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田中澄江「サッカーと私」『中央公論』82巻7号通号957号 1967年6月号 pp.307-308

なでしこの活躍いらい、日本における女子サッカーの歴史にも関心が集まっているが、興味深い文献があったので紹介したい。著者の田中澄江(1908-2000)は成瀬巳喜男監督『流れる』、『めし』などで知られる女性脚本家。1908年生まれなので、通学した豊島師範附属小学校でサッカーをしたのは1910年代後半になる。豊島師範にサッカーを伝えたのは1909年に東京高師を卒業し同校に赴任した内野台嶺。後藤健生氏の『日本サッカー史 資料編』によれば、1902年生の鈴木重義(早稲田サッカーの始祖、1936年ベルリン・オリンピック代表監督)も豊島師範附属小学校でサッカーを始めたとのこと。田中澄江は鈴木の6年後輩になる。Wikipediaによれば、川島芳子は小学校の同級生。「東洋のマタ・ハリ」も元祖なでしこの1人なのかも・・・


サッカーと私

       田中澄江
          (劇作家)

 もう大分前のこと、京都へゆく汽車の食堂で、えんじのスエーターを着た青年をとりまいて、署名を求めている乗客たちを見た。青年の隣には妙齢の女人などもいて、ボーイに聞くと、国鉄の金田だという。とたんにわたくしは、国鉄も派手ねえと連れにむかって言ったものだ。その時、国鉄の年末ストライキが終ったばかりで、多分闘争委員長なのだろう、ストライキがうまくいったので、ああして勤労少年、少女らしい乗客が、サインしてもらっているのだろうと思ったのである。

 野球は嫌いだ。娘時代にたった一度、早慶戦なるものにつれいかれてこりごりした。万余の観衆の前で、一つかみの人間が、小さい小さいボールを棒にぶつけたり、走ったりころんだりしている。気長な陣取りごっこのようで、何ともしん気くさい眺めだった。野球にくらべれば、ホッケーもラグビーも動きが鮮かでおもしろいが、怪我でもしたらと心配がつきまとう。豪壮で広大で、かつ技の繊細なるを積み重ねて得点に至り、ゴールキーパー以外に手をつかわぬという制約が、その戦法に優雅な武士のたしなみを匂わせて、観る者の心を魅了するのは、サッカーに如くはないと思っている。

 大昔、わたくしはサッカーの選手だった。と言っても女の子の体操の時間に、先生にねだって、男の子のすなるものを、女の子にもさせてたべとたのんだのである。

 アソシエーション・フットボールと言った。ふだんは蹴球と呼びならわし、体操の時間に、先生が大きなボールをかかえて来て、屋内体操場のデッドボールの線の中に押しこめようとすると、「せんせえ、外へいってしゅうきゅうをさせて下さあい」と叫んだ。

 蹴球はよい。背が高いからたいていゴールキーパーにされる。何しろ、広い運動場のはじからはじまで見わたしてプレーできるのがよかった。ゴールを背にして立った時、まさに天下二分の戦いの野に臨む気持ちで胸がはずんだ。はるかなるセンターラインをめぐって戦いの火ぶたがきられると、球は転々東へ西へ。追うひと追われるひと、ころぶひと、走るひと、女の子だからそれにきゃあきゃあの声がかぶさって、勝っても負けても見ているだけで賑やかな眺めがおもしろいのである。しっかりとかがんばれとか叫んだりとんだりしているうちに、戦域はあわただしくゴールの前にせまる。わがジャンプの腕を見よとばかり、身構えして待つ間もなく、相手のシュートきまって、ボールはみごとにゴールイン。わたくしはがっくりと尻餅。それでも悔はないのである。

 試合開始とともに全員の動きのままに、自分も動いている。攻め手になり、守り手になればその動きはさらに活発で、ボールとともに広い運動場のすみからすみまで走りまわる。この運動場の大きさが、勝敗を越えて快感だけを残すのであろう。

 わたくしのいっていたのは、豊島師範の附属小学校で、本校は青山師範、高等師範と並んで、東京の蹴球界の花形であった。

 この一年、NHKで、青少年向けの「風のある街」というテレビドラマを書いた時、わたくしは舞台が蹴球のさかんだった神戸なので、女の中学生のチームづくりをその筋の発展にしたいと思った。新任の女教師にヘッディングをやらせたり、勉強のできない子をシュートの名人にして、学業にも自信持たせたりと、いろいろ考えたが、スタジオドラマで、とても練習場面ができないとのことで、二、三回してやめてしまったら、神戸女学院に本当の女の子のチームができたという。もう少し書きつづければよかったと残念だった。

 オリンピックで日本チームが活躍した時はうれしかった。新聞の運動欄は野球など見たこともないが、サッカーだけは、ていねいに読む。

 テレビの前で、森だの杉山だの釜本だのと、知ったかぶりを連発すると、家のものが、にやにやする。日頃は運動など、自分でやるもので、ひとのやるのを見てのぼせているものの気が知れないと言い通しなのである。でもサッカーだけは見ていることが自分の運動にもなるという説を持っている。

 なお、もとの高師、いまの教育大付属を出たお嬢さんに聞いたら、やっぱりここでも体操の時間に、女の子たちが好んでサッカーをやったそうだ。”

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アンリ・ルソー「フットボール」

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1931年12月10日午後6時半NHK第二放送「今シーズンの蹴球について」

1931年の大学リーグ戦一部は12月5日終了。

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『東京朝日新聞』12月10日付「けふの放送番組」

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番組案内もあり。

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東京帝大がリーグ戦5戦全勝で6連覇。対明大9-1、対農大2-1、対一高8-0、対慶大4-1、対早大3-1と総得点26、総失点4、5試合で得失点差+21。2位慶大、3位早大との直接対決も完勝。番組内容は東京帝大の強さに終始したのではないだろうか。

日本におけるサッカーの初放送は、1年前、1930(昭和5)年12月28日南甲子園運動場における東西大学1位対抗戦、京大対東大戦だった。→「日本(NHK)と英国(BBC)のサッカー初放送

試合中継以外にサッカー評論番組もあったのだ。出演した山田午郎については、「日本最初のサッカー・ジャーナリスト、山田午郎」を参照されたい。


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弦巻通りの藤棚が満開

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街路樹のハナミズキも満開。サツキはこれから。

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東山新吉「フットボール」

東山新吉「フットボール」『コドモノクニ』9(5) 1930.5 pp.10-11

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『東京朝日新聞』における「サッカー」の使用

「サッカー」という語は1926(大正15)年から大阪毎日新聞が使用」、「東京日日新聞も1926年から「サッカー」を使用」に記したように、大阪毎日新聞と東京日日新聞は1926年から一貫してアソシエーション・フットボールを「サッカー」と表記するようになる。

一方、東京朝日新聞はどうかというと、アソシエーション・フットボールの表記に一貫性が見られない。1929年1月7日付の旧制高校インターハイ決勝の記事では「サッカー」が使用されている。

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見出しは「接戦後早高優勝 全国高校サッカー」、本文中の大会名は「全国高校サッカー大会」。

ところが、前日1月6日付の準決勝の記事では、

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見出しは「六高早高残る 全国高校ア式戦」、本文中の大会名は「全国高校ア式蹴球大会」。同じ紙面には大阪毎日新聞主催の全国中等学校蹴球大会の記事もある。

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見出しは「サッカー第一回戦」、本文中の大会名は「全国中等学校蹴球大会」。両記事は広告をはさんで並んでいる。

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ア式の名称を「蹴球」と統一 大日本蹴球協会理事会『東京朝日新聞』1929年7月18日付」に記したように、同年7月17日に大日本蹴球協会はアソシエーション・フットボールを「蹴球」と表記するよう決定するが、決定に参加した理事の1人山田午郎は東京朝日新聞のサッカー記者である。

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ア式の名称を「蹴球」と統一 大日本蹴球協会理事会『東京朝日新聞』1929年7月18日付

ア式の名称を「蹴球」と統一 
       大日本蹴球協会理事会

大日本蹴球協会理事会は十七日午後六時から吉川、野津、井染、中島、鈴木、竹腰、山田の各理事出席の上協会事務所に開かれた。先般の理事会において本年度選手権大会に関しては決定を見たので続いて準備を要する第九回極東選手権大会のわが代表チーム選出方法について各自忌憚のない意見を交換していよいよ来るべきシーズンの各チームの情勢を考慮して最善の方策を樹でることになった。尚近来アッソシエーション・フットボールの略称としてア式蹴球、サッカー、ソッカーといふ様に不統一な名称が使用されてゐるのを改めてアッソシエーションと原語のまま呼称せぬ限りは単に「蹴球」の邦語を使用せしめることを申合せ全国的に徹底せしむることになった。この他二三協議を重ねて十時十分散会した。”

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なお、大日本蹴球協会『会報』昭和四年十月 臨時号(1929年10月)の「理事会報告」(p.82-83)には、以下が記されている。

“七月十七日

(1)~(3) <略>

(4) 従来蹴球ヲア式蹴球、サッカー、ソッカート略称シ居ルヲ爾今「蹴球」ト呼ブ事ニ決定ス。”

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川上四郎「フットボールの修繕」

川上四郎「フットボールの修繕」『少年倶楽部』23(4) 1936.4

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工藤孝一「我国蹴球の起源」『国際写真新聞』(76) 1934.9 p.45

我国蹴球の起源

        工藤孝一

 今から凡そ一千三百年の昔、天智天皇が蹴鞠中誤って靴を脱せられ、これを傍で見て居た藤原鎌足が、拾ひ申し上げたと云ふ話は、我々が小学校の歴史で習ったこと。

 この蹴球遊びは恐らく当時支那から伝ったものであろうが、現今用ひられて居るやうな空気の入った円い球が、我が国に輸入されたのは明治初年、欧米人が続続来朝してその文化を紹介した頃であらう。

 明治廿二年、欧米より帰朝した我運動界の先輩坪井玄道先生の指導に依って、東京高師附属小学校で初めて此の球を用ひて両軍に分れて盛んに蹴ったと云ふ話であるが、ただ今行はれて居ると同様な競技が、ハッキリ伝へられたのは明治卅八年、東京高師に於けるデハビランド氏を以て嚆矢とすべきだらう。

 引き続き卅九年四十年と師範学校方面に広められ此処数年間、東京高師は相当の強さを誇った。又此頃、第八高等学校にも外人教師が居て蹴球部を創設し、高校としての最も古い歴史を作った。

 然し当時の蹴球は、単に敵陣へ球を蹴飛ばすキック、アンド、ラッシュと、ドリブルのみに依るもので、今から考へれば甚だ幼稚なものであったが、大正十年秋大日本蹴球協会の設立を見、同年の上海に於ける第五回極東選手権大会出場に依って初めてパスと云ふ事を覚えたのである。

 そして当時隆盛となりし師範系チームが、未熟ながらもロングパスの歩みを取るやうになったが、これと前後してビルマ人チョー・ディン氏から初めて理論的基礎技術とショートパスの妙味を教へられ、その流れを汲んだ早大鈴木重義氏に依って同校が、最初のショートパス・チームとして台頭し、大正十三年の第一回東京学生リーグの覇者となる。これに対し関西でロングパスを取れる関学チームが愈々その強味を現し大正十四年秋から此の長短両戦法の異れる特色を持つ二チームの興味ある定期戦が開かれた。

 昭和二年夏、マニラに於ける第八回極東大会に日本代表として出場したショートパス早大チームが、初めて比島を破って第二位とあんり、我国蹴球界に一つの燭光を与へたが、一方古き歴史を持つ高校蹴球にはぐくまれた諸名選手が東京帝大に集中し竹腰重丸氏の科学的蹴球黄金時代となる。爾来数年間、この科学的ショートパスが斯界を風靡し、大正十五年から六ヶ年間、東大王座を死守するの驚異的記録を作り、昭和五年東京に於ける第九回極東大会優勝を絶頂とした。

 七年の産業合理化時代には、能率主義チームプレーの慶應、八年にはファッショの時代の波に乗れるファイトの早大と覇権は移り、今又第十回極東大会に敗れたのは遺憾である。”

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最初の協会批判記事 ウィリヤム・フェーゲン「蹴球協会と台覧試合」

ウィリアム・フェーゲン(William P. Miller Fegen)は大正時代の数少ないサッカー本である『ア式フットボール』(東京刊行社 1925 中学生運動叢書)の著者でもある。『附属中学サッカーのあゆみ』(東京高等師範学校附属中学蹴球部六十周年誌編纂委員会 1984)に竹内至「ウィリアム・フェーゲンさん(笛源氏)」がある。べらんめえ口調で日本語が堪能だった英国人。歯に衣を着せず、協会の「学(高師)閥」を批判している。

1922年英国皇太子訪日時に御前サッカー試合が企画されていた」で記したように、1922年4月22日付『東京朝日新聞』記事では英国皇太子供奉艦ダーバン号乗組員対東京蹴球団の試合が企画されていたが、勤務先がバラバラな東京蹴球団ではなく、東京高師の試合が実施され、東京高師は1-8で屈辱的大敗を喫した。エドワード皇太子の台覧は実現しなかったようである。

ウィリヤム・フェーゲン「蹴球協会と台覧試合」『野球界』12(11) 1922.8 pp.132-133

蹴球協会と台覧試合

          東京タイガース
              ウイリヤム、フェーゲン
 

本誌の六月号に井染君が書かれた如く四月二十二日に横濱公園で敬愛するプリンス、オヴウェールズ殿下の供奉艦たるダーバン号のティームと謂ゆる全関東の猛者と当時の新聞紙に見苦しくも公衆一般に誤伝された東京高等師範学校の選手諸君とのア式蹴球試合がはわれた。其の結果高師側は無惨にも八ゴール対一の大敗を蒙った。

 態々横濱迄行って大敗して帰京された高師の諸君はさぞかし無念であったらう。殊に今日迄勝負に殊更に重きを置き、其れが為に世論の反感を被って余儀無く東京蹴球団から去らなければならなく無った高師の諸君には此の大敗は苦しかったらうと信ずるのである。

 真実の運動家精神から云へば勝負は何でも無い。粗暴なプレイをして勝った所で何になるか? 其れよりも潔く綺麗に(キザを意味するのでは無い)最後迄奮戦して負ける側こそ真の勝者である。兎角勝敗に偏し過ぎる本邦の一般の運動家諸兄に不肖乍ら此の点に関して御塾考下されん事を御願ひ致し度い次第である。

 此の試合に関して蹴球協会に一言を呈し度いのである。萬一の台覧(プリンス、オヴ、ウェールズの)を仰ぐ可能性のあった此の試合に日本、少なくも関東を代表するに高師の如き貧弱な且つ不評判のティームを選出したのは何故であったらうか? 如何に高師の先輩が蹴球協会にて何事に於ても専横の振舞を行って来たとは云へ、且つ当協会を高師の御用協会として本邦のア式蹴球の為めに真に熱心なる者の為めに「有形無実」の機関と迄嘲笑される様な愚な協会とは云へ、本邦のア式蹴球を萬一英国の皇太子殿下に御紹介申上げるに関東に於て最も拙劣なるティームに数へられて居る高師を斯かる重要な意義を有する試合に選出したのは何故であったか? 女の腐ったのよりも虚栄心に高い者が多数決を利用否濫用して斯かる挙に出るとは蹴球協会は寧御醜球協会に改名した方が宣しからう。

 よしや東京蹴球団の諸君が散在せる為め、且つ時日の切迫の為め間に合はなかったにせよ、間に合ふ丈けの蹴球団の選手と略ぼ同様に、否以上に広く多くの学校の選手を会員とする東京タイガースとの聯合軍を組織する様に御尽力なされた方が蹴球協会の御聡明なる幹部諸氏に善策の様に考へ得なかったのか? 如何にユニフォームが統一せずとも且つ如何に互ひに始めの数分間だけは共同作戦が左程理想的に行ひ得なかったにせよ、双方共に可成多年の経験を有するメンバーを有する故コンビネーションを得るに左程に困難では無かったらう。然して少くも高師の試合振りよりは遙かに卓越したものを見物人に示す事が出来得た事と確信するのである。

 然して、之が不可能であった場合は、高師よりも技量の卓越したティームでは青山師範アストラ倶楽部等があるではないか?

 何れにせよ、蹴球協会は大失態を演じた。過去を何時迄も責めるのは運動家的で無いとは云へ、現在の幹部連が今尚当時の如く己が拙劣な出身校たる高師を斯様な重大な意義を有する試合に選出する偏波な思想を抱く以上蹴球協会は高師系の数を他校と略ぼ均衡する迄は協会として如何なる事業を企んとしても其は必ず失敗に帰す事は明白である。換言すれば高師のア式蹴球に対する信用は現在に於て零である以上時代錯誤の高師系も下劣極まる野心、虚栄心、専横振をサクリファイスして、蹴球協会に於ける席を現代的且つ一般に信望のある新進好蹴家諸君に譲与されんことを衷心より切望して止まない次第である。此の理想が成就せば小生は安心して蹴球協会の事業の発展する様諸君等と共にベストを尽くして、英国蹴球協会が寄贈された彼の美事なシルヴァーカップ(銀盃)に籠れる精神に対して聊かでも酬い得る様にしたいのである。

 然し、蹴球協会が今日の如く彼のカップの精神が侮辱する幹部連に依て経営されつつある醜球協会である間は、只だ只だ正義と諸君の御援助とに訴へる他には何等途は無いのである。”

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東京日日新聞も1926年から「サッカー」を使用

大阪毎日新聞の系列紙、東京日日新聞も1926年からサッカーという競技名を使用している。

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『東京日日新聞』1926年1月5日付

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『東京日日新聞』1926年1月8日付

大阪毎日新聞は1926年当時120万部以上を発行する日本唯一の新聞社であり、東京日日新聞も1923年の関東大震災による被害を奇跡的に免れ、1924年には前年に倍する発行部数を記録していた。1926年大阪毎日・東京日日両紙は日本最大新聞系列であり、その影響力は大変大きかったと考えられる。

←「大正期における大阪毎日新聞の成長とスポーツ・イベント」
←「「サッカー」という語は1926(大正15)年から大阪毎日新聞が使用

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大正時代には「肥満法」の本がありました

現在ダイエット本は山ほどありますが、大正時代には「肥満法」の本がありました。

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阿部武雄著『速成強健簡易肥満法』(日本体育研究会出版部 1920)

“金融等の如き際も、其の依頼者が痩者であると、先方の眼に映ずる貧弱だと云ふ事が直に信用と云ふ事に関する。やれ保証人が如何の損保がどうのと却々七六ツケ敷い。所が肥者は先づ其の肥った身体其のものが信用される。故に条件も比較的難無く通過する事を度々見聞する。又、痩者が人を訪ねる場合等も、其の訪問先が未知の人であったりすると、主人公在宅中であるにも関はらず玄関子の勝手な取扱から不在であるなどと云はれて玄関払ひを喰はされる事などもある。其処へ行くと、偉風堂々四辺を払ふ程の肥者だと先づ第一の関門たる玄関子を無事に落城させる事は受合である。”(p.7)

なーるほど!!

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著者肖像。金を貸したくなる、居留守は使われない・・・

「やせる」というキーワードを書名に含む最も古い本は、古川砂洲男、 松村勲著『痩せる健康法』(日本文芸社 1959)のようです。

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矢切の渡し「新矢切丸」乗船記

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通勤で乗ってる半蔵門線で終点の押上へ。

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京成に乗り換え。阪神沿線みたいな京成沿線。昔は電車のカラーリングも似てた。

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高砂で金町線に乗り換え。

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1駅目が柴又。

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お約束。

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帝釈天の参道を進み。

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帝釈天前を左に折れ。

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帝釈天の左の先に江戸川の土手が。

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いい季節。

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土手を降りて渡船場に。

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船賃200円。

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桟橋?に。

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下流方面。

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上流方面。

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船は向こう岸に。

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船外機でこちらに。

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乗船。乗客は私1人。

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なんと手漕ぎで。

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矢切側の船着き場に近づくと船外機に切り替え。

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上陸。

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矢切から見た柴又側。

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土手に向かって。

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土手から見た渡船場。

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土手から矢切側を見ると、家が建てこんだ柴又とは対照的な田園風景。

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近くに北総線矢切駅があるようだ。

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畑の農道を進む。

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千住葱?

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葱売ってました。

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北総線矢切駅から帰宅。


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講談社の少年・少女雑誌の人気投票

●偉人投票(特別大懸賞當選發表)  『少年倶楽部』(大日本雄辯會講談社) 1922(大正11)年1月号 p.134-135

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1位 ナポレオン 38,649票
2位 乃木希典  32,904票
3位 豊臣秀吉  32,863票
4位 楠正成   26,968票
5位 西郷隆盛  13,265票

侵略系のナポレオン、秀吉に征韓論の西郷と隣国から「歴史認識」にイチャモンがつきそうな面子。乃木と楠正成は戦前の伝記数でおそらく2トップのはず。

●人物懸賞投票 『少女倶楽部』(大日本雄辯會講談社) 1924(大正13)年11月号 p.87

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1位 静御前   550票
2位 紫式部   533票
3位 正行の母  426票  
4位 乃木夫人  288票
5位 春日の局  253票

全体として良妻賢母系だが、お局様の頂点や尼将軍(6位)のように「良妻賢母」の範疇に入らない人も。春日局は無位無官から参内のため朝廷に従三位の官位を強要し、北条政子は承久の乱で後鳥羽天皇を島流しにした、両人とも皇国史観からすれば許しがたい人物のはず。竹久夢二を愛した大正乙女は男子よりもリアルに権力志向だった一面も・・・

●ぼくの好きな人 『少年クラブ』(講談社) 1955(昭和30)年9月号 p.171

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1位 力道山    612票
2位 中村錦之助 337票
3位 川上哲治   270票
4位 母       253票
5位 東千代之助 180票

偉人投票ではないので、偉人系は後退して、9位西郷隆盛、10位野口英世、11位豊臣秀吉。代わってスポーツマンと映画俳優が上位に。東映時代劇がいかに人気があったかがわかる。龍馬が全国区になったのは司馬遼太郎以後だったことも。

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1921年第4回日本フットボール大会白洲次郎主将の神戸一中は棄権敗退

『大阪毎日新聞』1921(大正10)年2月13日付

ア式一勝者戦
    神一中棄権
       関西高等部二勝

右試合後引続きア式一勝者戦に移り、抽籤の結果関西学院高等部と神戸一中と対戦する事となり、上野氏レフェリーの下に夕暗を侵して関西のキックオフに開始。前半関西一点を得、続いて後半戦に移らんとする時既に暗く球の識別が出来ぬので審判並に両軍キャプテン協議したが続行する事となり、関西は直に得意のドリブルにより二点を獲得した。此時神戸方選手中場を去る者出し為、関西方は三点の得点其儘として十三日の廿五分の対戦を行ふやう提議したが、神戸方応ぜずハーフタイム前の関西得点(一点)だけ其儘にすると主張し、選手も引揚げて了ったので審判は神戸一中を棄権と認め、関西学院高等部の勝利を宣した。”

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関西学院高等部は誤りでなく、この大会に関西学院は高等部と中等部の2チームが出場している。メンバー表は関学しかない。神戸一中のメンバー表は1回戦の対市岡中戦のものなら同紙面に掲載されている。

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白洲のポジションはCFとなっているが、これはCHが正しい。白洲次郎は神戸一中1921(大正10)年卒、この年度の主将であった。

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『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部 1937) p.270

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「サッカー」という語は1926(大正15)年から大阪毎日新聞が使用

日本で最初に「サッカー」という語を常用したマスコミはおそらく大阪毎日新聞であろう。

大阪毎日新聞社は1925(大正14)年まで日本フットボール大会(サッカーはオープン参加の実質近畿大会)、1926(大正15)年から全国選手権となる全国中等学校蹴球大会を主催していた。

1925年までの日本フットボール大会では、サッカーは「ア式」、ラグビーは「ラ式」と記されていた。

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『大阪毎日新聞』1925年1月17日付

1926年からの全国中等学校蹴球大会では、サッカーは「サッカー」、ラグビーは「ラグビー」と記されている。

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『大阪毎日新聞』1926年1月5日付

大阪毎日新聞社は同時期、同一会場でサッカー(現・全国高等学校サッカー選手権大会)とラグビー(現・全国高等学校ラグビーフットボール大会)の両競技を開催していたので、混同を避けるため、紛らわしい「蹴球」は大会名だけにして、紙面での競技名は「サッカー」と「ラグビー」を使い分けていたようだ。

慶應義塾体育会でも、先行したラグビーが蹴球部を名乗ったので、後発のサッカーは1927年ソッカー部となった。両競技がある程度普及した大正末から昭和初期にかけて「ア式・ラ式蹴球」からより区別しやすい「サッカー」、「ラグビー」という語が使用されだしたようである。

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大谷四郎「南甲子園の想い出」『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部 1983) p.52

南甲子園の想い出

              大谷四郎

“ 南甲子園のグラウンドで試合することは当時の中学生にとっては渇仰の的だった。兵庫県にいても県予選や平素の試合ではここを使わしてくれなかったので、南甲子園の芝生を踏みたければどうしても全国大会へ出なければならなかった。大学のリーグなどをスタンドから観る分には小学生のころから慣れていたが、中学4年生の夏全国招待大会で初めてフィールドに立ってみると、スタンドがマンモスの如く威圧して来た。ここの陸上競技用トラックは珍しく500メートルだったから、なかのフィールドもやたらに広い感じだった。ウィングの強いチームには都合がよかった。タッチラインとトラックの距離も十分に取れたので、脚の速いウィングなどには全く快適の舞台、LWをやっていたら恐しく走りがいがあった。その代り、平素小さなグラウンドを使っていた中学チームには御しかねる広さだったかもしれぬ。

 神戸には東遊園地という外人クラブのグラウンドがあってその芝生はとくによかったが、南甲子園の芝生もよく手入れしてあったと思う。ことに夏場は緑鮮やかに深々と茂って、ボールが少し浮いたように芝生に乗るので、実にキックしやすかった。とにかく芝のグラウンドでは正しくければ正しく飛ぶから気持がよかった。

 スタンドからの眺めもよかった。東側は塀越しに沿って枝川の松並木が並び、その向うが鳴尾の国営競馬場だった。この松並木を通してレースを眺められる。緑の芝生とサッカー、その背景に松並木と競馬、晴れた日などこの組み合わせが絵のように思えた。

 ここの欠点といえば風だったろう。スタンドが西側だけで南北が空き、海岸にも近いので大体浜風が吹いていた。それに乗ってアシカの鳴き声が大きく響いてくることもあった。冬は六甲おろしの北風が吹き、とにかく南甲子園はいつも風があるとみてよく、それが時には向きを変えたり、夏は急になぐこともあるので、トスに勝てば先に風上に陣する方が得策だった。”

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前田純一「短命に泣く南甲子園運動場」『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部 1983) p.47

短命に泣く南甲子園運動場

           前田純一(阪神電鉄株式会社監査役)

 私の記憶にして誤りがなければ私が初めてサッカー大会のお世話をしたのは私が京都大学在学中の大正14、5年のころではなかったかと思う。当時大阪高商の学生であった田辺治太郎君の紹介である。その後阪神電鉄に入社して甲子園南運動場の建設に関係し、続いて運営をも所管するようになったのでいわば二重の関係者として戦争で大会が中止となるまで20年近くもお世話を通津k手た次第であります。

●破天荒の大設備

 大体今甲子園といっておるところは、もとの枝川の廃川地で、枝川は国鉄の鉄橋の南で武庫川から分流しておった。そして更に今の球場の西で申川というのが分かれていた。元来阪神間の川は常にカラカラで大雨が降るとドッと水が流れて武庫川などもよく氾濫した。そこで兵庫県では本格的な大改修を計画し、そのため枝川、申川を廃川とし、その払下代金を本流の改修費に当てることを大正10年に県で議決しておった。しかし枝川は長さ35町、申川は12、3町、総面積約22万5千坪、これを一まとめに売ろうというのだがなかなか買手が見つからない。大正の末は電鉄事業も丁度近代産業としての脱皮期に当り意気壮んな時代でヨシそれを一手で阪神で引受けようということとなり住宅地経営や運動場遊園地といったリクレーション・センターとして総合経営を計画することとなった。当時阪神はお粗末ながら鳴尾に総合運動場を持っておったりして比較的重役の頭も進歩しておったものと思える。

 かくして甲子園の第一施設として出来たのが大正13年8月、当時としてはまさに破天荒の大設備を持つ野球場であった。

●国際試合も開催

 第2弾として計画されたのがこの甲子園南運動場であたかも昭和3年の夏でしたが当時社内にはこういう競技をやった人が少なかったので入社間もない私が多少かじっておるというので研究するよう命ぜられた。

 初め球技と陸上別々の案も作ったが土地の経済とか運用管理の利便等から考えると矢張り総合グラウンドがよかろうということとなり一応最高度の国際公式試合が出来るということを目標として研究しました。当時関西にあったのは築港の市立運動場と京都の下賀茂植物園であまり参考にならない。京大からドイツの文献など借り出して来て社内でディスカッスしたりなんかした。全国唯一の近代競技場は大正13年に出来た神宮外苑競技場だが御承知の通り一周400米のトラックの中へ投擲場や跳躍場やラグビーやサッカーを無理矢理押込んだような形で、その上スタンド、グラウンドが行け行けで整理がつかず色々欠点の目立つ競技場であった。あれやこれや考えた挙げ句結局の案は、まずトラックは一周500米、コーナーを半円形とせず三心円としてカーブをゆるくし球戯場を収まり易くする。サッカーグラウンドとして75米X119米、ラグビーグラウンドとして75ヤードX110ヤード、跳躍の砂場はトラックとスタンドの中間に設ける。すなわちフイルド外に出るから球技の邪魔にならない。スタンドの前面は地上2米の高さとし、かつ大きな弓形をして砂場を抱へ込む。これでいずれの競技も相互に妨げられることなくグラウンド全体が非常に見易くなり、場内整理も非常に便利がよかった。鉄筋コンクリートの観覧席は定員2万人、当時の旧阪神パークや水族館のすぐ北で海岸に近く、バックストレッチは松林を越して鳴尾の競馬場が眺められた。スタンド内には貴賓室、集会所等の外、宿泊の設備もあった。昭和4年2月16日起工、5月22日に竣工した。昭和4年5月26日に秩父宮殿下と妃殿下を迎え開場式を行った。

●10数年でスポーツの華閉じる

 それまで野球場を借りたりしておったフットボールの大会はここに初めて自分のしかも当時本邦無比といわれた本格的競技場を持ったわけである。斯くて十数年スポーツの華はけん爛として甲子園の地に咲いた。幾多の大試合、幾多の国際試合がここで行われた。これは文字通り枚挙に暇がない。しかし、この競技場の生命は永くはなかった。昭和18年4月旧阪神パークや水族館と共に海軍航空当局の要請に一切を委ねるまで14、5年の運命であった。

 海軍省の薄暗い廊下で1人の主計少佐は立ったまま阪神パーク、動物園、水族館、南運動場の敷地諸施設の一切合財を三百数十万円で買収しますと内訳も言わず、全くの丼勘定で当時事業部長であった私に言い渡すとスタスタ消えて行った。私は涙も出なかった。”

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築地であなご

浜松町に用事があったので、渋谷から山手線に乗ろうとしたら、京浜東北線とも不通とのこと。青山一丁目から都営大江戸線で大門へ。用事を済まして大門から都営浅草線に乗ったら日曜とは思えない大混雑。東銀座へ。

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歌舞伎座は四代目鴈治郎が襲名披露中。

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勝鬨橋の近く。築地のあなご仲卸が経営のあなご専門店。

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「ばかしあい」2,100円。煮あなごと焼きあなごのハーフ&ハーフ。たれが濃すぎな感じ。

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帰りは歩いて有楽町へ。うなぎの竹葉亭。前を通るだけw

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交通会館で帆船模型の展覧会をやってた。

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交通会館は道県のアンテナショップがいっぱい。いつの間にか兵庫県のもできてました。

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ありました、ありました! 明石の焼きあなご。以前、池袋西武に姫路のあなご専門店が入っていたが、いつの間にか撤退。東京駅の大丸に明石の下村が入っているが、お値段高すぎ。ここはお値段もお手頃。

4月12日はあなご記念日w

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同じフロアに富山県のも。

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富山の薬売りが全国に普及させたケロリン桶も。関東と関西で深さが違うそうだ。

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その理由。関西ではかけ湯を湯船から汲むので浅めにしてあるとのこと。なーるほど・・・

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蒲鉾も 昆布巻にする 富山人

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駅弁の源でないます寿し(笹義)があったので買って帰る。

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1919年第2回日本フートボール大会の大阪毎日新聞における表記

サッカーという名称が定着するまで、さまざまな変遷があったが、日本における最古のサッカー大会である現在の高校選手権も、初期においては主催新聞社自身が名称について混乱していたようである。

1919年第2回日本フートボール(優勝)大会の1919年1月20日朝刊の『大阪毎日新聞』記事では、

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主見出しが「日本フートボール大会」、副見出しが「第二日の日本蹴球大会」で、「蹴球」には「しうきう」のルビが振られている。本文も「日本蹴球大会」。

ところが同日夕刊では、

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見出しはなんと「蹴鞠大会」で、「蹴鞠」には「しうきく」のルビが振られている。本文は「日本フートボール大会」。

夕刊の見出しをつけたのは相当のジイサンだったのではなかろうか。

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1922年英国皇太子訪日時に御前サッカー試合が企画されていた

日本サッカー協会は1919年FAによる銀杯寄贈がきっかけになって設立されたが、その背景には日英皇太子の相互訪問があるのではないか、と仮説を述べた。→「日本サッカー通史の試み⑭ 大日本蹴球協会の創立(1)

1922年4月22日の英皇太子横浜訪問に合わせて日英親善サッカー試合が企画されていたとの新聞記事があったので、紹介したい。

『東京朝日新聞』1922年4月22日付
蹴球大試合
  英太子を迎へ横濱公園で

二十二日英太子殿下横濱市にお成りに際しお召艦リナウン号供奉艦ダーバン号乗組員は殿下の旅情をお慰め申上ぐべく種々考案の結果最も快活な競技を選んで同日午後二時半から横濱公園で東京蹴球団とフットボールの大試合を行ふこととなったが殿下には勇ましい競技振りを親しく御見物になる筈である。”

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英国では1914年のFAカップ決勝から優勝チームに国王がFAカップを渡している。

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1914年4月25日のFAカップ決勝で、優勝チームのバーンリーFCの主将トミー・ボイル(Tommy Boyle)にFAカップを渡すジョージ5世(来日したエドワード皇太子の父)


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ヲタ切符発見

橘丸1DAY満喫きっぷ(4月~6月)

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嘉納治五郎談「冬期の好運動 蹴球奨励の意義如何」『東京朝日新聞』1918年1月29日付

冬期の好運動 
    =蹴球奨励の意義如何
    ▽弱い日本人はまず体を
    ▽鍛えてから蹴球を練習
    関東蹴球大会名誉会長 嘉納治五郎氏談

東京蹴球団主催、本社後援の関東蹴球大会に名誉会長たる嘉納治五郎氏蹴球に就て語る『冬期の運動として蹴球の右に出るものはあるまい。由来冬期には適当な戸外運動が少ないので兎角家に許り引っ込んで居る様な事になるが、蹴球は冬季の運動として雪の上でも出来るし、運動が猛烈であるから寒気に対して抵抗的な防寒にもなる。春や秋は別に運動を特別奨励せずとも気候に唆られて人々は家の中に引込んで居られなくなるから自然に運動にもなる訳だが冬期はどうも運動が不足になり易い。故に運動は冬季に於て十分に奨励せねばならない。乃で高師では昔から此の冬期の運動に最適な蹴球を奨励して居る訳だ。然も蹴球は徹頭徹尾団体的運動で各人の共同一致、連絡等の事が一つでも欠けて居ては優秀なチームとは謂へないのだから、教育的に考へても最も好い運動だと信じて居る。然し蹴球は其の運動法が非常に猛烈で普通の日本人には激し過ぎる傾きが無いでもない。だから優秀な蹴球選手たるには先づ他の運動で相当の体力を養って置く必要があると思ふ。先づ虚弱な人は体操をやり、少し強くなったら競走に移り、更に柔道を稽古したりして体力を作ってから此の蹴球を行るのが順序だと思ふ。所で米欧人は蹴球を運動の上乗として猫も杓子も行る。現に日本に来て居る英国大使館員には五十歳を越した人で盛んに行って居る。日本人も蹴球が十分に出来るやうにならなければ駄目だと私は常に思って居る。』

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『日経ビジネス』2015年4月6日号

は、小特集「東京五輪」が危ない 弱体化するスポーツ市場」。

・「「公共施設」の呪縛

・「商業化こそ金メダルへの道 「強化費依存症」が衰退招く アマチュアリズムの限界

・「米国流ビジネスの胎動 収入増と勝利の好循環作る 旧態依然を壊す人々

いずれも興味深い記事でありました。

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