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大正受験地獄

大正時代から日本サッカーを牽引してきたのは、東大(当時は旧制高等学校から進学したので高校入試が難関だった)、早慶であるが、これらの学校が大正末期すでに超難関校であったことを伝える新聞記事があるので紹介したい。なお、1920年まで帝国大学と高等学校は秋入学で高校入試は6~7月頃に行われていたが、この時期のは他の諸学校と同様2~3月頃に実施されるようになったいた。高等工業学校は現東京工業大学、商科大学は現一橋大学、外国語学校は現東京外国語大学、音楽学校は現東京芸術大学、高等師範は現筑波大学。

『東京朝日新聞』1926(大正15)年2月3日付

十重廿重の人波を押退ける苦心
     景気不景気も他所にますます激しい競争の波
        又受験季節が来た

 そろそろ受験生の神経が極端なまで過敏になってくる季節になった。徹夜の勉強で疲れた頭へ貧弱な鳥打帽をのっけて板ざうりをぱたぱた引ずり都大路を歩いてゐる、受験生の姿は真にロープシンの「青ざめたる馬」そっくりのみじめな存在であるが、高等学校や専門学校の数が不足で十倍近い志願者を収容しきれない貧乏国の悲哀がかうした青年達の間に死よりも激烈な競争となって現れるのは当然である。

 全国に二十五校ある
高等学校
の入学試験は今年度から二班制度に改められ受験者は二校を希望することができるやうになった。その当然の結果として従来比較的入学容易とされてゐた弘前、松江、高知等の各高校が総て一高乃至二高、三高を志願する人人の第二志望校となった為、率は却って甚しくなった。ベソをかくのは前記各校を第一志望校とした連中である。要するに実力の競争にあるのだが、受験策戦は結果において決して馬鹿にならないのだから、受験生諸君が頭を悩ますのも無理はない。

 ◇専門学校
も去月下旬から願書の受付を開始した。入学競争の激烈を以て天下に鳴る高等工業学校では一月二十七日より二月二十四日まで願書を受け付ける。何しろ頭より腕が喜ばれる現今、この校の競争は年と共に激しくなる。昨年の如きは電気科は約二十名に一人といふ割合、建築家、機械科いづれも十七八名に一人であった。比較的楽なのが電気化学の五人に一人、紡績科の四人に一人、窯業科の三人に一人等であるが、従来高工では募集人員二百三十名中約半数の無試験入学を採ってゐたのが、今年からこの制度を廃止したから多少楽観してもよいわけだ。

 ◇商科大学
予科の願書受付は先月二十七日より今月九日までだが、二日までに既に九百六名を受付けてゐる。昨年の例でゆけば六人に一人の割合だが、今年は景気回復の叫び声で七に一人位の率を示すらしい。

 ◇私立大学 
慶應義塾大学は経済部昨年の率は十人に一人、医学部は二十人に一人だが、経済部今年は昨年よりも多く、医学部は少いらしいといはれてゐる。早稲田大学科の受付けは三月十五日より同二十七日まで行はれる。第一高等学院の入学試験は四月一、二の両日、第二高等学院は四、五の両日行はれる。第一の如きも募集人員七百人に対して昨年は四千人の志願者があったから、今年も五人弱に一人位の競争になるらしい。

 その他外国語学校は語部によるが第二志望語部を許してゐるが結局八人に一人位の競争となり、音楽学校でも本科、甲乙師範科いづれも八人に一人弱の競争だといふから恐ろしくなる。二日合格者の発表された高等師範の例でも入学志願者二千二百七十四人で合格者数二百八名といふ驚くべき差を示してゐる。

 かくの如く各専門高等学校入学志願者の数はいづれも募集人員の八倍乃至二十倍といふ数字を示してゐる。この傾向は景気不景気に無関係で逐年増加の傾向である。受験生の競争はますます激しく、現に今年などは一人で十校十通の願書を提出してゐるものは珍しくないといふから驚く。この激しい生存競争に対比して入学試験問題は十年以前と比較して更に進化してゐない。

 数学でみれば高校の八題制、高工の六題制、商大の七題制等昔も今も変りがない。試験問題に変化がないから結果として満点に近い点をとらなけらば入学ができなくなる。昨年の一高理科甲類の最下点合格者は数学満点六百点に対して五百三十点だった。地方高工は比較的容易だがそれでも四百点以下では合格できない。二班制度を採用した今年度の結果は如何と識者が期待してゐるのも当然である。”

従来の帝国大学令に代わる1918年公布の大学令によって私立大学が公認され、1920年に早慶は大学昇格する。それにともなって定員も大幅に増加した。また、従来一高から八高まで8校しかなかった高等学校も、上記にあるような弘前、松江、高知など地名を冠する高校が大正期に新設されて、受験地獄は多少なりとも改善されたはずであった。それでも増大する高等教育進学希望者数に対応しきれていなかったようだ。

こうして苦労して入学した合格者も3年後に1929年大恐慌が起きて就職に大変苦労することになる。小津安二郎監督の『大学は出たけれど』が公開されたのは1929年である。

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