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東京クラブがプロ化していたら・・・

1955年全国都市対抗サッカー選手権大会の開始とともに発足した東京クラブは、名称もチーム構成も戦前の都市対抗野球に第1回1927年から東京代表として11回連続優勝し、うち4回優勝した東京倶楽部の先例にちなんだのであろうことを、「東京倶楽部・東京クラブ」に記した。正力松太郎の肝煎りでプロ・サッカーを目指して発足したという東京クラブについては、松永碵「幻のプロサッカー秘話」以外にこれといった資料がなく、正力がどんな考えでプロ化プロセスを構想していたのかが不明である。

しかし、正力と読売は約20年前に野球のプロ化を経験しているので、サッカーのプロ化も野球のプロ化プロセスを踏襲することを考えていたはずである。

波多野勝『日米野球史 メジャーを追いかけた70年』(PHP研究所 2001)に以下の記載がある。

“鈴木惣太郎が市岡忠男と話し合って職業野球創設を図っていた時、当然イメージとして描いていたのはアメリカの大リーグだった。これに賛同した三宅大輔は、まず最強チームを一つ結成することだと主張した。これを毎年アメリカ西海岸に行かせて、パシフィック・コースト・リーグに参戦し、50試合をおこなう。このチームは夏に帰国し、秋は逆にアメリカチームを来日させて試合をする。この一方で、日本の各都市にプロチームを結成し、数年後に日本選手権をおこなうという案を示した。”(p.59)

実際、三宅案のとおり、1934年日米野球全日本チームを土台に、後に読売巨人軍となる大日本東京野球倶楽部が結成され、1936年プロ野球が始まるまで2度にわたってアメリカ遠征している。国内では、他にプロ・チームができるまで、都市対抗に出場するような実業団チームやクラブ・チームと試合している。

東京クラブも当時の在東京の日本代表クラスを集めた「最強チーム」として結成された。松永碵(東京教育大→日立製作所 日本代表)、長沼健(中央大→古河電工 日本代表)、大埜正雄(東大→日産化学 日本代表)、岩淵功(慶応大→東京トヨタ自動車 日本代表)など中心選手はみな大企業の大卒エリート社員だったし、当時のサッカー選手の目標はオリンピック出場だったから、プロ・サッカーができてもプロ入りするはずがなかったのであるが、仮に東京クラブがプロ・サッカー・チームになったとしよう。

野球の先例に習えば、まず「本場」で武者修行し、箔をつけることになる。1954年ワールドカップ・スイス大会で優勝したのは西ドイツだったから、西ドイツに長期遠征して適当なレベルの地方リーグに入れてもらう、というところだろうか(当時ブンデス・リーガはまだ存在していない)。

国内では、八幡製鉄、東洋工業、田辺製薬、日立本社などの強豪実業団や大阪クラブ、浦和クラブなどの強豪クラブ・チームと対戦し、各地域でプロ・チーム設立の気運を高めようとしたであろう。

読売新聞社が1955年に全国都市対抗サッカー選手権大会という全国大会をわざわざ新設したのも、1936年に誕生した日本プロ野球の選手供給源が、主として都市対抗野球で活躍した社会人選手だったからであろう。


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