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東京オリンピック・トトカルチョ・プロサッカー

1960年ローマ・オリンピックの経費をトトカルチョで賄ったことは日本でも注目されていた。

トトカルチョ
[東京]:東京オリンピック準備委員会,1959序
56p;21cm
「イタリアにおけるトトカルチョについてのみではなく、その他の国々で、フットボール・プールスまたは、スポーツ・トトなどと称して行なっている同種のものをまとめて、 その発祥の歴史、現状、関係法規などの概況を述べるとともに、あわせて、イタリアのローマにおける千九百六十年の第十七回オリンピック競技大会の開催のために、 このトトカルチョがどんなに大きな役割を果たしつつあるかを紹介して、千九百六十四年の第十八回オリンピック競技大会の東京開催を熱望しておられる日本の人々にトトカルチョについて、 大きな関心を寄せられるようにお願いすることを趣旨としているのである。」
後記にこのリーフレットが日本体育協会の所有にかかること、『世界の賭けごと』の著者、倉茂貞助の協力に対する謝辞がある。
はしがき
序章 1.人生と娯楽 2.トトカルチョの特色とスポーツ
第1章 トトカルチョの語源と語義
第2章 トトカルチョの歴史 1.イギリスにおけるフットボール・プール 2.スエーデンその他の国におけるフットボール・プール 3.イタリアにおけるトトカルチョの発祥 4.イタリアにおけるトトカルチョの発展と現状
第3章 トトカルチョの準拠法規 1.トトカルチョの基本法 2.基本法に関連する法規
第4章 トトカルチョの組織と運営 1.トトカルチョの組織 2.トトカルチョの運営
第5章 トトカルチョ参加者の心得
第6章 トトカルチョの効果 1.スポーツに対する寄与 2.オリンピックに対する貢献
第7章 トトカルチョの雑話 1.トトカルチョの勝利者 2.トトカルチョの受付所の労苦 3.トトカルチョのファンに対する注意書
別表 1.トトカルチョの参加料金の上昇状況一覧表 2.地区事務所および管内受付代理人、公認予想受付所分布一覧表 3.1.トトカルチョの税率およびコニイの収入率 3.2.トトカルチョの収入の配分図表 4.トトカルチョの運営一覧表

なる図書が、「東京オリンピック準備委員会」から東京オリンピックの5年前に刊行されている。東龍太郎東京都知事もトトカルチョに大いに乗り気で、日本にプロサッカーがないので、プロ野球と連携することを考えていたようだ。

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『朝日新聞』1960年9月17日付

オリンピックの東京開催が本決まりしてから泥縄でトトカルチョをやろうとしたようだが、正力松太郎がそれよりずっと以前にプロサッカーを始めて、トトカルチョも行うことを構想していたことが、松永碵「幻のプロサッカー秘話」『イレブン』9(14) 1979.11 p.135に記されている。

“後楽園競輪場ができたのが昭和24年10月、その年だったか、あるいはその翌年だったか、ある日突然、読売新聞社主の正力松太郎さんから「至急会いたい」という電話がかかってきた。大読売の正力さん―。もちろん日立でサッカーに明け暮れていた若僧の私には一面識もなかった。

 社主室の大きな部屋に通され、いささか緊張の面持ちの私に、正力さんは温和な視線を投げかけ、こう話をきり出してきた。

「実はね、サッカーのプロ・チームをきみにつくってもらおうと思って呼んだんだよ。日本の野球は読売巨人軍を中心にどんどん栄えていく。だが、野球は世界的なものではない。世界に輝くプロ・サッカーをそだてるのが、このわしの願いなんだ」

 正力さんは、一気にこういうと目を輝かせて私の返事を待った。

 正力さんの構想によると、氏の肝煎りでできた後楽園の競輪場の開催の合間を利用して、プロのサッカー試合を行なう。そして、そのサッカー試合にトトカルチョを導入しようというものだった。”

1951年に日本がオリンピックに復帰すると同時に体協がオリンピック招致に動き出しているくらいなので、正力はいずれ日本でもオリンピックを開催することになると考え、1949年か1950年頃にはプロサッカーとトトカルチョを構想していたのかもしれない。ただし、この時点ではオリンピックのローマ開催すら決定しておらず、正力がオリンピックの準備としてプロサッカー・トトカルチョを考えていたのかどうかは不明である。『クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ~ヴェルディの40年』(東京ヴェルディ1969フットボールクラブ  2010)中の「大正力とサッカー」で、牛木素吉郎氏は、正力にプロサッカーを構想させたのは後楽園スタヂアムの田辺宗英社長ではないかと推測している。

プロサッカーは実現しなかったが、当時の関東代表クラスを集めた「日本最強」の東京クラブというクラブ・チームを作った。日立の松永碵、古河の長沼健など「本籍」は実業団にある関東大学OBが所属していた。東京クラブはできたが、当時全日本選手権(天皇杯)には社会人選手は出身大学クラブ(早稲田WMW、慶応BRBなど)から出場する習わしで、全日本実業団選手権にはその名のとおり実業団チームしか出場できないので、東京クラブが出場できる全国大会がなかった。そこで1955年に日本蹴球協会主催、読売新聞社後援の全国都市対抗サッカー選手権大会という全国大会を新たに作り、そこに東京クラブが出場した。会場だけは当初の構想通り?後楽園競輪場だった。東京クラブのためにできたような大会なので、東京クラブは第1回、第2回大会を圧勝で2連覇している。

松永によれば、東京クラブは、

“チーム名を“東京クラブ”とし、メンバーには香港からきていたマクドナルド(GK)、大埜(日産化学)、鈴木(立教大出)、山口(明治大出)などが中心だったと思う。

 このメンバーで第一回都市対抗(読売新聞社主催)に臨んだ。もちろん、向うところ敵なしの優勝だった。だが、プロを前提とする秘密のチームだけにそれを感じていたサッカー関係者の牽制や中傷も多かったのも事実だった。それに“団結”の基盤も脆弱だった。

 数年後、正力さんの夢も空しく、最強“東京クラブ”はあえなく空中分解してしまった。”

とのことだが、1959年にオリンピックの東京開催が決定してから、社会人選手は全日本選手権や都市対抗に所属実業団チームから出場するようになって、両大会でも実業団チームが優勝を独占するようになり、日本サッカーにおける実業団優位が確定する。実業団選手からなる東京クラブが60年代まで存続できた可能性はなかったといえよう。実業団サッカーは、東京オリンピックを経て日本サッカー・リーグ、さらにJリーグに発展する。

正力の頭には、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックなどのメジャー・リーグ選抜と対戦するために作った全日本チームが読売巨人軍となって日本のプロ野球が始まったという成功例があったのかもしれない。

しかし、1950年代の実業団サッカー一流選手は、松永碵自身がそうであるように、大企業の大卒エリート社員だったから、仮にプロサッカーができても、それに身を投じる可能性はなかった。アマチュアのみ出場できたオリンピック出場がサッカー選手の最大の目標であった時代に、大企業社員でもある花形実業団選手を集めてクラブ・チームを作り、さらにそれをプロ化するのは所詮無理筋だった。東京クラブは「クラブサッカーの始祖鳥」になりそこねたが、正力のプロサッカー構想は約10年後に読売クラブとなってよみがえる。読売巨人軍のようなエリート集合型の東京クラブから、自前のグラウンドをもつ草の根育成型の読売クラブへと、方向性を180°転換してサッカーのプロ化を目指した。

サッカーのプロ化は実業団チームがプロ化する形でのJリーグ、トトカルチョはtotoとなって実現した。皮肉なことに、実業団(丸の内御三家)の大企業ホワイトカラーが主導した日本サッカー・リーグ、Jリーグにあって、サッカー先進国のクラブを模した育成型クラブの先駆者読売クラブ、東京ヴェルディは常に「異端」であり続けた。

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