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戦前の女子サッカー関係資料

●「女子運動倶楽部の設置」『東京朝日新聞』1904年7月1日付

女子運動倶楽部の設置

下谷区谷中真島町一番地なる東京女子体操音楽学校にては今回一般女子の体育を奨励するの目的を以て女子倶楽部なるものを同校内に設置し希望者は何時にても入会して毎日午前九時より午後六時左記備へ付けの器械を使用し随意に運動し得ることとせり。因に同校は高燥閑静の地にあり且四顧緑林に包まれ居れば夏期の運動場には好適地なりといふ。
備付運動機械 運動?? ○クロッケー○ホッケー○自転車○フートボール○ロンテンス○??○玉突○室内遊戯”

東京女子体操音楽学校校長高橋忠次郎は『新式女子遊戯法 : 理論実際』(榊原文盛堂 1904)を著しており、その中には「フートボール遊戯」もあるので、「フートボール」が同校に備わっていたということは、おそらく「フートボール」も教授されていたのではないだろうか。

●1906(明治39)年5月27日私立高千穂小学校運動会で3・4年女子がフットボール

1906(明治39)年5月27日私立高千穂小学校運動会で3・4年女子がフットボールをした、という新聞記事を見つけたので、紹介したい。

『東京朝日新聞』1906年5月29日付

“●高千穂小学校春季運動会

五月二十七日正午から、同校講堂で紀念式がありまして、時間正しく式を終へ、午後一時に運動会が始まりました。其時、見ましたところを、ざっとお話申し上げませう。

<中略>

五、フットボール・・・・・第三四女

女の子が、フットボールをするのですから、学校全体の元気があります事がよく分りますので、それに足を取られたり、倒れたりしても、少しも泣かぬ事などは、よい気性にしつけられました。紅も白も、両方自分の陣の門の中にまりを蹴り入れられた方がまけとなるのであるのです。

<後略>”

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「紅も白も、両方自分の陣の門の中にまりを蹴り入れられた方がまけとなる」とあるので、サッカーに近いフットボールだったようである。高千穂小学校は現・高千穂大学となっている高千穂学園の小学校。高千穂学園は小学校から始まったが、後に大学以外の小・中・高は廃校となって、現在は大学のみが現存。→「高千穂大学 歴史と沿革

当時の小学校は4年制。なお、記事全体を読んでも、男子種目に「フットボール」がない。

●田中澄江「サッカーと私」『中央公論』82巻7号通号957号 1967年6月号 pp.307-308

サッカーと私

       田中澄江
          (劇作家)

 もう大分前のこと、京都へゆく汽車の食堂で、えんじのスエーターを着た青年をとりまいて、署名を求めている乗客たちを見た。青年の隣には妙齢の女人などもいて、ボーイに聞くと、国鉄の金田だという。とたんにわたくしは、国鉄も派手ねえと連れにむかって言ったものだ。その時、国鉄の年末ストライキが終ったばかりで、多分闘争委員長なのだろう、ストライキがうまくいったので、ああして勤労少年、少女らしい乗客が、サインしてもらっているのだろうと思ったのである。

 野球は嫌いだ。娘時代にたった一度、早慶戦なるものにつれいかれてこりごりした。万余の観衆の前で、一つかみの人間が、小さい小さいボールを棒にぶつけたり、走ったりころんだりしている。気長な陣取りごっこのようで、何ともしん気くさい眺めだった。野球にくらべれば、ホッケーもラグビーも動きが鮮かでおもしろいが、怪我でもしたらと心配がつきまとう。豪壮で広大で、かつ技の繊細なるを積み重ねて得点に至り、ゴールキーパー以外に手をつかわぬという制約が、その戦法に優雅な武士のたしなみを匂わせて、観る者の心を魅了するのは、サッカーに如くはないと思っている。

 大昔、わたくしはサッカーの選手だった。と言っても女の子の体操の時間に、先生にねだって、男の子のすなるものを、女の子にもさせてたべとたのんだのである。

 アソシエーション・フットボールと言った。ふだんは蹴球と呼びならわし、体操の時間に、先生が大きなボールをかかえて来て、屋内体操場のデッドボールの線の中に押しこめようとすると、「せんせえ、外へいってしゅうきゅうをさせて下さあい」と叫んだ。

 蹴球はよい。背が高いからたいていゴールキーパーにされる。何しろ、広い運動場のはじからはじまで見わたしてプレーできるのがよかった。ゴールを背にして立った時、まさに天下二分の戦いの野に臨む気持ちで胸がはずんだ。はるかなるセンターラインをめぐって戦いの火ぶたがきられると、球は転々東へ西へ。追うひと追われるひと、ころぶひと、走るひと、女の子だからそれにきゃあきゃあの声がかぶさって、勝っても負けても見ているだけで賑やかな眺めがおもしろいのである。しっかりとかがんばれとか叫んだりとんだりしているうちに、戦域はあわただしくゴールの前にせまる。わがジャンプの腕を見よとばかり、身構えして待つ間もなく、相手のシュートきまって、ボールはみごとにゴールイン。わたくしはがっくりと尻餅。それでも悔はないのである。

 試合開始とともに全員の動きのままに、自分も動いている。攻め手になり、守り手になればその動きはさらに活発で、ボールとともに広い運動場のすみからすみまで走りまわる。この運動場の大きさが、勝敗を越えて快感だけを残すのであろう。

 わたくしのいっていたのは、豊島師範の附属小学校で、本校は青山師範、高等師範と並んで、東京の蹴球界の花形であった。

 この一年、NHKで、青少年向けの「風のある街」というテレビドラマを書いた時、わたくしは舞台が蹴球のさかんだった神戸なので、女の中学生のチームづくりをその筋の発展にしたいと思った。新任の女教師にヘッディングをやらせたり、勉強のできない子をシュートの名人にして、学業にも自信持たせたりと、いろいろ考えたが、スタジオドラマで、とても練習場面ができないとのことで、二、三回してやめてしまったら、神戸女学院に本当の女の子のチームができたという。もう少し書きつづければよかったと残念だった。

 オリンピックで日本チームが活躍した時はうれしかった。新聞の運動欄は野球など見たこともないが、サッカーだけは、ていねいに読む。

 テレビの前で、森だの杉山だの釜本だのと、知ったかぶりを連発すると、家のものが、にやにやする。日頃は運動など、自分でやるもので、ひとのやるのを見てのぼせているものの気が知れないと言い通しなのである。でもサッカーだけは見ていることが自分の運動にもなるという説を持っている。

 なお、もとの高師、いまの教育大付属を出たお嬢さんに聞いたら、やっぱりここでも体操の時間に、女の子たちが好んでサッカーをやったそうだ。”

著者の田中澄江(1908-2000)は成瀬巳喜男監督『流れる』、『めし』などで知られる女性脚本家。1908年生なので、通学した豊島師範附属小学校でサッカーをしたのは1910年代後半になる。豊島師範にサッカーを伝えたのは1909年に東京高師を卒業し同校に赴任した内野台嶺。後藤健生氏の『日本サッカー史 資料編』によれば、1902年生の鈴木重義(早稲田サッカーの始祖、1936年ベルリン・オリンピック代表監督)も豊島師範附属小学校でサッカーを始めたとのこと。田中澄江は鈴木の6年後輩になる。東京高師で始まったサッカーは豊島師範からその附属小学校へ、さらにその女生徒にまで驚くべきスピードで浸透していった。

●原島好文著「ソッカー十年の思ひ出」『運動界』10巻4号(1929年4月) pp.36-45

著者の東京蹴球団時代の回想記。以下の文章がある。

“ その頃、東京蹴球団には婦人の団員が二人居た。モガの詞の無かった頃のモガで、彼女達はユニホームを着てグラウンドに出た。長岡君の紹介で入団したのだったらう。一人は丸顔一人は細面で一寸可愛い娘であった。二人は華美なストッキングをつけフットボール専用の靴を履いてゐた。或日の東京日日新聞紙上に、絵日傘をさしてニコニコしながらゲームを見てゐる二人の写真が出たっけ。

 その二人をメンバーに入れて試合した。肉弾戦のまだ大目に見られる頃であったが、まさか突当る訳にも行かず、相手の中学テームはさんざんに悩まされたことがあった。

 だんだんグラウンドに出るのが少くなったと思ふうち姿を消して、噂だけはしばらく残して置いたが、今は誰かのお母様になってゐるだらう。”

新聞は東京日日新聞ではなく、『東京朝日新聞』1921(大正10)年5月8日付。

婦人蹴球の魁に
  起たんとする二女学生
    ―昨日豪雨中予選の蹴球見物―

つい此程東京蹴球団へ二女学生が入団を申込んだ。意外の事に一驚した幹部は種々研究もし相談もした揚句彼女等の希望は頗る真面目に競技を研究し婦人チームを組織したい目的だと判って入団を許した。両女は共に桜井女塾の生徒で本科一年生小笹浅子(十八)と阿部かね(十八)と云ふ性来の女ファンで極東大会の蹴球予選開始以来一日も欠かさず軽快な揃ひの洋装で豊島師範のグラウンドに詰めかけ昨日の如き土砂降を物ともせず熱心見物して居た。蹴球団の佐々木氏は『驚いたもので十四、五人婦人のメムバーも拵へ上げ先づランニングから初めてキックに進むなどと頗る科学的にやってゐる』と語った。”

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桜井女塾はミッション系の英語教育が特徴の女子専門学校だったようである。

●「大正にも「なでしこ」 香川・丸亀で絵葉書」『朝日新聞』2011年11月30日付(大阪)

大正にも「なでしこ」
 香川・丸亀で絵はがき

 大正時代に女子生徒がサッカーを楽しんでいたとみられる写真を使った2種類の絵はがきが見つかったと、香川県丸亀市が29日発表した。市は今後、「なでしこジャパンの先駆けの地」としてPRするという。

 いずれも丸亀城を背景にした校庭で、はかまの裾をしぼった女子生徒20人ほどがボールを追いかける光景が写っていた。市立資料館で見つかり、同じものが旧丸亀高等女学校(現丸亀高)でも確認された。撮影年は不明だが、1921(大正10)~22年の資料を入れていた袋の中にあったという。丸亀高によると、20年の卒業生が戦後書いた文集に「フットボールがすきで大根足になった」との記載があるという。

 丸亀高の卒業生でなでしこジャパンGKコーチの前田信弘さん(38)は「先輩がなでしこの先駆けなら、こんなにうれしいことはない。チームにも伝えたい」と喜んだ。”

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