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浜離宮恩賜庭園

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新橋から汐留を通って入口に。

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道を隔ててスポーツ商業化の御本尊が鎮座ましまする。

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枝ぶりの良い松。

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池は潮入り、海水。

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このあたりが庭園のメイン。

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池に浮かぶ鴨。

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まわりはビルだらけで富士山は見えません。

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登ってみました。

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庭園の南側。堤防の向こうは隅田川。

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ユリカモメ。

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水門。干潮なのか庭園側から水が退いてました。

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水上バス乗り場。浅草方面に行けます。

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水上バスが入ってくるところ。

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将軍は船で来たらしい。

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鴨場。

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高橋忠次郎『新式女子遊戯法 : 理論実際』(榊原文盛堂 1904)の「フートボール」

東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大学)校長だった高橋忠次郎には、酒詰謙之助との共著になる『新式女子遊戯法 : 理論実際』(榊原文盛堂 1904)という著作がある。本書には「フートボール遊戯」という項があり、円陣フートボールを紹介している。

本書が東京女子体操音楽学校の教科書として使用されたかどうか、『藤村学園七十年の歩み : 東京女子体育大学沿革小史』(藤村学園 1972)、『藤村学園八十年のあゆみ』(藤村学園 1983)、『 藤村学園100年のあゆみ : 東京女子体育大学・東京女子体育短期大学』(藤村学園 2002)を調べたが、不明である。

本書も書名に「実際」とあるように、口絵写真の「高等遊戯団」の人々に実演してもらったのだろうか。「1904年東京女子体操音楽学校には「フートボール」があった。」に記したように、『東京朝日新聞』記事には同校にフートボールがあったので、それを使用して「フートボール遊戯」が行われた可能性は大きいと思われる。

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高橋忠次郎『実験普通遊戯法』(榊原文盛堂 1901)はなぜ4-3-3なのか

高橋忠次郎『実験普通遊戯法』(榊原文盛堂 1901)の「アッソシエーション式競技法」のフォーメーションが4-3-3であるのはなぜか。

その理由として考えられるのは、上記図書のサッカーには「オフサイド」に関する記述が見当たらないことである。「演技規則」にも「演技上の用語」にもオフサイドに相当する記述、用語がない。高橋の指導により日本体育会体操学校(現・日体大)関係者が「実験」したのが、オフサイドなしのサッカーだとすれば、2-3-5のピラミッド式は非合理的だと気づいたのかもしれない。

1925年のオフサイド・ルール改正(オフサイドの緩和)により、2-3-5(2バック)からWM(3バック)になり、戦後4-2-4、4-3-3(4バック)、さらには最近の5バックと、一貫して「前」を薄く、「後」を厚くしてきたのがサッカーのフォーメーションの歴史だ。オフサイドなしなら、2-3-5からいきなり4バックにしてもおかしくない。

高橋が「実験」の中から直感で4-3-3を独創・考案したとすれば、それはそれでスゴイことかもしれない。

なお、坪井玄道『戸外遊戯法』(金港堂 1885)の「フートボール」にはオフサイドに関する記述がある。→第六条

また、実質的に中村覚之助が著した、東京高等師範学校フットボール部編『アッソシエーションフットボール』(鍾美堂 1903)には「第十章 「オフサイド」に関する諸規則」がある。さすがに「筋目」の東京高等師範学校は、オフサイドについてわざわざ1章を設けている。フォーメーションは2-3-5である。

日本で最初にサッカーをしたのはどこの誰かを特定するについては、「オフサイドの有無」をどう解釈するかが重要になろう。

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東京女子体育大学の創立者・高橋忠次郎の『実験普通遊戯法』におけるサッカー

現・東京女子体育大学の創立者高橋忠次郎は1901年に『実験普通遊戯法 上巻』を著している。

本書の「フートボール」にはラグビー式アッソシエーション式の両方が紹介されている。普及状況にも言及していて、

“ラグビー式は本邦学生間に行はれず唯横濱なる外人等の行ふのを見るのみなりしなり。而してアッソシエーション式は従来本邦の諸学校に於て行ふ競技法なり。然れども正式なる規則に拠らずして行ふを常とす。”(p.86-87)

と記されている。手を使わない「サッカー式」のフットボールは普及していたが、正式のアソシエーション・ルールでの試合は行われていなかった。本書の7年後に刊行された東京高等師範学校校友会蹴球部編『フットボール』(大日本図書, 1908)の「我が国のフットボール」の記述、

“さて明治十一二年頃に体操伝習所でやってゐたフットボールは、我が国各地方に弘まったやうであるけれども、その法式は種々様々である。思ふに伝へ伝へて行く内に、誤って伝へ、或は自分勝手に法式をたてたものもあらう。これまで各地で行はれて居るのを見ると、実に千態万状であるが、多くは只徒にボールばかりあって、使ひ途を知らず、一つのボール追うて、数百人が押し合ふやうな乱暴な事をしてゐる。”(pp.13-14)

と一致している。

谷釜了正「明治30年代の体操学校ラグビー : 高橋忠次郎の『実験普通遊戯法』の分析を中心に」『日本体育大学紀要』 16(1) 1986.9 pp.1-12 によれば、書名の「実験」は実際にプレーしたことを意味しており、口絵写真に掲載された日本体育会体操学校(現・日本体育大学)関係者が実際にプレーしたとのことである。谷釜は1899年に始まった慶應義塾のラグビーに先立って日本体育会体操学校でラグビーが行われた可能性を指摘している。

ということになれば、サッカーも、1902年頃始まった東京高等師範学校以前に、日本体育会体操学校でプレーされていた可能性があるということである。「明治45年(1912年)5月11日の東北(みちのく)ダービー」で記した、仙台一中のサッカー指導者・伊藤運治、荘内中のサッカー指導者・磯部房治は日本体育会体操学校卒だった可能性もありえよう。

本書で紹介されているサッカーで最も興味深いのはそのフォーメーションで、なんと4-3-3なのである。

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「演技者の班別及配置」でも、

城門守(Goal Kedper) 一人 先頭班(Forward) 三人 中央班(Half Forward) 三人 後尾班(Full Back) 四人

と明記されている。

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リアヌ・ミケルスに先立つこと70年! 高橋忠次郎は天才的サッカー戦術家だったのかもしれない。

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1904年東京女子体操音楽学校には「フートボール」があった。

『東京朝日新聞』1904(明治37)年7月1日付

女子運動倶楽部の設置

下谷区谷中真島町一番地なる東京女子体操音楽学校にては今回一般女子の体育を奨励するの目的を以て女子倶楽部なるものを同校内に設置し希望者は何時にても入会して毎日午前九時より午後六時左記備へ付けの器械を使用し随意に運動し得ることとせり。因に同校は高燥閑静の地にあり且四顧緑林に包まれ居れば夏期の運動場には好適地なりといふ。
備付運動機械 運動?? ○クロッケー○ホッケー○自転車○フートボール○ロンテンス○??○玉突○室内遊戯”

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東京女子体操音楽学校は1902年創立の現・東京女子体育大学。『藤村学園七十年の歩み : 東京女子体育大学沿革小史』(藤村学園 1972)には、

“高橋忠次郎が山崎周信にかわって設立者となる以前において、校舎は小石川区上富坂町から同区茗荷谷へ、さらに麹町区飯田町へと二度転じ、設立は交代の手つづきと同時に、また茗荷谷に戻ったが、明治三十七年六月二十四日、校舎はまたしても下谷区真島町に移転した。”(p.27)

とあって記事を裏付けている。

創立者高橋忠次郎については掛水通子「高橋忠次郎に関する歴史的研究(1) : 東京女子体操音楽学校の創立者として」『東京女子体育大学紀要』 (14) 1979.3 pp.6-23に詳しい。1900年欧米留学した坪井玄道の女子高等師範(現・お茶の水大学)の後任となった、坪井の後継者的人物。女子高等師範講師に就任する前は香川県師範学校教員であった。

同じく、掛水通子「明治後期における私立東京女子体操音楽学校卒業体操科教員の実態について: 『諸學校職員録』、 『中等教育諸學校職員録』 を手懸かりに」『東京女子体育大学・東京女子体育短期大学紀要』(43) 2013.3 pp.27-41 によれば、高等女学校では女子高等師範卒の教員は兼任での体操の授業を嫌がり、全国各地で東京女子体操音楽学校卒の体操専任教員(給与は女子高等師範の2/3だった)が採用されていた。p.34の卒業生勤務先の表には1906年時点で丸亀高等女学校にも「菊地こう」が助教諭心得として勤務している。p.31の表によれば、「菊地こう」は宮城県出身で1905年東京女子体操音楽学校卒。

高橋忠次郎の後継者藤村トヨは香川県坂出町出身、高等女子師範を病気中退して故郷で静養していたところ丸亀女学校教員となり、1904年東京女子体操音楽学校教員となる。トヨの妹近沢ヨネは丸亀高等女学校から東京高等女子師範学校に進学、卒業後東京女子体操音楽学校教員となっている。

丸亀高等女学校・香川県は女子体育の先覚者と強固な人脈があったのだ。

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東京湾フェリー「かなや丸」乗船記(2回目)

高校サッカー選手権1回戦を滝川二高が突破すれば本日近所の駒沢で2回戦を観戦する予定だったが、あえなく1回戦で敗退。天気がいいので、昨日金刀比羅宮初詣したばかりで、今年の初乗船は東京湾フェリー。

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品川駅で先に来たのは千葉行きだったので内房線から。富士山が見える。

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浜金谷駅で下車。

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フェリー・ターミナルから富士山とタンカー。

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富士山と灯台。

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富士山と「かなや丸」。初春らしい写真が撮れてよかった。

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「かなや丸」に乗船。恒例、いわしハンバーグとビール。

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東京湾観音。

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鋸山。

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東京湾上から富士山。

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富士山と「しらはま丸」。

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反航する「しらはま丸」。

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久里浜港フェリー・ターミナル。

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みなとじぞう。

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ペリー上陸碑。

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パナマ運河がなかったので、えらく遠回りしたらしい。

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ペリー公園の前の海岸通りは「ペリー通り」。虎ノ門ヒルズの下をくぐって虎の門病院の前を通るのはマッカーサー道路。

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平作川河口に架かる「開国橋」。

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JR久里浜駅からスカ線で帰宅。

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金刀比羅さんに初詣

今年あたり琴平の金刀比羅宮に初詣に行ってみようと、12月31日のオレンジフェリーの予約状況を見たら、特等Aはかなり前に満室だった。

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というわけで、今年も虎ノ門へ。

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丸亀藩京極家の屋敷跡。

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「無病息災、航海安全」を祈願しました。


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