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三鬼陽之助「御曹子社長の放漫経営 田辺五兵衛・田辺製薬会長」

日本サッカー殿堂入りしている元田辺製薬会長田辺治太郎(14代田辺五兵衛)氏に対する財界人物評。この時点で「社長」から「名ばかりの会長」になっており、辛辣に批判されている。

三鬼陽之助「御曹子社長の放漫経営 田辺五兵衛・田辺製薬会長」 『悲劇の経営者 資本主義に敗北した男の物語』(光文社 1964) p.116-119

「良薬は口ににがし」を知らず

 田辺製薬は、いま学者社長の平林忠雄の手で着々と再建の道を歩んでいる。流行薬アスパラが当たったのが、回復のきっかけだった。

 この道修町の名門、田辺製薬がつまづいたのは、昭和二十九年。新抗生物質として、当時話題をにぎわしたテラマイシンの国産化の失敗が原因であった。テラマイシン国産化のため、当時、社長の田辺五兵衛はアメリカのファイザー社と折半出資で、資本金一億円の田辺ファイザー会社を設立した。が、この払込金五千万円が自己調達できなくて、三和、東海の両銀行から全額を借り入れて出資した。まず、この出発点からして無理があった。

 それに、同じテラマイシンに思わぬ強敵が現われたのだ。戦後、ストマイ、ペニシリンで抗生物質製造に先駆的役割をはたした明治製菓が、テラマイシンと同じ効力を持つラドラサイクリンを発売したからである。これで打撃を受けたところへ、資金繰りのために、当時の主製品、抗結核剤のパスのダンピングをやったのが悪かった。たちまち同業他社の反撃を受けて、手も足も出なくなった。

 ところが、田辺は、前年の九月、一億五千万円の資本金を倍額増資して三億円。さらに、一億四千六百万円の転換社債を資本金にくみいれ、一躍四億四千五百万円の大資本になった。その手まえもあってか、増資直後の昭和二十八年十月期には、内実は赤字なのに、むりに二割配当を行なった。さらに、労働組合にも特別ボーナスを出した。しかし、無理は続かず、それにかんじんの金融筋に気づかれたため、翌二十九年六月期の決算は無配、銀行にふたたび救済融資をこわなければならなくなったのである。

 田辺五兵衛は、いまは名ばかりの会長に祭りあげられている。かれは、明治四十一年三月生まれ。昭和八年に大阪商大を卒業、昭和十六年、先代の跡目をついで社長になったとき、三十三歳という若さだった。

 名門の会社にありがちだが、家長が社長、一族郎党が、この社長を取り巻いていた。田辺の場合、学生時代の友人が、取巻きになっていた。しかし、かれらの多くは無能で、ただ田辺のごきげんをとるばかりで、御曹子経営の弱点を遺憾なく暴露したため、つまずきの原因となったのである。そのうち、わずかに、同じ学友の一人で、田辺製薬の近代化に努力したため、さんざん社内で反撃をくらった平林忠雄が存在したことで、けっきょく、この創業二百八十余年という名門会社は、製薬界から消えるのを防ぐことができたのであった。平林は、いざという場合、前歴の教師にもどれば、食ってゆけるといった覚悟ができていた。そのため、再三、再四の諫言で、ようやく経営を常態にもどすことができたのである。良薬は、まさに口ににがかったことを、このバトンタッチが如実に物語っている。田辺が、それをもっと早く知っていたら、今日の名ばかりの会長に転落しなかったわけである。

 もう一つ、田辺五兵衛の失敗について、いいうることは、世間体をごまかすために、自社製品よりも、他社製品の販売にむしろ重点をおいたことだ。この結果、田辺の取扱高はふえ、ある程度の利益は保証されても、社内は創業的な活気を喪失させた。

 これは、日本の製薬会社のもつ問屋的伝統ともいえるが、平林は、この弊害を根本的に改革したのであった。田辺は二代目として、その勇気に欠けていたのである。”

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Comments

サッカーが原因で、経営に失敗したわけではないのですかね。昔田邊製薬の社史を読んだことがありますが、初代が朱印船貿易に関与していて、感心した記憶があります。

Posted by: 蹴球邸 | September 07, 2012 at 09:14 AM

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