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『水戸高等学校蹴球部史』におけるチョー・ディン

水戸高等学校は、茨城県出身の実業家内田信也の寄付100万円によって1920年開校した。体育指導者は、これも内田の援助によって米国留学していた岡部平太が招聘され、岡部の指導により1周400m、直線200mのトラック、それとは別に野球グラウンドのある全国屈指の運動施設を有する高等学校となった。

『水戸高等学校蹴球部史』(水戸高等学校蹴球会 [1999])によれば、1921(大正10)年夏、竹腰重丸の紹介でチョー・ディンがコーチに訪れたことが記されている。同年東京高等師範学校附属中学卒の中島道雄が2回生として入学した。

“この年の夏、ビルマから日本に留学していたチョー・ディン氏がサッカーのコーチに水高にみえた。木村康一(2回)はつぎのように記している。「ア式蹴球部は一応石川講師を部長に練習し、夏には山口高校の名手竹腰重丸君案内で東京高工(現東京工大)のビルマの留学生モン・チョー・ディン君を案内して来水した。ビルマは当時英領であった為めかイギリスの競技ア式蹴球に関しては日本の先輩であったが、それにしてもそのサッカー技は驚くべきものであり、時には裸足で我々生徒のスパイクサッカーシューズの間を縫って球を運ぶ身軽さ、キック、シュートの正確さ、強さに驚かされ、競技運び、作戦等も教えられ、大いに得る所があったが、そのコーチを受けた他の高校もサッカー技の向上に益したことである」(「旧制水戸高等学校のア式蹴球部の草創」『蹴球会誌』復八)。

 チョー・ディン氏について、島田秀夫(14回)は次のように記している。「チョー・ディンは大正九年ビルマから来日した東京高等工業(現在の東京工大)の留学生三人の内の一人でサッカーの外陸上競技のジャンプにも秀でていた。当時ビルマは英国の植民地であったのでサッカーは英国流の本場のサッカーであることは勿論。このチョー・ディンが早稲田でコーチの後、付属中学に来て(というより東京高師のグランドでといった方がよいかも知れない)本腰のコーチを始めたようだ。これが縁で春山さん(当時中学五年)や真鍋さん等の付属の選手たちも真剣に取組んだようだ。ここでチョー・ディンはコーチをしながら「How to play Association Football」という小冊子を書いている。チョー・ディーン(ママ)がこの本を世に出す(大正十二年)に当っては春山さんや真鍋さん等も神楽坂の下宿につめかけ翻訳に当ったり協力これ努め写真取りのモデルにもなっておられるのである」(「春山さんの一年祭に出席して」『蹴球会誌』復一〇)。”(pp.8-9)

木村康一は府立四中OB。島田秀夫は東京高師附中OB、水戸高を経て東北帝大卒、三菱重工勤務。JFA第7代会長

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