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なぜサッカーが1955年に古河電工の「社技」になったのか?

1955年古河電工はサッカー(本社)、アイスホッケー(日光電気製銅所)、バレーボール(横浜電線製造所)を社技に、ボート(横浜電線製造所)を準社技に指定する(サッカーだけが本社のスポーツであることに注意)。これについて『古河電工サッカー部史 : 日本サッカー界の礎を築いた人たち』(古河電工サッカー部OB会 2004)は、以下のように記述している。

“・・・ついには、関東実業団リーグ一部昇格を果している。いってみれば、昭和二十年代後半の古河電工サッカー部は、創設以来の充実期を迎えていた。

 この流れをみた当時の小泉幸久代表取締役社長が、ひとつの決断を下す。それまでは、有志が集まって活動していたサッカー部を『社技』のひとつに指定し、会社をあげて支援、育成する方針を固めたのだ。

 これはどういうことか。昭和初期の日本社会のなかで、スポーツは意識昴揚のために使われていた。戦時中をみれば、国民のナショナリズムの昂揚のためにスポーツが使われることもあった。スポーツをすることで、または応援や支援をすることで、人々の意識の統一、向上を図ったのである。全員がまとまってひとつのことをサポートする。あるいはひとつのことに向かってパワーを発揮すると、そこにどんな結果が生れるかは、容易に察しがつく。

 小泉幸久社長は社業発展と、社員の志気昂揚の一環として、社員による四つのスポーツを『社技』と定め、会社全体でバックアップすることを宣言した。その四つのスポーツのうちのひとつが、当時好成績を残しはじめていた東京本社のサッカー部だった。

 「なぜサッカーに力を入れるようになったのか? サッカー部が試合をするときに、社員がみんなで応援にいったとする。日頃は同じ職場で働いている人が、そこではまったく違ってみえる。たくましく、頼もしくみえる。そうすると、『おお、あいつも頑張っているんだな。オレも頑張らなくては』と考える。サッカー部の頑張りが、そのまま社員の頑張りにつながっていた。まさに従業員の志気昂揚だね。みんなで会社を盛り上げようという気持ちがあったんだ」

 清水靖弘は静かに当時を懐かしんだ。・・・”(p.42-43)

サッカーが選択されたのは、1955年当時関東実業団リーグ1部に在籍する有力種目だったというのが、主な理由のようだ。しかし、「全社一丸となっての応援」といえば、都市対抗野球がまず思い浮かぶ。社技・準社技に指定された競技は、野球と比べてはるかにマイナーな競技である。なぜ多くの人々に親しまれている野球が選択されなかったのだろうか? また、なぜ「社技」指定が1955年というタイミングだったのだろうか?

それはおそらくライバル会社の関係からだろう。古河電工は、藤倉電線(現・フジクラ)、住友電工と並ぶいわゆる電線御三家の1社である。関西の住友は別として、東京における不倶戴天のライバルは藤倉電線だった。その藤倉の「社技」が野球だったのである。『藤倉電線社史』(藤倉電線 1973)には「新太社長と藤倉の野球部」、「二年連続の優勝」という項があり、以下の記述がある。

“そして、新太社長がもっとも好んだスポーツは野球であった。すでに大正十二年の震災前に新太社長のきも入りで野球部が発足することになり、できあがったばかりでまだ手を通さないユニホームを震災で全部焼いてしまったといういきさつがあった。工場復興に追われて、のびのびになっていた野球部は大正十四年四月に再開、取引先の官庁や実業団を相手に対外試合を重ねた。

二年連続の優勝

 新太社長は、また単に藤倉電線の野球部のみならず、広く日本の社会人野球についてもその健全な発展のために大いに協力し、都市対抗野球隆盛の陰の功労者でもあった。

 毎日新聞社の島崎新太郎や橋戸頑鉄の発案によるこの都市対抗野球計画に賛同し、東京代表になった東京クラブに対しては、選手の派遣はもちろん、その練習には当社のグラウンドを提供するなど、物心両面から援助して主催者毎日新聞社をはじめ、各方面から感謝されたものである。

 当社の野球部が草野球から脱皮して着々と力をつけ、球界に知られたのは昭和五年ころであったが、なんといっても昭和十三年、十四年の都市対抗での連続優勝が、もっともはなやかな時代であった。

 昭和二年都市対抗発足以来、六大学出身の花形で固めた東京クラブは、いつも東京代表であり、他の大都市でも全大阪・全横浜・全神戸など地方の鉄道管理局チーム以外は全部ピックアップチームが出場したものである。

 当社と都市対抗野球のほんとうの結びつきは、九年東京代表決定戦に東京クラブへ挑戦した時に始まるのである。この時は残念ながら惜敗し、東京クラブに代表を譲ったが、東京クラブには当社の中村(峯)投手、菊谷外野手、真野二塁手らが参加しており、同志打ちのような感じで、新太社長はもちろん、両チームに分かれた選手たちがお互いに気がねしながら試合をしたということである。

 十三年第一二回都市対抗野球大会(この時から球場を神宮球場から後楽園球場に移した)には東京クラブが、選手の応召その他の事情でチーム編成ができなくなり、当社が予選で苦戦しながらも東京市代表となって檜舞台に躍り出たのである。・・・”(p.221-223)

大正時代に創部した藤倉電線野球部は、古河電工サッカー部とは比較にならないくらいの歴史と実績があった。都市対抗野球における最初の製造業系実業団優勝チームでもあった(1938年第12回 1936年第10回に門司鉄道局が実業団系チームとして初優勝)。その強さは戦後にも続き、古河がサッカーを社技指定した1955年の前年1954年にも第25回都市対抗野球大会に東京都代表全藤倉として出場し、決勝では八幡製鉄に敗れたが、準優勝している。藤倉電線社内はおおいに盛り上がったはずだ。『藤倉電線社史』には「「オール藤倉」の準優勝」の項があり、以下のように記述されている。

「オール藤倉」の準優勝

 多事多端、躍進と苦難とが錯そうした昭和二十九年の当社の歴史で、文句なく一般従業員を喜ばせたのは、第二十五回都市対抗社会人野球大会兼日本選手権大会で、「オール藤倉」が決勝戦に進出したことであった。

(中略)

 惜しくも五対二で敗れ、白獅子旗の獲得に終ったが、この「オール藤倉」の活躍は、当時、当社にとって大きなイメージアップの効果をもたらしたといえる。

 なお、このとき大館盈六選手が久慈賞を西村一孔投手は三試合連続無失点の新記録賞を受けている。”(p.289-290)

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『毎日新聞』1954年8月20日付 全藤倉のエース西村一孔は阪神タイガースに入団した1年目の1955年にいきなり22勝をあげ、新人王となる。

野球で盛り上がるライバル藤倉電線を横目にした古河電工の小泉社長は、社内で盛り上がれそうな非野球スポーツを物色し、サッカーを選んだのではなかろうか。古河電工サッカー部は1960年全日本選手権(天皇杯)で優勝した最初の実業団チームとなる。

都市対抗野球とサッカー天皇杯には、ともに最初に優勝した製造業系チームは電線会社であるという共通点がある。

 

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東京倶楽部・東京クラブ

戦前の関東倶楽部蹴球リーグ戦に東京倶楽部という名称のチームが出場している。このクラブは竹腰重丸(東大OB 日本代表)、川本泰三(早大OB 日本代表)、高山英華(東大OB 日本代表)、松丸貞一(慶大OB 日本代表)、竹内悌三(東大OB 日本代表)など関東大学サッカーOBの花形選手を集めたチームで、5回中3回優勝している。

ところで、「東京倶楽部」という名称のオールスター・クラブチームは野球に先例があり、都市対抗野球大会創設にあわせて1927年にクラブ創設、東京六大学OBの花形選手、宮武三郎(慶大OB)、苅田久徳(法大OB)、森茂雄(早大OB)、中島治康(早大OB)など後に野球殿堂入りする名選手が在籍した。都市対抗野球大会に第1回から東京代表として11回連続出場、うち4回優勝している。

おそらく、サッカーの東京倶楽部は、チームの構成、名称とも野球の先例にならったのであろう。野球の東京倶楽部選手からは、読売巨人軍の母体となった1934年創設のプロ野球チーム、大日本東京野球倶楽部に苅田久徳(NHK)、中島治康(藤倉電線)が参加している。

戦後の1955年、正力松太郎はひそかにプロ・サッカーを目指して「東京クラブ」というやはり関東大学OBの花型選手を集めたクラブ・チームを作り、日本蹴球協会主催・読売新聞社後援の全国都市対抗サッカー選手権大会というクラブ・チームも出場できる全国大会を創設した。東京クラブは第1回から2連覇する。→「東京オリンピック・トトカルチョ・プロサッカー」、「松永碵「幻のプロサッカー秘話」

なお、戦前の都市対抗野球で東京倶楽部のライバルだったのは「全大阪」だったが、戦後の都市対抗サッカーにも全大阪という名称のチームが参加しており、東京クラブのライバル視されていた。

野球・サッカーの2つの「都市対抗」は相似形だった。「東京クラブ」という名称で都市対抗に出場することは、関東大学リーグOBの花形チームを作ることを意味していた。戦前の関東倶楽部蹴球リーグ戦の東京倶楽部、戦後の都市対抗サッカーの東京クラブも、戦前の都市対抗野球の東京倶楽部にチーム名だけでなく、チーム構成の先例があった。

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JFAの強化方針でもあった東京オリンピック前の優秀選手東京集中

竹腰重丸(日本蹴球協会強化本部長)「選手強化計画の構想」『サッカー』(7) 1960.7 p.9-12

は、一 現状の分析 二 戦法技法の方向 三 国際交流の必要 四 指導者の養成 五 候補選手の育成 六 具体的施策 からなるが、「六 具体的施策」の9項目中に「⑨優秀選手の集中」がある。

“⑨優秀選手の集中-よいコーチを迎え、充実した指導計画をたてても、指導を受けるべき選手が、各地に散在し、かつ勤務先から長期間の休暇をとることが困難であるため、十分な効果をあげ得ない。そこで有望選手はできるだけ東京に集めるようにしたい。一九六三年の夏ごろからは候補選手で地方に勤務しているものは転勤して東京に集まることができるよう、なるべくご協力をお願いしたい。また新たに就職する選手の場合も、同じような配慮を希望したい。”(p.12)

JFAの強化責任者、竹腰重丸がJFA機関誌『サッカー』に上記を発表したのが1960年7月、新三菱重工サッカー部の東京移転が1960年10月だとすれば「平仄」が合うが・・・ 東京オリンピック代表強化のための在東京有力チームへの優秀選手集中は、協会の強化方針でもあった。かくして「丸の内御三家」が形成されていくのである。 

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新三菱重工サッカー部の東京移転

1945年の敗戦とともに三菱重工業は「財閥解体」の対象となり、東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業に3分割された。中日本重工業は、名古屋以西、三原以東の事業所を三菱重工から継承し、本社を神戸造船所のある神戸市に置いた。占領終了後の1952年に3社はそれぞれ、三菱日本重工業(旧東日本重工業)、新三菱重工業(旧中日本重工業)、三菱造船(旧西日本重工業)に社名変更する。1964年に3社は合併し、三菱重工業が復活する。→三菱重工公式HPの「沿革」

浦和レッズの遠祖にあたる新三菱重工サッカー部は中日本重工時代の1950年に、後に三菱自工会長となる岡野良定(広島一中→広島高校→京大)を中心に結成され、主力選手は地元有力大学の関西学院OBだった。全国大会には1956年の第2回全国都市対抗サッカー選手権大会に神戸市代表として初出場し、決勝まで進出して当時この大会で無敵を誇った東京クラブに0-1で惜敗している。次に都市対抗に出場するのは、1962年第8回大会で、東京代表の「全三菱」として出場し、3位になっている。1962年の都市対抗には新三菱重工水島も倉敷市代表として出場している。

全日本実業団サッカー選手権はJFAと朝日新聞社の共催だったが、朝日新聞記事に全試合の記録がないので、新三菱重工の初出場がいつだったかは確認できない。1957年第10回大会に関西代表として出場し、1回戦で日立本社に1-4で敗れている。

『新三菱重工業株式会社史』(三菱重工 1967)の「付録・年表」によれば、1958年4月1日に本社を東京(丸の内)に移転する(p.712)。大住良之「プレヒストリー 1950-1991」『浦和レッズ10年史』(ベースボール・マガジン社 2002) p.89-91 には以下の記述がある。

“1958年、新三菱重工が本社を東京に移転したため、サッカー部選手の大半も東京に転勤して、三菱は東京のチームとなる。翌59年には、慶応大学から二宮寛(3代目監督、後に日本代表監督)が入社、右の二宮、左の北口晃と、強力な両ウイングがそろって全日本実業団選手権で決勝に進出した。ここでも再び古河に敗れたものの、東京の古河、北九州の八幡製鉄、広島の東洋工業、そして東京の日立製作所と並ぶ実業団のトップクラスと自他ともに認めるチームとなった。”(p.89)

上記大住氏の記述によれば、1958年にサッカー部も東京移転したように思えるが、1959年第12回大会にも「関西代表」として出場し、決勝まで進出して古河電工に0-2で敗退している。当時の新三菱重工は実業団サッカーの新興勢力で、本大会の朝日新聞総評記事で大谷四郎氏に“新三菱の活躍はA級グループに新手を加えた感じだった。”と評されている。翌1960年第13回大会にも関西代表として出場し、準々決勝で八幡製鉄に0-4で敗退している。1961年第14回大会になって「関東代表」となり、準々決勝で東洋工業を1-0で下したものの、準決勝で日立本社に1-2で敗退、3位決定戦では八幡製鉄に2-0で勝利して3位になっている。

読売新聞DBのヨミダス歴史館を「新三菱重工 AND サッカー」で検索すると、1960年8月29日付に「全日本実業団サッカー選手権関西予選最終日(28日・西宮)」があり、新三菱重工が大阪ガスを4-2で下して関西代表になっている。1960年10月10日付の「関東実業団サッカー・リーグ第一週第二日(9日・小石川)」では新三菱重工が5-2で日本鋼管に勝利している。関西代表として出場した1960年9月24日の全日本実業団選手権準々決勝で八幡製鉄に敗れている。

新三菱重工サッカー部は1960年9月までは関西に所属し、1960年10月から関東に所属したことになる。1960年10月をもってサッカー部は東京移転したのだろうか。

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新三菱重工が関西代表になっている 『朝日新聞』1960年9月17日付

丸の内御三家の中では、日立が戦前の関東実業団選手権にも優勝している一番の「老舗」だった。他2社は、古河電工は1955年の「社技」指定後に強化され、三菱重工も戦後1950年の創部で発祥の地は神戸、実業団選手権で「関東代表」になったのは1960年代に入ってから、という新興チームだった。

1959年の東京オリンピック開催決定後、クラマー・コーチの招へいや海外遠征などの日本代表強化プロジェクトにこれら3チームのコーチ、選手が多数参加したことによって、サッカー界の主導権をこれら3チーム出身者が握る基盤が整っていくことになる。

新三菱重工サッカー部の東京移転は、オリンピックに合わせたような、絶妙のタイミングだったといえよう。

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戦前の関東倶楽部蹴球リーグ戦結果

『東京朝日新聞』より。

第1回1937年3~4月

1937年3月14日(戸山学校) 東京倶楽部 4-2 東京蹴球団 豊島サッカー倶楽部 4-3 アラン会
東京倶楽部のメンバー GK 金沢 FB 工藤 岩崎 HB 岩波 濱田 野村 FW 小川 竹腰 松丸 塚部 川井

1937年3月21日(戸山学校) 東京蹴球団 7-0 アラン会 オール・ブラックス 3-2 豊島サッカー倶楽部

1937年3月28日(青山師範) オール・ブラックス 5-1 アラン会 東京蹴球団 5-1 豊島サッカー倶楽部
オール・ブラックスはCH市川、RFB新井を除いて全員西洋人。

1937年4月3日(?) 東京倶楽部 3-0 オール・ブラックス

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1937年4月4日(戸山学校) 東京倶楽部 7-0 アラン会

1937年4月11日(神宮) 東京倶楽部 3-2 豊島サッカー倶楽部 東京蹴球団 5-1 オール・ブラックス
順位 1位 東京倶楽部(4勝) 2位 東京蹴球団(3勝1敗) 3位 オール・ブラックス(2勝2敗) 4位 豊島サッカー倶楽部(1勝3敗) 5位 アラン会(4敗)  

第2回1937年11月~1938年3月

1937年11月23日(東大) 東京倶楽部 9-2 アストラ倶楽部

1937年12月12日(東大) 第5日 豊島サッカー倶楽部 5-2 アストラ倶楽部 アラン会 8-1 オール・ブラックス

1937年12月19日(東大) 東京倶楽部 22-0 アラン会 YCAC 6-2 アストラ倶楽部

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1938年1月9日(東大) 東京蹴球団 11-2 オール・ブラックス 

1938年2月6日 第12日(東大、YCAC) 東京蹴球団 8-5 KFSE YCAC オール・ブラックス

1938年2月13日 第13日(東大) 東京蹴球団 6-2 豊島サッカー倶楽部

1938年2月27日 第16日(東大) 東京蹴球団 19-0 アラン会 YCAC 5-0 豊島サッカー倶楽部  

1938年3月13日 第17日(YCAC) YCAC 11-0 KSFE
YCACは7戦全勝で優勝。2位以下は不明。

第3回1939年1月~3月

1939年1月15日(東大、YCAC) 成城 11-1 アラン KFSE 2-0 アストラ YKF 6-1 YCAC 豊島 5-0 全ブラックス

1939年1月1月22日 第3日(東大、日吉台、聖ジョセフ) 豊島倶 13-1 アラン YKF 4-1 青蹴会 東京蹴球団 4-0 KSFE オール・ブラックス 4-1 国際学友会

1939年1月28日 第5日(日吉) 青蹴会 2-2 KFSE

1939年1月29日 第5日(東大、青学) 青蹴会 2-2 アストラ 埼玉 4-1 MTR KFSE 1-0 YKT 豊島倶 7-0 国際学友会

1939年2月5日 第7日(東大) MTR 2-0 国際学友会 埼玉蹴球団 4-1 豊島倶 青蹴会 4-2 YCAC

1939年2月11日 第8日(東大) YKT 4-0 アストラ KFSE 4-4 YCAC

1939年2月12日 第9日(東大) 豊島倶 4-0 成城倶 埼玉蹴球団 3-2 オールブラックス

1939年2月19日 第10日(東大、青学) 成城倶 7-0 国際学友会 MTR 棄権 オールブラックス 東京蹴球団 5-0 アストラ

1939年3月19日(YCAC) YCAC 4-2 東京蹴球団 アラン会 棄権 MTR
A組順位 1位 YKT(4勝1敗) 2位 東京蹴球団(3勝2敗) 3位 KFSE(2勝1敗2分け) 4位 YCAC(2勝2敗1分け) 5位 青蹴会(1勝2敗2分け) 6位 アストラ倶楽部(0勝4敗1分け)
B組は埼玉蹴球団が優勝。

1939年3月26日(東京高校) 優勝決定戦 埼玉蹴球団 7-0 YKT
第3回関東倶楽部蹴球リーグ戦は埼玉蹴球団が優勝。 

第4回1939年11月~1940年2月

1939年11月23日(東京高校) アストラ 5-0 三菱倶 豊島サッカー 棄権 国際学友会

1939年12月17日(東大、青師) 東京倶楽部 2-1 埼玉蹴球団 東京蹴球団 5-1 YKT 綱町倶 7-1 アラン会 成城倶 8-0 三菱倶

1940年1月21日 決勝リーグ第1日(東大) 東京倶楽部 3-1 東京蹴球団

1940年1月28日 決勝リーグ第2日(東大) 東京蹴球団 3-1 成城倶

1940年2月4日 決勝リーグ最終日(東大) 東京倶楽部 4-0 成城倶
東京倶楽部が優勝。

第5回1940年11月(?)~1941年3月(3月の試合はディビジョン昇降のための順位決定戦)
 
1941年からディビジョン制になったようで、1941年2月9日時点での1部最終順位は以下のとおり。
1位 東京倶楽部(2勝2分け) 2位 埼玉師範(2勝2敗) 2位 アストラ倶楽部(2勝2敗) 4位 東京蹴球団(1勝2敗1分け) 4位 成城倶(1勝2敗1分け)

第5回1940/1941年度が記事がある最後だが、1942年12月にもリーグ戦を行う予定の記事はある。1942年12月にはガダルカナル島からの「転進」が決定され、1943年2月には撤収しているので、いくらなんでも1943年にリーグ戦をやることはできなかったであろう。

優勝チームは、

第1回 東京倶楽部
第2回 YCAC
第3回 埼玉蹴球団
第4回 東京倶楽部
第5回 東京倶楽部  

1955年に始まった日本蹴球協会主催、読売新聞社講演の全国都市対抗サッカー選手権では、読売をバックにして当時の実業団花形選手を集めた「東京クラブ」が第1回、第2回に優勝しているが、同じような構成の、東大、早慶など関東大学1部OBの花形選手で日本代表クラスを集めた戦前の「東京倶楽部」も3回優勝している。

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戦前の関東実業団蹴球リーグ結果

『東京朝日新聞』記事より。

1938年決勝リーグ 1位 第一生命(3勝) 2位 日本鋼管(2勝1敗) 3位 千代田生命(1勝2敗) 4位 マツダ(3敗)

『東京朝日新聞』1938年9月24日付

関東実業蹴球四部制に

関東実業団蹴球連盟では日清生命、明治製菓、鶴見製鉄、石川島造船、日立亀戸工場、新潟鉄工所蒲田工場の加盟を承認、四部制でリーグ戦を行ふ事になった。”

1939年関東実業団蹴球リーグ1部順位 1位 第一生命(3勝1分け) 2位 マツダ(2勝2分け) 3位 東朝(1勝2敗1分け) 3位 日本光学(1勝2敗1分け) 5位 千代田生命(3敗1分け)

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戦前の社会人(実業団・クラブ)リーグに関する新聞記事

1936年ベルリン・オリンピックで「ベルリンの奇蹟」を演じたサッカー界は、来るべき1940年東京オリンピックをひかえて、社会人サッカーの強化に乗り出している。社会人が出られるのは、大学OBリーグ戦、1932年から始まった関東実業団選手権(ノックアウト式)、出身学校クラブから出場した全日本選手権(ノックアウト式)など、ごく限られていた。ベルリン・オリンピック直後から社会人にもリーグ戦を作る動きが出てくる。社会人サッカーにはクラブ系と実業団系があったが、別々にリーグ化された。

クラブ系では東京蹴球団(青山師範OBクラブ)、豊島サッカー倶楽部(豊島師範OBクラブ)、アストラ倶楽部(暁星中OBクラブ)にアラン会、横浜の外国人クラブYCACがいて、埼玉蹴球団(埼玉師範OBクラブ)も参加予定になっている。東京倶楽部は竹腰重丸(東大OB、日本代表主将)、川本泰三(早大OB、日本代表)、竹内悌三(東大OB、日本代表主将)、松丸貞一(慶大OB、日本代表)、濱田諭吉(慶大OB、慶大ソッカー部初代主将)など歴代日本代表・関東大学リーグ主力選手OBが集う和製「銀河系」クラブ、オールブラックスは全員外人(西洋人)という異色のチーム。5チームでスタートした倶楽部リーグ戦だが、2年後には13チームに急増し2組に分け、さらに1939年11月には15チームになり、3組に分けてリーグ戦を行っている。戦時中の1942年12月にもリーグ戦の予定を発表している。

実業団系では、現在J1のFC東京になった東京ガス、Jクラブにはならなかったが、JSL1部にもいた日本鋼管が最初から参加している。1937年に日中戦争が始まり、日本社会はいわゆる総動員体制下で窮屈になっていくのであるが、「戦前の関東実業団サッカー 『朝日新聞』1941年4月18日付記事」に記したように1941年4月時点で関東実業団リーグには36チームが参加し、5部制から6部制に拡大する盛況ぶりだった。顔触れをみると軍需企業が多く、中島飛行機のような太平洋戦争をひかえた軍事費増大で潤った会社が新規参加している。

慶応OBの松丸貞一のように、東京倶楽部と千代田生命をかけもちしている例がみられる。戦後、古河電工に入社した長沼健が、全日本選手権(天皇杯)には中大クラブから、都市対抗には東京クラブから出場しているが、こうした二重籍、三重籍は戦前からの伝統だったようである。

『東京朝日新聞』1936年11月3日付

蹴球倶楽部リーグ戦を

 我が蹴球界の飛躍を目指す関東蹴球協会は二日午後六時半から協会事務所で理事会を開催、学生チームの充実と相俟って倶楽部チームの実力向上に意を注ぐ事を決議。これが実現を期して先づ従来試合に恵まれなかった倶楽部チームにその機会を与へるべく倶楽部リーグ戦を開催、同時に従来大会開催にのみ留って居た実業団蹴球界にも可及的速かにリーグ戦を設定する事となった。尚関東蹴球協会常例理事会は毎月第一火曜日に開く事に変更した。”

『東京朝日新聞』1936年11月26日付

東京実業団蹴球リーグ

 関東蹴球協会の肝煎りで東京実業団蹴球リーグが結成され、愈来る十二月六日からリーグ戦が開始されることになった。加盟十三チームを三クラスに分ち、首位三チームを以て改めて決勝リーグ戦を行ふが第一次リーグ戦は左の如し。
◇十二月六日 東京火災対日本鋼管(A)日本徴兵対慶応病院(A)東京ガス対航研(B)航技対第一生命(B)浅野対興銀
◇十三日 東京火災対慶応病院(A)日本徴兵対三共(A)マツダ対浅野(A)
◇二十日 日本鋼管対三共(A)東京ガス対第一生命(B)航研対航技(B)マツダ対興銀(C)
◇二十五日 東京ガス対航技(B)マツダ対千代田(C)
◇一月九日 千代田対浅野(C)
◇十日 日本徴兵対東京火災(A)慶応病院対日本鋼管(A)第一生命対航研(B)
◇十七日 日本鋼管対日本徴兵(A)慶応病院対三共(A)
◇二十三日 千代田対興銀(C)
◇二十四日 東京火災対三共(A)” 

『東京朝日新聞』1937年2月20日付

蹴球倶楽部連盟
   リーグ戦二組

 関東蹴球協会が肝煎りで倶楽部蹴球連盟結成の段取となった事は既報の如くであるが、十九日午後七時から協会事務所に協会側は、本多、清水、小野、小長谷の四理事、倶楽部側YCAC(エー・ジー・ステヴンス)、アラン会(三宅)、東京蹴球団(山口)、豊島サッカー倶楽部(尾佐竹、須貝)、アストラ倶楽部(吉原)の五倶楽部代表が会合の上、関東倶楽部蹴球連盟結成を申合せ、来る二十三日選手の登録、組合せ、その他を決定する。

 他に埼玉蹴球団の参加も予想されてゐる。尚リーグ戦は加盟倶楽部を二組に分ち、それぞれ優勝倶楽部を決定し、改めて決勝戦を行ふ筈である。”

『東京朝日新聞』1937年2月24日付

関東倶楽部蹴球戦
   十四日から試合開始

 関東蹴球協会の肝煎りで結成が急がれつつあった関東倶楽部蹴球連盟は二十三日午後七時から協会事務所に各倶楽部の代表が参集の上協議を進めた結果予期通り順調に進み、

 東京倶楽部、東京蹴球団、オールブラックス、豊島サッカー倶楽部、アラン会、アストラ倶楽部、YCAC

の七チームを以て発会式を挙げ、来る十四日から左の如き日割を以てリーグ戦を行ふ事になった。尚アストラ、YCACは選手の都合で本シーズン試合は放棄するが(以下略)”

『東京朝日新聞』1938年12月29日付

関東倶楽部蹴球参加チーム

 関東蹴球協会主催第三回関東倶楽部蹴球リーグ戦は明春一月十五日から約一月半に亘り行はれるが、今回は参加チーム激増の為全チームを抽籤に依りA、B両組に分け、各組の優勝チームを以て決勝戦を行ふ。参加チーム左の通り。

【A組】 東京蹴球団、Y・K・T(武蔵高倶)、K・F・S・E(慶医OB)、アストラ、青蹴会(青学中等部OB)、Y・C・A・C
【B組】 オール・ブラックス、成城蹴球倶楽部、アラン会、埼玉蹴球団、豊島サッカー、国際学友会、M・T・R(東高OB)” 

『東京朝日新聞』1939年11月11日付

蹴球倶楽部の蹴球戦組分け

 関東蹴球倶楽部リーグは来る十九日を第一日として明春二月下旬に至る長期間に亙って各組毎にリーグ戦を行ひ、その優勝チームにより改めて決勝リーグ戦を行ふが、組分けは抽籤の結果左の如し。

【A】 YCAC、埼玉蹴球団、豊島サッカー倶、国際学友会、 東京倶楽部 
【B】 三菱倶楽部、オールブラックス、成城倶、アストラ倶、青蹴会
【C】 FSB、アラン会、綱町倶、東京蹴球団、YKT”

『東京朝日新聞』1942年12月20日付

倶楽部蹴球の試合方法決る

 関東倶楽部蹴球連盟では、十九日代表委員会を開き、明年度試合方法は紅、白両組それぞれリーグ戦を行ひ、両組の勝者間で優勝決定戦を行ふこととし、期日は一月より五月までと限定した。なほ、紅白の区分は左の通り。

紅組 暁星、東蹴、埼蹴、豊島、駿台、綱町、稲門
白組 成城、湘南、青山、向蹴会、法友、東倶

 なほ大日本体育会蹴球部関東支部の十二月下旬執行予定の関東府県対抗中等学校蹴球大会は都合により一時延期と決定した。” 

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戦前の関東実業団蹴球大会(関東蹴球協会主催)結果

以下、『東京朝日新聞』紙面より。

1932年第1回(本郷帝大球場)


1932年2月28日 準決勝 九中三五ク 2-0 立川航技ク 日立製工 4-0 油面小学ク
 
1933年第2回(青師球場)

1933年3月5日 第2日 油面 5-0 日立鉱山 川村電 4-0 三共製薬 千代田火災 4-0 LB 航空研 7-2 東京火災 
1933年3月12日 準決勝 油面 9-0 航空研 川村電 3-2 千代田

1933年3月19日 決勝 油面ク 2-0 川村電気 (油面クラブは油面小学校の教員チーム)

1934年第3回(本郷帝大球場)

1934年3月10日 1回戦 千代田生命 6-0 共同火災

1934年3月11日 1回戦 日立製鉄 5-1 油面

1934年3月18日 2回戦 勧業銀行 3-0 航空研究所 慶応病院 2-0 三共製薬 帝大小児科 3-1 航空技術部 日立製作(ママ) 2-1 千代田生命

1934年3月25日 準決勝 日立鉱山 2-0 帝大病院 決勝 慶応病院 2-1 日立鉱山

1935年第4回(本郷帝大球場)

1935年3月17日 1回戦 航空技術本部 3-1 興業銀行 帝大小児科 2-1 航空研究所 日立製作所 7-0 東京記者団 日本鋼管 5-0 本郷ク

1935年3月24日 1回戦 千代田生命 7-3 慶応病院 浅野セメント 6-0 三共 東京火災 8-6 共同火災 第一生命 棄権 油面

1935年3月31日(この日のみ三田綱町球場) 準々決勝 千代田生命 6-0 航空技術本部 日本鋼管 棄権 帝大小児科 東京火災 2-0 浅野セメント 日立製作所 4-1 第一生命

1935年4月14日 準決勝 千代田生命 3-0 日本鋼管 日立製作 6-0 東京火災 決勝 千代田生命 1-0 日立製作 

決勝メンバー表もあり。千代田のLI松丸は松丸貞一(慶大OB)、CH濱田は濱田諭吉(慶大ソッカ―部初代主将)、FB岩崎は岩崎玄(慶大OB)。本大会出場チームのプロフィールは『蹴球3(3)』にあり。東京火災に竹内悌三、共同火災に鈴木重義、航空研究所に野村正二郎の元日本代表がいた。竹内は翌1936年ベルリン・オリンピック代表主将。東京記者団には山田午郎(朝日)、工藤孝一(聯合)がいた。

1936年第5回  

1936年3月15日(東京高校G)  1回戦 航空研究所 3-1 三共 2回戦 千代田生命 2-0 興業銀行 日立製作所 6-0 帝大病院 浅野セメント 2-0 共同火災 第一生命 4-1 東京瓦斯

1936年3月21日(三田綱町) 2回戦 フォード 10-0 航空研究所 東京火災 2-1 東電 慶応病院 棄権 勧銀

1936年3月29日(帝大) 準決勝 フォード 3-0 東京火災 日立製作所 3-1 第一生命

1936年4月5日(帝大) 決勝 フォード 1-0 日立製作所 フォードはRW近藤、LW佐野、CH松本以外は外人。

1937年第6回  

1937年3月14日(帝大) 第一生命 9-1 東京火災 日本徴兵 4-2 陸軍技研 三共 2-0 共同火災 メンバー表付きに昇格。東京火災のHB竹内はベルリン・オリンピック代表主将竹内悌三であろう。

1937年3月21日(戸山学校) 東京瓦斯 5-0 日本光学 日立 4-1 東朝 東京朝日新聞CH高師は日本代表が国際戦初勝利した1927年第8回極東大会フィリピン戦メンバーの1人高師康であろう。

1937年3月28日(三田綱町) フォード 4-2 慶応病院 千代田生命 8-0 浅野セメント マツダランプ 棄権 興銀

1937年4月4日(戸山学校) マツダ 2-0 第一生命 日本徴兵 5-0 三共 千代田生命 5-0 東京瓦斯 日立製作所 8-1 フォード

1937年4月11日(神宮) 準決勝 マツダ 6-0 日本徴兵 日立製作 1-0 千代田生命

1937年4月18日(戸山学校) 決勝 マツダランプ 1-0 日立製作所

1938年第7回

1938年3月13日(東大) 日本徴兵 2-1 鶴見製鉄造船 

1938年3月27日(東大、東高) 東京朝日 7-1 共同火災 フォード 5-0 明治製菓 千代田生命 1-0 浅野セメント 日本徴兵 3-0 日本銀行 日立製作所 11-0 三共 ツバサ 4-3 東京瓦斯 マツダ 4-0 東京市役所 第一生命 5-0 東京火災

1938年4月4日(東高) 準々決勝 日立製作所 4-0 日本徴兵 マツダ 2-0 ツバサ フォード 2-0 第一生命 千代田生命 2-1 東京朝日

1938年4月10日(東高) 準決勝 日立 2-0 マツダ 千代田 1-1(抽選) フォード

1938年4月17日(東高) 決勝 日立製作所 2-0 千代田生命

1939年第8回

1939年3月21日(青師) 1回戦 慶応病院 6-1 千代田生命 明治製菓 5-0 勧業銀行 2回戦 共同火災 2-0 日清生命 鶴見 2-1 日銀

1939年3月26日(青師) 2回戦 三共 1-0 日曹 マツダ 2-0 日立 航技 2-2(抽選) 明菓 第一生命 8-0 監督班 東京朝日 4-1 東京瓦斯 慶応病院 9-0 東京火災 

1939年4月2日(青師) 3回戦 慶応病院 9-0 共同火災 東朝 3-1 鶴見 第一生命 4-1 三共 マツダ 5-0 航技

1939年4月4日(青師) 準決勝 慶応病院 4-0 第一生命 マツダ 2-0 東朝

1939年4月9日(青師) マツダ 2-1 慶応病院

1940年第9回 

1940年3月21日(青師) 1回戦 立川飛行機 3-2 日本鉱業 航技 2-0 東京火災 第一生命 14-0 日清生命 マツダ 3-0 東京瓦斯 

1940年4月7日(青師) 準決勝 日立 2-0 航技 マツダ 2-0 立川飛行機

1940年4月14日(青師) 決勝 日立助川 2-1 マツダ

1941年第10回

1941年2月2日(東大、新丸子第一生命G) 1回戦 立川飛行機 4-1 千代田生命 第一生命 2-0 マツダ 三菱俱 1-0 横河電機 櫻星倶 3-1 日本油脂 日立本社 2-0 明治製菓

1941年2月16日(東大) 準決勝 日立製作所 2-1 立川飛行機 第一生命 2-1 日本鋼管

1941年2月23日(東大) 決勝 日立製作所 2-2(引き分け) 第一生命 

1941年4月6日(東大) 決勝再試合 第一生命 2-1 日立製作所

これ以降記事がない。1941年12月に太平洋戦争が始まったので、第10回で終了した模様。 
 
 

  


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全日本実業団サッカー大会記録

『朝日新聞』記事より。

1948年第1回

1948年5月23日 第二日(西宮球場) 決勝 湯浅蓄電池 2-1 田辺製薬 3位決定戦 三共 3-1 茨城日立

1949年第2回

1949年5月3日(西宮) 1回戦 田辺製薬 2-0 川崎日本鋼管 三共 5-3 広島東洋工業 茨城日立製作所 3-2 湯浅蓄電池 第一生命 6-1 トヨタ自動車

1949年5月4日(西宮) 準決勝 三共 3-1 田辺製薬 茨城日立 2-1 第一生命

1949年5月5日(西宮) 決勝 三共 3-1 茨城日立

1950年第3回(武蔵野球場) 

1950年5月3日 1回戦 第一生命(東京) 3-2 八幡製鉄(九州) 日本鋼管(中部、南関東) 4-2 新扶桑金属(関西二区) 東洋工業(中国、四国) 4-0 茨城日立(北海道、東北、北関東) 田辺製薬(関西一区) 9-1 トヨタ自動車(北陸、東海)

1950年5月4日 準決勝 第一生命 4-2 日本鋼管 田辺製薬 1-0 東洋工業

1950年5月5日 決勝 田辺製薬 2-0 第一生命

1951年第4回 (西宮球技場)

1951年5月4日 1回戦 田辺製薬(関西) 2-2(抽選) 茨城日立(関東中部) 東洋工業(中国、四国) 3-0 三共(東京) 日立本社(東京) 3-0 日本ダンロップ(関西) 大阪府庁(関西) 1-0 八幡製鉄(九州)

1951年5月5日 準決勝 田辺製薬 2-1 東洋工業 日立本社 3-0 大阪府庁

1951年5月6日 決勝 田辺製薬 3-0 日立本社

1952年第5回(神宮競技場) 日本蹴球協会、朝日新聞社共催

1952年5月24日 1回戦 田辺製薬(関西) 6-0 富士電機(関東) トヨタ(東海) 2-1 三共(関東) 宮城県庁(東北) 1-0 日本??室蘭工場(北海道)

1952年5月25日 準々決勝 田辺製薬 4-0 トヨタ 茨城日立(関東) 3-0 宮城県庁 東洋工業(中国) 2-0 八幡製鉄(九州) 日立本社(関東) 3-0 日本軽金属(中部)

1952年5月26日 準決勝 田辺製薬 3-1 日立茨城 日立本社 3-1 東洋工業

1952年5月27日 決勝 田辺製薬 2-0 日立本社 3位決定戦 東洋工業 2-0 茨城日立
田辺製薬 GK 津田 FB 木村 西村 HB 宮田 加藤 岡村 FW 鴇田 賀川 和田 恒藤 ?田
日立本社 GK 奥本 FB 吉本 渡辺 HB 松尾 堀口 松岡 FW 喜多 高橋敏 松永 高橋英 河合

1953年第6回(藤枝東高、藤枝中G)

1953年5月21日 1回戦 日軽金(中部) 3-1 三共(関東) 大阪ガス(関西) 1-0 八幡製鉄(九州) 田辺製薬(関西) 10-1 松尾鉱山(東北) 東洋工業(中国) 2-1 大阪府庁(関西) トヨタ自動車(東海) 2-1 全富士電機(関東)

1953年5月22日 準々決勝 日軽金 2-0 大阪ガス 田辺製薬 7-1 日本鋼管(関東) 日立本社(関東) 10-1 室蘭富士鉄(北海道) 東洋工業 8-2 トヨタ自動車

1953年5月23日 準決勝 日立本社 2-0 東洋工業 田辺製薬 5-1 日軽金

1953年5月24日 決勝 田辺製薬 2-1 日立本社 3位決定戦 日軽金 1-0 東洋工業
田辺製薬 GK 津田 FB 木下 西村 HB 岡村 加藤 宮田 FW 鴇田 賀川 和田 恒藤 森
日立本社 GK 奥本 FB 林 佐藤 HB 吉本 堀口 松岡 FW 岡本 高橋敏 松永 鈴木 高橋英

1954年第7回(松山市) 今大会から9月開催に

1954年9月23日 1回戦 日本鋼管(関東) 2-1 大阪ガス(関西) 日本軽金属(東海) 8-1 ビクターオート(関東) 湯浅電池(関西) 5-4 松尾鉱山(東北) 田辺製薬(関西) 6-0 函館市役所(北海道) 日立本社(関東) 3-1 八幡製鉄(九州) 茨城日立(関東) 5-0 東洋レーヨン愛媛(四国)

1954年9月24日 準々決勝 日本軽金属 3-0 日本鋼管 日立本社 5-0 湯浅電池 田辺製薬 4-0 茨城日立 東洋工業(中国) 4-0 大阪府庁(関西)

1954年9月25日 準決勝 日立本社 3-1 日本軽金属 田辺製薬 3-2 東洋工業

1954年9月26日 決勝 田辺製薬 4-0 日立本社 3位決定戦 東洋工業 5-1 日本軽金属
田辺製薬 GK 新田 FB 岡村 木下 HB 恒藤 加藤 宮田 FW 鴇田 賀川 和田 高林 森
日立本社 GK 神津 FB 猪股 長井 HB 小田島 堀口 松岡 FW 岡本 高橋 松永 鈴木 柳

1955年第8回(函館市千代ケ台球場)

1955年9月25日 第3日 準決勝 田辺製薬(大阪) 3-1 日本軽金属(静岡) 東洋工業(広島) 2-1 八幡製鉄(福岡)

1955年9月26日 決勝 田辺製薬 2-0 東洋工業 3位決定戦 日本軽金属 3-0 八幡製鉄
田辺製薬 GK 新田 FB 岡村 木下 HB 大村 加藤 宮田 FW 鴇田 賀川 和田 高林 森
東洋工業 GK 下村 FB 小川 芳野 HB 小沢 北島 堀田 FW 中川 銭村 樽谷 小畑 重松

1956年第9回(徳島市西の丸G)

1956年9月22日 第2日 準々決勝 東洋工業(中国) 2-0 湯浅電池(関西) 鋼管川崎(関東) 2-0 日本軽金属(東海) 田辺製薬(関西) 2-1 東京日立(関東) 八幡製鉄(九州) 6-1 古河電工(関東)

1956年9月23日 準決勝 東洋工業 4-0 鋼管川崎 田辺製薬 2-0 八幡製鉄

1956年9月24日 決勝 東洋工業 4-0 田辺製薬 3位決定戦 鋼管川崎 3-1 八幡製鉄

1957年第10回(京都市西京極競技場、西京大)

1957年9月21日 1回戦 東洋工業(中国) 7-1 松尾鉱山(東北) 古河電工(関東) 7-0 東レ滋賀(京都) 湯浅電池(関西) 5-1 千代田生命(関東) 田辺製薬(関西) 3-1 東レ愛媛(四国) 日立本社(関東) 4-1 新三菱重工(関西) 八幡製鉄(九州) 1-0 大阪府庁(関西) 日本軽金属(東海) 4-1 三共(関東) 日本鋼管(関東) 6-3 函館市役所(北海道)

1957年9月22日 準々決勝 東洋工業 7-1 古河電工 日立本社 3-1 八幡製鉄 日本鋼管 4-1 湯浅電池 田辺製薬 4-1 日本軽金属

1957年9月23日 準決勝 東洋工業 2-1 日立本社 田辺製薬 3-2 日本鋼管

1957年9月24日 決勝 田辺製薬 2-0 東洋工業 3位決定戦 日立本社 4-2 日本鋼管
田辺製薬 GK 新田 FB 岡村 恒藤 HB 芳賀 加藤 大村 FW 鴇田 賀川 高林 宮田 森
東洋工業 GK 下村 FB 小川 松本 HB 北島 小沢 堀田 FW 中川 樽谷 田中 銭村 重松

1958年第11回(東京小石川サッカー場)

1958年9月20日 1回戦 新三菱重工(東海) 7-0 千代田生命(関東) 日本鋼管(関東) 4-0 三菱化成黒崎(九州) 三共(関東) 4-0 雪印乳業(北海道) 2回戦 日立本社(関東) 6-1 富士製鉄室蘭(北海道) 日本ダンロップ(関西) 3-0 東レ愛媛(四国)

1958年9月21日 2回戦 日本鋼管(関東) 4-3 新三菱重工(東海) 古河電工(関東) 4-0 住友金属(関西) 日本軽金属(東海) 6-1 帝人三原(中国) 田辺製薬(関西) 3-1 東京海上(関東) 八幡製鉄(九州) 3-0 大日電線(関西) 東洋工業(中国) 1-0 三共(関東)

1958年9月22日 準々決勝 古河電工 3-2 日本鋼管 田辺製薬 5-1 日本軽金属 日立本社 3-1 日本ダンロップ 八幡製鉄 1-1(抽選) 東洋工業

1958年9月23日 準決勝 古河電工 3-1 田辺製薬 日立本社 3-1 八幡製鉄

1958年9月24日 決勝 日立本社 2-0 古河電工 3位決定戦 田辺製薬 1-0 八幡製鉄
日立本社 GK 神津 FB 西谷 猪俣 HB 小田島 宮崎 松岡 FW 脇川 高橋敏 鈴木徳 平沢 松永
古河電工 GK 小松 FB 平木 中田 HB 清水 大塚 小河原 FW 内野 西本 能勢 長沼 八重樫

『朝日新聞』1958年9月26日付

実業団サッカー選手権総評
    レベル向上もう一歩
       A級ふえて試合に活気

 東京小石川サッカー場での第十一回全日本実業団サッカー選手権は廿五日、日立本社の優勝で終った。この大会で関東チームが優勝したのは二十四年第二回の三共以来である。これは関東の実業団が特別弱かったがためでない。日立本社などは過去四回戦に進出している。しかし従来は田辺製薬だけが余りに強過ぎたのだった。一昨年東洋工業が七年振りに田辺の王座を奪ったのが非常な刺激となったのもつかの間で、田辺は昨年また優勝をとりもどした。

 しかし、こんど田辺が準決勝に早くも負けたときには、実業団サッカーの勢力図も相当変化したという感じが強くなった。第一に田辺を破りそうなA級がふえたことである。古河電工、日立本社、八幡製鉄、東洋工業、日本鋼管、新三菱重工、さらに日本ダンロップ、日本軽金属といったチームは過去の実業団サッカーからみれば非常にサッカーらしいサッカーをやるようになった。

 過去の実業団といえば、小数(ママ)の有名選手が中心になってチームをひっぱり、各選手の個人技術には相当デコボコがあった。練習量も十分なチームは少なく、いわば各選手が過去の遺産だけでもっていたところが多かった。しかし、今年あたりは実業団に入ってから伸びた選手が多くみられ、個人技も大変そろって来たし、練習も積んでいるのが目につく。こういう点からみると田辺の敗退もまたやむを得ない時代の移りでもある。あるいは喜ばしいことともいえよう。

 A級が多かっただけに活気のある試合が多かった。準々決勝からみんな接戦だった。だが今一歩突っ込むと、そのA級のレベルは必ずしもそう高くはない。大会期間中の大部分が雨とグラウンド・コンディションに災いされたとはいえ、決勝を争った日立、古河をはじめすべては全盛期の田辺のレベルに達していない。攻撃のパス・ワーク、試合全体の運びを見る目などはまだまだキメが粗いといわねばならない。だから田辺を破りそうなチームがふえた裏をかえせば、実は選手の新陳代謝がない田辺自身の老化に負うところが大きいのである。これがまだ寂しい点だ。どん底にあえいでいる日本のサッカーは、高校級から地道に積み上げ直さないといけないが、やはり第一線を代表する大部分は社会人が占めるのだから実業団ももっと高いレベルを要求したい。

 日立は従来のように精神的弱点をみせなかった。古河は若いよい選手をそろえていてもチーム全体が若いための弱点を持っている。八幡製鉄は全般にプレーが固い。だから柔かさを持つただ一人の選手佐伯の負傷が痛かった。日本鋼管はよくまとまったチームである。個々の技術以上に力を出している。CF早川の好リードがあるからだろうが、早川の頭脳的プレーはもっと他の有名選手も見ならってほしいものだった。
                                           (大谷)”

1959年第12回(静岡県清水市)

1959年9月24日 1回戦 日軽金(東海) 7-1 三菱化成(九州) 東洋工業(中国) 5-0 湯浅電池(関西) 東芝(関東) 1-0 巴川製紙(東海) 日本ダンロップ(関西) 4-1 雪印乳業(北海道)

1959年9月25日 2回戦 東洋工業(中国) 6-0 日軽金(東海) 函館市役所(北海道) 2-0 三共(関東) 日立本社(関東) 4-0 トヨタ自動車(東海) 新三菱重工(関西) 5-0 鶴屋百貨店(九州) 古河電工(関東) 13-0 帝人三原(中国) 東芝(関東) 4-0 日本ダンロップ(関西)

1959年9月26日 準々決勝 東洋工業 6-1 函館市役所 日本鋼管 2-0 田辺製薬 古河電工 1-0 東芝 新三菱重工 3-2 日立本社

1959年9月27日 準決勝 新三菱重工 2-0 東洋工業 古河電工 4-1 日本鋼管

1959年9月28日 決勝 古河電工 2-0 新三菱重工 3位決定戦 東洋工業 4-1 日本鋼管
古河電工 GK 小林茂 FB 小川 桜井 HB 平木 大塚 小川原 FW 小林昭 内野 能勢 長沼 高橋
新三菱重工 GK 生駒 FB 近藤 山田 HB 米谷 二宮武 大八木 FW 二宮寛 平田 井上 村田 北口

『朝日新聞』1959年9月24日付

全日本実業団サッカー展望
    有望な四チーム
       古河・田辺・東洋・日立

 第十二回全日本実業団サッカー選手権大会(朝日新聞社、日本蹴球協会共催)は二十四日から五日間、清水市清水商グラウンドで行われる。全国から選ばれた二十チームが参加する。

 今年は上位七、八チームが非常に充実しており、弱いチームと強チームが顔を合わせる一、二回戦では波乱があると思えない。優勝候補は古河電工、田辺製薬、東洋工業、日立本社の四チームといわれている。しかしこの四チームも確実にベスト・4に残れるかどうか疑問。準々決勝までに以上四チームを苦しめたり、また倒すものがあるとすればどこかをしらべながら、この四チームの実力を紹介しよう。

日立本社 何度も決勝まで出ていながら優勝出来ず、昨年やっと初優勝した。その時のメンバーの松永の代りに耳野(慶大出)が加わった。日立の原動力はなんといってもHB陣だ。松岡、宮崎、小田島のラインは運動量も多く、守備にも強い。強敵は準々決勝での新三菱重工。前日本代表クラスの関学OB七人で固め、さらにマラヤで大活躍した二宮(慶大出)を加えた。日立にくらべ見劣りしない。

東洋工業 試合運びの巧さ、チームのまとまりはこの大会第一だろう。一回戦で湯浅電池と当る。湯浅は関学出の平田、柴田をHBに、FWに日比野(中大)がおりちょっとうるさい。二回戦では地元の日軽金と三菱化成の勝者だが、日軽金はベテラン松永のチーム。ねばり強さが身上だが、やはり東洋に分があるとみるのが順当だろう。準々決勝では順当なら三共に当る。三共は宮崎、織田、須藤と早大出の好選手がいるが、これも東洋の方がやや有利。

田辺製薬 ベテランぞろいのチーム。七回も優勝しているが、最後に優勝した二年前のメンバーに、その後一人も補強されていない。駆引きはうまいが平均年齢は三十歳をこえ、体力的には不安。だがくじ運はよく難敵は準々決勝での日本鋼管ぐらい。だがその鋼管も守備のカナメの高森(立大出)が負傷で出られないというから、田辺は楽にベスト4に入る。

古河電工 八重樫がマラヤで負傷したのは痛い。若さと動きのチーム。帝人三原と二回戦で当るが経験の差で楽に押切るだろう。準々決勝では東芝か日本ダンロップに当るが、どちらもちょっとうるさい。東芝は今年早大から栗田と杉本を得たし長竹(慶大出)も健在だ。ダンロップは日本代表のGK古川、LI佐々木がいる。古河が先取点をとられたら守り切られる恐れがある。

     ◇

 準決勝以後の予想は全くむずかしい。体力のあるチームが有利という点から見れば古河、日立か新三菱あたりが出そう。だが田辺には途中で中一日の休みがあるので、あまりハンデキャップはないという見方もある。回戦の若いうちに負傷者が出るか出ないかも勝敗を決める大きなカギとなる。
                                         (中条)”

『朝日新聞』1959年9月30日付

全日本実業団サッカー・総評
    作戦的工夫が足らぬ
      質そろった上位チームに

 二十四日から清水市で行なわれていた第十二回全日本実業団サッカー選手権は古河電工の初優勝に終った。優勝候補組の日立本社、東洋工業が新鋭の新三菱重工に敗れ、古河電工は体力と技術が平均していたことが連戦に強味となってまず順当の結果だったろう。新三菱の活躍はA級グループに新手を加えた感じだった。両ウイングの強さを軸にしてFWラインとしては最も筋の通った攻め振りをしていたが、結局バックスの非力が最終日に現われ、攻撃はただFWだけでは出来ないということを教えた。

◇戦術的な目・・・・・台風十五号のために二日目と三日目は雨と泥ンコのグラウンドに見舞われ、その間に蕃狂わせが生れた。まず二日目には函館市役所が三共を破り、さらにコンディションが近来にない最悪、グラウンド一面が泥沼と化した三日目の準々決勝では日立本社が新三菱重工に、田辺製薬が日本鋼管に倒された。こういう状態では馬力がものをいう。しかしこれにも作戦的な巧拙で効果は大いに異ってくる。この二つの要素のかみ合わせで試合は決ったのだが、作戦的な成功の大きかったのが新三菱であった。日立は前半バックスの馬力から楽に攻撃をとったので後半は作戦的にさして気を使わなかったようだ。これに反して新三菱は布陣を大きく変えて逆襲を警戒しながら、FWに大八木を上げて粘りをつけるかたわら体重のある北口を極力使ったところに逆転勝ちの勝因があった。

 新三菱は準決勝でもウイングの強さを利用して東洋工業のCH小沢をつり出しながら先制してしまったあたり、試合のカンどころをつかむ力がものをいっていた。こういうカンどころを押える巧さは早川のリードで日本鋼管にもあった。ペナルティ・エリア近くのフリー・キックを田辺製薬が軽率に逸していたのに鋼管は慎重に利用して得点したことにいえよう。田辺はまた馬力が衰えていたのも敗因だが、ベテラン選手が局地的な巧さを全体的な効果にまで結び付ける方法をもう少し知っていたらそう簡単には敗れなかったろう。

 選手の質量ともにそろっている上位チームに対して一般的にいえる不満は、このような試合のカンどころをつかむ力とか、作戦的な工夫の足りないことである。古河電工もあれだけのたくましい動きやスピードを持っているのだから、中盤からの展開に次の段階へのより効果的なボールの動かし方を考える工夫があればさらに強くなるだろう。

 攻撃の単調さは東洋工業にもあてはまる。今年はこの欠点を幾分脱したのではないかと期待したのだが、大会中もシリすぼみの状態だった。この若いインサイドは激しく動き回るうちに自然にFWラインに変化をもたらすだろうと思ったのに、回を重ねるごとに動きが鈍くなってしまった。

◇下位チームの進境・・・・・下位チームは少しずつ上って来た。函館の一勝といい、田辺に二点を許しただけの東洋レーヨン愛媛の善戦といい、従来低調だった北海道と四国の向上がうかがえ、かつての素人臭いチームはなくなった。帝人三原は大会一の大量点を許して古河に敗れたが、決してその記録ほどの弱いチームと思えなかった。だが上位と下位との差はやはり個人技の差ということに落着く。たまたま見舞われた悪コンディションによって、平常はさして目につかないキック力の差が大きく響いたが、腰、ヒザ、足首の関節に粘り強さのないキックはボールに力が加わらないことが明らかに分ったろう。こういうことも大会に拾える収穫である。
                                             (大谷)”

1960年第13回(長崎県島原市)

1960年9月22日 1回戦 八幡製鉄(九州) 7-0 帝人松山(四国) 三共(関東) 2-0 富士鉄室蘭(北海道) 三菱化成黒崎(九州) 棄権 函館市役所(北海道) 2回戦 日立本社(関東) 5-1 湯浅電池(関西) 日本鋼管(関東) 7-1 日鉄北松(九州)

1960年9月23日 2回戦 八幡製鉄(九州) 5-2 三共(関東) 新三菱重工(関西) 4-0 日本軽金属(東海) 東洋工業(中国) 6-0 大阪府庁(関西) 東芝(関東) 12-0 三菱長崎造船(九州) 田辺製薬(関西) 8-1 帝人三原(中国) 古河電工(関東) 10-0 三菱化成黒崎(九州)

1960年9月24日 準々決勝 八幡製鉄 4-0 新三菱重工 東洋工業 1-1(抽選) 東芝 日立本社 6-1 日本鋼管 古河電工 3-1 田辺製薬

1960年9月25日 八幡製鉄 3-1 東洋工業 日立本社 3-2 古河電工

1960年9月26日 決勝 日立本社 4-2 八幡製鉄 3位決定戦 古河電工 2-0 東洋工業
日立本社 GK 岩本 FB 西谷 猪股 HB 服部 宮崎 胡 FW 脇川 鈴木 耳野 小田島 平沢
八幡製鉄 GK 皆本 FB 杉村 原田 HB 堀田 石川 上 FW 坪島 井沢 宮本 村山 大石

『朝日新聞』1960年9月17日付

全日本実業団サッカー予想
    “打倒古河”をめざす東洋、新三菱、八幡など

 第十三回全日本実業団サッカー選手権大会(朝日新聞社共催)は二十に日から五日間長崎県島原市で開かれる。地区代表二十チームで争われるが、この大会も年々内容を充実してきた。全国的にみると、まだ相当遅れていそうな地域もあるが、選手層が厚くなるにしたがって、いわゆるA級チームの力が安定してきたとともに、トップ・レベルに接近したチームの数が次第に増えてきた様子で、二回戦から相当の好試合があり、準々決勝から勝敗はすこぶる予想しにくい形勢だ。

 組み合わせは古河電工(関東)新三菱重工(関西)東洋工業(中国)日本鋼管(関東)の順で四チームがシードされている。A級といえば、これに八幡製鉄(九州)をやはり加えねばならない。さらにA級の範囲を少し広げると、田辺製薬(関西)日立本社(関東)がはいる。三共(関東)日軽金(東海)東芝本社(関東)も侮れないともいわれる。ついで大阪府庁(関西)湯浅電池(関西)とあげてゆくと、半数以上が接近した力を持っていることになりかねないが、ぐんとしぼると四強は古河電工、東洋工業、新三菱重工、八幡製鉄とするのが順当ではなかろうか。

 しかし、東洋、新三菱、八幡の三チームは勝ち抜き戦の同じブロックにいて新三菱と八幡が準々決勝で当たるから、そのうちの一つは欠けて、古河のブロックの日本鋼管か日立本社が準決勝の四強に加わるわけだ。

 こうして古河に代表される関東勢を目標に、他地区の強豪が挑戦する形となるが、いわば新鋭に属する新三菱が昨年同様古河に挑んで初優勝を奪うか、また万年優勝候補といわれる八幡がようやく宿願を果たすか、八幡より古い歴史を持ち、いつも実力を高く評価されながら三十一年大会にただ一度だけ東洋工業にもう一度タイトルが輝くか、こういう点もまた今大会の興味となっている。というのも古河が訪ソ中の日本代表に三選手を送って苦しい立場にあるからで、他チームにとっては打倒古河のチャンスが増している大会である。

【古河電工】 昨年この大会に優勝して以来、スピードと技術をマッチさせて自信をつけ、今年五月の全日本選手権を奪い、名実ともに第一人者となった。ことに全日本当時の力量を思い起こすと優勝候補の筆頭にあげてもたれも疑うまい。たくましい運動量、豊富なスピードをいかした得点力、カンどころをつかむ経験と判断、なかでも試合運びのテンポの速さには他チームが参ったのである。だが、その中からFWの八重樫、守屋、HBの平木が訪ソのため抜けている。これはおそらく相当な痛手だ。

 FWはこのためにウイングが弱体化している。得意のスピードもウイングが弱いと果たして効果を出せるだろうか。昨年もFWのこの二人はいなかったというのでこの点はゆずるとしてもRH平木の欠場はすぐに補えないのではなかろうか。ずっと平木がカバーして来た守備陣のもろさ、これが出てくると古河も安泰ではない。他チームのねらいどころもここだし、おそらく全日本当時のように古河の独走は予想されない。

【東洋と八幡】 両チームとも高い水準にあるが、いま一つ決定的な武器に欠けて歯がゆさを残しているのが春までに共通したところだった。東洋は攻め方が単調で効果をあげていなかった。FWの第一線はもう頂上に来た選手だから変化を生むとすればインサイドの働きからだろう。調子に少しムラのあった大橋、大島の両インサイドがコンスタントな動きとパスの変化を出せるかいなかにかかっている。

 八幡は昨年から球の動きに多彩な変化を加えようとしているが、チーム全体としてその意図通どおりにうまくまとまった試合が少ない。古い選手と若い選手の動きがどうしてもとけ合わないかのようだったが、八幡がこの行き詰まりを打ち破って進むには、チーム全体の堅苦しさを脱していなければなるまい。

【新三菱重工】 FWのチームだ。OR二宮がやはり訪ソ中で抜けて一威力を欠くことになるが、関学出身者が主力を占め、速い攻撃は調子に乗ると大きな得点力になりそうだ。問題はバックスの守備だろう。昨年も古河に結局バックスの守備の差で負けた。今年もカギは同じだ。

【日本鋼管など】 日本鋼管は早川のリードで育ってきたチームだが、今年あたりから千田(中大出)ら若手が加わって変わりつつあるだけに未知数だ。訪ソでCH高森がいないのも守備力に影響しよう。むしろ布陣からみると日立本社の方が安定している。ここはバックスの粘り強さがあるので、FWの出来次第だ。CF耳野を軸にうまく動きがつながると古河も油断出来ない。かつて独り舞台を誇った田辺製薬は年齢的に活動力が落ちている。準々決勝で古河と会うが、たのみは試合運びのうまさだから古河が完全に田辺のペースにはまり込まない限りやはり古河のものとみてよい。

 ダークホースとしては東芝本社だ。大部分高校出身だが、長竹(慶大出)、栗田(早大出)、杉本(早大出)三人のリードで、案外あばれるかも知れない。
                         (大谷)”

『朝日新聞』1960年9月29日付

実業団サッカー総評
     球さばき早い日立
         八幡はFWの出来に波

 二十二日かラ二十六日まで長崎県島原市で行なわれた第十三回全日本実業団サッカー選手権大会は日立本社が二度目の優勝をとげた。

 準々決勝からは急に力がそろい好試合が続いた。

 準々決勝の最高試合は古河電工対田辺製薬だった。大会一、二の好試合といってもよい。古河の攻撃法を見抜いた田辺の巧い守備と、味のある攻撃振りがよかった。

 準決勝で東洋工業は八幡製鉄に完全に負けた。直接の敗因はシュートの粗雑なことだ。これは対東芝戦でも目立った。しかしそれ以前の攻め方が従来の単調さをまだ脱していない。

 連勝をねらう古河電工は日立本社に負けた。試合運びが巧い日立に得意の突進形速攻を封じられると、最大の弱点が出た。

 日立は好調だった。前日の対鋼管といい、この試合といい、日立はすこぶる能率的に点を取った。春の全日本当時よりずっとよかった。球さばきが速くなったので、耳野を軸とする回転がスムーズで、シュートが思い切りよく、しかもていねいだった。チャンスにはFWがよくそろい、全員がきびきびしていた。

 八幡は待望の決勝へ比較的順調に進んだが一、二回戦はさしてかんばしくなく、準々の対新三菱でぐんとよくなり、準決勝はまた少し停滞気味となった。FWがこまめに動いているときには、相手の意表をつくパスもつながっていた。佐伯の負傷欠場でFWを試合ごとに組みかえ、FWの出来に波はあったが村山、井沢の新しい両インサイドがよくラインにとけ込んでいた。しかし決勝戦では、試合の機敏をつかむにうまい日立の耳野、鈴木の二人にしてやられた。
                           (大谷)” 

1961年第14回(新潟市営競技場)

1961年7月16日 1回戦 日軽金(東海) 6-1 三菱化成(九州) 東洋工業(中国) 3-0 三共(関東) 富士鉄室蘭(北海道) 10-0 日本瓦斯化学(北陸) 古河電工(関東) 10-0 新三菱水島(中国) 2回戦 八幡製鉄(九州) 5-0 湯浅電池(関西) 東芝(関東) 1-0 名古屋相互銀行(東海)

1961年7月17日 2回戦 東洋工業 2-0 日軽金 新三菱(関東) 5-2 ドッドウエル(関西) 日立本社(関東) 2-1 日本ダンロップ(関西) 帝人松山(四国) 3-0 住友奔別(北海道) 田辺製薬(関西) 3-1 松島航空自衛隊(東北) 古河電工(関東) 4-0 富士鉄室蘭(北海道)

1961年7月18日 準々決勝 新三菱重工 1-0 東洋工業 日立本社 3-1 帝人松山 八幡製鉄 2-0 東芝本社 古河電工 5-0 田辺製薬

1961年7月19日 準決勝 日立本社 2-1 新三菱重工 古河電工 2-0 八幡製鉄

1961年7月20日 決勝 古河電工 3-1 日立本社 3位決定戦 新三菱重工 2-0 八幡製鉄
古河電工 GK 保坂 FB ?尾 宮本 HB 平木 鎌田 島谷 FW 内野 八重樫 川淵 長沼 高橋
日立本社 GK 岩本 FB 服部 猪俣 HB 小田島 宮崎 西谷 FW 脇川 鈴木 耳野 坂村 平沢

1962年第15回(山口県防府市協和発酵G、防府高校G)

1962年11月3日 1回戦 協和発酵(中国) 12-0 日本ガス化学(北陸) 名古屋相互銀行(東海) 5-0 新三菱重工水島(中国) 帝人松山(四国) 10-1 住友奔別鉱(北海道) ドッドウエル(関西) 2-1 三菱化成黒崎(九州)

1962年11月4日 2回戦 古河電工(関東) 6-0 協和発酵 電電近畿(関西) 7-0 和田寛食料工業(東北) 新三菱重工(関東) 5-0 帝人松山 東洋工業(中国) 6-0 ヤンマーディーゼル(関西) 茨城日立(関東) 2-1 日本ダンロップ(関西) 日本鋼管(関東) 4-0 揖斐川電工(東海) 八幡製鉄(九州) 1-0 名古屋相互銀行(東海) 日立本社(関東) 5-0 ドッドウエル

1962年11月5日 準々決勝 古河電工 3-0 電電近畿 八幡製鉄 3-0 茨城日立 東洋工業 1-0 新三菱重工 日本鋼管 1-0 日立本社

1962年11月6日 準決勝 古河電工 2-1 八幡製鉄 東洋工業 3-0 日本鋼管

1962年11月7日 決勝 古河電工 0-0(両チーム優勝) 東洋工業 3位決定戦 八幡製鉄 5-1 日本鋼管
古河電工 GK 保坂 FB ?尾 宮本 HB 平木 鎌田 上野 FW 高橋 八重樫 川淵 長沼 島谷
東洋工業 GK 船本 FB 谷村 桑原 HB 石井 小沢 川西 FW 梅田 大橋 川重 大島 中村

1963年第16回(岐阜県岐阜市) 

1963年11月3日 1回戦 大協石油(東海) 1-0 トヨタ自動車(東海) 名古屋相互銀行(東海) 2-0 三菱化成黒崎(九州) 住友ゴム工業(関西) 5-0 日本ゼオン高岡(北陸) 東芝本社(関東) 3-3(抽選) 湯浅電池(関西)

1963年11月4日 2回戦 東洋工業(中国) 3-0 大協石油 新三菱重工(関東) 4-2 住友ゴム 東京トヨペット(関東) 2-1 住友奔別(北海道) 茨城日立(関東) 3-1 日本製鋼広島(中国) 田辺製薬(関西) 2-1 帝人松山(四国) 揖斐川電工(東海) 9-0 呉羽化学(東北) 日立本社(関東) 1-0 名古屋相互銀行 八幡製鉄(九州) 2-1 東芝本社

1963年11月5日 準々決勝 東洋工業 3-0 東京トヨペット 日立本社 3-0 田辺製薬 新三菱重工(関東) 2-0 茨城日立 八幡製鉄 7-0 揖斐川電工

1963年11月6日 準決勝 日立本社1-1(抽選) 東洋工業 八幡製鉄 1-0 新三菱重工

1963年11月7日 決勝 八幡製鉄 2-0 日立本社 3位決定戦 新三菱重工 2-0 東洋工業
八幡製鉄 GK 浜崎 FB 向山 長岡 HB 富沢 杉村 上  FW 宮本 佐伯 渡辺 神田 大石
日立本社 GK 片伯部 FB 服部 宮崎 HB 井村 鈴木良 夏井 FW 中村 岡田 中野 鈴木徳 耳野

1964年第17回(静岡県藤枝市)

1964年11月21日 1回戦 名古屋相互銀行(東海) 2-1 住友ゴム(関西) 帝人松山(四国) 1-0 三共(関東) 日本軽金属(静岡) 6-0 青森県庁(東北) 田辺製薬(関西) 6-1 三井石油(中国)

1964年11月22日 日立本社(関東) 2-0 日軽金 豊田織機(東海) 1-0 大日本電線(関西) 古河電工(関東) 2-1 西鉄(九州) 三菱重工(関東) 3-0 田辺製薬(関西) 東洋工業(中国) 2-0 名古屋相互銀行(東海) 日本鋼管(関東) 3-2 富士鉄登別(北海道) 八幡製鉄(推薦) 6-0 日本ゼオン(北陸) 湯浅電池(関西) 1-0 帝人松山(四国)

1964年11月23日 準々決勝 記事なし

1964年11月24日 準決勝 八幡製鉄 2-0 東洋工業 日立本社 4-1 三菱重工

1964年11月25日 決勝 八幡製鉄 3-0 日立本社 3位決定戦 東洋工業 2-2 三菱重工
八幡製鉄 GK 浜崎 FB 向山 上 HB 富沢 杉村 折出  FW 渡辺 佐伯 宮本 神田 大石
日立本社 GK 岩本 FB 服部 利根沢 HB 河野 鈴木 柴田 FW 脇河 野村 耳野 中村 平沢

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第1~10回全日本実業団サッカー大会

『朝日新聞』記事より。

1948年第1回

1948年5月23日 第二日(西宮球場) 決勝 湯浅蓄電池 2-1 田辺製薬 3位決定戦 三共 3-1 茨城日立

1949年第2回

1949年5月3日(西宮) 1回戦 田辺製薬 2-0 川崎日本鋼管 三共 5-3 広島東洋工業 茨城日立製作所 3-2 湯浅蓄電池 第一生命 6-1 トヨタ自動車

1949年5月4日(西宮) 準決勝 三共 3-1 田辺製薬 茨城日立 2-1 第一生命

1949年5月5日(西宮) 決勝 三共 3-1 茨城日立

1950年第3回(武蔵野球場) 

1950年5月3日 1回戦 第一生命(東京) 3-2 八幡製鉄(九州) 日本鋼管(中部、南関東) 4-2 新扶桑金属(関西二区) 東洋工業(中国、四国) 4-0 茨城日立(北海道、東北、北関東) 田辺製薬(関西一区) 9-1 トヨタ自動車(北陸、東海)

1950年5月4日 準決勝 第一生命 4-2 日本鋼管 田辺製薬 1-0 東洋工業

1950年5月5日 決勝 田辺製薬 2-0 第一生命

1951年第4回 (西宮球技場)

1951年5月4日 1回戦 田辺製薬(関西) 2-2(抽選) 茨城日立(関東中部) 東洋工業(中国、四国) 3-0 三共(東京) 日立本社(東京) 3-0 日本ダンロップ(関西) 大阪府庁(関西) 1-0 八幡製鉄(九州)

1951年5月5日 準決勝 田辺製薬 2-1 東洋工業 日立本社 3-0 大阪府庁

1951年5月6日 決勝 田辺製薬 3-0 日立本社

1952年第5回(神宮競技場) 日本蹴球協会、朝日新聞社共催

1952年5月24日 1回戦 田辺製薬(関西) 6-0 富士電機(関東) トヨタ(東海) 2-1 三共(関東) 宮城県庁(東北) 1-0 日本??室蘭工場(北海道)

1952年5月25日 準々決勝 田辺製薬 4-0 トヨタ 茨城日立(関東) 3-0 宮城県庁 東洋工業(中国) 2-0 八幡製鉄(九州) 日立本社(関東) 3-0 日本軽金属(中部)

1952年5月26日 準決勝 田辺製薬 3-1 日立茨城 日立本社 3-1 東洋工業

1952年5月27日 決勝 田辺製薬 2-0 日立本社 3位決定戦 東洋工業 2-0 茨城日立
田辺製薬 GK 津田 FB 木村 西村 HB 宮田 加藤 岡村 FW 鴇田 賀川 和田 恒藤 ?田
日立本社 GK 奥本 FB 吉本 渡辺 HB 松尾 堀口 松岡 FW 喜多 高橋敏 松永 高橋英 河合

1953年第6回(藤枝東高、藤枝中G)

1953年5月21日 1回戦 日軽金(中部) 3-1 三共(関東) 大阪ガス(関西) 1-0 八幡製鉄(九州) 田辺製薬(関西) 10-1 松尾鉱山(東北) 東洋工業(中国) 2-1 大阪府庁(関西) トヨタ自動車(東海) 2-1 全富士電機(関東)

1953年5月22日 準々決勝 日軽金 2-0 大阪ガス 田辺製薬 7-1 日本鋼管(関東) 日立本社(関東) 10-1 室蘭富士鉄(北海道) 東洋工業 8-2 トヨタ自動車

1953年5月23日 準決勝 日立本社 2-0 東洋工業 田辺製薬 5-1 日軽金

1953年5月24日 決勝 田辺製薬 2-1 日立本社 3位決定戦 日軽金 1-0 東洋工業
田辺製薬 GK 津田 FB 木下 西村 HB 岡村 加藤 宮田 FW 鴇田 賀川 和田 恒藤 森
日立本社 GK 奥本 FB 林 佐藤 HB 吉本 堀口 松岡 FW 岡本 高橋敏 松永 鈴木 高橋英

1954年第7回(松山市) 今大会から9月開催に

1954年9月23日 1回戦 日本鋼管(関東) 2-1 大阪ガス(関西) 日本軽金属(東海) 8-1 ビクターオート(関東) 湯浅電池(関西) 5-4 松尾鉱山(東北) 田辺製薬(関西) 6-0 函館市役所(北海道) 日立本社(関東) 3-1 八幡製鉄(九州) 茨城日立(関東) 5-0 東洋レーヨン愛媛(四国)

1954年9月24日 準々決勝 日本軽金属 3-0 日本鋼管 日立本社 5-0 湯浅電池 田辺製薬 4-0 茨城日立 東洋工業(中国) 4-0 大阪府庁(関西)

1954年9月25日 準決勝 日立本社 3-1 日本軽金属 田辺製薬 3-2 東洋工業

1954年9月26日 決勝 田辺製薬 4-0 日立本社 3位決定戦 東洋工業 5-1 日本軽金属
田辺製薬 GK 新田 FB 岡村 木下 HB 恒藤 加藤 宮田 FW 鴇田 賀川 和田 高林 森
日立本社 GK 神津 FB 猪股 長井 HB 小田島 堀口 松岡 FW 岡本 高橋 松永 鈴木 柳

1955年第8回(函館市千代ケ台球場)

1955年9月25日 第3日 準決勝 田辺製薬(大阪) 3-1 日本軽金属(静岡) 東洋工業(広島) 2-1 八幡製鉄(福岡)

1955年9月26日 決勝 田辺製薬 2-0 東洋工業 3位決定戦 日本軽金属 3-0 八幡製鉄
田辺製薬 GK 新田 FB 岡村 木下 HB 大村 加藤 宮田 FW 鴇田 賀川 和田 高林 森
東洋工業 GK 下村 FB 小川 芳野 HB 小沢 北島 堀田 FW 中川 銭村 樽谷 小畑 重松

1956年第9回(徳島市西の丸G)

1956年9月22日 第2日 準々決勝 東洋工業(中国) 2-0 湯浅電池(関西) 鋼管川崎(関東) 2-0 日本軽金属(東海) 田辺製薬(関西) 2-1 東京日立(関東) 八幡製鉄(九州) 6-1 古河電工(関東)

1956年9月23日 準決勝 東洋工業 4-0 鋼管川崎 田辺製薬 2-0 八幡製鉄

1956年9月24日 決勝 東洋工業 4-0 田辺製薬 3位決定戦 鋼管川崎 3-1 八幡製鉄

1957年第10回(京都市西京極競技場、西京大)

1957年9月21日 1回戦 東洋工業(中国) 7-1 松尾鉱山(東北) 古河電工(関東) 7-0 東レ滋賀(京都) 湯浅電池(関西) 5-1 千代田生命(関東) 田辺製薬(関西) 3-1 東レ愛媛(四国) 日立本社(関東) 4-1 新三菱重工(関西) 八幡製鉄(九州) 1-0 大阪府庁(関西) 日本軽金属(東海) 4-1 三共(関東) 日本鋼管(関東) 6-3 函館市役所(北海道)

1957年9月22日 準々決勝 東洋工業 7-1 古河電工 日立本社 3-1 八幡製鉄 日本鋼管 4-1 湯浅電池 田辺製薬 4-1 日本軽金属

1957年9月23日 準決勝 東洋工業 2-1 日立本社 田辺製薬 3-2 日本鋼管

1957年9月24日 決勝 田辺製薬 2-0 東洋工業 3位決定戦 日立本社 4-2 日本鋼管
田辺製薬 GK 新田 FB 岡村 恒藤 HB 芳賀 加藤 大村 FW 鴇田 賀川 高林 宮田 森
東洋工業 GK 下村 FB 小川 松本 HB 北島 小沢 堀田 FW 中川 樽谷 田中 銭村 重松


  


  

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問題の人物

が発明者になっている日本特許。出願者はコルゲンコーワやキャベジンでおなじみの・・

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第14~17回全日本実業団サッカー選手権大会

1961年第14回(新潟市営競技場)

1961年7月16日 1回戦 日軽金(東海) 6-1 三菱化成(九州) 東洋工業(中国) 3-0 三共(関東) 富士鉄室蘭(北海道) 10-0 日本瓦斯化学(北陸) 古河電工(関東) 10-0 新三菱水島(中国) 2回戦 八幡製鉄(九州) 5-0 湯浅電池(関西) 東芝(関東) 1-0 名古屋相互銀行(東海)

1961年7月17日 2回戦 東洋工業 2-0 日軽金 新三菱(関東) 5-2 ドッドウエル(関西) 日立本社(関東) 2-1 日本ダンロップ(関西) 帝人松山(四国) 3-0 住友奔別(北海道) 田辺製薬(関西) 3-1 松島航空自衛隊(東北) 古河電工(関東) 4-0 富士鉄室蘭(北海道)

1961年7月18日 準々決勝 新三菱重工 1-0 東洋工業 日立本社 3-1 帝人松山 八幡製鉄 2-0 東芝本社 古河電工 5-0 田辺製薬

1961年7月19日 準決勝 日立本社 2-1 新三菱重工 古河電工 2-0 八幡製鉄

1961年7月20日 決勝 古河電工 3-1 日立本社 3位決定戦 新三菱重工 2-0 八幡製鉄
古河電工 GK 保坂 FB ?尾 宮本 HB 平木 鎌田 島谷 FW 内野 八重樫 川淵 長沼 高橋
日立本社 GK 岩本 FB 服部 猪俣 HB 小田島 宮崎 西谷 FW 脇川 鈴木 耳野 坂村 平沢

1962年第15回(山口県防府市協和発酵G、防府高校G)

1962年11月3日 1回戦 協和発酵(中国) 12-0 日本ガス化学(北陸) 名古屋相互銀行(東海) 5-0 新三菱重工水島(中国) 帝人松山(四国) 10-1 住友奔別鉱(北海道) ドッドウエル(関西) 2-1 三菱化成黒崎(九州)

1962年11月4日 2回戦 古河電工(関東) 6-0 協和発酵 電電近畿(関西) 7-0 和田寛食料工業(東北) 新三菱重工(関東) 5-0 帝人松山 東洋工業(中国) 6-0 ヤンマーディーゼル(関西) 茨城日立(関東) 2-1 日本ダンロップ(関西) 日本鋼管(関東) 4-0 揖斐川電工(東海) 八幡製鉄(九州) 1-0 名古屋相互銀行(東海) 日立本社(関東) 5-0 ドッドウエル

1962年11月5日 準々決勝 古河電工 3-0 電電近畿 八幡製鉄 3-0 茨城日立 東洋工業 1-0 新三菱重工 日本鋼管 1-0 日立本社

1962年11月6日 準決勝 古河電工 2-1 八幡製鉄 東洋工業 3-0 日本鋼管

1962年11月7日 決勝 古河電工 0-0(両チーム優勝) 東洋工業 3位決定戦 八幡製鉄 5-1 日本鋼管
古河電工 GK 保坂 FB ?尾 宮本 HB 平木 鎌田 上野 FW 高橋 八重樫 川淵 長沼 島谷
東洋工業 GK 船本 FB 谷村 桑原 HB 石井 小沢 川西 FW 梅田 大橋 川重 大島 中村

1963年第16回(岐阜県岐阜市) 

1963年11月3日 1回戦 大協石油(東海) 1-0 トヨタ自動車(東海) 名古屋相互銀行(東海) 2-0 三菱化成黒崎(九州) 住友ゴム工業(関西) 5-0 日本ゼオン高岡(北陸) 東芝本社(関東) 3-3(抽選) 湯浅電池(関西)

1963年11月4日 2回戦 東洋工業(中国) 3-0 大協石油 新三菱重工(関東) 4-2 住友ゴム 東京トヨペット(関東) 2-1 住友奔別(北海道) 茨城日立(関東) 3-1 日本製鋼広島(中国) 田辺製薬(関西) 2-1 帝人松山(四国) 揖斐川電工(東海) 9-0 呉羽化学(東北) 日立本社(関東) 1-0 名古屋相互銀行 八幡製鉄(九州) 2-1 東芝本社

1963年11月5日 準々決勝 東洋工業 3-0 東京トヨペット 日立本社 3-0 田辺製薬 新三菱重工(関東) 2-0 茨城日立 八幡製鉄 7-0 揖斐川電工

1963年11月6日 準決勝 日立本社1-1(抽選) 東洋工業 八幡製鉄 1-0 新三菱重工

1963年11月7日 決勝 八幡製鉄 2-0 日立本社 3位決定戦 新三菱重工 2-0 東洋工業
八幡製鉄 GK 浜崎 FB 向山 長岡 HB 富沢 杉村 上  FW 宮本 佐伯 渡辺 神田 大石
日立本社 GK 片伯部 FB 服部 宮崎 HB 井村 鈴木良 夏井 FW 中村 岡田 中野 鈴木徳 耳野

1964年第17回(静岡県藤枝市)

1964年11月21日 1回戦 名古屋相互銀行(東海) 2-1 住友ゴム(関西) 帝人松山(四国) 1-0 三共(関東) 日本軽金属(静岡) 6-0 青森県庁(東北) 田辺製薬(関西) 6-1 三井石油(中国)

1964年11月22日 日立本社(関東) 2-0 日軽金 豊田織機(東海) 1-0 大日本電線(関西) 古河電工(関東) 2-1 西鉄(九州) 三菱重工(関東) 3-0 田辺製薬(関西) 東洋工業(中国) 2-0 名古屋相互銀行(東海) 日本鋼管(関東) 3-2 富士鉄登別(北海道) 八幡製鉄(推薦) 6-0 日本ゼオン(北陸) 湯浅電池(関西) 1-0 帝人松山(四国)

1964年11月23日 準々決勝 記事なし

1964年11月24日 準決勝 八幡製鉄 2-0 東洋工業 日立本社 4-1 三菱重工

1964年11月25日 決勝 八幡製鉄 3-0 日立本社 3位決定戦 東洋工業 2-2 三菱重工
八幡製鉄 GK 浜崎 FB 向山 上 HB 富沢 杉村 折出  FW 渡辺 佐伯 宮本 神田 大石
日立本社 GK 岩本 FB 服部 利根沢 HB 河野 鈴木 柴田 FW 脇河 野村 耳野 中村 平沢

   

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1960年第13回全日本実業団サッカー選手権

1960年9月22日 1回戦 八幡製鉄(九州) 7-0 帝人松山(四国) 三共(関東) 2-0 富士鉄室蘭(北海道) 三菱化成黒崎(九州) 棄権 函館市役所(北海道) 2回戦 日立本社(関東) 5-1 湯浅電池(関西) 日本鋼管(関東) 7-1 日鉄北松(九州)

1960年9月23日 2回戦 八幡製鉄(九州) 5-2 三共(関東) 新三菱重工(関西) 4-0 日本軽金属(東海) 東洋工業(中国) 6-0 大阪府庁(関西) 東芝(関東) 12-0 三菱長崎造船(九州) 田辺製薬(関西) 8-1 帝人三原(中国) 古河電工(関東) 10-0 三菱化成黒崎(九州)

1960年9月24日 準々決勝 八幡製鉄 4-0 新三菱重工 東洋工業 1-1(抽選) 東芝 日立本社 6-1 日本鋼管 古河電工 3-1 田辺製薬

1960年9月25日 八幡製鉄 3-1 東洋工業 日立本社 3-2 古河電工

1960年9月26日 決勝 日立本社 4-2 八幡製鉄 3位決定戦 古河電工 2-0 東洋工業
日立本社 GK 岩本 FB 西谷 猪股 HB 服部 宮崎 胡 FW 脇川 鈴木 耳野 小田島 平沢
八幡製鉄 GK 皆本 FB 杉村 原田 HB 堀田 石川 上 FW 坪島 井沢 宮本 村山 大石

『朝日新聞』1960年9月17日付

全日本実業団サッカー予想
    “打倒古河”をめざす東洋、新三菱、八幡など

 第十三回全日本実業団サッカー選手権大会(朝日新聞社共催)は二十に日から五日間長崎県島原市で開かれる。地区代表二十チームで争われるが、この大会も年々内容を充実してきた。全国的にみると、まだ相当遅れていそうな地域もあるが、選手層が厚くなるにしたがって、いわゆるA級チームの力が安定してきたとともに、トップ・レベルに接近したチームの数が次第に増えてきた様子で、二回戦から相当の好試合があり、準々決勝から勝敗はすこぶる予想しにくい形勢だ。

 組み合わせは古河電工(関東)新三菱重工(関西)東洋工業(中国)日本鋼管(関東)の順で四チームがシードされている。A級といえば、これに八幡製鉄(九州)をやはり加えねばならない。さらにA級の範囲を少し広げると、田辺製薬(関西)日立本社(関東)がはいる。三共(関東)日軽金(東海)東芝本社(関東)も侮れないともいわれる。ついで大阪府庁(関西)湯浅電池(関西)とあげてゆくと、半数以上が接近した力を持っていることになりかねないが、ぐんとしぼると四強は古河電工、東洋工業、新三菱重工、八幡製鉄とするのが順当ではなかろうか。

 しかし、東洋、新三菱、八幡の三チームは勝ち抜き戦の同じブロックにいて新三菱と八幡が準々決勝で当たるから、そのうちの一つは欠けて、古河のブロックの日本鋼管か日立本社が準決勝の四強に加わるわけだ。

 こうして古河に代表される関東勢を目標に、他地区の強豪が挑戦する形となるが、いわば新鋭に属する新三菱が昨年同様古河に挑んで初優勝を奪うか、また万年優勝候補といわれる八幡がようやく宿願を果たすか、八幡より古い歴史を持ち、いつも実力を高く評価されながら三十一年大会にただ一度だけ東洋工業にもう一度タイトルが輝くか、こういう点もまた今大会の興味となっている。というのも古河が訪ソ中の日本代表に三選手を送って苦しい立場にあるからで、他チームにとっては打倒古河のチャンスが増している大会である。

【古河電工】 昨年この大会に優勝して以来、スピードと技術をマッチさせて自信をつけ、今年五月の全日本選手権を奪い、名実ともに第一人者となった。ことに全日本当時の力量を思い起こすと優勝候補の筆頭にあげてもたれも疑うまい。たくましい運動量、豊富なスピードをいかした得点力、カンどころをつかむ経験と判断、なかでも試合運びのテンポの速さには他チームが参ったのである。だが、その中からFWの八重樫、守屋、HBの平木が訪ソのため抜けている。これはおそらく相当な痛手だ。

 FWはこのためにウイングが弱体化している。得意のスピードもウイングが弱いと果たして効果を出せるだろうか。昨年もFWのこの二人はいなかったというのでこの点はゆずるとしてもRH平木の欠場はすぐに補えないのではなかろうか。ずっと平木がカバーして来た守備陣のもろさ、これが出てくると古河も安泰ではない。他チームのねらいどころもここだし、おそらく全日本当時のように古河の独走は予想されない。

【東洋と八幡】 両チームとも高い水準にあるが、いま一つ決定的な武器に欠けて歯がゆさを残しているのが春までに共通したところだった。東洋は攻め方が単調で効果をあげていなかった。FWの第一線はもう頂上に来た選手だから変化を生むとすればインサイドの働きからだろう。調子に少しムラのあった大橋、大島の両インサイドがコンスタントな動きとパスの変化を出せるかいなかにかかっている。

 八幡は昨年から球の動きに多彩な変化を加えようとしているが、チーム全体としてその意図通どおりにうまくまとまった試合が少ない。古い選手と若い選手の動きがどうしてもとけ合わないかのようだったが、八幡がこの行き詰まりを打ち破って進むには、チーム全体の堅苦しさを脱していなければなるまい。

【新三菱重工】 FWのチームだ。OR二宮がやはり訪ソ中で抜けて一威力を欠くことになるが、関学出身者が主力を占め、速い攻撃は調子に乗ると大きな得点力になりそうだ。問題はバックスの守備だろう。昨年も古河に結局バックスの守備の差で負けた。今年もカギは同じだ。

【日本鋼管など】 日本鋼管は早川のリードで育ってきたチームだが、今年あたりから千田(中大出)ら若手が加わって変わりつつあるだけに未知数だ。訪ソでCH高森がいないのも守備力に影響しよう。むしろ布陣からみると日立本社の方が安定している。ここはバックスの粘り強さがあるので、FWの出来次第だ。CF耳野を軸にうまく動きがつながると古河も油断出来ない。かつて独り舞台を誇った田辺製薬は年齢的に活動力が落ちている。準々決勝で古河と会うが、たのみは試合運びのうまさだから古河が完全に田辺のペースにはまり込まない限りやはり古河のものとみてよい。

 ダークホースとしては東芝本社だ。大部分高校出身だが、長竹(慶大出)、栗田(早大出)、杉本(早大出)三人のリードで、案外あばれるかも知れない。
                         (大谷)”

『朝日新聞』1960年9月29日付

実業団サッカー総評
     球さばき早い日立
         八幡はFWの出来に波

 二十二日かラ二十六日まで長崎県島原市で行なわれた第十三回全日本実業団サッカー選手権大会は日立本社が二度目の優勝をとげた。

 準々決勝からは急に力がそろい好試合が続いた。

 準々決勝の最高試合は古河電工対田辺製薬だった。大会一、二の好試合といってもよい。古河の攻撃法を見抜いた田辺の巧い守備と、味のある攻撃振りがよかった。

 準決勝で東洋工業は八幡製鉄に完全に負けた。直接の敗因はシュートの粗雑なことだ。これは対東芝戦でも目立った。しかしそれ以前の攻め方が従来の単調さをまだ脱していない。

 連勝をねらう古河電工は日立本社に負けた。試合運びが巧い日立に得意の突進形速攻を封じられると、最大の弱点が出た。

 日立は好調だった。前日の対鋼管といい、この試合といい、日立はすこぶる能率的に点を取った。春の全日本当時よりずっとよかった。球さばきが速くなったので、耳野を軸とする回転がスムーズで、シュートが思い切りよく、しかもていねいだった。チャンスにはFWがよくそろい、全員がきびきびしていた。

 八幡は待望の決勝へ比較的順調に進んだが一、二回戦はさしてかんばしくなく、準々の対新三菱でぐんとよくなり、準決勝はまた少し停滞気味となった。FWがこまめに動いているときには、相手の意表をつくパスもつながっていた。佐伯の負傷欠場でFWを試合ごとに組みかえ、FWの出来に波はあったが村山、井沢の新しい両インサイドがよくラインにとけ込んでいた。しかし決勝戦では、試合の機敏をつかむにうまい日立の耳野、鈴木の二人にしてやられた。
                           (大谷)”        
 

 

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1959年第12回全日本実業団サッカー選手権

1959年9月24日 1回戦 日軽金(東海) 7-1 三菱化成(九州) 東洋工業(中国) 5-0 湯浅電池(関西) 東芝(関東) 1-0 巴川製紙(東海) 日本ダンロップ(関西) 4-1 雪印乳業(北海道)

1959年9月25日 2回戦 東洋工業(中国) 6-0 日軽金(東海) 函館市役所(北海道) 2-0 三共(関東) 日立本社(関東) 4-0 トヨタ自動車(東海) 新三菱重工(関西) 5-0 鶴屋百貨店(九州) 古河電工(関東) 13-0 帝人三原(中国) 東芝(関東) 4-0 日本ダンロップ(関西)

1959年9月26日 準々決勝 東洋工業 6-1 函館市役所 日本鋼管 2-0 田辺製薬 古河電工 1-0 東芝 新三菱重工 3-2 日立本社

1959年9月27日 準決勝 新三菱重工 2-0 東洋工業 古河電工 4-1 日本鋼管

1959年9月28日 決勝 古河電工 2-0 新三菱重工 3位決定戦 東洋工業 4-1 日本鋼管
古河電工 GK 小林茂 FB 小川 桜井 HB 平木 大塚 小川原 FW 小林昭 内野 能勢 長沼 高橋
新三菱重工 GK 生駒 FB 近藤 山田 HB 米谷 二宮武 大八木 FW 二宮寛 平田 井上 村田 北口

『朝日新聞』1959年9月24日付

全日本実業団サッカー展望
    有望な四チーム
       古河・田辺・東洋・日立

 第十二回全日本実業団サッカー選手権大会(朝日新聞社、日本蹴球協会共催)は二十四日から五日間、清水市清水商グラウンドで行われる。全国から選ばれた二十チームが参加する。

 今年は上位七、八チームが非常に充実しており、弱いチームと強チームが顔を合わせる一、二回戦では波乱があると思えない。優勝候補は古河電工、田辺製薬、東洋工業、日立本社の四チームといわれている。しかしこの四チームも確実にベスト・4に残れるかどうか疑問。準々決勝までに以上四チームを苦しめたり、また倒すものがあるとすればどこかをしらべながら、この四チームの実力を紹介しよう。

日立本社 何度も決勝まで出ていながら優勝出来ず、昨年やっと初優勝した。その時のメンバーの松永の代りに耳野(慶大出)が加わった。日立の原動力はなんといってもHB陣だ。松岡、宮崎、小田島のラインは運動量も多く、守備にも強い。強敵は準々決勝での新三菱重工。前日本代表クラスの関学OB七人で固め、さらにマラヤで大活躍した二宮(慶大出)を加えた。日立にくらべ見劣りしない。

東洋工業 試合運びの巧さ、チームのまとまりはこの大会第一だろう。一回戦で湯浅電池と当る。湯浅は関学出の平田、柴田をHBに、FWに日比野(中大)がおりちょっとうるさい。二回戦では地元の日軽金と三菱化成の勝者だが、日軽金はベテラン松永のチーム。ねばり強さが身上だが、やはり東洋に分があるとみるのが順当だろう。準々決勝では順当なら三共に当る。三共は宮崎、織田、須藤と早大出の好選手がいるが、これも東洋の方がやや有利。

田辺製薬 ベテランぞろいのチーム。七回も優勝しているが、最後に優勝した二年前のメンバーに、その後一人も補強されていない。駆引きはうまいが平均年齢は三十歳をこえ、体力的には不安。だがくじ運はよく難敵は準々決勝での日本鋼管ぐらい。だがその鋼管も守備のカナメの高森(立大出)が負傷で出られないというから、田辺は楽にベスト4に入る。

古河電工 八重樫がマラヤで負傷したのは痛い。若さと動きのチーム。帝人三原と二回戦で当るが経験の差で楽に押切るだろう。準々決勝では東芝か日本ダンロップに当るが、どちらもちょっとうるさい。東芝は今年早大から栗田と杉本を得たし長竹(慶大出)も健在だ。ダンロップは日本代表のGK古川、LI佐々木がいる。古河が先取点をとられたら守り切られる恐れがある。

     ◇

 準決勝以後の予想は全くむずかしい。体力のあるチームが有利という点から見れば古河、日立か新三菱あたりが出そう。だが田辺には途中で中一日の休みがあるので、あまりハンデキャップはないという見方もある。回戦の若いうちに負傷者が出るか出ないかも勝敗を決める大きなカギとなる。
                                         (中条)”

『朝日新聞』1959年9月30日付

全日本実業団サッカー・総評
    作戦的工夫が足らぬ
      質そろった上位チームに

 二十四日から清水市で行なわれていた第十二回全日本実業団サッカー選手権は古河電工の初優勝に終った。優勝候補組の日立本社、東洋工業が新鋭の新三菱重工に敗れ、古河電工は体力と技術が平均していたことが連戦に強味となってまず順当の結果だったろう。新三菱の活躍はA級グループに新手を加えた感じだった。両ウイングの強さを軸にしてFWラインとしては最も筋の通った攻め振りをしていたが、結局バックスの非力が最終日に現われ、攻撃はただFWだけでは出来ないということを教えた。

◇戦術的な目・・・・・台風十五号のために二日目と三日目は雨と泥ンコのグラウンドに見舞われ、その間に蕃狂わせが生れた。まず二日目には函館市役所が三共を破り、さらにコンディションが近来にない最悪、グラウンド一面が泥沼と化した三日目の準々決勝では日立本社が新三菱重工に、田辺製薬が日本鋼管に倒された。こういう状態では馬力がものをいう。しかしこれにも作戦的な巧拙で効果は大いに異ってくる。この二つの要素のかみ合わせで試合は決ったのだが、作戦的な成功の大きかったのが新三菱であった。日立は前半バックスの馬力から楽に攻撃をとったので後半は作戦的にさして気を使わなかったようだ。これに反して新三菱は布陣を大きく変えて逆襲を警戒しながら、FWに大八木を上げて粘りをつけるかたわら体重のある北口を極力使ったところに逆転勝ちの勝因があった。

 新三菱は準決勝でもウイングの強さを利用して東洋工業のCH小沢をつり出しながら先制してしまったあたり、試合のカンどころをつかむ力がものをいっていた。こういうカンどころを押える巧さは早川のリードで日本鋼管にもあった。ペナルティ・エリア近くのフリー・キックを田辺製薬が軽率に逸していたのに鋼管は慎重に利用して得点したことにいえよう。田辺はまた馬力が衰えていたのも敗因だが、ベテラン選手が局地的な巧さを全体的な効果にまで結び付ける方法をもう少し知っていたらそう簡単には敗れなかったろう。

 選手の質量ともにそろっている上位チームに対して一般的にいえる不満は、このような試合のカンどころをつかむ力とか、作戦的な工夫の足りないことである。古河電工もあれだけのたくましい動きやスピードを持っているのだから、中盤からの展開に次の段階へのより効果的なボールの動かし方を考える工夫があればさらに強くなるだろう。

 攻撃の単調さは東洋工業にもあてはまる。今年はこの欠点を幾分脱したのではないかと期待したのだが、大会中もシリすぼみの状態だった。この若いインサイドは激しく動き回るうちに自然にFWラインに変化をもたらすだろうと思ったのに、回を重ねるごとに動きが鈍くなってしまった。

◇下位チームの進境・・・・・下位チームは少しずつ上って来た。函館の一勝といい、田辺に二点を許しただけの東洋レーヨン愛媛の善戦といい、従来低調だった北海道と四国の向上がうかがえ、かつての素人臭いチームはなくなった。帝人三原は大会一の大量点を許して古河に敗れたが、決してその記録ほどの弱いチームと思えなかった。だが上位と下位との差はやはり個人技の差ということに落着く。たまたま見舞われた悪コンディションによって、平常はさして目につかないキック力の差が大きく響いたが、腰、ヒザ、足首の関節に粘り強さのないキックはボールに力が加わらないことが明らかに分ったろう。こういうことも大会に拾える収穫である。
                                             (大谷)”


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1958年第11回全日本実業団サッカー選手権

1958年9月20日 1回戦 新三菱重工(東海) 7-0 千代田生命(関東) 日本鋼管(関東) 4-0 三菱化成黒崎(九州) 三共(関東) 4-0 雪印乳業(北海道) 2回戦 日立本社(関東) 6-1 富士製鉄室蘭(北海道) 日本ダンロップ(関西) 3-0 東レ愛媛(四国)

1958年9月21日 2回戦 日本鋼管(関東) 4-3 新三菱重工(東海) 古河電工(関東) 4-0 住友金属(関西) 日本軽金属(東海) 6-1 帝人三原(中国) 田辺製薬(関西) 3-1 東京海上(関東) 八幡製鉄(九州) 3-0 大日電線(関西) 東洋工業(中国) 1-0 三共(関東)

1958年9月22日 準々決勝 古河電工 3-2 日本鋼管 田辺製薬 5-1 日本軽金属 日立本社 3-1 日本ダンロップ 八幡製鉄 1-1(抽選) 東洋工業

1958年9月23日 準決勝 古河電工 3-1 田辺製薬 日立本社 3-1 八幡製鉄

1958年9月24日 決勝 日立本社 2-0 古河電工 3位決定戦 田辺製薬 1-0 八幡製鉄
日立本社 GK 神津 FB 西谷 猪俣 HB 小田島 宮崎 松岡 FW 脇川 高橋敏 鈴木徳 平沢 松永
古河電工 GK 小松 FB 平木 中田 HB 清水 大塚 小河原 FW 内野 西本 能勢 長沼 八重樫

『朝日新聞』1958年9月26日付

実業団サッカー選手権総評
    レベル向上もう一歩
       A級ふえて試合に活気

 東京小石川サッカー場での第十一回全日本実業団サッカー選手権は廿五日、日立本社の優勝で終った。この大会で関東チームが優勝したのは二十四年第二回の三共以来である。これは関東の実業団が特別弱かったがためでない。日立本社などは過去四回戦に進出している。しかし従来は田辺製薬だけが余りに強過ぎたのだった。一昨年東洋工業が七年振りに田辺の王座を奪ったのが非常な刺激となったのもつかの間で、田辺は昨年また優勝をとりもどした。

 しかし、こんど田辺が準決勝に早くも負けたときには、実業団サッカーの勢力図も相当変化したという感じが強くなった。第一に田辺を破りそうなA級がふえたことである。古河電工、日立本社、八幡製鉄、東洋工業、日本鋼管、新三菱重工、さらに日本ダンロップ、日本軽金属といったチームは過去の実業団サッカーからみれば非常にサッカーらしいサッカーをやるようになった。

 過去の実業団といえば、小数(ママ)の有名選手が中心になってチームをひっぱり、各選手の個人技術には相当デコボコがあった。練習量も十分なチームは少なく、いわば各選手が過去の遺産だけでもっていたところが多かった。しかし、今年あたりは実業団に入ってから伸びた選手が多くみられ、個人技も大変そろって来たし、練習も積んでいるのが目につく。こういう点からみると田辺の敗退もまたやむを得ない時代の移りでもある。あるいは喜ばしいことともいえよう。

 A級が多かっただけに活気のある試合が多かった。準々決勝からみんな接戦だった。だが今一歩突っ込むと、そのA級のレベルは必ずしもそう高くはない。大会期間中の大部分が雨とグラウンド・コンディションに災いされたとはいえ、決勝を争った日立、古河をはじめすべては全盛期の田辺のレベルに達していない。攻撃のパス・ワーク、試合全体の運びを見る目などはまだまだキメが粗いといわねばならない。だから田辺を破りそうなチームがふえた裏をかえせば、実は選手の新陳代謝がない田辺自身の老化に負うところが大きいのである。これがまだ寂しい点だ。どん底にあえいでいる日本のサッカーは、高校級から地道に積み上げ直さないといけないが、やはり第一線を代表する大部分は社会人が占めるのだから実業団ももっと高いレベルを要求したい。

 日立は従来のように精神的弱点をみせなかった。古河は若いよい選手をそろえていてもチーム全体が若いための弱点を持っている。八幡製鉄は全般にプレーが固い。だから柔かさを持つただ一人の選手佐伯の負傷が痛かった。日本鋼管はよくまとまったチームである。個々の技術以上に力を出している。CF早川の好リードがあるからだろうが、早川の頭脳的プレーはもっと他の有名選手も見ならってほしいものだった。
                                           (大谷)”


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1924年の大日本体育協会改革に関する論文(全文アクセス可)

森川貞夫 大日本体育協会「組織改造問題」の一考察 『日本体育大学紀要』 (3) 1973.6 p.11-24

同著者の日本体育学会発表要旨も全文アクセス可。

森川貞夫 大日本体育協会改造問題の史的考察 : 2.歴史的研究  『日本体育学会大会号』 (22) 1971 p.50

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戦後プロ化までの日本代表国際公式大会戦における社会人・学生比

第1回アジア大会(1951年)
16名中 社会人15 学生1 社会人比:15/16=93.8%

ワールドカップ・スイス大会予選(1954年)
20名中 社会人16 学生4 社会人比:16/20=80%

第2回アジア大会(1954年)
19名中 社会人17 学生2 社会人比:17/19=89.5%

メルボルン・オリンピック(1956年)
17名中 社会人11 学生6 社会人比:11/17=64.7%

第3回アジア大会(1958年)
22名中 社会人19 学生3 社会人比:19/22=86.4%

ローマ・オリンピック予選(1959年)
21名中社会人13 学生8 社会人比:13/21=61.9%

第4回アジア大会(1962年)
18名中 社会人14 学生4 社会人比:14/18=77.8%

東京オリンピック(1964年)
19名中 社会人13 学生6 社会人比:13/19=68.4%

第5回アジア大会(1966年)
18名中 社会人15 学生3 社会人比:15/18=83.3%

メキシコ・オリンピック(1968年) 
18名中 社会人18 学生0 社会人比:18/18=100%

ワールドカップ・メキシコ大会予選(1969年)
22名中 社会人22 学生0 社会人比:22/22=100%

第6回アジア大会(1970年)
20名中 社会人18 学生2 社会人比:18/20=90.0%

ミュンヘン・オリンピック予選(1971年)
20名中 社会人19 学生1 社会人比:19/20=95.0%

ワールドカップ・西ドイツ大会予選(1973年)
21名中 社会人19 学生2 社会人比:19/21=90.5%

第7回アジア大会(1974年)
18名中 社会人14 学生4 社会人比:14/18=77.8%

第6回アジアカップ予選(1975年)
18名中 社会人17 学生1 社会人比:17/18=94.4%

モントリオール・オリンピック予選(1976年)
22名中 社会人18 学生4 社会人比:18/22=81.8%

ワールドカップ・アルゼンチン大会予選(1977年)
22名中 社会人20 学生2 社会人比:20/22=90.9%

第8回アジア大会(1978年)
18名中 社会人13 学生5 社会人比:13/18=72.2%

モスクワ・オリンピック予選(1980年)
20名中 社会人14 学生6 社会人比:14/20=70.0%

ワールドカップ・スペイン大会予選(1980年)
20名中 社会人13 学生7 社会人比:13/20=65.0%

第9回アジア大会(1982年)
18名中 社会人15 学生3 社会人比:15/18=83.3%

ロサンゼルス・オリンピック最終予選(1984年)
22名中 社会人21 学生1 社会人比:21/22=95.5%

ワールドカップ・メキシコ大会2次予選(1985年)
20名中 社会人19 学生1 社会人比:19/20=95.0%

第10回アジア大会(1986年)
20名中 社会人19 学生1 社会人比:19/20=95.0%

ソウル・オリンピック最終予選(1987年)
20名中 社会人19 学生1 社会人比:19/20=95.0%

ワールドカップ・イタリア大会予選(1989年)
21名中 社会人20 学生1 社会人比:20/21=95.2%

第11回アジア大会(1990年)
20名中 社会人20 学生0 社会人比:20/20=100%

東京オリンピック代表に現役学生で選出された6名、横山謙三(立教大3年)、山口芳忠(中央大3年)、釜本邦茂
(早稲田大3年)、小城得達(中央大4年)、杉山隆一(明治大3年)、森孝慈(早稲田大2年)は全員日本サッカー・リーグ1部チームに就職し、メキシコ・オリンピック代表にも選出され、さらに日本サッカー殿堂入りしている。


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『少年倶楽部』掲載野球小説

大日本雄弁会講談社の少年向け雑誌『少年倶楽部』に掲載された野球小説。欠号があるので、すべてではない。

1924年に竣工した阪神甲子園球場だが、3年後の1927年には「行けや甲子園」が掲載されていて、早くも「聖地化」されている。当然ながらこの時代「蹴球小説」はない。

小泉葵南「最後の本塁打」『少年倶楽部』9(8) 1922.8 p.26-32 
小泉葵南「嗚呼復讐戦」『少年倶楽部』10(8) 1923.8 p.76-85 
小泉葵南「嗚呼復讐戦」『少年倶楽部』10(9) 1923.9 p.60-66 
三田森豊「血涙にぬれた熱球」『少年倶楽部』10(10) 1923.10 p.206-215
白井桃村「最後の一球」『少年倶楽部』12(1) 1925.1 p.33-43
山田白星「悲しき勝利」『少年倶楽部』12(8) 1925.8 p.20-32
白井桃村「優勝戦を前に」『少年倶楽部』13(10) 1926.10 p.192-208
白井桃村「行けや甲子園」『少年倶楽部』14(7) 1927.7 p.96-112
内田正夫「街の少年野球団」『少年倶楽部』19(6) 1932.6 p.248-262
竹田敏彥「父よいづこに」『少年倶楽部』19(9) 1932.9 p.162-175
鈴木彥次郞 「誓ひのグローブ」『少年倶楽部』19(10) 1932.10 p.92-109
竹田敏彥「うすのろ一壘手」『少年倶楽部』20(6) 1933.6 p.232-245
竹田敏彥「手をとり合つて」『少年倶楽部』20(10) 1933.10 p.244-257

読者を反映して、主人公は小学生か中学生。プロ野球を反映した野球小説や野球漫画が登場するのはやはり戦後なのだろうか。

子供の頃、1960年代前半には『スポーツマン金太郎』、『ちかいの魔球』、『黒い秘密兵器』などの野球漫画があったが、サッカー漫画で最初に記憶のあるのが『赤き血のイレブン』で、1970年代になってからだった。大正時代、甲子園球場ができる前から少年雑誌に野球小説が掲載されていたことは、児童文化への野球の浸透を示す証左となろう。


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秋入学時代の旧制高等学校の入試時期

昨今グローバル・スタンダードに合わせた大学の秋入学が話題となっている。実は、日本でも1920(大正9)年まで帝国大学と旧制高等学校は秋入学だった。漱石の『三四郎』(1908年)で、熊本の第五高等学校を卒業した三四郎が帝国大学に入学するために上京する季節は真夏である。『第一高等学校一覧 自大正三年至大正四年』(第一高等学校)の「第一章 学暦」は

大正三年九月十一日 第一学期授業始ル

になっている。第一学期は9~12月、第二学期は1~3月、第三学期は4~7月で、7月11日~9月10日が夏季休業となっている。

この時代高等教育は前期基礎課程が高等学校(3年制)、後期専門課程が帝国大学(3年制)で、帝国大学の定員が高等学校よりも少し多いくらいだったので、高等学校に入学すれば原則全員大学に進学できた。現在の大学入試に相当するのは高等学校入試だった。では、秋入学時代の高等学校入試はいつごろ実施されていたのであろうか。

『東京朝日新聞』1914(大正3)年4月30日付

“●高等学校校長会議
    ▽試験科目及期日決定

高等学校校長会議は廿八日午前十時引続き文部省に開会。文部省の諮問に係る入学試験科目を左の如く決定し、尚願書差出期限を六月十五日とし、試験期日は七月十一日より十四日に到る四日間当該学校に於て施行する由。
 試験科目
△第一部 国語、漢文、外国語、数学(代数、平面幾何)、歴史、地理
△第二部及第三部 国語、漢文、外国語、数学(代数、平面幾何、立体幾何、三角)、化学
尚本年度は第一及び第三高等学校は無試験入学者を募集せざる事に決定せり。”

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第一部は文科、第二部は理科、第三部は医科。高等学校は、第一(東京)、第二(仙台)、第三(京都)、第四(金沢)、第五(熊本)、第六(岡山)、第七(鹿児島)、第八(名古屋)の8校あった。1914年は全校7月11日~7月14日の4日間入試を実施した。上記のように、第一高等学校では7月11日から夏休み入りしているが、おそらく他の高等学校も同様だったのであろう。高等学校の夏休み入り期間に入試を行っている。なお、入学定員は『官報』に文部省告示として掲載されているが、1914年は8校全体で計2,224名である。

中学校(現在の中・高等学校に相当)は現在同様4月入学3月卒業の5年制だった。高校入試は五年生在学中でも受験できたが、3月に卒業してしまうと7月まで4ヶ月も間があくことになる。合格しても入学は9月だから半年の空白期間ができる。1920年に4月入学に制度改革したのは、おそらくこうした問題を解決するためだったのだろう。

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大正受験地獄

大正時代から日本サッカーを牽引してきたのは、東大(当時は旧制高等学校から進学したので高校入試が難関だった)、早慶であるが、これらの学校が大正末期すでに超難関校であったことを伝える新聞記事があるので紹介したい。なお、1920年まで帝国大学と高等学校は秋入学で高校入試は6~7月頃に行われていたが、この時期のは他の諸学校と同様2~3月頃に実施されるようになったいた。高等工業学校は現東京工業大学、商科大学は現一橋大学、外国語学校は現東京外国語大学、音楽学校は現東京芸術大学、高等師範は現筑波大学。

『東京朝日新聞』1926(大正15)年2月3日付

十重廿重の人波を押退ける苦心
     景気不景気も他所にますます激しい競争の波
        又受験季節が来た

 そろそろ受験生の神経が極端なまで過敏になってくる季節になった。徹夜の勉強で疲れた頭へ貧弱な鳥打帽をのっけて板ざうりをぱたぱた引ずり都大路を歩いてゐる、受験生の姿は真にロープシンの「青ざめたる馬」そっくりのみじめな存在であるが、高等学校や専門学校の数が不足で十倍近い志願者を収容しきれない貧乏国の悲哀がかうした青年達の間に死よりも激烈な競争となって現れるのは当然である。

 全国に二十五校ある
高等学校
の入学試験は今年度から二班制度に改められ受験者は二校を希望することができるやうになった。その当然の結果として従来比較的入学容易とされてゐた弘前、松江、高知等の各高校が総て一高乃至二高、三高を志願する人人の第二志望校となった為、率は却って甚しくなった。ベソをかくのは前記各校を第一志望校とした連中である。要するに実力の競争にあるのだが、受験策戦は結果において決して馬鹿にならないのだから、受験生諸君が頭を悩ますのも無理はない。

 ◇専門学校
も去月下旬から願書の受付を開始した。入学競争の激烈を以て天下に鳴る高等工業学校では一月二十七日より二月二十四日まで願書を受け付ける。何しろ頭より腕が喜ばれる現今、この校の競争は年と共に激しくなる。昨年の如きは電気科は約二十名に一人といふ割合、建築家、機械科いづれも十七八名に一人であった。比較的楽なのが電気化学の五人に一人、紡績科の四人に一人、窯業科の三人に一人等であるが、従来高工では募集人員二百三十名中約半数の無試験入学を採ってゐたのが、今年からこの制度を廃止したから多少楽観してもよいわけだ。

 ◇商科大学
予科の願書受付は先月二十七日より今月九日までだが、二日までに既に九百六名を受付けてゐる。昨年の例でゆけば六人に一人の割合だが、今年は景気回復の叫び声で七に一人位の率を示すらしい。

 ◇私立大学 
慶應義塾大学は経済部昨年の率は十人に一人、医学部は二十人に一人だが、経済部今年は昨年よりも多く、医学部は少いらしいといはれてゐる。早稲田大学科の受付けは三月十五日より同二十七日まで行はれる。第一高等学院の入学試験は四月一、二の両日、第二高等学院は四、五の両日行はれる。第一の如きも募集人員七百人に対して昨年は四千人の志願者があったから、今年も五人弱に一人位の競争になるらしい。

 その他外国語学校は語部によるが第二志望語部を許してゐるが結局八人に一人位の競争となり、音楽学校でも本科、甲乙師範科いづれも八人に一人弱の競争だといふから恐ろしくなる。二日合格者の発表された高等師範の例でも入学志願者二千二百七十四人で合格者数二百八名といふ驚くべき差を示してゐる。

 かくの如く各専門高等学校入学志願者の数はいづれも募集人員の八倍乃至二十倍といふ数字を示してゐる。この傾向は景気不景気に無関係で逐年増加の傾向である。受験生の競争はますます激しく、現に今年などは一人で十校十通の願書を提出してゐるものは珍しくないといふから驚く。この激しい生存競争に対比して入学試験問題は十年以前と比較して更に進化してゐない。

 数学でみれば高校の八題制、高工の六題制、商大の七題制等昔も今も変りがない。試験問題に変化がないから結果として満点に近い点をとらなけらば入学ができなくなる。昨年の一高理科甲類の最下点合格者は数学満点六百点に対して五百三十点だった。地方高工は比較的容易だがそれでも四百点以下では合格できない。二班制度を採用した今年度の結果は如何と識者が期待してゐるのも当然である。”

従来の帝国大学令に代わる1918年公布の大学令によって私立大学が公認され、1920年に早慶は大学昇格する。それにともなって定員も大幅に増加した。また、従来一高から八高まで8校しかなかった高等学校も、上記にあるような弘前、松江、高知など地名を冠する高校が大正期に新設されて、受験地獄は多少なりとも改善されたはずであった。それでも増大する高等教育進学希望者数に対応しきれていなかったようだ。

こうして苦労して入学した合格者も3年後に1929年大恐慌が起きて就職に大変苦労することになる。小津安二郎監督の『大学は出たけれど』が公開されたのは1929年である。

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戦前の関東実業団サッカー 『朝日新聞』1941年4月18日付記事

『朝日新聞』1941年4月18日付

実業団蹴球の加盟チーム

関東実業団蹴球連盟では十六日午後六時から本社会議室で春季総会を開き左記のとほり決定、十七日発表した。

△シーズンを四月末から十月までとす△チームの都合による延期は一回だけ認め、二回延期する場合は棄権と見なす△日立亀戸、桜星倶、東京海上火災、横川電機、三菱倶(横浜ドック)の加盟を承認、更に中島、太田は全試合を東京で行ひ得る場合に加盟承認すること

右の結果加盟チームは三十六チームに達したので各部を従来の五チームから六チームにとして一部から六部まで左のごとく決定した。なほスケジュールは近日決定する。

◇第一部-第一生命、日本鋼管、マツダ、日本光学、千代田生命、朝日東京本社◇第二部-東京火災、興銀、東京ガス、日本銀行、日本徴兵、三共◇第三部-明菓、新潟鉄工所、航技倶、東京計器、日立亀有、浅野セメント◇第四部-石川島造船、北辰電機、日立本社、勧銀、日本曹達、古河電工◇第五部-日清生命、中島飛行機、日本油脂、立川飛行機、日鉱、日本水産◇第六部-日立亀戸、桜星倶、東京海上、横川電機、三菱倶、中島太田”

FC東京のご先祖が第二部に興銀や日銀!と同居している。レイソルとジェフのご先祖が第四部に。

保険や銀行、軍需系メーカーが目立つ。戦前の関東大学サッカー部OBの就職先にこういった会社が多かったということであろう。

太平洋戦争は8ヵ月後だが、6チームが新規参加申し込みしている盛況だったことがわかる。

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津軽海峡秋景色 ② 津軽海峡フェリー「えさん2000」乗船記

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ルートインの無料朝食バイキング

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苫小牧駅から北斗4号に乗車

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馬産界で1人勝ちの社台ファーム

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室蘭港の白鳥大橋

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車窓からみた駒ヶ岳

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大沼付近

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函館駅

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朝市

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イカソーメン

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鮭ハラス焼き

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見るだけ

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連絡バスでフェリーターミナルへ

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この船に乗船

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車両甲板から

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階段を登って

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船室へ

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出航すると函館山を左舷に見て

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バックには駒ヶ岳

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これらのうちのどれかが仏ヶ浦だと思う

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下北半島のどんづまりの脇野沢 焼き干の産地

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青森港フェリーターミナルには暗くなった頃に到着。40分くらい歩いて青森駅へ。

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駅前の居酒屋でまずはビールに帆立と平目の刺身。帆立がさすがにうまかった。

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青森に来たからには田酒も。今は「幻の酒」だが、昔は酸ヶ湯の売店にいくらでも並んでた。

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イカの塩辛とねぶた漬けに喜久ナントカ

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じょっぱりも飲んで、シメは焼き干ラーメン

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21:50発の弘南バス津軽号あずましーと8500円。夜行バスに乗車するのは中村覚之助シンポで池袋から南紀勝浦まで乗車して以来。東京駅前6:30に予定より50分早着。

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津軽海峡秋景色 ① 新日本海フェリー「フェリーあざれあ」乗船記

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職場から丸の内線で東京駅へ

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上越新幹線に乗車

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晩メシはたいめいけんのカツ・メンチカツサンド

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新潟駅発21:27発新潟交通バスで末広橋へ

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新日本海フェリー新潟港フェリーターミナルに22:00頃到着

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22:45フェリーあざれあデラックスB室に乗船 苫小牧東港まで19,000円 ツインの1人利用は9月まで50%増しだったが、10月から割り増し料なしになるので、この時期の乗船になった次第

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トイレはシャワートイレ

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湯飲み茶碗とコップ、お茶 湯沸しポットもあります。

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窓は2つあって昼間は明るい。外はデッキだが、侵入禁止なので、外から覗かれることはない。

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ルームキー カードキーじゃないので、要返却。下船時に回収にきます。

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室内着は浴衣

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部屋のバスで汗を流してまずは一杯。23:30出航。売店は24:00、大浴場は24:30まで。

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1:00からBSでブンデス・リーガをやってたのでみる。

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3~5Fが客室で、3Fが2等、4Fが1等、5Fがスイートと特等。この日5Fの住人は私1人だったもよう。

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5Fの廊下

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映画上映もある。5Fのシアタールーム

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4Fの両舷にあるプロムナード

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4F船尾にあるスポーツ・デッキ

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4Fのカフェ・ルーム 9:30にビンゴ大会があったが、寝てたので不参加。

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4Fのフォワード・サロン。視界ゼロ。

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キッズ・ルーム

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4F船尾デッキにあるジャグジー。夏季のみ営業。

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船尾デッキのみ開放。サイド・デッキはどの階も閉鎖。

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翌日早朝に秋田港に寄航。

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男鹿半島の入道岬

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腹が減ってなかったので朝食はパス。部屋でダルビッシュが登板したレンジャーズ戦をみる。

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この航路に乗船した目的の津軽海峡が近づいてきた。昼間に津軽海峡を横断するのが見所。

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朝風呂は大浴場へ。フェリーの湯温はぬるいことが多いが、結構熱めで温まった。

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カフェでビーフカレー大盛り900円の昼飯。レストランはカレー、麺類のバイキングで1200円。バイキングだとつい食べ過ぎるので、レストランは利用しなかった。

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はるかに霞む函館山。津軽半島の竜飛岬らしきポイントで写真もとったが、どれが竜飛岬なのかイマイチ判別できず。

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真昼間にイカ釣り船が一艘で。

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大間沖。たぶんマグロの一本釣り漁船群

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恵山温泉。前に泊まったことがある恵山温泉旅館で朝に出たイカソーメンは前浜でとって、常温で冷蔵もしていない新鮮なものだった。

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恵山と恵山岬。青森-室蘭航路があったころ乗船したことがあるが、もっと恵山岬近くを通過していたような気がする。

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原野のどまん中にある苫小牧東港入港。

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乗り遅れたらアウトの連絡バスの車中から。

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駅前のルートインに宿泊。

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ホテルにチェックイン時にグルメマップをもらったが、中心街まで徒歩10分はかかるとのこと。本州仕様の薄着で寒かったので、目の前のスーパーで買った寿司で夕食。味はともかく、この量で千円しないのが北海道?

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翌朝、部屋の窓からみた苫小牧駅。

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王子製紙の大工場。

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ご近所探訪

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松陰神社にある吉田松陰の墓所

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安政の大獄で松陰を処刑した井伊直弼の墓所はすぐ近くの豪徳寺に

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再び松陰神社。日露戦争時の首相、桂太郎の墓所も。松下村塾に入塾してないが、遺言でここに埋葬されたとのこと。死んでからも群れたがる長州閥。

山県有朋直系の桂は、伊藤博文直系の西園寺公望と明治末政権交代を繰り返し、「桂園時代」といわれた。その政権交代のなれあいぶりを、中野正剛が常陸山と梅ヶ谷の両横綱が八百長で優勝を分け合ったことに模して皮肉っている

伊藤博文-西園寺公望-原敬の立憲政友会に対抗して、桂は晩年自らの政党立憲同志会を設立し、山県からの自立を図るが、徹底した政党嫌いの山県に妨害されて失敗に終わる。その「桂新党」に結党から参加して野党から裏切り者扱いされたのが島田三郎。その息子が初代早稲田大学ア式蹴球部長島田孝一。島田考一は野村正二郎とともに1938年第3回ワールドカップ・フランス大会時のFIFA総会に大日本蹴球協会から派遣され、決勝・準決勝を含む6試合を観戦している。優勝したイタリアのジュゼッペ・メアッツァをナマで観ている希少な日本人のひとりである。

桂が政党政治家への転身に失敗した後、長州閥に対抗して、薩摩閥と政友会が結託して第一次山本権兵衛内閣ができたが、首相の出身母体海軍の汚職事件シーメンス事件が起こる。衆議院で事件追求の先頭に立ったのが、野党となった立憲同志会の島田三郎、そして薩摩閥との妥協に反発して政友会を脱党した連中を中心に結成された中正会の花井卓蔵(花井自身は政友会系ではない)。花井の息子がベルリン・オリンピック日本代表、立原元夫。

長州閥・陸軍のエリート・コースを歩んだ桂のライバルが、薩摩閥・海軍の山本権兵衛(桂の4歳下)。山本は海軍兵学寮2期生で、アーチボルト・ダグラスが指導した最初の生徒の1人。フットボールをした最初の日本人の可能性がある。

というわけで、無理やりサッカーにこじつけてみました。


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日本サッカー・リーグ発足に関する新聞記事

『朝日新聞』1965年2月20日付

サッカーに日本リーグ
     蹴球協会 正式発足を発表

 日本蹴球協会は十九日、東京・代々木の岸記念体育会館で、懸案だった“日本サッカーリーグ”の正式発足を発表した。このほか、第七回アジアユース・トーナメント代表候補、国連二十周年国際ユース・サッカー大会、本年度の事業計画などが発表された。

 日本リーグは日本サッカーの技術向上と普及のために新しく設立されたもので、去る一月有力実業団が大阪で協議、原案がまとまっていたが、このたび正式に発足することになったもの。出場チームは古河電工、日立本社、三菱重工(以上東京)名古屋相互銀行(名古屋)豊田自動織機(刈谷)東洋工業(広島)ヤンマーディーゼル(大阪)八幡製鉄(北九州)の八チーム。

 試合方法はホーム・アンド・アウェー(地元で一回、相手地で一回の二回戦制)で計五十六試合を行なう。日程は五月、六月、九月、十月、十一月の中の他の試合日程に支障をきたさない月の日、祝日を利用して行われるが詳しい日程については近く、日本サッカーリーグ実行委員会を設立して検討することになった。

 国連二十周年記念国際ユース・サッカートーナメント大会は、六月二十日から二十七日までサンフランシスコで行われるが、日本蹴球協会としては先にアジアユース大会候補として選抜した高校選抜から参加資格(六月二十日現在十九歳以下)のあるものを選抜し、選手団十八人(役員を含む)を送る予定である。

 また四月二十四日から五月五日まで東京で開催される第七回アジアユース大会については先に選抜した高校選抜二十五人に大会規定にある満二十歳以下の参加資格のある社会人、大学から十九人を加えることになった。

 日本リーグの新設に伴い、従来の都市対抗、実業団選手権大会は中止となり、新たに第十八回全国社会人大会を設けることになった。

クラマー氏の助言で

[日本リーグとは] リーグ発足の主因となったのは日本のサッカーを建直した西独のクラマーコーチの「試合はすべて90分、フロックのあるトーナメント方式はやめ、総当たりリーグ戦形式にして互いに技術を練磨しなけらば強くならない」というアドバイスによる。

 日本リーグはすべて90分試合とし、ホーム・アンド・アウェーの試合方式で行う。ホーム・アンド・アウェー方式は欧米諸国で採用されている方法で地元で一回、相手地で一回の二回戦制で行うもの。この方式の利点は全国各地で最高の試合が見られることと、連戦の疲労がなくなり、良コンディションのもとで試合が行えるということである。

 有力学生チームは学業、現リーグ、経費等の関係から参加はとりやめたが、協会側としては将来は学生も含め、下部大会(社会人大会)の勝者二チームと日本リーグの下位二チームとの入替え戦制も考えてい(ママ)”

『読売新聞』1965年2月20日付

日本サッカー・リーグ
    8実業団5月発足 6都市を回り持ち

 日本サッカー協会(ママ)は十九日、昭和四十年度の事業日程を発表したが、今後の日本サッカーの主流となる「日本サッカー・リーグ」の発足が正式に決定、古河電工、八幡製鉄など八チームが初年度の参加チームに選ばれた。リーグは五月下旬-六月、九月-十一月上旬の約四か月間にわたって開かれる。全国的なリーグが組織されるのは、プロ野球以外のスポーツでは、日本ではじめてのこころみ。

 「日本サッカー・リーグ」の参加チームは、古河電工、日立本社、三菱重工(以上東京)八幡製鉄(北九州)東洋工業(広島)ヤンマー・ディーゼル(大阪)名古屋相銀(名古屋)豊田自動織機(刈谷)の八チーム。それぞれの都市をフランチャイズとして、二回戦総当たりのホーム・アンド・アウェー方式(一つのカードをそれぞれの地元で一回ずつ、計2回行なう)で試合をする。このため一チームの試合数十四試合、総試合数は五十六試合となる。日本リーグの目的は、選手強化のため、強いチーム同士の試合をふやすとともに、よい試合をファンにみてもらって普及に役立てることだが、将来は地域のリーグ組織をつみ重ねて、ヨーロッパと同じサッカーの組織を作ることをねらっている。

 なおこrまでの都市対抗選手権と全日本実業団選手権は発展的に解消して、全国社会人選手権とし、その上位二チームとリーグの下位二チームの入れかえ戦をする予定。昭和四十年度のおもな日程はつぎの通り。

(以下略)”

『読売新聞』1965年2月24日付

“[外野席]

サッカー組織の革命

 「日本にプロ・サッカーができるんですか?」―サッカー関係者は、このごろ、こんな質問をよく受ける。日立本社、八幡製鉄など、実業団の強豪八チームを集めて、五月から「日本サッカー・リーグ」が発足するが、全国をまたにかけたリーグの組織は、これまでプロ野球のほかになかったからだ。だからサッカーの全国リーグがプロ、あるいは、セミ・プロをめざすものと思われても無理はない。

 しかし、リーグに加わった実業団チームは、セミ・プロ化するつもりは、まったくない。八幡製鉄のマネジャーは「プロどころか、八幡が地元でやる七試合については、入場料をとったら、お客さんが集まらない心配がある。タダなら電車賃をかけても見にくるが、有料では、隣でやっていても敬遠するのが、つましい地方の人の気風だ」という。八幡の場合、これまで都市対抗や、実業団選手権の予選、本大会に遠征する経費が百万円以上もかかっていた。それが、この日本リーグ一本になれば、十分予算内でまかなえる見通しだそうだ。

 協会の役員も、日本リーグの目的は「選手強化が第一。地方の人に良い試合をみせて、普及の役に立てるのが第二だ」といっている。だが、そのような当面の目標のほかに、この試みは日本のサッカー組織の革命のはじまりだ、ということを忘れてはならない。日本リーグの下に関東リーグ、さらに、埼玉リーグというように、全国のチームがリーグの積み重なりの中に包みこまれる―これが将来の姿である。

 イギリスでも、ドイツでも、サッカーの先進国は、みなそういう組織だ。そして、西ヨーロッパや南アメリカでは、頂点の全国リーグは、プロかセミ・プロである。だから、日本の将来に、プロの姿が描かれるのは、必ずしも見当はずれではない。国際オリンピック委員会のブランデージ会長が「サッカーでは、プロとアマがひとつになっている」と非難するのも、このこと。日本では、ブランデージ氏のいうことが絶対に正しいと思われているが、サッカーの組織には、ブランデージ氏の知らない長所もある。日本リーグの発足を機会に、そういうことを見直してほしいのである。(牛木)”

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東京オリンピック・トトカルチョ・プロサッカー

1960年ローマ・オリンピックの経費をトトカルチョで賄ったことは日本でも注目されていた。

トトカルチョ
[東京]:東京オリンピック準備委員会,1959序
56p;21cm
「イタリアにおけるトトカルチョについてのみではなく、その他の国々で、フットボール・プールスまたは、スポーツ・トトなどと称して行なっている同種のものをまとめて、 その発祥の歴史、現状、関係法規などの概況を述べるとともに、あわせて、イタリアのローマにおける千九百六十年の第十七回オリンピック競技大会の開催のために、 このトトカルチョがどんなに大きな役割を果たしつつあるかを紹介して、千九百六十四年の第十八回オリンピック競技大会の東京開催を熱望しておられる日本の人々にトトカルチョについて、 大きな関心を寄せられるようにお願いすることを趣旨としているのである。」
後記にこのリーフレットが日本体育協会の所有にかかること、『世界の賭けごと』の著者、倉茂貞助の協力に対する謝辞がある。
はしがき
序章 1.人生と娯楽 2.トトカルチョの特色とスポーツ
第1章 トトカルチョの語源と語義
第2章 トトカルチョの歴史 1.イギリスにおけるフットボール・プール 2.スエーデンその他の国におけるフットボール・プール 3.イタリアにおけるトトカルチョの発祥 4.イタリアにおけるトトカルチョの発展と現状
第3章 トトカルチョの準拠法規 1.トトカルチョの基本法 2.基本法に関連する法規
第4章 トトカルチョの組織と運営 1.トトカルチョの組織 2.トトカルチョの運営
第5章 トトカルチョ参加者の心得
第6章 トトカルチョの効果 1.スポーツに対する寄与 2.オリンピックに対する貢献
第7章 トトカルチョの雑話 1.トトカルチョの勝利者 2.トトカルチョの受付所の労苦 3.トトカルチョのファンに対する注意書
別表 1.トトカルチョの参加料金の上昇状況一覧表 2.地区事務所および管内受付代理人、公認予想受付所分布一覧表 3.1.トトカルチョの税率およびコニイの収入率 3.2.トトカルチョの収入の配分図表 4.トトカルチョの運営一覧表

なる図書が、「東京オリンピック準備委員会」から東京オリンピックの5年前に刊行されている。東龍太郎東京都知事もトトカルチョに大いに乗り気で、日本にプロサッカーがないので、プロ野球と連携することを考えていたようだ。

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『朝日新聞』1960年9月17日付

オリンピックの東京開催が本決まりしてから泥縄でトトカルチョをやろうとしたようだが、正力松太郎がそれよりずっと以前にプロサッカーを始めて、トトカルチョも行うことを構想していたことが、松永碵「幻のプロサッカー秘話」『イレブン』9(14) 1979.11 p.135に記されている。

“後楽園競輪場ができたのが昭和24年10月、その年だったか、あるいはその翌年だったか、ある日突然、読売新聞社主の正力松太郎さんから「至急会いたい」という電話がかかってきた。大読売の正力さん―。もちろん日立でサッカーに明け暮れていた若僧の私には一面識もなかった。

 社主室の大きな部屋に通され、いささか緊張の面持ちの私に、正力さんは温和な視線を投げかけ、こう話をきり出してきた。

「実はね、サッカーのプロ・チームをきみにつくってもらおうと思って呼んだんだよ。日本の野球は読売巨人軍を中心にどんどん栄えていく。だが、野球は世界的なものではない。世界に輝くプロ・サッカーをそだてるのが、このわしの願いなんだ」

 正力さんは、一気にこういうと目を輝かせて私の返事を待った。

 正力さんの構想によると、氏の肝煎りでできた後楽園の競輪場の開催の合間を利用して、プロのサッカー試合を行なう。そして、そのサッカー試合にトトカルチョを導入しようというものだった。”

1951年に日本がオリンピックに復帰すると同時に体協がオリンピック招致に動き出しているくらいなので、正力はいずれ日本でもオリンピックを開催することになると考え、1949年か1950年頃にはプロサッカーとトトカルチョを構想していたのかもしれない。ただし、この時点ではオリンピックのローマ開催すら決定しておらず、正力がオリンピックの準備としてプロサッカー・トトカルチョを考えていたのかどうかは不明である。『クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ~ヴェルディの40年』(東京ヴェルディ1969フットボールクラブ  2010)中の「大正力とサッカー」で、牛木素吉郎氏は、正力にプロサッカーを構想させたのは後楽園スタヂアムの田辺宗英社長ではないかと推測している。

プロサッカーは実現しなかったが、当時の関東代表クラスを集めた「日本最強」の東京クラブというクラブ・チームを作った。日立の松永碵、古河の長沼健など「本籍」は実業団にある関東大学OBが所属していた。東京クラブはできたが、当時全日本選手権(天皇杯)には社会人選手は出身大学クラブ(早稲田WMW、慶応BRBなど)から出場する習わしで、全日本実業団選手権にはその名のとおり実業団チームしか出場できないので、東京クラブが出場できる全国大会がなかった。そこで1955年に日本蹴球協会主催、読売新聞社後援の全国都市対抗サッカー選手権大会という全国大会を新たに作り、そこに東京クラブが出場した。会場だけは当初の構想通り?後楽園競輪場だった。東京クラブのためにできたような大会なので、東京クラブは第1回、第2回大会を圧勝で2連覇している。

松永によれば、東京クラブは、

“チーム名を“東京クラブ”とし、メンバーには香港からきていたマクドナルド(GK)、大埜(日産化学)、鈴木(立教大出)、山口(明治大出)などが中心だったと思う。

 このメンバーで第一回都市対抗(読売新聞社主催)に臨んだ。もちろん、向うところ敵なしの優勝だった。だが、プロを前提とする秘密のチームだけにそれを感じていたサッカー関係者の牽制や中傷も多かったのも事実だった。それに“団結”の基盤も脆弱だった。

 数年後、正力さんの夢も空しく、最強“東京クラブ”はあえなく空中分解してしまった。”

とのことだが、1959年にオリンピックの東京開催が決定してから、社会人選手は全日本選手権や都市対抗に所属実業団チームから出場するようになって、両大会でも実業団チームが優勝を独占するようになり、日本サッカーにおける実業団優位が確定する。実業団選手からなる東京クラブが60年代まで存続できた可能性はなかったといえよう。実業団サッカーは、東京オリンピックを経て日本サッカー・リーグ、さらにJリーグに発展する。

正力の頭には、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックなどのメジャー・リーグ選抜と対戦するために作った全日本チームが読売巨人軍となって日本のプロ野球が始まったという成功例があったのかもしれない。

しかし、1950年代の実業団サッカー一流選手は、松永碵自身がそうであるように、大企業の大卒エリート社員だったから、仮にプロサッカーができても、それに身を投じる可能性はなかった。アマチュアのみ出場できたオリンピック出場がサッカー選手の最大の目標であった時代に、大企業社員でもある花形実業団選手を集めてクラブ・チームを作り、さらにそれをプロ化するのは所詮無理筋だった。東京クラブは「クラブサッカーの始祖鳥」になりそこねたが、正力のプロサッカー構想は約10年後に読売クラブとなってよみがえる。読売巨人軍のようなエリート集合型の東京クラブから、自前のグラウンドをもつ草の根育成型の読売クラブへと、方向性を180°転換してサッカーのプロ化を目指した。

サッカーのプロ化は実業団チームがプロ化する形でのJリーグ、トトカルチョはtotoとなって実現した。皮肉なことに、実業団(丸の内御三家)の大企業ホワイトカラーが主導した日本サッカー・リーグ、Jリーグにあって、サッカー先進国のクラブを模した育成型クラブの先駆者読売クラブ、東京ヴェルディは常に「異端」であり続けた。

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『朝日新聞』記事の見出しで辿る東京オリンピック開催決定までの経緯

朝日新聞DB『聞蔵Ⅱ』を「オリンピック&(開催+招致+立候補)」で検索した結果から関連記事の見出しを拾うと、以下のようになる。新聞記事の見出しなので、原則日付の前日に起きたことが報じられていることに注意。()内は上記検索式でヒットしなかった記事を追加。

(1951年5月9日 オリンピック大会 日本も正式参加 IOC総会で審議) 1951年5月7日のIOC総会で日本のオリンピック復帰が正式決定
(1951年7月6日 日本で第十七回五輪大会 体協 IOC総会に提案_五輪大会) 日本のオリンピック招致の最初の動き

1952年5月10日 都で招致申入れ 第十七回五輪大会
1952年5月20日 都議会 東京招致を議決 一九六〇年オリンピック 1952年5月19日東京都議会オリンピック東京招致を議決
1952年6月15日 春都副知事ヘルシンキへ 五輪大会招致に
1952年7月1日 春副知事あす出発 五輪招請にヘルシンキへ
1952年7月5日 全議員で構成 都議会五輪招致委
1952年7月6日 正副委員長は人選難 五輪大会東京招致委 二十五名内定_五輪招致対策
1952年7月12日 東京招致の提出報告 東氏らエドストローム氏を訪問_ストックホルム便り
1952年7月14日 決定は三年後に 一九六〇年の五輪大会開催地_ヘルシンキ便り
1952年7月18日 東京オリンピック実現へ 着々進む都の準備工作_五輪招致対策
1952年7月30日 正式の招請状を発表 オリンピック東京招致_開会
1952年8月10日 委員長に中塚氏(自由党) 五輪東京招致実行委_五輪招致運動
1952年8月23日 世田谷で五輪会場の招致運動 陸上、選手村など_五輪招致運動
1952年8月31日 “受入体制を急ぎたい”春副知事談 オリンピック招致_五輪招致運動
1952年12月6日 神宮、駒沢を視察 五輪大会招致準備に_五輪関係
1952年12月13日 会場は神宮中心 体協、五輪招致を協議_体協改組

1953年3月1日 次期大会にローマ開催 申込みの用意_五輪関係
1953年3月8日 五輪大会招致決議_衆院本会議
1953年3月8日 五輪大会招致決議 衆院本会議_五輪関係
1953年3月29日 シカゴも開催申込み_五輪関係
1953年12月18日 五輪大会招致に援助 国会スポーツ関係議員努力約す_五輪大会

1954年3月13日 トロント招致提案か 一九六〇年五輪大会_スポーツ
1954年7月29日 開催施設など検討 オリンピック委員会で_国内一般
1954年10月10日 東京が立候補 六〇年のオリンピック開催地 1954年10月9日IOC東京の立候補を発表
1954年11月5日 オリンピック招致へ本腰 外苑に国立競技場
1954年11月19日 デトロイトも立候補 一九六〇年オリンピック
1954年12月8日 東京オリンピック 競争者ひしめく_一九六〇年オリンピック招致
1954年12月13日 ローマ正式に立候補 六〇年のオリンピック
1954年12月16日 ブラッセル市立候補_オリンピック

1955年1月26日 ブラッセル市 五輪大会を招致
1955年2月11日 米上院、デトロイト開催決議案可決 六〇年オリンピック
1955年4月23日 「競争激しくて困難」 東京のオリンピック招致 ブIOC会長都内を視察
1955年4月23日 日本の関係者と懇談 ブランデージ氏_オリンピック招致問題
1955年4月24日 東京招致、力落すな ブランデージ氏強調_オリンピック招致問題
1955年5月14日 モスクワ立候補 一九六〇年五輪大会
1955年5月28日 オリンピック招致 パリへ代表 実現期す
(1955年6月17日 会場はローマに決る 一九六〇年の五輪大会) 1960年大会はローマ開催に決定
1955年10月11日 二委員会新設 五輪招致と地方制度対策_都議会
1955年10月19日 五輪招致委員長に出口氏_都議会

1956年11月9日 安井知事も出発 東京招致_五輪招致問題
1956年11月22日 東京でIOC総会 明後年_五輪招致問題
1956年11月22日 東京「五輪」の可能性強まる_五輪招致問題
1956年12月9日 “五輪招致、施設より人” 安井都知事帰る_五輪大会招致問題
1956年12月9日 都で下準備を開始 各種競技場を拡充_五輪大会招致問題
1956年12月12日 東京大会可能性は五分 カナダのIOC委員談_五輪大会招致問題
1956年12月13日 ソ連も五輪の招致に乗出す_オリンピック
1956年12月15日 五輪大会を東京に招くには=来日したフレンケル氏談
1956年12月17日 “すぐ準備を始めよ” フレンケル氏が首相に勧告_五輪大会招致問題

1957年4月11日 カイロ、五輪開催地に立候補
1957年6月5日 準備委設置へ 五輪大会招致
1957年9月6日 「五輪招致委」作れ 文相が都に申入れ
1957年10月4日 オリンピック招致申合せ_閣議
1957年10月11日 ブリュッセルも五輪開催地に立候補
1957年10月16日 「五輪招致」に準備委
1957年11月13日 五輪招致を協議 スポーツ振興審議会
1957年11月21日 年内に準備委_五輪招致問題
1957年12月18日 オリンピック招致で報告 上条都議会議長_都議会

1958年1月23日 会長に岸首相 五輪東京招致準備委
1958年2月11日 “五輪”招致決議案 自社共同提案決る_衆議院
1958年4月12日 選手村は朝霞に 最終案オリンピック招致
1958年4月16日 五輪大会招致可決_参院本会議
1958年5月9日 五輪招致へ申込書 総会スケジュールも決る_IOC総会
1958年5月10日 “日本に五輪開催資格”IOCブランデージ会長ら来日_IOC委員来日
1958年5月13日 六四年オリンピック 日本、正式に立候補_IOC総会
1958年6月3日 (下)“五輪招致”に重点_アジア大会を顧みて 本社記者座談会
1958年6月5日 ウイーンでの五輪開催立候補を支持 オーストリア内閣
1958年6月5日 古山氏を任命 オリンピック招致事務局長
1958年7月3日 東京五輪の開催は秋が適当 招致準備委で話合い
1958年7月9日 五輪招致協力を首相に要望 安井都知事ら
1958年7月13日 ロス市、立候補へ 一九六四年オリンピック
1958年7月31日 ミュンヘンで来年五月 五輪開催地の決定総会
1958年8月27日 ざっと一二五億円「財政計画」 オリンピック東京招致
1958年9月8日 五輪の立候補を決定 米デトロイト市
1958年9月26日 東京開催確実 一権威筋の話_オリンピック
1958年10月26日 “ウイーンも有望” 六四年五輪大会開催地
1958年11月5日 日本の五輪招致有望 ク英陸連理事長語る
1958年11月8日 オリンピック招致に二使節 都実行委で派遣
1958年11月11日 五輪招致使節決る
1958年11月12日 開会、七月か十月 東京オリンピック 招請に最終回答
1958年11月23日 東京にチャンス? デトロイトも立候補_六四年のオリンピック
1958年11月30日 ブリュッセルが立候補 六四年オリンピック開催
1958年12月2日 ブリュッセルも立候補 国際五輪委発表
1958年12月13日 立候補地宣伝はひかえめに IOC通告

1959年2月1日 出口氏が委員長に 都五輪大会招致実行委
1959年3月7日 オリンピック招致に国が最大の負担 首相答弁_予算委員会
1959年3月23日 東京の五輪開催推薦 国際アマ・ボクシング協会
1959年4月5日 アイク、決議案署名 デトロイト五輪招致
1959年4月9日 五輪招致に使節団 竹田氏ら各国回り運動
1959年4月14日 各国へ五輪招致アルバム送る
1959年4月23日 東京招致に大島氏出発_五輪関係
1959年4月29日 東京五輪招致使節団十一氏決る
1959年5月2日 説明役に平沢氏_“東京五輪”招致運動
1959年5月2日 五輪招致に織田氏出発_“東京五輪”招致運動
1959年5月8日 東京五輪準備委総会開く
1959年5月12日 ソ連、東京支持か 大島委員モスクワで話合い_“東京五輪”招致運動
1959年5月14日 体協代表の第一陣総会へ出発_“東京五輪”招致運動
1959年5月14日 東京オリンピック決れば まず組織委つくる 競技場、五輪村を再検討
1959年5月15日 五輪使節団第二陣も出発_“東京五輪”招致運動
1959年5月16日 都議らミュンヘンへ出発_“東京五輪”招致運動
1959年5月19日 東京招致へ追込み 竹田氏ら使節一行_“東京五輪”招致運動
1959年5月20日 東京いぜん最有力_“東京五輪”招致運動
1959年5月20日 トトカルチョ研究 東知事談_“東京五輪”招致運動
1959年5月20日 IOCへ東、安井さん出発_“東京五輪”招致運動
1959年5月21日 ローマの五輪合同会議 強まる“東京支持”
1959年5月22日 日本役員ミュンヘン着_“東京五輪”招致運動
1959年5月23日 東京に確信強める IOC総会
1959年5月23日 ベルギーも東京支持_“東京五輪”招致運動
1959年5月26日 平沢氏、東京の希望を説明_“東京五輪”招致運動
1959年5月26日 今夜に迫った開催地決定 IOC総会の模様をきく
1959年5月27日 開催準備に万全 東知事声明_東京五輪決まる 1959年5月26日IOC総会で1964年オリンピックの東京開催決定

 

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日本が戦後オリンピック招致に動き始めたのは1951年7月5日

古河電工が全日本選手権や都市対抗に実業団チームとして参加し始めるのは1959年だが、1959年は東京オリンピック開催が決定した年でもある。東京オリンピック開催決定を受けて、実業団チームが強化を図り始めたのであろう。

日本が戦後オリンピック招致に向けて動き始めたのはいつごろからなのだろうか。新聞記事を調べてみると、日本がオリンピック復帰した1952年ヘルシンキ大会の前年、1951年には招致に動き出している。

『朝日新聞』1951年7月6日付

日本で第十七回五輪大会
   体協IOC総会に提案

 体協国際委員会が五日お茶の水岸体育館で開かれ、一九六〇年(昭和三十五年、ヘルシンキ、メルボルンの次ぎ)の第十七回オリンピック大会を日本に招致する意向を決めた。オリンピックの開催地立候補は都市が行うことになっているので東京都を予想し、浅野国際委員会総務主事が近く東京都知事と話しあうことになった。この話合いが決まれば明年のオリンピックの時に開かれるIOC総会に東京都から正式に提案されることになろう。なお第十七回オリンピックにはローマ、ローザンヌ、デトロイトその他一、二の都市がすでに立候補している。

(注)わが国のオリンピック開催は一九三三年ごろに話がはじまり、ベルリン・オリンピックに次いで一九四〇年(昭和十五年)に東京で開かれることに決まったのであったが、日華事変が深刻化し遂に返上したものであった。

国際委員会総務主事浅野均一氏談 水泳連盟やその他の競技団体にオリンピック招致の希望が強くなってきたし、一般国民にも喜ばれることなので招致運動を起すことになった。大分さきのことだがほかに立候補都市もあることだし、話がきまれば出来るだけの手を打ちたい。

安井都知事談 大いに歓迎したい。招致についてはいろいろ形式もあることだろうから、各団体とも相談の上実現を期したい。”

日本のオリンピック復帰がIOC総会で決定したのが1951年5月7日。その僅か2カ月後に体協がオリンピックの日本招致を計画している。サンフランシスコ講和会議は2カ月後の11月、講和条約が発効するのは1952年4月28日。日本が主権回復する前に、占領下で早くもオリンピック招致に動き出していたのである。

出足の早さにビックリ。

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全国都市対抗サッカー選手権大会記録

『読売新聞』より。

第1回1955年

1955年7月1日 1回戦 東京ク(東京) 5-0 浦和ク(浦和市)

1955年7月2日 2回戦 甲府ク(甲府市) 4-4(抽選で甲府勝ち) 盛岡ク(盛岡市) 京都紫光ク(京都市) 8-0 高知農ク(高知長岡村) 島原ク(島原市) 3-2 大協石油(四日市市) 鋼管川崎ク(川崎市) 7-0 山口ク(山口市) 東京ク(東京) 11-0 富山ク(富山市) 芦屋ク 3-2 新日本窒素(水俣市) 湯浅電池(高槻市) 4-0 函館ク(函館市) 清水ク(清水市) 3-0 広島キッカーズ(広島市)

1955年7月3日 3回戦 東京ク 9-0 芦屋ク 清水ク 5-1 湯浅電池 甲府ク 0-0(抽選で甲府勝ち) 日本鋼管 3-1 島原ク

1955年7月4日 準決勝 鋼管川崎 2-0 甲府ク 東京ク 5-0 清水ク

1955年7月5日 決勝 東京ク 5-2 鋼管川崎 3位決定戦 清水ク 2-0 甲府ク

出場チームのうち、甲府クラブはヴァンフォーレ甲府の、京都紫光クラブは京都サンガの前身である。

日本代表クラスの大学OBを集め、ひそかにプロ化をめざしていた東京クラブが5試合で総得点35、失点2、という圧勝劇を演じている。各試合の出場選手は、

1回戦 GK マクドナルド FB 青木 土井田 HB 李 海老原 大埜 FW 松永 長沼 鈴木 岩淵 加納
2回戦 未掲載
3回戦 GK 村岡 FB 石坪 丸山 HB 大埜 海老原 浜田 FW 竹島 小田島 鈴木 能勢 松永
準決勝 GK マクドナルド FB 土井田 青木 HB 李 海老原 浜田 FW 竹島 長沼 鈴木 岩淵 加納
決勝 GK 岡田 FB 土井田 青木 HB 大埜 海老原 小田島 FW 松永 長沼 鈴木 岩淵 加納

現在では考えられない5日間5試合だが、20名までエントリーできたので、選手をターンオーバーして乗り切ったようだ。選手のレベルが高いだけでなく、選手層も厚かったようである。

第2回1956年

読売の社告で第1回は「蹴球」だったのが、「サッカー」に変っている。

1956年8月16日 1回戦 東京ク(東京) 7-1 全秋田(秋田市)

1956年8月17日 2回戦 東京ク(東京) 4-2 函館サッカー(函館市) 清水サッカー(清水市) 3-2 広島キッカーズ(広島市) 全大阪(大阪市) 4-0 大分サッカー(大分市) 川崎ク(川崎市) 12-0 金沢サッカー(金沢市) 新三菱重工(神戸市) 5-2 甲府ク(甲府市) 八幡製鉄(八幡市) 5-0 富岡サッカー(徳島) 浦和サッカー(浦和市) 5-1 刈谷サッカー(刈谷市) 京都紫光(京都市) 5-1 半田山ク(岡山市)

1956年8月18日 3回戦 東京ク 5-0 清水サッカー 全大阪 4-2 川崎ク 新三菱重工 2-0 八幡製鉄 浦和サッカー 4-3 京都紫光

1956年8月19日 準決勝 新三菱重工 1-0 浦和ク 東京ク 4-2 全大阪

1956年8月20日 決勝 東京ク 1-0 新三菱重工 3位決定戦 浦和ク 2-0 全大阪

実業団サッカーの強豪、八幡製鉄と新三菱重工(浦和レッズの前身)が加わり、第1回より接戦が増えている。東京クラブが第1回に引き続き1回戦から出場しているのは、同チームが大会の目玉だったからだろうか。

東京クラブの出場メンバーは、

1回戦 GK マクドナルド FB 青木 長井 HB 李 海老原 高林 FW 松永 小林 鈴木 小田島 田中
2回戦 GK マクドナルド FB 青木 李 HB 鈴木吉 大埜 芳賀 FW 能勢 小田島 鈴木得 高林 田中
3回戦 GK 村岡 FB 三村 土井田 HB 李 海老原 小田島 FW 岩淵 長沼 松永 芳賀 鈴木得
準決勝 GK マクドナルド FB 土井田 青木 HB 李 三村 小田島 FW 松永 長沼 鈴木得 小林 岩淵
決勝 GK マクドナルド FB 長井 青木 HB 李 海老原 大埜 FW 松永 小林 鈴木得 長沼 田中

この年の11月27日メルボルン・オリンピック対オーストラリア戦の日本代表には、小林忠生、岩淵功が出場し、長沼健、三村恪一がベンチ入りしている。

第3回1957年

東京キッカーズは東京クラブが名称変更したようで、連続出場扱いになっている。

1957年9月3日 1回戦 東京キッカーズ(東京) 5-2 松尾鉱山(岩手)

1957年9月4日 2回戦 東京キッカーズ(東京) 2-1 新日本窒尚和会(熊本水俣) 専売公社広島(広島) 2-1 全堺(堺) 名古屋サッカー(名古屋) 2-1 甲府クラブ(甲府) 全大阪(大阪) 3-0 富山蹴球ク(富山) 八幡製鉄(八幡) 2-1 全函館ク(函館) 清水サッカー(清水) 2-0 浦和サッカー(浦和) 日本ダンロップ(神戸) 8-1 協和発酵(防府) 日本鋼管川崎ク(川崎) 4-0 富岡サッカー(徳島県富岡)

1957年9月5日 3回戦 日本ダンロップ 4-1 日本鋼管川崎ク 八幡製鉄 2-1 清水サッカー 名古屋サッカー 4-1 全大阪 東京キッカーズ 3-0 専売広島

1957年9月6日 準決勝 名古屋サッカー 2-1 東京キッカーズ 八幡製鉄 1-0 日本ダンロップ

1958年9月7日 決勝 八幡製鉄 5-0 名古屋サッカー 3位決定戦 東京キッカーズ 2-0 日本ダンロップ

東京キッカーズの出場メンバーは、

1回戦 GK 松田 FB 土井田 青木 HB 大埜 海老原 荒川 FW 杉野 小林 鈴木 岩淵 松沢
2回戦 掲載なし
3回戦 GK 松田 FB 土井田 青木 HB 松岡 海老原 大埜 FW 竹島 小林 鈴木 小田島 岩淵
準決勝 GK 岡田 FB 土井田 大埜 HB 小田島 海老原 松岡 FW 桑田 小林 鈴木 岩淵 竹島

大会前の予想では東京キッカーズのレギュラーは、GK 岡田(早出) FB 土井田(慶出) 青木(早出) 大埜(東出) 海老原(東出) FW 桑田(早出) 岩淵(慶出) 小林(慶出) 加納(早出) 竹島(慶出) と、全員早大、慶大、東大OBになっていて、東京クラブ時代の村岡(東教出)、松永(同)、長沼(中出)、三村(同)、李(同)など上記3大学以外のOBが消えている。名称変更は何らかの「お家騒動」にともなうものだったのだろうか。

関東大学OBのオールスター・チームだった東京クラブは、2年後早大、慶大、東大3大学OBのみの東京キッカーズになり、連続優勝も2回どまりの結果となった。

第4回1958年

1958年8月16日 1回戦 東京キッカーズ(東京) 1-0 東邦レ徳島(徳島県北島町)

1958年8月17日 2回戦 東京キッカーズ(東京) 3-2 全函館(函館市) 全大阪(大阪市) 11-1 富山サッカー(富山市) 茨城日立(日立市) 2-0 大分サッカー(大分市) 名古屋サッカー(名古屋市) 3-1 広島修道OB(広島市) 清水サッカー(清水市) 4-1 全甲府(甲府市) 神戸日本ダンロップ(神戸市) 8-0 岡山旭ク(岡山市) 八幡製鉄(八幡市) 7-1 盛岡ゼブラ(盛岡市) 浦和サッカー(浦和市) 2-0 湯浅電池(高槻市)

1958年8月18日 3回戦 浦和サッカー 3-1 八幡製鉄 日本ダンロップ 5-2 清水サッカー 茨城日立 2-2(抽選) 名古屋ッカ― 東京キッカーズ 4-1 全大阪

1958年8月19日 準決勝 東京キッカーズ 5-2 茨城日立 浦和サッカー 2-1 日本ダンロップ

1958年8月20日 決勝 東京キッカーズ 3-2 浦和サッカー 3位決定戦 日本ダンロップ 0-0 茨城日立

東京クラブの系譜を継いだ東京キッカーズが4年間で3度目の優勝。この後解散したようで、次回大会から参加はない。
 
第5回1959年

東京代表トリック・クラブは東大OB、立教大OB、インターナショナル(マjクドナルド氏)、中央大OBの頭文字からとったクラブチーム。東京キッカーズは解散したもよう。

1959年8月15日 1回戦 秋商ク(秋田市) 2-1 東邦レ徳島(徳島県北島町) トリック・ク(東京) 6-0 住友奔別(三笠市)

1959年8月16日 2回戦 全大阪(大阪市) 4-0 専売広島(広島市) トリック・ク(東京) 4-0 秋商ク(秋田市) 名古屋サッカー(名古屋市) 3-0 ビクターオート所沢(所沢市) 八幡製鉄(八幡市) 9-0 高岡サッカー(高岡市) 日本ダンロップ(神戸市) 6-2 全甲府(甲府市) 帝人三原(三原市) 0-0(抽選) 清水サッカー(清水市) 湯浅電池(高槻市) 2-0 日立多賀(日立市) 古河電工(東京) 7-0 鶴屋百貨店(熊本市)

1959年8月17日 3回戦 古河電工 5-0 湯浅電池 日本ダンロップ 4-2 帝人三原 八幡製鉄 5-0 名古屋サッカー トリック・ク 1-0 全大阪

1959年8月18日 準決勝 八幡製鉄 1-1(抽選) トリック・ク 古河電工 2-1 日本ダンロップ

1959年8月19日 決勝 古河電工 4-1 八幡製鉄 3位決定戦 トリック・ク 3-1 日本ダンロップ
古河電工 GK 小林 FB 平木 宮崎 HB 小川 大塚 小川原 FW 能勢 内野 岩淵 長沼 八重樫
八幡製鉄 GK 皆本 FB 原田 長野 HB 村山 石川 寺西 FW 坪島 井沢 宮本 佐伯 大石

過去4回中3回を東京クラブ、東京キッカーズが優勝したが、平木、内野、岩淵、長沼、八重樫など日本代表クラスを揃えた古河電工が東京代表実業団チームとして初優勝している。岩淵、長沼は東京クラブのメンバーとしても優勝を経験している。クラブ・チームではなく所属実業団チームから出場するようになり、

クラブ・チーム → 実業団

への流れの節目は1959年あたりだったようである。

第6回1960年

1960年8月13日 1回戦 古河電工(東京) 5-0 岩瀬蹴球(富山市) 大阪府・市職員(大阪市) 7-1 国策パルプ(旭川市) 

1960年8月14日 2回戦 古河電工(東京) 7-0 大阪府・市職員(大阪市) 栃木日立(大平村) 8-2 島原サッカー(島原市) 日本鋼管(川崎市) 1-0 紫光ク(京都市) 名古屋サッカー(名古屋市) 6-0 帝人三原(三原市) 広島専売(広島市) 3-0 日本ダンロップ(神戸市) 茨城日立(日立市) 3-2 清水サッカー(清水市) 東邦レ徳島(北島町) 2-2(抽選) 全秋田(秋田市) 八幡製鉄(八幡市) 2-0 浦和サッカー(浦和市)

1960年8月15日 3回戦 八幡製鉄 4-0 東邦レ徳島 茨城日立 4-2 広島専売 日本鋼管 3-3(抽選) 名古屋サッカー 古河電工 10-0 栃木日立

1960年8月16日 準決勝 古河電工 2-2(抽選) 日本鋼管 八幡製鉄 3-1 茨城日立

1960年8月17日 決勝 古河電工 3-0 八幡製鉄 3位決定戦 茨城日立 2-0 日本鋼管
古河電工 GK 小林 FB [?]尾 小川 HB 中島 大塚 小川原 FW 北口 内野 岡野(補強選手) 長沼 高橋
八幡製鉄 GK 皆本 FB 片山 原田 HB 堀田 石川 上 FW 坪島 井沢 村山 寺西 大石

第7回1961年

1961年8月12日 1回戦 古河電工(東京) 8-1 栃木日立(栃木市) トリック・ク(東京) 7-0 富山サッカー(富山市)

1961年8月13日 2回戦 古河電工(東京) 9-2 西鉄北九州(小倉市) 双和クラブ(神戸市) 5-0 協和発酵(宇部市) 京都紫光(京都市) 5-1 富士鉄室蘭(室蘭市) 全名古屋(名古屋市) 3-0 全秋田(秋田市) 八幡製鉄(八幡市) 6-0 東洋レ愛媛(松山市) 浦和教員ク(浦和市) 5-4 巴川製紙(静岡市) 茨城日立(日立市) 5-0 日本製鋼広島(舟越町) トリック・ク(東京) 2-1 ヤンマーディーゼル(大阪市)

1961年8月14日 3回戦 トリック・ク 3-2 茨城日立 八幡製鉄 5-1 浦和教員ク 全名古屋 2-1 京都紫光 古河電工 7-0 双和ク

1961年8月15日 準決勝 古河電工 9-0 全名古屋 八幡製鉄 5-0 トリック・ク

1961年8月16日 決勝 古河電工 5-2 八幡製鉄 3位決定戦 トリック・ク 2-1 全名古屋
古河電工 GK 小林 FB [?]尾 宮崎(日立本社) 島谷 HB 平木 小川 FW 二宮(新三菱重工) 北口(新三菱重工) 内野 長沼 守屋  
八幡製鉄 GK 皆本 FB 向山 石川 原田 HB 杉村 上 FW 井沢 寺西 坪島 神田 大石

古河電工は全日本選手権、実業団選手権に続く3冠を達成。なお、同時期の日本代表海外遠征に古河電工から保坂司、宮本征勝、鎌田光夫、八重樫茂生、川淵三郎の5人、八幡製鉄から佐伯博司、宮本輝紀の2人が参加しており、それでも両チームが3年連続決勝進出していることは、両チームが実業団サッカーにおいて傑出していたことを示している。

第8回1962年

同月下旬のアジア大会日本代表に保坂司、宮本征勝、鎌田光夫、内野正雄、八重樫茂生、川淵三郎、平木隆三の7人が参加している古河電工は不出場。古河に代わって全三菱が東京代表になっている。出場している八幡製鉄も宮本輝紀、渡辺正が日本代表に参加しており、不在。

1962年8月11日 1回戦 全三菱(東京) 6-0 盛岡ゼブラ・ク(盛岡市) 浦和教員ク(浦和市) 6-0 新三菱重工水島(倉敷市)

1962年8月12日 2回戦 全三菱(東京) 1-0 大日本電線(尼崎市) 日本鋼管(川崎市) 5-0 西日本鉄道(小倉市) 名古屋相銀(名古屋市) 3-2 専売広島(広島市) 帝人松山(松山市) 4-0 日立栃木(大平町) 八幡製鉄(八幡市) 2-0 富山サッカー(富山市) 双和ク(神戸市) 3-2 茨城日立(日立市) 鋼管清水ク(清水市) 3-2 湯浅電池(高槻市) 浦和教員ク(浦和市) 0-0(抽選) 富士鉄室蘭(室蘭市)

1962年8月13日 3回戦 鋼管清水 6-2 浦和教員ク 名古屋相銀 3-3(抽選) 帝人松山 八幡製鉄 6-0 双和ク 全三菱 1-1(抽選) 日本鋼管

1962年8月14日 準決勝 名古屋相銀 1-1(抽選) 全三菱 八幡製鉄 6-0 鋼管清水

1962年8月15日 決勝 八幡製鉄 5-0 名古屋相銀 3位決定戦 全三菱 4-0 鋼管清水
八幡製鉄 GK 浜崎 FB向山 原田 HB 杉村 石川 上 FW 井沢 佐伯 大石 神田 富沢    
名古屋相銀 GK 豊吉 FB 松尾 近藤 HB 中村 林 高田 FW 安藤 水野 内田 立川 横森
全三菱 GK 佐藤 FB 浜口 吉田泰 HB 森 森田 島谷 FW 二宮 北口 清水 村田 平田

第9回1963年

昨年に引き続き、同時期に日本代表はソ連とマレーシアに2チームを遠征させており、有力選手はほとんど不参加である。古河電工は社業不振のため対外試合を1年間自粛していたが、日本代表として活動するのは許されたようである。

ソ連遠征メンバー中の実業団関係者
古河電工:平木隆三(コーチ兼選手) 川淵三郎  
新三菱重工:生駒友彦(主務兼コーチ) 清水泰男 
日立:片伯部盛夫 野村六彦 
八幡製鉄:上久雄 大石信幸 
東洋工業:石井義信 川西武彦 岡光竜三
住友ベークライト:渡辺昭夫
日本ダンロップ:佐々木行治
 
マレーシア遠征メンバー中の実業団関係者
古河電工:長沼健(監督) 保坂司 宮本征勝 鎌田光夫 八重樫茂生  
新三菱重工:片山洋 継谷昌三
日立:鈴木良三
八幡製鉄:富沢清司 渡辺正 宮本輝紀
東洋工業:小沢通弘 
日本鋼管:高森泰男

東京からは3人を引き抜かれた日立が出場している。広島からは4人引き抜かれた東洋工業が初出場。

1963年8月12日 1回戦 岐阜ク(岐阜市) 1-0 全京都(京都市) 日立本社(東京) 12-0 国策パルプ(旭川市) 八幡製鉄(北九州市) 11-0 上田ク(上田市)

1963年8月13日 2回戦 東洋工業(広島県府中町) 4-1 岐阜ク(岐阜市) 浦和ク(浦和市) 12-0 三井化学(大牟田市) 明星ク(大阪市) 1-0 日本鋼管(川崎市) 日立本社(東京) 4-0 大分市役所(大分市) 帝人松山(松山市) 5-1 日本製鋼広島(舟越町) 茨城日立(日立市) 2-1 清水ク(清水市) 双和ク(神戸市) 6-0 オール釜石(釜石市) 八幡製鉄(北九州市) 8-1 栃木日立(大平町)

1963年8月14日 3回戦 八幡製鉄 1-1(抽選) 双和ク 茨城日立 2-0 帝人松山 日立本社 3-0 明星ク 浦和ク 2-1 東洋工業   

1963年8月15日 準決勝 日立本社 5-2 浦和ク 八幡製鉄 6-0 茨城日立

1963年8月16日 決勝 日立本社 3-2 八幡製鉄 3位決定戦 浦和ク 3-2 茨城日立

第10回1964年

東京オリンピックの約2ヶ月前に開催され、日本代表はヨーロッパ遠征中、ムルデカ大会参加組は合宿中ということで、前々回、前回に続いて主力選手不在で行なわれた。2年ぶりに古河電工が出場している。

1964年8月13日 1回戦 浦和ク(浦和市) 6-1 日本製鋼広島(舟越町) 古河電工(東京) 4-1 大日本電線(大阪市) 日立本社(東京) 3-0 広島ク

1964年8月14日 2回戦 浦和ク(浦和市) 1-0 京都ク(京都市) 八幡製鉄(北九州市) 5-0 日立栃木(大平町) 古河電工(東京) 5-5(抽選) 豊田自動織機(刈谷市) 日本鋼管(横浜市) 5-0 室蘭ク(室蘭市) 日立茨城(日立市) 2-2(抽選) 三菱重工(神戸市) 日立本社(東京) 6-0 富山ク(富山市) 三井化学(大牟田市) 1-0 秋商ク(秋田市) 帝人松山(松山市) 2-0 清水ク(清水市)

1964年8月15日 3回戦 日立本社 11-0 三井化学 帝人松山 1-1(抽選) 日立茨城 古河電工 4-0 日本鋼管 浦和ク 3-2 八幡製鉄

1964年8月16日 準決勝 古河電工 2-0 浦和ク 日立本社 2-0 帝人松山

1964年8月17日 決勝 古河電工 3-1 日立本社 3位決定戦 浦和ク 4-1 帝人松山 

全日本都市対抗サッカー大会と実業団選手権は1964年をもって終了し、1965年から日本サッカーリーグが始まる。結局、10回開催されたが、優勝チームは東京のチームと八幡製鉄だけで、「都市対抗」とはならなかった。事業所(製造業であれば工場)に強豪チームが多い野球と異なり、サッカーは本社の大卒ホワイトカラーのスポーツだったからこの結果は当然といえる。事業所系実業団サッカーの強豪は八幡製鉄と日本鋼管だったが、両チームとも日本サッカーリーグには参加したが、Jリーグには発展しなかった。 

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出身大学クラブ、地域クラブでもプレーしていた1950年代の社会人選手

1961年に古河電工は全日本選手権(天皇杯)、実業団選手権(JSLの発足に伴い廃止)、都市対抗(JSLの発足に伴い廃止)の「3冠」を得るのであるが、キー・パーソン監督兼選手の長沼健は1950年代には全日本選手権には出身大学である中大クラブの一員として、都市対抗には東京クラブの一員として出場していた。

長沼は1955年に古河電工に入社しているが、1956年5月4日の全日本選手権準々決勝対全関大戦には中大クラブのLIとして出場している。

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また、1956年8月20日の都市対抗決勝決勝対新三菱重工戦には東京クラブのLIとして出場している。

Cimg0766

これは当時の社会人選手の一般的なありかたで、田辺製薬の鴇田正憲なども実業団選手権には田辺製薬の選手として出場したが、全日本選手権には関学クラブ選手として、都市対抗には全大阪の選手として参加していた。94戦93勝1分けという無敵チームを作り上げた田辺製薬社長田辺治太郎(14代田辺五兵衛)は、全日本選手権に田辺製薬として出場することは「売名行為」にあたるとして潔しとしなかったそうである。

古河電工と中央大、田辺製薬と関学のように、東京や大阪にあって勤務先と出身大学の距離が近ければ出身大学クラブ選手としても出場可能だ。東洋工業(広島)や八幡製鉄(福岡)などはそんなわけにいかないからか、1949年から全日本選手権に実業団チームとして参加している。

風向きが変わったのは1959年で、古河電工は1959年に全日本選手権に初出場し、翌1960年に実業団チームとして初優勝している。

同1959年には都市対抗にも初出場、初優勝し、1961年まで3連覇する。1961年には全日本選手権を2連覇、都市対抗を3連覇、実業団選手権にも優勝(1959年に続いて2度目)し、国内無敵の文字通りトップ・チームとなる。

『古河電工サッカー部史 日本サッカー界の礎を築いた人たち』(古河電工サッカー部OB会 2004)によれば、1955年に就任した小泉幸久社長がサッカーを「社技」に指定し、同年から5カ年計画でサッカー部を強化した。1955年の長沼健を皮切りに、1957年内野正雄、1958年平木隆三、八重樫茂生、1960年鎌田光男、1961年川淵三郎、宮本征勝と現役日本代表を続々と入社させている。1960年には実業団チームとして初めて東南アジアに海外遠征を行なっている。

しかし、1956年の段階では古河電工は全日本選手権と都市対抗の関東地区予選にも出場しておらず、長沼健は予選に負けて中大クラブと東京クラブの補強選手になったわけではなさそうだ。古河電工サッカー部の方針として不参加であったようである。その方針が変わるのが1959年あたりのようだが、その間の経緯は『古河電工サッカー部史 日本サッカー界の礎を築いた人たち』に記されていない。1959年には東京オリンピック開催が正式決定するのであるが、そのあたりの関係を調べてみたいものである。

こうしてみると、全日本選手権や都市対抗における実業団優位は、社会人選手が出身大学クラブや地域名を冠するクラブチームから勤務先の実業団チームに移動するようになってから実現したといえる。

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1955~1964年の全日本選手権、全日本実業団選手権、全国都市対抗選手権の各決勝

      全日本選手権        全日本実業団選手権     全国都市対抗選手権       
1955年 全関学 4-3 中大クラブ   田辺製薬 2-0 東洋工業   東京クラブ 5-2 日本鋼管川崎
1956年 慶応BRB 4-2 八幡製鉄   東洋工業 4-0 田辺製薬   東京クラブ 1-0 新三菱重工
1957年 中大クラブ 2-1 東洋工業   田辺製薬 2-0 東洋工業   八幡製鉄 5-0 名古屋クラブ
1958年 関学クラブ 2-1 八幡製鉄   日立本社 2-0 古河電工   東京キッカーズ 3-2 浦和クラブ
1959年 関学クラブ 2-1 中央大   古河電工 2-0 新三菱重工   古河電工 4-1 八幡製鉄
1960年 古河電工 4-0 慶応BRB   日立本社 4-2 八幡製鉄   古河電工 3-0 八幡製鉄
1961年 古河電工 3-2 中央大学   古河電工 3-1 日立本社   古河電工 5-2 八幡製鉄  
1962年 中央大学 2-1 古河電工   東洋工業 0-0 古河電工   八幡製鉄 5-0 名相銀
1963年 早稲田大 3-0 日立本社   八幡製鉄 2-0 日立本社   日立本社 3-2 八幡製鉄
1964年 八幡製鉄 0-0 古河電工   八幡製鉄 3-0 日立本社   古河電工 3-1 日立本社 

全日本選手権(天皇杯)では1960年に古河電工が初優勝して、それ以降実業団優位の時代となる。全国都市対抗選手権では1959年以降、クラブチームの決勝進出はなくなり、実業団優位になっている。1965年実業団チームのみの日本サッカーリーグが始まって、大学と社会人の格差が決定的となる。

1960年以降社会人優位になっているのは、1964年の東京オリンピック日本代表強化のため、日本代表クラスの大学生を社会人サッカーにストックしておく必要もあったからであろう。オリンピック種目ではないラグビーやアメフトでは社会人優位の確定はサッカーに比べるとかなり遅い。

サッカー、ラグビー、アメフトの全日本選手権における実業団チームの初優勝と大学チームの最後の優勝は以下のとおり。

            サッカー(1921年開始)    ラグビー(1963年開始)   アメフト(1983年開始)
実業団初優勝   古河電工(1960年)      八幡製鉄(1964年)       レナウン(1985年) 
最後の大学優勝 早稲田大(1966年)      早稲田大(1987年)        立命館大(2008年)

サッカーでは1950年代後半から大学の日本代表クラスを補強した古河電工が1960年に初優勝。東京オリンピック後の1965年に日本サッカーリーグが始まり、社会人優位は1960年代後半にシステム面でも確定する。

ラグビーの社会人初優勝は1964年の八幡製鉄で、サッカーとほぼ同時期である。1978~1984年に新日鉄釜石が7連覇したが、釜石は地元東北の「高卒育成型」であった。サッカーにおける古河電工のような「大卒有力選手補強型」は1989~1994年に6連覇する神戸製鋼で、神戸製鋼時代以降に社会人優位が確定している。

アメフトはいまだにサッカー、ラグビー以上のカレッジ・スポーツであるが、ライスボウルが大学と社会人のチャンピオン・チーム同士の日本選手権になった1983~2011年で大学12勝社会人17勝であり、大学最後の優勝も2008年と、現在でも社会人優位が完全に確定したとはいいがたい。

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