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佐野真一『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』における正力とプロサッカー

佐野真一『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文芸春秋 1994)に正力松太郎とプロサッカーに関する記述があったので、紹介したい。

“プロ野球、プロレスという戦後の二大大衆スポーツを手中におさめた正力が、かなり早い段階から、プロサッカーにも手をのばしていたことはほとんど知られていない。

 正力がプロサッカーの構想をはじめて口にしたのは昭和三十七年のことだった。この年の十二月、後楽園競輪場のフィールドを利用して、スウェーデン、ソ連、日本の三国対抗サッカー戦が行なわれ、三万人の観客を集める大盛況となった。この人気の一つの原因は、翌々年に東京オリンピックを控えていたためで、西ドイツからコーチのクラマーを呼んで強化練習に入るなど、それまで地味なスポーツといわれていたサッカーは一躍、人気スポーツとしてフットライトをあびはじめていた。

 現在、読売日本サッカークラブ社長の小川一成が、正力から突然呼び出しを受けたのは、その三国対抗サッカーが終わった直後の頃だった。当時、小川は入社八年目の読売社会部記者だった。小川が日本テレビの会長室に正力をたずねて行くと、正力はいきなり、

「サッカーは今後プロ化していかなくてはいけない。野球は日本とアメリカだけのスポーツだが、サッカーは全世界のスポーツだ。観客も野球とは比較にならない。プロをつくるのは当然だ」

 と言った。正力から呼ばれたときは、必ず談話を翌日の紙面に載せるのがきまりだったので、小川が、いかがいたしましょうか、とお伺いをたてると、正力は以外にも、「いや、これはまだ記事にはしないように」と釘を差した。

 正力が新しいことを発表するとき、必ずその裏には有能な策士が控えていた。正力は決してその策士の名をあかさず、その仕事が成ったとき、自分の功績として改めて発表するのが常だった。正力がわざわざ小川を呼んで、プロサッカー構想の一端を披歴したのは、自分が日本で最もはやくその構想に先鞭をつけたということを、第三者に証拠として残すためだった。にもかかわらず、記事にするのを差しとめたのは、あまり早く発表すると、周囲から押しつぶされる恐れがあると考えたためだった。

 このとき正力の後ろに控えていた策士は、日本サッカー協会会長の野津謙と同協会専務理事の小野卓爾だった。二人は正力が小川を呼びつける直前に正力のもとを訪れ、三ヵ国対抗戦の行なわれた後楽園競輪場を、東京オリンピックのサッカー会場として使用させてもらえないかと打診していた。彼らはその一方、せっかく盛りあがったサッカー人気をさらに発展させるにはプロ化への道しかないという持論を、熱心に正力に訴えていた。

 野津と小野が、正力をプロサッカーの“盟主”にかつぎだそうとしたのは、正力が昭和三十年代の初頭から、後楽園社長の田辺宗英とはからって、後楽園競輪場のフィールドを使っての早慶ナイター試合や、都市対抗ゲームに力を入れていたのを知っていたためだった。そもそも正力にサッカーのことを最初に吹きこんだのは田辺だった。田辺はサッカーの盛んな甲府の出身で、早くからサッカーのプロ化を説いていた。

 一方、野津と小野は、かなり以前から、アマチュア規定に縛られた日本サッカーの現状を打破しようと考えていた。特に、日本サッカー協会の反対を押し切ってクラマーをコーチとしてドイツから招いた小野は、日本にプロチームを一つつくり、香港、韓国のプロサッカーチームとのリーグ戦を開催する夢を早くからもっていた。その小野からすれば、野球をプロ化した正力は、プロサッカー構想を推進する上で最高、最強のパートナーだった。

 だが、このときの二人の嘆願は結局、実を結ばなかった。東京オリンピックのサッカー会場は駒沢競技場や国立競技場となり、プロサッカー化構想も、この時点では計画倒れに終わった。”(p.491-492)

“正力がプロサッカーの構想をはじめて口にしたのは昭和三十七年のことだった”とあるが、松永碵「幻のプロサッカー秘話」によれば、“後楽園競輪場ができたのが昭和24年10月、その年だったか、あるいはその翌年だったか”にはすでにプロサッカー構想をもっていて、1955(昭和30)年にスタートした都市対抗サッカー、東京クラブはプロサッカー構想を具体化したものだった。

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肝心なときは土曜出勤 関西1チーム降格決定

で、肝心なところをみれず。

優勝はどうでもいいけどw

降格は

14位 C大阪 41
15位 神戸 39
16位 G大阪 38
17位 新潟 37

京都はJ2残留決定だし、この中から2チームだと関西1チームは降格決定したようなもの。

J1の優勝チームをプレーオフで決めるのは理にかなわないが、降格はプレーオフにしてもいいかも。

 

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祝・滝川二コンビで大分昇格

雨だったので、自宅でTV観戦。

森島から林への滝川二OBコンビの見事なゴールだった。森島のパスも、林のシュートも持ち味を生かしたもの。得点にはからまなかったが木島も滝川二。林が大分にいたのは、交代で出てきて初めて知ったw

森島は来年代表に呼ばれて、岡崎と滝川二コンビを組んでもらいたい。

大分ベンチに清武そっくりの顔が見えたが、弟は確か鳥栖だったはず?

プレーオフは盛り上がって大成功だった。降格もプレーオフやったら。

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大詰め

ガンバは勝ったが、神戸もFC東京との「もっと上にいるはずチーム」同士の雨中決戦を制して降格圏を脱出できず。総得失点差は+3で4位名古屋の+2より上なんだけど。セレッソも次はアウェイで広島だし、神戸も最終節に広島と、関西3クラブのうちどれか1つが降格しそうな感じになってきた。

FC東京の残り2節はガンバ、仙台。「気の良い」チームだから・・・

決勝は大分対千葉で国立か。森島がいるから大分でも応援しに行くか。

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東京オリンピックまでの国民体育大会社会人サッカー優勝チーム

出拠:『日本体育協会七十五年史』(日本体育協会 1986) p.195-196

第1回1946年 一般 関西学院大
第2回1947年 一般 早大WMW
第3回1948年 一般 全関西学院
第4回1949年 一般 全大阪
第5回1950年 一般 大阪クラブ
第6回1951年 一般 全兵庫
第7回1952年 一般 田辺製薬
第8回1953年 一般 東京蹴球団
第9回1954年 一般 京都紫光
第10回1955年 教員 東京蹴球団
第11回1956年 教員 宮城蹴球団
第12回1957年 一般 志太サッカークラブ 教員 京都紫光
第13回1958年 一般 大阪 教員 京都紫光
第14回1959年 一般 全東京 教員 全埼玉教員クラブ
第15回1960年 一般 広島アカシアクラブ 教員 京都紫光
第16回1961年 一般 名古屋サッカークラブ 教員 静岡
第17回1962年 一般 東洋工業 教員 紫光クラブ
第18回1963年 一般 浦和サッカー 教員 埼玉教員
第19回1964年 一般 浦和サッカー 教員 埼玉教員 

Wikipediaの「国民体育大会サッカー競技」では、第8回1953年、第9回1954年のカテゴリーが「教員」になっているが、『日本体育協会七十五年史』では「一般」になっている。

第10回1955年、第11回1956年は「教員」しかなく、大学、クラブ、実業団チームは出場できなかったようである。

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戦前の関東社会人サッカー

関東実業団蹴球大会

戦前の関東実業団蹴球大会(関東蹴球協会主催)は1932年に第1回が始まり、1941年第10回まで開催されたことが新聞記事で確認できる。トーナメント大会で、秋シーズンではなく、2月~4月に開催されている。秋には全日本選手権があったので、重複を避けたのであろう。優勝チームは以下のとおり。

1932年第1回 不明
1933年第2回 油面クラブ 目黒の油面小学校の教員クラブ。 おそらく青山、豊島両師範OBチームであろう。
1934年第3回 慶応病院
1935年第4回 千代田生命 松丸貞一、濱田諭吉、岩崎玄の慶大3OBがチームの中心だった。
1936年第5回 フォード フォードはRW近藤、LW佐野、CH松本以外は外人。
1937年第6回 マツダランプ マツダランプは外資系電灯会社 
1938年第7回 日立製作所
1939年第8回 マツダランプ
1940年第9回 日立助川 
1941年第10回 第一生命
(→「戦前の関東実業団蹴球大会(関東蹴球協会主催)結果」)

1936年のベルリン・オリンピック後、来るべき1940年東京オリンピックに備えて社会人サッカーの強化のため、クラブ・チームと実業団のリーグが別々に発足した。

関東倶楽部蹴球リーグ戦

第1回1937年3~4月
1位 東京倶楽部(4勝) 2位 東京蹴球団(3勝1敗) 3位 オール・ブラックス(2勝2敗) 4位 豊島サッカー倶楽部(1勝3敗) 5位 アラン会(4敗) 東京倶楽部は都市対抗野球の同名チームと同様、関東大学OBオールスター・チーム。竹腰重丸、竹内悌三、川本泰三など新旧日本代表が勢揃いしていた。

第2回1937年11月~1938年3月
YCACは7戦全勝で優勝。2位以下は不明。

第3回1939年1月~3月
埼玉蹴球団が優勝

第4回1939年11月~1940年2月
東京倶楽部が優勝。

第5回1940年11月(?)~1941年3月
東京倶楽部が優勝
(→「戦前の関東倶楽部蹴球リーグ戦結果」)

関東実業団蹴球リーグ

1938年決勝リーグ 1位 第一生命(3勝) 2位 日本鋼管(2勝1敗) 3位 千代田生命(1勝2敗) 4位 マツダ(3敗)

『朝日新聞』1941年4月18日付「実業団蹴球の加盟チーム」によれば、太平洋戦争直前には36チーム、6部制にまで発展していた。

1部 第一生命、日本鋼管、マツダ、日本光学、千代田生命、朝日東京本社
2部 東京火災、興銀、東京ガス、日本銀行、日本徴兵、三共
3部 明菓、新潟鉄工所、航技倶、東京計器、日立亀有、浅野セメント
4部 石川島造船、北辰電機、日立本社、勧銀、日本曹達、古河電工
5部 日清生命、中島飛行機、日本油脂、立川飛行機、日鉱、日本水産
6部 日立亀戸、桜星倶、東京海上、横川電機、三菱倶、中島太田

(→「戦前の関東実業団蹴球リーグ結果」、「戦前の関東実業団サッカー 『朝日新聞』1941年4月18日付記事」)

保険・金融関係、製造業系大企業が多い。関東大学サッカーOBの就職先がこれらの企業だったからだろう。東京ガス(FC東京)、日立本社(柏レイソル)、古河電工(ジェフ千葉)のように、Jクラブのルーツとなったチームもある。

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安部磯雄の職業野球観

六大学野球リーグ会長(1932年に辞任)で早大教授、政治家でもあった安部磯雄は職業野球に好意的だった。ベーブ・ルースが来日した1934年の日米野球の前に行われた『読売新聞』紙上の座談会で次のように述べている。

『読売新聞』1934年10月26日付

日米大野球戦展望【移動座談会】 三

(略)

職業団の必要

記者 種々有難う御座いました。最後に今回の全米軍の来朝によって日本にも近く職業野球団の誕生をみることになりましたが、日本に於ける職業団は如何なる意味があるかと云ふことに就き、斯界の長老安部先生の御話を承ってこの移動座談会を閉ぢたいと思ひます。

安部 現在の学生野球は余りに人気がありすぎる結果誘惑が多く従って選手の質が下落し易いのです。然るにそこに経済問題があるために学校当局も断然たる処置をとることが出来ない状態になってしまひました。学校が打算的になり、選手が堕落しつつある学生野球の現状を救ふものは只一つ職業野球団の成立より外ありません。そして今がその最好の時期です。皮肉なことではありますが職業野球団が出現して技術的に学生野球を圧倒すれば人気は職業野球に移り、学生野球はその結果として学生本来の野球に立戻ります。これが当然の運命なのです。この意味から私は職業野球団の出来ることを大いに歓迎するのであります。尚結論として私の希望は日本の球界が全米軍の来朝によって彼等のもつ好い点を単に学ぶだけでなくこれを実行に移して移して欲しいと云ふことです。【終り】”

同じ早稲田関係者ながら、アンチ職業野球の立場にあった飛田穂洲の精神論と違って、大所高所からの視点に立って、長期的、客観的な考え方をしている。“職業野球団が出現して技術的に学生野球を圧倒すれば人気は職業野球に移り、学生野球はその結果として学生本来の野球に立戻ります”は、歴史的にはまったくそのとおりに推移した。見事な洞察力といえる。

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飛田穂洲『興行野球と学生野球 ④ 笑止!若様練習 部費に毒され“修養野球”影無し』

『東京朝日新聞』1936年3月18日付の飛田穂洲による署名記事。六大学野球部の金満ぶりを批判している。

興行野球と学生野球 ④ 飛田穂洲

笑止!若様練習
   部費に毒され
     “修養野球”影無し

 練習に差支へる程野球部費に逼迫を告げては困るが質素な生活をする程選手精神は練られチームは強力となる。野球部貧乏時代の選手が各方面に秀れてをり人間味が濃く運動家らしい明朗さを帯びてゐるのは不自由を忍び、只管野球部のためにといふ愛部心に生き所謂質実剛健の教をそのまま体得したからである。部費が潤沢になり、野球部合宿生活は豊かになり、出る入るに自動車の大名生活といふ事になっては、自然士気もゆるみ我儘も増長し、徒に自我のみ強く、個人主義の奴となり人間味の乏しい選手が出来上る。これで立派な試合の出来ようわけがない。殿様野球、若様練習では大学野球の低下も蓋し避け難いであらう。

          ・・・・◇・・・・

 大体今の六大学野球部の大多数は部費を濫費する。年額三万にのぼる部費は如何に金がかかる野球とはいへ多きにすぎる。ワンシーズン和製のバットなら三本、舶来なら二本、それ以上は選手自弁のこと。スパイク靴年一足、それも三分の二選手負担、グラブ、選手用着無論自弁といふ旧来の野球規則を厳守してゐたら百人の部員にグラウンドの栄華誇ったところで概算一万五千円を出まい。

          ・・・・◇・・・・

 それを合宿費用から、授業料まで補助するやうな学生野球にあるまじき生活をなし、縫ひ返しのボールは使はぬ、ボールは馬皮に限るなど、己れの技量に恥しくもなく寝言を語るから膨大なる予算を組まねばならない。購入品が減少すれば運動具屋には影響するであらうが、シーズン毎に掛金のない勘定をしてやれば、却ってこの方が助るであらう。 

 ともすれば頼まれて、極端にいへば雇はれた気持で選手であるといふ誤まれる考へを持ちたがるのがいまの選手心理である。野球部のためにといふ事は至大至尊の精神の発露であって雇用関係の如き浅薄さをいふのではない。この精神赤誠によって現れた武功名誉といふものが結局帰り来るところは無形有名の野球部でなくして、選手それ自身のほかにはない。選手修養が達成されるのは野球部あるが為めであることを思へば、選手といふものは、その心ばかりでなく、物質的にも或程度の奉納をしてしかるべきであらう。即ち野球部費にのみ依頼せず、出来得る限り器具の自弁に真に学生選手たる誇りを高揚すべきであると堅く信じられる。かくして本統(ママ)の意味、誰れよりも尊敬されるに足る選手の姿が示現される。これほどの選手が出来上って、なほ且つ選手の技量や勝敗に不足を鳴らすものがあれば、真の選手価値に盲目なる白痴狂人の類であり相手にはならない。が、いまの選手にこれだけの清浄さを内心満悦し得る選手幾人あるであらうか。

          ・・・・◇・・・・

 各野球部の監督者が翻然昔に返ることを悟り得れば、いまのリーグ戦の入場料の如きは半額にするか、或は外野席を開放するか、欲をかかずに学生野球本来の面目に帰り得る。自然六万円制限問題なども起りやう筈もなく、文部省などの指図など受ける筋合ひとはならない。

 物は足りるを以てよしとする。大は小を兼ねる場合は別途の相談として、事金銭に関する限りといふよりも、リーグ戦の入場料に限り最小限度を目標にして徴収され、各大学野球部費用と連盟費用を支弁し得る程度に制定され、厳然大学野球の権威を保たねばならないと思ふ。

          ・・・・◇・・・・

 学生野球が興行野球の勃興に何等脅威を感ずるものではなくとも、これを契機として日本の学生野球は更生しなくてはならぬ。全日本の大学野球連盟の結成も急務であらうし殊に日本野球の精華である中等野球等いよいよ愛護発達させねばならぬ。

 いま改めて中等野球部への注文はなくとも、各中等選手は職業野球団の出現に対して可なりの衝動をうけてるに違ひない。修養野球の如何なるものであり、スポーツとしての野球を徹底させ理解させることをゆるがせにしてはならない。

 吾等は五十年の歴史に先人苦心の跡を偲び、日本の野球精神をしっかり握りしめて、養はれ来った野球愛を汚されぬやう誓はねばならぬ。(終)”

注)「六万円制限問題」: 六大学では剰余金を各大学に分配していた。1933年秋には15万円を超えた。1935年これを6万円以下に制限しようとしたが、早稲田大学だけが反対した。早稲田OBの「修養野球」主義者、飛田にとっては許せないことであったろう。

本記事は「興行野球と学生野球」の第4回(最終回)である。前3回の見出しは以下の通り。

① 観衆に魅力少い職業団の顔触 渡米選手に「見世物式たれ」 オドールの御託宣
② “野球道”に一変化 正統派の顛落 選手買収狂奔の弊
③ 勝利主義を清算し、質実剛健たれ 学生野球百年の計

「古の質素に返れ」というあまりにも素朴な精神主義は、江戸時代の寛政の改革や天保の改革みたいだ。松平定信や水野忠邦に政敵が多かったように、飛田も「敵」が多かったのではなかろうか。飛田は1925年に六大学野球が始まった時の早稲田大学野球部初代監督だったが、その飛田の後を継いだ2代目監督が、1930年に読売新聞運動部長になり、日米野球やプロ野球の推進役となった市岡忠男である。早大野球部総務だった河野安通志も1931年の日米野球に読売の選手銓衡委員として関わり、プロ野球にも関係した。早大野球部OB内部でも「職業野球」との距離はさまざまだった。

文部省による野球統制を民間の野球団体に移す、“文部省などの指図など受ける筋合ひとはならない”、“全日本の大学野球連盟の結成も急務”は飛田の持論だったが、「戦前は成立しなかった大学野球協会」に記したように、飛田が主唱者では、まとまるものもまとまらなかったと思われる。大学野球関係者の多くは、上記記事のような論旨で飛田に統制されるくらいなら、文部省に統制された方がまだましだと考えていたのではないだろうか。


       
     

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1933年秋東京六大学野球の収支報告 1回のリーグ戦で20万円の収益

『東京朝日新聞』1933年11月25日付

秋のリーグ戦収支廿万円
    東京大学野球連盟総会

 廿四日の東京大学野球連盟総会は別面所載の如く例の早慶紛憂解決の報告があったが、それより、平沼会長は来秋ハンター氏の引率で来朝する米国職業野球団の件につき本問題は既にハンター氏と文部省の直接交渉により文部省でも諒解済みのこととて連盟が今後如何なる方法により米チームを招聘するかは理事会に一任することを希望し、本年度連盟の会計報告を述べて七時閉会、直にハンター氏の歓迎会に移った。

 尚昭和八年度秋期収支明細左の如し。

 ◇・・・収入の部

内野券  八三、〇四〇円〇〇銭
学生券  二一、二八八円二〇銭
外野券 一〇五、四一〇円〇〇銭

合計  二〇九、七三八円二〇銭

 ◇・・・支出の部

リーグ積立(一割)            二〇、九七三円七八銭
球場使用料                二一、〇二三円八二銭
雑費(整理員、切符費、警官弁当代) 一一、〇三四円一〇銭

 【各校取分】

法政大学    一九、三六四円二〇銭
東京帝国大学 二二、六一〇円七七銭
立教大学    二三、一三〇円九三銭
早稲田大学   三三、六〇一円一四銭
慶應義塾大学 三二、四六九円四五銭
明治大学    二五、五三〇円〇一銭

合計  二〇九、七三八円二〇銭”

各大学は1期ごとに2万円~3万3千円くらいの収入があったようだ。春秋2期制だから、年間ではその倍の収入がったことになる。分配金は6校合計で約15万7千円にものぼる。1935年に分配金の総額を6万円以下に制限しようとする「6万円制限問題」が起こる。

1937年当時の高等文官試験合格者(大卒キャリア国家公務員)の初任給は75円だった(『値段史年表 : 明治・大正・昭和』(朝日新聞社 1988)による)。3万円は400名分にあたる。野球部員の入学金、学費、野球部寮費、野球用具費をゆうに賄える額である。

ハンター氏とは1931年日米野球の米側エージェント、「来秋ハンター氏の引率で来朝する米国職業野球団」 とは、ベーブ・ルースを含む1934年日米野球の全米チームのことである。結果として、前年の1932年に発令された野球統制令により、東京六大学現役選手は1934年日米野球に参加できなかった。 
 
1936年ベルリン・オリンピックに大日本蹴球協会が寄付を募ったが、その目標は3万円だった。毎年の春秋のリーグ戦ごとに2万円の積立金を加えることができた東京六大学がいかに富裕だったかがわかる。1932年ロサンゼルス・オリンピックに六大学は10万円寄付している。おそらく、同年の野球統制令など、金満ぶりを批判されていたことが背景にあるのであろう。

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1931年の日米野球と野球統制令 新聞社戦争としての野球統制令

読売新聞社の東京六大学への食い込み

東京六大学野球は、朝日、毎日の「色」が付いた高校野球と違って、特定新聞社(マスコミ)の色はついていない。戦前、東京六大学野球はNHKラジオで全国実況され、現在のプロ野球なみの人気を誇った。早慶戦は日本で最も人気のあるスポーツ・イベントだった。上方漫才のエンタツ・アチャコの代表作の演題が「早慶戦」だったくらいである(初演は1931、2年頃)。神宮球場で東京六大学野球戦を主催することは、当時の新聞社にとって「かなわぬ夢」だった。その東京六大学野球に「日米野球」というアイデアで食い込んだのが読売新聞社だった。1930年、読売新聞社は早稲田大学野球部監督、市岡忠男を運動部長に招へいする。

翌1931年、ベーブ・ルースは参加しなかったが、ゲーリック、グローブなど一流選手が参加した大リーグ選抜チームの招へいに成功した。波多野勝『日米野球史 メジャーを追いかけた70年』(PHP研究所 2001)によれば、招へい交渉は困難を極めたが、正力松太郎が外務省の白鳥敏夫情報部長に面会して、ニューヨーク総領事を通じて交渉するという外務省ルートを使った。初戦の前日の11月6日には、若槻礼次郎首相が全米チーム、六大学野球連盟幹部、白鳥を首相官邸での茶会に招待している。

全米チームは以下のスケジュールで日本チームと対戦した。

1931年11月7日(神宮) 対立大 7-0
1931年11月8日(神宮) 対早大 8-5
1931年11月9日(神宮) 対明大 4-0
1931年11月10日(仙台八木山) 対全明大 13-2
1931年11月12日(前橋敷島公園) 対全日本 14-1
1931年11月14日(神宮) 対全日本 6-3
1931年11月15日(神宮) 対全日本 11-0
1931年11月17日(松本長野県営) 対全日本 15-0
1931年11月18日(神宮) 対慶大 2-0
1931年11月19日(静岡) 対法大 8-1
1931年11月21日(名古屋鳴海) 対全慶大 5-1
1931年11月22日(甲子園) 対早大 10-0
1931年11月23日(甲子園) 対全慶大 8-0
1931年11月24日(長府) 対八幡製鉄 17-8
1931年11月26日(甲子園) 対関大 7-2
1931年11月29日(横浜公園) 対全横浜 3-2
1931年11月30日(横浜公園) 対横浜高商 11-5

全17戦のうち、社会人の八幡と全横浜、地方の関大、横浜高商を除いてすべて東京六大学または東京六大学選抜の全日本チームとの対戦であった。読売新聞社は、神宮球場での4試合(7、8、14、15日)と地方の8試合を主催した。読売は「学生野球の聖地神宮球場で東京六大学野球戦を主催する」ことを実現したのである。計12試合の収支決算を1931年12月2日付『読売新聞』紙面で社告として公表している。

総収入:283,191円70銭
 内訳:神宮球場入場料 180,756円 甲子園球場入場料 67,435円70銭 名古屋他地方契約金 35,000円 

総支出:302,655円47銭
 内訳:ハーバート・ハンター氏(米国側エージェント)への支払金 244,153円90銭 神宮球場使用料 9,037円80銭 日本選手東京合宿費、地方出張旅費、神宮球場整理員手当 14,755円15銭 米国選手歓迎費、各種メダル参加章調整費 6,480円50銭 ポスター、立看板、パンフレット、宣伝ビラ、広告その他宣伝費 28,128円12銭

差引損失:29,643円77銭

読売新聞社としては、赤字だったことを強調して、「興行」批判をかわしたかったのであろう。赤字ではあったが、本来の目的である新聞の拡販で元はとったはずである。でなければ、3年後に再度日米野球を開催するはずがない。   

全日本チームの編成は、現在のプロ野球オールスター戦のようなファン投票で候補選手を1次選考し、その中から銓衡委員会が投票で2次選考するという方法で行われた。銓衡委員会の顔触れは以下のとおりである。(『読売新聞』1931年10月6日付)

安部磯雄(六大学リーグ会長)
平沼亮三(六大学リーグ副会長)
芦田公平(六大学リーグ主事)
武満国雄(六大学リーグ常任幹事)
直木松太郎(六大学リーグ最高委員)
河野安通志(早大野球部総務)
腰本寿(慶大野球部監督)
岡田源三郎(明大野球部監督)
藤田信男(法大野球部監督)
永田康二(立大野球部代表)
小林悟一(帝大野球部代表)
市岡忠男(読売新聞運動部長)

「夢の日米対決」を名目に、読売は東京六大学リーグの幹部役員、各大学野球部の有力者との人脈づくりに成功したのである。

全日本チームのメンバーは以下のとおり。

投手:伊達正男(早大)、若林忠志(法大)、宮武三郎(慶大OB)、辻猛(立大)、渡辺大陸(明大OB)
捕手:小川年安(慶大)、久慈次郎(早大OB)、井野川利春(明大)
一塁手:山下実(慶大OB)、松木謙次郎(明大)
二塁手:三原修(早大)、吉相金次郎(明大)
三塁手:水原茂(慶大)、角田隆良(明大)、佐伯喜三郎(早大)
遊撃手:苅田久徳(法大)、富永時夫(早大)
左翼手:松井久(明大)、井川喜代一(慶大)
中堅手:枡嘉一(明大)、楠見幸信(慶大)
右翼手:堀定一(慶大)、永井武雄(慶大OB)
ピンチ・ヒッター:佐藤茂美(早大)、森茂雄(早大OB)
ピンチ・ランナー:斎藤辰夫(立大OB)、田部武雄(明大)

全27名中現役大学生20名、OB7名。現役学生が重視されていたことがわかる。2次選考で最高得票の11票を獲得したのは、伊達正男、若林忠志、小川年安、山下実、苅田久徳、松井久、堀定一の7名であった。ちなみに、1次選考の最高得票獲得者は久慈次郎で、124,836票であった。他に10万票以上を獲得したのは、松井久、枡嘉一である。

野球統制令

読売新聞社が東京六大学と米国大リーグ選抜チームとの日米野球を大成功させた翌年の1932年、文部省は野球統制令を発令する。『官報』1570号 1932年3月28日付「文部省訓令第四号 野球ノ統制並施行ニ関スル件」によれば、大学野球の「試合、褒賞等ニ関スル特殊事項」で以下が規定された。

“五 試合、褒賞等ニ関スル特殊事項

一~三(略)

四、学校選手ハ職業選手トと試合ヲ行フヲ得ザル事。但シ学校長及文部省ノ承認アル場合ハコノ限リニアラザル事。

五~七(略)”(p.658-659)

読売新聞社が1931年11月に東京六大学と米国プロ野球選抜チームとの試合を華々しく開催してから半年もたたないうちに、学生野球とプロ野球の交流戦は禁止されてしまったのである。全国的野球協会が結成されるまで文部省が直接監督することが予定されていた。上記条文の前後にある禁止事項をみれば、六大学野球で横行していた弊害がわかる。

野球統制令は文部省の役人ではなく、文部省が設置した委員会によって審議された。『東京朝日新聞』1932年2月2日付によれば以下のとおり。

野球統制実現に先づ委員会設置
    文部省十七名に依嘱

 過般の体育運動審議会総会で合申のあった野球の健全なる施行方法について速かにその実現を期するため、右案の付帯事項に記載の趣旨に基き将来野球統制機関の実現を見るまで文部省自ら野球の統制に当ることとなったが、その諮問機関として野球統制に関する臨時委員会を設置することなり、左記十七氏に委員を依嘱することを内定。

安部磯雄、安藤狂四郎、芦田公平、東龍太郎、大村一蔵、小笠原道生、桜井弥一郎、飛田忠順、長与又郎、中野武二、西村房太郎、橋戸信、平沼亮三、槇智雄、前田捨松、宮原清、森巻吉”

17名のうち、飛田忠順(穂洲)は東京朝日新聞社嘱託、橋戸信(頑鉄)は東京日日新聞社正社員だった。マスコミ関係者はいずれも早大野球部OBのこの2名のみだった。中等野球では、全国的選手権大会と選抜大会は各1回ずつに制限され、それまで乱立していた毎日以外の選抜大会は開催不可能となった。野球統制令によって、朝日、毎日(東京では日日)の「既得権(中等選手権大会と選抜大会)」はしっかり確保され、逆に両社以外の新聞社が中等野球に参入することは阻止された。さらに、前年巨費を投じて六大学野球に食い込んだ読売を、学生野球から遮断した。当時日本にプロ野球チームはなく、「職業野球=米国職業野球」だった。野球統制に名を借りた朝日、日日の「読売(日米野球)潰し」ともとれる。

安部磯雄、芦田公平、平沼亮三は前年10月に読売新聞の全日本選手銓衡委員だった。“但シ学校長及文部省ノ承認アル場合ハコノ限リニアラザル事”は、読売の六大学対米国プロ野球戦に手を貸したこれらの人物が挿入させたのかもしれない。

正力松太郎は1935年2月25日暗殺未遂事件に遭遇するが、背後関係として新聞の拡販競争があるとの説があった。佐野真一『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀. 上』(文芸春秋 2000)によれば、

“最も有力だったのは、正力暗殺未遂事件の陰で糸を引いたのは、読売と敵対する東京日日新聞の販売幹部だったのではないか、との説だった。この説は裁判が進むにつれ、現実味を帯びていった。この事件の重要参考人として取り調べを受けた関係者の一人に、犯人の長崎が所属する武神会会長の熱田佐という男がいた。熱田は、大正十三年から東京日日新聞の販売店を経営し、その後東日の専属拡販団の指揮者として活躍していた人物だった。”(p.265)

正力が命を狙われてもおかしくないくらい新聞拡販競争が熾烈だったとすれば、野球統制に乗じて読売拡販の生命線だった日米野球を妨害するくらいは序の口だったであろう。

野球統制令の影響

1931年の日米野球の日本チームは東京六大学の個別チームとオール六大学からなる全日本チームだった。翌1932年の野球統制令により学生・プロ交流戦は不可能となった。

読売新聞社は1934年、ベーブ・ルースを含む前回に増して豪華メンバーの全米チームの招へいに成功した。野球統制令により現役学生は対象外となったので、対戦相手の日本側チームは、読売が大卒・中卒の社会人から編成した全日本チームと都市対抗野球東京代表の常連東京倶楽部に限定された。日米野球終了後の1934年12月、全日本チームを土台にした日本初のプロ野球チーム大日本東京野球倶楽部が発足する。国内にプロの対戦相手がないので、さしあたっては米国に遠征した。大阪タイガースなど他6球団が成立してプロ野球が始まるのは1936年である。

読売としては、前回同様、日本で最も人気のある野球チームである早慶をはじめとする六大学野球とベーブ・ルースを対戦させたかったところだったろうが、野球統制令の対象外である社会人チームを組織するしかなくなり、それがさらにプロ野球の組織化に発展する。野球統制令がなければ、1934年の日米野球も1931年と同じパターンで開催し、1930年代にプロ野球は誕生しなかったかもしれない。その意味で、野球統制令が日本野球のプロ化を促進したという側面もあった。

しかし、文部省が学校スポーツとしての野球のみが対象となる野球統制令により野球を「統制」し、学生・プロ交流戦を否定したことは、学生野球とプロ野球に大きな溝を作ることになった。それにともなって、「全国一元的野球統制機関」がプロ・アマを一元的に「統制」することを不可能にし、「全国一元的野球統制機関」そのものも存在しえなくなった。今日、日本サッカー協会がプロ・アマの区別なくあらゆるレベルのサッカーを「統制」しているのに対し、野球では日本野球機構(プロ野球)、日本野球連盟(社会人野球)、日本学生野球協会などを統括する上部野球団体はない。野球には日本サッカー協会のような全国一元的「統制」機関は存在しないし、歴史的経緯や新聞社同士の利害関係(高校野球の朝日・毎日、プロ野球の読売)によりこれからも存在しえないであろう。

今日の日本野球界の無統制状態を生み出したのは、実は野球統制令なのである。


【関連リンク】

中等学校に関する野球統制令 新聞社戦争としての野球統制令
野球統制令における小学生の対外試合

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戦前は成立しなかった大学野球協会

1932年に発令された野球統制令は、「全国的野球統制機関」ができるまで文部省が監督を代行することになっていたが、全国的大学野球統制機関として構想された「大学野球協会」は、東京六大学内ですら意見が統一できず、成立しなかった。


『東京朝日新聞』1938年7月4日付

大学野球協会設立
   今一歩で又も流産
       理事選出方法に対立

 全国大学野球を統一する機関として、大学野球協会は既に発起人会を組織して実行に移る一歩前まで進展してゐたが、理事の選出に慶應野球部側から強硬な反対意見の提出を見てここに一大難礁に逢着し、創立委員側としては東大部長東博士を中心に種々打開策を講じたが双方の意見が根底から相違して居り遂に一致点を見出し得ず、屡々流産の憂目に会って来た全国野球民間統制団体結成の運動は今回も遂に陽の目を見ずに葬られる事となった。

 この協会設立委員側の持論としては既報の如く新協会の理事に各校野球部長の就任は監督される者が監督する立場にある事は統制団体の本質を失ふものであるとして部長以外の先輩関係者中から理事の選出を希望してゐるのに反し、慶應側としては、先輩団から学校を代表する理事を選ぶ事は困る、その理由は選手に良い影響を与へる者が先輩であると共に選手に悪い影響を与へたのも先輩であって見れば先輩を理事に選ぶ事は出来ない、学校の野球部である以上学校の代表者が理事にならねばならぬ云ふ此の両意見の対立となったものである。

 然も此の慶應恒松部長の意見翻意の為に協会設立者側としては槇慶大体育理事に協会の本質を詳述諒解を求める処あり槇氏もこれを諒とする処あったが慶應野球部の現状としては協会創立委員側の主旨を受け得ぬ状態にあるため此処に決定的な難点に乗り上げて遂に新協会設立運動は挫折するに至ったものである。

 これがために創立委員側特にこの運動の中心となった東大野球部関係者としては面目丸潰れとなったわけで東博士も「私の不徳と致すところである」と語って居り今後の収拾策を種々と考究中であるが野球統制機関が民間の手を離れ、強大な学生スポーツ監督官庁である文部省が新らしい態度をもってこれに乗出す模様である。

 大村一蔵氏談

 この問題に奔走した東大先輩大村一蔵氏は語る。

 槇前理事と会って懇談したのだが理解してもらったのに拘らず駄目だとあれば此の運動も望みのないものと見なけらばならぬ、百方努力しこれなら大丈夫と見究めを着けてトントンと話が進められ最後の一歩といふ所で理事の選出法で頓挫したのは実に残念だった、もう一歩慎重に、理事の選出方法を相談してかかったならば斯うした失敗はなかったらうと思はれる。”

理事の選出法をめぐって東大と慶大が対立したかのように書かれている。慶大の反対理由も屁理屈のようなものである。実は“全国野球民間統制団体結成の運動”は飛田穂洲が推進していた。早大OBの飛田が前面に出ると慶大などが反発するので、中立的な東大を前面に出したのであろう。対文部省対策としても、東大を立てることが有効と考えたのかもしれない。結局のところ、早大OBがヘゲモニーを握るのに反発した慶大側が潰しにかかった、というのが真相ではなかろうか。なお、「東大部長東博士」は東京オリンピック時の東京都知事、東龍太郎であり、野球統制令制定時に文部省の委員会の1人として関わっていた。

かくして、東都や関西の大学野球までも「統制」するはずの新団体は、東京六大学内ですら意見がまとまらず、戦前には「大学野球協会」の設立をみずに太平洋戦争となるのである。

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竹生島と北陸路面電車 ④ 帰路は飛騨高山経由で

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朝食はJR富山駅ホームの立ち食い蕎麦

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8:00発の特急に乗車

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紅葉と渓谷美が楽しめる絶景路線

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飛騨高山駅

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宮川朝市

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古い町並み

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観光地のど真ん中で産婦人科医院が開業中

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道の両側が造り酒屋 よほど水が良いんでしょうな

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町中の紅葉

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代官屋敷

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代官屋敷から国分寺へいく途中にある高級牛肉店「丸明」 レストランも兼営しているが・・・

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飛騨牛コロッケ150円を購入

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ツブツブが飛騨牛らしい

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国分寺

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菊花展をやってた

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三重塔

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大銀杏は全然黄葉してなかった

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「天狗」も高級牛肉店

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すぐそばでカレー・ショップも営業

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ビーフカレー1,600円

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隣の喫茶店の窓から宮川が見えた

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13:30発奥飛騨バス新宿行き

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ひとりだけシート 通常6,500円に2千円プラスで2人分の座席を独占使用できる 青森-東京の津軽号あずましーと(前後のピッチが広くて窓側1人席 カーテンつき)と同額の8,500円

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平湯温泉に向かう途中ではもう雪が

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平湯温泉で1回目の休息

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安房トンネルを過ぎ、野麦街道に入ると紅葉の絶景路線になる

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松本手前のりんご畑 松本ICから中央高速へ

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諏訪湖SAで2度目の休息 19:00に新宿到着

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竹生島と北陸路面電車 ③ 万葉線乗車記・富山県営渡船「海竜」乗船記・富山地鉄市内線乗車記

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特急サンダーバードで高岡へ

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高岡駅は新幹線開業に向けて工事中

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万葉線高岡駅 福井鉄道の福井駅前駅と違ってちゃんとした屋根がある

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時刻表 日中は15分間隔

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ご当地出身の藤子不二雄作品のキャラクター・モニュメントが道路の向こう側に

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2両編成のLRT車両がやってきた

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終点まで350円で1日乗車券が800円 3回乗ればモトがとれるので車内で購入

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高岡市内の路面地域を出ると臨海工業地帯へ

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路面電車としては長大な庄川鉄橋がある

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終点の越ノ潟駅

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駅のすぐ前が富山県営渡船発着場

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このあたりの地図

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トップ・へヴィーな印象の「海竜」 軍艦みたいな船名だ

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料金は無料 見晴らしのよい2Fへ

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富山新港内

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冠雪した立山連峰を背景にした新湊大橋 

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富山新港口にある紅白の灯台

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海王丸パーク

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対岸の堀岡に上陸

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橋上を車が走っているのが見えたが、徒歩用施設は未開通だった

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祭りの準備?

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再び渡船待合所へ

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時刻表 日中は30分間隔

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就航船の説明

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指名手配ポスター 昇竜チャイナ・パワーがこんなところにも

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海竜がやってきた

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2Fと1F駐輪室は吹きさらし 1F奥に風雨を避けられる部屋がある

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こんな感じで駐輪

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再び万葉線で新湊市内の新町口駅で下車 万葉線では平日を除いて、新湊出身の立川志の輔師の沿線案内録音を車内放送しているが、志の輔師がここで降りて寿司を食べて行ってくれと言っていたので下車してみた

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さすがに寿司屋が多い 寿司竹で地魚握り1人前2,500円 ここでも右端のカワハギが旨かった

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再び新町口駅で高岡行きを待っていると逆方向のドラえもんトラムがきた

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JR高岡駅舎からみた立山連峰

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鈍行で富山駅へ

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富山地鉄市内線は3系統ある

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富山駅前から南富山駅前行きに乗車

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西町駅で下車

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このあたりが富山の繁華街でアーケードの通りを進んでみる

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環状線の国際会議場前駅

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富山城がすぐそばに

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環状線のLRT車両がやってきた

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車内 万葉線と同じような感じ これにてミッション完了w

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再び富山駅前へ 駅前ビルにカターレサポステーションがあった

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駅前の飲み屋街で居酒屋を探す 日曜なので閉店の店が多い

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昨日当たりだったカワハギ刺がオススメにあったので、迷わず注文 またしても大当たり! 福井のカワハギはピンクがかった色だったが、ここのは真白 種類がちがうのかもしれない 肝がピカピカしている

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カレイの塩焼き どんどん混んできて常連さんをお断りしていたので、早目に退散

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富山ブラック・ラーメンを初めて食べた さすがにスープは飲まず

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宿泊した富山地鉄ホテルの真下が宇奈月や立山方面への電鉄富山駅

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竹生島と北陸路面電車 ② 福井鉄道乗車記

今、世田谷線沿線に住んでいて、ほぼ毎日路面電車に乗っている。ある雑誌の路面電車特集号を買ったら、北は札幌市電から南の鹿児島市電まで、ほぼすべてに乗っていて、未乗は北陸の福井鉄道、万葉線、富山地鉄市内線だけだった。地域的に固まっているので、竹生島の帰りに乗ってくることにした。

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長浜から鈍行で北陸本線に

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浅井氏の小谷城 近江を支配するには北に寄りすぎ 近江のど真ん中にあって琵琶湖水運と東海道・中山道・北国街道の陸運を掌握できる信長の安土城とは大違い 浅井氏は超ディフェンシヴなカテナチオ大名だったに違いない

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余呉湖 賤ヶ岳の古戦場はこのあたり

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敦賀駅で途中下車

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駅前の魚辻 阪神のキャッチャー故・辻佳紀氏の兄弟のお店

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当時阪神には辻恭彦(ダンプ辻)というキャッチャーもいて、辻氏はヒゲ辻と呼ばれていた

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フレディ・マーキュリー、トニーニョ・セレーゾを初めて見たとき、ヒゲ辻氏にそっくりだと思った

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さらに北陸線鈍行で武生へ

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駅近くの蕎麦屋「たかせや」

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蕎麦屋の昼酒

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おろし蕎麦

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福井鉄道武生駅はJR武生駅から少し離れたところに

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私が乗車した車両は2両編成のロング・シートだったが、クロス・シート車両もあるようだ

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福井市内まで専用軌道を行く 雪国らしく分岐器が凍結しないよう覆いがある

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専用軌道から路面軌道へ

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終点の福井駅前 武生と違って駅舎がなく、しょぼい屋根しかない 「弁当忘れても傘忘れるな」の土地柄なのに

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武生同様JR駅と少し離れているので、延伸計画があるようだが、地元商店街が反対している

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商店街側からみた福井鉄道福井駅前駅

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JR福井駅

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JR福井駅から福井鉄道方向をみたところ 延伸は難しそうだ

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吉田類の酒場放浪記に出てきそうな居酒屋へ 入口に「喫煙可の店である」と張り紙があった 愛煙家の客が多くて端の方にいたが、店主と客が「煙草を止めたとたんに癌になって死んだ奴」の話題で大変盛り上がっていた

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カニみそ豆腐

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名物と書いてあった鯵のたたき

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大変旨かったカワハギ刺 肝が新鮮で身も甘い 酒はウヨクっぽい名前の地酒「黒龍」の生

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白子ポン酢

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シメは駅の立ち食いそば 北陸らしくニシンそばがあった


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竹生島と北陸路面電車 ① 琵琶湖汽船「megumi」「RIO GRANDE」乗船記

未踏の竹生島、未乗船の琵琶湖汽船、日本の路面電車のうち未乗車の福井鉄道、万葉線、富山地鉄市内線を制覇する2泊3日の旅行に出かけた。

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早朝の新幹線に乗るために未明に出発

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品川で米原に停車する始発の新幹線に

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米原で乗り換え、長浜駅で下車

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琵琶湖汽船の竹生島往復切符 2,980円 琵琶湖汽船は鉄道開通以前からある名門会社

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往路乗船した「megumi」 2Fはデッキ

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隣に停船していた

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琵琶湖の伝統漁法「魞(えり)」

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前方の竹生島

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後ろの方が海津大崎? デトマール・クラマー氏は「日本で住むなら琵琶湖のほとりがよい」とおっしゃっていた さすがに目が高い

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桟橋から 拝観料400円払わないと先へ進めない

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西国札所でもあり、シルバー多いが、バリア・フリーではない

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三十番札所

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伏見城の遺構とか

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舟廊下

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琵琶湖汽船のモデル・コースは80分だが、30分で終了。80分だと往路と同じ船なので、復路は「RIO GRANDE」に乗船。

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船内

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さらば竹生島

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右舷に見える多景島(左)と沖島(右) 角度の関係で近いように見えるが、実際はかなり距離がある

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長浜城を模した博物館

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朝が早かったので朝食抜きで腹減った デッキにいて寒かったので暖かいものが食べたく、長浜港近くのうどん屋で

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肉うどん500円 値段の割りに肉もしっかりしていて、出汁も昆布が効いていた 久しぶりに関西風肉うどんを食った実感

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旧長浜駅舎 長浜は東海道線が開通するまで湖上水運と敦賀からの鉄道の連絡駅だった 

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長浜の古い町並み 北国街道の宿場町でもあった

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マンホールの蓋は豊臣家の馬印千成瓢箪

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豊国神社 

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駅前にある「三成、秀吉に茶を献ず」の像 後ろのバスは西武カラー

 


 


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丸の内御三家サッカー部の新聞初出

日立製作所

朝日新聞の聞蔵を「日立製作所&サッカー」、読売新聞のヨミダス歴史館を「日立製作所 AND サッカー」で検索したところ、朝日の方が古く、1935年3月18日付の以下の記事であった。

関東実業団蹴球第一日

第四回関東実業団蹴球大会第一日は十七日午前十時から東大球場で第一回戦の四試合を挙行、成績は左の通りである。

航空技術本部 3(3-0 0-1)1 興業銀行 
帝大小児科 2(0-1 2-0)1 航空研究所
日立製作所 7(3-0 4-0)0 東京記者団
日本鋼管 5(1-0 4-0)0 本郷ク”

新三菱重工

朝日新聞の聞蔵を「新三菱&サッカー」、読売新聞のヨミダス歴史館を「新三菱 AND サッカー」で検索したところ、読売の方が古く、1954年9月6日付の以下の記事であった。

“◇関西実業団サッカー二回戦勝者

大日本製薬、田岡染料、大阪府庁、新三菱重工、住友金属、大阪ガス”

1954年の全日本実業団サッカー選手権は9月(本年から5月から9月開催に開催時期変更)に松山市で開催。関西からは大阪ガス、湯浅電池、田辺製薬、大阪府庁が出場している。

古河電工

朝日新聞の聞蔵を「古河電工&サッカー」、読売新聞のヨミダス歴史館を「古河電工 AND サッカー」で検索したところ、読売の方が古く、1953年4月27日付の以下の記事であった。

“◇東京実業団サッカー二回戦(26日・神宮、大宮)
古河電工 2-2 日産化学▽千代田生命 3-0 千代田生命▽三菱化成 4-1 日立本社▽東京ガス 1-0 東芝府中▽三共製薬 4-3 東京海上▽ビクター・オート 1-1 三菱鉱業(抽せん勝)▽富士電機 棄権 日本油脂▽日本機械貿易 0-0 不二商事(抽せん勝)”

1953年の全日本実業団サッカー選手権大会は5月に藤枝で開催されており、その東京地区予選であろう。

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お祭り

近所の松陰神社でお祭りがあった。

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商店街入り口

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プチ時代祭のような

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ゆるキャラも

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松陰神社内

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恩讐を超えて呉越同舟

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萩の物産店も つい蒲鉾を買ってしまった


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オリンピックと『太陽の季節』

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女子ワールドカップ招致運動のポスターかと思ったらオリンピックだった。

前都知事が『太陽の季節』でデビューしたのは、オリンピック招致で東京がローマに敗れた1955年。

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映画『太陽の季節』では、映画のストーリーとは何の脈路もなくサッカー部員として登場。

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東京クラブがプロ化していたら・・・

1955年全国都市対抗サッカー選手権大会の開始とともに発足した東京クラブは、名称もチーム構成も戦前の都市対抗野球に第1回1927年から東京代表として11回連続優勝し、うち4回優勝した東京倶楽部の先例にちなんだのであろうことを、「東京倶楽部・東京クラブ」に記した。正力松太郎の肝煎りでプロ・サッカーを目指して発足したという東京クラブについては、松永碵「幻のプロサッカー秘話」以外にこれといった資料がなく、正力がどんな考えでプロ化プロセスを構想していたのかが不明である。

しかし、正力と読売は約20年前に野球のプロ化を経験しているので、サッカーのプロ化も野球のプロ化プロセスを踏襲することを考えていたはずである。

波多野勝『日米野球史 メジャーを追いかけた70年』(PHP研究所 2001)に以下の記載がある。

“鈴木惣太郎が市岡忠男と話し合って職業野球創設を図っていた時、当然イメージとして描いていたのはアメリカの大リーグだった。これに賛同した三宅大輔は、まず最強チームを一つ結成することだと主張した。これを毎年アメリカ西海岸に行かせて、パシフィック・コースト・リーグに参戦し、50試合をおこなう。このチームは夏に帰国し、秋は逆にアメリカチームを来日させて試合をする。この一方で、日本の各都市にプロチームを結成し、数年後に日本選手権をおこなうという案を示した。”(p.59)

実際、三宅案のとおり、1934年日米野球全日本チームを土台に、後に読売巨人軍となる大日本東京野球倶楽部が結成され、1936年プロ野球が始まるまで2度にわたってアメリカ遠征している。国内では、他にプロ・チームができるまで、都市対抗に出場するような実業団チームやクラブ・チームと試合している。

東京クラブも当時の在東京の日本代表クラスを集めた「最強チーム」として結成された。松永碵(東京教育大→日立製作所 日本代表)、長沼健(中央大→古河電工 日本代表)、大埜正雄(東大→日産化学 日本代表)、岩淵功(慶応大→東京トヨタ自動車 日本代表)など中心選手はみな大企業の大卒エリート社員だったし、当時のサッカー選手の目標はオリンピック出場だったから、プロ・サッカーができてもプロ入りするはずがなかったのであるが、仮に東京クラブがプロ・サッカー・チームになったとしよう。

野球の先例に習えば、まず「本場」で武者修行し、箔をつけることになる。1954年ワールドカップ・スイス大会で優勝したのは西ドイツだったから、西ドイツに長期遠征して適当なレベルの地方リーグに入れてもらう、というところだろうか(当時ブンデス・リーガはまだ存在していない)。

国内では、八幡製鉄、東洋工業、田辺製薬、日立本社などの強豪実業団や大阪クラブ、浦和クラブなどの強豪クラブ・チームと対戦し、各地域でプロ・チーム設立の気運を高めようとしたであろう。

読売新聞社が1955年に全国都市対抗サッカー選手権大会という全国大会をわざわざ新設したのも、1936年に誕生した日本プロ野球の選手供給源が、主として都市対抗野球で活躍した社会人選手だったからであろう。


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1931年の日米野球と野球統制令 ② 野球統制令とその影響

野球統制令

読売新聞社が東京六大学と米国大リーグ選抜チームとの日米野球を大成功させた翌年の1932年、文部省は野球統制令を発令する。『東京朝日新聞』1932年3月5日付によれば、大学野球に関する主要事項は以下のとおりである。

その他の事項

一、学生選手は全国的野球協会の派遣もしくはその公認せる場合につき学校長の承認ある際の他国外に遠征するを得ざること。

一、前記に掲げる各種試合の外、二校又はそれ以上の学校チームがそれぞれその学校所在地を離れて参加すべき試合は全国野球統制団体及び学校長の承認の下に行はれ得ること。

一、学校選手は営利宣伝を目的とする記事、広告、商品等に自己の名義、肖像等利用せしめざること。

一、学校選手は職業選手と試合を行ふを得ざる事。但し全国的野球協会及び学校長の承認ある場合はこの限りにあらざる事。

一、学校選手は旅費、宿泊費その他当然必要なる経費以外の謝礼を受けコーチ審判等を行ふを得ざる事。

一、学校選手たるの故を以て学校又は学校を背景とする団体より学費その他の生計費を受くを得ざる事。

一、優秀なる野球技術の所有者たるの故を以て入学の便を与へ又は学費その他の生活費を授くるが如き事を条件として入学者を勧誘せざる事。”

読売新聞社が1931年11月に東京六大学と米国プロ野球選抜チームとの試合を華々しく開催してから半年もたたないうちに、学生野球とプロ野球の交流戦は禁止されてしまったのである。「全国的野球協会」なるものは当時存在しておらず、それができるまでは文部省が直接監督することが予定されていた。

野球統制令は文部省の役人ではなく、文部省が設置した委員会によって審議された。『東京朝日新聞』1932年2月2日付によれば以下のとおり。

野球統制実現に先づ委員会設置
    文部省十七名に依嘱

 過般の体育運動審議会総会で合申のあった野球の健全なる施行方法について速かにその実現を期するため、右案の付帯事項に記載の趣旨に基き将来野球統制機関の実現を見るまで文部省自ら野球の統制に当ることとなったが、その諮問機関として野球統制に関する臨時委員会を設置することなり、左記十七氏に委員を依嘱することを内定。

安部磯雄、安藤狂四郎、芦田公平、東龍太郎、大村一蔵、小笠原道生、桜井弥一郎、飛田忠順、長与又郎、中野武二、西村房太郎、橋戸信、平沼亮三、槇智雄、前田捨松、宮原清、森巻吉”

17名のうち、飛田忠順(穂洲)は東京朝日新聞社嘱託、橋戸信(頑鉄)は東京日日新聞社正社員だった。マスコミ関係者はいずれも早大野球部OBのこの2名のみだった。中等野球では、全国的選手権大会と選抜大会は各1回ずつに制限され、それまで乱立していた毎日以外の選抜大会は開催不可能となった。野球統制令によって、朝日、毎日(東京では日日)の「既得権(中等選手権大会と選抜大会)」はしっかり確保され、逆に両社以外の新聞社が中等野球に参入することは阻止された。さらに、前年巨費を投じて六大学野球に食い込んだ読売を、学生野球から遮断した。当時日本にプロ野球チームはなく、「職業野球=米国職業野球」だった。野球統制に名を借りた朝日、日日の「読売潰し」ともとれる。

安部磯雄、芦田公平、平沼亮三は前年10月に読売新聞の全日本選手銓衡委員だった。“但し全国的野球協会及び学校長の承認ある場合はこの限りにあらざる事”は、読売の六大学対米国プロ野球戦に手を貸したこれらの人物が挿入させたのかもしれない。

正力松太郎は1935年2月25日暗殺未遂事件に遭遇するが、背後関係として新聞の拡販競争があるとの説があった。佐野真一『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀. 上』(文芸春秋 2000)によれば、

“最も有力だったのは、正力暗殺未遂事件の陰で糸を引いたのは、読売と敵対する東京日日新聞の販売幹部だったのではないか、との説だった。この説は裁判が進むにつれ、現実味を帯びていった。この事件の重要参考人として取り調べを受けた関係者の一人に、犯人の長崎が所属する武神会会長の熱田佐という男がいた。熱田は、大正十三年から東京日日新聞の販売店を経営し、その後東日の専属拡販団の指揮者として活躍していた人物だった。”(p.265)

正力が命を狙われてもおかしくないくらい新聞拡販競争が熾烈だったとすれば、野球統制に乗じて読売拡販の生命線だった日米野球を妨害するくらいは序の口だったであろう。

野球統制令の影響

1931年の日米野球の日本チームは東京六大学の個別チームとオール六大学からなる全日本チームだった。翌1932年の野球統制令により学生・プロ交流戦は不可能となった。

読売新聞社は1934年、ベーブ・ルースを含む前回に増して豪華メンバーの全米チームの招へいに成功した。野球統制令により現役学生は対象外となったので、対戦相手の日本側チームは、読売が大卒・中卒の社会人から編成した全日本チームと都市対抗野球東京代表の常連東京倶楽部に限定された。日米野球終了後の1934年12月、全日本チームを土台にした日本初のプロ野球チーム大日本東京野球倶楽部が発足する。国内にプロの対戦相手がないので、さしあたっては米国に遠征した。大阪タイガースなど他6球団が成立してプロ野球が始まるのは1936年である。

読売としては、前回同様、日本で最も人気のある野球チームである早慶をはじめとする六大学野球とベーブ・ルースを対戦させたかったところだったろうが、野球統制令の対象外である社会人チームを組織するしかなくなり、それがさらにプロ野球の組織化に発展する。野球統制令がなければ、1934年の日米野球も1931年と同じパターンで開催し、1930年代にプロ野球は誕生しなかったかもしれない。その意味で、野球統制令が日本野球のプロ化を促進したという側面もあった。

しかし、文部省が学校スポーツとしての野球のみが対象となる野球統制令により野球を「統制」し、学生・プロ交流戦を否定したことは、学生野球とプロ野球に大きな溝を作ることになった。それにともなって、「全国一元的野球統制機関」がプロ・アマを一元的に「統制」することを不可能にし、「全国一元的野球統制機関」そのものも存在しえなくなった。今日、日本サッカー協会がプロ・アマの区別なくあらゆるレベルのサッカーを「統制」しているのに対し、野球では日本野球機構(プロ野球)、日本野球連盟(社会人野球)、日本学生野球協会などを統括する上部野球団体はない。野球には日本サッカー協会のような全国一元的「統制」機関は存在しないし、歴史的経緯や新聞社同士の利害関係(高校野球の朝日・毎日、プロ野球の読売)によりこれからも存在しえないであろう。

今日の日本野球界の無統制状態を生み出したのは、実は野球統制令なのである。

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1931年の日米野球と野球統制令 ① 読売新聞社の東京六大学への食い込み

読売新聞社の東京六大学への食い込み

東京六大学野球は、朝日、毎日の「色」が付いた高校野球と違って、特定新聞社(マスコミ)の色はついていない。戦前、東京六大学野球はNHKラジオで全国実況され、現在のプロ野球なみの人気を誇った。神宮球場で東京六大学野球戦を主催することは、当時の新聞社にとって「かなわぬ夢」だった。その東京六大学野球に「日米野球」というアイデアで食い込んだのが読売新聞社だった。1930年、読売新聞社は早稲田大学野球部監督、市岡忠男を運動部長に招へいする。

翌1931年、ベーブ・ルースは参加しなかったが、ゲーリック、グローブなど一流選手が参加した大リーグ選抜チームの招へいに成功した。波多野勝『日米野球史 メジャーを追いかけた70年』(PHP研究所 2001)によれば、招へい交渉は困難を極めたが、正力松太郎が外務省の白鳥敏夫情報部長に面会して、ニューヨーク総領事を通じて交渉するという外務省ルートを使った。初戦の前日の11月6日には、若槻礼次郎首相が全米チーム、六大学野球連盟幹部、白鳥を首相官邸での茶会に招待している。

全米チームは以下のスケジュールで日本チームと対戦した。

1931年11月7日(神宮) 対立大 7-0
1931年11月8日(神宮) 対早大 8-5
1931年11月9日(神宮) 対明大 4-0
1931年11月10日(仙台八木山) 対全明大 13-2
1931年11月12日(前橋敷島公園) 対全日本 14-1
1931年11月14日(神宮) 対全日本 6-3
1931年11月15日(神宮) 対全日本 11-0
1931年11月17日(松本長野県営) 対全日本 15-0
1931年11月18日(神宮) 対慶大 2-0
1931年11月19日(静岡) 対法大 8-1
1931年11月21日(名古屋鳴海) 対全慶大 5-1
1931年11月22日(甲子園) 対早大 10-0
1931年11月23日(甲子園) 対全慶大 8-0
1931年11月24日(長府) 対八幡製鉄 17-8
1931年11月26日(甲子園) 対関大 7-2
1931年11月29日(横浜公園) 対全横浜 3-2
1931年11月30日(横浜公園) 対横浜高商 11-5

全17戦のうち、社会人の八幡と全横浜、地方の関大、横浜高商を除いてすべて東京六大学または東京六大学選抜の全日本チームとの対戦であった。読売新聞社は、神宮球場での4試合(7、8、14、15日)と地方の8試合を主催した。読売は「学生野球の聖地神宮球場で東京六大学野球戦を主催する」ことを実現したのである。計12試合の収支決算を1931年12月2日付『読売新聞』紙面で社告として公表している。

総収入:283,191円70銭
 内訳:神宮球場入場料 180,756円 甲子園球場入場料 67,435円70銭 名古屋他地方契約金 35,000円 

総支出:302,655円47銭
 内訳:ハーバート・ハンター氏(米国側エージェント)への支払金 244,153円90銭 神宮球場使用料 9,037円80銭 日本選手東京合宿費、地方出張旅費、神宮球場整理員手当 14,755円15銭 米国選手歓迎費、各種メダル参加章調整費 6,480円50銭 ポスター、立看板、パンフレット、宣伝ビラ、広告その他宣伝費 28,128円12銭

差引損失:29,643円77銭

読売新聞社としては、「興行」としては赤字だったが、新聞の拡販で元はとったはずである。でなければ、3年後に再度日米野球を開催するはずがない。   

全日本チームの編成は、現在のプロ野球オールスター戦のようなファン投票で候補選手を1次選考し、その中から銓衡委員会が投票で2次選考するという方法で行われた。銓衡委員会の顔触れは以下のとおりである。(『読売新聞』1931年10月6日付)

安部磯雄(六大学リーグ会長)
平沼亮三(六大学リーグ副会長)
芦田公平(六大学リーグ主事)
武満国雄(六大学リーグ常任幹事)
直木松太郎(六大学リーグ最高委員)
河野安通志(早大野球部総務)
腰本寿(慶大野球部監督)
岡田源三郎(明大野球部監督)
藤田信男(法大野球部監督)
永田康二(立大野球部代表)
小林悟一(帝大野球部代表)
市岡忠男(読売新聞運動部長)

「夢の日米対決」を名目に、読売は東京六大学リーグの幹部役員、各大学野球部の有力者との人脈づくりに成功したのである。

全日本チームのメンバーは以下のとおり。

投手:伊達正男(早大)、若林忠志(法大)、宮武三郎(慶大OB)、辻猛(立大)、渡辺大陸(明大OB)
捕手:小川年安(慶大)、久慈次郎(早大OB)、井野川利春(明大)
一塁手:山下実(慶大OB)、松木謙次郎(明大)
二塁手:三原修(早大)、吉相金次郎(明大)
三塁手:水原茂(慶大)、角田隆良(明大)、佐伯喜三郎(早大)
遊撃手:苅田久徳(法大)、富永時夫(早大)
左翼手:松井久(明大)、井川喜代一(慶大)
中堅手:枡嘉一(明大)、楠見幸信(慶大)
右翼手:堀定一(慶大)、永井武雄(慶大OB)
ピンチ・ヒッター:佐藤茂美(早大)、森茂雄(早大OB)
ピンチ・ランナー:斎藤辰夫(立大OB)、田部武雄(明大)

全27名中現役大学生20名、OB7名。現役学生が重視されていたことがわかる。2次選考で最高得票の11票を獲得したのは、伊達正男、若林忠志、小川年安、山下実、苅田久徳、松井久、堀定一の7名であった。ちなみに、1次選考の最高得票獲得者は久慈次郎で、124,836票であった。他に10万票以上を獲得したのは、松井久、枡嘉一である。

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1963年古河電工サッカー部の対外試合停止と代表活動

本業の業績不振による1963年古河電工サッカー部の対外試合停止については、『古河電工サッカー部史 日本サッカー界の礎を築いた人たち』(古河電工サッカー部OB会 2004) p.64-70 に記載されている。

“昭和三十八年に古河電工はサッカー部を含む『社技』に対して、ひとつの重大な決断を下した。

 一年間の対外試合停止。

 三冠達成からわずか二年後のことだった。”(p.65)

1963年といえば、東京オリンピックの前年にあたる。古河電工から日本代表に選抜されていた選手たちはどうしたのであろうか。上記部史はその点に触れていない。

1963年の日本代表は、オリンピック前年ということで、6~7月にヨーロッパ長期遠征、8月にムルデカ大会参加、10月に東京国際スポーツ大会参加、と休む間もなく代表強化試合を行っている。古河電工サッカー部からは、以下の選手たちが参加している。

ヨーロッパ遠征(10試合):保坂司、平木隆三、宮本征勝、鎌田光夫、八重樫茂生、長沼健(監督)
ムルデカ大会(6試合):保坂司、宮本征勝、鎌田光夫、八重樫茂生、長沼健(監督)
東京国際スポーツ大会(4試合):保坂司、宮本征勝、鎌田光夫、八重樫茂生、長沼健(監督)

会社の業績不振により部活動を自粛したといっても、まさか東京オリンピック前年に日本代表から選手・監督を引き揚げるわけにもいかなかったようだ。主力選手は代表で活動していたので、むしろレベルアップしたのかもしれないが、新人補強できなかったのがその後に響いたようだ。

“対外試合停止にともない、積極的に行われていた選手補強は縮小される。昭和三十九年、四十年は補強ゼロの年が続き、その後も大卒の即戦力はなかなか獲得できなかった。会社として、サッカー部の補強のために新入社員を取ることを自粛せざるを得なかった。”(p.67)

上記部史によれば、関東育ちの松本育夫氏(宇都宮大学付属中→宇都宮工高→早大)は古河電工入社希望だったが、古河が上記理由により採用できなかったので、全く地縁のない広島の東洋工業に就職したとのこと。東京オリンピック代表には大学生が6名いたが、1名も古河入りしていない。

横山謙三(立教大→三菱重工)
山口芳忠(中央大→日立製作所)
釜本邦茂(早稲田大→ヤンマー・ディーゼル)
小城得達(中央大→東洋工業)
杉山隆一(明治大→三菱重工)
森孝慈(早稲田大→三菱重工)

松本育夫氏だけでなく、小城得達氏も長沼健氏と同郷で高校、大学の後輩だから、古河入りしてもおかしくなかったはずである。1965年に発足した日本サッカー・リーグで第1回から東洋工業が4連覇するが、松本、小城が古河入りしていれば、全然別の結果になっていただろう。日本サッカー・リーグで古河電工が初優勝するのは1976年第12回だが、それまでの優勝チームは東洋工業、三菱重工、ヤンマー・ディーゼル、日立製作所で、すべて上記6名が入社したチームだった。

古河電工が本業の業績不振により「黄金世代」を補強できなかったことが、日本サッカー・リーグに長期にわたって影響したといえる。

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