1933年秋東京六大学野球の収支報告 1回のリーグ戦で20万円の収益
『東京朝日新聞』1933年11月25日付
“秋のリーグ戦収支廿万円
東京大学野球連盟総会
廿四日の東京大学野球連盟総会は別面所載の如く例の早慶紛憂解決の報告があったが、それより、平沼会長は来秋ハンター氏の引率で来朝する米国職業野球団の件につき本問題は既にハンター氏と文部省の直接交渉により文部省でも諒解済みのこととて連盟が今後如何なる方法により米チームを招聘するかは理事会に一任することを希望し、本年度連盟の会計報告を述べて七時閉会、直にハンター氏の歓迎会に移った。
尚昭和八年度秋期収支明細左の如し。
◇・・・収入の部
内野券 八三、〇四〇円〇〇銭
学生券 二一、二八八円二〇銭
外野券 一〇五、四一〇円〇〇銭
合計 二〇九、七三八円二〇銭
◇・・・支出の部
リーグ積立(一割) 二〇、九七三円七八銭
球場使用料 二一、〇二三円八二銭
雑費(整理員、切符費、警官弁当代) 一一、〇三四円一〇銭
【各校取分】
法政大学 一九、三六四円二〇銭
東京帝国大学 二二、六一〇円七七銭
立教大学 二三、一三〇円九三銭
早稲田大学 三三、六〇一円一四銭
慶應義塾大学 三二、四六九円四五銭
明治大学 二五、五三〇円〇一銭
合計 二〇九、七三八円二〇銭”
各大学は1期ごとに2万円~3万3千円くらいの収入があったようだ。春秋2期制だから、年間ではその倍の収入がったことになる。分配金は6校合計で約15万7千円にものぼる。1935年に分配金の総額を6万円以下に制限しようとする「6万円制限問題」が起こる。
1937年当時の高等文官試験合格者(大卒キャリア国家公務員)の初任給は75円だった(『値段史年表 : 明治・大正・昭和』(朝日新聞社 1988)による)。3万円は400名分にあたる。野球部員の入学金、学費、野球部寮費、野球用具費をゆうに賄える額である。
ハンター氏とは1931年日米野球の米側エージェント、「来秋ハンター氏の引率で来朝する米国職業野球団」 とは、ベーブ・ルースを含む1934年日米野球の全米チームのことである。結果として、前年の1932年に発令された野球統制令により、東京六大学現役選手は1934年日米野球に参加できなかった。
1936年ベルリン・オリンピックに大日本蹴球協会が寄付を募ったが、その目標は3万円だった。毎年の春秋のリーグ戦ごとに2万円の積立金を加えることができた東京六大学がいかに富裕だったかがわかる。1932年ロサンゼルス・オリンピックに六大学は10万円寄付している。おそらく、同年の野球統制令など、金満ぶりを批判されていたことが背景にあるのであろう。
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