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1931年の日米野球と野球統制令 新聞社戦争としての野球統制令

読売新聞社の東京六大学への食い込み

東京六大学野球は、朝日、毎日の「色」が付いた高校野球と違って、特定新聞社(マスコミ)の色はついていない。戦前、東京六大学野球はNHKラジオで全国実況され、現在のプロ野球なみの人気を誇った。早慶戦は日本で最も人気のあるスポーツ・イベントだった。上方漫才のエンタツ・アチャコの代表作の演題が「早慶戦」だったくらいである(初演は1931、2年頃)。神宮球場で東京六大学野球戦を主催することは、当時の新聞社にとって「かなわぬ夢」だった。その東京六大学野球に「日米野球」というアイデアで食い込んだのが読売新聞社だった。1930年、読売新聞社は早稲田大学野球部監督、市岡忠男を運動部長に招へいする。

翌1931年、ベーブ・ルースは参加しなかったが、ゲーリック、グローブなど一流選手が参加した大リーグ選抜チームの招へいに成功した。波多野勝『日米野球史 メジャーを追いかけた70年』(PHP研究所 2001)によれば、招へい交渉は困難を極めたが、正力松太郎が外務省の白鳥敏夫情報部長に面会して、ニューヨーク総領事を通じて交渉するという外務省ルートを使った。初戦の前日の11月6日には、若槻礼次郎首相が全米チーム、六大学野球連盟幹部、白鳥を首相官邸での茶会に招待している。

全米チームは以下のスケジュールで日本チームと対戦した。

1931年11月7日(神宮) 対立大 7-0
1931年11月8日(神宮) 対早大 8-5
1931年11月9日(神宮) 対明大 4-0
1931年11月10日(仙台八木山) 対全明大 13-2
1931年11月12日(前橋敷島公園) 対全日本 14-1
1931年11月14日(神宮) 対全日本 6-3
1931年11月15日(神宮) 対全日本 11-0
1931年11月17日(松本長野県営) 対全日本 15-0
1931年11月18日(神宮) 対慶大 2-0
1931年11月19日(静岡) 対法大 8-1
1931年11月21日(名古屋鳴海) 対全慶大 5-1
1931年11月22日(甲子園) 対早大 10-0
1931年11月23日(甲子園) 対全慶大 8-0
1931年11月24日(長府) 対八幡製鉄 17-8
1931年11月26日(甲子園) 対関大 7-2
1931年11月29日(横浜公園) 対全横浜 3-2
1931年11月30日(横浜公園) 対横浜高商 11-5

全17戦のうち、社会人の八幡と全横浜、地方の関大、横浜高商を除いてすべて東京六大学または東京六大学選抜の全日本チームとの対戦であった。読売新聞社は、神宮球場での4試合(7、8、14、15日)と地方の8試合を主催した。読売は「学生野球の聖地神宮球場で東京六大学野球戦を主催する」ことを実現したのである。計12試合の収支決算を1931年12月2日付『読売新聞』紙面で社告として公表している。

総収入:283,191円70銭
 内訳:神宮球場入場料 180,756円 甲子園球場入場料 67,435円70銭 名古屋他地方契約金 35,000円 

総支出:302,655円47銭
 内訳:ハーバート・ハンター氏(米国側エージェント)への支払金 244,153円90銭 神宮球場使用料 9,037円80銭 日本選手東京合宿費、地方出張旅費、神宮球場整理員手当 14,755円15銭 米国選手歓迎費、各種メダル参加章調整費 6,480円50銭 ポスター、立看板、パンフレット、宣伝ビラ、広告その他宣伝費 28,128円12銭

差引損失:29,643円77銭

読売新聞社としては、赤字だったことを強調して、「興行」批判をかわしたかったのであろう。赤字ではあったが、本来の目的である新聞の拡販で元はとったはずである。でなければ、3年後に再度日米野球を開催するはずがない。   

全日本チームの編成は、現在のプロ野球オールスター戦のようなファン投票で候補選手を1次選考し、その中から銓衡委員会が投票で2次選考するという方法で行われた。銓衡委員会の顔触れは以下のとおりである。(『読売新聞』1931年10月6日付)

安部磯雄(六大学リーグ会長)
平沼亮三(六大学リーグ副会長)
芦田公平(六大学リーグ主事)
武満国雄(六大学リーグ常任幹事)
直木松太郎(六大学リーグ最高委員)
河野安通志(早大野球部総務)
腰本寿(慶大野球部監督)
岡田源三郎(明大野球部監督)
藤田信男(法大野球部監督)
永田康二(立大野球部代表)
小林悟一(帝大野球部代表)
市岡忠男(読売新聞運動部長)

「夢の日米対決」を名目に、読売は東京六大学リーグの幹部役員、各大学野球部の有力者との人脈づくりに成功したのである。

全日本チームのメンバーは以下のとおり。

投手:伊達正男(早大)、若林忠志(法大)、宮武三郎(慶大OB)、辻猛(立大)、渡辺大陸(明大OB)
捕手:小川年安(慶大)、久慈次郎(早大OB)、井野川利春(明大)
一塁手:山下実(慶大OB)、松木謙次郎(明大)
二塁手:三原修(早大)、吉相金次郎(明大)
三塁手:水原茂(慶大)、角田隆良(明大)、佐伯喜三郎(早大)
遊撃手:苅田久徳(法大)、富永時夫(早大)
左翼手:松井久(明大)、井川喜代一(慶大)
中堅手:枡嘉一(明大)、楠見幸信(慶大)
右翼手:堀定一(慶大)、永井武雄(慶大OB)
ピンチ・ヒッター:佐藤茂美(早大)、森茂雄(早大OB)
ピンチ・ランナー:斎藤辰夫(立大OB)、田部武雄(明大)

全27名中現役大学生20名、OB7名。現役学生が重視されていたことがわかる。2次選考で最高得票の11票を獲得したのは、伊達正男、若林忠志、小川年安、山下実、苅田久徳、松井久、堀定一の7名であった。ちなみに、1次選考の最高得票獲得者は久慈次郎で、124,836票であった。他に10万票以上を獲得したのは、松井久、枡嘉一である。

野球統制令

読売新聞社が東京六大学と米国大リーグ選抜チームとの日米野球を大成功させた翌年の1932年、文部省は野球統制令を発令する。『官報』1570号 1932年3月28日付「文部省訓令第四号 野球ノ統制並施行ニ関スル件」によれば、大学野球の「試合、褒賞等ニ関スル特殊事項」で以下が規定された。

“五 試合、褒賞等ニ関スル特殊事項

一~三(略)

四、学校選手ハ職業選手トと試合ヲ行フヲ得ザル事。但シ学校長及文部省ノ承認アル場合ハコノ限リニアラザル事。

五~七(略)”(p.658-659)

読売新聞社が1931年11月に東京六大学と米国プロ野球選抜チームとの試合を華々しく開催してから半年もたたないうちに、学生野球とプロ野球の交流戦は禁止されてしまったのである。全国的野球協会が結成されるまで文部省が直接監督することが予定されていた。上記条文の前後にある禁止事項をみれば、六大学野球で横行していた弊害がわかる。

野球統制令は文部省の役人ではなく、文部省が設置した委員会によって審議された。『東京朝日新聞』1932年2月2日付によれば以下のとおり。

野球統制実現に先づ委員会設置
    文部省十七名に依嘱

 過般の体育運動審議会総会で合申のあった野球の健全なる施行方法について速かにその実現を期するため、右案の付帯事項に記載の趣旨に基き将来野球統制機関の実現を見るまで文部省自ら野球の統制に当ることとなったが、その諮問機関として野球統制に関する臨時委員会を設置することなり、左記十七氏に委員を依嘱することを内定。

安部磯雄、安藤狂四郎、芦田公平、東龍太郎、大村一蔵、小笠原道生、桜井弥一郎、飛田忠順、長与又郎、中野武二、西村房太郎、橋戸信、平沼亮三、槇智雄、前田捨松、宮原清、森巻吉”

17名のうち、飛田忠順(穂洲)は東京朝日新聞社嘱託、橋戸信(頑鉄)は東京日日新聞社正社員だった。マスコミ関係者はいずれも早大野球部OBのこの2名のみだった。中等野球では、全国的選手権大会と選抜大会は各1回ずつに制限され、それまで乱立していた毎日以外の選抜大会は開催不可能となった。野球統制令によって、朝日、毎日(東京では日日)の「既得権(中等選手権大会と選抜大会)」はしっかり確保され、逆に両社以外の新聞社が中等野球に参入することは阻止された。さらに、前年巨費を投じて六大学野球に食い込んだ読売を、学生野球から遮断した。当時日本にプロ野球チームはなく、「職業野球=米国職業野球」だった。野球統制に名を借りた朝日、日日の「読売(日米野球)潰し」ともとれる。

安部磯雄、芦田公平、平沼亮三は前年10月に読売新聞の全日本選手銓衡委員だった。“但シ学校長及文部省ノ承認アル場合ハコノ限リニアラザル事”は、読売の六大学対米国プロ野球戦に手を貸したこれらの人物が挿入させたのかもしれない。

正力松太郎は1935年2月25日暗殺未遂事件に遭遇するが、背後関係として新聞の拡販競争があるとの説があった。佐野真一『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀. 上』(文芸春秋 2000)によれば、

“最も有力だったのは、正力暗殺未遂事件の陰で糸を引いたのは、読売と敵対する東京日日新聞の販売幹部だったのではないか、との説だった。この説は裁判が進むにつれ、現実味を帯びていった。この事件の重要参考人として取り調べを受けた関係者の一人に、犯人の長崎が所属する武神会会長の熱田佐という男がいた。熱田は、大正十三年から東京日日新聞の販売店を経営し、その後東日の専属拡販団の指揮者として活躍していた人物だった。”(p.265)

正力が命を狙われてもおかしくないくらい新聞拡販競争が熾烈だったとすれば、野球統制に乗じて読売拡販の生命線だった日米野球を妨害するくらいは序の口だったであろう。

野球統制令の影響

1931年の日米野球の日本チームは東京六大学の個別チームとオール六大学からなる全日本チームだった。翌1932年の野球統制令により学生・プロ交流戦は不可能となった。

読売新聞社は1934年、ベーブ・ルースを含む前回に増して豪華メンバーの全米チームの招へいに成功した。野球統制令により現役学生は対象外となったので、対戦相手の日本側チームは、読売が大卒・中卒の社会人から編成した全日本チームと都市対抗野球東京代表の常連東京倶楽部に限定された。日米野球終了後の1934年12月、全日本チームを土台にした日本初のプロ野球チーム大日本東京野球倶楽部が発足する。国内にプロの対戦相手がないので、さしあたっては米国に遠征した。大阪タイガースなど他6球団が成立してプロ野球が始まるのは1936年である。

読売としては、前回同様、日本で最も人気のある野球チームである早慶をはじめとする六大学野球とベーブ・ルースを対戦させたかったところだったろうが、野球統制令の対象外である社会人チームを組織するしかなくなり、それがさらにプロ野球の組織化に発展する。野球統制令がなければ、1934年の日米野球も1931年と同じパターンで開催し、1930年代にプロ野球は誕生しなかったかもしれない。その意味で、野球統制令が日本野球のプロ化を促進したという側面もあった。

しかし、文部省が学校スポーツとしての野球のみが対象となる野球統制令により野球を「統制」し、学生・プロ交流戦を否定したことは、学生野球とプロ野球に大きな溝を作ることになった。それにともなって、「全国一元的野球統制機関」がプロ・アマを一元的に「統制」することを不可能にし、「全国一元的野球統制機関」そのものも存在しえなくなった。今日、日本サッカー協会がプロ・アマの区別なくあらゆるレベルのサッカーを「統制」しているのに対し、野球では日本野球機構(プロ野球)、日本野球連盟(社会人野球)、日本学生野球協会などを統括する上部野球団体はない。野球には日本サッカー協会のような全国一元的「統制」機関は存在しないし、歴史的経緯や新聞社同士の利害関係(高校野球の朝日・毎日、プロ野球の読売)によりこれからも存在しえないであろう。

今日の日本野球界の無統制状態を生み出したのは、実は野球統制令なのである。


【関連リンク】

中等学校に関する野球統制令 新聞社戦争としての野球統制令
野球統制令における小学生の対外試合

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