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東京倶楽部・東京クラブ

戦前の関東倶楽部蹴球リーグ戦に東京倶楽部という名称のチームが出場している。このクラブは竹腰重丸(東大OB 日本代表)、川本泰三(早大OB 日本代表)、高山英華(東大OB 日本代表)、松丸貞一(慶大OB 日本代表)、竹内悌三(東大OB 日本代表)など関東大学サッカーOBの花形選手を集めたチームで、5回中3回優勝している。

ところで、「東京倶楽部」という名称のオールスター・クラブチームは野球に先例があり、都市対抗野球大会創設にあわせて1927年にクラブ創設、東京六大学OBの花形選手、宮武三郎(慶大OB)、苅田久徳(法大OB)、森茂雄(早大OB)、中島治康(早大OB)など後に野球殿堂入りする名選手が在籍した。都市対抗野球大会に第1回から東京代表として11回連続出場、うち4回優勝している。

おそらく、サッカーの東京倶楽部は、チームの構成、名称とも野球の先例にならったのであろう。野球の東京倶楽部選手からは、読売巨人軍の母体となった1934年創設のプロ野球チーム、大日本東京野球倶楽部に苅田久徳(NHK)、中島治康(藤倉電線)が参加している。

戦後の1955年、正力松太郎はひそかにプロ・サッカーを目指して「東京クラブ」というやはり関東大学OBの花型選手を集めたクラブ・チームを作り、日本蹴球協会主催・読売新聞社後援の全国都市対抗サッカー選手権大会というクラブ・チームも出場できる全国大会を創設した。東京クラブは第1回から2連覇する。→「東京オリンピック・トトカルチョ・プロサッカー」、「松永碵「幻のプロサッカー秘話」

なお、戦前の都市対抗野球で東京倶楽部のライバルだったのは「全大阪」だったが、戦後の都市対抗サッカーにも全大阪という名称のチームが参加しており、東京クラブのライバル視されていた。

野球・サッカーの2つの「都市対抗」は相似形だった。「東京クラブ」という名称で都市対抗に出場することは、関東大学リーグOBの花形チームを作ることを意味していた。戦前の関東倶楽部蹴球リーグ戦の東京倶楽部、戦後の都市対抗サッカーの東京クラブも、戦前の都市対抗野球の東京倶楽部にチーム名だけでなく、チーム構成の先例があった。

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