« October 2013 | Main | December 2013 »

野球統制令における小学生の対外試合

先日のサッカー史研究会は清水市のサッカー、特に小学生サッカー史がとりあげられた。堀田哲爾氏が清水市の小学校に赴任された当時、小学生の対外試合は禁止されていたそうだが、いつ、なぜ禁止されたのかについては言及されなかった。

小学生の対外試合に関する文部省訓令は戦前に2件あって、いずれも『官報』に掲載されておるので、原文アクセス可能である。

1. 1926(大正15)年「體育運動ノ振興ニ關スル件​」(文部省訓令第3号)
2. 1932(昭和7)年「野球ノ統制竝施行ニ關スル件」(文部省訓令第4号) 

「體育運動ノ振興ニ關スル件」においては、初等、中等、高等教育を区別していないし、対外試合に関する具体的禁止事項もない。

6年後の野球統制令「野球ノ統制竝施行ニ關スル件」では、競技を野球に限定、初等・中等・高等教育を区別して、各レベルにおける禁止事項が規定されている。小学生の対外試合に関する規定は、

“一 小学校ノ野球ニ関スル事項

一 小学校ニ於ケル野球ハ之ヲ校内児童ノ間ニ行ハシムルヲ旨トシ対外試合ニ熱中スルガ如キ弊ニ陥ラシメザルコト

ニ 児童ヲ対外試合ニ参加セシムル必要アル場合ハ左記ニ準拠スベキコト

 (一) 対外試合ノ開催ハ左記ニ依ルコト

  イ 同一府県内ニ存スルニ校間ノ試合ハ関係学校長ノ協定ノ下ニ開催セラルルモノタルコト

  ロ 同一府県内ニ存スル三校以上ノ学校ガ参加スル試合ハ参加学校長ノ承認アル場合ニ限リ左記ニヨリ開催セラルルモノタルコト

   1 参加学校ガ同一郡、市、区、町、村内ニ存スル場合ハ夫々当該郡、市、区、町、村ノ体育団体ニ於テ主催スルコト

   2 参加学校ガ前記ノ範囲ヲ超エ且ツ同一府県内ニ存スル場合ハ府県体育団体ニ於テ主催又ハ関係郡市ノ体育団体ノ共同主催ノ下ニ当該府県体育団体ノ公認ヲ受ケテ開催スルコト

  ハ 参加学校ガ府県ヲ異ニスル試合ハ参加学校長ノ承認アル場合ニ限リ関係府県体育団体ノ協定ニヨリ開催地ノ府県体育団体主催ノ下ニ開催セラルルモノタルコト

 (ニ) 試合参加ノ為児童ヲシテ宿泊セシメザルコト

 (三) 試合ハ総テ之ヲ学業ニ支障ナキトキニ行フベキモ対外試合ハ土曜日ノ午後又ハ休業日ニ限リ行ハルルコト

 (四) 対外試合ニ出場スル児童ハ尋常小学校第五学年以上ノ児童ニシテ父兄ノ承認並学校医ノ健康証明アル者ニ就キ学校長之ヲ選定スルコト

 (五) 児童ヲシテ「クラブチーム」ノ試合ニ参加セシメザルコト

 (六) 対外試合ニ於テ同一児童ガ一日ニ行フ試合回数ハ一回ヲ原則トシ止ムヲ得ザル場合ハ二回行フモ妨ゲザルコト

 (七) 試合ニ要スル経費ハ当該試合ノ主催者ニ於テ負担スルコト

 (八) 試合ノ主催者ハ入場料又ハ参加料ヲ徴収シ若ハ営利宣伝等ニ利用セラルル処アル寄贈品、寄付金ヲ収受セザルコト

 (九) 対外試合ニ於テハ応援団ヲ組織セザルコト

 (十) 試合ノ主催者ハ一切使用球ヲ指定セザルコト

三 野球ノ指導ハ当該学校職員主トシテ之ニ当リ特ニ指導者ヲ招聘セザルコト

四 野球ニ関シ特ニ後援会等ヲ組織シ又ハ其ノ支援ヲ受ケザルコト”

「一」は原則で、「校内児童ノ間ニ行ハシムルヲ旨トシ」と原則として対外試合は行わないとしている。小学校においてすら「対外試合ニ熱中スルガ如キ弊」があったようだ。

「ニ(一)」:仮に対外試合を行う場合でも学校長の承認、各地域の公認体育団体の主催を定めている。これは新聞社や野球用具メーカー(特に軟式球)主催の野球大会を排除しようとするものである。

「ニ(ニ)」:遠距離宿泊遠征の禁止。実際にあったから禁止事項となったのであろう。

「ニ(三)」:平日開催の禁止。小学生大会を平日に行った例もあったようだ。

「ニ(四)」:学齢制限。5年生以上に限定。4年生以下が出場した大会があったようだ。

「ニ(五)」:「クラブチーム」への出場禁止。野球ではすでに戦前に学校の枠を超えた小学生のクラブチームがあったらしい。

「ニ(六)」:ダブル・ヘッダー、トリプル・ヘッダーへの出場禁止。ダブル・ヘッダーまでは見逃してもらえた。

「ニ(七)」:父兄負担もあったことを示唆している。

「ニ(八)」:小学生大会で入場料・参加料を徴収していたこと、新聞社や野球用具メーカーの商業主義的利用があったことを示している。

「ニ(九)」:小学生大会に応援団があったらしい。

「ニ(十)」:使用球指定の禁止。小学校に関する野球統制令の「本命」は野球用具(軟式球)メーカー主催大会の禁止であったことを示している。使用球指定ができなければ、野球用具メーカーが野球大会を開催するメリットはなくなる。

「三」:教員以外の人物の関与禁止。

「四」:小学生の野球にも後援会があったらしい。

背景には、1930年代前半における小学生レベルでの野球の過熱とその商業主義的利用があった。問題は野球の過熱に対して訓令された野球統制令が、さほど過熱もしていないし商業化もしていない他の競技、例えばサッカーにまで準用され、野球統制令が廃止された1947年以後にもその影響が残ってしまったことにあるといえよう。


【関連リンク】

1931年の日米野球と野球統制令 新聞社戦争としての野球統制令
中等学校に関する野球統制令 新聞社戦争としての野球統制令

| | Comments (0)

仙台から高山へ ②高山で干支人形を買う

Cimg4832

Cimg4833

名古屋駅から「ワイドビューひだ」に乗車。

Cimg4835

岐阜城。

Cimg4836

犬山城。

Cimg4839

Cimg4840

Cimg4844

Cimg4722

渓谷美を堪能して高山に到着。

Cimg4723

さっそく高山陣屋そばの真工芸に行ったら、なんと臨時休業。

Cimg4846

駅前の土産店で未~亥をまとめて購入できた。

Cimg4429

以前から毎年高山で1つずつ購入していた子~巳とあわせて十二支全部が揃った。

Cimg4725

Cimg4726

Cimg4727

見事に黄葉していた国分寺の大銀杏。

Cimg4728

駅前のビジホの近くの居酒屋に。

Cimg4729

白子ポン酢。

Cimg4730

「すくなかぼちゃ」のかき揚げ。

Cimg4731

おでん。

Cimg4732

「燗酒」という名の地酒があったので、当然燗で。

Cimg4733

漬物。

Cimg4735

朴歯味噌。

Cimg4734

「久寿玉」の冷や。

Cimg4738

新宿行きバスで帰路に。

Cimg4736

Cimg4737

平湯温泉あたりは積雪も。

Cimg4739

安房トンネル入り口。

Cimg4740

R158名所。奈川渡ダムの堰堤上国道。

Cimg4741

ダムの下流側。

Cimg4744

Cimg4746

Cimg4747

Cimg4748

梓川沿いにダムを見ながら。

Cimg4749

松本電鉄と並行。

Cimg4750

諏訪湖SA。

Cimg4751

Cimg4752

Cimg4753

おやきの昼食。

Cimg4754

富士山が見えた。

| | Comments (0)

仙台から高山へ ①太平洋フェリー「きそ」乗船記

高山へ行くついでにフェリーに乗ろうと思った。名鉄海上観光や伊勢湾フェリーはアプローチが長いわりに乗船時間が短いので、太平洋フェリーにしてみた。

Cimg4755

東京駅から「はやぶさ」に乗車。

Cimg4756

安達太良山?

Cimg4757

仙台で途中下車。

Cimg4758

「伊達の牛タン」で昼食。

Cimg4759

地下の仙石線に乗車。

Cimg4760

多賀城駅で下車。

Cimg4761

徒歩でフェリー・ターミナルへ。まだ瓦礫が。

Cimg4762

臨港鉄道の踏切を渡って右折。

Cimg4765

信号を左折した先が目的地。

Cimg4767

長いボーディング・ブリッジを通って乗船。

Cimg4768

インフォメーションでキーを受け取り。

Cimg4771

Cimg4772

特等船室へ。

Cimg4773

Cimg4774

室内。

Cimg4775

Cimg4776

バスルーム。

Cimg4777

売店に行って。

Cimg4778

ビール等を購入するのが恒例。

Cimg4781

コップと一緒に冷蔵庫で保冷。

Cimg4779

粉末のお茶も用意されてるが。

Cimg4780

あまりおいしくないので、一保堂の緑茶ティーバッグとモンカフェ、マグカップを持参。

Cimg4782

部屋でうだうだしてるうちに出航。

Cimg4784

Cimg4785

デッキに出てみる。見事な快晴。

Cimg4787

伊達政宗の三ケ月の兜を模した灯台が復活していた。

Cimg4788

松島方面。

Cimg4789

Cimg4790

部屋のバスで一風呂の後、ビールと仙台駅で買ってきた石巻の笹かまぼこで。

Cimg4791

14:00から総合テレビのセレッソ対サンフレッチェをTV観戦。

Cimg4792

Cimg4793

Cimg4794

Cimg4795

「いしかり」との反航。

Cimg4796

ティーラウンジでピアノ演奏が始まった。

Cimg4797

ラウンジの大画面TVでもセレッソ戦をやっていたので、ピアノを聴きながら観戦。結局セレッソが勝って首の皮一枚つながった。

Cimg4798

翌日の伊勢湾ランチ・クルーズのため50分早着予定とのこと。そのせいか福島第二原発を目視できる沿岸航路。

Cimg4799

福島第一原発まで目視できた。大震災後名古屋-仙台航路に2回乗船したが、原発が見えたのは初めて。

Cimg4801

夕食バイキング。昼の牛タンに続いてステーキのニクニク攻撃。

Cimg4783

Cimg4802

BSでやっていた名古屋対柏のどうでもいいカードはパスして、ピアノとマリンバのコンサートへ。ショパン、シューベルト、サンサーンスなどのクラシック曲もあった。

Cimg4806

翌朝。早起きしてれば日の出が見れたようだ。

Cimg4807

伊良子岬。

Cimg4808

神島。

Cimg4810

朝食バイキング。

Cimg4811

Cimg4812

名古屋港内へ。

Cimg4813

Cimg4814

Cimg4815

自動車運搬船の3連チャン。さすが名古屋だ。

Cimg4818

Cimg4819

Cimg4821

名港トリトンをくぐった先に。

Cimg4823

名古屋港フェリーターミナルがある。

Cimg4824

ラムサール条約に登録された干潟。

Cimg4826

下船後。

Cimg4827

Cimg4829

干潟沿いの道をまっすぐ歩き。

Cimg4830

突き当りを右折すればあおなみ線が見える。

Cimg4831

野跡駅から乗車して名古屋駅へ。

| | Comments (0)

1885年3月1日大阪での「フートボール」運動会

『大阪朝日新聞』1885(明治18)年2月28日付広告欄に以下がある。

Cimg4482

“フートボール運動会

会場 難波御倉前 牛馬会社
時日 三月一日午後一時より
会費 いらず 雨天 やめ
        フートボール沈会”

難波御蔵は江戸時代の米蔵で、後に大阪球場を経て現・なんばパークス。


大きな地図で見る

「牛馬会社」については、『大阪朝日新聞』1882年5月3日付に以下の記事がある。

“難波御蔵跡の東手にある牛馬会社に於て広やかなる馬場を新設し各地の有志者が共同して本月二十日より三日間大競馬会を催し由定て見物なるべし”

「競馬会」も開催している。運送業者だったのだろうか。

| | Comments (0)

島倉千代子の家

阪神タイガースのスラッガー藤本勝巳と島倉千代子夫妻の家は甲子園三番町にあった(A地点ではない)。


大きな地図で見る

私の母校春風小学校の道を隔てた東側には村山実の家もあった。どちらの家も前まで行ったことがあるが、「スター」にしてはこじんまりとした家だった。

上甲子園には南海の野村克也の家もあったが、藤本や村山の家よりずっと大きかったと記憶している。

上記地図の範囲外だが、西宮市内には釜本邦茂の家もあって前まで行ったことがある。こちらの家もこじんまりしてたが、プロ選手ではなかったので意外感はなかった。

県道340号線には、国道2号線上甲子園から分岐した国道電車と呼ばれていた阪神電鉄の路面電車が走っていて、終点の浜甲子園の近くには甲子園南運動場があったことになっている(太平洋戦争中に海軍に接収)。

| | Comments (0)

ミニ・トリップ 流鉄流山線とmAAch

Cimg4455

常磐線馬橋駅

Cimg4456

Cimg4459

流鉄流山線といっても他に路線があるわけではない。2両編成で全部カラーが異なるのは世田谷線と同じ。

Cimg4457

Cimg4458

車内。

Cimg4460

Cimg4461

Cimg4462

あっという間に終点の流山駅。全線6駅で190円。初乗りは120円。

Cimg4465

Cimg4466

Cimg4464

流山唯一の名所。近藤勇陣屋跡。

Cimg4468

Cimg4469

旧街道沿いの古い商店。

Cimg4470

再び流山駅。車庫。

Cimg4472

単線。

Cimg4471

今度はオレンジ色。

Cimg4473

馬橋から上野経由秋葉原へ。万世橋とmAAch入口。

Cimg4474

神田川。

Cimg4475

Cimg4476

甲武鉄道の始発駅だった頃の万世橋駅付近の模型。

Cimg4477

室内から神田川をのぞむ。

Cimg4478

室内に煉瓦壁も。

Cimg4479

神田川の反対側。


| | Comments (0)

第4回(1874-75)FAカップ優勝チームRoyal Engineersはパス・サッカーの元祖

The FA Cup Archiveで1871-72年に始まったFAカップの全試合結果を見られる。初期の強豪チームにRoyal Engineersがあり、第1回(1871-72)、第3回(1873-74)で準優勝、第4回(1874-75)では優勝している。

Royal Engineers Association Football Clubは現在も活動しており、英国陸軍のサッカー・リーグMassey Leagueで2012-13シーズンは7チーム中3位。HPのHistoryによれば、1863年のFA結成メンバーで、チーム創設年はFAと同じ1863年、今年は創立150周年にあたる。英国陸軍工兵隊のサッカー・クラブである。

WikipediaにもRoyal Engineers A.F.C.として記載されている。FAカップ優勝イレブンは以下のとおり。

Capt. W. Merriman; Lt. G.H. Sim; Lt. G.C. Onslow; Lt. R.M. Ruck; Lt. P.G. von Donop; Lt. C.K. Wood; Lt. H.E. Rawson; Lt. R.H. Stafford; Lt. H. W. Renny-Tailyour; Lt. A. Mein; and Lt. C. Wingfield-Stratford.

全員陸軍大尉または陸軍中尉の階級をもつ陸軍工兵士官。うち4名はWikipediaに略伝があるが、パブリック・スクールを経てウールウィッチの王立陸軍士官学校(Royal Military Academy)卒という経歴の人が多いようだ。1870年代のFAカップ優勝チーム、ワンダラーズ(ハローOBチーム)、オールド・イートニアンズ(イートンOB)、オックスフォード大と同じ出身階層ということになる。

チャーチルの伝記を読むと、パブリック・スクールの劣等生が士官学校に進学したらしい。チャーチルはハローからサンドハーストの士官学校(兵科は歩兵・騎兵 ウールウィッチは砲兵・工兵)の騎兵科に進学した。

Wikipediaによれば「コンビネーション・ゲーム」のパイオニアでパス・サッカーの元祖らしく、以下の記述がある。

“The early accounts all confirm that the Engineers were the first club to play a passing game of cooperation and organisation with both their forwards and their defence. Although they could also play rough—as would be expected for an army team—The Engineers are the first side to be considered to play the football "beautifully"”.

「美しくサッカーをした最初のチーム」とのこと。

| | Comments (0)

日本最初のフットボール事故入院者は田辺朔郎?

先日明治13年に死亡した海軍兵学校生徒浅田亨が日本最初のフットボール事故死者ではないかという記事を書いた。→日本最初のフットボール事故死者?

琵琶湖疏水の設計・施工で著名になる工部大学校学生田辺朔郎が在学時代フットボール事故で入院したと自ら記した文章があるので紹介する。

田辺朔郎「工部大学校運動記事」『旧工部大学校史料・同附録』(旧工部大学校史料編纂会編 青史社 1978 虎之門会昭和6年刊の複製)

“拝啓陳者過日古川阪次郎氏の認められた工部大学校の運動の記事中に小生の名前も出て居りますから左に記憶を述べます。

 バーと云ふ先生は明治十一年来朝同十四年帰国され簡易な製図の受持であって運動に尽力されました。クリッケト、シンテーも盛んであった。フートボールでは一方のキャプテンはバー先生で一方のキャプテンは当時運動の達人鈴木録之助(採鉱)であって私は鈴木君の下にバイスキャプテンであった。ボールは手に持つことは禁じてあって、バー先生と鈴木君のボールの飛躍は抜群であった。或るとき私は足先を蹴られて挫かれた為に三週間病院へ入院した事がありました、此の怪我以来私はあまり運動場へ行かなくなりました。”(附録 p.166)

ボールは手に持つことは禁じてあって”とあるので、よりサッカーに近いフットボールだったようである。

「古川阪次郎氏の認められた工部大学校の運動」とは同p.136-140に掲載された「工部大学に於ける運動其他」で、フットボールと田辺に言及した部分は以下のとおり。

“・・・一番流行ったのはクリケットで次にフートボールであって、主としてバーが運動の教師でした。それから私の組と、其の上の組と、又其の上の組と三つの組合があった。それで私の方は何と云ふか、たしかフォアメントと云ふか、ヘットメントと云ふか、一寸五人組の頭みたやうなものでした。それから上の組の頭が玉木弁太郎君及田辺朔郎君であったと記憶して居るが、玉木君は丈が高い(後には肥ったが)ので、フットボールの時分には、いつでも玉木君がゲートキーパーであった。”(p.137)

古川阪次郎は後に鉄道院副総裁。田辺の琵琶湖疏水はトンネルで苦労したが、古川も難工事の笹子トンネルに携わった。玉木弁太郎も鉄道技師。

GKがいるので、やはりサッカーに近いフットボールであるということができる。工部大学校は明治11年~明治14年にサッカーに近いフットボールを行っていたようである。課外ではなく、「体操」の時間中に英国人教師が指導した。

海軍兵学寮(校)は築地に、工学寮(工部大学校)は虎ノ門にあって、ともに指導者はおそらく築地に居住していた英国人。同じ競技をやっていたら対校戦をやってもよさそうだが、対校戦をやるほど競技レベルが高くなく、フットボールのルールも共通でなかったのかもしれない。

海軍兵学校の最上級生は長期の航海実習があり、工部大学校も最上級生は工場や工事現場に長期実習に出るので、上級生から下級生へのフットボール「伝習」はできなかった。卒業すれば海軍士官、即戦力エンジニアになったので、勤務先ではフットボールどころではなかったであろう。


|

高山の干支人形

Cimg4429

毎年晩秋時に高山に真工芸の干支人形を買いに行っている。代官屋敷近くにある真工芸まで行けば十二支をまとめて買えるし、楽天なんかでも入手できるが、6年続けて高山まで行って翌年の干支を買ってきた。

先日新宿発高山行きのバスに乗り損ねる失態を犯したので、今月中に高山に行くことにした。仙台経由でw

| | Comments (0)

« October 2013 | Main | December 2013 »