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出身大学クラブ、地域クラブでもプレーしていた1950年代の社会人選手

1961年に古河電工は全日本選手権(天皇杯)、実業団選手権(JSLの発足に伴い廃止)、都市対抗(JSLの発足に伴い廃止)の「3冠」を得るのであるが、キー・パーソン監督兼選手の長沼健は1950年代には全日本選手権には出身大学である中大クラブの一員として、都市対抗には東京クラブの一員として出場していた。

長沼は1955年に古河電工に入社しているが、1956年5月4日の全日本選手権準々決勝対全関大戦には中大クラブのLIとして出場している。

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また、1956年8月20日の都市対抗決勝決勝対新三菱重工戦には東京クラブのLIとして出場している。

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これは当時の社会人選手の一般的なありかたで、田辺製薬の鴇田正憲なども実業団選手権には田辺製薬の選手として出場したが、全日本選手権には関学クラブ選手として、都市対抗には全大阪の選手として参加していた。94戦93勝1分けという無敵チームを作り上げた田辺製薬社長田辺治太郎(14代田辺五兵衛)は、全日本選手権に田辺製薬として出場することは「売名行為」にあたるとして潔しとしなかったそうである。

古河電工と中央大、田辺製薬と関学のように、東京や大阪にあって勤務先と出身大学の距離が近ければ出身大学クラブ選手としても出場可能だ。東洋工業(広島)や八幡製鉄(福岡)などはそんなわけにいかないからか、1949年から全日本選手権に実業団チームとして参加している。

風向きが変わったのは1959年で、古河電工は1959年に全日本選手権に初出場し、翌1960年に実業団チームとして初優勝している。

同1959年には都市対抗にも初出場、初優勝し、1961年まで3連覇する。1961年には全日本選手権を2連覇、都市対抗を3連覇、実業団選手権にも優勝(1959年に続いて2度目)し、国内無敵の文字通りトップ・チームとなる。

『古河電工サッカー部史 日本サッカー界の礎を築いた人たち』(古河電工サッカー部OB会 2004)によれば、1955年に就任した小泉幸久社長がサッカーを「社技」に指定し、同年から5カ年計画でサッカー部を強化した。1955年の長沼健を皮切りに、1957年内野正雄、1958年平木隆三、八重樫茂生、1960年鎌田光男、1961年川淵三郎、宮本征勝と現役日本代表を続々と入社させている。1960年には実業団チームとして初めて東南アジアに海外遠征を行なっている。

しかし、1956年の段階では古河電工は全日本選手権と都市対抗の関東地区予選にも出場しておらず、長沼健は予選に負けて中大クラブと東京クラブの補強選手になったわけではなさそうだ。古河電工サッカー部の方針として不参加であったようである。その方針が変わるのが1959年あたりのようだが、その間の経緯は『古河電工サッカー部史 日本サッカー界の礎を築いた人たち』に記されていない。1959年には東京オリンピック開催が正式決定するのであるが、そのあたりの関係を調べてみたいものである。

こうしてみると、全日本選手権や都市対抗における実業団優位は、社会人選手が出身大学クラブや地域名を冠するクラブチームから勤務先の実業団チームに移動するようになってから実現したといえる。

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