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戦前の社会人(実業団・クラブ)リーグに関する新聞記事

1936年ベルリン・オリンピックで「ベルリンの奇蹟」を演じたサッカー界は、来るべき1940年東京オリンピックをひかえて、社会人サッカーの強化に乗り出している。社会人が出られるのは、大学OBリーグ戦、1932年から始まった関東実業団選手権(ノックアウト式)、出身学校クラブから出場した全日本選手権(ノックアウト式)など、ごく限られていた。ベルリン・オリンピック直後から社会人にもリーグ戦を作る動きが出てくる。社会人サッカーにはクラブ系と実業団系があったが、別々にリーグ化された。

クラブ系では東京蹴球団(青山師範OBクラブ)、豊島サッカー倶楽部(豊島師範OBクラブ)、アストラ倶楽部(暁星中OBクラブ)にアラン会、横浜の外国人クラブYCACがいて、埼玉蹴球団(埼玉師範OBクラブ)も参加予定になっている。東京倶楽部は竹腰重丸(東大OB、日本代表主将)、川本泰三(早大OB、日本代表)、竹内悌三(東大OB、日本代表主将)、松丸貞一(慶大OB、日本代表)、濱田諭吉(慶大OB、慶大ソッカー部初代主将)など歴代日本代表・関東大学リーグ主力選手OBが集う和製「銀河系」クラブ、オールブラックスは全員外人(西洋人)という異色のチーム。5チームでスタートした倶楽部リーグ戦だが、2年後には13チームに急増し2組に分け、さらに1939年11月には15チームになり、3組に分けてリーグ戦を行っている。戦時中の1942年12月にもリーグ戦の予定を発表している。

実業団系では、現在J1のFC東京になった東京ガス、Jクラブにはならなかったが、JSL1部にもいた日本鋼管が最初から参加している。1937年に日中戦争が始まり、日本社会はいわゆる総動員体制下で窮屈になっていくのであるが、「戦前の関東実業団サッカー 『朝日新聞』1941年4月18日付記事」に記したように1941年4月時点で関東実業団リーグには36チームが参加し、5部制から6部制に拡大する盛況ぶりだった。顔触れをみると軍需企業が多く、中島飛行機のような太平洋戦争をひかえた軍事費増大で潤った会社が新規参加している。

慶応OBの松丸貞一のように、東京倶楽部と千代田生命をかけもちしている例がみられる。戦後、古河電工に入社した長沼健が、全日本選手権(天皇杯)には中大クラブから、都市対抗には東京クラブから出場しているが、こうした二重籍、三重籍は戦前からの伝統だったようである。

『東京朝日新聞』1936年11月3日付

蹴球倶楽部リーグ戦を

 我が蹴球界の飛躍を目指す関東蹴球協会は二日午後六時半から協会事務所で理事会を開催、学生チームの充実と相俟って倶楽部チームの実力向上に意を注ぐ事を決議。これが実現を期して先づ従来試合に恵まれなかった倶楽部チームにその機会を与へるべく倶楽部リーグ戦を開催、同時に従来大会開催にのみ留って居た実業団蹴球界にも可及的速かにリーグ戦を設定する事となった。尚関東蹴球協会常例理事会は毎月第一火曜日に開く事に変更した。”

『東京朝日新聞』1936年11月26日付

東京実業団蹴球リーグ

 関東蹴球協会の肝煎りで東京実業団蹴球リーグが結成され、愈来る十二月六日からリーグ戦が開始されることになった。加盟十三チームを三クラスに分ち、首位三チームを以て改めて決勝リーグ戦を行ふが第一次リーグ戦は左の如し。
◇十二月六日 東京火災対日本鋼管(A)日本徴兵対慶応病院(A)東京ガス対航研(B)航技対第一生命(B)浅野対興銀
◇十三日 東京火災対慶応病院(A)日本徴兵対三共(A)マツダ対浅野(A)
◇二十日 日本鋼管対三共(A)東京ガス対第一生命(B)航研対航技(B)マツダ対興銀(C)
◇二十五日 東京ガス対航技(B)マツダ対千代田(C)
◇一月九日 千代田対浅野(C)
◇十日 日本徴兵対東京火災(A)慶応病院対日本鋼管(A)第一生命対航研(B)
◇十七日 日本鋼管対日本徴兵(A)慶応病院対三共(A)
◇二十三日 千代田対興銀(C)
◇二十四日 東京火災対三共(A)” 

『東京朝日新聞』1937年2月20日付

蹴球倶楽部連盟
   リーグ戦二組

 関東蹴球協会が肝煎りで倶楽部蹴球連盟結成の段取となった事は既報の如くであるが、十九日午後七時から協会事務所に協会側は、本多、清水、小野、小長谷の四理事、倶楽部側YCAC(エー・ジー・ステヴンス)、アラン会(三宅)、東京蹴球団(山口)、豊島サッカー倶楽部(尾佐竹、須貝)、アストラ倶楽部(吉原)の五倶楽部代表が会合の上、関東倶楽部蹴球連盟結成を申合せ、来る二十三日選手の登録、組合せ、その他を決定する。

 他に埼玉蹴球団の参加も予想されてゐる。尚リーグ戦は加盟倶楽部を二組に分ち、それぞれ優勝倶楽部を決定し、改めて決勝戦を行ふ筈である。”

『東京朝日新聞』1937年2月24日付

関東倶楽部蹴球戦
   十四日から試合開始

 関東蹴球協会の肝煎りで結成が急がれつつあった関東倶楽部蹴球連盟は二十三日午後七時から協会事務所に各倶楽部の代表が参集の上協議を進めた結果予期通り順調に進み、

 東京倶楽部、東京蹴球団、オールブラックス、豊島サッカー倶楽部、アラン会、アストラ倶楽部、YCAC

の七チームを以て発会式を挙げ、来る十四日から左の如き日割を以てリーグ戦を行ふ事になった。尚アストラ、YCACは選手の都合で本シーズン試合は放棄するが(以下略)”

『東京朝日新聞』1938年12月29日付

関東倶楽部蹴球参加チーム

 関東蹴球協会主催第三回関東倶楽部蹴球リーグ戦は明春一月十五日から約一月半に亘り行はれるが、今回は参加チーム激増の為全チームを抽籤に依りA、B両組に分け、各組の優勝チームを以て決勝戦を行ふ。参加チーム左の通り。

【A組】 東京蹴球団、Y・K・T(武蔵高倶)、K・F・S・E(慶医OB)、アストラ、青蹴会(青学中等部OB)、Y・C・A・C
【B組】 オール・ブラックス、成城蹴球倶楽部、アラン会、埼玉蹴球団、豊島サッカー、国際学友会、M・T・R(東高OB)” 

『東京朝日新聞』1939年11月11日付

蹴球倶楽部の蹴球戦組分け

 関東蹴球倶楽部リーグは来る十九日を第一日として明春二月下旬に至る長期間に亙って各組毎にリーグ戦を行ひ、その優勝チームにより改めて決勝リーグ戦を行ふが、組分けは抽籤の結果左の如し。

【A】 YCAC、埼玉蹴球団、豊島サッカー倶、国際学友会、 東京倶楽部 
【B】 三菱倶楽部、オールブラックス、成城倶、アストラ倶、青蹴会
【C】 FSB、アラン会、綱町倶、東京蹴球団、YKT”

『東京朝日新聞』1942年12月20日付

倶楽部蹴球の試合方法決る

 関東倶楽部蹴球連盟では、十九日代表委員会を開き、明年度試合方法は紅、白両組それぞれリーグ戦を行ひ、両組の勝者間で優勝決定戦を行ふこととし、期日は一月より五月までと限定した。なほ、紅白の区分は左の通り。

紅組 暁星、東蹴、埼蹴、豊島、駿台、綱町、稲門
白組 成城、湘南、青山、向蹴会、法友、東倶

 なほ大日本体育会蹴球部関東支部の十二月下旬執行予定の関東府県対抗中等学校蹴球大会は都合により一時延期と決定した。” 

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