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戦前は成立しなかった大学野球協会

1932年に発令された野球統制令は、「全国的野球統制機関」ができるまで文部省が監督を代行することになっていたが、全国的大学野球統制機関として構想された「大学野球協会」は、東京六大学内ですら意見が統一できず、成立しなかった。


『東京朝日新聞』1938年7月4日付

大学野球協会設立
   今一歩で又も流産
       理事選出方法に対立

 全国大学野球を統一する機関として、大学野球協会は既に発起人会を組織して実行に移る一歩前まで進展してゐたが、理事の選出に慶應野球部側から強硬な反対意見の提出を見てここに一大難礁に逢着し、創立委員側としては東大部長東博士を中心に種々打開策を講じたが双方の意見が根底から相違して居り遂に一致点を見出し得ず、屡々流産の憂目に会って来た全国野球民間統制団体結成の運動は今回も遂に陽の目を見ずに葬られる事となった。

 この協会設立委員側の持論としては既報の如く新協会の理事に各校野球部長の就任は監督される者が監督する立場にある事は統制団体の本質を失ふものであるとして部長以外の先輩関係者中から理事の選出を希望してゐるのに反し、慶應側としては、先輩団から学校を代表する理事を選ぶ事は困る、その理由は選手に良い影響を与へる者が先輩であると共に選手に悪い影響を与へたのも先輩であって見れば先輩を理事に選ぶ事は出来ない、学校の野球部である以上学校の代表者が理事にならねばならぬ云ふ此の両意見の対立となったものである。

 然も此の慶應恒松部長の意見翻意の為に協会設立者側としては槇慶大体育理事に協会の本質を詳述諒解を求める処あり槇氏もこれを諒とする処あったが慶應野球部の現状としては協会創立委員側の主旨を受け得ぬ状態にあるため此処に決定的な難点に乗り上げて遂に新協会設立運動は挫折するに至ったものである。

 これがために創立委員側特にこの運動の中心となった東大野球部関係者としては面目丸潰れとなったわけで東博士も「私の不徳と致すところである」と語って居り今後の収拾策を種々と考究中であるが野球統制機関が民間の手を離れ、強大な学生スポーツ監督官庁である文部省が新らしい態度をもってこれに乗出す模様である。

 大村一蔵氏談

 この問題に奔走した東大先輩大村一蔵氏は語る。

 槇前理事と会って懇談したのだが理解してもらったのに拘らず駄目だとあれば此の運動も望みのないものと見なけらばならぬ、百方努力しこれなら大丈夫と見究めを着けてトントンと話が進められ最後の一歩といふ所で理事の選出法で頓挫したのは実に残念だった、もう一歩慎重に、理事の選出方法を相談してかかったならば斯うした失敗はなかったらうと思はれる。”

理事の選出法をめぐって東大と慶大が対立したかのように書かれている。慶大の反対理由も屁理屈のようなものである。実は“全国野球民間統制団体結成の運動”は飛田穂洲が推進していた。早大OBの飛田が前面に出ると慶大などが反発するので、中立的な東大を前面に出したのであろう。対文部省対策としても、東大を立てることが有効と考えたのかもしれない。結局のところ、早大OBがヘゲモニーを握るのに反発した慶大側が潰しにかかった、というのが真相ではなかろうか。なお、「東大部長東博士」は東京オリンピック時の東京都知事、東龍太郎であり、野球統制令制定時に文部省の委員会の1人として関わっていた。

かくして、東都や関西の大学野球までも「統制」するはずの新団体は、東京六大学内ですら意見がまとまらず、戦前には「大学野球協会」の設立をみずに太平洋戦争となるのである。

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