松永碵「幻のプロサッカー秘話」
松永碵「幻のプロサッカー秘話」『イレブン』9(14) 1979.11 p.135
“後楽園競輪場ができたのが昭和24年10月、その年だったか、あるいはその翌年だったか、ある日突然、読売新聞社主の正力松太郎さんから「至急会いたい」という電話がかかってきた。大読売の正力さん―。もちろん日立でサッカーに明け暮れていた若僧の私には一面識もなかった。
社主室の大きな部屋に通され、いささか緊張の面持ちの私に、正力さんは温和な視線を投げかけ、こう話をきり出してきた。
「実はね、サッカーのプロ・チームをきみにつくってもらおうと思って呼んだんだよ。日本の野球は読売巨人軍を中心にどんどん栄えていく。だが、野球は世界的なものではない。世界に輝くプロ・サッカーをそだてるのが、このわしの願いなんだ」
正力さんは、一気にこういうと目を輝かせて私の返事を待った。
正力さんの構想によると、氏の肝煎りでできた後楽園の競輪場の開催の合間を利用して、プロのサッカー試合を行なう。そして、そのサッカー試合にトトカルチョを導入しようというものだった。
いまでこそ、世界のプロ・サッカーでほとんどトトカルチョの[ママ]行なわれているが、当時、アマチュア至上主義の日本のスポーツ界で、正力さんの唱える“ばくち”は、私を驚愕させるに十分だった。
私が返答に困っていると、正力さんは、「チーム結成の中心人物を物色して、いろいろな意見を聞いてみたが、きみしかいないというわけで・・・・・」こうたたみかけるように話しかけてきた。
熟慮のすえ、「私はプロをやる気はありません」と断わった。正力さんは「そんなことじゃ困る」、「じゃチーム結成までお手伝いしましょう」、「そこまでじゃ、しようがないよ」というようなやりとりがあった。結局は正力さんが折れて、直接プロを目指すということじゃなしに日本最強チーム結成に着手することになった。
チーム名を“東京クラブ”とし、メンバーには香港からきていたマクドナルド(GK)、大埜(日産化学)、鈴木(立教大出)、山口(明治大出)などが中心だったと思う。
このメンバーで第一回都市対抗(読売新聞社主催)に臨んだ。もちろん、向うところ敵なしの優勝だった。だが、プロを前提とする秘密のチームだけにそれを感じていたサッカー関係者の牽制や中傷も多かったのも事実だった。それに“団結”の基盤も脆弱だった。
数年後、正力さんの夢も空しく、最強“東京クラブ”はあえなく空中分解してしまった。
正力さんとのお別れパーティは新橋の「みかど」で行なわれた。その席上正力さんは「海の向こうから敵の艦船が押し寄せてくるのが見えるテレビジョンという機械が茶の間にはいり込んでくる」と現在の4チャンネル構想を明らかにしたのを覚えている。
そんな話の途中、正力さんはそっと私の耳もとにささやいた。
「結局、プロをつくる時期じゃなかったんだな。だが、ぼくはこのサッカーの夢は捨てないよ」
この夢はプロ化構想とは違ったが、小林与三次NTV社長によって高校サッカーに受け継がれているような気がしてならない。”
読売新聞の第1回都市対抗予想記事によれば、すでに古河電工に入社していた長沼健氏も東京クラブに所属していた。後楽園競輪場ができた1949年から第1回都市対抗開催の1955年まで6年間はどうだったのだろうか。正力氏にサッカーの知識をつけた「参謀」はだれだったかも気になる。
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