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前田純一「短命に泣く南甲子園運動場」『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部 1983) p.47

短命に泣く南甲子園運動場

           前田純一(阪神電鉄株式会社監査役)

 私の記憶にして誤りがなければ私が初めてサッカー大会のお世話をしたのは私が京都大学在学中の大正14、5年のころではなかったかと思う。当時大阪高商の学生であった田辺治太郎君の紹介である。その後阪神電鉄に入社して甲子園南運動場の建設に関係し、続いて運営をも所管するようになったのでいわば二重の関係者として戦争で大会が中止となるまで20年近くもお世話を通津k手た次第であります。

●破天荒の大設備

 大体今甲子園といっておるところは、もとの枝川の廃川地で、枝川は国鉄の鉄橋の南で武庫川から分流しておった。そして更に今の球場の西で申川というのが分かれていた。元来阪神間の川は常にカラカラで大雨が降るとドッと水が流れて武庫川などもよく氾濫した。そこで兵庫県では本格的な大改修を計画し、そのため枝川、申川を廃川とし、その払下代金を本流の改修費に当てることを大正10年に県で議決しておった。しかし枝川は長さ35町、申川は12、3町、総面積約22万5千坪、これを一まとめに売ろうというのだがなかなか買手が見つからない。大正の末は電鉄事業も丁度近代産業としての脱皮期に当り意気壮んな時代でヨシそれを一手で阪神で引受けようということとなり住宅地経営や運動場遊園地といったリクレーション・センターとして総合経営を計画することとなった。当時阪神はお粗末ながら鳴尾に総合運動場を持っておったりして比較的重役の頭も進歩しておったものと思える。

 かくして甲子園の第一施設として出来たのが大正13年8月、当時としてはまさに破天荒の大設備を持つ野球場であった。

●国際試合も開催

 第2弾として計画されたのがこの甲子園南運動場であたかも昭和3年の夏でしたが当時社内にはこういう競技をやった人が少なかったので入社間もない私が多少かじっておるというので研究するよう命ぜられた。

 初め球技と陸上別々の案も作ったが土地の経済とか運用管理の利便等から考えると矢張り総合グラウンドがよかろうということとなり一応最高度の国際公式試合が出来るということを目標として研究しました。当時関西にあったのは築港の市立運動場と京都の下賀茂植物園であまり参考にならない。京大からドイツの文献など借り出して来て社内でディスカッスしたりなんかした。全国唯一の近代競技場は大正13年に出来た神宮外苑競技場だが御承知の通り一周400米のトラックの中へ投擲場や跳躍場やラグビーやサッカーを無理矢理押込んだような形で、その上スタンド、グラウンドが行け行けで整理がつかず色々欠点の目立つ競技場であった。あれやこれや考えた挙げ句結局の案は、まずトラックは一周500米、コーナーを半円形とせず三心円としてカーブをゆるくし球戯場を収まり易くする。サッカーグラウンドとして75米X119米、ラグビーグラウンドとして75ヤードX110ヤード、跳躍の砂場はトラックとスタンドの中間に設ける。すなわちフイルド外に出るから球技の邪魔にならない。スタンドの前面は地上2米の高さとし、かつ大きな弓形をして砂場を抱へ込む。これでいずれの競技も相互に妨げられることなくグラウンド全体が非常に見易くなり、場内整理も非常に便利がよかった。鉄筋コンクリートの観覧席は定員2万人、当時の旧阪神パークや水族館のすぐ北で海岸に近く、バックストレッチは松林を越して鳴尾の競馬場が眺められた。スタンド内には貴賓室、集会所等の外、宿泊の設備もあった。昭和4年2月16日起工、5月22日に竣工した。昭和4年5月26日に秩父宮殿下と妃殿下を迎え開場式を行った。

●10数年でスポーツの華閉じる

 それまで野球場を借りたりしておったフットボールの大会はここに初めて自分のしかも当時本邦無比といわれた本格的競技場を持ったわけである。斯くて十数年スポーツの華はけん爛として甲子園の地に咲いた。幾多の大試合、幾多の国際試合がここで行われた。これは文字通り枚挙に暇がない。しかし、この競技場の生命は永くはなかった。昭和18年4月旧阪神パークや水族館と共に海軍航空当局の要請に一切を委ねるまで14、5年の運命であった。

 海軍省の薄暗い廊下で1人の主計少佐は立ったまま阪神パーク、動物園、水族館、南運動場の敷地諸施設の一切合財を三百数十万円で買収しますと内訳も言わず、全くの丼勘定で当時事業部長であった私に言い渡すとスタスタ消えて行った。私は涙も出なかった。”

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