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1947年関東学生リーグ成績

1位 早稲田 5戦5勝
2位 慶應 3勝1敗1分
3位 東大 3勝2敗
4位 東京文理大 2勝2敗1分
5位 千葉医大 1勝4敗
6位 東京商大 5戦5敗

(東京商大2部陥落 明治大1部昇格)

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野球も強かった神戸一中

戦前予選参加校数が最も多かった1934年全国中等学校優勝野球大会の兵庫県代表は県大会決勝で明石中を破った神戸一中。しかし、本大会では初戦で和歌山代表海南中のエース長谷川にノーヒット・ノーランされ、0-5で敗退。

本大会の決勝は呉港中対熊本工業。呉港中のエース藤村富美男が熊本工業を14奪三振2安打完封して2-0で勝利した。

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『東京朝日新聞』1934年8月21日付

熊本工業の9番ライトは川上哲治。京都商業のエースは地区予選決勝で平安中を16奪三振完封した沢村栄治という、希にみるビンテージ・イヤーだった。

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戦前の女子サッカー関係資料

●「女子運動倶楽部の設置」『東京朝日新聞』1904年7月1日付

女子運動倶楽部の設置

下谷区谷中真島町一番地なる東京女子体操音楽学校にては今回一般女子の体育を奨励するの目的を以て女子倶楽部なるものを同校内に設置し希望者は何時にても入会して毎日午前九時より午後六時左記備へ付けの器械を使用し随意に運動し得ることとせり。因に同校は高燥閑静の地にあり且四顧緑林に包まれ居れば夏期の運動場には好適地なりといふ。
備付運動機械 運動?? ○クロッケー○ホッケー○自転車○フートボール○ロンテンス○??○玉突○室内遊戯”

東京女子体操音楽学校校長高橋忠次郎は『新式女子遊戯法 : 理論実際』(榊原文盛堂 1904)を著しており、その中には「フートボール遊戯」もあるので、「フートボール」が同校に備わっていたということは、おそらく「フートボール」も教授されていたのではないだろうか。

●1906(明治39)年5月27日私立高千穂小学校運動会で3・4年女子がフットボール

1906(明治39)年5月27日私立高千穂小学校運動会で3・4年女子がフットボールをした、という新聞記事を見つけたので、紹介したい。

『東京朝日新聞』1906年5月29日付

“●高千穂小学校春季運動会

五月二十七日正午から、同校講堂で紀念式がありまして、時間正しく式を終へ、午後一時に運動会が始まりました。其時、見ましたところを、ざっとお話申し上げませう。

<中略>

五、フットボール・・・・・第三四女

女の子が、フットボールをするのですから、学校全体の元気があります事がよく分りますので、それに足を取られたり、倒れたりしても、少しも泣かぬ事などは、よい気性にしつけられました。紅も白も、両方自分の陣の門の中にまりを蹴り入れられた方がまけとなるのであるのです。

<後略>”

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「紅も白も、両方自分の陣の門の中にまりを蹴り入れられた方がまけとなる」とあるので、サッカーに近いフットボールだったようである。高千穂小学校は現・高千穂大学となっている高千穂学園の小学校。高千穂学園は小学校から始まったが、後に大学以外の小・中・高は廃校となって、現在は大学のみが現存。→「高千穂大学 歴史と沿革

当時の小学校は4年制。なお、記事全体を読んでも、男子種目に「フットボール」がない。

●田中澄江「サッカーと私」『中央公論』82巻7号通号957号 1967年6月号 pp.307-308

サッカーと私

       田中澄江
          (劇作家)

 もう大分前のこと、京都へゆく汽車の食堂で、えんじのスエーターを着た青年をとりまいて、署名を求めている乗客たちを見た。青年の隣には妙齢の女人などもいて、ボーイに聞くと、国鉄の金田だという。とたんにわたくしは、国鉄も派手ねえと連れにむかって言ったものだ。その時、国鉄の年末ストライキが終ったばかりで、多分闘争委員長なのだろう、ストライキがうまくいったので、ああして勤労少年、少女らしい乗客が、サインしてもらっているのだろうと思ったのである。

 野球は嫌いだ。娘時代にたった一度、早慶戦なるものにつれいかれてこりごりした。万余の観衆の前で、一つかみの人間が、小さい小さいボールを棒にぶつけたり、走ったりころんだりしている。気長な陣取りごっこのようで、何ともしん気くさい眺めだった。野球にくらべれば、ホッケーもラグビーも動きが鮮かでおもしろいが、怪我でもしたらと心配がつきまとう。豪壮で広大で、かつ技の繊細なるを積み重ねて得点に至り、ゴールキーパー以外に手をつかわぬという制約が、その戦法に優雅な武士のたしなみを匂わせて、観る者の心を魅了するのは、サッカーに如くはないと思っている。

 大昔、わたくしはサッカーの選手だった。と言っても女の子の体操の時間に、先生にねだって、男の子のすなるものを、女の子にもさせてたべとたのんだのである。

 アソシエーション・フットボールと言った。ふだんは蹴球と呼びならわし、体操の時間に、先生が大きなボールをかかえて来て、屋内体操場のデッドボールの線の中に押しこめようとすると、「せんせえ、外へいってしゅうきゅうをさせて下さあい」と叫んだ。

 蹴球はよい。背が高いからたいていゴールキーパーにされる。何しろ、広い運動場のはじからはじまで見わたしてプレーできるのがよかった。ゴールを背にして立った時、まさに天下二分の戦いの野に臨む気持ちで胸がはずんだ。はるかなるセンターラインをめぐって戦いの火ぶたがきられると、球は転々東へ西へ。追うひと追われるひと、ころぶひと、走るひと、女の子だからそれにきゃあきゃあの声がかぶさって、勝っても負けても見ているだけで賑やかな眺めがおもしろいのである。しっかりとかがんばれとか叫んだりとんだりしているうちに、戦域はあわただしくゴールの前にせまる。わがジャンプの腕を見よとばかり、身構えして待つ間もなく、相手のシュートきまって、ボールはみごとにゴールイン。わたくしはがっくりと尻餅。それでも悔はないのである。

 試合開始とともに全員の動きのままに、自分も動いている。攻め手になり、守り手になればその動きはさらに活発で、ボールとともに広い運動場のすみからすみまで走りまわる。この運動場の大きさが、勝敗を越えて快感だけを残すのであろう。

 わたくしのいっていたのは、豊島師範の附属小学校で、本校は青山師範、高等師範と並んで、東京の蹴球界の花形であった。

 この一年、NHKで、青少年向けの「風のある街」というテレビドラマを書いた時、わたくしは舞台が蹴球のさかんだった神戸なので、女の中学生のチームづくりをその筋の発展にしたいと思った。新任の女教師にヘッディングをやらせたり、勉強のできない子をシュートの名人にして、学業にも自信持たせたりと、いろいろ考えたが、スタジオドラマで、とても練習場面ができないとのことで、二、三回してやめてしまったら、神戸女学院に本当の女の子のチームができたという。もう少し書きつづければよかったと残念だった。

 オリンピックで日本チームが活躍した時はうれしかった。新聞の運動欄は野球など見たこともないが、サッカーだけは、ていねいに読む。

 テレビの前で、森だの杉山だの釜本だのと、知ったかぶりを連発すると、家のものが、にやにやする。日頃は運動など、自分でやるもので、ひとのやるのを見てのぼせているものの気が知れないと言い通しなのである。でもサッカーだけは見ていることが自分の運動にもなるという説を持っている。

 なお、もとの高師、いまの教育大付属を出たお嬢さんに聞いたら、やっぱりここでも体操の時間に、女の子たちが好んでサッカーをやったそうだ。”

著者の田中澄江(1908-2000)は成瀬巳喜男監督『流れる』、『めし』などで知られる女性脚本家。1908年生なので、通学した豊島師範附属小学校でサッカーをしたのは1910年代後半になる。豊島師範にサッカーを伝えたのは1909年に東京高師を卒業し同校に赴任した内野台嶺。後藤健生氏の『日本サッカー史 資料編』によれば、1902年生の鈴木重義(早稲田サッカーの始祖、1936年ベルリン・オリンピック代表監督)も豊島師範附属小学校でサッカーを始めたとのこと。田中澄江は鈴木の6年後輩になる。東京高師で始まったサッカーは豊島師範からその附属小学校へ、さらにその女生徒にまで驚くべきスピードで浸透していった。

●原島好文著「ソッカー十年の思ひ出」『運動界』10巻4号(1929年4月) pp.36-45

著者の東京蹴球団時代の回想記。以下の文章がある。

“ その頃、東京蹴球団には婦人の団員が二人居た。モガの詞の無かった頃のモガで、彼女達はユニホームを着てグラウンドに出た。長岡君の紹介で入団したのだったらう。一人は丸顔一人は細面で一寸可愛い娘であった。二人は華美なストッキングをつけフットボール専用の靴を履いてゐた。或日の東京日日新聞紙上に、絵日傘をさしてニコニコしながらゲームを見てゐる二人の写真が出たっけ。

 その二人をメンバーに入れて試合した。肉弾戦のまだ大目に見られる頃であったが、まさか突当る訳にも行かず、相手の中学テームはさんざんに悩まされたことがあった。

 だんだんグラウンドに出るのが少くなったと思ふうち姿を消して、噂だけはしばらく残して置いたが、今は誰かのお母様になってゐるだらう。”

新聞は東京日日新聞ではなく、『東京朝日新聞』1921(大正10)年5月8日付。

婦人蹴球の魁に
  起たんとする二女学生
    ―昨日豪雨中予選の蹴球見物―

つい此程東京蹴球団へ二女学生が入団を申込んだ。意外の事に一驚した幹部は種々研究もし相談もした揚句彼女等の希望は頗る真面目に競技を研究し婦人チームを組織したい目的だと判って入団を許した。両女は共に桜井女塾の生徒で本科一年生小笹浅子(十八)と阿部かね(十八)と云ふ性来の女ファンで極東大会の蹴球予選開始以来一日も欠かさず軽快な揃ひの洋装で豊島師範のグラウンドに詰めかけ昨日の如き土砂降を物ともせず熱心見物して居た。蹴球団の佐々木氏は『驚いたもので十四、五人婦人のメムバーも拵へ上げ先づランニングから初めてキックに進むなどと頗る科学的にやってゐる』と語った。”

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桜井女塾はミッション系の英語教育が特徴の女子専門学校だったようである。

●「大正にも「なでしこ」 香川・丸亀で絵葉書」『朝日新聞』2011年11月30日付(大阪)

大正にも「なでしこ」
 香川・丸亀で絵はがき

 大正時代に女子生徒がサッカーを楽しんでいたとみられる写真を使った2種類の絵はがきが見つかったと、香川県丸亀市が29日発表した。市は今後、「なでしこジャパンの先駆けの地」としてPRするという。

 いずれも丸亀城を背景にした校庭で、はかまの裾をしぼった女子生徒20人ほどがボールを追いかける光景が写っていた。市立資料館で見つかり、同じものが旧丸亀高等女学校(現丸亀高)でも確認された。撮影年は不明だが、1921(大正10)~22年の資料を入れていた袋の中にあったという。丸亀高によると、20年の卒業生が戦後書いた文集に「フットボールがすきで大根足になった」との記載があるという。

 丸亀高の卒業生でなでしこジャパンGKコーチの前田信弘さん(38)は「先輩がなでしこの先駆けなら、こんなにうれしいことはない。チームにも伝えたい」と喜んだ。”

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東日本高校サッカー選手権大会

主催:関東蹴球協会 後援:朝日新聞社

第1回 1952年8月21日~25日 参加校:61校 決勝:宇都宮工 4-0 秋田商 準決勝:宇都宮工 4-0 桐朋 秋田商 2-1 浦和

第2回 1953年8月15日~21日 参加校:90校 決勝:韮崎 1-0 浦和西 準決勝:韮崎 1-1(抽選) 日川 浦和西 2-0 熊谷

第3回 1954年7月31日~8月6日 参加校:97校 決勝:宇都宮工 1-0 秋田商 準決勝:秋田商 1-1(抽選) 東教大付属 宇都宮工 0-0(抽選) 朝鮮高

第4回 1955年8月12日~17日 参加校:46校 決勝:韮崎 2-0 日川 準決勝:韮崎 5-0 甲府工 日川 4-2 浦和市立

第5回 1956年7月31日~8月5日 参加校:46校 決勝:浦和西 3-0 遠野 3位決定:東教大付属 3-0 栄光

第6回 1957年7月30日~8月4日 参加校:45校 決勝:浦和西 2-1 韮崎 3位決定:藤枝東 3-1 浦和  

東日本地域のオープン参加制の高校サッカー大会。地域やオープン参加であることは、戦前の東京高師・文理大主催の中等サッカー大会の系譜に連なるのか? オープン参加なので、同一県から複数校の参加が可能で、レベルの高くない県の学校が埼玉などの強豪校と対戦できる数少ない機会だったと思われる。

東京高等師範学校(東京文理大学)主催全国中等学校蹴球大会はなぜ消滅したか

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川本泰三『実力は苦しみから 結局球への情熱』

『朝日新聞』1952年12月9日付

実力は苦しみから
     結局球への情熱
                  日本蹴球協会コーチ 川本泰三

 「こんな無茶な練習ってあるもんかい」と正直なところ私たちも憤慨したのはこうだ。

 一わたりいつものコースの激しい練習がすんで最後にグラウンドを一周、二周、もうこれで終りかと思うと今度はグラウンドの端に5人ずつ並んで向う側までパスの練習が始まる。いい加減にのびているのでそれが実に辛かった・・・・・シベリアの捕虜時代、とても出来そうにない“ノルマ”と取っ組んでいる時よくこの当時を思い出したものである・・・・・

 眼はくらむ、足はもつれる、工藤コーチが横で眼をむいてにらんでいる。ちょっとミスしたりパスが悪かったりすると“ピりッ”と笛が鳴って初めからまたやり直しである。ある時インナーのNが動けなくなってとうとう地面にへたばり込んで仕舞ったことがあある。そうしたら“立てっ!!”というバ声とともにパラパラッと砂まじりの小石が飛んで来たものだ。豪気なNがポロポロ涙を流しながらフラフラと立上った。彼はマニラの極東オリンピックでフィリピンとやった時、前半ロッ骨をけられて後半は全く意識不明のままタイム・アップの笛まで暴れ回り、しかも決勝のゴールを挙げている、そんな男だった。

 これがシーズン中ゲームの前といわず後といわず常であった。昭和八年ごろの早稲田のグラウンド風景である。この年はたしか早稲田が初めて優勝した年であったし、またその当時の大半がベルリン・オリンピックへ行ったはずである。工藤コーチ自身もオリンピック・チームのコーチとして花やかに笛を吹いたが、彼のコーチは石を投げたところに生命があると思っている。いま“学生よ強くなれ”と盛んに叫ばれている。しかし私は石を投げるコーチについて行く選手をまず作る必要があると思う。

   X X X

 長い間のボール生活を通じてこればかりはどうにもならなかったことは足の遅いことである。ベルリンでスウェーデンとやったフォワードの中で百メートル十一秒二の記録を持つ松永行君は別として他の三人が十二秒台、ただ一人私が軽快な服装で走って十四、五秒かかった。いつかの早慶戦の時逆襲の態勢からウィングへボールが渡ってFWがいっせいにスタートした。その時私の側をサッと風のように追越して行くものがある。走りながら横眼でチラと見ると何とこれがレフェリーの高山英華君―現東大工学部教授―である。彼も高校時代十一秒そこそこで走ったらしいが、レフェリーに追越されるセンター・フォワードなんていうのは滅多にない経験だろう。「スタートさえよければ・・・・・」と自ら慰め自らたのんでやって来たものの足の速い選手を見るとひそかにうらやましがった。だから妙ないい方だが私のサッカーは「自己の鈍足に対するちょう戦」に終始したといってもよい。

   X X X

 今の若い選手諸君をみると平べったい坂のような感じgする。確かに昔みたいに左脚でけれない“名”選手はいない。一通り何でもこなせる。そのかわり“これは”といったところもない。少しの回り道もせずスーッと最短距離を歩いて来たという感じ。だからその行程においてデコボコもなければ、また到達した姿にもデコボコがない。これも私流にいわせれば悲しいことである。

 私なども選手から技術的な細かい点について相談を受けることがある。私は「ここが悪いからこういう具合にやれ」といわず「まあもう少し数かけてやって見るさ」位なことしかいわない。というよりむしろいえないのである。はなはだ不親切に聞えるけれども、私にはいくらかんで含めるように教えられても自分が根気よくやって苦しんでみて出来上ったものでなければ身につかないという経験があるからだ。“そのものズバリ”式の教え方より、本人の工夫と努力を引出すことの出来るような幅のある指導方法が望ましいのである。いずれにしても結局は球に対する情熱、打込み方いかんである。それはコーチにもまた選手にも・・・・・”

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竹腰重丸のヘルシンキ・オリンピック印象記

竹腰重丸はJFA機関誌『蹴球』10巻1号(1953年1月)10巻2・3号(1953年2・3月)10巻4・5号(1953年4・5月)10巻6号(1953年6月)に、4回にわたって「第15回ヘルシンキ・オリンピック報告書」を掲載している。優勝国ハンガリーはいわゆる「マジック・マジャール」といわれた全盛時代で、ナマでプスカシュなどのスーパー・プレーを観た観戦記はたいへん興味深い。

本稿はそれとは別に朝日新聞に投稿したもの。

『朝日新聞』1952年8月24日付

日本は二流クラス
     サッカー 体力充実が必要

オリンピック・サッカーの視察員としてヘルシンキ大会に参加した日本蹴球協会理事長竹腰重丸氏がオリンピック・サッカーの印象について左のような書信をこのほど本社に寄せた。

○・・・オリンピックの準決勝、決勝程度の試合になるとまるでバスケットに力と広さを与えたものがサッカーだと言いたいほどだ。隊形は確かにあるが、パスを通すためには随分ポジションの移動が行われる。ポジションの移動を行ってパスを処理するには我々の現在のボール扱いの技術ではダメで、さらに格段の進歩が必要であり、豊富なエネルギーも必要とする。

○・・・今回の大会を見て決勝に残ったハンガリーとユーゴを特級とすれば、残りの約半数が一級、残りの約半数が二級チームと考えてもよいようだ。その二級に属するオランダ、ノルウェーとは現在の日本代表も大体対抗出来る感じであり、ユーゴと試合したときのインドの出来ならば多分我々の方がインドに勝つことが可能だとも思った。しかし一級チームに対しては十回試合して一、二回勝つことが出来るかどうかという程度でハンガリーやユーゴに対しては客観的な比較ではほとんど全くチャンスがないと考えるべきだろう。

○・・・一級チームの列に入るには球扱い足技はもちろんバックメンの体のこなしは格段の進歩がなければならない。サッカーはボールを中心としてボール扱いの技術を競い、戦術を闘うスポーツであることは今も昔も変りはないが、今回のトーナメントをみていかにして敏速で永続きする体をきたえ上げるかが問題で、体育という文字が強く頭に残った。

○・・・昔のロービング(移動する)センター・フォアード(ママ)が必要とした絶倫のエネルギーは、現在ではGKと3FBをのぞいた七人は皆必要となった。敗戦後日本では「スポーツは楽しむもの」と言われ、我々の如く二十年以上も昔選手生活をした者からみるとそれが弱弱しく感じられる。よそ目には苦しい集中的な生活に楽しさを感ずるのがサッカー選手の常識になるような状態に早く復帰しなければオリンピック大会で平均水準以上の力を発揮することはむずかしいだろう。”

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太平洋フェリー「きそ」乗船記(3回目)

デッキで潮風にあたるのが心地よい、船旅にふさわしい季節になったので、1泊2日で長時間船に乗れる太平洋フェリーの名古屋‐仙台航路に乗船してきた。

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品川駅からぷらっとこだまで。朝兼昼飯。

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あおなみ線でいつものように野跡駅下車。

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藤前干潟のバードウォッチング施設稲永ビジターセンター。

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徒歩でフェリー・ターミナルへ。「きそ」が停泊中。

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一番最近乗った船は「新矢切丸」。ワシと孫正義の資産くらい違う、頭髪量は変わらんのにw

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クラブツーリズムと阪急交通社の団体に大当たり。

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今回は50日前割引で和室を予約。和室しか空いてなかった。最上階7Fの最前方左の角部屋。玄関。

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室内。

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冷蔵庫。

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特筆すべきはバスルーム。50日早割40%引き10,500円で窓付きバスルームはラッキー。

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ということは、トイレ、洗面も窓付きw

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ディナーでレストランを利用しない代わりに、飲料を船内売店で大量購入。

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以前は地上価格と同じだったと記憶しているが、世知辛く「船内プレミアム価格」化したもよう。

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さっそく自室の風呂に入り、名古屋駅弁を自室で。

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3重弁当。船だからいいが、列車内では食べにくかろう。

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揚げものについてた。ソースかと思ったら、八丁味噌だった。

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夕食中に離岸。

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松本対横浜Mという、どうでもいいカード。

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8時からのショーはカンツォーネ。『ゴッドファーザー Part Ⅱ』を思い出した。

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翌朝5:00頃。房総半島野島崎沖。曇天で日の出は見られない。

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早朝の空気を吸いにデッキに出てみたら、降雨があったらしく甲板もベンチも濡れていた。

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デッキを一回り。

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朝食は団体さんで大混雑してるもようだったので、開始30分後に。

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犬吠埼。

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銚子ポートタワー。

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鹿島臨海工業地帯。

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自室に戻って午前酒して2度寝。

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午後になると晴れてきた。

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福島第二原発。

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ランチはマーメイドクラブでカレー。

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恒例「いしかり」との反航。

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ピアノコンサート。

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仙台港入港。

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下船してタクシー乗り場にいったところ、行列ができていたので、多賀城駅まで徒歩で。

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自分としては速足で歩いて25分、17:05に多賀城駅着。仙台地方も天気が良く、西日にあたって汗をかくくらいだった。

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多賀城始発17:14の仙石線電車に乗車。

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仙台発18:19の「はやぶさ」で帰京。

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晩飯。今回は駅弁ばかり食ってたようなw

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Jリーグ

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関西学生サッカー連盟 過去の記録

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1946年関東学生リーグ成績

1位 早稲田 4勝1分
2位 東大   4勝1敗
3位 文理大 3勝2敗
4位 慶大   2勝2敗1分
5位 産大   1勝4敗
6位 立大   5敗

注:産大は東京産業大(旧・東京商大、現・一橋大)
 

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ハリルホジッチ氏出場ワールドカップ、ヨーロッパ選手権のマッチ・リポート

1982年ワールドカップスペイン大会

対スペイン戦 74分交代出場

対ホンジュラス線 46分(ハーフタイム)交代出場

1976年ヨーロッパ選手権

対オランダ戦 46分交代出場 リポート

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JFAが昭和天皇を「総裁」にする計画があった

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『朝日新聞』1947年2月10日付

陛下を総裁に
  日本蹴球協会

【大阪発】日本蹴球協会では八日夜大阪の関西協会事務所で役員総会を開き満場一致で天皇陛下に同協会総裁をお願いすることに決定、近く正規の手続をとることになった。蹴球の本場英国で国王が蹴球協会のパトロン(保護後見者)になっておられるのにならったもので、平和外交の実をあげるため特にこの決定を見たわけである。なお当日の役員総会で決定した事項は左の通り。

一、東西対抗試合を四月三日東京で開催

一、国際蹴球連盟(F・I・F・A)に復帰促進のため委員会を作りロンドンオリムピック参加に努力を続ける

一、理事長竹腰、常務理事松丸、津田、木内、宮本、奥野、高田、田辺、堀江”


学習院大学ラグビー部HP
によれば、秩父宮が“昭和22年9月日本ラグビーフットボール協会の総裁に迎えられた”とあるが、ラグビーの秩父宮推戴の動きに対応して、サッカーはより「格上」の天皇を推戴しようとしたのであろうか。

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JFAは1940年東京オリンピックに備えてドイツ人コーチ招聘を計画していた

『東京朝日新聞』1937年3月3日付

豪華スケジュール
  世界蹴球制覇へ
      外国三チーム招聘

大日本蹴球協会は去る二十七日午後三時及び午後六時から新橋協会事務所で再度理事会を開催、次回オリムピック東京大会に対する準備と本年度競技会日割原案を作成、二日午後発表したが、オリムピック準備としては先づ準備委員会を設置する外、明年六月パリに開催される第三回世界蹴球選手権大会に参加するの外、英、独二国へ転戦、世界学生選手権大会出場、更に同年十月には英国チームを招聘、十一月から翌年十四年二月にかけてドイツよりコーチ、トレーナーの招聘、十四年十一月には米国チームと相継いで招聘することとなった。当日の決定事項は、

◇オリムピック準備委員会を設置す
会長 深尾隆太郎男、総務部部長 鈴木重義、財務部部長 田邊治太郎、外事部部長 野津謙 宣伝部部長 山田午郎、設備部部長 野村正二郎、審判部部長 濱田諭吉、技術部部長 竹腰重丸

北支チーム招聘 四月
四月八日対文理大(戸山)十一日対早大(神宮)十四日対慶應(神宮)十七日対全関西

第三回世界選手権大会出場並に英国遠征学生大会出場
役員三名、選手二十二名、十三年四月上旬出発、五月英、独転戦、六月四日より十九日パリにて本大会出場、七月学生大会出場、八月下旬帰朝

東洋大会に出場
役員三名、選手二十二名

英国チーム招聘
十三年十月役員選手二十名、東京四試合、大阪三試合、名古屋一試合

独逸よりコーチ招聘
十三年十一月より一四年二月迄コーチ一名、トレーナー一名、代表選手に対するコーチ及び一般講習会指導

米国チーム招聘
十四年十一月より十二月迄一行二十名

◇代表選手養成練習会 毎年度末にそのシーズンの成績を参考として銓衡委員会によって代表選手二十二名を決定し二週間合宿練習を行ふ

◇オリムピック審判研究会を設置しシーズンの初め(三月)と終り(八月)に全国各協会より委員を集めて研究会を開催す

◇一般指導講習会毎年八月開催
札幌、函館、仙台、富山、横濱、名古屋、京都、大阪、神戸、廣島、高松、熊本、東京

主なる試合日割

(以下略)”

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1937年2月27日の理事会で決定とのことなので、JFA機関誌『蹴球』を確認したところ、5巻1号(1937年5月号 前号の4巻6号は1937年1月号)には理事会の記録は掲載されておらず、5巻2号(1937年7月号)にはp.49-50に「理事会報告」が掲載されているが、第1回(5発20日)、第2回(5月27日)、第3回(6月14日)分しか掲載されていない。 

1937年3月3日付の東京日日新聞、大阪毎日新聞、読売新聞にも朝日と同様の記事が掲載されているのを確認できる。朝日のスクープでも「飛ばし」でもない。

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『東京日日新聞』

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『大阪毎日新聞』

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『読売新聞』


外国チームや外国人コーチの招聘のような理事会の重要決定事項が新聞紙上にはあって、機関誌にないというのは不思議だが、有力紙すべてに掲載されたので、あえて機関誌に掲載する必要はないと考えたのだろうか?

ドイツ人コーチ派遣の打診があったとすれば、当時のドイツ代表監督はすでにゼップ・ヘルベルガーであり、実現していれば、ヘルベルガーが人選したかもしれない。協会の外事部部長は野津謙、クラマー氏来日にかかわる人脈はすでに形成されていたのである。クラマー氏招聘に際して、野津がこの件を記憶していないわけはなかろう。

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朝日新聞戦後最初のサッカー記事

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『朝日新聞』1946年1月8日付

1946年1月6日午後2時から西宮球場で開催された全関西対関西学生選抜で、4-1で全関西の勝ち。甲子園南運動場は海軍に接収されたので、西宮で開催されたもよう。

関東の最初のサッカー記事は

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『朝日新聞』1946年1月30日付

1946年1月29日午後2時から東大球場(御殿山G?)で開催されたアチス(連合軍翻訳通訳部)対全早稲田で、4-4の引き分け。

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世田谷公園

三軒茶屋と池尻大橋の中間、三宿の交差点を南下したところにある。

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入口。

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大きな噴水。

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鴨が4羽。

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イベントやってた。

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小山の頂上から。

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探検ごっこができる遊具。

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超ナロー・ゲージ。

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日曜なので走ります。

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転車台に車庫もあります。

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こんな感じで走ります。

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世田谷線松陰神社前駅の立葵が開花してました。

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1937年12月12日ワールドカップ参加を断念

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『東京朝日新聞』1937年12月13日付

世界蹴球選手権に
  我国出場を中止
      東亜の情勢に鑑み

大日本蹴球協会理事会は十二日午前十時から協会事務所において深尾会長をはじめ野村、濱田、竹腰、前田、野津、田邊、山田の各理事、小野、藤井の二委員出席の上開会、明年パリにおいて開かれる筈の世界蹴球選手権大会に初登場を目指して着々準備を進めてゐたが東亜の情勢は東洋区予選地上海の会場を変更するに立ち至り同時に予選期日も変更される事となったので世界選手権大会出場を見合せる事に決定し左の理由書を発表した。

本協会は世界蹴球選手権大会東洋区に於ける対蘭印戦の予選を上海に於て行ふ希望を有し右を根本原則の一として交渉中なりしも現在に於ける情勢は到底その予選を上海に於て遂行する事は不可能なる結果となり、他方FIFAは仏領印度支那サイゴンに於て行ふ様斡旋ありしも一月サイゴンに於て予選を行ふ事は地域的に且又我が選手が学生を中心とするチームなる以上これまた種々の困難を予想せらるるが故に今回は出場を見合す事に決定の旨FIFAより之を確認する旨の通告に接す。

尚この他の決定事項は次の通りである。

一、東西選抜対抗戦は一月二十三日午後二時南甲子園に於て行ふ。”

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サッカーにもあった「出陣学徒壮行早慶戦」

1943年晩秋最後の早慶戦』(教育評論社 2008)という図書、『ラストゲーム 最後の早慶戦』という映画にもなった、野球の「出陣学徒壮行早慶戦」は1943年10月16日早稲田のホーム戸塚球場で開催された。

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『毎日新聞』1943年10月17日付

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『朝日新聞』1943年10月17日付

毎日、朝日は同日神宮外苑で闘球(ラグビー)の壮行試合が行われたことも報道している。

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『毎日新聞』

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実はサッカーも「出陣学徒壮行早慶戦」を行っており、野球の1週後、1943年10月23日野球と同様早稲田のホーム東伏見グラウンドで開催された。野球は10-1で早稲田が勝ったが、サッカーも1-0で早稲田が勝利している。

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『朝日新聞』1943年10月24日付

これは朝日新聞に掲載された戦前最後のサッカー記事でもある。同日の毎日、読売両紙にこの試合の記事は見当たらない。職業野球がこの時期でも後楽園球場と西宮球場で行われていたことを示す記事が右横にある。

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1940年東京オリンピックに向けての技術指導委員会の準備(その2)

『東京朝日新聞』1938年2月17日付

二年後に迫った東京大会の対策(二)

三B制の次に
    南欧系蹴球への備え
             蹴球 竹腰重丸

 大日本蹴球協会技術指導委員会の昭和十二年度指導計画として採り上げられた3B制の消化拡充と云ふ問題は、慶應其他第一線チームの努力によって満足すべき程度に解決せられた。然し乍ら右は新システム理解の問題であって国内試合は別として、今現実に国際試合を行はうとする場合には幾多困難な問題が残されて居るのを発見する。

 即ち現在の我が第一線に立つFBの各個に就てその肉体的条件を検討すれば多くの者は、その体重や身長では巨大な北欧の選手に対しては味方ゴール前の守備に当ってマークは完全であっても押し切られることが起り得ると思はれるのが第一の問題であり、更にFW線は兎も角守備陣に就ては個人的な守備力の条件となる疾走力や相手の動きに応じこの急激な方向転換の能力が現状では不十分な為に、守備の方法としては成功し乍ら個人的に振り離されて守備に致命的な破綻を生む畏れのあることが第二の問題である。

 これ等は3B制で如何に戦ふべきかと云ふような主として頭脳に関係する問題ではなく、第一線選手の肉体的条件や技能の規格の問題であり又国内試合の場合にはそれ等が欠陥としては露はれない性質のものであって選手自身が切実に感じない事柄に属するためにこれ等の欠点を除くには非常な努力を要することと思はれる性質の問題である。

 而してその解決には単独チームの責任として、肉体的条件を満足する優秀なFBを養成せよとか技能の規格を一段拡大せよと勧奨することのみでは到底果すことの出来ないものであって具体的に代表選手を協会の指導員が育成する方法によらなければならないと考へられる。

 以上の他今一つ更に困難と思はれる問題がある。北欧系蹴球は個人的技巧よりは全体としての組織的な活動が目立つ体系を持って居り、我々はそれの特徴的なる3B制守備陣を布きその上に北欧系の力の代りに激しい動きを織り込んだ攻撃法を採って居るのである。

 この北欧系蹴球に対してイタリーや南米等の南欧系蹴球は個人の素質として弾力ある躯と優秀な勘の良さを持つのを武器とし色彩としては組織的活動い云ふよりは個人的な技巧が強味と感じられるものである。

 兎も角北欧系と南欧系蹴球とは対照をなすものの感がある。而して我々の蹴球は北欧式の色彩が強いので、南欧系の個人対個人の勝負で巧に外して攻め込む式のものには慣れて居ないと云ふべきであって、我々は南欧系の者に対しても相当な攻撃力を発揮するとは期待出来るとしても守備に就ては、北欧系の力に対する場合以上にその技巧―幅のある技術―に対して困難を感ずることと思はれる。

 我がFWが更に幅のある技術を習得して、正面から応対する相手をも巧く外すことが出来るやうになれば攻撃に更に変化と強靭さとを増すのみでなく、その進歩に従って守備陣にもそれを防ぐ術が発達して、南欧系に対する場合の不安が除かれるに至るであらう。

 夫故攻撃の強化のため今年度から幅広い技術の習得に心掛けることは誰しも異存ないところと思はれるが、守備について東京大会迄を一計画期間として考へる場合には、FWのその成長を待って守備の強化を図るのでは手遅れとなる畏れがあり、守備は守備として独自に発展させる工夫をする必要に迫られて居るといってよからう。

 南欧系蹴球に如何なる技術があり又それの防禦に如何なる工夫をすべきかに就ては百聞は一見に如かずの譬への通り伯林大会優勝の伊太利程度の技術を持つものと対戦することが最も捷径であらう。

 然しながらそれが実現されない場合にも敢て悲観の要はなく与へられた条件を甘受して邁進すべきであって、既に計画せられて居る春季、夏季の代表選手合同練習会に記述のやうな各種の問題を一歩一歩解決すべく固い決意をもって進んだならば、今年中にはベルリン大会における我代表より遥に強力なチームを編成出来るに至ると確信するものである。”

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1940年東京オリンピックに向けての技術指導委員会の準備

『東京朝日新聞』1937年12月22日付

3B制基礎成る
   東京大会準備第一年の検討
                 蹴球 竹腰重丸

昨秋伯林大会から帰朝した我が代表ティームのマンバーによって所謂3FB制(英国流に云へばCHのサードバックゲーム)なるティーム組織が紹介せられた。近年の我国一流ティームではその守備側の布陣としてこの組織に近づく傾向があり、新組織として紹介せられたこの3B制は著るしく新奇なものではなかった。然し乍ら今春迄の実績では採用ティームは何れも、攻守の利害判断を入れたティーム全体の体系としては勿論、守備側の布陣としても消化不十分といはなければならなかった。

 大日本蹴球協会技術指導委員会では、七月中旬に開催の日本代表選手候補者指導練習会の準備会で今年度の指導目標を定めたのであったが、右の練習会における指導をこの3B制の研究実践に集中する方針を採ったのであった。代表選手候補者はこの方針に副ふべく銓衡せられたものであって、現実に一つの代表ティームを作る為と云ふよりも一流選手を出来る丈広い範囲から集めたものであった。従って右練習会には二つの効果が期待せられた。

 即ち一面では所謂穴のないティームを編成することによって組織を変形して戦ふ必要を無くし3B制のあるべき姿で各選手に之を経験させ且我が一流選手の此の組織に対する適応性を再検討することに役立たせ、他の一面では各選手所属の国内一流ティームに拡充するに必要な基礎を与へるべく期したのである。

 練習会に集まった各選手は3B制下に如何に戦ふべきかについて一通りの常識を獲得し、又練習会で行った試合には縦の連絡による非常なスピードがあり而も守備に破綻を示さぬ試合を展開してこの組織の一つの特徴を発揮することが出来たのであった。その結果将来の国際試合においても伯林に於ける場合と同様に3B制採用が可能であり、又国内戦に之を採用するティームは昨年度とは格段に之を消化した戦ひ振りを示すに至るであらうとの期待が持たれた。

 今秋の明治神宮競技大会の三優秀ティームである関東の早大、朝鮮の清津、関西の関西学院はいづれもこの3B制を採って居たのであるが恐らくは私の知る関東に於てのみならず関西、朝鮮に於ても之が支配的な傾向となって居る事と思はれる。

 現在の我が一流ティームの欠点として、FWのウイングの力量とインサイドのショットに力強さとが不十分なことや外人に比較して体躯が小さいことは3B制で国際試合を戦ふ場合多くの考慮すべきものが残されて居る。

 殊にFW線の布陣としては北欧式の深いW形で極度に縦に編成された布陣で戦ふことは必ずしも利益でなく、より多い労働を必要とするとしても寧ろ浅いFW線を形作り中盤戦に横パスを多く交へて崩しゴール前ではインサイドも最前線に出て得点機会を狙ふ方法を採るべきであると考へられる。

 此の点については指導委員の間では意見の一致を見て居るのであるが、これは国際試合に於てのみならず国内試合に於てもそれを利益とするティームが多いと思はれる。

 即ち慶應は五試合僅か二失点を数へるのみと云ふ驚くべき成果を挙げ又東大が対早大、慶應の両試合に於てFWの攻撃力は著しく不足であるにも拘らず成果を挙げ得たのはその守備陣が「相手の攻撃を萌芽のうちに刈取る」3B制の効果を収め攻撃的な役割をも果し得たことに因るものであった。

 今シーズン好成績を得たものが3B制を採って居たからとてその成績が3B制採用の成果と断定することは困難である。然し乍ら今年の実績に徴すれば、課題としての3B制は一流選手の間では一応消化せられ且かなり広い範囲のティームに拡充せられたと見ることが出来よう。これを基礎とすれば今後の国際試合には一ケ月程度の練習でも3B制に拠る纏まりを持つことが出来ると考へられる。

 ただ、此の組織で戦ふ場合に必要或は有効な個人技の巧さ、力強さの問題に関してはなほ多くが残されて居り、オリンピック東京大会に十分な成果を挙げるには今年の基礎の上に更に多くを積み重ねる必要がある。”

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1936年の東京府中等学校蹴球リーグ

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『東京朝日新聞』1936年9月16日付

同年の東京府中等学校蹴球連盟加盟校は20校。それを4部に分けてリーグ戦を行っていた。

【第1部】 府立八中、豊島師範、青山師範、府立五中、本郷中。
【第2部】 慶應普通部、府立一商、府立九中、府立二中、府立高校尋常部。
【第3部】 独協中、府立七中、青山学院中、早稲田実業、成城中。
【第4部】 府立三商、慶應商工、暁星中、開成中、星城高校尋常部。 

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ベルリン・オリンピック各チームの歓迎会場

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『東京朝日新聞』1936年10月4日付「オリムピック選手各チームの歓迎会」

女子陸上:丸之内ホテル
女子水上:上野精養軒
蹴球:幸楽
籠球:幸楽

記事中にないが、陸上本隊も丸之内ホテル。

料亭「幸楽」については、「『蹴球』誌の広告 料亭「幸楽」」も参照されたい。元は肉屋の体育会系御用達のガッツリ料理が売り物だったようだ。サッカーとバスケットが同日同時刻に歓迎会ができるほどの規模で、二二六事件で反乱軍が宿営したことで著名。

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神田祭と湯島聖堂

渋谷に用事があったので、ついでに神田祭をチラ見してきた。

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銀座線で末広町に。

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駅を出たとたん、ハッピを着た人が大勢、神輿もあちこちに。

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男坂。

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神田明神の境内。

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町中神輿だらけ。

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近所の湯島聖堂に寄ってみた。

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孔子像。

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関東大震災で焼け残った入徳門。

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杏壇門。

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大成殿。

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その左右。

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大成殿内部。

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聖橋から東京医科歯科大方面。

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同じく御茶ノ水駅。もう日差しが夏ですな。


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81年前のワールドカップ新聞記事

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『東京朝日新聞』1934年7月10日付

東京朝日新聞の1934年第2回ワールドカップ・イタリア大会関係記事はこれだけ。日本サッカーはオリンピックにも未出場なのでこんなもんでしょう。

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元祖「早稲田の百姓一揆」?

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『東京朝日新聞』1935年12月18日付 「一九三五年の我がスポーツ界 ② 蹴球」に掲載された漫画

早FWの凄味      寒三

立原後続部隊長の一蹴で、左翼第一線に球が出ると、他の四人がナダレ込む凄さ! 無人の野を疾駆する悍馬だ”

漫画の5人は上から“平松君、川本君、加茂(兄)君、西邑君、加茂(弟)君” 平松以外の4人は翌年のベルリン・オリンピック代表に選出。

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リーグ戦は5戦全勝優勝。12月15日の東西1位対抗戦で関学に12-2で圧勝したときのメンバー 表

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洗足池と二子玉川ライズ

昔、洗足池に親戚がいて、東海道新幹線が開通した年に「ひかり」に乗って訪れたことがある。それ以来、一度も行ってないので、行ってみた。

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世田谷線、田園都市線、大井町線、池上線を乗り継いで、洗足池駅で下車。

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駅を出ると道路の向こうは洗足池。

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池の傍にある日蓮宗寺院の日蓮上人像。上人が足を洗ったので洗足池。

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日蓮上人袈裟架けの松。

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三代目とか。

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池に沿って遊歩道あり。

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蓮。

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アヤメ。

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鯉がたくさん。

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亀も。

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こういう池にお決まりの弁財天。

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駅の反対側から駅方面を。

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勝海舟夫妻の墓。別荘がここにあったそうだ。

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その横に西郷隆盛の漢詩の碑文。

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暑かったので、駅前の蕎麦屋でビールと冷やしたぬきそばのランチ。

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ゴールデンウィーク中に開業した二子玉川ライズに寄ってみた。

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駅から商業施設があって。

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高層マンションがあって。←こんなん作るから電車が混むねん。

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公園ゾーン。

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公園の先の多摩川の土手にスタバがあって。

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多摩川を見ながらお茶できます。

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商業ゾーンにはシネコンができました。

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蔦屋家電。オサレ本屋。カフェも併設、椅子もたっぷり。

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オフィス棟には楽天本社が入るそうな。

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1934年、都会に浸透するアメリカ文化、一方東北の農村では・・・

日本の一般大衆がアメリカン・フットボールに接したのはおそらくハリウッド映画においてであろう。記事中にも「活動では見たことがあっても本物の試合を見るのはこれが始めて」とあるように、1930年代前半には『蹴球大学』、『全米軍』、『ノートルデム大学精神』といったアメフト映画が日本でも公開されており、実際の試合は見たことがなくても、サッカー、ラグビー以外にアメリカン・フットボールが存在することは、多くの人が知っていたに違いない。

昨日紹介したYCAC戦の記事はスポーツ面以外に社会面でも取り上げられている。日本チームは大部分日系二世だったことがわかる。

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『東京朝日新聞』1934年11月30日付社会面(11面)

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同写真 試合観戦する秩父宮とグルー駐日アメリカ大使

急に力が出た筈
  米軍にもぐりが一人
      アメリカンフットボール 初試合珍風景

二十九日午後三時から神宮競技場でアメリカン・フットボールがデビューした。横濱カントリィ・アスレチック・クラブ(YCAC)対全東京学生選抜軍チームの試合デビューにふさわしく鳴物入りの素晴らしく華やかなお目見得だ。

◇・・・フロリダのジャズバンドが出張して試合開始前からまるでお祭騒ぎ、横濱の全外人が夫婦連れ、子供連れでドライヴして来て中央スタンドは「アメリカ語」で煮えくり返った。タクトを振る外人コンダクターの格好もすっかりホール気分だ。見物の外人は指揮棒に合せて心を浮かれさせ立ち上がっては大声でジャズの注文「ホイ、乾杯の歌!」

◇・・・普通席も学生でギッシリの満員、早稲田、明治、立教の応援団が旗をなびかせて元気一杯の声援だ。この声援流暢なアメリカ語。学生軍の大部分がアメリカ生れの第二世だ。応援団もまた第二世で固められてゐるのだから
負けっこない。時々学生の向ふ仕込みで優しく見え過ぎる応援団長が外人の前に出張って応援のリードだ。

◇・・・活動では見たことがあっても本物の試合を見るのはこれが始めて。解説付き九銭のプログラムが飛ぶ様に売れた。解説とにらめっこしての観戦だ。ヤンキー連はさすがお国自慢のスポーツ、得たり顔に、試合なんか始めからなめてかかって奇声、歓声の連発。

◇・・・試合終了少し前外人軍に急に力が出た。レフェリーがきょとんとして人数を勘定してゐると思ったらなあんだ十二人、十一人のメムバーが選手交代の時何時の間にか十二人になってゐた。お蔭で外人軍反則で十五ヤードの後退を命ぜられた。途端に毛皮を頭からかぶった外人がスタンドの前に飛出してとんぼ返りまでして応援だ。自称ジョニーウォーカー君、蜜柑を十字にくくって首にぶらさげて居た。二十六対零、ジョニーウォーカー君の折角のとんぼ返りも洋服が汚れただけのことになった。

◇…スポーツの宮様秩父宮殿下には競技場に台臨、終始御興深く御観覧遊ばされた【御写真は台覧の秩父宮殿下と米国大使】”

1934年はベーブルースを含む大リーグ選抜が来日した年でもある。

満州事変後、悪化する日米関係をよそに、都会ではハリウッド映画、野球をはじめとするアメリカン・スポーツ、さらにジャズのようなアメリカの大衆文化が浸透していた。アメフト記事が掲載された同じ紙面にはこんな記事も掲載されていた。

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同じ紙面なので、視線をずらすだけでモンタージュ効果が。

皇道派青年将校が決起するのは1年3か月後。

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アメフトもYCACに勝って「離陸」

野球、ラグビー、サッカーは明治期に一高、慶應義塾、東京高師がYCACに勝って「離陸」したことは「野球、サッカー、ラグビーの対YC&AC戦」に記した。

アメフトの対YCAC戦は昭和に入ってからで、1934(昭和9)年11月29日神宮外苑競技場で東京学生連合軍と対戦した。

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『東京朝日新聞』1934年11月28日付の試合告知記事。見出しには「日本で初めて紹介試合」とある。

試合はグル―駐日大使、秩父宮隣席で実施され、東京学生連合軍が26-0で勝利した。

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『東京朝日新聞』1934年11月30日付

1934年12月1日には東京学生アメリカン・フットボール連盟を設立、同月から早・明・立の3大学リーグ戦を開始する。

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『東京朝日新聞』1934年12月4日付

P.S. イギリスのロイヤル・ベイビーのフルネームって、「損保ジャパン日本興亜ホールディングス」みたいやね。

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吉村昭『海も暮れきる』

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吉村昭は『戦艦武蔵』の著者でもあるので、書名から船関係の本かと手に取ってみたら、小豆島土庄の寺で窮死した漂白の俳人尾崎放哉の伝記小説だった。この3月に小豆島土庄に行ったとき、尾崎放哉記念館の前まで行ったことがあったので、機縁を感じて購入、読んでみた。

書名は彼の句「障子あけて置く 海も暮れ来る」より。

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記念館前の句碑。危険なので近づくなと書いてあった。

尾崎放哉は東大法学部出で保険会社の管理職になりながら、酒癖の悪い性格破綻者で失職、離婚の後寺男をしながら最晩年を小豆島で送る。本書は小豆島来島後から死去までを描いている。吉村昭は若いころ放哉と同様、結核を患っていて、病床で放哉の俳句に親しんでいたとのこと。病状や死の恐怖の描写に大変迫力がある。

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現在オリーブを売り物にしている小豆島だが、特に土庄はイメージと異なって冬は3月になってもとても寒い。放哉が亡くなるのは4月7日だが、末期の寒さの描写も同時期に現地に行ったので納得できる。

放哉は土庄には宇野経由で来島、逝去した後大阪から船で来島する妻女は坂手港からタクシーで土庄に到着することも明記されており、いつもながら吉村昭のディテイルの正確さには脱帽する。

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西光寺の墓地。このどこかに放哉の墓があるとのこと。

自分も一句。

渋滞の ニュースをアテに ぼっち呑み

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1935年に開催された大阪毎日新聞主催全日本中等招待蹴球大会

大阪毎日新聞主催全国中等学校蹴球大会は第16回を1934年1月に開催している。決勝は1月7日で岐阜師範が優勝。ところが、翌年第17回1935年からは8月開催に変更になった。決勝は8月27日で神戸一中が優勝。そのため、1935年3月卒業生は最終学年に全国中等学校蹴球大会がなくなってしまった。その救済策として、1934年8月に大阪毎日新聞主催全国中等学校招待蹴球大会が開催された。決勝は8月29日で神戸一中が優勝。賀川浩氏はこの優勝も現・高校選手権の優勝回数に含めてもらいたいとおっしゃていた。上記の招待大会は『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部 1983)にも収録されている。

ところが、翌1935年4月28日~29日にも大阪毎日新聞主催全日本中等招待蹴球大会が開催されているのである。開催地は花園運動場。出場校は、韮崎中(山梨県)、浜松一中(静岡県)、京都師範(京都府)、天王寺師範(大阪府)、明星中(大阪府)、神戸一中(兵庫県)、広島一中(広島県)の7校。

4月28日(日)

(1回戦)
京都師範対明星(スコア不明だが2回戦に京都師範が進出しているので京都師範が勝ったもよう)
神戸一中 3-2 浜松一中
韮崎中 2-1 広島一中

準決勝
天王寺師範 4-3 京都師範
神戸一中 5-4 韮崎中

4月29日(月 天長節)

決勝
神戸一中 5-4 天王寺師範

優勝杯を受け取った神戸一中の主将は大谷四郎氏で、同年8月の全国中等学校蹴球大会にも優勝旗を受け取っている。

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1935年4月28日付『大阪毎日新聞』夕刊(当時日曜にも夕刊があった)

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1935年4月30日付『大阪毎日新聞』

この大会は高校(旧制中等)サッカー史に取り上げられていないのではなかろうか?

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明治期サッカー紹介書の挿絵

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簡易戸外遊戯法(1886)「蹴鞠」

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学校児童戸外遊戯法(1894)「蹴鞠」

1888

児童体育遊戯法(1888)「蹴鞠」

Photo

戸外遊戯法(1887)「蹴鞠」


1886

実地体育法(1886)「蹴鞠遊戯」

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小学戸外遊戯法(1886)「ふうとぼうる戯(蹴鞠ノ一種)」

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小学遊戯法(1888)「蹴鞠」

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普通小学遊戯法(1887)「蹴鞠(一名フートボール)」

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1933年神戸市立雲中小学校サッカーチームが東京遠征、油面小学校と対戦

雲中(うんちゅう)小学校は賀川浩氏の母校。賀川氏は1924年生なので、このときのメンバーには入ってないと思うが、兄賀川太郎氏は1922年生なので、遠征メンバーに入っていてもおかしくない。賀川兄弟は戦前(昭和8年)にサッカーで東京遠征するような小学校に通学していたのである。

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1933年3月27日付『東京朝日新聞』 神戸雲中小学蹴球上京

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1933年3月29日付『東京朝日新聞』 雲中一勝一敗 対油面小学校

油面小学校は当時東京の小学校サッカーを代表する小学校で、その教員クラブ、油面クラブは同年の関東実業団蹴球大会に優勝。

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1933年3月20日付『東京朝日新聞』

油面小学校の生徒も同年の関東小学校蹴球大会第1部(6年)に優勝。

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1933年9月11日付『東京朝日新聞』

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テレビドラマ『風のある街』

昨日紹介した田中澄江「サッカーと私」でテレビドラマ『風のある街』に言及されていた。1966年4月~1967年3月にNHKで放映された神戸が舞台のドラマで、「ご当地」とあって観た記憶があるが、ストーリーは全然覚えていない。記憶にあるのは主題歌で、いしだあゆみが唄っていた。

私の記憶によれば、主人公を演じた島かおりの故郷が姫路沖の家島に設定されていたはずで、3月に姫路経由で小豆島に行ったとき、マドレーヌの味の如くw、メロディがよみがえったのであった。

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家島はあなごが名物らしい。書いてるうちに、家島にも行ってみたくなってきたw


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