの再編成が検討されていい。(牛木)”

| | Comments (0)

第8~10回全国都市対抗サッカー選手権大会結果

第8回1962年

同月下旬のアジア大会日本代表に保坂司、宮本征勝、鎌田光夫、内野正雄、八重樫茂生、川淵三郎、平木隆三の7人が参加している古河電工は不出場。古河に代わって全三菱が東京代表になっている。出場している八幡製鉄も宮本輝紀、渡辺正が日本代表に参加しており、不在。

1962年8月11日 1回戦 全三菱(東京) 6-0 盛岡ゼブラ・ク(盛岡市) 浦和教員ク(浦和市) 6-0 新三菱重工水島(倉敷市)

1962年8月12日 2回戦 全三菱(東京) 1-0 大日本電線(尼崎市) 日本鋼管(川崎市) 5-0 西日本鉄道(小倉市) 名古屋相銀(名古屋市) 3-2 専売広島(広島市) 帝人松山(松山市) 4-0 日立栃木(大平町) 八幡製鉄(八幡市) 2-0 富山サッカー(富山市) 双和ク(神戸市) 3-2 茨城日立(日立市) 鋼管清水ク(清水市) 3-2 湯浅電池(高槻市) 浦和教員ク(浦和市) 0-0(抽選) 富士鉄室蘭(室蘭市)

1962年8月13日 3回戦 鋼管清水 6-2 浦和教員ク 名古屋相銀 3-3(抽選) 帝人松山 八幡製鉄 6-0 双和ク 全三菱 1-1(抽選) 日本鋼管

1962年8月14日 準決勝 名古屋相銀 1-1(抽選) 全三菱 八幡製鉄 6-0 鋼管清水

1962年8月15日 決勝 八幡製鉄 5-0 名古屋相銀 3位決定戦 全三菱 4-0 鋼管清水
八幡製鉄 GK 浜崎 FB向山 原田 HB 杉村 石川 上 FW 井沢 佐伯 大石 神田 富沢    
名古屋相銀 GK 豊吉 FB 松尾 近藤 HB 中村 林 高田 FW 安藤 水野 内田 立川 横森
全三菱 GK 佐藤 FB 浜口 吉田泰 HB 森 森田 島谷 FW 二宮 北口 清水 村田 平田

第9回1963年

昨年に引き続き、同時期に日本代表はソ連とマレーシアに2チームを遠征させており、有力選手はほとんど不参加である。古河電工は社業不振のため対外試合を1年間自粛していたが、日本代表として活動するのは許されたようである。

ソ連遠征メンバー中の実業団関係者
古河電工:平木隆三(コーチ兼選手) 川淵三郎  
新三菱重工:生駒友彦(主務兼コーチ) 清水泰男 
日立:片伯部盛夫 野村六彦 
八幡製鉄:上久雄 大石信幸 
東洋工業:石井義信 川西武彦 岡光竜三
住友ベークライト:渡辺昭夫
日本ダンロップ:佐々木行治
 
マレーシア遠征メンバー中の実業団関係者
古河電工:長沼健(監督) 保坂司 宮本征勝 鎌田光夫 八重樫茂生  
新三菱重工:片山洋 継谷昌三
日立:鈴木良三
八幡製鉄:富沢清司 渡辺正 宮本輝紀
東洋工業:小沢通弘 
日本鋼管:高森泰男

東京からは3人を引き抜かれた日立が出場している。広島からは4人引き抜かれた東洋工業が初出場。

1963年8月12日 1回戦 岐阜ク(岐阜市) 1-0 全京都(京都市) 日立本社(東京) 12-0 国策パルプ(旭川市) 八幡製鉄(北九州市) 11-0 上田ク(上田市)

1963年8月13日 2回戦 東洋工業(広島県府中町) 4-1 岐阜ク(岐阜市) 浦和ク(浦和市) 12-0 三井化学(大牟田市) 明星ク(大阪市) 1-0 日本鋼管(川崎市) 日立本社(東京) 4-0 大分市役所(大分市) 帝人松山(松山市) 5-1 日本製鋼広島(舟越町) 茨城日立(日立市) 2-1 清水ク(清水市) 双和ク(神戸市) 6-0 オール釜石(釜石市) 八幡製鉄(北九州市) 8-1 栃木日立(大平町)

1963年8月14日 3回戦 八幡製鉄 1-1(抽選) 双和ク 茨城日立 2-0 帝人松山 日立本社 3-0 明星ク 浦和ク 2-1 東洋工業   

1963年8月15日 準決勝 日立本社 5-2 浦和ク 八幡製鉄 6-0 茨城日立

1963年8月16日 決勝 日立本社 3-2 八幡製鉄 3位決定戦 浦和ク 3-2 茨城日立

第10回1964年

東京オリンピックの約2ヶ月前に開催され、日本代表はヨーロッパ遠征中、ムルデカ大会参加組は合宿中ということで、前々回、前回に続いて主力選手不在で行なわれた。2年ぶりに古河電工が出場している。

1964年8月13日 1回戦 浦和ク(浦和市) 6-1 日本製鋼広島(舟越町) 古河電工(東京) 4-1 大日本電線(大阪市) 日立本社(東京) 3-0 広島ク

1964年8月14日 2回戦 浦和ク(浦和市) 1-0 京都ク(京都市) 八幡製鉄(北九州市) 5-0 日立栃木(大平町) 古河電工(東京) 5-5(抽選) 豊田自動織機(刈谷市) 日本鋼管(横浜市) 5-0 室蘭ク(室蘭市) 日立茨城(日立市) 2-2(抽選) 三菱重工(神戸市) 日立本社(東京) 6-0 富山ク(富山市) 三井化学(大牟田市) 1-0 秋商ク(秋田市) 帝人松山(松山市) 2-0 清水ク(清水市)

1964年8月15日 3回戦 日立本社 11-0 三井化学 帝人松山 1-1(抽選) 日立茨城 古河電工 4-0 日本鋼管 浦和ク 3-2 八幡製鉄

1964年8月16日 準決勝 古河電工 2-0 浦和ク 日立本社 2-0 帝人松山

1964年8月17日 決勝 古河電工 3-1 日立本社 3位決定戦 浦和ク 4-1 帝人松山 

全日本都市対抗サッカー大会と実業団選手権は1964年をもって終了し、1965年から日本サッカーリーグが始まる。 


| | Comments (0)

第5~7回全国都市対抗サッカー選手権大会結果

第5回1959年

東京代表トリック・クラブは東大OB、立教大OB、インターナショナル(マjクドナルド氏)、中央大OBの頭文字からとったクラブチーム。東京キッカーズは解散したもよう。

1959年8月15日 1回戦 秋商ク(秋田市) 2-1 東邦レ徳島(徳島県北島町) トリック・ク(東京) 6-0 住友奔別(三笠市)

1959年8月16日 2回戦 全大阪(大阪市) 4-0 専売広島(広島市) トリック・ク(東京) 4-0 秋商ク(秋田市) 名古屋サッカー(名古屋市) 3-0 ビクターオート所沢(所沢市) 八幡製鉄(八幡市) 9-0 高岡サッカー(高岡市) 日本ダンロップ(神戸市) 6-2 全甲府(甲府市) 帝人三原(三原市) 0-0(抽選) 清水サッカー(清水市) 湯浅電池(高槻市) 2-0 日立多賀(日立市) 古河電工(東京) 7-0 鶴屋百貨店(熊本市)

1959年8月17日 3回戦 古河電工 5-0 湯浅電池 日本ダンロップ 4-2 帝人三原 八幡製鉄 5-0 名古屋サッカー トリック・ク 1-0 全大阪

1959年8月18日 準決勝 八幡製鉄 1-1(抽選) トリック・ク 古河電工 2-1 日本ダンロップ

1959年8月19日 決勝 古河電工 4-1 八幡製鉄 3位決定戦 トリック・ク 3-1 日本ダンロップ
古河電工 GK 小林 FB 平木 宮崎 HB 小川 大塚 小川原 FW 能勢 内野 岩淵 長沼 八重樫
八幡製鉄 GK 皆本 FB 原田 長野 HB 村山 石川 寺西 FW 坪島 井沢 宮本 佐伯 大石

過去4回中3回を東京クラブ、東京キッカーズが優勝したが、平木、内野、岩淵、長沼、八重樫など日本代表クラスを揃えた古河電工が東京代表実業団チームとして初優勝している。岩淵、長沼は東京クラブのメンバーとしても優勝を経験している。クラブ・チームではなく所属実業団チームから出場するようになり、

クラブ・チーム → 実業団

への流れの節目は1959年あたりだったようである。

第6回1960年

1960年8月13日 1回戦 古河電工(東京) 5-0 岩瀬蹴球(富山市) 大阪府・市職員(大阪市) 7-1 国策パルプ(旭川市) 

1960年8月14日 2回戦 古河電工(東京) 7-0 大阪府・市職員(大阪市) 栃木日立(大平村) 8-2 島原サッカー(島原市) 日本鋼管(川崎市) 1-0 紫光ク(京都市) 名古屋サッカー(名古屋市) 6-0 帝人三原(三原市) 広島専売(広島市) 3-0 日本ダンロップ(神戸市) 茨城日立(日立市) 3-2 清水サッカー(清水市) 東邦レ徳島(北島町) 2-2(抽選) 全秋田(秋田市) 八幡製鉄(八幡市) 2-0 浦和サッカー(浦和市)

1960年8月15日 3回戦 八幡製鉄 4-0 東邦レ徳島 茨城日立 4-2 広島専売 日本鋼管 3-3(抽選) 名古屋サッカー 古河電工 10-0 栃木日立

1960年8月16日 準決勝 古河電工 2-2(抽選) 日本鋼管 八幡製鉄 3-1 茨城日立

1960年8月17日 決勝 古河電工 3-0 八幡製鉄 3位決定戦 茨城日立 2-0 日本鋼管
古河電工 GK 小林 FB [?]尾 小川 HB 中島 大塚 小川原 FW 北口 内野 岡野(補強選手) 長沼 高橋
八幡製鉄 GK 皆本 FB 片山 原田 HB 堀田 石川 上 FW 坪島 井沢 村山 寺西 大石

第7回1961年

1961年8月12日 1回戦 古河電工(東京) 8-1 栃木日立(栃木市) トリック・ク(東京) 7-0 富山サッカー(富山市)

1961年8月13日 2回戦 古河電工(東京) 9-2 西鉄北九州(小倉市) 双和クラブ(神戸市) 5-0 協和発酵(宇部市) 京都紫光(京都市) 5-1 富士鉄室蘭(室蘭市) 全名古屋(名古屋市) 3-0 全秋田(秋田市) 八幡製鉄(八幡市) 6-0 東洋レ愛媛(松山市) 浦和教員ク(浦和市) 5-4 巴川製紙(静岡市) 茨城日立(日立市) 5-0 日本製鋼広島(舟越町) トリック・ク(東京) 2-1 ヤンマーディーゼル(大阪市)

1961年8月14日 3回戦 トリック・ク 3-2 茨城日立 八幡製鉄 5-1 浦和教員ク 全名古屋 2-1 京都紫光 古河電工 7-0 双和ク

1961年8月15日 準決勝 古河電工 9-0 全名古屋 八幡製鉄 5-0 トリック・ク

1961年8月16日 決勝 古河電工 5-2 八幡製鉄 3位決定戦 トリック・ク 2-1 全名古屋
古河電工 GK 小林 FB [?]尾 宮崎(日立本社) 島谷 HB 平木 小川 FW 二宮(新三菱重工) 北口(新三菱重工) 内野 長沼 守屋  
八幡製鉄 GK 皆本 FB 向山 石川 原田 HB 杉村 上 FW 井沢 寺西 坪島 神田 大石

古河電工は全日本選手権、実業団選手権に続く3冠を達成。なお、同時期の日本代表海外遠征に古河電工から保坂司、宮本征勝、鎌田光夫、八重樫茂生、川淵三郎の5人、八幡製鉄から佐伯博司、宮本輝紀の2人が参加しており、それでも両チームが3年連続決勝進出していることは、両チームが実業団サッカーにおいて傑出していたことを示している。


   


 

| | Comments (0)

第4回全国都市対抗サッカー選手権大会結果

1958年8月16日 1回戦 東京キッカーズ(東京) 1-0 東邦レ徳島(徳島県北島町)

1958年8月17日 2回戦 東京キッカーズ(東京) 3-2 全函館(函館市) 全大阪(大阪市) 11-1 富山サッカー(富山市) 茨城日立(日立市) 2-0 大分サッカー(大分市) 名古屋サッカー(名古屋市) 3-1 広島修道OB(広島市) 清水サッカー(清水市) 4-1 全甲府(甲府市) 神戸日本ダンロップ(神戸市) 8-0 岡山旭ク(岡山市) 八幡製鉄(八幡市) 7-1 盛岡ゼブラ(盛岡市) 浦和サッカー(浦和市) 2-0 湯浅電池(高槻市)

1958年8月18日 3回戦 浦和サッカー 3-1 八幡製鉄 日本ダンロップ 5-2 清水サッカー 茨城日立 2-2(抽選) 名古屋ッカ― 東京キッカーズ 4-1 全大阪

1958年8月19日 準決勝 東京キッカーズ 5-2 茨城日立 浦和サッカー 2-1 日本ダンロップ

1958年8月20日 決勝 東京キッカーズ 3-2 浦和サッカー 3位決定戦 日本ダンロップ 0-0 茨城日立

東京クラブの系譜を継いだ東京キッカーズが4年間で3度目の優勝。この後解散したようで、次回大会から参加はない。
 

| | Comments (0)

第3回全国都市対抗サッカー選手権大会結果

東京キッカーズは東京クラブが名称変更したようで、連続出場扱いになっている。

1957年9月3日 1回戦 東京キッカーズ(東京) 5-2 松尾鉱山(岩手)

1957年9月4日 2回戦 東京キッカーズ(東京) 2-1 新日本窒尚和会(熊本水俣) 専売公社広島(広島) 2-1 全堺(堺) 名古屋サッカー(名古屋) 2-1 甲府クラブ(甲府) 全大阪(大阪) 3-0 富山蹴球ク(富山) 八幡製鉄(八幡) 2-1 全函館ク(函館) 清水サッカー(清水) 2-0 浦和サッカー(浦和) 日本ダンロップ(神戸) 8-1 協和発酵(防府) 日本鋼管川崎ク(川崎) 4-0 富岡サッカー(徳島県富岡)

1957年9月5日 3回戦 日本ダンロップ 4-1 日本鋼管川崎ク 八幡製鉄 2-1 清水サッカー 名古屋サッカー 4-1 全大阪 東京キッカーズ 3-0 専売広島

1957年9月6日 準決勝 名古屋サッカー 2-1 東京キッカーズ 八幡製鉄 1-0 日本ダンロップ

1958年9月7日 決勝 八幡製鉄 5-0 名古屋サッカー 3位決定戦 東京キッカーズ 2-0 日本ダンロップ

東京キッカーズの出場メンバーは、

1回戦 GK 松田 FB 土井田 青木 HB 大埜 海老原 荒川 FW 杉野 小林 鈴木 岩淵 松沢
2回戦 掲載なし
3回戦 GK 松田 FB 土井田 青木 HB 松岡 海老原 大埜 FW 竹島 小林 鈴木 小田島 岩淵
準決勝 GK 岡田 FB 土井田 大埜 HB 小田島 海老原 松岡 FW 桑田 小林 鈴木 岩淵 竹島

大会前の予想では東京キッカーズのレギュラーは、GK 岡田(早出) FB 土井田(慶出) 青木(早出) 大埜(東出) 海老原(東出) FW 桑田(早出) 岩淵(慶出) 小林(慶出) 加納(早出) 竹島(慶出) と、全員早大、慶大、東大OBになっていて、東京クラブ時代の村岡(東教出)、松永(同)、長沼(中出)、三村(同)、李(同)など上記3大学以外のOBが消えている。名称変更は何らかの「お家騒動」にともなうものだったのだろうか。

関東大学OBのオールスター・チームだった東京クラブは、2年後早大、慶大、東大3大学OBのみの東京キッカーズになり、連続優勝も2回どまりの結果となった。

| | Comments (0)

第2回全国都市対抗サッカー選手権大会結果

読売の社告で第1回は「蹴球」だったのが、「サッカー」に変っている。

1956年8月16日 1回戦 東京ク(東京) 7-1 全秋田(秋田市)

1956年8月17日 2回戦 東京ク(東京) 4-2 函館サッカー(函館市) 清水サッカー(清水市) 3-2 広島キッカーズ(広島市) 全大阪(大阪市) 4-0 大分サッカー(大分市) 川崎ク(川崎市) 12-0 金沢サッカー(金沢市) 新三菱重工(神戸市) 5-2 甲府ク(甲府市) 八幡製鉄(八幡市) 5-0 富岡サッカー(徳島) 浦和サッカー(浦和市) 5-1 刈谷サッカー(刈谷市) 京都紫光(京都市) 5-1 半田山ク(岡山市)

1956年8月18日 3回戦 東京ク 5-0 清水サッカー 全大阪 4-2 川崎ク 新三菱重工 2-0 八幡製鉄 浦和サッカー 4-3 京都紫光

1956年8月19日 準決勝 新三菱重工 1-0 浦和ク 東京ク 4-2 全大阪

1956年8月20日 決勝 東京ク 1-0 新三菱重工 3位決定戦 浦和ク 2-0 全大阪

実業団サッカーの強豪、八幡製鉄と新三菱重工(浦和レッズの前身)が加わり、第1回より接戦が増えている。東京クラブが第1回に引き続き1回戦から出場しているのは、同チームが大会の目玉だったからだろうか。

東京クラブの出場メンバーは、

1回戦 GK マクドナルド FB 青木 長井 HB 李 海老原 高林 FW 松永 小林 鈴木 小田島 田中
2回戦 GK マクドナルド FB 青木 李 HB 鈴木吉 大埜 芳賀 FW 能勢 小田島 鈴木得 高林 田中
3回戦 GK 村岡 FB 三村 土井田 HB 李 海老原 小田島 FW 岩淵 長沼 松永 芳賀 鈴木得
準決勝 GK マクドナルド FB 土井田 青木 HB 李 三村 小田島 FW 松永 長沼 鈴木得 小林 岩淵
決勝 GK マクドナルド FB 長井 青木 HB 李 海老原 大埜 FW 松永 小林 鈴木得 長沼 田中

この年の11月27日メルボルン・オリンピック対オーストラリア戦の日本代表には、小林忠生、岩淵功が出場し、長沼健、三村恪一がベンチ入りしている。

 

| | Comments (0)

第1回全国都市対抗蹴球大会結果

1955年7月1日 1回戦 東京ク(東京) 5-0 浦和ク(浦和市)

1955年7月2日 2回戦 甲府ク(甲府市) 4-4(抽選で甲府勝ち) 盛岡ク(盛岡市) 京都紫光ク(京都市) 8-0 高知農ク(高知長岡村) 島原ク(島原市) 3-2 大協石油(四日市市) 鋼管川崎ク(川崎市) 7-0 山口ク(山口市) 東京ク(東京) 11-0 富山ク(富山市) 芦屋ク 3-2 新日本窒素(水俣市) 湯浅電池(高槻市) 4-0 函館ク(函館市) 清水ク(清水市) 3-0 広島キッカーズ(広島市)

1955年7月3日 3回戦 東京ク 9-0 芦屋ク 清水ク 5-1 湯浅電池 甲府ク 0-0(抽選で甲府勝ち) 日本鋼管 3-1 島原ク

1955年7月4日 準決勝 鋼管川崎 2-0 甲府ク 東京ク 5-0 清水ク

1955年7月5日 決勝 東京ク 5-2 鋼管川崎 3位決定戦 清水ク 2-0 甲府ク

出場チームのうち、甲府クラブはヴァンフォーレ甲府の、京都紫光クラブは京都サンガの前身である。

日本代表クラスの大学OBを集め、ひそかにプロ化をめざしていた東京クラブが5試合で総得点35、失点2、という圧勝劇を演じている。各試合の出場選手は、

1回戦 GK マクドナルド FB 青木 土井田 HB 李 海老原 大埜 FW 松永 長沼 鈴木 岩淵 加納
2回戦 未掲載
3回戦 GK 村岡 FB 石坪 丸山 HB 大埜 海老原 浜田 FW 竹島 小田島 鈴木 能勢 松永
準決勝 GK マクドナルド FB 土井田 青木 HB 李 海老原 浜田 FW 竹島 長沼 鈴木 岩淵 加納
決勝 GK 岡田 FB 土井田 青木 HB 大埜 海老原 小田島 FW 松永 長沼 鈴木 岩淵 加納

現在では考えられない5日間5試合だが、20名までエントリーできたので、選手をターンオーバーして乗り切ったようだ。選手のレベルが高いだけでなく、選手層も厚かったようである。

| | Comments (0)

松永碵「幻のプロサッカー秘話」

松永碵「幻のプロサッカー秘話」『イレブン』9(14) 1979.11 p.135

“後楽園競輪場ができたのが昭和24年10月、その年だったか、あるいはその翌年だったか、ある日突然、読売新聞社主の正力松太郎さんから「至急会いたい」という電話がかかってきた。大読売の正力さん―。もちろん日立でサッカーに明け暮れていた若僧の私には一面識もなかった。

 社主室の大きな部屋に通され、いささか緊張の面持ちの私に、正力さんは温和な視線を投げかけ、こう話をきり出してきた。

「実はね、サッカーのプロ・チームをきみにつくってもらおうと思って呼んだんだよ。日本の野球は読売巨人軍を中心にどんどん栄えていく。だが、野球は世界的なものではない。世界に輝くプロ・サッカーをそだてるのが、このわしの願いなんだ」

 正力さんは、一気にこういうと目を輝かせて私の返事を待った。

 正力さんの構想によると、氏の肝煎りでできた後楽園の競輪場の開催の合間を利用して、プロのサッカー試合を行なう。そして、そのサッカー試合にトトカルチョを導入しようというものだった。

 いまでこそ、世界のプロ・サッカーでほとんどトトカルチョの[ママ]行なわれているが、当時、アマチュア至上主義の日本のスポーツ界で、正力さんの唱える“ばくち”は、私を驚愕させるに十分だった。

 私が返答に困っていると、正力さんは、「チーム結成の中心人物を物色して、いろいろな意見を聞いてみたが、きみしかいないというわけで・・・・・」こうたたみかけるように話しかけてきた。

 熟慮のすえ、「私はプロをやる気はありません」と断わった。正力さんは「そんなことじゃ困る」、「じゃチーム結成までお手伝いしましょう」、「そこまでじゃ、しようがないよ」というようなやりとりがあった。結局は正力さんが折れて、直接プロを目指すということじゃなしに日本最強チーム結成に着手することになった。

 チーム名を“東京クラブ”とし、メンバーには香港からきていたマクドナルド(GK)、大埜(日産化学)、鈴木(立教大出)、山口(明治大出)などが中心だったと思う。

 このメンバーで第一回都市対抗(読売新聞社主催)に臨んだ。もちろん、向うところ敵なしの優勝だった。だが、プロを前提とする秘密のチームだけにそれを感じていたサッカー関係者の牽制や中傷も多かったのも事実だった。それに“団結”の基盤も脆弱だった。

 数年後、正力さんの夢も空しく、最強“東京クラブ”はあえなく空中分解してしまった。

 正力さんとのお別れパーティは新橋の「みかど」で行なわれた。その席上正力さんは「海の向こうから敵の艦船が押し寄せてくるのが見えるテレビジョンという機械が茶の間にはいり込んでくる」と現在の4チャンネル構想を明らかにしたのを覚えている。

 そんな話の途中、正力さんはそっと私の耳もとにささやいた。

 「結局、プロをつくる時期じゃなかったんだな。だが、ぼくはこのサッカーの夢は捨てないよ」

 この夢はプロ化構想とは違ったが、小林与三次NTV社長によって高校サッカーに受け継がれているような気がしてならない。”

読売新聞の第1回都市対抗予想記事によれば、すでに古河電工に入社していた長沼健氏も東京クラブに所属していた。後楽園競輪場ができた1949年から第1回都市対抗開催の1955年まで6年間はどうだったのだろうか。正力氏にサッカーの知識をつけた「参謀」はだれだったかも気になる。

| | Comments (0)

第1回全国都市対抗蹴球選手権大会の予想記事

読売新聞1955年7月1日付

呼声高い東京ク
   きょうから全国都市対抗サッカー

読売新聞社後援第一回全国都市対抗サッカー選手権大会はきょう一日から五日まで後楽園競輪場および野球場で各地区予選(関西のみ推選)を経た十七チームによって優勝が争われる。

出場チームのうち実業団の会社代表は湯浅乾電池、大協石油、新日窒の三チームで鋼管川崎は六月の第一回全国府県対抗実業団サッカー選手権大会に優勝した日本鋼管を主体に若干選抜選手を加えている。清水サッカーも全日本選手権大会にしばしば出場した日本軽金属に東亜燃料の選手を加えた混成軍。

京都紫光は昨年の第九回国民体育大会で一般の部に優勝したチーム、京大、師範、学芸大出身者の京都中学、高校教諭の集まりであるが、高知農高OBで固めた農村青年の高知農業クラブという異色あるチームの参加もあり、ただ一人外人選手イングランド出身のマクドナルドをゴールキーパーに加えた東京クラブなど、広範囲にわたる各選手層を集めた大会である。

優勝候補の随一は東京の各大学OBで固めた東京クラブの呼声が高く、GK岡田(早出)村岡(教出)マクドナルドFB青木(早出)丸山(中出)石坪(立出)HB大埜(東出)三村(中出)李(中出)海老原(東出)浜田(立出)FW鈴木(慶出)竹島(同)岩淵(同)松永(教出)加納兄(早出)吉原(中出)長沼(同)小田島(早出)能勢(明出)などで関東代表のメンバーをほとんど集合している。”

東京クラブは“関東代表のメンバーをほとんど集合している”とあるが、1955年4月3日に行なわれた東西対抗サッカーの関東代表は、

GK 村岡(教大出) FB 青木(早大出) 景山(立教) HB (中大出) 三村(中大出) 大埜(東大出) FW 鈴木(慶大出) 小林(慶大出) 田中(中大) 岩淵(慶大出) 加納(早大出)

Cimg0592

となっていて記事のとおりである。

東京クラブは正力松太郎の肝いりでできたひそかにプロ化をめざしていたクラブ。松永碵氏がその顛末を記している。


| | Comments (0)

第1回全国都市対抗蹴球選手権大会の読売新聞社告

読売新聞に1955年6月9日と同6月30日の2回、社告が掲載されている。

『読売新聞』1955年6月9日付

読売旗争奪第1回全国都市対抗蹴球選手権大会
    7月1日→5日 後楽園球場(夜間)、同競輪場
    ブロック予選6月20日まで

本社は日本蹴球協会に協力、左記により第一回全国都市対抗蹴球選手権大会を開催いたします。わがフットボール界は世界水準への到達をめざし着々その地歩を固めつつありますが、さらに一段の飛躍を期待するためには全国に散在する多数優秀選手による都市対抗選手権大会こそ最も適切なものと信じます。優秀チームの多数参加を期待します。

参加資格 各都道府県蹴球協会並びに当該都市が認めるその都市を代表する最強の選抜または単独チームで日本蹴球協会に加盟登録されたものに限る。

大会 中央大会は左記ブロック大会においてそれぞれ優勝せる十七チームによって行い、ブロック大会は地域蹴球協会が主管し、それぞれ六月二十日までに開催する。

北海道地区(北海道一円)―一チーム
東北地区(青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島)―一チーム
北陸地区(新潟、富山、石川、福井、長野)―一チーム
関東地区(東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木、群馬、山梨)―四チーム
東海地区(愛知、静岡、岐阜、三重)―二チーム
関西地区(大阪、京都、兵庫、滋賀、奈良、和歌山)―三チーム
中国地区(広島、岡山、山口、島根、鳥取)―二チーム
四国地区(愛媛、香川、徳島、高知)―一チーム
九州地区(福岡、佐賀、長崎、大分、熊本、宮崎、鹿児島)―二チーム

参加申込み ブロック大会においては所属都道府県蹴球協会を通じ地域蹴球協会に申込むこと。中央大会への参加申込みは六月二十二日までに必ず各地域蹴球協会からその代表チームを日本蹴球協会に申告する。なお選手権は一チーム二十名を限度とする。

表彰 <ブロック大会> 優勝チームにそれぞれ読売旗を授与する。<中央大会> 優勝以下八位までに表彰状を授与し優勝チームに日本蹴球協会杯並びに読売旗を授与する。

主催 日本蹴球協会 後援 讀賣新聞社
協賛 参加各都市・後楽園スタジアム”

6月9日に社告が出て、6月20日までにブロック予選を行い、7月1日~5日中央大会開催は、かなり窮屈な日程で、関西ではブロック予選は行なわれず、関西協会推選で出場している。

『読売新聞』1955年6月30日付

第1回全国都市対抗蹴球選手権大会 十七代表チーム決まる
   7月1日-5日(5日間)
     後楽園球場および競輪場
        (後楽園ナイター、降雨のときは翌朝競輪場)

第1日 (後楽園球場)東京消防庁音楽隊(午後七時-八時)入場式(十七チーム)午後七時半 ①試合東京都対浦和市(午後八時)

第2日 (午後六時までは競輪場、以降後楽園球場) ②盛岡市対甲府市(午前十一時) ③長岡村(高知農)対京都市(紫光)(午後零時二十分) ④四日市市(大協石油)対島原市(午後一時四十分) ⑤山口市対川崎市(鋼管川崎)(午後三時) ⑥富山市対①の勝者(午後四時二十分) ⑦水俣市(新日窒)対芦屋市(午後六時二十分後楽園球場) ⑧高槻市(湯浅電池)対函館市(午後七時四十分後楽園球場) ⑨清水市対広島市(午後九時)

第3日 ⑥の勝者対⑦の勝者(午後三時) ⑧の勝者対⑨の勝者(午後四時二十分) ②の勝者対③の勝者(午後六時三十分後楽園球場) ④の勝者対⑤の勝者(午後七時五十分)

第4日 準決勝(後楽園球場) 第一試合午後六時三十分、第二試合午後七時五十分

第5日 決勝戦(後楽園球場)午後七時五十分 閉会式

入場料 A券 100円(昼夜共通) B券 50円(昼夜共通) 小中高校生 20円
◇前売所(発売中)銀座プレイガイド各支店、赤木屋、上野・銀座松坂屋、栗本、美津濃、伊勢丹、新宿ミノファーゲン、八重洲タチカラ、後楽園、東急サービス

主催 日本蹴球協会 後援 読売新聞社”
 

| | Comments (0)

伊豆大島日帰り紀行

夏休みが3日あったが、1日を病院に、1日を消防設備点検に使ってしまい、残り1日になってしまった。3連休中に伊豆七島方面に行ってみようと思ったが、すでに満席とのこと。平日に大島日帰りすることにした。

Cimg0678

竹芝桟橋7:45発のジェットホイルで

Cimg0689

Cimg0691

Cimg0692

伊豆大島岡田港着

Cimg0693

連絡バスに乗車

Cimg0697

飛行場経由で

Cimg0698

元町へ

Cimg0703

雨降っててすることがないので温泉に。平日の午前中なのでがら空きかと思ったら、大学生らしき若いモンでいっぱいだった。

Cimg0701

効能書き。入場料1000円もとるのにロッカーが有料(100円)なのはけしからん。

Cimg0702

大島牛乳200ml、110円

Cimg0704

Cimg0706

三原山の溶岩が海岸まで

Cimg0709

昼飯は大衆食堂かあちゃんで

Cimg0707

ビールと付き出しの貝 520円

Cimg0708

刺身定食1570円

Cimg0710

元町港桟橋の突端から 三原山は全然見えない

Cimg0711

御神火温泉

Cimg0712

再びバスで岡田港へ さるびあ丸入港

Cimg0714

丸い船尾が特徴

Cimg0715

デッキの上に椅子が多いのはうれしい

Cimg0720

東海汽船はフェリーじゃない貨客船なので最下層デッキから海面が近い ローリング(横揺れ)すれば大迫力

Cimg0723

浴衣ダンサーズがこんなところに こんなところに座るアホが実際にいるらしい

Cimg0726

観音崎灯台

Cimg0737

ジェットフォイルが追い越し

Cimg0738

LNG船

Cimg0740

Cimg0741

バブルの名残

Cimg0742

トンネルの通気口とか

Cimg0749

おいしい穴子のいる羽田沖

Cimg0751

大井のコンテナ埠頭

Cimg0755

海保は最近大忙し

Cimg0756

Cimg0758

新旧2タワー

Cimg0761

納涼船の準備

Cimg0762

ひさしぶりに虹を見た

| | Comments (0)

アメリカ女子サッカーに関する記事リンク集

アメリカ女子サッカーの強さを書誌的に読み解く

日本語論文による初期アメリカ女子サッカー史

初期アメリカ女子大学サッカー史

全米体育教育協会女子運動全国委員会の刊行物

無料で読めるアメリカ女子サッカーに関する論文

アメリカ女子サッカーはカレッジ・スポーツ 代表選手の出身・在学校

ユース・レベルにおけるアメリカの女子サッカー

大学レベルにおけるアメリカの女子サッカー

アメリカ女子サッカー全米大学選手権(National Championship Tournament for Women's Soccer)歴代優勝校

| | Comments (0) | TrackBack (0)

戦前の朝日招待蹴球大会

朝日招待サッカー(戦前は朝日招待蹴球)はベルリン・オリンピックの翌年、1937年から始まった。1936年12月26日付の社告では以下のように記され、1940年の来るべき東京オリンピック準備のためであることが明記されている。

【第一回】朝日招待蹴球大会

ベルリン・オリムピックに初陣の我が蹴球代表チームは第二次試合において優勝国イタリーのため敗れたとはいへ北欧の強豪スエーデンを撃破し一躍「蹴球日本」の名を認めしむるとともに東京大会の有望種目として躍進を期待されるが、本社は大日本蹴球協会賛助のもとに明年一月十日甲子園南運動場に東都学生蹴球界の雙壁WMW(早大倶)ならびに慶應義塾大学両チームを招聘するとともに関西斯界の花形神戸商業大学及び関西学院大学両蹴球チームの参加を得て第一回朝日招待蹴球大会を開催し東西優秀チームの対抗試合を挙行してオリムピック準備第一年の首途に餞けとすることとなった”

Cimg0589

東西大学リーグの交流戦としては、両リーグの覇者同士が対戦する東西大学争覇戦が1929年から開催されている。→「戦前の日本サッカーの東西対立構造

朝日招待蹴球大会は関東1位対関西2位、関東2位対関西1位がタスキ掛けで対戦する企画であった。戦前の結果は以下のとおり。

第1回 1937年1月10日 甲子園南運動場(東西大学争覇戦は早大 3-2 神商大)

WMW(早大) 2-1 関学
慶大 2-1 神商大

第2回 1938年1月9日 甲子園南運動場(東西大学争覇戦は慶大 3-0 京大)

慶大 6-3 関学
京大 5-2 東大

第3回 1939年1月8日 甲子園南運動場(東西大学争覇戦は関学 3-2 慶大)

慶大 2-0 京大
東大 8-2 関学

第4回 1940年1月14日 甲子園南運動場(東西大学争覇戦は慶大 4-2 関学 明大はリーグ戦5位)

明大 2-0 神戸高商
関学 2-0 早大

第5回 1941年1月12日 甲子園南運動場(東西大学争覇戦は慶大 4-2 関学)

慶大 8-1 関大
早大 5-2 関学

  


| | Comments (0)

寺内純一「フートボールの黒人」

寺内純一「フートボールの黒人」『少女画報』2(12) 1913.10 p.80-81

「黒人」には「くろと」とルビがある。

Photo_2

(1) A子さんはフートボールが大の得意です、今も素敵な球を飛ばしてとうとう塀の外まで蹴出して仕舞ひました。

Photo_3

(2) 塀の外では電柱広告を塗って居たペンキ屋の桶の中へ其球が飛び込んだ。
ペンキ屋は驚いた。

Photo_4

(3) ペンキ屋の若者は怒って桶の中から摘み出したペンキだらけのボールを其儘塀の内へ投げ込むと丁度内から塀を攀ぢ登って外を覗いたA子さんと出会頭に鉢合せをした。

Photo_5

(4) ペンキ漬けになったボールと衝突したのだから堪らない、顔から胸から袖の端まで真黒々助だ、これを眺めたお友達の一人『A子さんは全くフートボール黒人に成ったわね!』

1913(大正2)年の少女雑誌にフットボールを題材にする漫画が掲載されるほど、女子のフットボール遊びは普及していたのだろうか。


| | Comments (0)

「雙葉高等女学校の諸嬢がフートボール遊び」『少女画報』1912年5月号

[ ]内はルビ。

「雙葉高等女学校[さうえうかうとうぢよがくかう]の諸嬢[みなさん]がフートボール遊び」『少女画報』1(5) 1912.5 ページ付けなし

Photo

ボールが空中にあって、右側には手を伸ばしている人物もいて、「フットボール」をしているようには見えない。「元祖なでしこ」とはちょっと違うかな。同じ号に竹久夢二の「繪ばなし」が掲載されている。

朝日新聞記事で紹介された丸亀高等女学校の写真より約10年早い。丸亀の方はボールが地面にあっていかにもフットボールらしい。

| | Comments (0)

世田谷から世界チャンプは生れるか

住んでいる同じ町内にボクシング・ジムがある。

Cimg0579

Cimg0580

会長の山上哲也氏の戦歴をみると、現役最後の試合は東京オリンピックの金メダリスト桜井孝雄に判定負け。私が小学生のときに引退しているので、山上氏の記憶はないが、山上氏の対戦相手では上記桜井と韓国の金炫はTVで観た記憶がある。私の中学生時代は週に3本くらいボクシングのレギュラー番組があった。

桜井は金メダリストからプロ転向したので、テクニックはあったが、有効パンチを入れた後、相手を見てしまうアマチュア時代の癖が抜けず、プロに必要なツメの鋭さがなくて大成しなかった。

金炫は手数が少なく打たれ強いボクサーで、頻繁に来日していたので、片言の日本語がしゃべれた。ベタ足で亀の如くひたすらガードを固めて、たまに左右フックを振り回す、というボクシング・スタイルだった。

当時、金炫と同タイプの韓国ボクサーでより強烈な印象を残したのはハーバート康。日本ボクシング史上有数の名選手で後に世界チャンピオンになった柴田国明との東洋フェザー級タイトル戦で、柴田に6Rまでサンドバッグにされながら、強烈な右アッパー一発でKOした。私の見たボクシング試合では、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンのいわゆる「キンシャサの奇跡」と並ぶ見事な逆転KO勝ちだった。柴田は帰りのエレベータまで気を失っていたそうである。康の練習嫌いは有名で、ちゃんと練習すれば世界の器といわれていた。顔も振る舞いも憎々しげで、後に「不逞鮮人」という言葉を知ったときハーバート康を連想したくらいだ。リングネームの「ハーバート」はHarvard Universityとは関係なくて、当時のアメリカ副大統領ヒューバート・ハンフリー(Hubert Humphrey 大統領はリンドン・ジョンソン)に由来するそうである。

Cimg0581

Cimg0582

ボクシング番組の次週予告で、テクニシャンは「テクニックの○○」、強打者は「パンチの○○」と呼ばれていたが、特に取り柄のないボクサーは「根性の○○」と呼ばれていた。ボクシング好きの中学生連中は、そういうボクサーを「根性ボクサー」と呼んで馬鹿にしていた。典型的な根性ボクサーだった鈴木石松が文字通りガッツ石松に改名し、後にテクニックもパンチ力も身につけて実力派世界チャンピオンになったのには驚いた。見た目とリングネームとはうらはらに、ガッツ石松は大変クレバーなボクサー・タイプだったのである。

柴田も石松もヨネクラジム所属だったが、ヨネクラジムは西武池袋線から丸見えで、上京直後、あの有名なヨネクラジムはこんなところにあったのかと思った。池袋のゴチャゴチャしたところにあって、世界チャンプが生れるのはこういうところからかと思ったものだが、世田谷の閑静な住宅街にある山上ジムからはたして世界チャンプは生れるだろうか。

| | Comments (0)

小野卓爾「体育の政治性」

戦後、長きにわたって日本蹴球協会専務理事を務め、日本サッカー殿堂入りしている小野卓爾氏が体協の機関誌『体育日本』の「「新体制」と体育運動競技」特集号に寄稿したもの。時節柄なのか、本人の個性によるものか、大変まわりくどい言い回しになっているが、要は、

1. 文部、厚生の両省に分掌されている国の体育行政は、「国民体練院」のような機関に一元化すべきである。
2. 団体競技が重要である。

ということを主張したいようだ。「子供と大政翼賛お話会」における野津謙の発言」でも健康と体力の必要性を強調しているように、時流に乗じてライフワークの実現を図っているようにもみえる。大政翼賛会は右から左まですべての国民的要求に応える存在のように思われたことが魅力だったのかもしれない。

小野卓爾「体育の政治性」『体育日本』18(10) 1940.10 p.19-20

“最初の新体制準備会に於て近衛総理大臣は「今や我国は世界的大動乱の渦中に於て東亜新秩序の建設といふ未曾有の大事業に邁進しつつある。この秋に当り世界情勢に即応しつつ能く支那事変の処理を完成すると共に、進んで世界新秩序に指導的役割を果す為には、国家国民の総力を最高度に発揮してこの大事業に集中し、如何なる事態が発生するとも独自の立場に於て迅速果敢且有効適切に之に対処し得るやう高度国防国家の体制を整へねばならぬ。而して高度国防国家の基礎は強力なる国力体制にあるのでありて、ここに政治、経済、文化等あらゆる国家国民生活の領域に於ける、新体制確立の要請があるのである」と新体制の理念を表明した。

 即ち高度国防国家体制整備の基礎に強力なる国力体制の組織化であり、その為には政治、経済、文化等国家万般の領域に於ける編制替が要請せらるるのである。既に自由主義的個人主義的な世界観に基く政治、経済、文化等による所謂旧体制をもってしては到底我大和民族の肇国の大理想を実現し得ない段階に迄這ひ込まれたのである。

 然るが故に新体制は思想的根拠なき単なる形式的な組織替とか或はまた狡猾なる便乗主義乃至甚だしきは怯惰なる自粛自戒的な粧ひをもってしては決してその確率を望み得ない。不伐の堅塁と恃んだマヂノ線も独軍に蹂躙せられ仏軍の敗色濃漸く決定的となった時前首相レイノーをして「旧き理念の敗北」と嘆ぜせしめたが、高度国防国家の建設を眼目とする新体制は全く新しき理念、全体主義的な世界観を基調とするものであり、斯かる意味に於ては思想的革命を要請せらるべきものである。即ち自己をみそぎし眞乎の皇道精神にたちかへって再出発することである。

 新体制の推進的役割として青年層の使命はあらゆる意味に於て重大であるが、この心身逞しき青年を陶冶すべき体育運動の責務は新体制下に於て特に重大であるとせねばならない。体育運動は常に国家理想によって方向づけられてゐなければならないのには言を俟たぬ所であるが、現在の体育運動界もまた自己革新によって脱皮した姿に依って新体制下に組入れられなければならない。

 我国に於ける体育運動の目的は、民臣道に徹せる心身強靭たる国家有為の人材を練成し以てこれを国防国家体制に動員し得る状態に置くことであり、而もこれは不断の練磨を通じてのみ達成せらるべきものなるが故に、国民陶冶即政治であると信ずる。

 ここに問題となるのは国家の体育行政である。現在の体育行政は文部、厚生両省の分掌する処であり稍もすると割拠主義的な弊に陥ることなしとせない。如上論ずる如く体育は国民陶冶の立場より極めて重要なる問題である、且之を効果あらしめんが為には極めて多数の指導者を必要とするが故に、これを一元化、統合化して、国家の体育行政は国民体練院の如きものに依り一元化し、各種体育団体は統合せられ新組織下に編入することは特に緊要である。現在の体協の如きもその組織の一環として当然に含まるべきものであると考へる。

 次に常に正しき指導と訓練が―国家としての―なされなければならない。指導なき統制は生けるしかばねの如く意味なき業である。また訓練に於ては特に団体性が強調されなければならない。このことは万民翼賛の国民組織の一単位たる国民陶冶の上に於て重要なことである。縦ってこの意味に於てスポーツの本質並に効果が再吟味され有用なる一形式として取上げられるであらう。就中団体競技はその要素が多分に含まるる事が認められ、個人競技於ては如何にしてそれに団体性をもるかが再考せられなければならぬであらうと考へる。

 今や物凄き怒涛の勢を以て世界史の転換が行はれつつあり、我国もその一環に於て光喜ある我民族使命を逞しく遂行しつつ将に新史代を画さんとしてゐる。我々青年はこの機に際会せる限りなき光栄に感泣しつつ日頃練成の精華を以て皇運を扶翼し奉らねばならぬ。”

| | Comments (0)

『学制百年史』における「発足当初の新制中学校」

戦後の日本サッカー弱体化の構造的原因のひとつに学制改革がある。戦前、小学校サッカーの普及した地域では、尋常小学校→旧制中学校(5年制)で初等教育から中等教育まで間断なくサッカーができる環境があった。神戸における「御影師範附属小学校→神戸一中」のように、多くの日本代表を輩出した例もあった。

それが学制改革により、中等教育がまったくの新設の新制中学と新制高校(新制ではあるが、旧制中学の伝統を引き継いだ)に2分され、小学校でサッカーをしていても、新設でサッカーの伝統のない中学校でサッカーを続けることができなくなった。

『学制百年史』(帝国地方行政学会 1972)における「発足当初の新制中学校」の記述によれば、新制中学校は、サッカー部どころか校舎も教師もなかったのである。

発足当初の新制中学校

 新制中学校は昭和二十二年四月から発足したが、同年第一学年の生徒のみを義務就学とし、以後学年進行によって二十四年度に全学年の義務就学が完成した。その間に二十三年度からの新制高等学校の発足に伴い、旧制中等学校の二年生と三年生は、新設の高等学校に中学校を併設して希望者はその二年生、三年生として教育するなどの経過措置がとられた。

 発足当初の新制中学校は、予算や資材の不足から、校舎、設備、教材、教具のすべてにわたり、また教員組織についてもきわめて不満足な状態であった。ことに、中学校はなんらの母体や下地をもたずに発足したため、特に校舎や教室の不足は深刻をきわめた。戦災をまぬがれた旧高等小学校などを転用して独立校舎をもちえたものは、当初、中学校の一五%にすぎず、二十四年四月当時、二部・三部授業を実施するもの二、二六八教室、講堂や屋内体育館を間仕切りしているもの三、三四二教室、廊下・昇降口・物置きなどを代用しているもの三、〇九〇教室というありさまで、いわゆる青空教室や不正常授業はいたるところでみられた。教員の約半数は国民学校からの転任により、その他は青年学校や中等学校からの充足によってまかなわれたが、それでも発足当初の教員充足率は約八一%であり、必要な免許状を持たないものの比率はきわめて高い状況であった。・・・”

同様の記述は『兵庫県中体連30年誌』(兵庫県中学校体育連盟 1979)にもある。

ウ. 新制中学校の開校

 当時教育界の課題は、何といっても新制中学校の開校であった。しかし、準備不充分なため、開校は約20日延長され、その間に教室の設営、校長の発令等をすませ、いよいよ4月22日、開校が実施されたのである。

 この時、県下で開校したのは、357校、生徒数、123,194人であった。

 当時の中学校は、小学校舎を借りているものが多く、机や腰かけ、それに、教科書もなく、床や、青空で学習した。

 最初にぶつかった問題は、教員組織であった。学校長は、75名が小学校と兼務であり、教員は、小学校、青年学校、中等学校(旧)の3校種から寄せ集められ、複雑な世帯であった。その上、教員の絶対数不足のため、新教員を得ようとしても、インフレ期で現職すら転職しようとする時期だけに、関係者の苦心は非常なものであった。

 今一つの課題は、準備期間を持たずして発足したため、県下357校中、当初より独立校舎を持ち得たのは30校で、それも軍施設を転用したものが多く、良い教育環境とは言えなかった。そのため校舎建築が大問題で、市町村長の命とりとなり23年から24年にかけ、これに関連して地方自治体は混乱し、市町村長の辞職者が多く、なかには自殺者まであった。一方、CIEは、「全新制中学校は独立校舎をもつべきこと」を指令し、関係機関へ強力にせまった。そして、25年度には、82%が独立校舎をもつにいたった。・・・”(p.37)

校舎のない新設中学校の校長に辞令が発令されたのをジョーク化した事例が『中学校教育二十年  いばらの道をひらく』(全日本中学校長会 1967)に紹介されている。

“新制中学校の校長を命ずという辞令をいただいたある校長が、いくら辞令面を探しても、赴任地も学校名も書いていないので、恐る恐る授与者に、
「わたしは何処へ行けばよいのでしょうか」
 と、うかがってみた。授与者はちょっと首をひねっていたが、
「とにかく西の方へ行ってくれ給え」
と言ったという伝説がある。”(p.79)

新制中学校ではサッカー部どころではなかったのである。

| | Comments (0)

河合勇「思い出のスポーツマン(1) 野口源三郎さん」

野口源三郎は陸上競技畑の人物で、サッカーとは関係ないが、体協改革の引きがねとなった1924年パリ・オリンピックの陸上競技代表選考について詳述されているので、紹介したい。

1924年時点で体協は陸上競技と水上競技の、
1) 全日本選手権の開催
2) 国際大会(極東選手権、オリンピック)の代表選考
3) 国際競技団体(陸上の場合は国際陸連)への加盟
を直轄しており、日本陸連は下記の13校体協ボイコット事件を経て結成されることになる。1921年結成の大日本蹴球協会は特に体協と対立することもなく、上記3点を実現しており、サッカー界の体協との関係は陸上とは対照的に円満であった。

1924年パリ・オリンピックの陸上といえば、映画『炎のランナー』を思い浮かべるが、短距離の代表となった谷三三五(たに ささご 明大OB 当時満鉄勤務)は100mの1次予選で、映画では上昇志向の強いユダヤ人として描かれたハロルド・エイブラハムスと実際に対戦している。谷の著作『競走と練習 百米十五年』(三省堂 1930)では、「第五篇 實戰の體驗と參考」中に「アブラハムス選手(英国人)」の項(p217-.225)をたて、エイブラハムスの走法について9ページにわったて詳述している。

河合勇「思い出のスポーツマン(1) 野口源三郎さん」『新体育』39(8) 1969.8 p.126-128

“これから書いてゆくスポーツ界の思い出の人々は、みな日本のスポーツ界の黎明時代に活躍した人々で、近頃、次々に世を去って行かれるので、その印象を後の世に伝えるために筆をとった次第である。

 野口源三郎さんの一番華やかな印象は大正11年、今の国立競技場となった当時の明治神宮競技場の開場式の時であった。モーニング姿で大正天皇を競技場へお迎えした野口さんは、ユニホーム姿に着替えてフィールドに現われた。新設された跳躍場で棒高跳びの模範演技を行ない天覧に浴し、3mを跳えて拍手をあびた。

 野口さんの競技歴は明治44年、日本が初めて参加したストックホルムのオリンピック大会の羽田における予選参加に始まる。

 野口さんは嘉納校長(東京高師)に出ろといわれて出場し、先輩の金栗さんについて走った。1着金栗、3着佐々木、3着井手で、野口さんは4着で、兎に角、25マイルを走り通したのでえらいとほめられた。金栗さんの記録は2時間36分42秒で、当時伝えられていたオリンピック記録をはるかに破っていたので、文句なくオリンピック選手に選ばれた。

 その後、野口さんはフィールド競技に転じ、棒高跳びで大正2年に2m38で全日本選手権大会で優勝した。つづいて大正6年にも3mで優勝している。

 均整のとれた体格をしている野口さんは万能選手で、十種競技にのり出した大正5年の大会で、この種目の第1回の選手権を獲得した。

 大正9年のアントワープのオリンピック大会に選ばれて十種競技に出場した。相当の期待を持たれていたのだが、日本は全競技に惨敗した。野口さんの十種競技も最後まで競技した12名中12位というみじめなものであったが、競技中は常にトラックとフィールドの中にいられたので、世界の強豪の実力と技術を目のあたり観察出来たので、後の日本選手の指導に大いに役立ったのであった。

 この大会に参加した日本選手は、この惨敗を肝に銘じて、ベルギーで零点だったので、白黎会という会を組織して、次のオリンピックまでに入賞出来る選手を育てようと決心したのであった。

 そのためには、既成選手ばかりでは駄目だ。新しく若い素質ある選手を発見して育成して行かなければならないと決心し、全国を陸上競技のコーチをして歩いた。後にオリンピック大会で初の優勝をした織田幹雄も野口さんが最初に広島で発掘して指導した選手であった。

 次の大正13年のパリのオリンピック大会には前回の失敗にかんがみて、精鋭主義をとることになった。そこで選手選考の標準を左の如く公表した。

 まず、少なくともオリンピック大会で予選をパスする見込みのあるもので、国際記録に近いもの、第2に帰国後、わが国の競技界に関係して指導し得るもの、第3に日本青年の代表として恥かしくない人格を備うるものという条件であった。これは当時、体協の幹事として中心になって働いていた野口さんの起案したものであった。

 大正13年の4月13日に行なわれた派遣選手の最終予選会の結果その夜発表されたメンバーは左の如くであった。

 (短距離)谷三三五、(中距離)納戸徳重、(長距離)田代菊之助、(マラソン)金栗四三、(跳躍)織田幹雄、(槍投、五種競技)上田精一。

 これにロンドンにいた外務省の岡崎勝男、ベルリンにいた三浦弥一の8名で、これに見学員として二村忠臣(高師)、佐藤信一(高師)を加えた。

 この選手決定がわが陸上競技界に大波瀾を起した。全国学生陸上競技連合から5千m優勝者の早大の縄田尚門を除いて、1万mの田代を加えたのに対する不満、これは多年アマチュア資格を厳格に守ってきた体協が、その資格に疑のある田代を推選したのはおかしいというのが一つ。更にもう一つは精鋭主義をとなえながら記録において予選通過の望みのない投擲競技の上田を加えたこと、更に見学員として高師生のみ採用したことなどであった。

 この非難で体協はあわてて、当時、全国学生陸上競技連合の主事をしていた森田俊彦を見学員に加えて学生連合側の不満を緩和しようとしたが、これが却って体協の不純な政策だといって逆効果を来たした。

 野口さんとしては、パリ大会ではまだ日本は好成績はあげられまい。この際、見学員にはオリンピック大会を実際に見て帰国後、青少年を指導して日本の陸上競技の技術のレベルをあげる人を是非派遣したいと考えた。それは高等師範学校の在校生から見学員を選ぶのが、一番良策と考えたのであった。

 ところがこれが私学派の猛反撃を喰った。早慶明を始め13校が選手選考の公平を期するために、体協の組織の改造と、役員の改選を迫ったが、すでに出発直前だったので、体協は回答を拒否して出発してしまった。

 これがいわゆる13校同盟で、13校は今後、体協主催の競技会には一切出場しないという決議を行なった。これが尾を引いてパリのオリンピック大会を前にして、大阪体協の竹内広三郎、朝鮮体協の河津彦四郎、満州体協の岡部平太と、奇怪なことには見学員に加えてもらった全国学生連合の森田俊彦もこれに加わって、国際陸連に体協を除外して、まだ生れていない全日本陸上競技連盟が直接加盟すべく運動を始めた。

 この運動は国際陸連に拒否されて成功はしなかったが、野口さんは日本の陸上競技の将来の進歩発展を目指しての構想が理解されず、しかも高等師範での同窓生の竹内、河津、岡部らに反旗を翻されたことは、野口さんにとっては大きな痛手だった。後年、私がこの時の事情を日刊スポーツ紙上で書いたら、野口さんからは「あの時の僕の心情を理解してくれている」と感謝された。

 とにかく、野口さんは日頃は円滑な社交家であったが、一面こうと腹をきめたら飽くまでも貫くという堅い信念を持っていた。だがあの事はやはり公平に見て、野口さんは母校の高師偏重と、官僚的な頑固さがあったことは否めない。

 後年、日仏対抗競技会のために満州から上京した岡部平太と野口さんとの仲直りをさせようと、やはり高師の同窓で当時大阪朝日の運動部長をしていた東口真平氏が新橋の料亭へ招いたことがあった。この時は私も同席したが、岡部氏の「競技の目的は勝つことにある」という主張に対して、野口さんは「いやそればかりではなく、青少年の心身の鍛練と人間生活の親睦にある」と反論して、徹夜で議論したこともあった。私も野口説に同調したが、「あの時は若い君もなかなか鋭かったね。あの強情な岡部も君の逆襲には閉口していたよ」と後年思い出して笑ったこともあった。

 野口さんがアントワープの大会から帰国されて、欧米の新しい技術競技法を身につけて帰国されたとき、早大競走部の代表委員だった私は、内田庄作君と共に駒場の野口さんの自宅を訪問してコーチを依頼したことがあった。

 当時インター・カレッジで優勝を争っていたのは早大と東京高師であった。いわゆるライバルからコーチを依頼されたので、野口さんも面喰ったらしい。だが、野口さんは快諾してくれた。そのために、早大は従来不得手であったフィールド競技に大きな進歩を見せ、殊に野口さんの得意だった棒高跳びと円盤投げに早大から幾多の名選手を育てあげ、日本の陸上競技の記録の向上に貢献した。

 とにかく、当時の野口さんを初め、われわれの考えは、世界の標準に対してあまりに低かった日本のレベルの向上で頭がいっぱいで、学校の派閥なんてことは眼中になかったのである。

 野口さんはその後、陸連の運営からは退かれたが、後進の指導には終始力をつくされた。戦後は新設された順天堂大学の陸上競技部長となり、後輩の帖佐氏を監督にして指導し、順天大を今や学制陸上競技界の強豪に育てあげた。

 野口さんの一生はわが国の陸上競技に輝かしい功績を残したが、一面誤解も多かったので、これを解明して、ご冥福を祈ろう。”

 

| | Comments (0)

河合勇「思い出のスポーツマン(4) 岡部平太さん」

岡部平太は東京高師柔道部出身であるが、アメリカに留学して当時世界最先端のコーチ学を身につけ、下記にあるように後半生は陸上長距離のコーチをしていた。柔道とプロレスの異種格闘技をめぐって嘉納治五郎と対立し(嘉納が積極的で、岡部は反対した)、講道館を破門されたのを皮切りに、陸上競技では体協主流派と対立、満州では張学良政府の高官と交流していたので関東軍から敵視されるという波乱続きの前半生を送っている。→「岡部平太の略歴とサッカー

サッカーとの関わりは1921年第5回極東選手権大会で体協の蹴球委員長を務め、東京高師+東京蹴球団+野津謙からなる関東蹴球団なるチームを作り、予選会を突破させて代表チームとして送り出している。極東選手権の後に創立された大日本蹴球協会の役員にも名を連ねている。サッカーに関しても造詣が深く、1924年パリ・オリンピックのサッカー観戦記を書いている。→「岡部平太のイングランド・リーグ、1924年パリ・オリンピックサッカー観戦記

陸連創立の契機となった1925年の体協改革により、体協は各競技団体の連合体となり、理事は各競技団体から選出されることになった。JFAも1925年から理事2名(最初は野津謙と内野台嶺)を出し、野津は2年後の1927年に会長、副会長に次ぐNo.3のポジションにあたる専務理事(4名)になっている。パリ・オリンピックの陸上競技選手選考にともなう体協のトラブルは体協改革につながり、体協内での蹴球協会の地位を高めることになった。→「JFA選出体協役員

河合勇「思い出のスポーツマン(4) 岡部平太さん」『新体育』40(1) 1970.1 p.128-129, 123

“東京高師の卒業生のうちで一番型破りなのは岡部平太さんだろう。何しろ負けず嫌いで横紙破りだった。

 高師在学中は柔道部の大将で、一ツ橋の高商との対抗試合に、敵の大将でこれも負けず嫌いの尾高の首をしめ、「これでもか、これでもか」と締めあげて気絶させてしまったという猛者であった。

 だが、当時、柔道の世界選手権などは思いもよらなかったので、柔道では到底世界に覇をとなえることは出来ない。所詮、「日本一が関の山だ」と考えたので、アメリカのスタンフォード大学へ留学して、陸上競技の理論と実際を学び、何時かは日本選手をして世界の覇者たらしめんと志した。

 帰国してから一高、東大の選手のコーチなどしていた。とりわけ東大の岡崎選手に目をつけて、彼は東大の400mリレーの選手もしていて、スプリントもあったが、短中距離ではまだ到底、欧米の選手に及ばないことを知っていたので、5千、1万の長距離選手に育てようと熱心に1周毎のラップタイムなどをとってやって激励していた。岡崎は後にパリのオリンピック大会の5千mに出場した。

 大正10年頃、岡部さんは水戸高校の体育主任に就職した。仙台二高と対抗競技をやるというので猛練習を始めた。早大から私や内田庄作、平井武、下田貞晴などが、不得意な競技種目のコーチに招かれた。こんな思い切った手段は岡部さんならでは出来ないことだった。

 水戸校校は二高を破り、更に全国高校大会でも優勝したと記憶している。何でも勝つためにはあらゆる努力をするというのが岡部式なのである。

 その後、岡部さんは満鉄に入社して、満州へ赴任、大正13年のパリのオリンピック大会には、満州体育協会の主事として視察に行き、ここで落ち合った全国学生連合の主事森田俊彦、大阪体協の竹内広三郎、名古屋体協の日比野寛、朝鮮体協の河津彦四郎などと協議して、国際陸上競技連盟へ加入を申込んだ。一方、体協もこれはいけないと加入を申込み、加入権を争うことになった。これで国際陸連は日本から2つの申込みをうけて困ったが、国際陸連のエドストローム会長、岡部らの全日本陸上競技連盟は数日前にこのパリで大いそぎで即製的に結成された団体で、まだ一ぺんも日本の選手権大会を開催していない。一方、体協の方は10年も前に創立され、毎年、選手権大会も行なっているのだからという理由で、体協の加入を認めて、即製の全日本陸上競技連盟の加入は拒否されてしまった。この運動の主役は岡部平太であり、体協の主事同窓の野口源三郎と鋭く対立することになった。だがこの運動が後に全日本陸上競技連盟を作って、後年、国際陸上競技連盟に加入した今日の姿となる出発点であったことは否めない。

 日本の国内の陸上競技会は、このパリ大会の選手派遣をめぐって、官学偏重に抗議し、13校問題など起こしていたが、岡部さんは満州にあって、当時の北支満州地方の実力者張学良に近づき、大連に大競技場を作らせるなどして力を養っていた。

 昭和3年の秋、満鉄はフランス選手を招待して、日本は始めて国際対抗陸上競技会を行った。これは全く岡部さんの働きで、体協もグウの音も出なかった。対抗競技は日本78点、フランス点で、接戦の結果勝った。フランス・チームは東京へもきて、日本学生チームとも戦い、これも77点5対71点5で日本学生軍が勝ち、大いに日本陸上競技界に自信を持たせた快挙であった。

 この時、東京へやってきた岡部さんを高師で同窓の東口真平さんは、パリ大会の国際陸連加盟問題以来、不破となっている野口源三郎との仲を心配して、一夜、料亭で語りあかした。野口さんには体協万能、専横はよくない、岡部さんには、君のスポーツは勝つためにやるのだ、勝つためにはどんな手段でもやるという考えはよくない、とあの真面目一方の東口さんは、徹夜で2人を説得した。

 だが、岡部さんの負け嫌いと、横紙破りは、生れつきで、なかなか改らなかった。

 岡部さんはパリ大会の後にも、大正14年のマニラの第7回極東選手権大会でも、比島役員の未熟な誤審と不公平な判定に抗議して、参加の53名の選手団を率いて退場して途中で棄権させた。そのために体協から岡部監督始め12名が除名されている。このマニラ事件も岡部さんが体協改造運動を始める一因ともなっていたのだ。

 だが、あれだけ愛国心に燃え、日本と満州の親善をはかった岡部さんにとって何よりの痛手は柳条溝の爆破事件以来、日本の軍部の張学良との戦争であった。張学良に絶大な信頼を得ていた岡部さんは敵方に好意を寄せるものとしてしばらく北京で監禁されていた。

 大東亜戦争があの通りの始末で、日本へ帰ってきた岡部さんは、郷里福岡へ定住して、九州大学へ通って博士論文を出して医学博士となった。これは多年の陸上競技の指導によって得た理論と実際によるもので、彼が無茶苦茶な横紙破りでないことを証明するものである。

 敗戦後、凋落した日本の陸上競技界を眺めて岡部さんはいまの日本の陸上競技界で一番に世界の競技界で飛躍出来るのはマラソンであるとねらいをつけて、金栗さんや、当時朝日新聞社の西部本社の運動部長をしていた伊藤寛などと共に、「オリンピックでマラソンを優勝させる会」を作って朝日国際マラソンで外国選手を招待して九州で毎年マラソン大会を行ない、マラソンの国際的向上をはかった。

 昭和26年にはボストン・マラソンに参加して田中茂樹を優勝させている。

 オリンピックでは、ベルリン大会の孫選手を別にして、東京で行なわれた大会で円谷選手が3位にまでなったが、まだ戦後は優勝していない。もう一息というところまできている。負け嫌いの岡部さんの最後の希望はマラソンの優勝であった。その成果を見ずして病没されたのは、岡部さんにとって残念なことだったろう。早くその希望をかなえて岡部さんの霊を慰めてあげたい。”
 


| | Comments (0)

河合勇「思い出のスポーツマン(3) 東口真平さん」

東口真平は1923(大正12)年に大阪朝日新聞初代運動部長になった人物。この年、大阪で第6回極東選手権大会が開催され、朝日新聞社は『アサヒスポーツ』を創刊した。スポーツ・ジャーナリズム史の史料として紹介したい。

河合勇「思い出のスポーツマン(3) 東口真平さん」『新体育』39(11) 1969.11 p.80-81

“日本のスポーツ界の黎明期には、嘉納治五郎さんを校長とする東京高等師範学校の卒業生が指導的立場で活躍した。中でも金栗四三、野口源三郎、岡部平太、東口真平さんの4人は傑出していた。

 だが、東口真平さんだけは誰も悪口をいうものがなかった。それは東口さんのあの真面目な性格によるもので、これは高師関係の人々ばかりでなく、兎角、議論の多かったスポーツ界で、東口さんほど信頼された人は少なかった。何か争い事が起こっても、東口さんが仲裁されると、片付いた場合が多かった。

 これらの人々はみな個性の強い人々だったから、野口さんと岡部さんなどは、いつも対立して相容れない点が多かった。

 東口を略して通称「グチさん」とよばれて親しまれ、内外の信用は絶大であった。

 高師の卒業生は大体、中学の体育教師として各地に赴任されるのが常であったが、東口さんが朝日新聞社に入られたことは異色ある道を選ばれたものである。在学中は柔道を主体として陸上競技にも活躍され、全日本選手権で大正4年に槍投げで31m54、大正5年には100ヤードで10秒6、220ヤードで24秒6の記録で優勝している。大正4年の上海の極東選手権でも、槍投げで活躍されたと記憶している。

 当時、野球以外のスポーツ選手で新聞記者となったのは恐らく初めてのことであったろう。入社されてから東西対抗陸上競技会を寝屋川競技場で開催したり、世界の4大選手を招待したり、体操大会を催したり、スポーツ界に貢献されることが多かった。

 私は大正12年に同じ朝日新聞社に入社して以来、長い間おつき合いを願ったが、あの真面目で、さっぱりとした性格は実に後味のよい印象を心に残している。大正12年には当時としては珍らしいグラビア印刷のアサヒ・スポーツを創刊し、大阪の渡辺文吉君と、東京の私とがその助手をつとめた。

 大正13年には、パリのオリンピック大会に特派員として派遣され、昭和14年には、編集局次長、昭和19年には取締役に昇進された。運動記者が新聞社でここまで出世されたのは、やはり東口さんが誰にも信頼された性格によるものである。

 太平洋戦争が激しくなり、昭和20年にはジャワ新聞社長となり、7月13日にシンガポールへ出張の途中、飛行機事故で殉職されてしまった。戦後、昭和21年の5月に朝日新聞社の大阪本社で社葬が行なわれた。半生を朝日新聞社とスポーツ界に捧げられたのである。

 永いおつき合いのうちで、いまだに印象に残っているのは、大阪から上京されると、必ず私の席へ来られて、静かにじゅんじゅんと話しをされる。煙草はあまりのまれなかったが、原稿紙をこまかく引きさかれる癖があった。編集局次長になられたとき、局長の北野吉内さんが、東口さんをスポーツ以外は何もわからぬ男と思ってか、編集に関することも何一つ相談しないで、直接各部長に命令するというので、「これじゃあ、まるでロボットにすぎない」といって、さすがの東口さんも憤慨された。そのときの長時間の話で、東口さんのまわりは原稿紙の紙片で真白になってしまったくらいだった。

 また、満州事変以来、英米に対する軍部の挑発で、何事も反英、反米で日本主義が昂揚された時代があった。その頃は、野球の用語などすべて英語を廃して日本語でやるところまで発展してしまった。そのときアメリカに追従せず、すべて日本式にルールも改定すべきだという議論も起こり、東口さんは野球専門家の飛田穂洲氏をとらえて、「野球でかくしだまなどするのは卑怯である」とか、「四球敬遠もいけない、カーブも相手をだます、盗塁などもってのほかだ」と、敵をだますようなことは許さないという日本式野球に改正すべきであるといって、武士道精神を重んずるさすがの飛田先生を困らせたこともある。

 また、体協の専務理事をやっていた野口源三郎氏とアンチ体協で日本陸連創立を企てていた岡部平太氏とは、パリのオリンピック大会以来仲が悪かったが、同じ高師のOBで、いつまでもこれじゃあいけないと、日仏対抗陸上競技会のために上京された岡部平太氏と野口源三郎氏とを東口さんは一夜料亭に招いて会議したこともある。

 更に、第3回早慶対抗陸上競技会のとき、東口さんは審判長をつとめたが、400m競走で当時オープン・コースだったので、慶応の浅野選手と早大の朝比奈選手が接触してファウル問題が起こり紛争があった。そのときの判定には早慶ともに不満があった。

 だが、大会後、慶応の先輩平沼亮三氏が東口氏の労を謝するという名目で宴会を開いて、ご馳走をした。その後で平沼氏がまた慶応の選手に対して、「あの判定はおかしい、なってない」という手紙を送ったというので、東口さんは「あんなご馳走をうけたことは残念だった」と口惜しがっていた。「これでつまらぬ借りが出来た。新聞記者はご馳走になってはいけない」といましめられた。

 思い出はつきないが、みんな東口さんの真面目な性格を物語るものばかりで、いつまでもなつかしいスポーツマンであった。”


 

| | Comments (0)

河合勇「思い出のスポーツマン(4) 山田午郎さん」

山田午郎はサッカー・ジャーナリズム創世記の朝日新聞記者。東京蹴球団主将として1921年第1回全国優勝競技会(現天皇杯全日本サッカー選手権大会)に優勝している。朝日運動部の同僚による人物評。山田の人物像だけでなく、戦前の東京朝日新聞運動部、師範学校全盛時代のサッカーのレベルについても言及されている。

→「日本最初のサッカー・ジャーナリスト、山田午郎

東京朝日新聞運動部長も務めたが、下記によれば部下を使いこなすのは上手ではなかったようである。

河合勇「思い出のスポーツマン(4) 山田午郎さん」『新体育』40(5) 1970.5 p.110-111

“今年3月、山田午郎さんの13回忌が郷里の福島県二本松で行われた。午郎さんが死んでから、もうそんなになるのかなと思った。

 午郎さんは私より少しおくれて朝日新聞の運動部に入られた。当時の運動部は、部長が小高吉三郎さん、次長が植村睦郎さん、その他に野球の久保田高行さん、テニス、ラグビーの岡本隆さんと私の5人きりだった。

 山田君は青山師範出身で、東京蹴球団の役員で、朝日新聞後援の蹴球大会を主催していたので、朝日新聞とは昔からなじみがあった。だが、当時のサッカーは貧弱なもので、日比谷公園でやるサッカー大会の見物人は関係者だけパラパラという淋しいものだった。私たち運動部員は手伝いにいったが、寒空にお客も少なく、参加校も高師附属、暁星のアストラ・クラブ、青山師範、豊島師範ぐらいで、少ないものだった。

 今日のサッカー・ブームで、神宮競技場がいっぱいになるくらいの盛況を、一度、午郎さんに見せてあげたかったと思う。当時から熱心だったのは今の会長野津さん、竹腰さんなどで、午郎さんはとうとう一生縁の下の力持ちで終ってしまった。

 事実、当時のサッカーというものは、見ていてつまらないものだった。ポンポンと大きく蹴ってタッチへ出して領域を進めてゆくだけで、ボールをパスして全員が前進するなんてことはなかった。フォワードもバックもその位置を守って球のくるのを待っているのだから面白いはずがない。たまにロング・シュートでどちらかが1点でもいれると、その1点を守るためにリードしたチームはやたらにタッチへ蹴出して時間かせぎをして、タイムアップを待つというのだから、お客は退屈して途中で帰り、あとは役員だけが残っているという有様だった。

 それがオリンピック大会でサッカーを見て来た人が、欧米のサッカーは違う。一旦、自分ボールとなると、こまかくパスして、フォワードもバックも一体となって前進してゴールへ迫り、ボールを相手方に渡さず攻めて行く。タッチへ出してチャンスを失うなどというのは、もってのほかのことだ。また、相手が一旦ボールを奪うと逆に素早いスピードで攻め返して行くので、スリルがあって、サッカーほど面白い球技はなく、欧州の大会で、サッカーの観衆が一番多いのも無理はないということであった。

 こういう話をきかされて日本のサッカーも改善されて、単なる陣地とりで引分けの多い試合方法が少なくなってきた。要するに、守りのサッカーから攻めのサッカーに変ってきたのだ。

 筆者もベルリン大会のサッカー試合を見て、つくづくサッカーの面白味が判ってきた。おまけに精鋭を揃えた日本のサッカー・チームが強豪スエーデンを破ったので、わが国のサッカー熱は上昇を見たのだった。

 ところが、戦争で中断したが、戦後、オリンピックを東京で開くにあたり、国民の前で下手な試合は見せられないというので、強化合宿をやったり、海外に遠征をしたり、西独のクラマー・コーチをやとったりして技術も格段に進歩した。

 第1戦に南米の雄アルゼンチンを破り、準々決勝にまで残る偉功を立てた。これで活気づいた日本チームはメキシコ大会でも好成績を収めて、国内におけるサッカー熱はもの凄いものになった。一時ラグビーの進出に気押されたかに見えたサッカーは、今や日本の球技の第一の人気ゲームとなった。それにつけても振わない時代のサッカーのために、心身をすりへらした午郎さんをもう少し長く生かしておきたかった。

 戦争がはげしくなって、日本はスポーツどころではなくなったので、午郎さんも庶務部から非常時対策本部などに移って、社内の防火から資材の獲得などの元締めをやることになり、社の自動車から電話線の確保までも受持つようになり、運転手から交換手、給仕さんまで午郎さんの支配下になり、社内の青少年の大親分になってしまった。

 運動部をはなれてから午郎さんは、スポーツの報道批評よりも実践に移り、社内に「山とスキー」の会など作って、社内の青少年を集めて山登りやスキーのリーダーとなった。

 スキーは僕らといっしょに始めたのだが、安全一方のしゃがみっぱなしのあんまり恰好のいいスキーではなかったが、熱心で彼のために社内にスキーをやるものが非常に多くなった。

 志賀高原に朝日のスキー小屋が建ったのも、午郎さんの努力のお陰であった。この小屋の落成式には村長をはじめ村の有力者、県から役人も来て盛大な落成式であった。しかし、出資者代表として朝日新聞本社からみえた東口編集局次長は面白くなかった。余りに午郎さんが土地の人と親しく、また努力していたので、村や県の感謝状は朝日新聞本社に対してはあまりなく、山田午郎さんの表彰のようなものであった。朝日本社を代表として出席した東口さんが怒るのも無理はない。これは少々、午郎さんの勇み足である。

 午郎さんは仕事を始めると、誰一人他人にまかせず、一人でやってしまうのである。デスクにいた時分でも、電話のベルが鳴ると素早く受話器をとり、決して他人に受話器を渡さなかった。こんなことが同僚には一人で仕事をしているようだ。他の人は一人もいらないというやり方だといって、不快に思うものも少なくなかったようだ。

 協同生活では、同僚も生かして働くということでないとうまくいかない。やっぱり長としての包擁力が少なかったのは遺憾であった。

 サッカーでも自分ひとりでドリブルしてゴールをねらっていては、得点出来にくい。早くパスして同僚に得点のチャンスを与えることも必要である。午郎さんはよく一人で仕事をしたが、同僚を生かしてチームの成績をあげることはあまり上手ではなかったようだ。やっぱり一時代前のサッカー選手だったので、独走も止むを得なかったのであろう。”
 

| | Comments (1)

乾豊彦「玉井操氏の急逝を悼む」

業界誌『海運』に掲載された、日本サッカー殿堂入りしている玉井商船社長玉井操氏に対する追悼文。玉井氏は1927年第8回極東選手権上海大会の対フィリピン戦で日本代表が国際戦初勝利した時のイレブンであり、強敵中華民国戦では唯一のゴールを決めている。当時の上海の新聞の切り抜きなどを貼り込んだスクラップ・ブックを残していて、現在日本有数のサッカー文献コレクター蹴球亭さんが所有されており、拝見させていただいたことがある。

乾豊彦(乾汽船会長 日本船主協会副会長)「玉井操氏の急逝を悼む」『海運』(616) 1979.1 p.70-71

“昨十二月二十三日朝、玉井さんの急逝の報を聞いた時には夢ではないかと疑いました。

 ここ二~三年は体調が勝れないことを聞いておりましたが、まさかこんなに早く亡くなられようとは思いもよりませんでした。何時も血圧が上がったり心臓の調子が悪いと、直ぐ掖済会病院に入院されて充分な療養をされており、平素より非常に身体を大切にされておられた方ですから、このたびの入院も御養生のこととのみ思っておりましたのに、家の方々もまた会社の方々、私達友人も本当に思いがけない急逝に驚いておる次第であります。

 あなたは、昭和十年に玉井商船(株)の社長に就任され、今日まで四十三年の永きに亘りその職を全うされたのでありますが、その間、昭和二十七年より日本船主協会の理事に就任、三十三年十二月には副会長に就任され、その後私が副会長に就任するまで十一年余の長きに亘ってその重責を果されたのでありまして、現在は常任理事・広報委員長を勤めておられたのであります。また三十四年に海運オーナーズ協会設立発起人として会長に就任され、その後四年間、私がその職を引き継ぐまで全うされました。また、昭和三十九年には公団共有船主会を創立されると同時に会長に就任され、今日まで十五年の長きにわたりその重責を果されたのであります。その他日本海運集会所、神戸船主会、神戸船舶倶楽部を始め、幾多の海運関係の団体に理事または役員として就任されておりまして、その数は数えきれない程であります。その他神戸商工会議所の副会頭として十一年の長きに亘り、また神戸船渠(株)会長、神戸国際会館社長等今日まで勤められたのであります。

 斯くの如く、多くの海運・造船関係のみならず神戸財界の重職を兼ねられたということは、如何に同氏が幅広く活動的であると同時に、常に献身的努力を払われていたかというもので、真に敬服すべき方であり、一同心からその急逝に対し哀悼の意を表する次第であります。

 また一面、スポーツ界にも非常に尽力され、大学時代よりサッカーの選手としてその名を謳われ、関西サッカー協会会長、日本サッカー協会副会長として大いに貢献されまして、地元神戸のサッカー界の振興には永年にわたって努力をされ、今日の隆盛を招来された一大恩人であります。一方ゴルフにおいても、広野ゴルフ倶楽部創立以来のメンバーとしてシングルの腕を振るわれたのでありましたが、戦後に余りご熱心ではなかったけれども、晩年まで大いにプレイを楽しんでおられました。最近神有カントリー倶楽部の理事長も引き受けられ、その発展に努力を払われていたのであります。

 かくのように各方面にわたって広くお世話をされた方でありまして、その忙しさがかえってあなたの寿命を縮めたのではないかと思う次第であります。同氏は運動の選手で、非常に頑健な身体であり、酒は一滴も飲まれず、好きな煙草も晩年は禁じられ、本当に節制されておりましたので、必ずや長寿を全うされることと思っておりましたが、最近の海運並びに造船界は非常なる不況にありまして、特に弊社同様中堅オペレーターであります玉井商船も業績芳しからず、ために社長として労務問題には非常に頭を悩まされておられ、このことが心情をわずらわしていたことと拝察致します。

 何時も穏やかで、温和な様相で、よく人の話を聞いて事に当たられ、よく面倒を見られたあなたの容貌が、彷彿として思い浮かぶのでありまして、ここにあなたを失った日本海運界並びに神戸財界は、一抹の寂しさを感ずる次第であります。

 玉井さん、本当に永い間お世話になりました。心より御冥福を祈ります。

(昭和五十三年十二月二十九日記)”

| | Comments (0)

三鬼陽之助「御曹子社長の放漫経営 田辺五兵衛・田辺製薬会長」

日本サッカー殿堂入りしている元田辺製薬会長田辺治太郎(14代田辺五兵衛)氏に対する財界人物評。この時点で「社長」から「名ばかりの会長」になっており、辛辣に批判されている。

三鬼陽之助「御曹子社長の放漫経営 田辺五兵衛・田辺製薬会長」 『悲劇の経営者 資本主義に敗北した男の物語』(光文社 1964) p.116-119

「良薬は口ににがし」を知らず

 田辺製薬は、いま学者社長の平林忠雄の手で着々と再建の道を歩んでいる。流行薬アスパラが当たったのが、回復のきっかけだった。

 この道修町の名門、田辺製薬がつまづいたのは、昭和二十九年。新抗生物質として、当時話題をにぎわしたテラマイシンの国産化の失敗が原因であった。テラマイシン国産化のため、当時、社長の田辺五兵衛はアメリカのファイザー社と折半出資で、資本金一億円の田辺ファイザー会社を設立した。が、この払込金五千万円が自己調達できなくて、三和、東海の両銀行から全額を借り入れて出資した。まず、この出発点からして無理があった。

 それに、同じテラマイシンに思わぬ強敵が現われたのだ。戦後、ストマイ、ペニシリンで抗生物質製造に先駆的役割をはたした明治製菓が、テラマイシンと同じ効力を持つラドラサイクリンを発売したからである。これで打撃を受けたところへ、資金繰りのために、当時の主製品、抗結核剤のパスのダンピングをやったのが悪かった。たちまち同業他社の反撃を受けて、手も足も出なくなった。

 ところが、田辺は、前年の九月、一億五千万円の資本金を倍額増資して三億円。さらに、一億四千六百万円の転換社債を資本金にくみいれ、一躍四億四千五百万円の大資本になった。その手まえもあってか、増資直後の昭和二十八年十月期には、内実は赤字なのに、むりに二割配当を行なった。さらに、労働組合にも特別ボーナスを出した。しかし、無理は続かず、それにかんじんの金融筋に気づかれたため、翌二十九年六月期の決算は無配、銀行にふたたび救済融資をこわなければならなくなったのである。

 田辺五兵衛は、いまは名ばかりの会長に祭りあげられている。かれは、明治四十一年三月生まれ。昭和八年に大阪商大を卒業、昭和十六年、先代の跡目をついで社長になったとき、三十三歳という若さだった。

 名門の会社にありがちだが、家長が社長、一族郎党が、この社長を取り巻いていた。田辺の場合、学生時代の友人が、取巻きになっていた。しかし、かれらの多くは無能で、ただ田辺のごきげんをとるばかりで、御曹子経営の弱点を遺憾なく暴露したため、つまずきの原因となったのである。そのうち、わずかに、同じ学友の一人で、田辺製薬の近代化に努力したため、さんざん社内で反撃をくらった平林忠雄が存在したことで、けっきょく、この創業二百八十余年という名門会社は、製薬界から消えるのを防ぐことができたのであった。平林は、いざという場合、前歴の教師にもどれば、食ってゆけるといった覚悟ができていた。そのため、再三、再四の諫言で、ようやく経営を常態にもどすことができたのである。良薬は、まさに口ににがかったことを、このバトンタッチが如実に物語っている。田辺が、それをもっと早く知っていたら、今日の名ばかりの会長に転落しなかったわけである。

 もう一つ、田辺五兵衛の失敗について、いいうることは、世間体をごまかすために、自社製品よりも、他社製品の販売にむしろ重点をおいたことだ。この結果、田辺の取扱高はふえ、ある程度の利益は保証されても、社内は創業的な活気を喪失させた。

 これは、日本の製薬会社のもつ問屋的伝統ともいえるが、平林は、この弊害を根本的に改革したのであった。田辺は二代目として、その勇気に欠けていたのである。”

| | Comments (1)

舜堂 「財界人物誌 田辺製薬社長 田辺五兵衛氏」

日本サッカー殿堂入りしている元田辺製薬会長田辺治太郎(14代田辺五兵衛)氏に対する財界人物評。この時点では「社長」であり、「失脚」していない。文中の手島(常務)とは、これも日本サッカー殿堂入りしている手島志郎氏。

舜堂 「財界人物誌 田辺製薬社長 田辺五兵衛氏」『日本経済新報』7(28) 1954.10 p.18

“田辺は、武田、塩野と相並んで、地許の大阪、道修町では、御三家と謳われる業界の名門である。その業態、規模が大きいというだけでなく、「のれん」が古いからである。創業は西暦一七二〇年というから二三四年の歴史を担うわけだ。

 代々、田辺五兵衛を襲名し、現社長はその十四代目である。歴史の古さからいえば、恐らく御三家中でも、最も古いのであろう。

 但し歴史が古いというだけなら、敢えて自慢にはなるまい。事業は古い伝統と、新しい生命を兼備してこそ、発展して行くのである。

 当社も小野田工場を建設した大正末期から漸次、近代的な製薬業者としての業態を整え、昭和八年には、従来の個人経営を、株式組織に変更し、技術面にも経営面にも、高等教育を受けた人材を登用し、現在の重役陣を一瞥しても、法人組織になってから入社した、高田、手島両二常務あたりが経営の中枢的地位に立っているようだ。

 資本金なども、法人改組当時の四百十五万円が、現在四億四千七百五十万、百倍以上に伸びている。インフレマネーによる増資とはいえ、ともかく時代に遅れずに、伸びたことは確かだ。

 当社が、かくの如く近代的企業として発展した過去二十余年間の歴史は一面からみると現在の社長の財界人としての成長期と表裏一体をなしている観がある。

 即ち、田辺氏は、明治四十一年生れだから、本年四十七才だが、昭和九年に大阪商大を卒業するや、直ちに父親の家業に携わり、副社長時代を経て社長に就任したのが、昭和十六年の十二月、由来十三年間、社長勉強を積んで来た。恐らく終身社長であろうが、当社を、ここまで発展させて来たのだから、断じて不肖の子ではない。むしろ将来田辺家中興の祖と仰がれてよい功労者かもしれない。

    X X

 但し、田辺氏も、社長就任以来、昨年までは比較的順調に伸びたが、今春増資直後に、従来の二割配当を、一挙に無配断行の挙に出て、いささか世間の信用を失墜した観がある。田辺の増資は「喰い逃げ増資」だと、投資家層の評判は、甚だよろしくない。

 我々は事業の成績をその場その場で是非せず、長い目で見なければならぬことを、よく心得ているから、敢て、これ以上言を費やさないが、田辺氏としては、男を下げるも上げるも、今後の褌の締め加減一つだろうと思う。ともかく無配を断行した以上は、一期や二期は雌伏して、復配を焦らず、鋭意、経営の合理化に努めてもらいたい。

    X X

 会った人ならよく知っているだろうが明朗な感じの青年社長である。戦後再度海外を視察して、国際的感覚も身につけて来た。殊に最近は、自ら第一線に立って、必要とあらば誰とでも会うし、殊に商売のことになると、実によく勤めると、社員連中の評判はよい。

 もともとスポーツマンで、殊にサッカーの方では有名な存在である。勇将の下弱卒なしで、田辺のサッカーチームは、過去五年間、全国のどの公式試合にも勝ちっ放しのレコードを保持している。

 バスケットの方でも、女子の方は全国実業団試合では二度まで優勝しているし、野球の方もOBチームでは、この間産経を破って大阪代表となった。

 社内が割に明朗で、スト騒ぎを起さないのも、社長のスポーツ熱の余徳だろうと思う。

    X X

 薬業界の最近の生存競争はすこぶる激甚である。どうかスポーツ同様にフェアプレイで、優勝圏内を突進してもらいたいものだが、田辺の行き方は、重点主義というか、ヒット主義というか、たえず目新しいところをねらって、先鞭をつけるのが特徴のようだ。「ニツパス」は、その中でも大いにヒットした方だろうが結核薬として、依然たる強味を示しているが、米国のファイザーとの提携による「テラマイシン」は、目下業界での批評も区々だ。今後が楽しみでもあれば、問題でもあろう。

 酒のみの常備薬「ネストン」は、近ごろ秀逸の部類だと思う。

 清水昆のカッパの絵が、可成りアテらしい。

 但し、美人をつくると称する美肌剤「ネストンパール」に至っては、せいかは未知数だ。

 むしろ、今後を期待するとすれば、ガンの新薬「アザン」だろう。

 これは今年の八月から、市販を始めたばかりで、またヒットになるか、ファウルになるか判らぬが、何しろ全国には三十万のガンの患者がいる。

 そして毎年七万人は確実に死んで行く。

 もし再発防止に効き目があるとなれば大変な売れ行きを示すだろうし、ガン恐怖症患者に至っては、全国に何百万いるか判らぬ位だから、予防に効くとなれば田辺製薬は一挙に「無配時代」を脱して万々歳ということになろう。”

| | Comments (0)

北原白秋「少年進行曲 蹴球」

大和田建樹「フートボール」(1897年)に続く日本蹴球文学第2弾。→「日本最初の蹴球文学

以下[ ]内はルビ。

北原白秋「少年進行曲 蹴球[フートボール]」『少年倶楽部』5(10) 1918.8 p.22-23

“ボール、ボール、フートボール。
フート、フート、フートボール。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

ボーイ、ボーイ、ヤンガアボーイ。
ヤンガア、ヤンガア、ヤンガアボーイ。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

遊べよ、遊べよ、飛んで出ろい。
夏だ、夏だ、夏だ、よウい。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

炎天、炎天、炎天だアい。
みんな、みんな、素つ裸ァい。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

ボール、ボール、フートボール。
大[でっ]けえ、大[でっ]けえ、大[でっ]けえボール。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

いいか、いいか、源平だアい。
紅だ、白だ、紅白[あかしろ]だアい。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

出るな、出るな、まだまだだアい。
よいか、ほうれ、一[わん]、二[つう]、三[すりい]。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

ほうつた、ほうつた、フートボール。
弾むぞ、弾むぞ、そら、かかれエい。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

蹴れ、蹴れ、蹴れ、蹴れ、蹴つとばせエい。
押せ、押せ、押せ、押せ、突きとばせエい。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

そら来た、どつこい、蹴つ返せエい。
やつ、こりや、しまつた。ワツハワツハアい。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

踏め、踏め、踏め、踏め、踏みちらせエい。
野つ原一面野薊だアい。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

散つた、散つた、散つたよオい。
見ろ、見ろ、栗の木花盛りい。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

蹴れ、蹴れ、蹴れ、蹴れ、蹴つとばせエい。
占め、占め、なにくそ、誰が負けるらウい。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

あれ、あれ、ホームだ、すつ飛ばせエい。
入れたら死ね死ね、押しもどせエい。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

ワツハ、ワツハ、ワツハツハ。
ハツハ、ハツハ、ワツハツハ。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

夏だ、夏だ、炎天だアい。
飛べ、飛べ、飛べ、飛べ、フートボール。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

ボーイ、ボーイ、ヤンガアボーイ。
ヤンガア、ヤンガア、ヤンガアボーイ。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。

ボール、ボール、フートボール。
フート、フート、フートボール。
ワアイ、ワアイ、ワイワイワアイ。”

詩人北原白秋はフットボールの何たるかを全然理解していなかったようである。

Kitahara

| | Comments (0)

18切符チープ旅越後編

Cimg0545

Cimg0550

18切符で高崎へ。新幹線で越後湯沢へワープ(3,410円)

Cimg0548

ロープウエーそばの一二三で昼食

Cimg0546

Cimg0547

刺身定食(1,200円)+天然鮎塩焼き(1,000円)+生ビール(6,00円)
鮎が期待より小さかった。子供の頃親の郷里の徳島県で食った吉野川の鮎は30cmくらいあったように記憶しているが

Cimg0553

再び18切符で長岡へ 暑い!

Cimg0554

宿泊した駅前のビジホ(朝食付き5,000円)

Cimg0559

夕食はへぎ蕎麦の長岡小嶋屋本店

Cimg0555

生ビール+付き出し+枝豆 小粒だが味の濃い枝豆がナイス

Cimg0556

だしまき うまいけど関東風砂糖入り

Cimg0557

久保田千寿と天麩羅盛合せ

Cimg0558

へぎ蕎麦

Cimg0560

翌日はオール18切符で1日かけて 小出駅只見線ホーム

Cimg0561

鮎釣師がいる魚野川

Cimg0562

八海山?

Cimg0563

18切符はすべて消化 めでたし めでたし


| | Comments (0)

アメリカ男子サッカー全米大学選手権歴代優勝校

NCAAの「Men's Soccer - Championship History」による。2011年の男女トーナメントをみると、男子は32校なのに対して、女子は64校とバスケットボール並みであり、ここでもアメリカ・サッカーの女性優位がみてとれる。

1959年 セントルイス大学 5-2 ブリッジポート大学
1960年 セントルイス大学 3-2 メリーランド大学
1961年 ウエスト・チェスター大学 2-0 セントルイス大学
1962年 セントルイス大学 4-3 メリーランド大学 
1963年 セントルイス大学 3-0 海軍兵学校
1964年 海軍兵学校 1-0 ミシガン州立大学
1965年 セントルイス大学 1-0 ミシガン州立大学
1966年 サンフランシスコ大学 5-2 ロングアイランド大学
1967年 ミシガン州立大学・セントルイス大学両校優勝 0-0(悪天候により試合中止)
1968年 メリーランド大学・ミシガン州立大学両校優勝 2-2
1969年 セントルイス大学 4-0 サンフランシスコ大学
1970年 セントルイス大学 1-0 UCLA
1971年 ハワード大学 3-2 セントルイス大学
1972年 セントルイス大学 4-2 UCLA
1973年 セントルイス大学 2-1 UCLA
1974年 ハワード大学 2-1 セントルイス大学
1975年 サンフランシスコ大学 4-1 南イリノイ大学エドワーズビル校  
1976年 サンフランシスコ大学 1-0 インディアナ大学  
1977年 ハートウィック大学 2-1 サンフランシスコ大学
1978年 サンフランシスコ大学 2-0 インディアナ大学
1979年 南イリノイ大学エドワーズビル校 3-2 クレムソン大学
1980年 サンフランシスコ大学 4-3 インディアナ大学
1981年 コネチカット大学 2-1 アラバマ農工大学
1982年 インディアナ大学 2-1 デューク大学
1983年 インディアナ大学 1-0 コロンビア大学
1984年 クレムソン大学 2-1 インディアナ大学
1985年 UCLA 1-0 アメリカン大学
1986年 デューク大学 1-0 アクロン大学
1987年 クレムソン大学 2-0 サンディエゴ州立大学
1988年 インディアナ大学 1-0 ハワード大学
1989年 サンタクララ大学・バージニア大学両校優勝 1-1
1990年 UCLA 0-0(PK) ラトガース大学
1991年 バージニア大学 0-0(PK) サンタクララ大学
1992年 バージニア大学 2-0 サンディエゴ大学 
1993年 バージニア大学 2-0 サウス・カロライナ大学
1994年 バージニア大学 1-0 インディアナ大学
1995年 ウィスコンシン大学 2-0 デューク大学
1996年 セントジョンズ大学(NY) 4-1 フロリダ国際大学
1997年 UCLA 2-0 バージニア大学
1998年 インディアナ大学 3-2 スタンフォード大学
1999年 インディアナ大学 1-0 サンタクララ大学
2000年 コネチカット大学 2-0 クレイトン大学
2001年 ノース・カロライナ大学 2-0 インディアナ大学
2002年 UCLA 1-0 スタンフォード大学
2003年 インディアナ大学 2-1 セントジョンズ大学(NY)
2004年 インディアナ大学 1-1(PK) カリフォルニア大学サンタバーバラ校
2005年 メリーランド大学 1-0 ニューメキシコ大学
2006年 カリフォルニア大学サンタバーバラ校 2-1 UCLA
2007年 ウェイクフォレスト大学 2-1 オハイオ州立大学
2008年 メリーランド大学 1-0 ノース・カロライナ大学
2009年 バージニア大学 0-0(PK) アクロン大学
2010年 アクロン大学 1-0 ルイビル大学
2011年 ノース・カロライナ大学 1-0 シャーロット大学

1991~94年にバージニア大学が4連覇しているが、監督は1998~2006年にアメリカ代表監督を務めたブルース・アリーナ。

日本の大学選手権は1952年に始まっているが、1965年まではオープン参加の、地方大学へのサッカー普及を目的とした大会で、地域リーグの優勝校や上位校のみが参加する「選手権(チャンピオンシップ)」とはいえないものだった。実質的に全国選手権化するのは1966年からで、その意味では、アメリカの方が全国大学選手権としての歴史が古いといえる。→「戦後の東西大学王座決定戦

| | Comments (0)

アメリカ女子サッカー全米大学選手権(National Championship Tournament for Women's Soccer)歴代優勝校

NCAAの「Women's Soccer - Championship Hisory」による。

1982年 ノース・カロライナ大学 2-0 セントラル・フロリダ大学
1983年 ノース・カロライナ大学 4-0 ジョージ・メーソン大学
1984年 ノース・カロライナ大学 2-0 コネチカット大学
1985年 ジョージ・メーソン大学 2-0 ノース・カロライナ大学
1986年 ノース・カロライナ大学 2-0 コロラド・カレッジ
1987年 ノース・カロライナ大学 1-0 マサチューセッツ大学
1988年 ノース・カロライナ大学 4-1 ノース・カロライナ州立大学
1989年 ノース・カロライナ大学 2-0 コロラド・カレッジ
1990年 ノース・カロライナ大学 6-0 コネチカット大学
1991年 ノース・カロライナ大学 3-1 ウィスコンシン大学
1992年 ノース・カロライナ大学 9-1 デューク大学
1993年 ノース・カロライナ大学 6-0 ジョージ・メーソン大学
1994年 ノース・カロライナ大学 5-0 ノートルダム大学
1995年 ノートルダム大学 1-0 ポートランド大学
1996年 ノース・カロライナ大学 1-0 ノートルダム大学
1997年 ノース・カロライナ大学 2-0 コネチカット大学
1998年 フロリダ大学 1-0 ノース・カロライナ大学 
1999年 ノース・カロライナ大学 2-0 ノートルダム大学
2000年 ノース・カロライナ大学 2-1 UCLA
2001年 サンタ・クララ大学 1-0 ノース・カロライナ大学
2002年 ポートランド大学 2-1 サンタ・クララ大学
2003年 ノース・カロライナ大学 6-0 コネチカット大学
2004年 ノートルダム大学 1-1(PK) UCLA
2005年 ポートランド大学 4-0 UCLA 
2006年 ノース・カロライナ大学 2-1 ノートルダム大学
2007年 南カリフォルニア大学 2-0 フロリダ州立大学
2008年 ノース・カロライナ大学 2-1 ノートルダム大学
2009年 ノース・カロライナ大学 1-0 スタンフォード大学
2010年 ノートルダム大学 1-0 スタンフォード大学
2011年 スタンフォード大学 1-0 デューク大学

ノース・カロライナ大学といえばマイケル・ジョーダンの母校で男子バスケットボールの名門校だが、女子サッカーの強豪でもあり、女子サッカーの方が全米No.1の回数が多い。

2011年の64校トーナメント結果

コーチ投票による2012年全米ランキング

NCAAのRPI(Ratings Percentage Index)による2012年全米ランキング

アトランチック・コースト・カンファレンスのレベルが高そう。

| | Comments (0)

大学レベルにおけるアメリカの女子サッカー

『Soccer & society』誌に掲載された以下の論文(無料全文アクセス可)による。数値の出拠は原論文の参考文献を参照されたい。

Andrei S. Markovits & Steven L. Hellerman (2003): Women's soccer in the United States: Yet another American ‘Exceptionalism’, Soccer & Society, 4:2-3, 14-29

Frost & Cubberley著『Field hockey and soccer rules for women』が1923年に刊行されていることは、当時ホッケーとサッカーが小中高大の女子体育カリキュラムに導入されていたことを示している。ホッケーの方がより普及しており、1922年にブリン・モアー大学(Bryn Mawr College 女子大)に全米フィールド・ホッケー協会(United States Field Hockey Association)が設立されている。女子サッカーの全米協会が設立されるのは1980年代を待たなければならない。

女子サッカーが大学で行なわれた最古の記録は、1924年スミス大学(Smith College)である。同大は ブリン・モアーなどと同じくセブン・シスターズ(男子のアイビー・リーグに対応するニュー・イングランドの名門女子大学)である。寄宿舎対抗やクラス対抗でゲームが行なわれた。ただし、大学対抗戦は学則で禁止されており、スミス大学がそれを解除するのは1971年である。

女子の大学対抗サッカーが始まったのは1950年代のバーモント州で、ジョンソン州立大学(Johnson State College)、キャッスルトン州立大学(Castleton State College)、リンドン州立大学(Lyndon State College)の3校がカナダのビショップス(Bishops)、マクドナルド(Mcdonald)、マッギル(McGill)の3大学も加えて試合した。

1960年代後半までには全米女子スポーツ協会(National Association for Girls and Women in Sport(NAGWS))は女子スポーツの大学対抗戦を認めるようになる。NAGWSは後に全米女子大学対抗体育協会(Association for Intercollegiate Athletics for Women(AIAW) )となり、1982年には全米大学体育協会(National Collegiate Athletic Association(NCAA))に吸収された。

1975年ブラウン大学(Brown University)が初めて女子サッカーに「大学代表チームのステータス(varrsity status)」 を与えた。1978年までには、ニュー・イングランド大学対抗女子サッカー協会(New England Intercollegiate Women's Soccer Association)は、大学代表チームのステータスをもつ13校と16校のクラブ(club)を数えるにいたった。1978年には最初のアイビー・リーグ女子サッカー・トーナメント大会が行なわれた。

AIAWが1981年に最初の全米選手権を開催し、翌1982年にはNCAAが第1回全米女子大学サッカー選手権(National Championship Tournament for Women's Soccer)を開催する。

NCAA加盟校中大学代表チームのステータスをもつ校数と選手数は、

1982年 103大学(NCAA加盟校中の10.2%)  2,743人
2001年 824大学(NCAA加盟校中の78.6%) 18,548人

であり、特筆されるべきは、2001年の男子校数は732大学で、女子より90校近くすくない。

ただし、観客数では男子大学サッカーに及ばない。また、女子大学バスケットボール、女子大学バレーボールにも及ばない。しかし、1999年の女子ワールドカップの優勝チームは全員女子大学サッカー経験者で、大学女子サッカーも他の女子スポーツよりも注目を集めることになるかもしれない。

| | Comments (0)

« August 2012 | Main | October 2012 »