新聞社に運動部ができたのは
1918年2月17日名古屋市鶴舞公園で開催された新愛知の蹴球大会は「本社運動部の催し」であったと記事に記載されている。1918年当時すでに新愛知新聞社には運動部があったことが確認できる。
大正時代に部数100万部を超えた当時の2大紙『大阪朝日新聞』と『大阪毎日新聞』はどうだったか。
朝日新聞百年史編修委員会編『朝日新聞社史 資料編』(朝日新聞社 1995)の年表の「大正12年(1923年)」の項に、
“3.1 大朝編輯局に運動部(部長東口真平)・東朝の計画部に運動課(課長小高吉三郎)を新設”(p.496)
とあり、1923年3月1日付で大阪朝日新聞社編輯局に運動部、東京朝日新聞社計画部に運動課が設置されている。3月15日には『アサヒスポーツ』が創刊。同年5月には第6回極東選手権大会が大阪で開催されており、関西地方はスポーツ・ブームだった。
なお、『朝日新聞社史 資料編』の「大正11年1月現在の東京朝日新聞社の機構図」(p.22)では、「編輯局ー社会部ー運動競技係」という系統で、運動セクションが「係」として独立していたことを確認できる。同「大正15年7月1日現在の大阪朝日・東京朝日機構図」(p.23-24)では、東京朝日も「編輯局ー運動部」となっており、1926年までに東京朝日の運動課は運動部に昇格している。
大阪毎日新聞社編『大阪毎日新聞五十年』(大阪毎日新聞社 1932)の「本社の運動史」の章に以下がある。
“大正十一年、本社野球団は一月に新に明大の岡田源三郎氏、京一商の柳橋朝太郎氏を加へ、腰本氏を主将として、二月台湾に遠征、四月東上し、再び早に敗れたが、慶、明を破り、五月に至り北川一士、菅井栄治両氏の入社と森氏の除隊の上に高浜茂、村上彦次両氏の参加を得て北海道に遠征し、八月再び満州に転戦し、十一勝、二敗の好成績をもたらし、十月関西遠征中の早大を鳴尾に破った後、三宅大輔氏と退営した鈴木氏を加へて東上し、駿台、慶應に敗れたが、稲門、早大、運動協会に勝った。かくて十一月には来朝した米国職業野球団と戦うて奮闘した。その結果は敗れたけれども、彼等から「本邦随一」の讃辞もって酬いられた。
同時に木下博士は大阪医科大学を辞して入社し、運動課長として、兼ねて野球団を監督することになり、ここに本社運動課は独立した。”(p.408)
大阪毎日新聞社運動課の成立は1922年、初代課長は木下東作であった。
小野秀雄著『大阪毎日新聞社史』(大阪毎日新聞社 1925)の「第六章 現今の本社」によれば、編輯局内に「運動課」が記載されている(p.160)。また、その「東京日日新聞社の部」には「運動課長・・・弓館芳夫」がある(p.165)。1925年当時、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社ともに運動セクションは「部」でなく「課」だった。
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