『朝日新聞』1977年10月4日付
“奥寺 ケルン入り決まる
古河電工は「休職」扱い
サッカー全日本代表のエース奥寺康彦選手(二五)=古河電工が西ドイツの名門プロ・クラブ「1FCケルン」に加入することが正式決定、三日、東京・渋谷の岸記念体育会館で同選手と鎌田・古河電工監督ら関係者が出席して発表された。同日、プロ転向について会社側の了解を得た。
これまで日本サッカー界では釜本(ヤンマー)ら外国のプロから勧誘された例はあるが、実現しておらず、奥寺選手が初めてのケース。ケルンとの契約は三年間とされ、この間は古河電工社員としての身分は「休職扱い」とされた。同選手はすでにケルン側と具体的な打ち合わせをすませており、一週間以内に西ドイツへ出発する予定。
奥寺選手の日本リーグ登録および全日本代表としての身分は、日本サッカー協会が近日中に技術委員会を開いて解消を認めるが、西ドイツで正式にプロ・ライセンスを取得すれば、オリンピックやアジア大会への出場資格は失う。
奥寺選手の話 今夏、西ドイツでの全日本の合宿中に誘われたときは断った。しかし、そのあとに残念なことをした、と思い直していたら再び誘いがきた。会社を退職してでも、と決意を固めていたが、休職扱いとはありがたい。自分のスピードには自信がある。力を試してみたい。”
「1974年、有望高校生は日本リーグを迂回して大学進学」、「1975年、ユース代表大学に進学するも、ヌルマ湯で伸び悩む」で紹介したように、ユース代表クラスの有望高校生は大部分日本リーグを迂回して、二流化した大学サッカー部で伸び悩む。一方、高校から直接日本リーグ入りして順調に成長し、代表の中核にまでなった選手が、引退後の会社での処遇に見切りをつけ、外国でプロになる道を選択する。
奥寺に続いてプロ入り第2号となるのは、1983年に三菱重工からビーレフェルト入りする尾崎加寿夫である。尾崎も高卒選手であり、所属は奥寺が古河電工、尾崎が三菱重工と、現役引退後高卒が好待遇される見込みのない丸之内御三家であることが、この問題が「社会的構造問題」であることを示している。奥寺は一応円満に移籍したが、尾崎は会社、協会に無断で、しかも代表チームの中心選手がロサンゼルス・オリンピック予選直前時点での移籍、という後味の悪いものだった。尾崎は協会から「厳重注意処分」を受けた。
奥寺の移籍については朝日にはその背景にまで突っ込んだ記事は見当たらないが、尾崎の件はトラブルになったこともあって、注目を集め、その背景に言及した記事がある。
『朝日新聞』1983年6月16日付夕刊
“「五輪」捨てプロの道
サッカー・尾崎選手の西ドイツチーム契約
栄誉よりも実益か
様変わり選手気質
サッカー日本代表の尾崎加寿夫選手(二三)=元三菱重工=が、ロサンゼルス・オリンピック予選出場をけって、西独のプロチーム、アルミニア・ビーレフェルトと“隠密契約”を結んだ。「エースを失っては・・・・・」と日本サッカー協会や三菱側は引き止めにかかったが、本人の意志は堅く、時期の問題を残して西独行きが実現しそうな雲行きだ。「オリンピックこそわが命」と青春を燃焼させたのは昔の話。「オリンピックなんて。それよりプロ」と、現代サッカー選手の意識革命が起こりつつある。
(瀬下 真男記者)
東京オリンピックにそなえて日本代表の監督とコーチを務めた高橋英辰さん(日本サッカーリーグ総務主事)は「われわれの時代は、日の丸を見ただけで直立不動の姿勢をとったものです。日の丸を背負って国のためにオリンピックで戦うというのが夢であり、喜びだったのに・・・・・。時代は変わったんだなあ」と感慨にふける。
日の丸の重みをはねのけて、プロの道を選んだ尾崎選手は東京・大森の生まれ。小学生のころ丈夫な体づくりを目標にサッカースクールへ通った。メキメキと技術を身につけていく尾崎少年は目立つ存在だった。高校はサッカーの盛んな日大日吉へ進んだ。
● 抜群の活躍
「サッカーこそ私の青春」と家族の大学進学の説得を振り切って三菱重工入り。ユース日本代表の主将をつとめたころ、ワザに一層の磨きがかかった。そして昨年五月のオランダプロのフェイエノールト戦で全日本代表として4ゴールをあげてエースストライカーの座をかち取った。サッカー仲間は「フェイエノールト戦より前。ユース時代からプロへの道を探っていたようだ」という。
尾崎選手は昨年の日本リーグで8得点(チーム一位)、8アシスト(リーグ一位)。最終日の土壇場で三菱が逆転優勝の夢を実らせたのも彼の働きがあったればこそだ。オランダプロとの4得点も含め、抜群の活躍をした尾崎選手が受け取った報酬は三菱からの給料だけ。アマチュアの看板を掲げる企業チームの一員なのだから当選である。
しかし、これがクラブ組織の外国ならどうだろう。試合出場の日当、プラスボーナスが活躍した選手の懐に転げ込む。日本リーグでも外国のクラブ制度を実施して、得点にからんだ選手にボーナスを支給しているチームがある、といわれる。そんなうわさを聞けば、彼の心は動揺しないわけがない。
● 学歴より力
また、いくら自分がすぐれたテクニックを持っていても、周りが下手だったらオリンピックやワールドカップ大会出場はおぼつかない。ならば、自分のテクニックを買ってくれて、学歴、学閥に無関係なプロに魅力を感じるのも不思議ではない。
試合ではエースでも、グラウンドからあがえrば、学歴や学閥で固められた大企業の中で、高校卒が味わう悲哀も待っている。「ボーナス支給日の翌日、部室で着替えながら、大学卒の部員同士が大声でボーナスの額を話し合っていた。それを聞いていた高校卒のグループがだまりこくってしまいましてね」とあるチームの中堅部員は語る。
大学卒が高校卒より試合で活躍しているのなら、高校卒も納得出来よう。しかし尾崎選手のように、サッカーでは大学卒を上回るチームの力になっていたらどうだろうか。かつて日本代表に、高校卒のエースストライカーがいた。得点にからむ先天的な動きを持っていたが、あるとき突然、所属の古河電工に退職願を提出して東農大へ入ってしまった。
これまで日本代表選手が外国のプロから誘われた例は多い。一九六四年の東京オリンピックのとき、アルゼンチンから杉山隆一(現ヤマハ発動機監督)に話が持ち込まれたのが第一号。西独からくどかれた釜本邦茂(現ヤンマーディーゼル監督)を含め六件あった。このうちプロ入りしたのは奥寺康彦(古河電工-西独)だけだ。
● 嘆く先輩ら
杉山さんは「日本の企業や協会のカネで育ててもらったんだもの、日本で恩返しするのが当然だと思っていたからね。日の丸の重み、責任感、自覚が頭にこびりついていて、外国へ行こうなんて雰囲気は、全くなかったですね」と当時を振り返る。プロ入りを断ったほかの選手たちも、同じ考えだったという。
「われわれは、サッカーやってて給料もらうことに抵抗を感じていた。今の選手は給料以外のものを欲しがる」と現代サッカーマンの様変わりを嘆く高橋さん。
尾崎選手のプロ行きについて、高橋さんも杉山さんも、そしてサッカー仲間も大筋では賛成している。だが、杉山さんは「彼が置かれている立場を考え、常識的な手順を踏んで、みんなから祝福されてプロ行きを決めてほしかった」という。つまり、プロに認められた尾崎選手のサッカーセンスは、オリンピックとワールドカップ路線に向けて日本体協とサッカー協会がつぎ込んだ選手強化費で培われたという認識を持て、ということだ。
一方では、ジャパンカップ・サッカーを欠場し、ひそかに西独へ渡り、ドイツ語を話せないのに旅行ガイドブックを頼りに契約書にサインしてプロ入りの意志を貫いた尾崎選手の行動に、ひそかに拍手を送るサッカーファンも少なくない。”
“「恩返し、本場プレーで」
尾崎選手の行動は若者の本場でプレーしたいという一途な情熱がある一方、これまでの日本人なら当然持ちそうな団体への責任感をすっぱりと断ち落したようなところがある。日本代表チームに対する気持ちを聞くと「日本人と生まれたからには当然代表に選ばれたことは誇りに思っている。西独でプレーすると同じくらい日本代表にも心はひかれる。今後も出来る範囲で協力したい」という意味の答えが返ってきた。
だが、日本代表になるまで日本のサッカー界で育てられた“恩”に対しては「五輪でなくても西独で力を示すことでお返しできる。自分なりのやり方がある」ときっぱり。つまり今後、日本代表に一時的に残るとしてもそれは「協力」の範囲内なのだ。
この尾崎選手がはっきりウソをついたのは契約の有無。七日の記者会見では「絶対に口頭でも書類でも入団の約束やサインはしなかった」。それが十三日には、「ビーレフェルト側が口止めしたのでいわなかったが、サインした。契約書とは思っていなかった」。プロ契約の存在を露骨に発表されては日本体協に対してめんつ丸つぶれの日本サッカー協会、三菱重工の立場を考えたウソだったのかもしれないが、「事実に反する発言」をしたことに対する謝罪の言葉は最後まで聞かれなかった。
ビーレフェルト側では最初から「日本協会、三菱の合意が前提条件だが、契約金額など明示された契約書」と明言していた。それを平気で「語学力不足で自分が勘違いしたのかな」といってのける尾崎選手には現代っ子の持つ無責任な一面を感じさせた。
西独行きの話は去年夏からあった。今年一月と三月に話があったとき、三菱サッカー部としてはそれを断っている。尾崎選手としては自分を高く買ってくれたケペル監督がこの六月でビーレフェルトを辞めるため、その前になんとしても入団の話をまとめたかったのだろう。
あいまいな答えばかりだった七日の記者会見でもその点だけは「自分もサッカーをやる以上、当然プロでやりたい気持ちがあります」とはっきり意思表示している。どんな圧力があっても西独のプロ入りだけは譲らない、という信念をのぞかせた。
(竹内 準記者)”
協会がいくら金と人手をかけてユースを強化しても、大学進学と外国への移籍で成果は台無しになる、報われない「構造」になっていた。
メキシコ・オリンピックでは成功した終身雇用制実業団サッカーは、相次ぐオリンピック、ワールドカップ予選敗退、大学進学組の伸び悩み、高校卒代表中心選手の海外移籍、と10年たたないうちに「限界」を露呈していた。