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日本リーグの発足が大学サッカーのレベル低下を招いた 1969年ワールドカップ予選敗退後の長沼監督インタビュー

『朝日新聞』1969年11月2日付

ゆっくり話そう
   日本代表チーム監督
         長沼 健氏

日本サッカーの再建
“プロ化”には反対
   指導通じて仕事と両立

 メキシコ五輪で銅メダルをとった日本サッカーが、先日ソウルで開かれた世界サッカー予選で、豪州、韓国と戦い、最下位になった。サッカー・ブームといわれる折りから予想外の不振とみる人、またエース釜本が欠場し、薄い選手層からみて敗戦は当然とみる人などまちまちだが、大会を終って約十日間、試合当時の興奮した頭が冷えてきたところで、長沼監督に敗因や再建策などを聞いてみた。

―負けてやっぱりがっかりしたでしょう。

 勝負は勝たなくてはならない。くやしいですよ。だが、大切なことは負けたあとの処置だと思います。たとえ勝ったとしても、浮かれ過ぎてもいけないし、負けてクシュンとなってもいけない。負けたあと、何を考え何がやれるか―それが協会の実力だと思います。

―考えるって、具体的にはどんなこと?

 まず、なぜ負けたのかということ。試合の準備は万全だったろうか。メキシコ五輪の時のようにトップコンディションにもっていくことが、なぜできなかったか。彼我の戦力の分析が間違っていなかったか。作戦上の誤りはなかったか。選手の母体チームでの練習に欠点はなかったか、などです。これらのことをこまかく再チェックしているわけです。結果として、われわれはみな会社員だから本来の仕事を持っている。外国のように自由に練習できない。しかしその限られた環境の中でも、最善をつくしてきたか、といえばやはり努力不足だった、ということです。合宿は九日間しかやれなかったし、メキシコ当時にくらべると月とスッポンくらいの悪条件でした。

―釜本欠場も敗因では・・・・・

 今までの日本チームは、攻撃面で釜本を使う形の試合が多かった。彼の欠場で作戦変更を余儀なくされ、急に対策を考えなくてはならなくなった。図面の上で理論的に作戦を組立てることはできたが、選手たちがグラウンド上で身をもってその作戦を生かすことができなかった。練習不足―そして体力、技力も劣っていた・・・・・。

―合宿練習がやりにくいことは将来とも問題でしょう。

 われわれはアマチュアだから、しょっちゅう合同練習ができない。だからコーチが勉強しなくてはならない。幸い日本リーグが盛んになってきているから、われわれはこれを十分利用したい。各チームのコーチが、みんな心を一つにして、平生からリーグめざし、身につく練習指導をしておれば、いざという時に、いつでもやれる。コーチ組織の確立が、次に打つ手でいちばん大切なことです。さきごろ国際サッカー連盟コーチ学校で生れた十二人の公認コーチ、それに八重樫、岡野、平木といった有能な人が、それぞれ二十人のコーチを育てれば、すぐ何百人にふえる。こんどは日本協会も内容あるコーチ学校を開いて、日本協会公認コーチをつくり、全国に配置するつもりです。

―コーチが優秀でも、選手の環境をよくしなくてはだめなのでは・・・・・。

 だからといって仕事や学業を休んで練習できない。セミプロやプロ化は反対です。少し前、日本にもプロをつくれとの議論が出たが目先のことだけを考えて選手を商品化するような無責任なやり方は、堕落したプロになりやすい。それにグラウンド数、選手層、財政面をみてもプロ化は暴論です。我々はアマチュアとして努力してきたし、それを誇りに思っている。現在の限られた環境でも、まだやるべきことはたくさんある。

 だが次のことはいえます。選手がサッカーだけをやっていて仕事の面で同期の人よりどんどん遅れていくのがかわいそうだということです。会社のえらい人がサッカーをやるのも、仕事をするのと同じと認めてくれればいいんですがね。それもほんの四、五年でいいのです。われわれがレジャーでやっているのならわがななはいいません。だがオリンピックや世界選手権へ出るのはレジャーではもう間に合いません。これはサッカーに限らず、会社先週の多い日本スポーツ界に共通した一大問題ではないですか。いまは余暇を全部サッカーに打込み、本を一冊読むヒマもない。それではかわいそうです。もちろん選手が甘えすぎてはいけませんが・・・・・。十分サッカーがやれる環境を精神的にも支えてやりたいですね。

―それにしても釜本に続く次代のホープが育ちませんね。

 先日の英大学選抜との試合をみてがっかりしました。時代のホープの大学生のレベルが落ちている。ブームといわれ部員は倍増しているのに悪いグラウンドは昔のまま。それに日本リーグが盛んになりすぎて、若いOBやコーチが大学のめんどうがみれなくなった。これがレベルの低下の原因です。だからこそコーチ組織の確立を一日も早くやりたいのです。われわれは、次の目標のミュンヘン五輪には自信を持っています。”

それに日本リーグが盛んになりすぎて、若いOBやコーチが大学のめんどうがみれなくなった。

というのは、具体的には以下のとおりである。

1965年に日本サッカー・リーグが始まる前の社会人(実業団)の主要公式戦は、

1) 全日本選手権大会(天皇杯)(日本蹴球協会主催 5月のゴールデン・ウィークに開催)
2) 全国都市対抗サッカー選手権大会(読売新聞主催 8月のお盆の時期に開催)→「全国都市対抗サッカー選手権大会記録
3) 全日本実業団サッカー大会(朝日新聞主催 主として9月に開催 最後の3回のみ11月開催)→「全日本実業団サッカー大会記録

が3大大会であった。10~12月に開催される大学サッカーリーグとは日程が重ならないようになっており、大学サッカー・リーグは社会人(実業団)選手の「シーズン・オフ」の時期にあたっていた。また、1950年代までは、出身大学の近くに居住している社会人(実業団)選手は、全日本選手権大会には出身大学クラブ(現役・OB混成チーム)所属選手として出場するのが一般的であり、その際後輩の現役大学生を指導する機会も多かったはずである。すでに古河電工に就職していた長沼健氏も、1956円の全日本選手権大会には中大クラブから出場している。→「出身大学クラブ、地域クラブでもプレーしていた1950年代の社会人選手

日本サッカー・リーグは大学サッカー・リーグと完全に日程が重なっており、選手であれコーチであれ社会人OBが大学リーグ期間中に後輩大学生を指導する機会はなくなった。また、1960年代からは社会人選手も所属社会人(実業団)チームから全日本選手権大会に出場するようになり、ここで後輩を指導する機会もすでになくなっていた。

これが、日本サッカー・リーグ開始後、社会人と大学の格差が拡大した一因であった。

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轡田三男氏による代表強化史

『朝日新聞』1968年11月10日付

吾等の素顔 ① サッカー
    轡田三男

武者修行でウデみがく

 オリンピック・サッカーの三位決定戦に、地元のメキシコ・チームを破ったとき、現地で長沼監督は「われわれは、日本サッカーの歴史を書きかえた」と語った。日本サッカーの歴史を書きかえたのは、この長沼健監督、岡野俊一郎コーチ、現地で“忍者コーチ”といわれた平木隆三コーチ、メルボルン大会以来のベテラン八重樫茂生主将らを中心とする日本サッカーの“若い潮”である。

 いずれも西ドイツのクラマー・コーチの愛弟子だが、彼らを中心とする代表チーム全員が、いわゆる“クラさん”(クラマー・コーチの愛称)一門であり、この若い根っ子の連中がひとりひとり、歴史の転換をやってのけたのである。

 それにしても、クラマー・コーチが余人だったら、どういうことになったかわからない。それを考えると、この歴史の転換が、クラマー氏の人格を中心とする、日本サッカー界の結集によっておこなわれたといっても、いい過ぎではないと思う。

 “メキシコは一日にして成らない”。クラマー氏との出合い以来八年間、それにはそれだけのモトもかかっている。

 監督もコーチも、選手のだれもいうように「国際試合の経験」が、ここでも大きくモノをいっている。ブームに乗って金もうけのために外国チームのそれもプロをよぶだの、陰口をたたかれながらも、毎年の武者修業的遠征をくりかえしてきた。

 強化のためには、常に世界の一流チームの胸をかりなければならない。せっかく国際試合の体験をしても、また一カ月国内チームとのドングリ試合をくりかえせば、かなしいかな感覚はまた元のモクアミとなる。地理的環境による日本の宿命でもあるが、少しでもそれを克服して、国際試合感覚を養うのが急務であった。

 むかしの協会機関誌をひっくりかえしていたら、ローマ大会予選で韓国と一勝一敗、得失点差で敗れたときの記事がでてきた。そのとき竹腰監督(現協会理事長)が、だれかに「竹腰さん、あんた死になはれ」といわれたというが、その直後日本は、はじめてソ連・ヨーロッパ遠征を企てた。地元の韓国にさえ勝てないのに、借金までして何の遠征かといわれたものである。

 日本サッカーの強化策は、正確にいえば第九回アムステルダム大会の翌一九二九年、国際サッカー連盟加盟と同時に発足した。当時最初の目標は、ロサンゼルス大会だったが、このときは外国選手の賃金保障問題がもつれ、競技種目からはずされた。しかし、この“前近代強化策”はようやく次のベルリン大会で強敵スウェーデンを一回戦で公判3点をあげ、3-2で破る「ベルリンの奇跡」を生むことになった。

 東京からメキシコにつながる「近代強化策」のスタートは、この一九六〇年八月の第一回遠征であったが、八月十八日、西ドイツのジュッセルドルフ空港着の竹腰団長以下選手団を迎えたなかに、クラマーさんがいた。このときが日本チームとクラさんとの、最初の出合いだった。初めてクラさんが来日したのは、その年の十月。ここにクラさんと日本サッカー、またその一門とのつながりが発足したのである。以来八年、日本代表チームのあるところ、常に影のようにクラさんの姿があった。

 メキシコへの土台を作った「日本リーグ」結成の提案もクラマー氏だが、そもそもクラさんにほれこんだのは、第一回遠征チームに先がけて西ドイツ入りした野津協会会長が、クラさんの部屋にかけてあった「物を見るのは、精神である。物を聞くのも精神である。目それ自体はめくらであり、耳それ自体はつんぼである」という座右銘であった。その野津会長が、東京大会以来「モツを食え、チーズを食え」と選手の栄養補給に目の色を変えていっていた。無理算段の遠征から、東京大会以来は、少しはゆとりのある遠征もできるようになった。日本リーグ成功のお陰である。モツを食い、チーズを食えたのも、ファンの支援である。銅メダルはこの支援に還元して、今後の強化に再出発しなければならない。

 竹腰理事長は現地で「もう死んでもいい」といったそうだ。この日にかけた八年の実感だろうが、現場には現場、老骨には老骨の出る場がある。竹腰さんは若手に専用サッカー場をおくるまでは、死にきれないというのが真相であろう。

      (日本蹴球協会常務理事)”

日本代表の「武者修行」の嚆矢はベルリン・オリンピックで、オリンピック後もニーダーラインガウ選抜(ドイツ)、グラスホッパー(スイス)と「武者修行」を続けている。「JFAは1940年東京オリンピックに備えてドイツ人コーチ招聘を計画していた」に記したように、1940年東京オリンピックの強化策として、

“◇第三回世界選手権大会出場並に英国遠征学生大会出場
役員三名、選手二十二名、十三年四月上旬出発、五月英、独転戦、六月四日より十九日パリにて本大会出場、七月学生大会出場、八月下旬帰朝”

1938年ワールドカップ・フランス大会出場に絡めて、4月上旬出発、8月下旬帰朝という超長期遠征計画があったのである。野津、竹腰、小野氏はすでにこのとき協会幹部であったから、戦後の「武者修行」もこの延長上にあったというべきであろう。

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等々力渓谷散歩

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同じ世田谷区内だが、世田谷線、田園都市線、大井町線を乗り継いで等々力駅へ。

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駅前からすぐのところに、降りる入口がある。

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階段を降りる。

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こんな感じで川沿いに遊歩道が。

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古墳があるらしい。

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階段を登ると高台に。

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高台で南向き、高級住宅街。

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古代人も住みたい場所は現代と同じ。手前が方形、後ろが円形の前方後円墳。

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上まで登れる。

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てっぺんはこんな感じ。

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再び等々力渓谷へ。

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稚児大師。

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湧水が引かれてる。

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「不動の滝」は湧水。滝がとどろいたので等々力(とどろき)という地名になったそうだ。

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滝のそばに茶屋がある。

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そのわきの階段を登ると。

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等々力不動尊。

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観衆は一足先に南米化 1968年対アーセナル戦第3戦

『朝日新聞』1968年5月30日付

六万八千の大声援
   天井知らずのサッカー観客
      お行儀の悪さも“新記録”

 ○・・・二十九日の国立競技場は、六万八千人の観客が押寄せ、さすがのマンモススタンドもほとんど埋めつくされた。第一戦の五万八千人を一万人オーバーしただけでなく、東京五輪の決勝、チェコ対ハンガリーの六万六千人を上回り、日本サッカー史上最大の観客動員となった。国内のサッカーで六万以上の観客を動員したのは、昨年十月のっメキシコ五輪サッカーアジア地域予選の日本‐韓国戦など三度目。この夜、プロ野球っは東西で六試合やったが、観客は全部で約七万人で、このサッカー一試合とほぼ同じ。むろん国際試合という特殊性はあるにしても、何年か前には想像もできない人気だ。

 ○・・・試合も日本が激しい闘志を見せ、クラマー・コーチも「インタナショナル・マッチ!!」というほどの盛上りを見せたから、六万八千のファンもすっかり興奮。スタンドからはしきりに紙テープを投げていたが、これが競技場備えつけのトイレットペーパー。つけけても、つけかえても消えてしまい。国立競技場側では約三百本も使われたとプンプン。

 また。試合終了後のスタンドは例のごとく紙くずの山。約三十人の清掃員をかり出して、跡始末にあたったが、午前二時までかかり、紙くずはトラック五台分も出たとか。「お客もフェアプレーで願いたいですねえ」と競技場側は頭をかかえていた。”

『朝日新聞』1968年5月31日付「観覧席」欄

節度を失った観衆 日英サッカー

 日本人だから日本チームの勝利を願うのは当然のこと。だが、スポーツでの国際親善試合の応援には、おのずと節度とマナーが必要だし、過去の日本ではそれが守られ、われわれはこれを誇りにしてきた。ところが二十九日のサッカー、アーセナルとの第三戦での応援には、ひいきのひき倒しのような荒っぽいものが多く、やや暴走のきらいがあった。

 イギリス選手が負傷したり、エラーし、しりもちをついたりすると、これをやじる歓声は、スタンドをゆるがすばかり。トイレットペーパーが飛び、花火が鳴る。イギリスのきれいな得点には拍手もまばら。相手がプロだからといってもファインプレーをたたえるぐらいのゆとりが欲しいし、相手のきわどい失敗にはタメ息をつくくらいあってもいいのではないか。実際この日の観客に、サッカーの本当の技術を楽しもうと思ってきた人は果して何人あったのかと思えるほど。得点が開いてくるとカメラマン席に、うしろからこぶし大の石がとんできた。全くおとな気ない。

 七万人近い大観衆は新記録というが、本当にサッカーを楽しめるファンがふえてこそのブームといえるのではないか。現状は節度のない観客がブームに先行しているような気がする。外国でも、サッカーには暴動がしばしば起る。だからといって日本が、これをまねることはあるまい。マナーの点で、サッカー・ブームもいまだしといえようか。”

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日本サッカーのブラジル化第一歩 ネルソン吉村ヤンマー加入

『朝日新聞』1967年10月29日付

日曜スコープ
  ブラジルから
    やってきたサッカー選手
       ネルソン・吉村

体を使わずに操る球
   旋盤工としてもいい腕

 “ブラジルからやってきた選手”サッカー界の話題はいま彼に集っている。その名はネルソン・吉村、二十歳。日本サッカー・リーグであばれているヤンマーディーゼルのフォワードである。

 彼がやってきたのは去る六月中旬、ちょうどそのころ来日していた一流プロのパルメライス・クラブによって、クローズアップされたブラジル・サッカーのイメージが、この“ブラジルからやってきた選手”の上にかさなって、関心を呼んだ。六月末ヤンマーが早大と西宮東高校のグラウンドで試合をやったら、練習試合だというのに各社の新聞記者が集っていた。

 ネルソンはブラジル風にボールを巧みに操り二点をあげた。「すばらしいボールテクニックだ」「釜本も楽になるだろう。二人がうまく結び付くと面白いぞ」と評判はひろまった。そのときただ一つ残った懸念は「日本流の強い体当り的プレーを好まないらしい」様子だけだった。果して公式試合でのデビューとなった去る十五日の対八幡製鉄のときには、八幡のぴったりくっついたきびしいマークに出会って余りさえなかった。その初舞台の感想を聞くとこういった。

 日本のサッカーはヨーロッパ的だね。身体でやるでしょう。ブラジルではそんなに身体を使わない

―驚いたかい?

 早稲田のときは少しぶっくりしたが、こんどはそう気にしなかった。だが八幡の守りは強いよ

―初舞台で堅くなったかな。

 少しね・・・・・。だがすぐなれるから心配しない。つぎはシュートもするよ、きっと

 とニコニコ笑い出した。その翌週の対東洋工業戦で、早速約束のシュートで決勝点をあげてしまった。釜本のパスを胸で受け、さらにポンポンと二度ボールを空中に浮かせてマークをはずしざまのボレー・シュート、持味を思うままに出し切ったプレーだった。そのあと「こんどはシュートしたよ」と寄ってくるネルソンは、屈託がない。全く朗らかで素直な好青年である。「はじめ日本流の練習をみて、こんな練習はブラジルではやってないといっていたが、決して文句をいわずついてきました」という鬼武監督はじめ、周囲の人々に聞いても、みんな彼は素直だとほめる。

 国鉄尼崎駅に近いヤンマーディーゼル神崎工場がネルソンの職場である。ヤンマーのサンパウロ工場に今春採用された彼は、旋盤技術を身につけるためただ一人の訓練生として日本にやってきた。毎日午前八時半から寿一時四十五分まで、旋盤作業に取組んでいる姿をのぞき、訓練生指導係の藤井静夫さんにそっと仕事ぶりを聞いてみた。

 普通三年の養成課程のうちで、三年目にやる課題を四カ月目でもうやっているという。しかも、彼の場合は午後に日本語講習があるので実習は午前中だけだから、実質二カ月目だ。「なかなかいい腕ですよ。実に機械操作ののみこみが早い。だいたい旋盤機械を扱うには運動神経がいるのだが、サッカーのカンがよく現れていますよ。はじめは小生意気なのが来はしまいかと思っていたが、非常に素直だし、熱心で努力家ですよ。ぜひ立派な技師にさせたいですね」と藤井さんは大変ほめる。

 ネルソンは、練習のない日でもすぐ寮に帰ってくる。外出はほとんどしない。日本へ来てから映画をみたのはただの一回。 退屈だろうと心配したら「テレビをみている。わかりやすいのでチャンバラが好きだ。感じがむずかしいのでまだ本は読めない。余り人の多いところは好きでないが、街に出たくなったら寮のおじさんにつれていってもらうよ」

 地球の裏側へきても「ちっとも寂しくない。仲間はみんなよい人だし、仕事も面白い。もちろんサッカーは一番たのしい」そうだ。”

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1967年サッカー界の総括

『朝日新聞』1967年12月29日付

記者の目'67 ⑩ サッカー

人気上昇したが
 忘れられた若手の育成

 今年のサッカー界は国際試合の花盛りだった。二月のソ連オリンピックチームに始り、全英アマチュア、ブラジルのパルメイラス、メキシコ五輪アジア地区予選、そしてソ連、チェコを呼んでの朝日国際サッカー。応接いとまない国際試合。その年間予算はざっと一億九千万円と聞く。大会ごとに人を集め、五輪予選の日本ー韓国では史上最高の六万人、収支も大幅な黒字とか。まことに鮮かなお手並みであった。その結果、メキシコ五輪の出場権を獲得したのだから普及、強化の両面において大変結構な年であったに違いない。

 だが、“国際狂想曲”の一年をかえりみて、なにか充実感に欠けるものがあった。協会はいたずらに人気を、またお金を追うあまり、次代をになう大学、高校などの強化、指導者の養成がともなわなかったところにサッカーブームが“虚栄の市”として、映るのである。ナショナル・チーム、日本リーグ、国際試合など現在、脚光を浴びているものだけに目を注ぎ、本来手を差しのべてやるべき“おさな児”は放置してしまったといっても過言ではない。

 現在のナショナル・チームは東京五輪用に西ドイツのクラマー・コーチから特訓された選手がほとんどである。あとにつぐ選手育成を怠っては、せっかく咲いた花もすぐにしぼんでしまうだろう。

 協会主催の二大国内競技の一つ、全国大学選手権大会でこんなことがあった。

 初日、駒沢の三会場で試合が行われたが、第三球技場はサッカーが出来る状態ではなかった。グラウンドはどろんこ、これはまだしも、会場には記録係もなく、タッチラインすれすれのところに、高さ30センチほどの鉄サクがあるという危険な状態だった。また第二球技場のスコアボードには、前に行われた別の競技のチーム名がそのまま残っていた。

 昨年からこの大会は、全国の各ブロックから代表十六校が集り、名実とも“大学日本一”を決める大会に改革した矢先で、上位四チームには晴れの全日本選手権への出場権が与えられるほどの権威ある大会である。「もう、手が回らない」とある理事はいったが、しかしこの大会期間中の二十四日にはアメリカのプロチームの試合が国立競技場で行われた。そしてこれにはギャラを含めて二百万円もの経費がかけられた。このような無節操な行事日程はついには古河電工が全日本選手権大会を辞退する遠因をも招いた。

 上を向いて、トップのレベルアップを目ざした67年だが、今のサッカー界には、しっかりした地固めが先決問題ではなかろうか。

年末の言葉

 日本蹴球協会会長
     野津 謙

 ムルデカ大会への不参加を決めたのは、メキシコへの強化のためには、南米遠征した方が良いと思ったからだ。決してアジアを軽視したわけではない。

 今年は普及の面でも選手強化の面でもやり残したという点はなかった。ただ、これからの急務としてはコーチ問題がある。ようやく青少年がサッカーの魅力を認めてくれ、数がふえている。これを助長するためにも、指導者層を厚くしていくことが先決だ。

 現状では全日本のコーチ以外に有能なコーチが少なく、地方で素質を持ちながら埋もれる選手が多い。明年の三月にクラマー・コーチを呼んでコーチの資格審査をしてもらう予定だ。このコーチシステムの確立が、いま一番の急務である。(談)”

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1966年体協、サッカーのプロアマ交流試合を承認

これはサッカー史上、地味だが重要な決定である。

『朝日新聞』1966年5月25日付

プロ・アマ対戦認む
    サッカー 体協アマ委で決定

 日本体協のアマチュア委員会(前田豊委員長)は二十四日正午から東京・代々木の岸記念体育会館で開かれ、日本蹴球協会が計画している英国プロ・サッカーチームとの交流試合を認めることを決めた。

 同協会が英国のスコットランド一部リーグのスターリング・アルビオンチームを来月下旬か七月上旬に招き東京・駒沢、国立両競技場で日本リーグ選抜チーム、全日本選抜チームと二試合をおこなって技術の向上をはかろうと計画したもの。プロとの対戦はアマチュア資格にふれるのではないかという一部体協関係者の発言があったため、その結論が注目されていた。

 この会議では①国際サッカー競技連盟(FIFA)がプロとアマとの交流試合を禁じておらず、国内的には体協アマ規定附属書、4項のアマ規定4の1によって認められる②プロとの交流試合を行うことによって日本サッカー界の技術向上に役立つ―という点を重視したものである。

 この問題についてさきに体協側からアマチュア委員会が取扱いを一任されていたもので、この日のアマチュア委員会の結論が自動的に体協の決定となる。

 なおゴルフ競技はこれまでプロとアマ選手がいっしょに競技会を行なっていたが、今後アマがこういった競技会に参加する場合はアマチュア委員会に競技参加の申請手続きが必要となった。

IFの規定を優先

 【解説】体協は原則的には、IOC憲章の精神を尊重して、プロとアマとの試合を禁じていながらも、サッカーの場合は世界の現状を無視出来ず、許可制によって国内でも試合を認めることになった。この決定によって体協のアマチュアに関する根本的な考え方として、IF(各国際競技連盟)のアマチュア規程の優先を認めることになったのが注目される。

これまで体協は加盟団体を一つのアマチュア規程によって統一しようとしていた意図がくじかれ、今後アマとプロとの試合を禁じていないサッカー、ゴルフ、自転車はIFの規約を全面的に認めることになったといえる。したがって今後これらIFの規約が変更すればその都度、体協のアマチュアに対する考え方も変えなければならないはめになった。

 体協はこの問題の取扱い方として独自のアマチュア規程をなんとか守るため、アマ規定附属書4条の1(プロ競技者と協議する場合、IFが認めている団体はその規程を提出して理事会の承認を得なければならない)の項を適用したわけだ。”

朝日はこの件を解説付きで詳報しているが、毎日、読売はあっさりした記事である。

『毎日新聞』1966年5月25日付

プロ・サッカーの招待承認
    体協アマ委員会

 体協は二十四日のアマチュア委員会(前田豊委員長)で「外国のプロ・チームと試合がしたい」という日本サッカー協会の申入れを認めた。体協のアマチュア規程では、原則としてプロと試合することを禁じ、特例で認める道は残しているが、その解釈をめぐって意見が分かれたため、アマチュア委の検討にゆだねられていた。

 同委員会が、プロとの試合を認めたのは①国際サッカー連盟でプロとの交流を認めており、国内規定の“特例”にあてはまる②サッカーの技術向上に役立つ―というもので、日本のアマ規定にふれないとの結論になった。

 またこの問題と関連して、ゴルフがママとプロ混合のゲーム(オープン)をやっていることも取り上げ、今後は体協の承認を求めたうえで行うよう、ゴルフ協会に要望することも決めた。”

『読売新聞』1966年5月25日付

プロサッカー招待認める 体協

 日本サッカー協会がイギリスのプロ・チームを招くことについて体協では二十四日正午から東京・渋谷の岸記念体育会館でアマチュア委員会を開き、これを認めることを決めた。その理由は①国際サッカー連盟ではプロとアマの対戦を許しており、規程上なんら問題がないこと②日本サッカー協会が、技術向上のためにプロとの対戦を希望していることである。

 イギリス・チームは、はじめ予定されていた“シェフィールド・ウェンズデー”が来日不可能となったので、スコットランド・リーグ一部のアルビヨンに変わり、六月中旬東京で二試合を行なう。”

JFAはプロ・コーチ(クラマー氏)の招へいに続き、プロ・チームとの交流戦を実現した。しかし、選手のプロ契約実現にはこれからさらに20年かかることになる。

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1966年から高校、大学の「選手権」を方式変更

『朝日新聞』1966年2月16日付

サッカーの参加決る
     夏の高校総合体育大会

 日本蹴球協会は十五日、四十一年度の事業計画と日本代表候補選手四十人を発表した。

 事業計画のうち注目されるのは高校の部で問題となっていた八月の高体連主催、全国高校総合体育大会参加を決めたこと。大学の部で関東、関西の一位同士が対戦する東西学生王座決定戦をやめ、両一位校の出ない大学選手権を改組して名実ともに権威ある全国大学選手権にすることである。

 夏のインタハイにサッカーが参加することにともない、毎年一月に大阪で行われている全国高校サッカー選手権大会も多少の手直しが必要となった。このため出場資格の面で、従来の予選制をやめ、高校体育大会の上位三校、国体の上位三校、それに各地域の優秀校を協会が指定して、十六チームぐらいで争うように変更された。

 大学選手権の方は具体案はまだ決っていないが、協会としては従来のオープン参加をやめ、全国を九ブロックに分け、ブロックの代表制にしぼろうというもの。これによると関東、関西から各二‐三校、北海道、東北、北陸、東海、中国、四国、九州などの代表校、十六チームで行いたい意向である。

 以上のことは十四日夜、開かれた常務理事会で決定されたもの。

 昨年日本リーグうを創設し、上層部を強化したが、今季は、まとまりのなかった大学大会の組織がえ、普及の面で高校の高校体育大会への加入。また少年サッカースクールなど底辺が広がってきたので、八月東京で、第一回全国少年大会を行うなど、中堅層から底辺へかけての強化を図ろうというものである。”

夏のインタハイにサッカーが参加することにともない、毎年一月に大阪で行われている全国高校サッカー選手権大会も多少の手直しが必要となった。このため出場資格の面で、従来の予選制をやめ、高校体育大会の上位三校、国体の上位三校、それに各地域の優秀校を協会が指定して、十六チームぐらいで争うように変更された。

には解説が必要である。「文部省の対外試合に関する通達」で紹介したように、昭和29(1954)年「学徒の対外競技について」(文部事務次官通達)において、

“(2) 高等学校の対外競技は、府県内で行なうことを主とし、地方的大会も全国的大会なみに年1回程度にとどめ、国民体育大会への参加は例外とすることを明文化した。”

とされたことによる。この規定は1932年のいわゆる野球統制令において、「全国的優勝大会及全国的選抜大会ハ文部省公認ノ下ニ夫々年一回ヲ限リ開催セラルルモノタルコト。但シ明治神宮体育大会ニ関スル野球ハ此ノ限ニ在ラザルコト。」に端を発するもので、これが野球以外の競技にも適用されて、戦後も「全国選手権、全国選抜大会は1回ずつ、国体は例外」に続いたのである。1966年から地区予選を経る「全国選手権」は高体連主催の高校総体になり、1月の選手権は名前のみで、実質は「選抜大会」化する。毎日新聞はこれが不満で主催を降りる。

高校の指導者をしている方にうかがったことだが、高体連主催の大会だと、公費によるユニフォーム支給、出張扱いによる旅費の支給、公休の取得などがあり、現場の教師にとって高体連主催とそうでない大会ではかなり負担が異なるのだそうだ。また、インターハイはNHKが全面支援しており、都道府県教委からだけでなくNHKからも魅力的なサポートがあったらしい。当時は東京オリンピック、日本サッカーリーグの開始と第1次サッカー・ブームの最中であり、マスコミによる「コンテンツ囲い込み」の側面もあったかもしれない。

1966年における「インターハイの選手権化、選手権の選抜大会化」は、アウトサイダーにはわかりにくい複雑な経緯があったようである。

『朝日新聞』1966年6月26日付

参加チーム資格決る
   冬の高校サッカー選手権

 日本蹴球協会は、二十五日午後四時から東京・代々木の岸記念体育会館で常務理事会を開き、冬の全国高校選手権大会の参加チーム資格を高校総合体育大会上位三校、国体上位四校、それに北海道、東北、関東、東海、北陸、関西、中国、四国、九州の九ブロックからの推薦による一校を加えた十六チームで行うことをきめた。代表チームが同じ場合は、地域の推薦するチームを日本蹴球協会で検討して決める。

 これは今年からサッカーが夏の高校総合体育大会に加わったため、従来三十二チームで行われていた同大会の組織が変更されたもの。

 試合方式は、十六チームを四ブロックに分けて各リーグの一位四チームで準決勝、決勝とトーナメント方式で行う。”

各地域の代表校は地区予選(地域大会優勝校)ではなく、あくまで「推薦」による事情は上記に記したとおり、文部省通達による「しばり」なのである。なお、グループ・リーグ戦は実施されなかった。

『朝日新聞』1966年11月4日付

参加校を16に限定
      全国大学サッカー

 日本蹴球協会は十二月二十四、五、七、八の四日間、東京・駒沢競技場で行われる全国大学サッカー選手権大会の参加校を十六に限定するとこのほど発表した。この大会は今まで予選なしに自由参加だったが、ことしから北海道、東北、北陸、中国、四国、九州のブロックから各一校、東海二校、関西三校、関東は関東大学一部リーグ上位五校の計十六校となった。

 またこの大会の上位四校は来年一月東京で行われる日本選手権(天皇杯)に出場できる。

 このため関東、関西の両大学リーグの一位校で争っていた東西大学王座決定戦を廃止、学生チャンピオンは今回からこの大会で決ることになる。”

現在の大学選手権の大枠はこのとき定まった。

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全国大学サッカー選手権と東西大学1位対抗の並立問題

『朝日新聞』1965年12月27日付「観覧席」

発展的解消の時
   <全国大学サッカー選手権>
     現状ではもう有名無実

 ことしのサッカー界はアジアユース大会、アマチュア界初の日本リーグの発足、そして朝日国際サッカーと大ヒットを放った。

 しかし納得できない運営の大会もあった。それは全国大学選手権と銘打つ大会と期を同じくして行われた東西大学王座決定戦だ。前者は中大が優勝し、後者は早大が勝った。形式上は二つの学生チャンピオンが誕生したわけである。このかねあいをどう考えるかだが、やはり全国大学選手権のあり方に問題があると思う。

 大学選手権大会は昭和二十八年に創立され、ことしで十四回目になる。そして数年来、自由参加のもとに参加校がふえ、今回は五十校を数えた。半面、関東、関西などの全国のトップにある大学が参加しなくなった全国大学選手権という名称がおかしくなって来たのは当然。出場しないこれらのチームが悪いのではなく、敬遠するような大会として運営して来た関係者に責任があると思う。

 サッカー普及の上から地方大学に晴れの場を与えた創立当初はそれなりの意義があったと思う。しかし参加校がふえるに伴い、運営に無理が生じ、お粗末になって来ていることは事実である。

 今度の大会でも審判が足りず、一人の学生審判が連続三試合を笛を吹いたり、またある時は試合開始が遅れ、まっくらなグラウンドで試合をやるなど、この大会を軽視していなければこんなこともなかったと思う。真剣にプレーする地方大学がかわいそうでならない。現在のままでは何らの発展もなく、“有名無実”の大会となっていることは否めない。すでに発展的解消の時機に到達している。これに替えて来年度から是非とも名実ともの大学選手権に改革しなければなるまい。そのためには全国にブロック制をしいて、代表校で競うことも一案であろう。

 全国大学選手権には、明年一月に行われる全日本選手権の出場資格問題がからむ。日本サッカーの最高峰には、だれもが参加できる権利を有しているはずだ。しかし現在、日本リーグの四位までと関東大学リーグ上位二校、関西大学リーグの優勝校、全国大学選手権の勝者の八チームである。社会人代表は日本リーグの下に全国社会人大会があり、これとの入替戦を行っているので、このままでよいと思う。問題は系統のない学生の出場資格にある。

 現在はこれら三つの大会が全日本への出場資格を持っている。全国大学選手権といい、この学生の出場資格といい、日本サッカーの基盤である大学の組織には再検討の必要があろう。“成功したといっても日本サッカー・リーグと釜本、杉山で持った今年のサッカー界だ”と極論する人もいる。この際、慣習にこだわらず、これらの問題にメスを入れる時機が来ていると思う。

                (伊藤)” 

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大谷四郎氏による日本サッカーリーグ初年度の評価

『朝日新聞』1965年11月10日付

成功したか「サッカー・リーグ」

        経済的基礎はできる
            遠征の連続がやや無理

 サッカー界の新企画として春から行われていた日本リーグは終った。六月六日からこの七日まで、七、八月に約二カ月の休みはあったが、一線級の八チームがホーム・アンド・アウェー方式で東京から福岡にわたった五十六試合のリーグ。こんな大規模な試合方式は、わが国のアマチュア・スポーツの最初の試み。その成行きはサッカー界だけでなく、他のスポーツ界からも少なからず注目されていた。「成功したか」とよく聞かれるが、一言でいうならば「まず成功だった」と答えよう。もちろんいろいろの意味を含んではいるが。

 ~観客の動員は~

 このリーグにはサッカーの普及という一つのねらいがある。それには広くよい試合を、ということになる。しかし、アマチュアといっても経済を無視するわけにはゆかない。そこで観客が集まるかどうかが関係者の最大の心配だったが、予想以上によい成績だったという。

 はじめ、遠征旅費はすべてチーム持ち、試合の運営費が出ればよいとの最低の線を覚悟してスタートしたが、サッカーに弱いと思われた名古屋、北九州、横浜でも次第に観衆がふえていった。一試合で十万円を中央にプールしようという計画もほぼ達成したので、来年からの基礎固めが出来る見通しがついたようだ。

 ~技術的成果は~

 リーグのねらいのもう一つは技術の向上である。年に二回程度の全国的トーナメント大会だけでは、同じレベルのチームがせり合う機会はごく少ない。それでは技術的向上は望めない。それを解決する試合方式はリーグだ、というのがリーグを生んだ第一の原因だ。そのためか早速「うまくなりましたか」と聞かれた。その成果はシーズンで目にみえるほどはっきり出るとは思えない。やはりこれも徐々に出てくるものだろう。

 だが各チームにある欠点をなおし、あるいは長所をさらに伸ばす機会が、従来なら翌年に待たねばならなかったが、長期のリーグではそのシーズンのうちに次々とやってくる。これは技術向上に役立つ。

 東洋工業の優勝は、技術、若さ(体力)厚い選手層、気力のそろったところから生れた。いずれも長期リーグには欠かせない条件だ。この東洋にもはじめは豊富なスピードを生かし切れない欠点があったが、リーグ後半にはその特色を大いに発揮出来るようになった。リーグの成果だ。

 ~来年への課題~

 まず日程の組み方。古河電工がよい例だが、どのチームも多かれ少なかれ選手の疲労を感じていたようだ。一週に一回、それも十四試合中半分が遠征。最も遠距離遠征をした八幡などは不利だった。ことにプロならぬアマチュアでそれぞれ勤務を持つ身の一週一試合は少し無理だったといえそう。来年は三週間に二試合ぐらいを考えているらしいが、そうなれば疲労問題も大方解決されるだろう。

 次は審判だ。ルール解釈の具体的適用で個人差がありすぎるのも一つだが、アドバンテージをほとんど採用しないのは気にかかった。小さなファウルは確かにあったが、かえって相手方に明らかに有利に展開し、観衆がどっとわきかけたときに笛がなる。そんな場面が余りに多かった。これではゲームの流れがすぐたち切れてつまらない。      (大谷)”

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長居陸上競技場、三ツ沢公園球技場は東京オリンピックの年に竣工

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『朝日新聞』1964年7月9日付

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『朝日新聞』1964年8月16日付

長居では日本代表の試合が行われた。

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長居における日本代表の初試合? ユーゴのCFはオシム氏。


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クラマー効果か、1963年ムルデカ大会準優勝

『朝日新聞』1963年8月23日付

好成績あげたムルデカサッカー

基礎やり直しの成果
    大きいクラマー氏の功績

 第六回マラヤ・ムルデカ(独立記念)大会で日本は四勝一敗一分けで、一位台湾の四勝二分けに惜しくもわずかの差で二位となったが、実に見事な成績をあげた。オリンピック目ざして外国遠征を毎年くりかえし実力が徐々に上がってきているというものの、これほどやるとは正直のところ思わなかった。弱いスポーツの代表のようにいわれていたサッカーにとって戦後初めてといっていいほどの明るい知らせである。

 今までの日本チームは、来日した西ドイツやユーゴ選抜、あるいはモスクワ・ディナモに善戦したことはるが実力がコンスタントでなかった。

 日本はムルデカ大会には第二回(一九五八年)から参加しており、その成績はいつも中位の下というところだったが、時々はアジア大会の優勝国インドに勝つなど爆発的な当りを見せたこともあった。しかし連戦に弱く実力が本物になり切ってないという印象だった。

 今年は第一戦でマレーシアに1-0で勝った。同国はラーマン首相のお声がかりでサッカーに非常に力を入れておりマラヤ時代にこの大会に三連勝した歴史を持っている。それにサッカーでは、相手へ遠征して地元チームとの試合は非常にやりにくいものだ。審判が地元チームにやや意識的にPKを与えることも多いし、事実今まで日本チームもひどいPKに泣いたことがしばしばある。1-0fr勝てたことは、守備陣が今まで以上に冷静さを増し、かけ引きを知り、強固になってきたを示している。

 地元マレーシアはこの大会の第一戦でいつも日本とやるような試合日程を組んでいるが、これは恐らく日本を楽な相手とみてのことだろうと想像される。第一戦で地元チームに小差で勝ったことは、日本にとって全く好運のすべり出しとなったわけで、ことしは相当やれそうだという感じを与えられていた。

 日本チームがこのようにまとまってきた原因は、第一になんといっても西ドイツの名コーチ、クラマー氏の功績をあげなくてはならない。同氏は日本人のサッカーに対する考え方を根本からたたきなおした。目前の勝敗に一喜一憂しなまはんかな技術論を振回すそれまでの日本の指導者の目をさまさせた。

 クラマー氏はドイツ人らしい論理で一歩一歩基礎から地道にやり直し、率先してグラウンドで日本選手を指導した。正確にボールをあつかうことを覚えたことが日本の好成績の原因である。基礎技術の習得の段階での高橋英辰前監督が果したクラマー氏から日本選手への橋渡し的役割も貴重な存在だった。

 原因の第二は、日本代表チームの指導者をことしの欧州遠征から長沼監督、岡野コーチという三十歳前半の若手に切替えたことだ。若い監督は経験という点で不足はあるかも知れないが、選手たちの気心を知るという点では、はかり知れないほどチーム・ワークを増すことにもなるものだ。今までのサッカー界は竹腰強化本部長をはじめ年とった幹部が第一線選手にあれこれと細かいことに口出しをしすぎた。それが選手をい縮させることになっていた。今回ののびのびした選手の活躍は若さの勝利である。

 しかし日本は今回の成功で得意になってはいけない。アジアのレベルは世界からみればまだ低いし、韓国と台湾はやはり強い。日本があれほど外国遠征をし、クラマー氏を招き、他のスポーツにみられないくらいたくさんの強チームを招待し・・・・・従って多額の金を使っているのに、韓国は日本と引分け、台湾は日本に勝つ力をいつの間にか身につけているのだ。日本が向上するとともに彼らも強くなっている。彼らをぐんと引離すためには、改良しなくてはならなところがまだまだ相当残っているのである。

                        (中条)”

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1962年野津謙JFA会長、第4回アジア大会団長に

『朝日新聞』1962年3月23日付「人」欄

第四回アジア競技大会日本選手団の団長になった
     野津 謙

 二百五十二人というベルリン・オリンピックを上まわる日本最大の選手団を率いる団長は当然、水陸などメインスポーツ界から選ばれるものと決めてかかっていた人たちには意表をついた抜擢(てき)と思われたろう。

 浅野均一、田畑政治、東俊郎につぐアジア大会四人目の団長としては、たしかに“顔”の点では二級品かも知れない。広島一中、一高、東大医学部と秀才コースを抜け、ロックフェラー財団によってハーバード大学に留学、保健所を生出す原因となった予防医学、公衆衛生の権威者。温和な態度、やさしい笑顔はもってこいの小児科医である。

 名誉欲の多いこの社会では珍しい存在と見る人、厚生省時代の役人根性が抜けないという人、いろいろだがシンのあることについては誰も反対しない。

 英語、ドイツ語は原稿なしでとうとうとしゃべれる。五月にはチリの世界サッカー選手権に出かけ、帰りにフィラデルフィアの予防学会にも出席するという。気軽に海外旅行の出来る人である。

 東大学生だった大正十年に日本蹴球協会を作り上げ、昭和三十年高橋龍太郎氏のあとを受けて会長になった。金も顔もないがサッカーを一番よく知っている“キャプテン会長”である。西独の体育学校で“人を見るのは目でない。精神である”と座右の銘をかかげていたクラマー氏を見つけ、コーチに引っぱてきた。

 大正十年上海の第五回極東大会にサッカー選手として出場。アムステルダム、ロサンゼルスの両五輪には本部役員として参加。昭和十二年には戦争で流れたさきの東京オリンピック組織委員会の総務部長に起用されている。

 「ぼくは小児科の医者だ。医者の気持ちで選手を見守っていたい。東京五輪の選手強化にとってジャカルタ大会は絶好の試金石だ」と語る。川崎市溝ノ口にある野津診療所の所長、昭和五年「澱粉の抗原性」という論文で医博になっている。酒もタバコも飲まない謹厳な医師、子供がなく春子夫人(五五)と二人ぐらし。六十三歳。
                          (日本蹴球協会会長)”

 オリンピックやアジア大会でそれほどの実績もないサッカー関係者が体協で優遇されたのには歴史的背景がある。1911年創立の体協が、1924年パリ・オリンピックの陸上代表選考をめぐるいわゆる13校問題を契機に、1925年に各競技団体の代表を理事とするよう改組された(改組後も会長指名による評議員系理事もいた)。1921年に創立された大日本蹴球協会は1925年に再出発した体協に加盟していた最古参7団体の一つであり、陸連や水連(両競技とも設立前は体協が直轄)より創立が古かった。野津は1925年JFA代表理事2名のうちのひとり(他は内野台嶺)となり、2年後の1927年には岸清一会長、平沼亮三副会長に続くNo.3の専務理事(4名)のひとりとなる。文中にあるように、1928年アムステルダム・オリンピック(サッカーは不出場)に役員として参加。当時アムステルダムにあったFIFAと折衝して翌1929年のFIFA加盟を実現。サッカーがオリンピック種目ですらなかったロサンゼルス・オリンピックにもアメリカ留学中に役員として参加、「幻の東京オリンピック」組織委員会事務局でも総務部長の重職についていた。また、1930年東京開催の第8回極東選手権大会では蹴球委員長を務めている。→「日本サッカー通史の試み⑯ 大日本蹴球協会の創立(3)

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『東京朝日新聞』1937年3月15日付

問題の総務部長に
  野津謙氏を起用
      東京大会整備急ぐ

危機に直面したオリムピック東京大会政府補助の追加予算も文部省懸命の事務的折衝の結果大蔵省査定も七十万円減で踏み止まり関係者一同愁眉を開いた形で、明十六日には第十三次組織委員会を開くが既に事務局長を決定した今次の会合においては総務部競技部の両部長を決定して中枢部機構の整備を急ぎ大会準備事務の促進が期せられる模様である【写真は野津氏

久保田男の事務局長就任と共に郷隆、東龍太郎、高島文雄、斎藤力等の諸氏が総務部長候補に擬せられてゐたのであるが外郭で支持する適任者と久保田局長の抱懐する意向とは遂に一致を見ず久保田局長は八面玲瓏で比較的中庸の士として東京市特別衛生地区保険館、学校衛生部長兼東京市衛生局長技師医学博士野津謙氏を推挽し関係各方面との諒解も成ってその決定を急ぐものと見られてゐる。野津氏の総務部長が略決定的のものとなった結果有力候補として呼び声の高かった郷氏は競技部長に推薦される筈である。残る宣伝部長候補として田観光局長が擬せられてゐるが如く伝へられるも緊急決定を必要とせず当分の間事務局長兼任と見られ以上の如く三部長の決定によって先づ当座の事務局機構は第一段階が整ったといふべきであらう。

この事務局人事の跡を辿るに久保田局長は専心大会事務に鞅掌し得るを必須条件として強調し一般の下馬評には耳を貸さず秘かに適任者を物色しつつあったところロザンゼルス・オリムピック代表選手団の総務委員として活躍し体協理事の経験を持つ野津氏が東京市側にも深い関係をもつところから摩擦の多い東京市と体協に対し一挙両得の策として同氏に白羽の矢が立てられ一般の意表外の人事行政を見たわけである。

この銓衡に対しては是非の論が行はれてゐるが今日となっては総務委員の銓衡に万全を期し中枢機構の強化を策するに如かずといふ意見が逐次濃厚となりつつある模様である。”

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中条一雄氏による1961年サッカー国際試合総括

『朝日新聞』1961年12月30日付

国際試合から 六一年の回顧 ⑧

サッカー

いぜん勝負に弱い
  「強化、強化」で技術は向上

 サッカーは日本の数多いスポーツの中で国際的に非常に弱いことになっている。ことしも世界選手権の予選で韓国に勝てなかった。選手強化の努力の度合ではトップ・クラスにあると認めてよいといわれる。

 たしかに努力はしている。ほかの競技団体が一カ月くらいしか呼べない外国のプロ・コーチを一カ年も招き、また自力で欧州遠征をしたのだから。ドイツから招いたコーチはデットマル・クラマー氏であることはすでに紹介ずみ。同氏の招待には竹腰強化本部長はじめ協会関係者の多くは反対だった。野津会長が強く主張して招いたもので結果的には野津会長の英断が正しかった。反対した人たちも今ではこの三十六歳の小柄なドイツのコーチにすっかり敬服している。

 クラマー・コーチはサッカーの未開発国日本に伝道にやって来た修道僧のような情熱をもって、全生活を投打って日本のサッカーにつくしている。この十月ごろ故国で夫人がガンを手術し、また父君が交通事故で両足を失ったとの知らせを受けて帰国をすすめられても、私には日本での任務があると首をタテにふらなかった。なれない食事―例えば地方の大会で出される米飯とタクアンの弁当にも全然不服をいわない。その抱負、実行力にはドイツ・サッカーの歴史の深さを思わせた。クラマー氏こそプロに徹し切ったコーチであろう。

 ことしのサッカー界はいろいろの国際試合があった。日韓戦のほかアジア・ユース大会、マラヤ選抜の招待、ムルデカ大会、欧州遠征、ユーゴの来日など。成績は例によってあまりよくない。こんなに試合をして日本のレベルは果して向上しつつあるのだろうか。クラマー氏はこういう。「昨年に比べると技術的に格段の進歩をした。ムルデカ大会では毎試合PKをとられたがいい審判なら優勝できたかも知れない。今では韓国より技術は上だ。しかし勝負ということになると弱い。日本の選手はまるで“勝つ意志”がないみたいだ。私が聞いていた日本人とは“我慢強く責任感のある、規律正しい国民”だったが今の選手はどうも自己に甘すぎる。サムライ・ガイスト(武士の精神)はどこにいった」「ドイツも戦後は“ドイツ魂”がすたれたが、日本ほどひどくない」と。なおクラマー氏は精神オンリーの主義者ではない。基礎技術と科学的データをつみ重ねるいわば技術屋である。その人がこういうのである。

 クラマー氏の不満は協会に対してもある。国際的に小さすぎるボール。でこぼこで芝なしのグラウンド、トレーニング・センターの欠如、消耗度が多く効果の少ない日本の試合形式、試合時間、などなどを指摘しているのに一向通じないという。「欧州遠征は収穫だったが、国内での六カ月は私の思う強化計画はほとんど進まなかった」と実質的な進歩のないことをほのめかしている。だが同氏も選手作りに対する日本特有のいろいろな社会的障害・・・・・たとえばアマチュアとして勤務、学業の関係から合宿や遠征が十分できないなど、を取除くむずかしさをだんだん分かりつつあるようだ。「しかし」と同氏はいう。「明大の清水君はいい選手なのでユーゴ戦に加えて欲しいとたのんだが、協会は初めに決めた四十人の候補選手の中にはいってないからダメと許してくれなかった」。「また欧州遠征に連れて行きたい有望選手がいたのに、会社の都合でダメだった。事情もあろうがこれでは計画もなにもあったものでない」

 クラマー氏はこの九月「東京オリンピックのためにやって欲しい最低条件」を協会に提出した。その一つは代表選手が比較的多い東京、大阪、広島、八幡の四カ所にトレーニングの中心をおき、同氏が四週間に一度ずつそこを巡回する案だ。会社の選手でも四週間に一週くらいは毎日二時間くらい練習できるだろう、とみている。協会は目下研究中だが行悩んでいる。「強化、強化」といいながらすぐ実行できることがいつになってもできないあたり、十年一日のごとき協会の常務理事会あたりに問題があるようだ。クラマー氏は「私が日本へ来た時望んだ強化体制がまだ整わない。わたしが帰国するころやっとスタート・ラインにつくのでは・・・・・」と悲観している。

                       (中条)”

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大谷四郎氏による1960年全日本選手権総評

『朝日新聞』1960年5月8日付

全日本サッカー総評

“若さ”を加えた実業団
   だが、全体にまずい試合運び
  個人技の集積にプラスがない

 第四十回全日本サッカー選手権は古河電工が実業団初の選手権チームとなった。三連勝をねらった関学クや東洋工業が敗れ、八幡製鉄も古河に零敗を喫するなどで、古河の独走に終わった。古河は断然強かったし、都市対抗、実業団と合わせて三大タイトルを独占したことは立派な成果である。しかし最高レベルの大会としてふり返ってみると、まだいろいろの問題が残っているようだ。

実業団の時代になるか 古河の優勝だけでなく、日立が三位を占めたし、早く敗れたとはいえ東洋工業、八幡製鉄の力はやはりAクラスに評価して差しつかえなく、実業団チームは名実ともに第一線勢力となったといってよかろう。従来の実業団が、経験とか老巧さのチームだったのに比べ、最近の実業団には若々しい力が加わっている。古河を筆頭に、大学や高校出の優秀な若手をどんどん入れて補強している。このために一流実業団といわれるチームにはメンバーに大きなアナがほとんどなくなった。これまでの実業団が数人の優秀選手でひっぱり、チーム全体からみると非常に弱い選手もいたことに比べると、この点もまた変わったところである。

 しかし実業団が今後も順調に伸びるだろうか。少しの心配が残らないでもない。実業団の強さは既成選手の強さでもある。どのチームも中心になる既成選手の色彩が強い。それだけに新しいものをどんどん吸収して伸びてゆくことを要求されているときに、これについてゆく弾力性を十分期待できるか。古河にしても、また八幡、東洋にしても、この二、三年の性格は変わっておらず、その欠点を変えてゆくには強力な指導が必要だと思われる。

試合運びの単調さ 古河も試合運びの点ではAクラスとはいえない。その強味は早いテンポの試合運びにある。テンポの早さが最高潮にものをいったのが対八幡の前半だった。

 他のチームはこの早さについていけなかった。しかしこの早さだけで国際試合に通用するとは思われない。国内試合ではたしかに絶対的な強みだが、一本調子ともいえるのである。中盤のキープに味がない。判断のよい相手に当たると古河の武器も十分にものをいうか疑わしい。また対八幡戦半以外の試合での攻撃に見るべきものがなかったのもテンポを変化させる力のないためだ。明大の健闘は見事だったし、ヘッディング力の差で勝負は決まったとはいえ、関学の今後はこの点にかかっている。

 八幡は正月あたり巧くなったと思われたのに本ものの進歩ではなかったようだ。相手に先手をとられると自らペースを作ってゆく力がなく、依然として一本調子だ。東洋もバックスが強いために、FWまでが馬力にたよるバックス調だ。日立、慶大BRBは衰えたといっても試合の要所をつかんでゆくのは伝統的な良さだろう。

 全体としては個人技がそろったところが多いが個人技の集積にプラスされたものがなかったのは寂しく、そのほとんどは試合運びの単調さということから来ている。
                        (大谷)”

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1961年度から小学校の正課体育にサッカー導入

『朝日新聞』1960年5月23日付

学校体育
   鍛錬主義に切り替え

小学生にサッカー
   高校は必修単位ふやす

教育課程の改訂にともなって、来年度から小、中、高校の体育の指導が強化される。教育課程といえば、これまで児童・生徒の基礎学力に関心が集まっていたが、文部省では学力と並行して体力の向上をはかるため、これからの学校体育をいわゆる“鍛錬主義”の体育に切りかえていくという。このため小学校の正課にサッカーをとりいれ、中学、高校ではサッカー、ラグビー、相撲、柔道、剣道などの種目をさかんにし、高校男子は三十八年度から体育の時間をふやすなど、体育科の内容はかなり手直しされる。

青少年の体位は、年を追ってよくなり、さる二十八年には戦前の水準を越えた。現在二十歳と五十歳の者について身長、体重を比べると、二十歳の方が身長で男四・五センチメートル、女六・三センチメートル、また体重で男一・六キログラム、女二・六キログラムも上回っている。(三十四年度文部省学校衛生統計)。スポーツの普及で走ったり、とんだり、投げたりの運動能力もおおむね伸びている。

しかし問題は、体格がよくなった割には、持久力や意志力の点が物足りない、というのが関係者の意見だ。そこで新教育課程による体育科のねらいとして①集団スポーツを通じて、責任と協力の態度を育てる②どれかひとつのスポーツを身につけ、卒業後もつづけられるようにする③高校男子は心身を鍛えるようなはげしい運動種目をとりあげるべきだという。

文部省では、このような目標にあわせて、体育科の改訂と教員の再教育を進めているが、そのあらましは次のようだ。

▽新しい体育科の内容 小、中、高校に一貫性を持たせるとともに、運動種目の配分について一定の基準を示す。体操、陸上競技、球技、ダンス、水泳(柔道、相撲)など、いろいろな種目に親しませるが、このうちサッカーを小学校から採用するのが目新しい。

“簡易サッカー”とよんで、一チームの人数は六-八人、規則も簡単にして機敏な運動能力を養成するが、ヨーロッパ各国で“国技”のサッカーを、日本でも普及したいといっている。

高校体育科の内容は、六月中旬に発表されるが、男子の必修単位が現行の七単位から九単位に引き上げられる。したがって時間数がふえて、全日制高校の場合、一学年で毎週四時間、二学年三時間、三学年二時間となる予定。

女子は高校で発育のピークに入るが、男子は二、三年おくれるので、運動量をふやし発育を促進する。

▽教員の再教育 新教育課程への移行に備えて昨年から小学校教員の講習会をはじめたが、ことしは七月から八月にかけて中学校教員の地区別講習会を開き、来年は高校の講習会にうつる。

中学の体育教員は全国で約一万一千人。このうち高校はみんな免許状を持っているが、中学教員の三分の一以上は無免許というのが実情である。

専任教員がいないので、体育は遊びという学校も少なくないという。文部省の指導もおくれていたが、このほど小、中校用のくわしい指導書ができあがった。なお女子の体育は、リズム・ダンス、バレー・ボール、テニスなど、女子向きに工夫するが、流行の“美容体操”もとりいれるよう指導するという。

文部省体育局の話 “鍛錬主義”といっても、戦時中の「体錬科」とはねらいがちがう。体育の指導に計画性をもたせるのだ。同時に施設、設備の不足をすみやかに解消しなければならないと考えている。”

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新日本海フェリー寄港便フル乗船記 ④ むつ湾フェリー(下北汽船)「かもしか」乗船記

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青森駅から「のっけ丼」で知られる古川市場方面へ向かう。

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駅からみて古川市場の裏あたりに青森まちなか温泉がある。6:00開場、420円。銭湯料金だが、ここも昨日の新千歳空港と同様の温泉(塩化ナトリウム泉)。寝汗をかくので、朝はシャワーか風呂は必須なのだ。

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汗を流してサッパリ。アウガ地下で朝飯にしようと思っていたが、アウガは休館日とのこと。駅前の「おさない」は7:00開店。

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刺身定食。930円。

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8:05発の蟹田行に乗車。

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隣のホームにいた「リゾートしらかみ」。

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蟹田駅。3両編成の列車は高校生で満員だったが、1駅目で青森北高生が降りてしまうと終点までガラガラだった。

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速足で歩いて約20分で蟹田港へ。

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客席。以前乗船したときは売店があったが、消滅したもよう。

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船内図。

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デッキ。椅子はないが、ちょうど1時間の航路なので往路はずっとここにいた。

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出航。

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夏泊半島方面。

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左津軽半島、右下北半島。中間は平館海峡。以前乗船したときはそこらじゅうでイルカが跳ねていたが、全然見当たらず。

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津軽半島方面。

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下北半島方面。断崖絶壁の名のとおり。

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左に鯛島、右に脇野沢市街。

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脇野沢のシンボル、鯛島。なぜ「鯛島」かというと・・・

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脇野沢上陸後に撮った鯛島。脇野沢側から見れば「一目瞭然」。

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脇野沢到着。

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下船。

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脇野沢に10分くらい上陸して再乗船。

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青森‐佐井間を結ぶ高速船「ポーラスター」が到着。この航路は高速船就航以前に佐井→青森で乗船したことがあるが、脇野沢・佐井間の小港では入港せず、沖に停泊して伝馬船で乗下船していて驚いた記憶がある。荷物も扱っていて、伝馬船からトロ箱に入った見事なヒラメが積み込まれた。その晩青森の寿司屋でヒラメを食ったことを覚えている。

復路は客席で「寝落ち」してしまい、写真ナシ。

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ちょうど正午に蟹田到着。漁協の前に食堂があったので入ってみる。

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焼き干しラーメン。500円。典型的な津軽ラーメン。

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蟹田川の上下流。以前、ここから少し上流のところで「蟹としろうお祭り」やっていて、たまたま入ってみた。蟹はトゲグリガニという毛ガニを小型にしたような蟹で、食べる身はほとんどなかったが、味噌汁の出汁はよく出ていた。しろうおは「踊り食い」は苦手なので、卵とじでいただいた。漁協婦人部がやってたが、酔っ払いのオッサンの津軽弁がディープ過ぎて、地元の女子高生バイトが全然聞き取れないのが笑えた。むつ湾フェリーでイルカがたくさん見れたのはこの時期なので、4~5月頃蟹としろうお祭りに合わせて乗船すれば、蟹、しろうおを味わえて(ホタテの旬もこのころ)、イルカ、さらに弘前城の桜も期待できるのでは。

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蟹田駅から特急で新青森駅へ。

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新青森駅から「はやぶさ」で帰京。

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新日本海フェリー寄港便フル乗船記 ③ 急行「はまなす」乗車記 

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連絡バスから「フェリーしらかば」を。「北海道に梅雨はない」はずでは・・・ 北海道は半袖ではいられないくらい寒い。船内でみた北海道の民放のレポーターはパーカー着てた。

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原野のままの苫東。

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このバスが「西港」にも寄ってくれればヲタ大喜びw

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鈍行が来るまで1時間半もあるので、苫小牧駅から特急で南千歳まで。

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南千歳で快速エアポートに乗り換え、新千歳空港駅へ。

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空港ビル3Fのラーメン街。

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旭川梅光軒のみそバターコーンラーメンと餃子のセット。千円チョット。

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新千歳空港ビル4Fにある温泉。1,500円。20時過ぎでは人も少なく、快適。サウナでゆっくり汗を流す。お休み処もあって夜汽車待ちによい。薄着なので、エアコンの効いた空港ビル内で風邪をひかずに済んだ。

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22:00まで温泉にいて、再び快速エアポートで南千歳へ。「はまなす」到着。

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日本に残る唯一のブルートレイン。いずれチケットは争奪戦になるんでしょうな。

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今宵のねぐら。B寝台下段。

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あまり眠れず翌朝を迎える。

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陸奥湾沿いを走行中。

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青森市内へ。

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たぶんこれがブルトレの乗り納め。

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青森駅跨線橋から。

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早朝の青森駅前。

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新日本海フェリー寄港便フル乗船記 ② 新日本海フェリー「フェリーしらかば」乗船記

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マンテンホテルの朝食。ご飯とみそ汁が旨く、郷土食の小皿が豊富。

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新日本海フェリー・ターミナルへの連絡バスは船が10:00発なのに9:30発? あわただしすぎる。

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ホテルのフロントに歩いて行けるか聞いてみたら、途中トンネルもあるのでやめた方がよい、とのこと。結局タクシーで(1,610円)。タクシーから確認したが、ホテルの人のいうとおり。

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おかげで船の全体写真が撮れた。

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9:15乗船。5Fデラックス・ツインの1人利用。沖合を航行する直行便ならステートで十分だが、寄港便なら部屋から陸地を見たい。部屋はデラックスでは1番前方の右舷。4Fの後部デッキまで往復すると結構運動になったw

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バスルーム。古い船の方がバスタブがまとも。太平洋フェリーの先代3船は欧風バスタブだったのに・・・

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湯呑茶碗、コップ、緑茶ティーバッグ(伊藤園)。

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湯沸しポットもあったが、近くに給湯室があったので、利用しなかった。デラックスなのに冷蔵庫なし。「すずらん」ではステートルームでも冷蔵庫があったのに。サッポロ・クラッシックは売店でしか購入できないが、5F端っこの部屋から3F売店までいちいち往復するのは面倒。

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右舷の部屋なので、船内TVの位置情報とこれは重宝した。

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デラックスの廊下。

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螺旋階段。先代「しらかば」はこの辺のインテリアがフェリーとは思えないくらいのシックさだった。

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ステンドグラス。

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「なまはげ」のディスプレイ。

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5Fビデオシアター。

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4Fプロムナード。

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4Fグリル入口。

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4Fスポーツルーム。

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4Fカフェテリア。

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4F後部デッキにはデッキチェア多数。1日目は晴れていて快適だったので主にここにいた。

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ジャグジーは来月から営業。

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5F後部デッキには何もなし。

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4Fフォワードサロン。2日目は天気が悪かったのでデッキに出ず、主にここにいた。

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大浴場入口。

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浴槽。湯温はぬるめ。

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洗い場。古い船なので仕切りがない。

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脱衣室。100円返却式ロッカーあり。

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3Fインフォメーション。

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3F売店。

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3Fキッズルーム。

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3Fエントランス・サロン。

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隣にRoRo船。

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気比の松原。

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フェリー・ターミナル越しに沖停めの「すいせん」。

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出航。

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直後に沖停めの「すいせん」と反航。

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この辺に多い原発。

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敦賀湾を出ました。

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恒例ビンゴ大会の前にバイオリン・デュオが一曲。

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まあ、ここで運を使っても・・・

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越前岬。20年以上前に近くの「こばせ」という割烹旅館で蟹三昧したことがある。当時で1泊3万円くらいした。人生で一度だけ蟹で満腹した。漁場が近く、港が小さいので、日帰りしかできない小漁船の鮮度のよい蟹が揚がるのだそうだ。

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過去の栄華?を思い出しつつ敦賀駅弁とビール。

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潮風に吹かれてデッキでランチ。

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5Fのサイドデッキも開放中。1番手前が自室。翌日は強風で閉鎖された。

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白山が見えた。

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東尋坊のあたり。

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能登半島猿山岬。

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輪島市街。

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左舷にみえた七ツ島。昨年乗船した苫小牧→敦賀直行便「すずらん」では舳倉島と七ツ島の中間を航行していた。寄港便は沿岸寄りを航行しているようだ。

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能登半島禄剛埼。

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夕食。しめて2,200円。

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イカ釣り船が見えた。スルメイカはこのあたりまで北上してるのかな。

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新潟入港。

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翌朝、カーテンを開けると曇天。

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秋田入港。

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朝食。しめて820円。

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塩瀬埼。

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男鹿半島入道埼。

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ビンゴ大会2回目もビンゴに至らず。

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青森県に入って艫作埼。

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津軽半島小泊埼。

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なでしこ対スイス戦をナマで。

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竜飛岬。

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昼飯。900円。

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なでしこは初戦勝利。

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乗船中に読んだ本。他に文庫本2冊。

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大間埼。

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津軽海峡フェリー。

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雨にかすむ函館山。

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津軽海峡を抜ければゴールも近い。

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ソフトクリーム。300円。

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バイオリン・コンサート。

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17:20定刻に苫小牧到着。


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新日本海フェリー寄港便フル乗船記 ① 敦賀へ

新日本海フェリーには敦賀発→新潟→秋田→苫小牧、という「現代の北前船」のような航路が週1便ある。敦賀発10:00なので、東京からだと敦賀前泊になる。新潟始発の寄港便なら以前乗船したことがある。→津軽海峡秋景色 ① 新日本海フェリー「フェリーあざれあ」乗船記

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品川駅のカフェで朝食。

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品川駅から「ひかり」で米原へ。

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米原駅から「しらさぎ」で敦賀へ。

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工事中の敦賀駅。

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駅前のマンテンホテルに荷物を預ける。

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仰向けになったまま「ガンを飛ばす」ニャンに貫禄負けw

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敦賀散策。まずは気比神宮へ。

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松尾芭蕉像。

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絵馬堂。

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江戸期のもの。

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明治期のもの。

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昭和9年北日本汽船奉納。

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長崎にちゃんぽん神殿あれば、敦賀にシャトー・ソースかつ丼あり。大行列だったので入らず。

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近所の蕎麦屋でおろし蕎麦の昼食。

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気比の松原に行く途中、烏と鳶のツーショット。神武天皇はもう少しノーブルな鳥を「お使い」にしたかったのでは・・・

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気比の松原。

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敦賀の街中にある松本零士作品のモニュメント。

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ホテルの部屋の窓から。

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浦和対清水。優勝決まらず。

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駅近くの居酒屋へ。

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生ビールと突出し。

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刺し盛り。

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ソラマメ塩茹で。

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笹カレイ焼き。

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駅そばのにしん蕎麦でシメ。


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岩谷俊夫氏によるローマ・オリンピック予選対韓国戦の総評

プロ・コーチの採用が提言されている。

『毎日新聞』1959年12月22日付

日韓サッカー戦の教えるもの
    第二戦の勇気と闘志で

日本対韓国のローマ・オリンピック・サッカー予選は1勝1敗、得点合計で韓国の勝となったが、試合ぶりからみて第一戦が韓国の完勝、第二戦が日本の完勝と両極端をゆく結果に終った。「やりさえすれば勝てるじゃないか」が第二戦の興奮に接した人々の印象だったようだ。たしかにアジアで一位か二位の韓国を優勢のうちに破ったのは画期的なことだ。しかしこの試合をめぐって残された問題は多い―。

【第二戦に日本はなぜ勝ったか】二十日夜の日韓お別れパーティーで、韓国の“サッカーの神様”金容植コーチは「我々はこの五ヵ年地をはうような短いパスをやり続けてきた。第二戦で日本のすばらしい出足と雨の中のキック力には参った。しかし習慣として韓国は雨に有効な弧を描くようなキックがもうできなくなっていますよ」と語った。

昭和二十九年、雪中の世界選手権極東予選で日本をキック・アンド・ラッシュ攻めで破った韓国にしてこの表現である。

「キック・アンド・ラッシュもいいけれど、問題はボール・コントロールなんですよ」ともいった。聞きなれたお説教だが“神様”が、その後輩である筆者(金コーチは早大出、ベルリン日本代表)にさとすようにいうだけにそのひびきが違う。日本の選手を一人一人とってみた場合、浮き球の処理力、速いシュート、すべてみた目ではどこへ出してもヒケをとらぬ。しかし、そのボール・コントロール力が「対敵動作」でかけひきまでいかぬところにまだ重大なものが欠けている。

この不足分を第二戦に「根性」と「覇気」で補ったわけで、そこに「やればできる」という結果が出たのだ。

【プロ・コーチか芝生か】日本のコーチは理論的にはすぐれているが、みっちりコーチできる環境の人は一人もいない。そこでようやく協会もプロ・コーチの招請に真剣になりだした。二十日の理事会ではインドネシアをA級に仕上げたユーゴのコーチをこのさい呼んでみては、というところまで話が出た。もう一つ芝生のグラウンドがないからボールを意識しないボール・コントロールがうまくならないという理由もある。一度に手をつけるわけにもゆくまいが、このさいまず思い切ってプロ・コーチを雇ってみてはどうだろうか。

ボール・コントロールのうまいチームが一つでもできそのチームに勝つためにはボール・コントロール以外にないことが、他のチームに及べば成功だ。ただし、この決断は日本が国内だけのものに甘んじないで、国際入りしようとしているのかどうかの政治力にかかっている。いまはその瀬戸際といってよい。

【キック・アンド・ラッシュが先きではない】日本の活動力、勇気、勝魂すべては第二戦のキック・アンド・ラッシュで証明された。これだけの出足のきく民族であることが再認識されたわけだ。しかしそれはキック・アンド・ラッシュがよかったのではなく、ある程度国際級に近づいた「足技」があのせっぱつまった瞬間にものをいったまでだ。今後は平静なおりでも相手あってのサッカーという「対敵ボール・コントロール」へ引上げることが肝心なのである。

勇気が証明された以上、日本のフットボーラ―たちはまたはじめから「球扱い」をやり直してもらいた。それ以外国際サッカーに通ずる近道はない。「やればできる」では現状から一歩も出ない。
   
                                 (岩谷)”

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第1戦
第2戦

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牛木素吉郎氏によるローマ・オリンピック予選対韓国戦の総評

「日本サッカー界全体の体質改善」の必要性が指摘されている。

『読売新聞』1959年12月22日付

日韓サッカーの教訓
若返りをあせらず
 競技界の体質改善はかれ

 日本のサッカーは、とうとうローマ・オリンピックには行けないことになった。日本オリンピック委員会(JOC)は、5年さきには東京オリンピックがあるので、その準備のために全競技を来年のローマ大会に参加させる方針を決めている。日本スポーツ史上最大の選手団がはなやかにローマに向けて出発するのをサッカーだけが指をくわえて見送らなければならないとは―。13日と20日に東京後楽園競輪場で行なわれたオリンピック予選で、韓国に一歩をゆずったことはやはり日本サッカー界にとり大きなショックであろう。

なぜ負けたか

 十三日の日韓サッカー第一戦に0-2で敗れると、第二戦をまたずにはやくも日本のサッカーを非難する声が起きた。「日本のサッカーはなぜ弱い」「中盤作戦の誤りだ」など・・・。そのほとんどが単純な結果論であり、あるいは技術上の批判であって、日本のサッカー界の体質のカタワな点をついた建設的なものは少なかった。それに第二戦では日本が終始優勢で1-0で勝ったところから、これらの非難がやや色あせたものになっている。

 だが1勝1敗の結果、二試合の得点合計1-2で、ローマへの出場権を失ったことは冷たい事実だ。日本サッカーへの批判は真剣に検討されなければならない。まず第一戦のあとに現われた非難の主なものをとりあげてみよう。

選手起用の誤りだという説】日本のコーチ陣、とくに戦後ずっと指導し続けている竹腰監督が選手のえりごのみをする、そのために選手が大きく伸びないというのである。しかし、いまのオリンピック選手のほかに、どんな人材が埋もれているというのか。問題は川渕(早大)八重樫(古河電工)が負傷すると、もう代わるものがいないという選手層の薄さにある。

中盤作戦を誤ったという説】やはり結果論であろう。ボール扱いは韓国の方が断然うまいのだから、日本は速攻をきめ手とするほかはなかった。第一戦はFW不調で中盤がひどすぎたが、根本はボール扱いの基礎技術をたたきこむこと。そのためには中学、高校のチームや地方チームの下の方からサッカー界の体質改善を図らなければならない。

コンディション調整を誤ったという説】十二月一日からの最後の合宿で、高橋コーチの鍛え方がきつ過ぎて、疲れが残った―といわれた。しかし飛行機で着いた翌日から一時間半みっちり練習した韓国にくらべ、日本の練習量は決して多過ぎなかった。ただ、韓国選手はほとんど軍人でふだんからセミ・プロのような練習をしている。日本は実業団のサラリーマン選手で、コーチでさえ会社をさぼって合宿へ来なけれなならない。そういう社会環境の違いは大きい。

 こうしてみると技術面、作戦面のことは枝葉末節であって、再建策は、日本サッカー界全体の体質改善、つまり行政的な面に頼らなければならない点が多い。

今後の再建策

 ではどうすればいいか。日本蹴球協会は二十日、さっそく理事会を開いて対策を協議した。目標は五年先の東京オリンピック、それまでにぜひアジアのNO1の地位を確保したい。ヨーロッパからプロ・コーチを招くこと、高校生のころから国際試合の経験をつませ、国際試合に通用する技術を体得させること、などが話題になった。

 高校生以下を対象とした強化策は、すでに今年のはじめから実行されはじめて、目に見える成果をあげている。高校選抜チームのアジア青少年大会派遣と、その選手を選ぶための高校地域選抜大会の開催である。地域選抜大会は、高校選手のかくれた素材をこまかい網の目ですくうように拾い上げようというもの。中学校での正課体育への採用と、この海外遠征のための選抜大会が刺激となって、地方の高校のサッカー熱はこの一年に急上昇しつつある。

 協会では、他の競技団体にさきがけて全国指導者講習会を開いているし、ことしから将来学校の指導者となる人たちのための全国教育系大学大会もはじめられた。遅ればせながらではあるが、この方向はサッカー界の体質改善のために、どんどん推進されるべきだ。

 もう一つ、高校生を対象にするあまり日本代表の若返りをあせってはならない。オリンピックに勝つためには、やはり代表選手の年齢は二十五歳前後、技術も体力も円熟したころが最適であろう。従って社会人のチームを育成し、学校で鍛えられた選手が実業団で安心してプレーできるような社会環境を作る必要がある。

 これまでの協会は、大学リーグ中心の色彩が強く、サロン的な空気で仕事のやりいい面もあったが、組織や人間を動かす力は乏しかった。「グラウンドの確保」「年間スケジュールの再検討」などこまかいことで手をつけるべき問題も多い。

 外国ではサッカーの国際試合が興行としてなりたつので、海外武者修行の機会は多い。それだけに国内の対策が軌道にのれば、長い目で見た見通しはむしろ明るいとさえいえよう。 (牛木)”

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第1戦
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大谷四郎氏によるローマ・オリンピック予選対韓国戦の総評

コーチングの刷新の必要性を指摘している。

『朝日新聞』1959年12月22日付

日韓サッカー総評

“技はあちらが上”
 東京五輪へ 合理的指導を

“経験主義”のコーチはダメ

ローマ・オリンピックのサッカー予選日本対韓国、日本は第二戦を飾ったけれども得点計で敗れてローマとの縁は早くも切れた。二回戦では日本は一応力を発揮した。あるいはもう一点とれたかも知れない。そうなれば延長戦へお希望が継ながったわけだ。国際試合ともなれば、冷静なはずの新聞記者も自国を応援するのが普通だ。そして、もう一点を熱望した。しかし、すべてが終わったいまは、やはり二試合の末に日本が負けたという事実とその内容が教えるものを率直に認めて東京オリンピックへのカテにした方がよい。東京大会では開催国として無条件に出場するのだ。

◇・・・こんどの第二戦は確かに勝った。第一戦に欠けていた気力も満ちていて、いまの実力、あの悪コンディションのもとでは、その試合に関する限りほとんどいうこともない。しかしまた、細かいパス・ワークのような技術の使えない、また使う必要もないあのコンディションだから勝てたのだ、と意地悪いかもしれないがいわざるを得ない。だからわれわれのサッカーを評価するのはやはり第一戦である。そのとき、調子が悪かった、FWの選手が欠けていたなどの条件の悪さがあったにしても、なお彼我の差の明らかだったことはたれも認めるだろう。

 竹腰監督も「技はあちらが上だ」というが、そのあとに「勝てない相手ではない」とつけ加える。すでに何回となく聞かされてきた言葉だ。あるいはその通りだろうが、勝負よりもいまの日本の水準で大切なのは「技はあちらが上だ」という事実の方だ。

◇・・・日本のサッカーの最大の弱点は何か。すべてここから出発するわけだが、それはすでに十年近く、国際試合をするたびにいわれてきたことなのでいまさらという感じだ。ただここでは簡単に“ボール・コントロールのサッカー”とだけいっておこう。世界のヒノキ舞台はもちろん、アジアも完全にその潮流にのっているのだ。

 こんどの韓国を通じてみるのもその潮流が背後にあることだ。協会の指導陣もこの点は十分に知っているだろうからいまさら・・・ということになる。すると問題は何か。その次にくるその“ボール・コントロールのサッカー”をどうして教え、どうして浸透させるかの「方法」なのである。この数年間、その浸透がいかに遅々としていたか、協会は何をして来たか。

◇・・・竹腰技術委員長以下の指導陣がサッカーをよく知っていることに疑いはない。またいまの貧弱な材料で力一杯戦おうとする熱意と誠意には頭をさげるほどだ。だが出来上ったチームの旧態依然たるをみると、どうしても教え方に問題があるとしかいえないのだ。この問題にも二つのポイントがある。一つは、統一されたサッカー像を浸透させるのに、協会が組織として講じる着眼と努力である。もう一つはコーチが個々の選手をコーチする指導方法である。後者は前者のさらに基礎になるだろう。端的にいえば、コーチの指導法はすでに行き詰っているのだ。だからその点でまず現代的であり将来に通ずる考えを確立しておかねばならない。もしその考えがまだまとまっていなければ、この際徹底的に検討してみることだろう。

 陸上のハンマー投げの話だが、古い人は「フィニッシュにもっとひっぱれ」などの教え方をよくするが、いまではこんな教え方はダメだそうだ。最後にひっぱるためにはその前、さらにスタートからどういう姿勢でこうしなければならないという風に分解しながら、こうしてゆけば最後にひっぱれるのだと納得のゆく教え方をしなければならないとのことである。

 もう経験主義のコーチはだめだともいえよう。いまでは一つのキックも、走り込むときからの正しい動作、さらに必要な筋肉作りから積み上げて教える時代である。カンといわれるものさえ合理的な練習で作り出そうというときである。サッカーの強い国はそういうコーチ法が普及している国なのである。日本のサッカーはいまなお経験主義的な風潮を多分に残しているがための混迷期といいたい。

                           (大谷)”

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大谷四郎「サッカー界、当面の課題」『朝日新聞』1959年10月22日付

大谷四郎氏が、東京オリンピック決定後、ローマ・オリンピック予選対韓国戦前の時点における日本サッカー界の課題を記したもの。

サッカー界、当面の課題

対韓国戦に全力
  ローマ五輪出場かけて

 これからのサッカーは東西の学生リーグ戦で秋が深まり、つづいて冬の全国高校選手権、朝日招待大会などの国内行事は例年のように進むが、ローマ・オリンピックへの予選が十二月から始って、日本が大会に出場権を得られるかどうかというさしあたっての最大のヤマを控える一方、東京オリンピック対策への一年目として重大なシーズンに当っている。こういう意味から、いまサッカーが当面している課題を拾ってみる。

 【対韓国の予選】年内にやってくる最大の課題はローマ・オリンピックの第一予選、対韓国の試合である。期日と場所はまだ決定していないが十二月中(多分中旬まで)に二試合を行う(二試合とも東京か一試合は香港)。

 こんどはメルボルンのときとちがって、アジア・オーストラリア・ゾーンは五つに分れ、その勝者五チームをさらに香港に集めて三チームにしぼりローマに出す。だからローマに行くためには対韓国の試合だけではすまないわけだが、まず対韓国を切りぬけねばお話にならず、またそれを通れば次の香港での試合の見通しもよほど明るくなるだろう。だから協会では何はさておき十二月の対韓国を今年最高の課題として全力を集中しているところだ。

 昨年末から今春の一月にかけてのマラヤ招待遠征、また去る九月のマラヤ独立記念トーナメントへ再度の遠征と、海外武者修行に力を入れたのもすべて対韓国戦のためだった。

 では見通しはついただろうか。選手たち―マラヤ遠征チームがほとんどそのまま予選に出る代表チームとなるのだが―も監督も「こんどは勝ちます」という表現をする。このなかには多分に「勝たねばならぬ」の決意が含まれているようだが、対外試合の経験増加から、個人的なゆとりとか自身を次第にましているらしい点もうかがえる。決意という点ではだれよりも強い竹腰監督も、個人技が少しずつ進んできた上に、他国もひとしく認める“スピード”という武器に望みをかけているようだ。九月のマラヤにおける対韓国、対香港の第一回戦を引分けたという記録はその自信や希望の理由になっているらしい。そうすると、中盤戦をある程度捨ててしまった速効方式と、それをより有効にするための工作がこれからの練習目標となりそうである。

 ところが、日本チームの成績は好悪の振幅が大きいと不安をいだいている向きもある。日本チームは非常に好調なときは、たとえ相手が好調でもアジアのAクラスと対等にやれるようになった。だがこちらも相手も不調な場合を考えると対等にいけるかどうかは疑問だというのである。つまりチームが自分のペースを出せないときアジアの上位チームならば個人技の優秀さでコツコツ得点をかせいだり、守備も最小限の失点で支える力をある程度持っているが、日本チームはこういうときにまだそれほどの個人技に至っていないところがつらいという。

 韓国はマラヤ独立記念大会では上位グループには入れなかったのに、大会直後の対マラヤ(大会優勝チーム)親善試合では楽勝しており、アジアのトップ・クラスの実力に変りはないと衆目は一致している。ともあれ、十二月の試合はメルボルン予選の対韓国戦に劣らぬ苦しさが予想される。しかも十月初めに行うはずであった合宿練習も選手の勤務の都合や負傷者などで実現しなかったこと、これからの一カ月、選手が国内試合に追われることなどは竹腰監督の悩みだろう。

 【新人養成とコーチの仕事】水泳などと違って突然新人が現われる望みの少ない競技であり、また現在の代表級で五年後の東京大会のまでに残れそうな選手はきわめて少ないことから、東京大会のための選手養成はすでに目前の重大事である。そのため高校の指導がやかましくいわれるようになったのは当然だが、その高校指導をどの程度まで深く掘り下げるか。

 協会は東京大会までの長期コーチ陣を今夏決めた。また今年から始ったアジア・ユース選手権は高校に大きな刺激を与えている。そして、新たに高校地域選抜大会を催して優秀選手を直接指導するチャンスも生れた。しかし、ここ数年間の通例として、日本代表チームの一員として仕込んだはずの代表選手たちが自分のチームに帰るとまた逆もどりしてしまうのが嘆きのたねとなった事実は、早晩、高校の場合にも出て来はしまいか。つまり限られた数の優秀選手だけを指導していたのでは限界が近いということだ。

 そこで選手を出す基盤のチーム(主として大学)を国内試合の勝負にとらわれた状態に放置しておいてはならないといわれかけたと同様に、新人養成も結局こういった意味で高校サッカー全体の体質を変えることまで掘り下げないと本当とはいえない。ただ現在の一般的レベルのなかで比較的優秀な選手を指導しているだけでは恐らく表面をいじるだけの結果に終るだろう。つまりコーチ陣が考える国際試合にも通用するサッカー、またその方向への高校サッカーの線を強く打出して、高校の指導者層から選手層全体へ、いかに浸透させるか、コーチ陣の真価が問われることになる。

                           (大谷)” 

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1959年立教大学サッカー部リーグ戦直前に「選手が監督を追放」

『朝日新聞』1959年10月8日付(社会面)

選手、監督を辞めさす
    立大サッカー部 “きびしすぎる”と

立大サッカー部で選手たちが決議して鈴木吉明監督を辞めさせる事件が起きた。九日のOB会でその善後策が講じられることになっている。ことの起りは先月二十七日、八幡製鉄との試合後選手たちが決議して鈴木監督の辞任を要求したのだが、その理由は「監督がきびしくてついて行けない」というものだった。

鈴木監督は何が何でも鍛えぬくというタイプの人で、合宿の横に居を構えるほどの熱心さとハード・トレーニングを支持する先輩もいるが、鈴木氏のやり方は暴君的で行きすぎた行動もあったとして非難するOBもおり、一部にはOB間の派閥争いの結果だと見る人もいる。

九日のOB会には鈴木氏は呼ばれていない。十日のリーグ戦開幕を前にして監督の稲井立大サッカー部は現在、自治制をとって練習しているが、コーチをはじめOB連はほとんど顔を出していない。

鈴木監督の話 辞めろといわれたのだから仕方ない。八幡に8-1で勝ったりして今年は相当やれそうだと思っていたのだから残念だ。鍛え抜かなければ強くならないという考えは今でも変っていない。

吉原OB会会長の話 鈴木君は熱心のあまり、ちょっと行きすぎもあったようだ。ハード・トレーニングには大賛成だが、きびしさが度を越すのはいけないと思う。選手のいい分ももっともと思える事情があるようだ。リーグ戦の前だからよけい問題がおおきくなったようだ。”

『朝日新聞』1959年10月10日付

鈴木氏は辞任
   立大サッカー監督交代

立教大学サッカー部は九日夜八重洲口南平グリルでOB会を開き、鈴木吉明監督の辞任を認め、代りに吉原郁夫OB会長を監督にすることを決めた。鈴木監督は選手たちに「きびし過ぎる」という理由で辞任をせまられていたわけだが、鈴木氏の辞意も固くこの日のOB会では単に鈴木氏の辞任を認める形で終った。吉原氏の監督就任は一時的なもので実質的には選手たちの自治制で運営される。”

そして、リーグ戦の結果は・・・

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『朝日新聞』1959年11月23日付

なんと全勝優勝!

なお、当時のCFは後に八幡製鉄、日本代表、そして立教大学監督wになる渡辺正氏。

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1950年代の「大学選手権」の実態

戦後の東西大学王座決定戦」に記したように、1952年に始まった大学選手権は1965年まではオープン参加の大会で、並立した東西大学王座決定戦(東西大学1位対抗)よりは「格下」だった。関西の大学は参加せず、関東の有力校も不参加だったり、新人戦扱いしていた。そうした実態を中条一雄氏がレポートしている。

『朝日新聞』1958年1月9日付

大学サッカーを見て

不細工きわまる運営
   低調 一流校不参加だけでない

 例年になく暖かい日が続いて見る方も割合楽だった。だが何かしらこの大会が低調な感じに終ったのはどうしたことだろう。関東リーグの一、二位の早大と立大が不参加だったしまた今年も関西リーグから一校も来なかったことがその第一の原因だ。試合内容もほとんどが低調だったし最後までもり上がるものがなかった。地方チームのレベル向上がこの大会の目的かもしれないが、やはり強チームがポロリと抜け、しかも選手権試合と名付けられているのはいかにもさびしい。時期が悪いのか、まだ宣伝と指導が足りないのか、何か運営方法にも欠けるところもありそうだ。関西リーグの強チームが第一回大会からまだ一校も参加していないのもおかしい。こういうチームの参加がなければこの大会は立派な内容のものにならない。リーグ戦にくらべると何時までも技術的に低調で、しかも“あれは二流大会だよ”という結果に終ってしまうだろう。

 今年の大会の低調さは強チームの不参加ばかりがその原因ではなかったようだ。スタンドもない殺風景な東大グラウンドしか使えなかったもその理由の一つだ。観客は最初のころは二、三百。終りごろになってやっと三千あまりにふえ恰好がついて来たが、暖い日が続いたのに何んだか寒々とした感じだった。東大グラウンドを使わざるを得なかったのはもとをただせば専用球場がないためだが、観客が集まらないのはただそれだけが理由ではなさそうだ。

 試合が始まるのにどことどこが対戦するとアナウンスするわけでもなし、スコアボールド一つあるわけでなかった。途中から見た観客は今どことどこがやっており、スコアが何点かすらも分らないままに見ている状態だった。抽籤で勝負が決ってもどちらが勝ったと観客に知らせるわけでもなかった。サッカー以外のスポーツで、しかも全国大会と名付けられた大会でこんな不細工な運営をいまだに見たことがない。役員の怠慢は責められていいだろう。

 これは入場無料だから観客にサービスしなくていい、などというものでない。スコアも対戦チームの名前も分らずに熱心に見ているファンこそ、さらに一層大切にしなければならないのではなかろうか。トーナメントだから第一日目の成績から全部を紙に書き良く見えるところに張り出すことぐらいしてもよさそうなものである。目に見えないところまで行きとどいた配慮こそ大会を、そしてサッカーを盛りたてる道である。協会の役員はサッカー人口がふえないとなげく前にこのような努力をすべきだろう。      (中条)”

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1948年関東学生リーグ成績

1位 東大 4勝1敗
2位 東京文理大 3勝1敗1分
3位 早大 2勝2敗1分
3位 慶大 2勝2敗1分
3位 明大 2勝2敗1分
6位 千葉医大 5敗 

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メルボルン・オリンピック後の竹腰重丸監督インタビュー

『朝日新聞』1956年12月18日付

オリンピック 反省と今後の対策 ②
             監督とコーチにきく

サッカー 監督 竹腰重丸氏

足りなった鍛え方
  苦しい練習で体力作れ

 一回戦で敗れ、残念でしたろう。

 非常に責任を感じている。勝負に負けたという単純な意味からでなく、今度の大会に勝つこと、負けることは将来のサッカー界の発展の速度に非常に影響があるからだ。負けたことはこれからの発展に大きな障害になる。拙かったと思う。韓国に勝ち、やっとここまでこぎつけて来たが、サッカー界の前途はなかなかけわしい。しかしやはり今度参加したことは非常に意義あることだ。若い選手の中には自信を得たというものもいる。将来のための技術的な面だけを取上げれば得るものは得たし、学ぶべきものは学んだ。ただ世間の人が日本のサッカーを軽視した場合、これからサッカーをやろうという人たちのために私は責任を感じている。

 日本のサッカーは果たして強くなれるだろうか。

 今度負けた言訳のように受け取ってもらったら困るが、敗因は相手が強かったからだ。彼らは強くなる多くの条件を整えている。まず練習量だ。外国はプロ・チームだといえば語弊があるが、プロ的な練習をしている。実に激しい練習だ。それが出来る社会的条件を持っている。今度ソ連に善戦したインドネシアなどは国の費用で世界一周の遠征旅行をやって鍛え抜かれている。日本でいわれるようなアマチュアだったらこんなことは夢にも考えられないことだ。今度は四月から約八十日間、若い人たちを鍛えるチャンスに恵まれたが、それでもダメだった。将来ともオリンピックに出るには外国なみにトコトンまで鍛えなければならない。そうすれば日本もやれないことはない。

 鍛える段階で日本人の身体的条件は外国人に比べてどうか。

 今度の大会で外国人の平生の体力の蓄積が非常に大きいことを痛感した。日本人は試合の二、三日前はコンディションを整えるのに一生懸命苦心しているのに、外人は平気で試合をし、激しい練習をしている。日本人は余りにも試合に対して神経質だともいわれるが、日本人は体力の蓄積がないからそうしなければ太刀打ち出来ないのだ。だから平常から鍛えなければならない。ところが平素鍛えるということは社会的に考えて難しい状況だ。それを乗越えねば強くなれない。練習をやる場合、面白くやる方法は練習試合をやることだ。しかしこれではダメだ。走る、ける、タックルなどの基本的なことを練習しながら体力をつけることが必要だ。これは面白い練習でない苦しい練習だから非常な忍耐力を要するものだ。そして極端ないい方だが激しい練習で脱落するものは脱落させる、そして耐え残ったものだけがオリンピックで始めて活躍出来る。外国チームの体力を見ている時、そうでもしなければ勝てないと思った。日本は技術的な訓練の度合では決して負けていないが、若い時からの鍛えられ方は外国に比べはるかに少なかった。外国人は地力があるのだ。すごくがんばる力を持っている。日本に勝ったオーストラリアは日本との試合ではどうしても勝たなくてはいけないという気力があった。オーストラリアの良さばかり目立った試合だった。一回戦で日本に勝ったので二回戦の対インドでは余り良くなかった。言訳ではないが、実力的には日本とそう変らなかったと思う。

 体の大きさ、身長、体重などで外人とのハンディキャップはないか。

 外国人は骨太でたくましい。確かにハンディキャップがある。日本人はひ弱い。日本にも小沢、高森など外国人に劣らない人もいる。だから悲観したこともない。しかし日本の大型選手は機敏さで外人に劣る。身長差は根本的にはそれほど影響はない。技術的には短いパスとか、こまかい動きとかで日本人の長所を生かして対抗していけると思う。基礎体力という点で劣るだけだ。

 平素練習をつんでゆくのに日本だけが社会的に困難な状態にあるのか。

 日本だけが社会的条件が悪いとはいえない。しかし一般的にいって日本は困難な社会状況だ。韓国でも主力は軍人だ。しかも外国ではサッカーといえば試合費用を入場料で十分まかなえる力を持っている。少々遠方でも遠征できる費用も出せる。自然体験を重ね、力もつく、全くうらやましい限りだ。しかしソ連、ユーゴ、ブルガリアなどの外国チームを見るチャンスを得たことは若い人にとって大きなプラスだった。選手の皆と「今はとても勝てない。これからも苦しいけれど何んとかやって行こう。またいくらでもやらなくてはならないことがある」としみじみ語りあった。この教訓を将来のため少しでも役立たせたい。”

・代表TIMELINEへのリンク
メルボリン・オリンピック対オーストラリア戦

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大谷四郎氏によるメルボリン・オリンピック予選対韓国戦の総評

『朝日新聞』1956年6月13日付

日韓サッカー総評

   まさに「力」通りの成績
       守る日本、攻める韓国

韓国を迎えて三日、十日に行われた二試合の末日本のサッカーはメルボルン・オリンピック出場権を得た。一勝一敗計得点2-2と全くタイ・スコアになったので延長をやったがなお決まらずついに規約により抽籤の結果幸運は日本にほほえんだ。何故重大なオリンピック行きをきめる予選規約がこのようなものになったかは協会も知らないといっているが「準備の関係から七月末までに出場国を決めねばならないので、昨秋以来の一年足らずでは各国の事情から三回戦をやるとするには恐らく期間が十分でないからだろう」とのことだ。ともあれ試合は最後の方法まで行っただけにその経過は見ていても肩のこるほどに切迫していた。

二回戦は日本側が負傷者の続出から非常な窮地に追い詰められた試合だったけれども、二回の試合を通じ近来めずらしく見るものの胸に訴えた試合といえる。

韓国は二年前の世界選手権予選の当時より大部変った。これは世界選手権に出て世界の一流に接した経験から出発したらしいが、一口にいえば近代化されつつある。優れたボール・コントロールを基礎にパスを最高の方法として甲種を有機的に組織するサッカーともいえようが、むかしの韓国が強い個人技を主武器にしたいわゆるキック・アンド・ラッシュの攻法はほとんど影をひそめ、複雑多彩な球回しによってまず合理的に相手守備陣をくずそうというのがこんどの韓国であった。

欧州だけでなくアジアのサッカーも進んでいる証拠で、この点では日本より韓国が優れていた。だがこれは得点への第一段階で、第二段階としてシュートという要素がある。端的な強さからみても韓国は日本より優れたシュート力を持っていたが第一段階と第二段階のつなぎに韓国はわずかながら時間がかかり日本守備陣に次のプレーを観ぬかれた。日本の川本コーチが「韓国のシュートにはシュートをするぞという構えがみえる」といったのはこのことで、そのための何分の一秒かの瞬間をとらえて日本は韓国の攻撃を抑えることに成功した。

このために優れた球回しがそのまま得点力に現われなかったのであり、逆に日本がこの成績に持ち込めた重大なカギだった。

この様に攻撃力では韓国の方が上だった。しかし守備力は日本が上だったといえる。平木、景山のFBはこれまでの日本のFBでの最強ペアだといってよく、こんどの最高殊勲者だった。キーパー古川も初陣を飾る活躍をした。FBをたのみとする日本だから当然守勢の試合となったわけだが、日本チームに残る問題はFWで、ボール・コントロールによるキープ力がまだまだ足りない。それでも一回戦は鴇田が依然元気でしかもFWのリーダーとして見事な巧さをみせ、さらに内野が精力的なインサイド振りでラインにシンの強さを感じさせた。ところが二回戦には鴇田が出ない上に内野が前半の半ばで負傷して使いものにならなくなった。ことに内野の負傷は残された攻守の継ぎの網をぷっつり切られたにも等しかった。

これで攻撃はおろか守備にもさらに負担がかかり二点の失点もやむを得なくなった。FWの韓国、バックスの日本それでプラス・マイナス零の一勝一敗、力通りの成績になったわけだ。 (大谷)” 

・代表TIMELINEへのリンク
メルボリン・オリンピック予選対韓国戦第1戦
メルボリン・オリンピック予選対韓国戦第2戦

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1956年、1951年以来94戦不敗だった田辺製薬を破ったのは新三菱重工

『朝日新聞』1956年5月2日付

田辺製薬敗る
    関西実業団サッかー

【大阪発】 第九回関西実業団サッカー選手権第六日の準決勝は、二十七日午後二時から西宮球技場で行われたが、二十六年以来不敗を誇っていた田辺製薬はこの日、新三菱重工に延長戦の末敗れた。なおこの日はこれまでの中心選手を数名欠き、ベストメンバーでなかった。

同チームは通算九十四試合中一回の引分と一回の抽選勝があっただけで不敗を続けていたが、九十五試合目に初めて負けたわけである。

▽準決勝

新三菱重工 2 (0-1 1-0 0-0 1-0) 1 田辺製薬”

新三菱重工は戦後岡野良定氏を中心に結成された新興チーム。サッカー部は東京オリンピック前に東京に移転、1964年三菱重工への再統合を経て、1965年日本サッカーリーグに最初から加盟、Jリーグ発足後は浦和レッズとなる。田辺製薬は同年9月24日に行われた全日本実業団サッカー選手権決勝で東洋工業に0-4で敗退。実業団サッカーの「田辺時代」は終焉する。東洋工業は現・サンフレッチェ広島。

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