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1982年、日本リーグは入場料収入がホームチームにはいる自主運営方式に

『朝日新聞』1982年3月11日付

入場料収入はチームに サッカーリーグ

  今季から自主運営制
      減る観客呼び戻し図る

 「入場料収入はホームチームに」―。四月四日に開幕する日本サッカーリーグは、今季から試合の運営、入場料収入をすべてホームチームが管理する自主運営方式に踏み切ることになった。観客を集めれば、それだけチームの収入につながる、というアマチュア競技団体としては画期的な方式である。

 ことしで十八年目を迎えた日本サッカーリーグは、十チームで編成。前後期に分かれ二回戦制のホームアンドアウェイ方式で九十試合を消化している。しかし、観客数は四十三年の四十一万人をピークに下降線をたどり、昨年はわずか十六万三千人で、一昨年より一挙に三万人も落ち込んだ。一試合平均では千八百人とはいえ、二、三百人という閑古鳥の鳴く試合も珍しくなかった。このため、ホームチームが本気になって観客動員をはかろう、というのが自主運営方式の大きな狙いの一つ。

 今回の新方式は、入場料がホームチームの収入になる半面、昨年までリーグから一部還元されていた遠征費をチーム負担とし、会場費などもこの中からねん出することになっている。人気チームやより多くのファンを集めたチームが、それだけ報われる方式だ。

 しかし、リーグ加盟の十チームのうちフジタ、読売ク、三菱、古河、日立、鋼管、日産と七チームが関東に集中している現状では、マツダ、ヤンマーの遠征費用が増え、一部に公平さを欠いた点も否めない。

 マツダの田村マネジャーは「東京へ一回遠征するのに百二十万円以上かかる。今年はその回数が増えるから、約一千万円になる。自主運営方式の趣旨には賛成だが、全てのチームが同一条件では、ヤンマーさんとうちは負担増ですよ」と、すっきりしない表情だ。マツダの場合、この遠征費を入場料で賄う場合、一試合当たり三千人以上の観客動員が必要になる。そのうえ、リーグ運営の共通経費として一チーム当たり三百五十万円を納入することになっており、自主運営―即黒字とはいかないようだ。

 リーグの高橋英辰総務主事は「自主運営の狙いは、各チームが自ら積極的に運営し、いい試合を見せてファンを集めることにある。それが技術向上にもつながる」という。

 前期は来月四日に開幕

 日本サッカー協会は十日、ことしの日本リーグ前期日程を発表した。開幕は四月四日で、昨年優勝のフジタ工業-同二位の読売ク戦(東京・国立競技場)を皮切りに、五月二十四日までの総当たり一回戦四十五試合。新日鉄とヤマハ発動機に代わって一部に上がった日本鋼管と日産自動車が沈滞したリーグに新風を吹き込めるか。

 会場は昨年とほとんど変わらないが、新しく東京・小平中央公園競技場、古河市立サッカー場、日立市民グラウンド、宇都宮サッカー場が加わった。”

1982年にはプロ野球や海外クラブと同様の「自主運営制」、1986年にはプロ契約選手の公認と、1980年代を通じて、日本サッカーリーグの「部分的」プロ化がじわじわと進行していく。
 

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1982年、女子サッカー登録チーム急増

『朝日新聞』1982年3月3日付

登録チーム急増
     人気上昇、女子サッカー
  下旬に選手権

 女子サッカーの日本一を決める第三回全日本選手権大会は二十、二十一の両日、東京・西が丘サッカー場で、男子並みの本格的な試合方法で行われる。東日本、西日本の予選を勝ち抜いた八チームが、別表の組み合わせで争うが、従来の八人制から十一人制になったのをはじめ、グラウンドの広さ、ゴールの大きさも男子と同じで、違いは使用球(少年用の四号球)と二十五分ハーフの試合時間だけになった。

 各チームとも年ごとにレベルアップしており、今回も激戦が予想されているが、なかでも注目を浴びているのは、前回チャンピオンの清水第八スポーツクラブ。杉山監督も「昨年よりひとまわりたくましくなった」と二連覇へ自信ありげだ。高校生主体のクラブチームだが、攻撃的なサッカーをする。

 杉山監督が警戒しているのが、第一回のチャンピオンFCジンナン(東京)と西山高、中学生主体の高槻女子FC(関西)。西山高は白石益代(三年)が得点力を増し、市原監督もひそかに優勝を狙っている。

 日本サッカー協会から公認されてから四年目にはいった女子サッカーだが、日本女子サッカー連盟の話では、年々愛好者がが急増している、という。登録チームも昨年の九〇から今年は一挙に一五〇余に伸びた。東日本大会には、恵庭南高(北海道)をはじめ、宮城、栃木、茨城等から参加し、西日本大会にも宇和島南高(愛媛)が初出場するなど、高校の課外活動にも採り入れられ始めている。西山高の市原監督は「課外活動で女子サッカーをしている高校は関西で七校、東京でも日大桜丘など二校、そのほかにも恵庭南や宇和島南など、全国的に広がりつつある。近い将来、高体連加盟も夢ではない」といっている。”

注:別表(トーナメント表)は省略。

高体連では、2008年にサッカー専門部に女子部が設置され、2012年から全国高校総体に女子サッカーが加わる。→(公財)全国高等学校体育連盟について/高体連の歩み

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1981年、日本クラブユースサッカー連盟を公認、1982年発足

『朝日新聞』1981年12月22日付

クラブユースサッカー連盟
  協会が認可の方針

 日本サッカー協会は、このほど開いた理事会で、加盟申請が出ていた日本クラブユースサッカー連盟(二宮洋一会長)を、基本的に認可する方針を決めた。この結果、同連盟は来年四月から正式発足の運びとなる。認可されると、全国的にクラブ設立の機運が高まることも予想され、今後学校スポーツとの兼ね合いが注目される。

 現在、同連盟の所属クラブは神戸FC(兵庫)、枚方FC(大阪)、読売ク、三菱養和ク、ソシオス、西町ク(東京)、トライスター(神奈川)、大谷馬ク(埼玉)、藤岡ク(栃木)、愛知FC(愛知)の十クラブ。同連盟では加盟をきっかけに、全国的に参加を呼びかけ、「日本にも欧州並みのクラブサッカー組織を発展させていきたい」といっている。

 日本サッカー協会の登録制度は五十一年度から年齢別に変わり、各クラブ所属のユースチームは、高校生に該当する二種(十九歳未満)に当たる。しかし、協会主催の二種大会は学校単位の大会だけで、クラブ所属の高校生は、いまでも全国高校選手権出場の道は閉ざされている。このため、各クラブでは独自に全国クラブユースサッカー選手権を開催していた。”

1981年の時点では、読売クラブユースから小見、都並、戸塚、枚方FCから佐々木が代表入りしていた。クラブユースにはすでに、高校、大学のサッカー部を経由しないでも代表級選手を育成できる、という「実績」があった。

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1981年、新日鉄1部から陥落

『朝日新聞』1981年12月13日付

名門新日鉄が初の二部転落
   サッカー日本リーグ

 日本サッカーリーグの一、二部入れ替え戦、新日鉄(一部九位)-日産自動車(二部二位)の二回戦は十二日、東京・駒沢競技場で行われ、日産自動車が2-1で勝って二勝目をあげ、二シーズンぶりに一部に復帰した。名門新日鉄は初の二部転落となった。

 涙浮かべるイレブン

 新日鉄は昭和二十五年に創部(八幡製鉄-四十五年から新日鉄)、四十年の天皇杯全日本選手権で古河電工と優勝を分け、日本リーグではリーグスタート時の一、二回大会(今季は十七回)で連続二位の実力チーム。メキシコ五輪銅メダリスト組の宮本輝紀、全日本前監督の渡辺正氏ら有力選手を輩出している新日鉄も、ここ数年戦力低下で不振が続き、今季はついに九位に終わって入れ替え戦へ。

 第一戦で0-3と完敗。第二戦に3点以上で勝てば一部残留となったのだが、日産自動車の伸び伸びとしたプレーに押され、その望みも消えた。「実力通りです。第一戦に完敗していたので、腹はくくっていたが・・・・・」と就任二年目の上監督。選手は涙を浮かべ、応援にかけつけた渡辺氏も「さみしい」とポツリ。

 会社の方針で大学出の即戦力を毎年定期的に獲得できず、戦力低下を招いたのが二部転落の最大原因だが、「それはいってもはじまらない。現戦力でやるしかありません。ウチは高校出が多いので、二部落ちを機会にじっくり基礎から鍛え直したい」と上監督は巻き返しにかけていた。”

結局、新日鉄は一度も1部再昇格はなく、逆にJSL2部からも陥落、最終的に廃部となる。対照的に、金田、木村のような代表クラスを補強、契約選手としてサッカー専業だった日産自動車は以後2度と2部落ちすることはなく、1980年代後半には読売クラブのライバルとして全盛時代を迎え、1990年代にはJクラブ横浜マリノスとなる。

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1980年度、冠大会により協会の収支黒字化

1980年、トヨタカップの日本開催が決定(実施は1981年2月)。

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『朝日新聞』1980年12月12日付

1978年からジャパンカップ(1980年からジャパンカップキリンワールドサッカー、後キリンカップ)も始まっており、1980年暮れにはゼロックススーパーサッカーも始まる。スポンサー付き冠大会により、協会の財政は好転する。サッカーだけでなく、陸上競技のような他競技もスポンサー付き冠大会の恩恵に浴していた。

『朝日新聞』1981年5月24日付

冠大会のおかげで“もうけ”七千万円
             サッカー協会決算

 日本サッカー協会は二十三日、東京・岸記念体育会館で評議員会を開き、約九億七千六百万円の五十五年度決算を承認した。同決算は七千万円の黒字となったが、今年二月のクラブチームの世界一を決める欧州・南米カップ大会などスポンサーをつけた冠大会からの収益が大きく、同協会としては二度目の黒字。

 また、同日東京で開かれた日本陸連評議員会でも五十五年度に行われた冠大会から一億二千六百万円の協力金収益があがったことが報告された。当初予算には同協力金として三千百万円しか計上されていなかった。” 
         
一方、広告代理店やスポンサー主導のマッチ・メーキングには、以下のような批判もあった。1980年のジャパンカップ参加チームは、日本代表、フジタ工業(天皇杯優勝チーム)、ミドルスブラ、エスパニョール、アルヘンティノス・ジュニアーズ、中国代表。文中の「欧州のプロ三チーム」は誤り。アルヘンティノス・ジュニアーズにはマラドーナが在籍中だった。

『朝日新聞』1980年6月4日付「風」欄

興行より選手強化を

 今回のジャパンカップサッカー大会で、いろんな疑問を感じた。まず協会の重点施策は興行ではなく、選手強化を貫くべきだということ。

 今回はサッカーの先進国である欧州のプロ三チームを含み、表向きには格好のついた国際大会だった。が、フタを開けたらプロの看板であるべき激しい当たりはないし、スピード豊かな連係プレーはどこへやら。四年後のオリンピックを目標に編成された若手全日本の強化には、それほど役に立たなかった。

 協会が主導的役割を演じなけらばならないのに、なぜか今回の企画と実行は広告会社と大手企業主導型という感じだ。「本場のサッカー」と企業の製品のイメージをだぶらせて宣伝をもくろんだのだろうが、来日した欧州勢はプロの二、三流。だいたい、大事な試合が続いている外国のプロサッカーが、マラドーナなど国を代表するような名選手を、遠いアジアによこすようなことはありえないのだ。

 日本協会が、こうした事情を知らないわけはない。本当に新生全日本の強化を考えるならば、五輪代表権を辞退したマレーシアをはじめ、韓国、中国などを招いてリーグ戦をやった方が効果はあがっただろう。最近は、競技団体と広告会社共同の興行が多い。いまこそ競技団体は主導権をがっちり握り、営業面だけでなく、強化最重点でのぞんでもらいたいものだ。
            (瀬下)”

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1980年、第1回全日本女子サッカー選手権大会開催

←「1979年、協会女子サッカーを認知、公式化」

『朝日新聞』1980年3月11日付

私たちも、やってみたいの
 
   22・23日 初の女子サッカー選手権

 昨年三月に発足した日本女子サッカー連盟が、日本サッカー協会と共催で第一回全日本女子サッカー選手権大会(二十二、二十三日-東京・巣鴨)を開くと十日発表した。

 「見るだけでなく、わたしたちもやってみよう」と始まった女子サッカー愛好者は、現在全国で六十チーム、約千人。昨年まで、東西王座決定戦をやっていたものを発展的に解消して、初の全国規模の大会とした。

 予選を経て東日本三、中日本二、西日本三の計八チームが出場する。代表は中学生を主力にした清水第八SCや、四十三歳のGKがいるクラブチーム、高校、大学と多彩。グラウンドの広さは54メートルX76メートルとミニで、っ試合時間も五十分間と短い。決勝戦はテレビ放映(録画)される。”

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優勝は決勝で高槻女子フットボールクラブを破ったFCジンナン。

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『朝日新聞』1980年3月24日付

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丑の日にあなご丼

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有楽町・東京交通会館の兵庫県アンテナショップで買った冷凍あなご。大1200円、小700円。この値段なので、加工地は明石だが、原産地は韓国。

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フライパンで酒蒸しにして。

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あなご4匹分のあなご丼。頭は鍋に入れるといい出汁がでるのだが。頭を出汁にして炊き込みご飯にすれば、本場に近いあなご丼ができるけれど、この暑さでそんな気力なし。


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1979年、協会女子サッカーを認知、公式化

『朝日新聞』1979年2月1日付

女子サッカー認知
   四月にも協会加盟の運び

 日本サッカー協会(平井富三郎会長)も“女人禁制”解除へ―。全国の女子サッカー関係者は、このほど「日本女子サッカー連盟」の設立準備員会(代表大畠襄氏)をつくり、同連盟の設立趣意書を日本サッカー協会に提出した。日本協会では一日、東京で開く理事会で同問題を検討、連盟設立の条件をより整備させた上、早ければ日本協会の次期理解(四月)で正式承認する方針である。

 同協会の長沼健専務理事は「各理事は加盟承認を基本的に了承している。理事会では女子サッカー関係者の意見を聞くことになるが、連盟設立にはまだ不備な面も多い。しかし、機は熟しているので、次の理事会までに条件が整えば了承する方針だ」と語っており四月にも女子サッカーが日本でも“認知”され、正式種目になる見通しだ。

 日本協会へ提出した日本女子サッカー連盟設立の趣意書によると、女子サッカーのチーム数は全国で二百を超え、関西、東京、横浜、東海地域ではすでに数年前からリーグ戦も行われており、四年前から毎年、関西と関東地区の代表による王座決定戦で女子サッカーの「日本一」も決めている。女子サッカーの健全な普及発展を考えた場合、全国的な組織をつくって統括、運営する時期にきているというもの。

 サッカーを正式な課外活動にとりいれている京都・向日市の私立西山女子高の市原聖昿教諭も女子連盟設立発起人の一人。「女子の体力でも十分やれる競技ですからバレー、バスケットなみの人気スポーツになるでしょう。一昨年は台湾でアジアカップが開かれたが世界では女子サッカーは正式に認められており、もう珍しくありません」といっている。

 加盟が実現すれば、補助金や指導も受けることが出来、何よりも権威のある団体から正式に承認されることで、女子サッカーも飛躍的な発展をとげることになりそうだ。

 体協加盟競技団体のボールゲームで“女人禁制”を続けているのは軟式野球とラグビーだが、この二種目でも、最近は自分でプレーを楽しむ女性の愛好家が増えており、サッカーの「女人禁制解除」は大きな波紋を投げかけそうだ。

 日本サッカー協会長沼専務理事の話 大変いい話なので前向きに検討している。かっちりした組織になれば、いつでも認める。ただ心配しているのは純粋なサッカーチームに、色気で売り出すよなチームが出れば困る。一日の理事会は各理事からきびしい条件がつけられるだろう。”

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1978年、読売クラブ1部昇格

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『朝日新聞』1978年3月13日付

1部10位のトヨタ(現・名古屋グランパス)に勝って2部1位の読売クラブが1部昇格。同日に行われた1部9位の富士通(現・川崎フロンターレ)対2部2位の日産自動車(現・横浜マリノス)は富士通が勝って、1部残留。80年代の2強揃っての1部昇格はならず。2部・地域リーグ入れ替え戦ではヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)が勝利するも、2戦合計の得失点差で日本リーグ入りはおあずけ。Jリーグ発足後の主役たちが新興チームとして台頭していた。

日本リーグ1部の最初のクラブ・チームはさまざまな波紋をもたらすことになる。非・終身雇用の契約選手のみからなるチームは、「プロ化」指向をあからさまにしており、終身雇用の社員選手が大部分の従来型実業団チームとは異質だった。

より本質的なのは雇用形態という構造問題であったが、外見上問題となったのは、帰属意識の差異によるマナーの問題だった。サッカー部員である前に「○○社員」(例えば、日立マン、三菱マン)であり、「会社の厚意でサッカーをやらしてもらっている」ことが意識されていた終身雇用選手は、会社名が新聞の見出しになるような「不祥事」はご法度だったが、契約終了後はクラブに何の義理もない選手、ましてやブラジル人にそんな意識があるはずがない。1部昇格前にすでにチーム名が見出しになる事件を起こしていた。

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『朝日新聞』1978年1月20日付

ブラジル人のラフプレーはヤンマー、永大産業、フジタにも「先行事例」があったが、読売クラブはチーム自体が異端視されていたので、余計注目された面もあった。

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1977年、日本リーグで成長した高卒選手、欧州へ

『朝日新聞』1977年10月4日付

奥寺 ケルン入り決まる
        古河電工は「休職」扱い

 サッカー全日本代表のエース奥寺康彦選手(二五)=古河電工が西ドイツの名門プロ・クラブ「1FCケルン」に加入することが正式決定、三日、東京・渋谷の岸記念体育会館で同選手と鎌田・古河電工監督ら関係者が出席して発表された。同日、プロ転向について会社側の了解を得た。

 これまで日本サッカー界では釜本(ヤンマー)ら外国のプロから勧誘された例はあるが、実現しておらず、奥寺選手が初めてのケース。ケルンとの契約は三年間とされ、この間は古河電工社員としての身分は「休職扱い」とされた。同選手はすでにケルン側と具体的な打ち合わせをすませており、一週間以内に西ドイツへ出発する予定。

 奥寺選手の日本リーグ登録および全日本代表としての身分は、日本サッカー協会が近日中に技術委員会を開いて解消を認めるが、西ドイツで正式にプロ・ライセンスを取得すれば、オリンピックやアジア大会への出場資格は失う。

 奥寺選手の話 今夏、西ドイツでの全日本の合宿中に誘われたときは断った。しかし、そのあとに残念なことをした、と思い直していたら再び誘いがきた。会社を退職してでも、と決意を固めていたが、休職扱いとはありがたい。自分のスピードには自信がある。力を試してみたい。”

1974年、有望高校生は日本リーグを迂回して大学進学」、「1975年、ユース代表大学に進学するも、ヌルマ湯で伸び悩む」で紹介したように、ユース代表クラスの有望高校生は大部分日本リーグを迂回して、二流化した大学サッカー部で伸び悩む。一方、高校から直接日本リーグ入りして順調に成長し、代表の中核にまでなった選手が、引退後の会社での処遇に見切りをつけ、外国でプロになる道を選択する。

奥寺に続いてプロ入り第2号となるのは、1983年に三菱重工からビーレフェルト入りする尾崎加寿夫である。尾崎も高卒選手であり、所属は奥寺が古河電工、尾崎が三菱重工と、現役引退後高卒が好待遇される見込みのない丸之内御三家であることが、この問題が「社会的構造問題」であることを示している。奥寺は一応円満に移籍したが、尾崎は会社、協会に無断で、しかも代表チームの中心選手がロサンゼルス・オリンピック予選直前時点での移籍、という後味の悪いものだった。尾崎は協会から「厳重注意処分」を受けた。

 奥寺の移籍については朝日にはその背景にまで突っ込んだ記事は見当たらないが、尾崎の件はトラブルになったこともあって、注目を集め、その背景に言及した記事がある。

『朝日新聞』1983年6月16日付夕刊

「五輪」捨てプロの道
   サッカー・尾崎選手の西ドイツチーム契約

栄誉よりも実益か
様変わり選手気質

 サッカー日本代表の尾崎加寿夫選手(二三)=元三菱重工=が、ロサンゼルス・オリンピック予選出場をけって、西独のプロチーム、アルミニア・ビーレフェルトと“隠密契約”を結んだ。「エースを失っては・・・・・」と日本サッカー協会や三菱側は引き止めにかかったが、本人の意志は堅く、時期の問題を残して西独行きが実現しそうな雲行きだ。「オリンピックこそわが命」と青春を燃焼させたのは昔の話。「オリンピックなんて。それよりプロ」と、現代サッカー選手の意識革命が起こりつつある。
                  (瀬下 真男記者) 

 東京オリンピックにそなえて日本代表の監督とコーチを務めた高橋英辰さん(日本サッカーリーグ総務主事)は「われわれの時代は、日の丸を見ただけで直立不動の姿勢をとったものです。日の丸を背負って国のためにオリンピックで戦うというのが夢であり、喜びだったのに・・・・・。時代は変わったんだなあ」と感慨にふける。

 日の丸の重みをはねのけて、プロの道を選んだ尾崎選手は東京・大森の生まれ。小学生のころ丈夫な体づくりを目標にサッカースクールへ通った。メキメキと技術を身につけていく尾崎少年は目立つ存在だった。高校はサッカーの盛んな日大日吉へ進んだ。

 ● 抜群の活躍

 「サッカーこそ私の青春」と家族の大学進学の説得を振り切って三菱重工入り。ユース日本代表の主将をつとめたころ、ワザに一層の磨きがかかった。そして昨年五月のオランダプロのフェイエノールト戦で全日本代表として4ゴールをあげてエースストライカーの座をかち取った。サッカー仲間は「フェイエノールト戦より前。ユース時代からプロへの道を探っていたようだ」という。

 尾崎選手は昨年の日本リーグで8得点(チーム一位)、8アシスト(リーグ一位)。最終日の土壇場で三菱が逆転優勝の夢を実らせたのも彼の働きがあったればこそだ。オランダプロとの4得点も含め、抜群の活躍をした尾崎選手が受け取った報酬は三菱からの給料だけ。アマチュアの看板を掲げる企業チームの一員なのだから当選である。

 しかし、これがクラブ組織の外国ならどうだろう。試合出場の日当、プラスボーナスが活躍した選手の懐に転げ込む。日本リーグでも外国のクラブ制度を実施して、得点にからんだ選手にボーナスを支給しているチームがある、といわれる。そんなうわさを聞けば、彼の心は動揺しないわけがない。

 ● 学歴より力

 また、いくら自分がすぐれたテクニックを持っていても、周りが下手だったらオリンピックやワールドカップ大会出場はおぼつかない。ならば、自分のテクニックを買ってくれて、学歴、学閥に無関係なプロに魅力を感じるのも不思議ではない。

 試合ではエースでも、グラウンドからあがえrば、学歴や学閥で固められた大企業の中で、高校卒が味わう悲哀も待っている。「ボーナス支給日の翌日、部室で着替えながら、大学卒の部員同士が大声でボーナスの額を話し合っていた。それを聞いていた高校卒のグループがだまりこくってしまいましてね」とあるチームの中堅部員は語る。

 大学卒が高校卒より試合で活躍しているのなら、高校卒も納得出来よう。しかし尾崎選手のように、サッカーでは大学卒を上回るチームの力になっていたらどうだろうか。かつて日本代表に、高校卒のエースストライカーがいた。得点にからむ先天的な動きを持っていたが、あるとき突然、所属の古河電工に退職願を提出して東農大へ入ってしまった。

 これまで日本代表選手が外国のプロから誘われた例は多い。一九六四年の東京オリンピックのとき、アルゼンチンから杉山隆一(現ヤマハ発動機監督)に話が持ち込まれたのが第一号。西独からくどかれた釜本邦茂(現ヤンマーディーゼル監督)を含め六件あった。このうちプロ入りしたのは奥寺康彦(古河電工-西独)だけだ。

 ● 嘆く先輩ら

 杉山さんは「日本の企業や協会のカネで育ててもらったんだもの、日本で恩返しするのが当然だと思っていたからね。日の丸の重み、責任感、自覚が頭にこびりついていて、外国へ行こうなんて雰囲気は、全くなかったですね」と当時を振り返る。プロ入りを断ったほかの選手たちも、同じ考えだったという。

 「われわれは、サッカーやってて給料もらうことに抵抗を感じていた。今の選手は給料以外のものを欲しがる」と現代サッカーマンの様変わりを嘆く高橋さん。

 尾崎選手のプロ行きについて、高橋さんも杉山さんも、そしてサッカー仲間も大筋では賛成している。だが、杉山さんは「彼が置かれている立場を考え、常識的な手順を踏んで、みんなから祝福されてプロ行きを決めてほしかった」という。つまり、プロに認められた尾崎選手のサッカーセンスは、オリンピックとワールドカップ路線に向けて日本体協とサッカー協会がつぎ込んだ選手強化費で培われたという認識を持て、ということだ。

 一方では、ジャパンカップ・サッカーを欠場し、ひそかに西独へ渡り、ドイツ語を話せないのに旅行ガイドブックを頼りに契約書にサインしてプロ入りの意志を貫いた尾崎選手の行動に、ひそかに拍手を送るサッカーファンも少なくない。”

「恩返し、本場プレーで」

 尾崎選手の行動は若者の本場でプレーしたいという一途な情熱がある一方、これまでの日本人なら当然持ちそうな団体への責任感をすっぱりと断ち落したようなところがある。日本代表チームに対する気持ちを聞くと「日本人と生まれたからには当然代表に選ばれたことは誇りに思っている。西独でプレーすると同じくらい日本代表にも心はひかれる。今後も出来る範囲で協力したい」という意味の答えが返ってきた。

 だが、日本代表になるまで日本のサッカー界で育てられた“恩”に対しては「五輪でなくても西独で力を示すことでお返しできる。自分なりのやり方がある」ときっぱり。つまり今後、日本代表に一時的に残るとしてもそれは「協力」の範囲内なのだ。

 この尾崎選手がはっきりウソをついたのは契約の有無。七日の記者会見では「絶対に口頭でも書類でも入団の約束やサインはしなかった」。それが十三日には、「ビーレフェルト側が口止めしたのでいわなかったが、サインした。契約書とは思っていなかった」。プロ契約の存在を露骨に発表されては日本体協に対してめんつ丸つぶれの日本サッカー協会、三菱重工の立場を考えたウソだったのかもしれないが、「事実に反する発言」をしたことに対する謝罪の言葉は最後まで聞かれなかった。

 ビーレフェルト側では最初から「日本協会、三菱の合意が前提条件だが、契約金額など明示された契約書」と明言していた。それを平気で「語学力不足で自分が勘違いしたのかな」といってのける尾崎選手には現代っ子の持つ無責任な一面を感じさせた。

 西独行きの話は去年夏からあった。今年一月と三月に話があったとき、三菱サッカー部としてはそれを断っている。尾崎選手としては自分を高く買ってくれたケペル監督がこの六月でビーレフェルトを辞めるため、その前になんとしても入団の話をまとめたかったのだろう。

 あいまいな答えばかりだった七日の記者会見でもその点だけは「自分もサッカーをやる以上、当然プロでやりたい気持ちがあります」とはっきり意思表示している。どんな圧力があっても西独のプロ入りだけは譲らない、という信念をのぞかせた。
            (竹内 準記者)

協会がいくら金と人手をかけてユースを強化しても、大学進学と外国への移籍で成果は台無しになる、報われない「構造」になっていた。

メキシコ・オリンピックでは成功した終身雇用制実業団サッカーは、相次ぐオリンピック、ワールドカップ予選敗退、大学進学組の伸び悩み、高校卒代表中心選手の海外移籍、と10年たたないうちに「限界」を露呈していた。

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日本リーグ主役交代

『朝日新聞』1977年2月11日付

走らねば「世界」に勝てぬ

攻撃型2チーム躍進

得点力抜群の古河
攻めてフジタ成功

 日本サッカーリーグは古河電工が初優勝を飾り、ヤンマー、三菱、日立の三強時代に終止符を打ったが、この古河の躍進と日立、ヤンマーの低迷など、ここ三年間にわたる上位五チームの動向を数字からのぞいてみた。

 得点37、アシスト25、シュート275。古河の今シーズンの記録だ。この数字からも、古河の優勝は当然の結果といえる。シュート数でフジタに劣ったものの、得点とそれを補うアシストはトップ。スピードを生かした攻撃的なサッカーが、数字からもうかがえる。

 個人的には8アシストでこの部門一位の永井が5得点を稼ぎ、奥寺も8得点と5アシスト、それに川本が8得点2アシスト。中盤の荒井が5アシストをマークした。永井、奥寺が両サイドからえぐり、川本へつなぐパターン。さらに荒井の好配球から永井、奥寺がからむ攻めのパターンが、古河の得点の半数以上を生んだ。

 この得点力を持つ前線に、石井の加入で守備力もまとまり、失点が一挙に7点減ったのも大きい。ただ、古河の三年間の数字の変化をみると、六位とはいえ、すでに昨シーズンから「スピードと攻撃のサッカー」が芽生えていたようだ。

 次に目立つのはフジタの躍進だろう。マリーニョ、カルバリオ、比嘉のブラジル・トリオの個人技がその土台だった。渡辺三と古前田が彼らに引きずられ、得点力がぐんとアップ、失点が31点から20点に大幅に減った。シュートはリーグ一の278を放ち「攻撃は最大の防禦」を地でいった感じだ。

 この二チームに反し、日立とヤンマーが大きく落ちこんでいる。ヤンマーは釜本、吉村らベテラン勢の走力不足と、中堅選手の伸び悩みが原因。なかでも不安定な守備力が、攻撃面にも響くという悪循環を招き、9失点増、10得点減となった。

 15得点で通算六度目の得点王になった釜本が、中盤に下がって配球役をする場面も多く見られたが、阿部(9得点)を除き、堀井、今村らの若手がもう一つ鋭さを欠いた。その釜本も四十三年(八チーム)にチームのシュート285のうち、一人で118も放った走力とスタミナはやや落ち気味で、ここ三年間は80台だ。得点も21、17、15点と減ってきている。しかし、まだ釜本への依存度は強く守備力のアップと、中堅選手の“釜本離れ”が課題である。

 日立は碓井が13得点をマークしたものの、得点力が年々落ち込み、ゴール前でのからみ合いが足りない。「走るサッカー」をスローガンにした活動量の多い日立だが、アシストは15と少なく、ゴール前での連係プレーに欠けているといえよう。三菱は数字の上では攻守に安定した力がうかがえるが、ベテラン森に代わるゲームメーカーの養成と、攻撃的サッカーへの変身がのぞまれる。”

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1977年日本リーグの観客動員数は全盛期の1/3に

『朝日新聞』1977年1月31日付

「やる気なし」は「見る気なし」
      ファンそっぽ、観客ガタ減り

 日本サッカーリーグも、いよいよ最終節を残すだけとなった。古河電工の初優勝がほぼ決定的となったためもあるが、ファンの日本リーグに対する関心は次第に薄れつつあるようで、このままいけば、最近十年間で最低のシーズンに終りそうだ。

 観客動員数の移り変わりを見ても、サッカー熱のさめ具合がひと目でわかる。四十三年メキシコ五輪で銅メダルをとった年を最盛期として、次第に下降線をたどっている。当時は一試合平均七千五百人近くのファンを集めていたのに、ことしはその三分の一近くに減っている。協会関係者はこのさびれ方について「序盤戦のこれからという時に雨が降ったのが大きな原因」というが、果たしてそれだけだろうか・・・・。

 終盤戦、古河、日立、三菱が三つどもえとなって激しい優勝争いが予想された時期、日立、三菱があっけなく敗退してファンを失望させた。この試合を見ていたスタンドは、精彩のない上位チームの動きに不満の声をもらしていた。さらに、古河の優勝がほぼ決まったあとの懇切などは、消化試合のような活気のないプレーに「失笑」さえ起ったほど。かつての、さっかーならなんでも見に行こう、というブームはとっくになくなっているといってよい。

 サッカー協会は底辺の拡大とファン獲得のために、少年教室や日本リーグのサッカーくじなどを採用してある程度成功した。しかし、国内で最高レベルにあるはずの日本リーグなのに、いまひとつスリルがなく、スピードにも乏しい。さらに、一番必要なやる気さえもなくなっているとなれば、このさびれ方も当然かもしれない。ファンの目は、関係者が思っている以上にこえているようだ。

日本サッカーリーグ観客数

            (最近10年間)  一試合平均
42年(56試合)    340,050人    6,072人
43年(56試合)    419,500人    7,491人
44年(56試合)    328,150人    5,859人
45年(56試合)    301,800人    5,389人
46年(56試合)    308,700人    5,512人
47年(56試合)    231,500人    4,133人
48年(90試合)    260,800人    2,897人
49年(90試合)    299,100人    3,323人
50年(90試合)    268,200人    2,980人
51年(85試合)    223,700人    2,631人

                            ”

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1976年モントリオール・オリンピック予選敗退後の中条一雄氏評

『朝日新聞』1976年4月1日付

敗因、準備不足と指導の甘さ

 とうとう日本のサッカー界は、前回に続いて、またもオリンピックの代表権を失った。いちばん残念なことは、今回の予選に対し、完全に準備がなされていなかったことだ。

 韓国との第二戦に引き分けた時「イスラエルに勝てばいいのだから」といっていた首脳部も、0-3の完敗では、その見通しの甘さを思い知らされたことだろう。

 日本チームは、あまりのも幸運を期待しすぎていた。ことさらに不安を押しかくそうとしていた。韓国、イスラエルとの間にあるといわれていた大きな実力差を、感じようともしていなかった。指導陣が手をこまねいて、有効な対策と準備を講じなかった。その責任は、追及されなくてはならない。

 韓国と引き分けた試合をテレビを見ていて、サッカーをあまり知らない人でも、日本チームの欠点を的確に指摘できた。それほど、日本チームはひどかった。活動量とスピードの不足、当たりの弱さ、フォローのなさ、身のこなしのまずさ、さらに闘志の不足など、根本的なものが欠落していた。突っ立ったまま、近くの味方にだけパスをする展開力のなさ、相手の動きに対する臨機応変の戦術眼の無さ、パスした後の動きの悪さ、これでは勝てっこない。

 日本では幼児からサイドキックのけり方、ストップのやり方などを教えて、試合の面白さはあまり教えない。ボール・リフティングのうまい子も多い。だが、突っ立ったままではどんなに軽業みたいなことができても、実戦では役立たない。代表選手も同じで、練習ではうまいが、走りながらのテクニックはほとんどできていない。こんなことは、よくわかっているはずなのに、十年一日で、ほとんど改良されていなかった。

 「守りから攻めの切り替え」も、口ではよくいわれながら、頭の中で理論としてわかっているだけで、韓国戦では、攻めと守りに大きなミゾができていた。若い韓国チームの方が、長くて有効なパスを使った、たたみかけるような攻めをよく知っていた。

 釜本という天才に頼らざるを得ない若手の伸び悩みも、日本のこうした背景があればこそだ。幼児から大人までが、今やっている外国の形だけをまねる、理論倒れで、しかも没個性のサッカーでは、さらに四年後も代表になれるかどうか不安だ。

 さて、日本サッカー協会がどういう手を打てばよいか。それにはいろいろのやり方があると思うが、大きな発想の転換と指導者の責任態勢の確立が必要だろう。韓国は、ここ十年来、国際試合で負けたらすぐ監督を首切るという厳しい態度で臨んできた。日本の方は十数年来、指導陣は不動で、常にぬるま湯ムードであった。選手にも、役員にも、お互いに欠点を指摘しあえるだけの厳しさ、激しさがほしい。”

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サントスで味をしめたJFA、バイエルンも

『朝日新聞』1974年12月2日付

バイエルン人気 天井知らず

前売り、飛ぶ売れ行き   
     「これでやっと赤字解消」
     サッカー協会はホクホク

 西ドイツのプロ・サッカーチーム、バイエルン・ミュンヘン-全日本の試合は一月五、七日、東京・国立競技場で行われるが、その前売り券は不況を吹き飛ばす売れ行き。二十日現在で、五日の入場券は三万五千枚、七日は三万枚も売れた。当日の天気次第では、七万人収容のマンモススタンドをうずめつくすことも予想される。赤字に悩む日本サッカー協会は「これで事務局員のボーナスも、なにもかも払える。バイエルンさまさまです」と、早くも“救世主”扱いだが、赤字解消を外国チームに頼ってばかりいていいのか、との声も出ている。

 十一月八日、前売り券を求める徹夜の行列騒ぎでスタートした「バイエルン・ブーム」はその後も一向に衰えをみせない。二試合とも二千五百円の特別席(六千六百枚)は発売してすぐ売り切れ。買いそこねたファンは、千五百円のA席(一万一千枚)に殺到したが、それもすぐなくなり、いまやプレーガイドに残っているのは千円のB席と五百円の学生券ぐらいだという。

 入場券は一枚平均九百円だから二試合分の十四万枚を売りつくすと、一億二千五百万円もころげ込む。協会では「七日が平日で、割り引いてソロバンをはじいてみても、一億円近いのでは・・・・・」と景気のいい予想を立てている。バイエルンへのギャラ三千万円(二試合分)と航空運賃、滞在費など二千万円、それに国立競技場の使用料一千万円(売り上げの10%)税金五百万円(同5%)などを支払っても、ざっと三千万円のもうけ。

 ことしは電力節減で国立競技場など各地で日本リーグのナイターをやらせてもらえなかった。それに全日本代表は外国勢に対してさっぱり振るわず、人気は落ち目。これらが減収の原因となり、いま、協会は三千万円の赤字をかかえている。「全日本代表の今夏の欧州遠征の飛行機賃も、十人の事務局員のボーナスも、未払い。銀行に借金を申し込んでも「野津会長宅を担保にすれば」といった条件を示し、貸してもらえなかった。ところがバイエルのおかげで、どうやら年が越せそうです」とある幹部は笑う。

 ところで今季のバイエルンは、昨年の欧州チャンピオンとは思えないような不成績。西ドイツ・リーグはまだ半分も消化していないが、W杯出場のベッケンバウアー、ミュラーら好選手をそろえたバイエルンは十五節現在で、6勝7敗2分けと負けがこみ、収入もひどい減り。「もたもたしていたら二部に転落しかねない」とクラブ側は大あわて。四週間のクリスマス休暇を利用してのアジア遠征も急きょ、香港のゲームを取り消し、東京で三泊するだけで帰国、一月二十五日から再開されるリーグ戦に備えてトレーニングを積むことになった。本国で落ち目のチームが、日本サッカー界にとっての“救世主”とは皮肉。

 二年前、ペレのサントスFC(ブラジル)が来日したとき、協会は二千万円の純益をあげ、こんどのように赤字を埋めた。協会は十月からスタートするモントリオール五輪予選に備えての強化費をひねり出すために、三月にワールドカップ出場のスウェーデンなど二チームを招いて三国対抗、六月には、世界一のFWヨハン・クライフ(オランダ)をかかえたFCバルセロナ(スペイン)を呼ぶ交渉をすすめている。

 ペレ、ベッケンバウアー、そしてクライフ・・・・・。「これらの大選手を招くことは、日本選手にも刺激になるし、ファンも喜ぶ。サッカーの普及にも役立つ」と関係者はいうが、実は赤字解消をねらった興行の色彩が濃い。

 全日本の強化なら、もっとレベルの接近したチームの方が役立つはず。渉外担当理事の岡野俊一郎氏も「確かに、いまの協会の姿は不健全だ。外国チームは強化のために呼び、協会の台所は国内リーグや全日本選手権の収入などでまかなっていくべきだ。それには、日本のサッカーがもっと強くなってくれないことには」という。

 全日本代表がこのまま低迷している限り。「赤字―有名プロチームを招いての興行」という悪循環はいつまでもつづくだろう。”

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1975年、女子サッカー・チーム続々誕生、リーグ戦も始まる

『朝日新聞』1975年7月25日付

キックの魅力? 女子サッカー
   各地にチーム続々誕生
   ようやく協会も“認知”

 最近、各地に女子サッカーチームが続々誕生している。「ことしは国際婦人年、私たちもうんとけりましょうよ」と、関東と関西では、六月~リーグ戦もスタート。これまで、無関心だった日本サッカー協会も、このウーマン・リブを無視できず、さきの理事会で「女子サッカーの育成、援助をしよう」と満場一致で決めた。

 女子サッカーは欧州で盛ん。「女性はボールに当たったときのショックに弱い」との理由で、ソ連では、奨励されていないそうだが、本場の英国やイタリアには、プロリーグもあり、国際間の選手のトレードまでやっている。四年ごとの世界選手権も、すでに二回開いた。

 こうしたブームは東南アジア、そして日本へと波及し、現在、ざっと三十余チームが活動している。

 六月初め、日本初の女子サッカーリーグとして、京浜リーグ(六チーム)がスタートしたと思ったら、一週間ほど遅れて、六チームの関西女子リーグもうぶ声をあげた。

 選手は学生、OL、ママさんありで多彩。京浜リーグの「黒滝貴婦人チーム」は、横浜市の黒滝幼稚園児のママたちのチーム。サッカーをしている幼稚園児を応援しているうちに、自分たちもボールをけりはじめ、二年前にクラブをつくった。学生中心のチームとしては「九段高校サッカー・ゼミ」。関西リーグは「神戸女学院ク」「伊丹ママさんク」など。

 京浜リーグの場合、ルールは前半十五分、休憩、後半十五分と短いが、あとは男子なみ。勇ましいタックルもOK。ゆくゆくは関西、京浜両リーグのチャンピオン同士で、男子の全日本(天皇杯)と張り合って、皇后杯を争うことも考えている。

 「ここまで盛んになると、教会としてもほうっておけない。将来、女子の国際試合も予想されるのに、窓口もないようでは困る。そこで組織づくりなどに取り組むことになった」と、教会の岡野俊一郎理事は語る。

 現在、国際サッカー連盟(FIFA)は、女子サッカーの取り扱いについては「各国にまかせる」との方針を打ち出している。今後、日本協会としては、審判講習会に女子も参加してもらい、女性審判を育てるなど、積極的にバックアップしていくことにしており、近く、具体的な育成方針を決めるという。”

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企業名宣伝のため新興チームがリーグ参入、セミプロ化進む

『朝日新聞』1974年12月30日付

強くなるはず“永大サッカー”
プロ並みの成績査定
   PR費代わり 投資も一億円以上

 全日本サッカー選手権の決勝(元日)にまで進出した永大産業(本社、大阪市住吉区)はチームができて三年足らずの新興クラブ。これほど急成長したチームもめずらしい。が、その裏には企業PRをねらった会社の徹底したチームづくりがあった。

 「勝っても、負けても、新聞やテレビはとりあげてくれる。宣伝効果は絶大ですね。営業マンも商売がしやすくなったといっていますよ。もう、もとをとらせてもらいました」。小林昭副社長(サッカー部長)はこのところごきげんだ。

 昭和二十一年、従業員四十人でスタートした同社は「木材会社は大きくなると、つぶれる」という業界のジンクスを破って、いま従業員四千技百人。その原動力となったのは、合板とプレハブ技術の開発だったという。サッカーのクラブづくりも、そのお得意のプレハブ並みだった。「社員の平均年齢は二十七歳と若く、車内スポーツも盛ん。だが、PRに役立つような対外的なスポーツを持たなかった。バレー、バスケットはレベルが高くて、追いつくのが大変だが、サッカーならなんとかなる、と目をつけた」と小林副社長。

 こんな構想を温めていたとき、ちょうど名相銀が日本リーグ二部転落をきっかけに休部した(四十六年)。選手たちはサッカーができる職場を求めて、ひそかに動いていた。人づてに、これを聞いた小林副社長は大久保賢(現監督)ら六人をごっそり移籍させ、社内の同好会を解消して正式の部にした(四十七年)。

 その年、全国社会人大会に優勝。昨年、日本リーグの二部に入って、いきなり優勝。ことし一月、一部入り。施設も根拠地の山口県熊毛郡平生町に、あれよあれよという間に出来た。土のグラウンド二面がリーグ入りと同時に芝生に。冷暖房つきの合宿所やビジター用宿舎、三千人収容のスタンド・・・・・。

 ことし一月には、大久保監督が“スカウト”にブラジルに飛び三人をひっぱてきた。それが天皇杯で大活躍の黒人アントニオ、白人ジャイロ、ジャイール(いずれも21歳)だった。

 これまでチームづくりに投資したカネは、人件費、施設費も含めざっと一億五千万円。「リーグ中に、たまに職場に顔を出すと「なにしにきた。君たちはボールをけっとばしていればいい」と上役に追いかえされる」と大久保監督がうれしい悲鳴をあげるほど、恵まれた環境で、シーズン中は朝から練習OK。

 ところが、小林副社長にいわせると「安いものです」。「大ていの人が新聞のスポーツ面を読む。そこには永大の活字・・・・・。一般へのPRもはかり知れないし、第一、社員もウチの社名をみて、意欲を燃やすようになる。一石二鳥です」。

 斯ういう会社だから、選手のサッカーの能力、意欲を高く買う。昨年からサッカー部内にも、他の職場と同じような職制、ボーナス制度などをつくった。「いい選手を優遇している。今夏も、七、八人、係長などに昇進させた。ボーナスもも、最高と最低で五割も差をつけている」と小林副社長は得意そう。これでは、選手もハッスルせざるを得ない。手を抜いたら、生活にひびくのだから・・・・・。”

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1975年、ユース代表大学に進学するも、ヌルマ湯で伸び悩む

←「1974年、有望高校生は日本リーグを迂回して大学進学
←「日本リーグの発足が大学サッカーのレベル低下を招いた 1969年ワールドカップ予選敗退後の長沼監督インタビュー

『朝日新聞』1975年11月5日付

停滞目立つ大学サッカー
       安易なプレーに走りすぎ
       コーチ陣も選手を過保護

 最近、日本サッカー界で“大学サッカー部不要論”が起こっている。高校出の選手が日本リーグで、どんどん活躍している半面、大学へ進学した逸材が四年間の学生生活で意外にも、あまりうまくならないからだ。大正末期から五十年以上も、日本サッカー界のバックボーンになってきた大学なのに、なぜ、こうなってしまったのだろうか。

 一口にいって大学全体のレベルが低下したためだが、学生は目前の勝敗だけにあまりにも一喜一憂しすぎているようにも思える。勝つためのサッカーに没頭し、それが全日本レベルのサッカーと微妙なくい違いをみせている。「勝つサッカーが、なぜ全体の進歩につながらないのか」について不審を抱く向きもあろうが、学生は弱い相手には勝つだけでよいのだから楽をして勝とうと思いがちだ。強い相手にはカットされるが弱い相手は楽に抜ける、パスすべきところでも強引に突破できる、技術より体力だけで勝てる場合もある、というような傾向がますます無理なプレー、頭を使うプレーを敬遠しがちになっている。気を抜くプレーが習慣になるほどこわいものはないし、いい素質を持っている選手たちの安易なプレーは、観客にとっても面白くない。

 関東大学リーグで優勝した早大が、三強といわれた法大、中大に勝ち、ここ一発に強い伝統の力をみせたがんばりはさすがだったが、実力的に低い日体大(四位)に敗れ、慶大(七位)に苦戦した。弱い相手に力を抜くほどレベルが高いわけでもないのに、早大のこういった精神的なだらけには失望させられた。

 学生の逸材を大学にしばりつけるのではなく、レベルの高いクラブに入れて経験を積ませた方がよいとするのも大学不要論者の言い分だが、今のように井の中のカワズのように、のんびりしたプレーに終始するようでは困る。堀江・早大監督は優勝決定の農大戦後、「お前らは6点をとる実力があるのに」と選手をしかっていた。早大の力は日体大や慶大にも5点や6点とってもよいほどのものだった。気を抜いて走らず、体当たりしないプレーは大学不要論肯定の好材料となる。

 堀江監督は「今の選手はしかっても通じなくなった」と盛んにこぼしてもいた。優秀チームは法大・入江氏、中大・小野氏らのような熱心な監督とコーチ団がついて常に選手たちをシッタ激励している。ムシのようなコーチ陣がいないチームは名門校ですら二部へ転落している。いい監督がいなくては勝てない傾向は、選手を過保護にし、いま一つ飛躍できない原因になっているようにも思える。

 サッカーは単に軽業師のような球あつかいだけでは通用しない。本を読んで戦術を覚えただけではうまくならない。プレーの中で考え、なぜこんな戦術が必要なのかを体得し、お互いに工夫し、反復練習が必要だ。意外性のあるサッカーを創造する力が、実戦で役立ち、臨機応変もできる。戦術眼は保護者から教えられるものではなく、自ら考え出すものだ。ある選手は監督にしかられながらもサッカーをやる理由を「就職に有利だから」といった。監督に命令されて、サッカーをやらされていると考えているうちはうまくなるまい。

 とはいうものの、日本の現状からいってもちろん大学の存在を否定するわけにはいくまい。やはり将来の有能選手をここに求めなくてはならないからだ。その点で4・3・3とかスイーパーなどと欧州のそのままをまねするスタイルを打破するくらいの、学生ならではの創造性と生き生きとした試合をやってほしいものだ。激しさと反省と考える機会をふやすためにも、来年あたりから二回戦制に踏み切るのも一つの手だろう。
                   (中条)”

学生の逸材を大学にしばりつけるのではなく、レベルの高いクラブに入れて経験を積ませた方がよい”というのはJリーグ発足後、特別指定選手制度として実現している。こうした制度も70年代からの問題意識に端を発しているのである。

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1974年、有望高校生は日本リーグを迂回して大学進学

1965年日本サッカー・リーグは発足したものの、加盟チームは日本を代表するような大企業であり、現役引退後の処遇を考慮した有望高校生たちは、トップ・リーグの日本サッカー・リーグに進まず、すでに二流化した大学に進学する。同世代の最良の人材が、貴重な20歳前後の4年間を、トップ・リーグではなく、二流リーグで成長が停滞してしまうことが、日本サッカーの構造的な問題となる。

この問題に決着をつけたのはプロ化(Jリーグ発足)で、以後ユース代表クラスは、大学ではなくトップ・リーグ(Jリーグ)を選択するようになる。それに伴って、日本代表における大学サッカー部出身選手の比率は劇的に変化する。→「世界大会・同予選における日本代表登録選手中の大学生・大学(サッカー部)OB比率」 

Jリーグの発足は、単なるトップ・リーグのプロ化だけでなく、日本サッカーの構造改革だったのである。

『朝日新聞』1974年4月11日付

大学サッカーも新人ブーム

ホープ中村は法大へ
釜本2世めざす西野
   山野兄弟は大商大

 高校野球界のスーパースター江川(作新学院-法大)をはじめ、昨年の甲子園の星たちは、プロ野球への入団をけったが、ここ二、三年、高校スポーツ選手の大学進学が目立っている。

 こういった現象は、野球に限らず、サッカー界にも現れている。サッカーの場合、日本リーグという企業スポーツだけに、仕事における“高校卒”のレッテルがきらわれだしたともいえる。

 ことし一月、大阪・長居競技場で行われた全国高校サッカー選手権は、例年になく好選手に恵まれ、日本リーグの監督、コーチ陣をはじめ、大学のマネジャーたちは、連日スタンドから目を光らせていたものだ。

 さて、彼らの行く先を追ってみると、九割以上が大学にはいっていた。大物の中で日本リーグにはいったのは甲賀高のストライカー、鬼塚(古河電工)ただ一人、他は関東、関西の大学への進学組。

 まず、テクニックと得点力で「超高校生」のレッテルをはられた中村(FW,藤枝東)は、昨年関東大学リーグで優勝した法大へ。「第2の釜本」と期待されている西野(HB、浦和西)は三菱の好条件をけとばして全国大学チャンピオンの早大に、そして、高校チャピオン、北陽の三羽ガラス、双子の山野兄(HB)弟(FW)と塩田(FW)は大商大にはいった。

 このほか、主な選手では河内(FW、広島工)が大商大、早野(HB、生田高)は中大、内藤(HB、藤枝東)は早大と、ユース代表は、いずれも進学。高校選抜の神谷(FW、韮崎)が明大、増田(FW、古河一)が中大、志村(BK、相模工大)が一部に返り咲いた農大にはいるなど、大学サッカー部は新人の花盛り。

 日本リーグの台頭で、低迷をつづけた大学サッカーも、今秋のリーグ戦は久し振りに活気を取り戻しそうだ。”

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1973年、三菱独走で日本リーグも尻すぼみ

1973年のワールドカップ予選も敗退。日本リーグは三菱の独走で盛り上がらず。三菱の杉山は翌年元旦の天皇杯決勝で引退。

『朝日新聞』1973年12月4日付

日本サッカー・リーグ総評

三菱独走、興味減る
  目に余る乱暴なプレーも

 二日、終了した第九回日本サッカー・リーグは、三菱重工の独走に終始し、優勝争いはあまり盛り上がらなかった。スターもいなかった。観客も過去八年間のリーグ史上、どうやら最低という数字が出そうな見通し、という。明るい材料にこれほどとぼしいリーグはめずらしい。

三菱 三菱の優勝は、はやばやと第16節で決まった。あとの二週は、ただ日程を消化するだけのようなゲームもあり、なんともつまらない幕切れ。三菱は連勝記録を「14」と伸ばす快進撃だったが、ファンに「強くてどうにもならない」といった強烈な印象は与えなかった。

 三菱の失点は昨年の19点に対して12点。守りのよさを物語っている。チームワークもよかった。ベテラン杉山ががんばった。こうしたことが重なって、優勝となったのだろうが、チーム全体に迫力とか、スケールの大きさは感じられなかった。

スター不在 チーム・ゲームにスターはいらない、という説もあるが、リーグが盛り上がれば、スターが出るもの。だが、ことしはそれが見当たらない。

 松永(日立)が二年連続の得点王になったが、たたき出した得点はリーグ史上最低の11点。ことしはリーグが昨年より四試合ふえて、十八試合になった。「せめて一試合に1点ずつ、合計18点ぐらい得点しなくては、得点王の名に値しない」と、岡野俊一郎氏(リーグ常任運営委員)もさみしそう。杉山、釜本といった“黄金の足”の持ち主は、当分出ないのでは・・・・・。そんな心配さえしたくなるようなリーグだった。

ラフプレー サッカーは選手同士の体が接触する機会が多いから、多少のラフプレーはやむを得ない。しかし、今季はそれでさえも行きすぎではないか、と思われるプレーが目立った。ボールが他へ回って、もう関係がないのに、相手の足をひっかけたり、すねをけっとばしたり(三菱-古河2回戦)。乱暴を働いた選手を、単なる警告にとどめた審判の処置に怒って、仕返しのラフプレーをするブラジル出身選手(2日のヤンマー-日立戦)など、数えればキリがない。

 審判にも問題がある。当然、退場処分にしていい悪質プレー、たとえば、キックしようとする選手の目の前に足を突出し、すねに致命傷を与えようとするプレーでも、見のがしてしまい、せいぜい警告どまり。審判のきびしい英国やイタリアでは、退場や罰金、出場停止などがよくある。「いまのままでは、日本リーグは健全に育たない」と、常任運営委員会のなかには、目に余る選手を出場停止にする動きも出ている。西ドイツや英国のように、警告回数に応じて、出場停止期間を決めていくやり方で、できれば来年から実施したい、と岡野氏はいう。

観客 まだ、集計中でシーズン全体の観客数は出ていないが、どうやら最低のリーグになりそう。最も入りがよかったのは、日立-三菱(8月3日、西が丘)の一万人。あとは、せいぜい三、四千人。わずか二百人という試合もあった。国立競技場がトラックの改修で、ほとんど使えなかったことも響いているが、そればかりではない。やはり、それぞれのゲームがファンをひきつける迫力というか、盛り上がりに欠けていたからだろう。リーグの台所はリーグ史上はじめて、赤字になることが確実だ、という。

                    (武田)”

 

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1972年サントス戦でJFA赤字解消、法人化へ

『朝日新聞』1972年5月11日付

ソロバン上手のサッカー協会

“ペレ興行”一試合で純益は二千五百万円
    「赤字解消、法人化にもメド」

 “サッカーの王様”ペレを含むブラジルのプロチーム、サントスFCは二十六日夜、東京・国立競技場に姿をみせ、全日本と対戦するが、当日は定員いっぱいの七万余の大観衆で埋まることが、早くもほぼ確実となった。これは日本蹴球協会が先月十七日から発売していた前売券の売れ行き状況から十日、割出したもので、同競技場が満員になるのは、東京五輪の開会式以来のこと。一時間半の“興行”で協会のふところにころがりこむ純益は二千五百万円が見こまれ、協会は「これで赤字も一気に解消だ。懸案の法人化へのメドもついた」と笑いがとまらない。

 「どうして、ペレはこんなに人気があるのですかネ」協会幹部がびっくりするほど、前売券が売れている。特別席(二千円、六千六百枚)をトップに、A席(千円、約一万八千枚)B席(五百円、三万三千枚)学生席(三百円、二千枚)を用意したが、B席の一部を除いて、ほとんど売りつくし、キップの印刷を追加した、という。

 「特別席などは即日売切れ。A席も三日ぐらいしかもたなかった。現在の売れ行きからみて、前売券(招待も含む)入場者がざっと六万余人、当日売り一万人で、七万人h突破しそうな勢い。雨でも降らない限り、超満員間違いなしです」とは、係員の話。

 総収入は入場料、テレビ放映権利金などで、ざっと五千五百万円が見こまれている。サントスへのギャラ(税こみ)に千五百万円、滞在費四百万円、競技場使用料、入場税千二百万円、諸雑費などを差引いても、二千五百万円は純益として残るソロバン勘定となる。

 たったの一試合で五千五百万円の“興行”はもちろん日本のサッカー史上はじめて。純益でも新記録である。これまでの純益最高額は昭和四十三年、国立競技場での英アーセナル全日本戦の二試合合計千二百万円。

 「あれでもアマの団体かネ」と、他競技団体からやっかみ半分の批判が出るほどサッカーはよく外国のプロチームを呼んで、かせいでいる。しかし、世帯が大きくなると、出費もふえるのか、現在、協会は一千万円の借金をかかえている。もちろん、そんなものは解消してしまうし、手持ちのカネが一千万円近く必要といわれる協会の法人化でも一挙に実現できた上で、まだおつりがくる。

 協会は「三年前にサントスを招くことを計画し、一度は正式に断られながらも、あきらめずに粘り強く交渉してきたかいがあった」とほくほくのていだが、“サッカーの神様”が、これほど“ご利益”をもたらすとは思ってもいなかったようだ。「こんなことなら、もう一試合やるように、交渉しておくべきだった。見通しが甘かったよ」とうれしい“反省”の声が出ている。

 協会は六月には英1部プロリーグの強豪コベントリー、八月には西ドイツからプロチームを招いて、東京など各地で興行を打つ。秋には日韓定期戦、正月は朝日招待国際大会と、国際試合の日程がびっしり。ペレほどではないにしても、協会のふところをうるおすことは間違いなさそう。なかなかの“商売上手”である。”

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日大にはサソリがいた

甲子園の近所に住んでいた(住所が甲子園春風町)だったので、甲子園ボウルもよく観に行った。

関西代表は「青」の関学、関東は「赤」の日大という時代だった。とりわけ印象深かったのは日大QBの佐曽利で、その姓もさることながら、肩までの長髪を振り乱してプレー、という派手なスタイル。ショットガン・フォーメーションからの長短パスの成功率は高いうえ、スクランブルすればなかなかつかまらず、関学DFは振り回されていた。

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『毎日新聞』1971年12月13日付

下級生のころから正QBで、「佐曽利まだいるのかよ、早く卒業してくれ」と思ったものである。

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らぐびぃ・べる・えぽっく

古いサッカー新聞記事を追っていると、シーズンが同じラグビーの記事も同じ面に載っていることが多い。テレビ観戦した当時の名試合を思い出した。

私が高校生だったころは、関東大学ラグビーは早稲田の黄金時代で、SHに宿沢広朗がいて3年間で35連勝、対抗戦、大学選手権だけでなく、社会人相手の全日本選手権も連覇していた。宿沢が主将だった1973年1月6日の大学選手権決勝で、早稲田の36連勝を止めたのはライバル明治大学。SHは1年生だった松尾雄治(後にSOに転向)。宿沢対松尾という日本ラグビー史上の名ハーフ対決で、終了直前に松尾の好パスからの逆転トライで明治が13-12で逆転勝ち、という劇的なゲームだった。

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『朝日新聞』1973年1月7日付

FW第3列が執拗にサイド攻撃を繰り返し、じわじわ前進する「タテ」の明治。明治が苦労に苦労を重ねて前進したスペースを、SH宿沢からFB植山まで素早く展開、植山のロング・タッチキックであっさり取り戻す「ヨコ?」の早稲田。愚直な「タテ」のFW戦対スマートな「ヨコ」のBK戦という弁証法対決は、普段ラグビーを観ない高校生にもわかりやすい。

当時関西に住んでいて、どっちの大学も応援してなかったが、試合展開を観ているうちにだんだん明治びいきに。試合終了後、喜ぶ70歳過ぎの北島忠治監督をみて、本当に良かった、と思った。


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岩手紀行 ③ 大沢温泉菊水館宿泊記

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再び盛岡に。

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駅前のぴょんぴょん舎で。

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冷麺820円。

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盛岡は川の街。

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工芸品店、光原社。宮沢賢治の版元でもある。

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展示スペースを抜けると。

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川に出る。

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喫茶店もあります。
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盛岡駅から在来線で花巻へ。

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無料送迎バスで。

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大沢温泉菊水館は茅葺。築160年とか。卯之町松屋旅館温泉津温泉長命館宮津市茶六本館に続くクラシック旅館。さすがに茅葺の建物に泊まるのは初めて。

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豊沢川をはさんで、自炊部(湯治屋 築230年!)と比較的高級な山水館。風呂はどこのも入れる。

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室内。古い調度品もあります。壁は薄いけど、フェリーで慣れてるのでw

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部屋の窓から。いい感じ。

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菊水館の茅葺棟の廊下。

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自炊部の帳場。

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同売店。

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同休み処。

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自炊部といっても食堂もあり。朝は予約の定食のみ。昼、夜は定食、アラカルトもあって、自炊部でも3食「外食」可。次はこっちに泊まってみようかな。

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自炊設備。この他にコインランドリーなんかもあり。

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築230年の廊下。

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大沢温泉の看板。自炊部「大沢の湯」露天風呂。

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1人じめできました。

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脱衣場も露天。

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宮沢賢治が湯治に来たとき、橋の上で撮った集合写真。

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橋の上から露天風呂は丸見え。

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「ホーム」菊水館の「南部の湯」。

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部屋の目の前にモミジ。秋なら絶景かも。

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夕食。ビール1本つけて8,358円だった。刺身はなくもがな。「基本」のご飯、味噌汁、漬物は旨かった。

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翌日朝は快晴。朝4時に起きて、朝食前に「南部の湯」「大沢の湯」を連チャン。

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朝食。東北地方の旅館は「ご飯は外さない」。玉子焼きは丁寧に作ってあった。朝食後も山水館「豊沢の湯」に。

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送迎バスで北上川を渡る。

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新幹線新花巻駅へ。

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駅そばがあったので、天ぷらそばの昼食。

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「やまびこ」で帰京。

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岩手紀行 ② 三陸鉄道乗車記

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朝飯は駅そばで。6:30開店。

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えび天そば400円。

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三陸鉄道宮古駅。

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J3ならあり。

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座席はテーブル付き。

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けっこう山の中を走ります。

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海が見えると、そこは復興工事中。

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山の方は変わらず。

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堤防の威容があった田老。

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この道が津波避難路。

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田野畑。本家旅館に何度か泊まりました。

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田野畑駅。列車交換待ちの間に。

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田野畑の堤防の上に三陸鉄道の車両が。

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高速道路がありました。

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眺望のよい大きな鉄橋があると、停車のサービスがあります。

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久慈に到着。八戸線に乗り換え。

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リアス式海岸から一変。砂浜に。

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柳田国男の『清光館哀史』に出てくる陸中八木。“お父さん、今まで旅行のうちで、いちばん悪かった宿屋はどこ。そうさな。へつに悪いというわけでもないが、九戸の小子内の清光館などは、かなり小さくて黒かったね。こんななんでもない問答をしながら、うかうかと三、四日、汽車の旅を続けているうちに、鮫の港に軍艦が入ってきて、混雑しているので泊るのがいやにったという、ほとんど偶然に近い事情から、なんということなしに陸中八木の終点駅まで来てしまった。”

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種差海岸あたり。

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八戸、鮫の蕪島。ウミネコの繁殖地。

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鮫駅。

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グルメ列車。

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駅前に魚市場のある陸奥湊。

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八戸の中心、本八戸駅。

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八戸で新幹線に乗り換え。

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岩手紀行 ① みやこ浄土ヶ浜観光船(岩手県北交通)「第16陸中丸」乗船記

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東京駅発6:32赤い「こまち1号」で出発。

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東京は本降りだったが。

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盛岡は全然降ってない。

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駅地下のプロントでモーニング。

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106急行バスに乗車。

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トイレ休息あり。

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宮古駅前着。

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復興作業中の宮古市街を抜けて。

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浄土ヶ浜ビジターセンター着。

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わが国初の洋式海戦とのこと。

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海岸に降りていくと遊歩道がある。

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昆布の匂いがした。

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ど根性昆布。そのうち進化して両生植物に?

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浄土ヶ浜は横長だ。

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「第16陸中丸」。

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被り物のサービスあり。

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ウミネコのエサ1個100円。

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景色を撮ろうとすると、どうしてもウミネコが写ってしまうw

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この「Y」字の岩は天然記念物なんだとか。

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中がサイホンのようになっていて、波が荒いとこうなる。

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工事中の漁港。上の白い部分は地盤沈下のため積み上げたとのこと。

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宮古湾の先端あたり。

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サッパ舟でこの洞窟に入るコースもあり。

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ビジターセンターに吉田初三郎の鳥瞰図が展示してあったが。

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浄土ヶ浜は完全に無視されていたw

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宮古市内に戻って、魚菜市場へ。

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どんこ250円! 瀬戸内海で獲れたら白身の高級魚として扱われたはず。

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もちろんホヤも。

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駅前にあるホテル、「BIG WAVE」に宿泊。

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駅前の蛇の目本店。混まないうちに早めに。

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生ビールに突出しの塩辛。

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ホヤ酢。

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上ちらし。ネタが重層化してます。

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上ちらしについてるあら汁。以前はあった「どんこ汁」がメニューになかった。残念。

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生ビールをお代わりして3,970円。混雑するはず。

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ホテルの窓から。目の前が干物の干場で、漁港ムード満点。

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1934年の三陸汽船の広告。東京、塩釜、函館への航路があったらしい。「第16陸中丸」で109t。38tの船はよく揺れたでしょうなあ。


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1971年下降線たどるサッカー・ブーム

1971年ミュンヘン・オリンピック予選敗退後の中条一雄氏の評。

『朝日新聞』1971年10月5日付

下降線たどるサッカー・ブーム

露呈した薄い選手層
 ◇生かしたいクラマー氏の助言◇
   五輪予選敗退を新出発点に

 【ソウル四日=中条特派員】十一年前、ローマ五輪のアジア予選で日本サッカーは韓国に敗れ、失意のドン底にあった。その直後、日本代表チームは、欧州遠征を試みた。今でこそ、ブームに支えられ、欧州行きは日常茶飯事となったが、当時の代表チームとして初の欧州遠征は、財政的にも豊かでなく、文字通り血みどろの武者修行であった。

 各地での戦績は無惨だったが、この時、西独ディスブルグのスポーツ学校の主任コーチをしていたデットマル・クラマー氏と出会った。これが、近代日本サッカーの夜明けとなった。

 クラマー氏は、戦術、技術の面で、選手養成に根本的にメスを加えるとともに、グラウンド、ボール、強化組織、コーチの資質向上、協会の役員構成、日本リーグの結成にまでアドバイスした。原因をつくらなければ、よい結果は生れない、とするドイツ人らしい考え方だった。日本サッカーは改造された。

 その後、日本サッカーは、GNP世界第2位の経済界と同様、すばらしい高度成長をとげた。東京五輪(39年)でアルゼンチンに勝ち、メキシコ五輪(43年)では、銅メダルをとるなど、サッカー・ブームをつくり出した。すべて救世主クラマー氏の功績だった。

 そしていま、日本は、ミュンヘン五輪予選で敗れ、再びドン底に落ちた。しかしこれはまた新しいスタートラインについた、とみたい。十一年前、欧州遠征チームに同行した記者(中条)は、当時の暗い不安の時代を思い出す。片山、宮本征らは、今回も代表に残っていたが、彼らは当時のメンバーdった。前途に光明をみつけることは、まだできなかった。が、希望にもえていた。

 正直のところ、今の日本サッカーの層はきわめて薄く弱い。プロ、アマを含め世界中で、日本代表より強いチームは、三百はあるだろう。クラマー氏は、今大会前から今回の敗北を予言していた。

 サッカーブームはやや下火になりつつある。ブームは虚像だったのか、と思えるほどだ。日本リーグの観衆は減りつつある。内容がよくないからだ。

 ただ、ひとつの光明は、各地に生れたこどもサッカー教室だ。生徒が固定化し、整理期にはいりつつはあるが、十一年前にくらべると見通しは明るく、希望も多い。

 虚像を実像へと切りかえるためにも、なぜブームといわれるものになったか、一つ一つその要素を再検討する時期にきている。代表選手たちも、エキスだけを学んで、あまりにもサッカーだけで素直に成長し、余裕がなく、真の強さがみられなかった。第二、第三の釜本も、結局は育たなかった。

 専用グラウンドの建設、協会役員の年齢構成(年寄りが多い)、まずアジアで勝つことを再検討されなくてはなるまい。クラマー氏のアドバイスも、まだ実行されていない点が多い。日本リーグの各チーム間の連絡と充実、合同練習のやり方も考える必要があろう。

 クラマー氏は昔「もし私がサッカーのコーチにならなかったら、作家か新聞記者になっていたろう」と前置きし「作家になったら書く本の題名はもう決っている。“暗雲を突破って太陽へ”というのだ。太陽は理想だ。いつか、日本サッカー界は、暗雲にぶつかろう。だが、みんなが力をあわせ、突破って理想へ近づく努力を忘れてはいけない」と語った。その言葉が、思い出される。”
 

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1970年体協のアマチュア規定、サッカーの特例を全競技に一般化

1966年体協、サッカーのプロアマ交流試合を承認」に記したように、プロ・コーチの採用、アマ・プロ交流試合などでサッカーは先陣を切っていたが、1970年体協はサッカーの事例を全競技に適用するようになる。

『朝日新聞』1970年7月12日付

体協のアマ規定最終案

心配残る甘い表現
    プロ・コーチ処遇改善は大好評
       関係者はこうみる

 日本体育協会アマチュア規定の最終改正案がこのほど、体協アマチュア委員会(鈴木良徳委員長)でまとめられた。近く体協理事会に答申されることになっているが恐らく、ほぼ最終案通りに決定される見通しである。鈴木委員長は「今後、十年間は改正しなくともすむ規程」と自画自賛しているが、スポーツ関係者の見方はどうか反響を聞いてみた。

 最終案の特色は、現行規定に比べて大幅に簡略化され、アマチュア競技者の規制が体協加盟の各競技団体規定、または各国際競技団体(IF)の規程にまかせられたこと、つまり最終案は各競技団体に共通する最大公約数的な規程にとどめたことである。

 プロ・コーチが競技団体のコーチ、トレーナーなどの役員になれることや、アマ、プロの自由交流試合、ブロークンタイム・ペイメント(競技会に出ることによって失った賃金の補償)なども、暗黙のうちに認めるようになったのも、目新しいことだ。

 去る五月、改正第一次案についての公聴会の席上で「あいまいな表現が多い」と批判的だったスポーツ評論家の川本信正氏は「第一庵と内容には変りなく、相変らず新鮮味がない」と前置きして―

 「冒頭の“アマチュア・スポーツのあり方”で、アマ・スポーツマンは①スポーツを愛し、楽しむため、自発的に行う②スポーツを行うことによって物質的利益を求めない・・・・・など五項目をあげ、そのあとの規程で“アマ競技者とは体協加盟の競技団体に登録している者”としている。それじゃあ、登録していないスポーツマンはどうなるのか、その辺の結びつきが論理的に整理されていない。だから社会体育の振興をうたいながら、体協は大衆と断絶し、アマ・スポーツを独占しているという非難も起るんだ」と、まず基本面で痛烈な批判。

 全体的にも「次から次と例外を認めるような甘い規定で、拡大解釈の余地を残しては、せっかくの規定も空文化するどころか、空どう化しかねない」ともいう。

 しかし、栗本義彦体協理事(日本体操協会会長)のように「現在ではこの程度のゆるい規定でも仕方がるまい」と、大筋で同感する人も多い。「ソ連など共産圏諸国のステート・アマと対等に試合をするには、もはやこれまで余りにも潔癖すぎた日本人の考えではダメ。競技力を向上させるには、プロとも交流し、プロ・コーチを競技団体の役員にするのも仕方がないことだ」というのだ。

 しかし、プロ・コーチを役員として認めるようにしたことについては、川本氏も「現実的な規定であり、非常によい」とほめる。

 田畑政治体協理事(水連名誉会長)も、つねづね「日本ではプロを軽べつしがちだが、青少年を対象にコーチしているものは教育者であり、尊敬されるべきだ」と主張しており、プロ・コーチへアマの門戸を開いたことを歓迎する賛成派。

 日本蹴球協会の平木隆三氏や八重樫茂生氏らは、会社をやめ、協会から報酬を受ける専任コーチとして選手の指導に当ってきたが「プロ・コーチ」を自任しながらも「協会事務局技術職員」という名に甘んじてきた。

 平木選手は「改正案が通れば、われわれの地位も確立し、プロとしての自覚も芽ばえてくる。肩身のせまい思いはしなくてすむし、どんどん専任コーチが誕生するのではないか」とうれしそうだ。

 ところで、規定が緩和されたからといって、違反者が続出しては大変。改正案に賛成の栗本氏らは「アマの本質を忘れてはいけない。競技者も、団体も、これまで以上に自覚を高めるべきだ」と注意を喚起している。”

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埼玉、静岡が強かったのは師範学校サッカーの伝統が残ったから

浦和南高を3冠獲得に導いた松本暁司監督のインタビューを紹介したが、氏は埼玉師範の後身、埼玉大学教育学部出身。清水のサッカーを育てた堀田哲爾氏も静岡師範の後身、静岡大学教育学部出身。

埼玉、静岡両県は師範学校サッカーの伝統が新制大学教育学部に受け継がれた。

わが兵庫県の御影師範は1937年に姫路師範と合併して兵庫師範となった際、蹴球部は廃部となった。従って、神戸大学教育学部には、全国最強の師範学校であった御影師範サッカーの伝統は受け継がれなかった。戦後の神戸大学サッカー部は長らく関西の強豪であったが、御影師範ではなく、戦前の神戸高商・神戸商大の系譜を受け継いだもの。

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高校総体の問題点 浦和南高松本暁司監督インタビュー

高校サッカーの「選手権」を正月から真夏の高校総体(インターハイ)に移したが、真夏というシーズンの問題やなぜ「総合体育大会」なのか、を第一線の指導者に問うたもの。←「1966年から高校、大学の「選手権」を方式変更

『朝日新聞』1970年8月9日付

ゆっくり話そう
  浦和市立南高サッカー部監督
          松本暁司教諭

高校総体こう思う

納得できぬ運営
 意味のない総合開会式

 炎天のもと、全国高校総合体育大会は和歌山県を中心に二府八県で行われている。この総体に、サッカー監督としてこの三年来参加し、昨年は高校サッカー界の三冠王にもなった浦和市立南高の松本暁司教諭に総体の印象を聞いてみた。

―四〇度近い炎暑のなかでの総体は高校生にとってどんな意義があるのか。

 もっとも活動量の多い時期にスポーツをやり、この炎天に耐えてがんばることは将来の人間形成に大きな意義がある。もちろん健全な体力の育成といった点についてはいうにおよばない。

―結構ずくめの総体だが、期日に批判があるのではないか。

 たしかに、健康管理の面からいって、またスポーツの教育的な面からいっても期日と運営の内容については納得できないものがある。どうして全競技を無理に集めて一定の時期にやるのか。どうも高体連首脳部のいい分を聞くと、むりやりやっている感じがあり、PRのための大会と考えられるフシもある。運営の面でも、サッカーを例にあげると四〇度近い暑さにおなかで十日間もの長い日程は、優勝するまでに六試合もこなさなければならない。生徒はサッカーに勝つよりも、暑さに勝つことで精いっぱい。鍛えあげられた高度なサッカーのプレーなど望むべくもない。心・技・体といったバランスのとれた競技はできない。もっと考えてほしいものだ。

―高校総体は費用がかかって選手の犠牲による大会といわれているが。

 浦和南の場合は一人二万五千円ぐらいはかかる。恵まれていることには、交通費は県教委から、滞在費は学校から出ているが、選手は食べ盛りなので一日一人五百円は赤字だ。頼みは後援会。強いからいいものの、他のチームはほとんど自費といったところもある。こういった面を高体連首脳部はどう考えているのか。それに大会役員が多すぎるのではないか。

―総合開会式は必要なのか。

 総合開会式はまったく魅力がない。試合を前にして一日まるまるつぶされることは問題だ。それもむくわれるものがれば別だが。たとえばお世話になる地元との親交を深めるとか、鍛え上げた体力を披露するとかいったものならいいのだが、今年の総合開会式は簡素だといわれながらも約一千百万円も使っている。形式的な総合開会式よりは、せっかく全国から高校生が集っているのだから、生徒同士の交流とか、歓迎の夕べとかいったもので、スポーツを楽しむ生徒たちの交歓の場を作ることが大切ではないか。

―高校総体に、参加できなかった選手はどうしているのか。

 それが問題なのだ。総体の予選はほとんど五月に、種目によってはブロック予選が六月に行われる。そうなると負けた選手は五月以後は遊んでしまう。秋に国体があるが、それも種目によっては総体の成績によって選抜される。私の経験からいうと高校生の体力、あるいは技術といった面では六月から翌年一月までに大変な飛躍をみせる。とくに訓練を積重ねてきた三年生はそれが著しい。もっと高体連が競技期日の開催といった問題に真剣に取組んでほしい。そうすれば、高校生がもっとすばらしい進歩wpみせると思う。

―直接、生徒を育ててきて大会にのぞんだ人たちの現場の声は。

 どうも高体連首脳部は現場のことを知らなすぎるし、声を聞こうとしないようだ。高校生が十分に力の発揮できるような環境作りをした大会を考えてほしい。最近は障害となっていた進学についても、選手自身がよく自覚し、落着いてきた。勉強とスポーツ、といった問題は各自が、ちゃんと整とんしている。だから高体連も、もっと計画的なスケジュールで高校スポーツの進行を考えてほしい。ただむりやりに競技を集めた高校総体といったものでは困る。

―学校内でスポーツ各部と同好会との間はうまくいっているか。高校総体出場について批判はなかったか。

 全国優勝をめざす生徒と、好きで集った生徒とでは目的が全然違う。グラウンドも話合いで仲よく使っている。だから困ったことは起こらないし、むしろ同好会の中から部へはいってやりたいという意欲のある選手も出てきているほどだ。とかく大学では両者でもめ事が多いと聞くが、高校ではそんなことはないのではないか。”

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第1次サッカー・ブームの裏には野球の失速も

1965年に発足した日本サッカー・リーグは1968年には1試合平均観客動員数7,500人を達成する。

日本サッカー・リーグ年次別観客動員数と総収入概算

      計      平均    総収入 
40年 133,400人  2,400人   700万円
41年 201,700人  3,600人  1,600万円
42年 339,850人  6,100人  2,100万円
43年 419,500人  7,500人  5,500万円
44年 330,000人  6,300人    ?
(注、44年は第13節まで、43年から入場料が200円に倍額値上げ)” 
『朝日新聞』1969年11月30日付より

1965年はプロ野球では巨人の「V9」の始まりの年であり、これより巨人以外のせ・リーグおよびパ・リーグのチームのファンの「暗黒時代」が始まる。1965年、セ・リーグは巨人が2位中日に13ゲーム差、パ・リーグは南海が2位東映に12ゲーム差の独走で、ペナント・レースはなんとも味気なかったのである。ドル箱の巨人戦があるセ・リーグはまだしも、これから日本シリーズで9連敗することになるパ・リーグの人気凋落はすでに始まっていた。

『朝日新聞』1965年11月20日付

人気ないパ・リーグ
    観客動員数大幅に減る

 パ・リーグの今シーズン公式戦観客動員数が、このほどまとまった。合計二百五十万余人で前年にくらべ二七%と大幅の減少。ことし巨人がホームゲームで約二百三十万余人集めているからパの六球団合わせてそれを約二十万人上回っていたにすぎない。

 大幅減少の原因はもともとセ・リーグにくらべ人気が低かったうえ、南海の独走で、ペナント争いの興味が薄れたためと見られる。

 各球団とも前年に比べ軒並み減少しているなかでとくに阪急はことし優勝争いから早く脱落したため五九%と、ものすごい減り方だった。

 一試合平均は約六千でセの約一万五千に比べ半分以下。

 ホームゲームについてみると東映が前年より三一%も減りながら最高、一試合平均は一万人を上回る球団はひともなかった。(セは巨人、中日、阪神の三球団)。カード別では東映-阪急に一番あつまり一試合平均一万二千余人、最低は阪急-近鉄の千九百余人だった。

パ・リーグ観客動員数

       総数(人) 一試合平均(人) 前年比(%)
東映    653,600    9,337      -31
南海    556,811    7,954      -14
東京    436,800    6,240      - 6
西鉄    382,700    5,467      - 9 
阪急    256,600    3,666      -59
近鉄    214,850    3,069      -13
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      2,501,361    5,956      -27    ”

1968年の日本サッカー・リーグの1試合平均7,500人は、1965年のパ・リーグなら3位に相当した。観客動員が落ちると、考えることは誰しも同じで、パ・リーグは1973年から2シーズン制を導入する。

優勝争いがつまらないのは大相撲も同じで、横綱大鵬の独走が続いていた。まさに「巨人大鵬玉子焼」時代だったのだ。プロ野球も大相撲も危機感がなかったわけではない。プロ野球ではドラフト制が、大相撲では部屋別総当たり制(それまでは一門別総当たり制)が、1965年から始まっている。

しかし、カープ女子なんかがいる昨今の野球場と違って、当時の野球場の雰囲気は暗く、オッサンばかりで野次は汚く、選手も観客もマナーが悪かった。阪神タイガース子供の会会員だった私が通っていた甲子園球場では、目つきの悪いオッサンが「ハンデがナンボ」とか、ごそごそ言っているのがよく聞こえた。数年後に発覚するプロ野球黒い霧事件は、「残留互助会」的な大相撲やリーガの八百長と違って、暴力団の資金源だった野球賭博と直結する悪質なもので、プロ野球界は根太から腐っていたのである。

巨人と南海が独走し、広島、国鉄、阪急、近鉄のような下位球団にさっぱりやる気がみられない野球や、大鵬独走で互助会的「無気力相撲」が横行する大相撲にうんざりしたスポーツ・ファンが目をむけたのが、「清新でフェア」なサッカー(当時はラグビーも人気があった)だったのではないだろうか。第1次サッカー・ブームの裏には、プロ野球の敵失があった。かくいう私もそのひとり。我が家では、阪神タイガースに関する厳正中立な客観報道で定評のある『デイリースポーツ』紙を、宅配でとっていた。野球面が悲惨で読む気が起こらず、ついつい土地柄ヤンマーの記事が大きく扱われているサッカー欄でサッカー情報に詳しくなっていき、日本リーグのヤンマーの試合を見に行ったりしだしたのである。

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代表負ければリーグも低調

『朝日新聞』1969年11月30日付

日本サッカー・リーグ
ブームなのに
 観客数ダウン

高度な試合求める
  「なんでも見る」“卒業”

 「プロ野球に追いつけ、追越せ」。高度成長を続けてハナ息の荒かった日本サッカー・リーグも五年目にして、初めて観客動員がダウン。目に見えないカベにつき当った感じである。

 三菱重工の初優勝が決った今シーズンのリーグも、残すところあと三試合。これまで集めた観衆は約三十三万人だが、昨年度の四十一万九千五百人を大幅に下回っている。初年度の十三万三千四百人から年ごとに急増(別表)。近い将来、プロ野球に肩を並べるとまでいわれたのだが、今シーズンにはいって、初めて誤算を生じた。

 メキシコ五輪銅メダルの看板をひっさげて、今年度も意気揚々とスタートしたものの、前期は十九万四千三百五十人、昨年度の前期に比べ一万七千百五十人の減少。四十五万人と見込んだリーグの思惑は大きく狂った。果して、サッカーもその神通力を失ったのだろうか。

 「むずかしい問題ですが、別にサッカーの人気が落ちたわけではありません」。重松日本サッカーリーグ総務主事は、こう前置きして、観客減少の原因を①ファンのサッカーに対する期待値の変化②天候、リーグ途中の国際試合などによる外的要因、の二つをあげている。つまり、もう杉山、釜本などスタープレーヤーを見るより、高度な試合内容を要求しはじめていることが大きな問題だという。

 だからなんでもみようから、好カードと勝敗のはっきりした試合や低レベルの試合の差がはっきりしだした。三菱-ヤンマー(四月六日・国立)三万五千人、三菱-東洋(四月二十一日・国立)二万五千人に対し、三菱-鋼管(五月二十五日・駒沢)三百五十人、鋼管-名相銀(十一月二十三日・横浜)千人ほどが好い例である。平木リーグ運営委員も、「ファンに好みが出てきた。いい試合をみるということに変ってきたので、数字的には減ったことは事実だが、ファン層は決して減っていない」という。しかし一千万都市東京に本拠を持つ古河、日立の弱体も観客減少の遠因になったことも見逃せない。

 これまで五十二試合の観客動員を見ると、一万人以上集めた試合は十試合。うち、八試合が三菱が関係した試合。サッカーのダイゴ味であるスピードに富んだゲーム展開を見せる三菱に、ファンがひかれるのは当然のことだろう。

 「観客動員の解決は、要するに三菱、ヤンマー、東洋のようなチームが八チーム集ることです」と平木運営委員。「いいゲームをすること」と重松総務主事。

 ファンは次から次への高度なものに目をむける。その期待と現実のギャップ。ファンの要望にプレーが追いつけていけない、というのが、今シーズンの観客減少に結びついたといってよいだろう。

日本サッカー・リーグ年次別観客動員数と総収入概算

      計      平均    総収入 
40年 133,400人  2,400人   700万円
41年 201,700人  3,600人  1,600万円
42年 339,850人  6,100人  2,100万円
43年 419,500人  7,500人  5,500万円
44年 330,000人  6,300人    ?
(注、44年は第13節まで、43年から入場料が200円に倍額値上げ)” 


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