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函館朝獲れイカは不発の記 ② 函館散歩

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バスが来るまで30分ほどあったので、道の駅で暇つぶし。

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やっとバスが来た。

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なるほど、干されてる昆布はちぎれた短いものばかり。

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浜で漂着する昆布をひっかけて採る人。宿の御主人の話では、年300万円稼ぐ人もいるとか。年金もらってるバアサンでも100万円くらいは稼げるとのこと。

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沖にはコンテナ船。

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湯の川温泉の銭湯。湯温はメチャ熱い。

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長崎に活水、横浜にフェリス、函館に遺愛。港々に女子高あり。函館出身の職場の同僚によれば、下校時に地元ヤンキーの車が大集合とか。

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本日宿泊の駅前ルートインに荷物を預け、散歩に。

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マンホールの蓋までイカなのに・・・

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昔からあるラーメン屋で函館塩ラーメンのワンタンメン(650円)。

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歩いて宝来町へ。

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すき焼きの阿佐利本店。函館出身の同僚は今年帰省中に両親にここで御馳走になるとのこと。函館育ちの人は海鮮より肉がお好きのよう。

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連絡船があったころ、上野発14:00くらい発、青森0時くらい着発で、函館4:00くらい着。朝市で朝飯食って、市電に乗り宝来町で下車、今は亡き宝来温泉で朝風呂した。漁を終えた近所の漁師がよくくつろいでいた。その跡地。

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函館市内には小さな漁港があちこちにある。函館の寿司のレベルが高いのは、客に鮮度や値段を知り尽くした漁師が多いからだそうだ。

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文字通り函館山の麓にある料亭「冨茂登」。

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高田屋嘉兵衛像。淡路島出身なので兵庫県人。

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坂を登ったところにあるホテル函館山。泊まったことがある。景色は良いが、飲み歩きに不便。

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坂の突き当りが護国神社。多角経営中。

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護国神社から坂下を見たところ。

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護国神社を右折するとロープウェー。

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さらに進むと函館の観光ポイント、教会地区。

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OBに北島三郎、辻仁成がいる函館西高も並んでる。

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西高から八幡坂を見下ろす。

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八幡坂は函館市電の撮影ポイント。

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近所には北島三郎記念館も。

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ベイエリアに出て、金森倉庫。

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仕事してない?イカ漁船。

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摩周丸。

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朝市の水槽に大きなミズダコが。

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毛ガニとカレイも同居。

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ホテルにチェックイン。部屋の窓から。

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温泉大浴場。

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すぐ近くの「魚さんこ」という居酒屋へ。

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生ビールと突出し2品。1品はタコの頭。この時期に函館に来て、イカがメニューにすらないとは・・・

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鯖刺身。

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アスパラバター焼き。

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大きいけど大丈夫かと聞かれた真ボッケ焼き。

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ソイ煮つけ。

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旭川の男山。

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たらこ茶漬け。生ビール2杯で5,150円。

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函館朝獲れイカは不発の記 ① 恵山温泉旅館宿泊記

青函連絡船があった1980年代ころ、当時8~9月開催だった函館競馬と「朝獲れイカ」を目的に毎年函館に行っていた。競馬の開催時期は変更になったので、「イカ」のみを目的に函館に行くことにした。

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東京駅発6:32「はやぶさ1号」。 

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朝食。朝からビール。

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東京は雨。すぐにビールが効いて爆睡。

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新青森で「スーパー白鳥1号」に乗り換え。

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目覚ましコーヒー。

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津軽海峡トンネル区間は新幹線用(標準軌)と貨物用(狭軌)の3本レール。

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「海が荒れてる!」。今日のイカ漁はあったのか? 嫌な予感。

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函館駅で下車。

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朝市の食堂街。やはり朝獲れイカはなしとのこと。仕方なしにいくら丼(1200円)。

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恵山岬行きバスに乗車。

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市電と同じ路線を湯の川温泉方面へ。五稜郭電停の市電。

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今の時期は開催してない函館競馬場。

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競馬通いしてたころよく泊まった湯の川温泉のビジホ。1Fが温泉銭湯。競馬場まで歩いて行ける。近所の安居酒屋で飲んでいると、馬丁(差別用語、よいこは「厩務員さん」といいましょう)が「あいつら(調教師)ウマのこと何もわかってねえんだよ」などとオダをあげているのが聞こえました。

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湯の川温泉を過ぎると海岸沿いの道になる。昆布の干し場が続くが、ハイシーズンのはずなのに全然干されてない。

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マグロで有名な大間の対岸にある戸井漁港と漁協。

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観光名所ではないが、迫力ある海岸風景。

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やっと昆布が干してあるのが。

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恵山が見えてきた。

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延々2時間路線バスの旅。恵山登山口で下車(1520円)。バス停の横も昆布干場。

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過疎路線。

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恵山頂上。活火山です。

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坂道を登ります。

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地図。

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徒歩20分くらいで到着。事前に連絡すれば送迎もしてくれるとのこと。

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部屋の窓から。海が見える。

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部屋の中。

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温泉の脱衣室。

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浴室。豊富な湯量でかけ流し、常にオーバーフローしている。道内唯一という酸性明礬緑礬泉。強酸性で酸っぱい。透明だが鉄分を多く含有、白いタオルが茶色くなった。海に近いが、「山の湯宿」という風情もある。

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夕食は部屋食。

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刺身はイカ(この旅で食べた唯一の朝獲れイカ)、サーモン、鰤、ソイ、アジ? 宿の御主人の話では、前浜の漁がさっぱりなので、椴法華方面の定置網漁から仕入れているとのこと。地元のイカ漁船は集魚灯の燃料費が出ないので、夜間ではなく昼漁しているそうだ。台風の影響ではなく、北海道のイカ漁自体が不漁続きなんだそうだ。

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大きなメバルの煮つけ。

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カレイの唐揚げ。

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焼き鮭。料理は完全な家庭料理。煮もの、揚げ物、焼き物はアツアツを出してくれて、旨かった。

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ビールはサッポロ黒ラベル。

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翌朝6:00前、エゾシカの母子が現れた。

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朝食。動物性たんぱく質はすべて魚で、玉子すら出なかった。以前宿泊した時、常温で冷蔵すらしてない前浜の朝獲れイカが素晴らしくおいしかったので、それを期待して宿泊したのだが。部屋からエゾシカも見れたし、お湯も良かった。ビール1本つけて9,050円。

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道の駅まで送ってもらった。ご主人の話では、昆布も大不漁で、沖で獲るのはお盆の前に1日漁があったのみで、今干してるのは浜で千切れた昆布を獲ってるものだけとのこと。

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『アスレチックス』v1no0.1(1922.4)~v2. no.9(1923.9)収載サッカー関係記事索引

『アスレチックス』は1922年4月創刊の大日本体育協会機関誌である。本稿の収載機関はv1no0.1(1922.4)~v2. no.9(1923.9)であるが、CiNii Booksによれば、v.10 no.10(1932.10)までは刊行されたようである。その後巻次を継承した『オリムピック』(大日本体育協会編、成美堂)に引き継がれ、v.11 no.1(1933.1)~v.15 no.5(1937.5)まで刊行されていることを確認できる。

同時期に創刊された「『体育と競技』収載サッカー関係記事索引」も本サイトに収録しているので、併せてご覧いただきたい。

山田午郎(東京蹴球団主将)「第五回関東蹴球大会の戦績」 v.1 no.1 1922.4 p.65-72

新田純興「蹴球研究者の伴侶」 v.1 no.1 1922.4 p.95-100

岡部平太(満鉄運動会)「フットボールの普及に就いて」 v.1 no.2 1922.5 p.30-32

新田純興(工学士)「蹴球の審判」 v1.no.2 1922.5 p.74-78

井染道夫(蹴球協会)「海軍の蹴球」 v1 no.2 1922.5 p.78-82

内野台嶺(東京高等師範学校教授)「ア式蹴球の概観」 v.1 no.2 1922.5 p.82-86
 
井染道夫(大日本東京蹴球団)「蹴球閑話(一)」 v.1 no.2 1922.5 p.118-121

「読者の質問」 v.1 no.2 1922.5 p.126-127

井染道夫(大日本東京蹴球団)「蹴球閑話」 v.1 no.3 1922.6 p.88-93

井染道夫(大日本蹴球協会)「今春の蹴球競技界」 v.1 no.4 1922.7 p.49-54

山田午郎(東京蹴球団)「蹴球競技界の印象」 v.1 no.4 1922.7 p.58-59

井染道夫(東京蹴球団主事)「夏季のフットボーラ―に」 v.1 no.5 1922.8 p.45-47

山田午郎(東京蹴球団)「休暇を如何に活用すべきか」 v.1 no.5 1922.8 p.53-54

井染道夫(大日本東京蹴球団主事)「フットボーラ―とシーズン」 v.1 no.6 1922.9 p.53-55

山田午郎(東京蹴球団)「三浦半島より(合宿練習記)」 v.1 no.7 1922.10 p.123-125

内野台嶺(大日本蹴球協会理事)「全国蹴球チームに望む」 v.1 no.8 1922.11 p.60-61

山田午郎(東京蹴球団)「主催者として観たる第一回関東少年蹴球大会」 v.1 no.9 1922.12 p.66-68

松田静(名古屋蹴球団)「第二回東海蹴球大会を顧みて」 v.1 no.9 1922.12 p.144-147

清水芳介(大日本東京蹴球団)「ゴール・キーパー(一)」 v.2 no.1 1923.1 p.184-185

清水芳介(大日本東京蹴球団)「全国蹴球優勝戦地方予選概況」 v.2 no.1 1923.1 p.188-191

TY生「蹴球界に望む」 v.2 no.1 1923.1 p.207

清水芳介(大日本東京蹴球団)「ゴール・キーパー論(二)」 v.2 no.2 1923.2 p.65-68

井染道夫「覇権は名古屋蹴球団に 第二回全国蹴球選手権大会」 v.2 no.2 1923.2 p.146-153

西海庵「独協中学部主催少年蹴球大会を見て」 v.2 no.2 1923.2 p.168-170

清水芳介(大日本東京蹴球団)「ゴール・キーパー論(三)」 v.2 no.3 1923.3 p.24-29

井染道夫(東京蹴球団主事)「全国高等学校蹴球大会に就いて」 v.2 no.3 1923.3 p.84-88

清水芳介(大日本東京蹴球団)「ゴール・キーパー論(四)」 v.2 no.4 1923.4 p.44-48

吉川生「蹴球の代表チーム決す 更に最善の努力を望む」 v.2 no.4 1923.4 p.116-117

井染道夫「熱血躍る余寒の争覇戦(第六回関東蹴球大会記)」 v.2 no.4 1923.4 p.126-131

井染道夫(大日本蹴球協会委員)「日本代表蹴球ティームに 強敵支那の戦略h奈何」 v.2 no.5 1923.5 p.34-37

井染道夫(大日本蹴球団)「ア式蹴球講話(一)」 v2 no.6 1923.6 p.27-30

内野台嶺(第六回極東選手権競技大会蹴球委員主任)「総裁宮の台覧を仰いだ光栄の蹴球戦批判 蹴球界に対する将来の希望」 v.2 no.7 1923.7(第六回極東大会記念号) p.118-122

井染道夫(大日本東京蹴球団主事)「ア式蹴球争覇戦の跡 民国軍再び選手権を獲得す」v.2 no.7 1923.7(第六回極東大会記念号) p.123-129

井染道夫「ア式蹴球講話(二)」 v.2 no.9 1923.9 p.14-17

 


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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 ⑨ 一般指導者講習会

機関誌『蹴球』にはそれらしい記事は見当たらないので、実現したかどうか不明。

読売新聞には「一般指導者講習会毎年八月開催 札幌、函館、仙台、富山、横濱、名古屋、京都、大阪、神戸、廣島、高松、熊本、東京」とあり、場所まで具体的に記されている。

機関誌『蹴球』5巻1号(1937年5月)に「中国協会岡山支部報告 講習会開催(加藤正信)」 p.43-44 があり、協会理事会で強化策が決定する以前の1936年12月26~27日に岡山で講習会が開催されたことが記されている。参加者は2組に分けられた。A組:各学校蹴球部員、一般愛好者、すなわち現役選手で、講師は田辺治太郎、市橋忠治(時蔵)、ベルリン・オリンピック代表の西邑、右近の4名、会場は六高。B組:県下中等学校、小学校教員で、講師は岡山県体育主事・関西蹴球協会理事の岩野次郎、会場は岡山師範。「B組参加者は中国山脈の山奥から駆けつけた小学校の先生等百数十名」の盛況だった。

機関誌『蹴球』5巻2号(1937年7月)の「北海道春季雑感(斎藤斉)」中に、

“◎五月十五日
  第三回蹴球講習会
  場所 北大グラウンド
  講師 堀江氏、補助員、北大蹴球部
 講習科目
  一、基本技術其の他一般
  二、ルール研究
  三、オリムピック講話”

とあって、1937年5月15日に札幌で講習会があったが、これも「第三回」とあり以前から北海道協会が開催していたもので、オリンピック強化策とは関係なさそうである。

岡山、札幌ともベルリン・オリンピック体験談が盛り込まれている。

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 ⑧ 代表(候補)合宿(その2)

第2次代表合宿については、機関誌『蹴球』5巻7号(1938年3月)に「全日本代表二十五選手 国際試合への常備軍」(p.25)という記事があり、「尚右代表選手の一段の強化を期して来る二十三日から四月七日迄甲子園又は日吉台に於て合宿練習を行ひ今春最強チーム編成の必要あれば即応し得る次第であります。」と記されている。この合宿について、機関誌『蹴球』に記事がないが、『東京朝日新聞』1938年3月25日付に以下の記事がある。

外人何者ぞ
   蹴球代表の初練習

合宿を開始した日本代表選手の練習初日二十四日は予定の勧銀グラウンドを都合のため本郷東大グラウンドに変更して竹腰養成委員長指導の下に午後二時半軽い練習から開始、第一日のこととて基本的技術のみにて簡単に終った。尚練習に先立って竹腰委員長は語る。

昨年合宿では個人技術やスリー・バックの理論を主として研究したので今度はこれを実践に移すことを主眼にし又練習試合は相手を身体の大きく、そして硬い外人選手と仮定してこれに対応する激しいプレーを会得させて行きたい考へです。”

第3次候補合宿は1938年7月10日~7月24日、再び慶大山中湖合宿所で実施された。この合宿については機関誌『蹴球』6巻2号(1938年8月)に以下の記事がある。

精鋭総動員 山中夏の合宿鍛錬 p.8
合宿感想(田中元一、渡辺吉郎、岡本純一、二宮洋一、小畑実、加藤嗣男、津田幸男、笠原隆、篠崎三郎、播磨幸太郎、三田英夫、岡村二郎、松浦利夫、室山知、小野禮年、大山政行、三宅恒好) p.9-15

竹腰委員長談として「技術方面では先づ今秋の日、独、伊三国競技会を目標にベストチームを編成し得るやうに訓練する」と記されている。候補選手は49名に増加。指導委員は指導委員長:竹腰重丸、同委員:濱田諭吉、工藤孝一、手島志郎、田邊治太郎、市橋時蔵、大谷一二、松丸貞一、高山英華。

この合宿中の1938年7月15日、東京オリンピック開催返上が決定したので、第3次合宿をもって1940年東京オリンピックを目的とする強化合宿は終了する。

しかし、特定の大会直前でない「常備軍」方式の代表候補強化合宿に手応えを感じたのか、戦後未だFIFA未加盟で国際試合などありえなかった1948年に代表強化合宿が復活され、戦前ピーク時の技術と経験を次世代に伝える試みがなされている。 機関誌『Soccer』復刊1号(1948年8月)に「全日本合宿練習回顧 練習記録の部(岩谷俊夫)」 p.23-28 には、

“吾々はいつ国際試合が行われても応じ得る力を備え、しかも漸く頭をもたげて来た学生選手たちがその昔国際試合を自ら体験し見聞して高度の技術並びに理論をそなえた人々から急速に吸収しつくして、新しき日本サッカーの国際的地位確立に役割を受持つべき技術を体得し、その大いなる基盤を作らねばならぬ必要に迫られている。”

と、記されている。戦後初の代表合宿は、1948年7月の10日間、静岡県三島の日大三島予科寮で行われた。

特定国際大会直前ではなく、常時代表候補を選抜して強化合宿、強化試合を行う方式は、実はわが国では1940年東京オリンピックを契機に定着したものであり、これが1940年幻の東京オリンピックがサッカー界にもたらした最大の遺産ではないだろうか。ご存じのように、この方式は現在に続いている。

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 ⑧ 代表(候補)合宿(その1)

これは実現した。

東京日日新聞では「代表選手養成練習会―前年度の戦績により日本代表選手銓衡委員会で廿二名を選抜し二週間の合宿練習を行ふ。期日左の通り。第一次本年七月十五日-同廿九日、第二次昭和十三年三月廿五日-四月七日、第三次同年十二月廿五日-昭和十四年一月十日(コーチ招聘の時期に合致せしめる)、第四次昭和十四年四月一日-同十五日」となっていて、期日まで決定していた。

現在では代表候補合宿など「当たり前」のことだが、当時は画期的なことであった。極東選手権、ならびにオリンピック代表の決定法は、1930年以前は代表決定予選会方式で、優勝チームが補強選手を加える形で代表となった。1930年第9回極東選手権東京大会では、1シーズンを通して大学リーグ戦で候補選手を選抜、さらにその中から代表選手を決定した。1934年第10回極東選手権マニラ大会では、すでに始まっていた東西対抗試合を代表選考参考試合とする方法で選考。1936年ベルリン・オリンピックでは、あらかじめ単独チーム主体にすることを決定した上で、さらに参考試合を指定して選抜したが、この方法は関東・関西、さらに朝鮮・内地の軋轢を残す結果となった。→「日本サッカー通史の試み(33) ベルリンへ」「日本サッカー通史の試み(34) オリンピック選手銓衡委員会」「日本サッカー通史の試み(35) 代表候補選考に関西側不満爆発

特定大会の直前ではなく、毎年代表候補を選考して合宿を行う方式は、当時「常備軍」と称された。

第1次代表候補合宿は1937年7月10日~7月19日、慶大山中湖合宿所で実施された。

指導委員と候補選手名は機関誌『蹴球』5巻2号(1937年7月) p.21-22 に掲載されている。

指導委員:竹腰重丸(東大OB)、市橋忠治(時蔵)(慶大OB)、濱田諭吉(慶大OB)、田邊治太郎(大阪商大OB)、工藤孝一(早大OB)、手島志郎(東大OB)、川本泰三(早大OB)、大谷一二(神戸商大OB)

候補選手
FW:右近徳太郎(慶大OB)、川本泰三(早大OB)、大谷一二(神戸商大OB)、増田正純(慶大)、播磨幸太郎(慶大)、二宮洋一(慶大)、篠崎三郎(慶大)、加茂健(早大)、加茂正五(早大)、渡辺操(東大)、前川有三(神戸商大)、林信二郎(関大)、小野礼年(京大)、田中元一(関学)、野沢幸四郎(関学)、裵宗鎬(全普成)
HBおよびFB:石川洋平(慶大)、松本見(慶大)、笠原隆(慶大)、関野正隆(早大)、吉田義臣(早大)、末岡圀孝(早大)、金容植(早大)、種田孝一(東大)、屬義雄(東大)、菊池宏(東大)、木下勇(神戸商大)、吉江経雄(神戸商大)、三田英夫(関学)、森正夫(京大)、前川光男(神戸高商)、康基淳(全普成)、朴奎禎(全普成)、李裕宝(延禧専門)
GK:津田幸男(慶大)、佐野理平(早大)、不破整(早大)、中垣内勝久(文理大)、上吉川梁(関大)

ベルリン・オリンピックで代表候補に落選し、関東・関西の対立の原因となった大谷一二が指導委員兼選手として復活。候補選手39名中慶大9名、早大9名、東大4名、文理大1名、神戸商大・高商5名、関学3名、関大2名、京大2名、全普成3名、延禧専門1名であり、所属チーム地域別では関東23名、関西12名、朝鮮4名と、早大と関東に偏ったベルリン・オリンピック代表からかなり変化した。指導員・候補選手とも関東・関西混成で、朝鮮からもベルリン・オリンピック時よりも多く候補選手を選抜し、来るべき東京オリンピックでは、地域対立を越えたオールジャパン体制で選手選抜を行うという意思が感じられる。

体調不良や兵役のため、右近、川本、前川、加茂正、康、不破、上吉川が参加せず、残り32人が参加した。

合宿の内容については、機関誌『蹴球』5巻3号(1937年9月)で、以下のように詳述されている。

指導練習会の効果(竹腰重丸) p.1-3
審判員報告(竹内悌三) p.4-8 .
国際代表選手候補所感 裨益する所は大きい(笠原隆) 完全に捉へた(田中元一) 偶感二項(裵宗鎬) 先づ自粛自戒(松元一見) 捨石の気構へ(石川洋平) 進境を見出す(朴奎禎) 3FBの実戦化(木下勇) 精神的の収穫(林信二郎) 明日を約束した(金容植) 日本独特のシステム(津田信男) 効果を讃ふ(前川光男) 練習は意識の上に立つ(篠崎三郎) 飛躍への緒(野沢幸四郎) 一歩抜け出た(中垣内勝久) 手堅い道を選べ(李裕宝) p.8-19
合宿日誌 p.20-28

合宿の重点はベルリン・オリンピックで遭遇した3BKシステム(WMシステム)の習熟に置かれた。

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 ⑦ 米国大学チーム招聘

これも実現しなかった。1964年東京オリンピック開催決定前に実現。

東京日日新聞記事では「米国大学チーム招聘―米国の蹴球はベルリン・オリムピックで優勝チームイタリーと1-0の善戦をなしわが好敵手たり得るので東京大会前年の昭和十四年十一月-十二月の期間に選手十七名、役員三名の大学チームを招き東京で四回、関西で散会の手合せを行ふ」となっていて、おそらくベルリン・オリンピックでイタリアに0-1と善戦したアメリカ代表に注目した関係者のアイデアであろう。日本の対スウェーデン戦はその翌日だったので、スカウティング可能であった。日本は準々決勝でイタリアに0-8で大敗

サッカーでの日米交流はなかったが、野球では日米チームが盛んに往来しており、ヨーロッパよりも安価かつ短期間で交流できた。

日本代表がアメリカ・チーム(代表でもあった)と初対戦したのは、メルボリン・オリンピック直前の1956年10月25日(後楽園競輪場)で、3-5で敗戦。アメリカ代表はメルボルンに行く途中、日本に立ち寄ったもので、10月27日大阪球場特設グラウンドで全関西とも対戦、6-0で大勝している。

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 ⑥ ドイツからコーチ招聘

これは実現しなかった。1964年東京オリンピック準備期間中に実現。

ドイツからのコーチ招聘計画はこれが初めてでなく、1933年に1934年第10回極東選手権マニラ大会強化策としても計画が協会内にあったことが、読売新聞記事にある。

『読売新聞』1933年9月29日付

独逸から蹴球の
   名コーチ招聘
     ―極東大会出征前に

大日本蹴球協会ではかねて外国の優秀チーム或は権威あるコーチを招聘する意向あり昨春ドイツチーム招聘の計画をたてて交渉したところ、同国では種々の都合上第二軍の如き選抜チームの組織を見たのみで、有力なる選手を欠く有様だったので遺憾ながら中止するに至ったが、これが縁となって協会理事鈴木重義氏は非公式にドイツ蹴球界の権威オットー・ネルツ氏の来朝を交渉中であるが、予ねてから日本来遊の意志を持つ同氏の事であるから快諾するものと見られてゐる。

氏はドイツ体操協会のコーチであり、蹴球界の権威としてその著書は日本にも五六種来てゐるが、慶應チームの如きはかねてから同氏の著書によって練習してゐる有様で、氏が明春極東大会遠征前に来朝してわが代表チームを親しくコーチすることは比支両国に必勝を期するわが蹴球チームにとって非常な貢献をなすべく斯界から期待されてゐる。”

オットー・ネルツは専任(フル・タイム)化したドイツ代表初代監督で、その著書『Fussball』(Weidmann, 1926)は慶應義塾体育会ソッカー部が翻訳し、同チームの指針となった。慶應OBの島田晋著『アソシエーション・フットボール』(往来社,1931)の序文では「僕はこの本を殆ど独逸の国際代表ティームコーチ、オットウ・ネルツの著 “Fussball”に依って書いた。」と述べられている。 →「戦前の日本サッカー関係者が参考にした洋書

ネルツはベルリン・オリンピックドイツ代表監督だったが、勝利が確実視され、ヒットラーをはじめとするナチスお歴々の御前試合(ヒットラーが確実に観戦した唯一のサッカー試合)であった、1936年8月7日(同日日本の対イタリア戦があった)の準々決勝対ノルウェー戦でまさかの0-2で敗北、代表監督を退任した。代わって代表監督に就任したのがゼップ・ヘルベルガーなので、ドイツからのコーチ派遣が実現していたら、ヘルベルガーが人選したのではないだろうか。いうまでもなく、ヘルベルガーは1954年ワールドカップスイス大会優勝監督。剛健さとテクニックを併せ持つドイツ代表の伝統を築いた人物。

東京日日新聞記事では「コーチ、トレーナー各一名を昭和十三年十一月ドイツから招聘し翌年二月まで滞在せしめて後述の全日本選抜チームのコーチ並に講習会による一般のコーチ委嘱する」となっていて、さらに代表強化合宿計画では「第一次本年七月十五日-同廿九日、第二次昭和十三年三月廿五日-四月七日、第三次同年十二月廿五日-昭和十四年一月十日(コーチ招聘の時期に合致せしめる)、第四次昭和十四年四月一日-同十五日」とあり、4カ月の滞在期間中に第3次合宿で日本代表をコーチする計画になっていた。

さらに注目すべきは「講習会による一般のコーチを委嘱する」で、1964年東京オリンピック後の1969年クラマー氏による第1回FIFAコーチング・スクールとして実現したのと同様の計画が、1940年幻の東京オリンピック時にすでに存在していたのである。

ドイツからのコーチ招聘が実現したのは、1964年東京オリンピック決定後の1960年、デットマール・クラマー氏であった。ヘルベルガーのアシスタント・コーチだったクラマー氏の人選もヘルベルガーによるものであり、日本サッカーとドイツ代表監督の縁は深い。

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 ⑤ 英国チーム招聘

これはイズリントン・コリンシャンスの来日として実現。

『東京朝日』記事では、「十三年十月役員選手二十名、東京四試合、大阪三試合、名古屋一試合」となっているが、1938年4月7日対全関東1試合(神宮)のみが行われ、4-0で全関東が完勝した。サッカーの母国英国チームの初来日とあって、日本側の期待が大きかったが、拍子抜けの態であった。協会機関誌『蹴球』6巻1号1938年6月号は「日英国際試合特輯」号であるが、「期待外れ」の感想を記している人が多い。コリンシャンスは超長期遠征で疲弊し、コンディションが悪かった上、来日前後の試合でもマニラなどで敗戦しており、本来の実力もそれほどではなかったようである。

戦後のイングランド・クラブチームの初来日は1968年のアーセナル。イングランドの名門プロチームの初来日とあって「興行」として大成功した。→「観衆は一足先に南米化 1968年対アーセナル戦第3戦」 国立競技場で行われた第1戦は5万8千人、第3戦はなんと6万8千人を動員した。当時のアーセナルは現在と違って守備的な地味なサッカーをするチームで、派手なスタープレーヤーはいなかったにもかかわらず、この大人気。ド派手なジョージ・ベストを筆頭に、ボビー・チャールトン、デニス・ローらのスーパースターがいたマンUが来日していたらどうなったことやら。→牛木素吉郎「すばらしかったアーセナル」『サッカーマガジン』1968年7月号

試合結果は1968年5月23日(国立)対日本代表3-1、同5月26日(福岡・平和台)対日本代表1-0、同5月29日対日本代表(国立)4-0で、アーセナルの3戦全勝。日本代表はその年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得したので、代表強化策としても成功だったといえよう。

アーセナル招聘はその後の協会財政強化策の先駆となった。

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 ④ 東洋大会に出場

これは実現せず。東洋大会自体が開催されなかった。

『東京朝日新聞』1937年2月9日付に「一、東洋選手権大会大阪開催に関し、準備委員として神田清雄、田邊治太郎、前田純一、高田正夫の四君を依頼す」とある。関西在住の協会関係者が準備委員になっている。

満州国参加問題をめぐって、1934年第10回マニラ大会で幕を閉じた極東選手権に代わる大会として東洋大会を1938年大阪で開催する計画であったが、フィリピンが参加に難色を示し、開催されなかった。大阪が開催地になっているのは、極東選手権が1923年以降日本で開催する際、大阪と東京交互で開催する取り決めがあったからである。1923年第5回は大阪開催、1930年第9回は東京で開催され、極東選手権が継続していたなら、次の日本開催地は大阪になるはずであった。

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 ③ 第三回ワールドカップ出場、英・独遠征、世界学生大会出場

これは実現しなかった。日本代表のヨーロッパ遠征は1964年東京オリンピック準備期間中に実現した。世界学生大会への参加は1964年東京オリンピック開催決定以前に実現した。

1. ワールドカップ

ワールドカップ出場については、1937年2月7日の協会理事会で決定した。→「大日本蹴球協会の1940年東京オリンピック準備に関する資料集 ① 1938年第3回ワールドカップ・フランス大会参加

その後の『東京朝日新聞』関係記事は、

1937年3月16日付

日本蘭印と顔合せ

【パリ十五日発同盟】 一九三八年度世界蹴球選手権大会は明年六月四日からパリにおいて開催されるが、参加三十五ヶ国に上る盛況さでこの結果実行委員会は予選ラウンドに極東ゾーンを設定、これが勝者を決勝ゾーンに進出せしめる事となり一回戦で日本対蘭領インドチームの顔合せとなった。”

本大会出場16チームに対して35か国が出場希望したため、予選が行われることになった。日本はオランダ領東インド(現・インドネシア)と極東地区予選を争うことになった。

1937年5月22日付

世界蹴球極東予選試合
   来年一月上海で
     我が選手団・八月合宿

大日本蹴球協会改選後初顔合せの理事会は二十日午後六時から駒場ビル協会事務所で鈴木、竹腰、野村、野津、山田の各理事出席の下に開会、参加三十五ヶ国の多数を擁して明年六月四日からパリにおいて開かれる第三回世界蹴球選手権大会が参加国過剰のため既報の如く予選を行ふ必要に迫られ、極東ゾーンが新たに設けられて蘭領東インドと極東代表権を争ふ事になったので、この対策につき慎重協議を進めた結果、左の如く決定し外事委員会の手により蘭領インド蹴球協会にあて打電提案する事となり二十一日午後これを発表した。

一、極東ゾーンの代表決定試合は一九三八年(昭和十三年)一月に行ふ

一、予選地は上海を選ぶ

而して我が代表選手は近く銓衡委員会が結成され同委員会に置いて全国より約四十名の候補者を挙げ八月東京において合宿練習を行ひこの中より二十名の精鋭を選出派遣する事と決定した。”

予選会場は中立地の上海で、1938年1月に予選を行うことを日本側から提案した。

1937年12月13日付

世界守旧選手権に
  我国出場を中止
     東亜の情勢に鑑み

大日本守旧協会理事会は十二日午前十時から協会事務所において深尾会長をはじめ野村、濱田、竹腰、前田、野津、田邊、山田の各理事、小野、藤井の二委員の出席の上開会。明年パリにおいて開かれる筈の千回蹴球選手権大会に初登場を目指して着々準備を進めてゐたが、東亜の情勢は東洋区予選地上海の会場を変更するに立ち至り、同時に予選期日も変更される事となったので、世界選手権大会出場を見合せる事に決定し、左の理由書を発表した。

本協会は世界蹴球選手権大会東洋区に於ける対蘭印戦の予選を上海に於て行ふ希望を有し右を根本原則の一として交渉中なりしも、現在に於ける情勢は到底予選を上海に於て遂こ行する事は不可能なる結果となり、他方FIFAは仏領印度支那サイゴンに於て行ふ様斡旋ありしも、一月サイゴンに於て予選を行ふ事は地域的に且又我が選手が学生を中心とするチームなる以上これまた種々の困難を予想せららるるが故に、今回は出場を見合す事に決定の旨FIFAより之を確認する旨の通告に接す

尚この他の決定事項は次の通りである。

一、東西選抜対抗戦は一月二十三日午後二時南甲子園に於て行ふ”

1937年12月12日ワールドカップ出場断念を正式決定。

1937年7月7日盧溝橋事件が勃発して日中戦争が始まる。同年8月には上海事変が起こり、上海は戦場となって、上海での予選開催は不可能となる。FIFAはフランス領インドシナ(現・ベトナム)のサイゴンでの開催を斡旋したが、日本はこれを拒否、予選不出場を決定した。この結果、オランダ領東インドが本大会に出場、1回戦で準優勝したハンガリーに0-6で大敗した。、オランダ領東インドのメンバーの名前から判断すると、オランダ人、インドネシア人、華僑の混成チームだったようである。

日本のワールドカップ予選初出場は1954年スイス大会、本大会初出場は1998年フランス大会となる。

2. 英・独遠征

日本代表のヨーロッパ長期遠征は、1964年東京オリンピック決定後の1960年に実現し、ドイツには遠征したが、イングランド遠征はなかった。

日本代表は1936年ベルリン・オリンピックですでにドイツ遠征を経験している。イギリスでは戦後しばらく対日感情が悪かったせいか、欧州遠征の頻度のわりには日本代表のイングランド初遠征は遅く、メキシコオリンピック後の1971年が初めて。1971年8月4日対ハル・シティ0-5、同8月7日対サザンプトン2-6、同8月10日対グリムスビー・タウン2-7、と完敗続きの3連敗であった。

3. 世界学生大会

1964年東京オリンピックとは関係なく、日本学生選抜が1953年に西ドイツ、ドルトムントで開催された世界学生大会に出場した。このチームは渡英しており、1953年9月2日にロンドンで英国学生選抜と対戦、0-2で敗退している。この遠征は、テクニカル面の成果よりも、メンバー中に後に日本サッカーの中枢となる長沼健、岡野俊一郎、平木隆三がいたことで知られている。 

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 ② 北支チーム招聘

これは実現した。

協会はオリンピック強化策と位置付けているが、1937年4月に来日しているので、すでにスケジュール決定済みのものを、とってつけたようにオリンピック強化策にねじこんだ印象。

北支チームとは、北寧鉄路局足球隊という天津の鉄道系社会人チーム。なかなかの強豪チームで対戦成績は以下の通り。

1937年4月8日 対文理大(東大球場) 6-2
1937年4月11日 対早大(神宮) 1-0 早大イレブンのうちFW加茂(正)、西邑、加茂(健)、HB金、GK佐野はベルリン・オリンピック代表
1937年4月14日 対慶大(神宮) 4-1
1937年4月18日 対全関西(南甲子園) 3-2

北寧鉄路局足球隊はアウェーで4戦全勝。新聞記事によれば、BKからロング・フィードが正確だったが、例によってラフプレーが多かったとのこと。蹴球協会の招聘試合にもかかわらず、機関誌『蹴球』に試合記録がないのは全敗だったからであろうか。

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 ① 東京オリムピック蹴球準備委員会設置

1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策は、1937年3月2日に発表され、翌日の新聞に掲載された。→「大日本蹴球協会の1940年東京オリンピック準備に関する資料集 ② 1937年2月27日、3月1日理事会決定の総合強化策」。『東京日日』には「体協オリンピック委員会に提出すべき東京大会準備の国内強化策」とあり、体協が各競技団体に強化策の提出を求め、それが公表されたもののようである。なお、協会機関誌『蹴球』にこの強化策は掲載されていない。

まず、協会内に「東京オリムピック蹴球準備委員会」が設置された。メンバーは以下の通り。

【会長】深尾隆太郎
総務部【部長】鈴木重義【次長】小野卓爾、小長谷亮策
財務部【部長】田邊治太郎【次長】岸本武夫
外事部【部長】野津謙【次長】中島健蔵
宣伝部【部長】山田午郎【次長】中島道雄
設備部【部長】野村正二郎【次長】朝生要人
審判部【部長】濱田諭吉【次長】竹内悌三
技術部【部長】竹腰重丸【次長】市橋時蔵

会長の深尾隆太郎は蹴球協会会長。部長7名は当時8名いた協会理事。残る1名は関西在住(阪神電鉄勤務)の前田純一。総務部長鈴木重義はベルリン・オリンピック代表監督で協会主事、早大OB。次長の小野卓爾はベルリン・オリンピック代表チームのマネージャーで中大OB、小長谷亮策は文理大OB。財務部長の田邊治太郎は田辺製薬オーナー、大阪商大(現・大阪市大)OB、次長の岸本武夫は東大OB。外事部長野津謙は東大医学部OBでアメリカ留学経験者、中島健蔵はフランス文学者で東大OB、東大仏文講師。宣伝部長の山田午郎は東京朝日新聞運動部次長、青山師範OB、次長の中島道雄は東大OB。設備部の野村正二郎は航空研勤務、早大理工学部OB、次長朝生要人は東大OB。審判部長濱田諭吉は慶應ソッカー部初代主将、次長の竹内悌三はベルリン・オリンピック代表主将で東大OB。

注目されるのは技術部で、東京オリンピックが実現していたら、部長竹腰重丸が監督で、次長市橋時蔵がコーチになったであろう。両人とも1930年第9回極東大会優勝経験者。東大OB竹腰はベルリン・オリンピック代表コーチ。慶大OB市橋はベルリン・オリンピック代表候補に選出されたが、当時関西在住(神戸一中OB)で、神戸一中OB大谷一二代表候補落選にともなう関西・関東の対立に巻き込まれ、辞退。当時慶大の黄金時代で、代表には慶大の現役・OB(神戸一中OBも多い)が多数選出されたはずなので、慶大OB市橋の技術部役員選任は妥当と思われる。

総じて、各理事の得意とする分野が割り当てられ、さらに関東・関西の地域的バランスにも一定の配慮が感じられ、協会の総力を結集する意気込みが伝わる人事といえる。

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大日本蹴球協会の1940年東京オリンピック準備に関する資料集 ② 1937年2月27日、3月1日理事会決定の総合強化策

『東京日日新聞』記事中に「体協オリンピック委員会に提出すべき東京大会準備の国内強化策」とあるので、体協が各競技団体にオリンピック強化策の提出を求め、蹴球協会が提出したのが、下記のプランのようである。

大変重要な情報であるが、機関誌『蹴球』に本理事会決定に関する記事は見当たらない。

『東京朝日新聞』1937年3月3日付

“豪華スケジュール
  世界蹴球制覇へ
      外国三チーム招聘

大日本蹴球協会は去る二十七日午後三時及び一日午後六時から新橋協会事務所で再度理事会を開催、次回オリムピック東京大会に対する準備と本年度競技会日割原案を作成、二日午後発表したが、オリムピック準備としては先づ準備委員会を設置する外、明年六月パリに開催される第三回世界蹴球選手権大会に参加するの外、英、独二国へ転戦、世界学生選手権大会出場、更に同年十月には英国チームを招聘、十一月から翌年十四年二月にかけてドイツよりコーチ、トレーナーの招聘、十四年十一月には米国チームと相継いで招聘することとなった。当日の決定事項は、

オリムピック準備委員会を設置す
会長 深尾隆太郎男、総務部部長 鈴木重義、財務部部長 田邊治太郎、外事部部長 野津謙 宣伝部部長 山田午郎、設備部部長 野村正二郎、審判部部長 濱田諭吉、技術部部長 竹腰重丸

北支チーム招聘 四月
四月八日対文理大(戸山)十一日対早大(神宮)十四日対慶應(神宮)十七日対全関西

第三回世界選手権大会出場並に英国遠征学生大会出場
役員三名、選手二十二名、十三年四月上旬出発、五月英、独転戦、六月四日より十九日パリにて本大会出場、七月学生大会出場、八月下旬帰朝

東洋大会に出場
役員三名、選手二十二名

英国チーム招聘
十三年十月役員選手二十名、東京四試合、大阪三試合、名古屋一試合

独逸よりコーチ招聘
十三年十一月より一四年二月迄コーチ一名、トレーナー一名、代表選手に対するコーチ及び一般講習会指導

米国チーム招聘
十四年十一月より十二月迄一行二十名

代表選手養成練習会 毎年度末にそのシーズンの成績を参考として銓衡委員会によって代表選手二十二名を決定し二週間合宿練習を行ふ

◇オリムピック審判研究会を設置しシーズンの初め(三月)と終り(八月)に全国各協会より委員を集めて研究会を開催す

◇一般指導講習会毎年八月開催
札幌、函館、仙台、富山、横濱、名古屋、京都、大阪、神戸、廣島、高松、熊本、東京”

『東京日日新聞』1937年3月3日付

外国チーム招聘
    躍進を目指す蹴球界

体協オリンピック委員会に提出すべき東京大会準備の国内強化策に大日本蹴球協会では去月廿七日、三月一日の両日開催した理事会で左の諸項を決定、同席上で東京大会球技場に関し青山射撃場跡に新設する組織委員会案を支持し陸連提唱の芝公園運動場改造の代用競技場案にも大体賛意を表し球技場に用ひられるフィールドは何処たるとを問はず絶対的に芝生なるべきことを強調した決議書と共に二日午後六時同事務所で発表した。

一、東京オリムピック蹴球準備委員会設置

委員長深尾竜太郎男▼総務部、鈴木(重)小野(卓)小長谷▼財務部、田邊(治)岸本(武)▼外事部、野津、中島(健)▼宣伝部、山田(午)中島(道)▼設備部、野村(正)朝生▼審判部、濱田、竹内(悌)▼技術部、竹腰、市橋―各部の計画はそれぞれ立案の上次回理事会で決定

二、国内強化策としての事業

1 北支軍招聘―既報の如く四月上旬来征の北支軍の試合日取を左の通り決定▼八日、対文理大(戸山学校)▼十一日、対早大(神宮)▼十四日、対慶應(神宮)▼十七日、対全関西(未定)

2 第三回世界蹴球選手権大会参加―既報の明年六月四日から十九日までパリで開催の同大会参加のため選手廿二名、役員三名を派遣、同年四月中に出発、英、独に転戦後パリに到着、同大会後出来得れば八月同地で開催の第七回国際学生競技大会にも出場し同下旬帰国の予定

3 英国チーム招聘―昭和十三年十月選手十七名、役員三名の英国蹴球軍を招聘し東京(四試合)名古屋(一試合)大阪(二試合)の各地で対抗試合を挙行

4 独コーチ招聘―コーチ、トレーナー各一名を昭和十三年十一月ドイツから招聘し翌年二月まで滞在せしめて後述の全日本選抜チームのコーチ並に講習会による一般のコーチを委嘱する

5 米国大学チーム招聘―米国の蹴球はベルリン・オリムピックで優勝チームイタリーと1-0の善戦をなしわが好敵手たり得るので東京大会前年の昭和十四年十一月-十二月の期間に選手十七名、役員三名の大学チームを招き東京で四回、関西で散会の手合せを行ふ

6 代表選手養成練習会―前年度の戦績により日本代表選手銓衡委員会で廿二名を選抜し二週間の合宿練習を行ふ。期日左の通り。第一次本年七月十五日-同廿九日、第二次昭和十三年三月廿五日-四月七日、第三次同年十二月廿五日-昭和十四年一月十日(コーチ招聘の時期に合致せしめる)、第四次昭和十四年四月一日-同十五日

7 代表選手練習会―東京大会出場選手の最後の磨きをかける合宿練習で時期は左の通り
第一次昭和十四年十二月廿五日-同十五年一月十日、第二次同年三月廿五日-四月十五日、第三次五月一日-同三十一日、第四次大会前三週間

8 蹴球指導会―この四ヶ年間 毎年八月に各地三ヶ所位づつ指導員を派遣して開催

9 オリムピック審判研究会―毎年三月、八月の二回開催”

『読売新聞』1937年3月3日付

蹴球強化策成る
   毎季代表廿二名を選抜合宿練習
      英、米チーム招聘
 

大日本蹴球協会は次回オリンピック東京大会に対する準備対策及本年度競技日割原案を作成、二日午後発表したが、オリンピック準備としては先づ準備委員化を設置、これを総務、財務、外事、宣伝、設備、審判、技術の七部門に分けて敏活な活動を開始せしめる事とし、国内強化策としては毎年代表選手廿二名を銓衡してこれが合宿練習を行ふと共に明年六月パリに開催される第三回世界蹴球選手権大会に参加する外、英、独二国へ転戦、世界学生選手権大会出場、更に同年十月には英国チームを招聘、十一月から翌十四年二月にかけ独逸よりコーチ、トレーナーの招聘、十四年十一月には米国チームと相躍いで招聘する事となった。

◇オリンピック準備委員会 【会長】深尾隆太郎男△総務部【部長】鈴木重義【次長】小野卓爾、小長谷亮策△財務部【部長】田邊治太郎【次長】岸本武夫△外事部【部長】野津謙【次長】中島健蔵△宣伝部【部長】山田午郎【次長】中島道雄△設備部【部長】野村正二郎【次長】朝生要人△審判部【部長】濱田諭吉【次長】竹内悌三△技術部【部長】竹腰重丸【次長】市橋時蔵(各部委員は右部長より推薦委嘱す)

  事業計画

◇北支チーム招聘 十二年四月一日天津出発、八日対文理(戸山)十一日対早大(神宮)十四日対慶應(神宮)十七日対全関西(未定)

◇第三回世界選手権大会出場並に英国遠征、学生大会出場 役員三名、選手廿二名、十三年四月上旬出発、五月英、独転戦、六月四日より十九日パリにて本大会出場、七月学生大会出場、八月下旬帰朝

◇東洋大会に出場  役員三名、選手廿二名

◇英国チーム招聘 十三年十月役員選手廿名、東京四試合、大阪三試合、名古屋一試合

◇独逸よりコーチ招聘 十三年十一月より十四年二月迄、コーチ一名、トレーナー一名、代表選手に対するコーチ及び一般講習会指導

◇米国チーム招聘 十四年十一月より十二月迄、一行廿名

  代表選手養成講習会 毎年度末にそのシーズンの成績を参考として銓衡委員会に依って代表選手廿二名を決定し二週間合宿練習を行ふ
 【第一次】十二年七月十五日より廿九日迄【第二次】十三年三月廿五日より四月七日迄【第三次】十三年十二月廿五日より一月十日迄【第四次】十四年四月一日より十五日迄

  代表選手練習会 【第一次】十四年十二月廿五日より一月十日迄【第二次】十五年三月廿五日より四月十五日迄【第三次】十五年五月一日より同三十一日迄【第四次】大会前三週間【第五次】大会中

△代表選手の銓衡委員会は技術部の意見を提出せしめ次回理事会でこれを決定す

△オリンピック審判研究会を設置しシーズンの初め(三月)と終り(八月)に全国各協会より委員を集めて研究会を開催す

△一般指導者講習会毎年八月開催
札幌、函館、仙台、富山、横濱、名古屋、京都、大阪、神戸、廣島、高松、熊本、東京

  球技場設置

球技場の設置は絶対必要にして之を青山射撃場跡に設置せんとするオリンピック組織員会の決定を妥当と認め之が設備に関する意見書を提出す。尚球場完成に至る迄の代用球場として芝公園又は他の適当なる場所に蹴球試合挙行に必要な施設を可及的速やかに完備せしめるやう努力す。而して球場はローンたる事を必須の条件として強調する”

  

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大日本蹴球協会の1940年東京オリンピック準備に関する資料集 ① 1938年第3回ワールドカップ・フランス大会参加

1938年ワールドカップ・フランス大会への参加は1937年2月7日の大日本蹴球協会理事会で決定した。

『東京朝日新聞』1937年2月5日付

日本も出場か
    世界蹴球選手権大会

【ベルリン三日発同盟】 一九三八年六月パリにおいて開催される第三回世界蹴球選手権大会にドイツチームは欣然出場する旨三日体育局長官フォン・チェンメル・オステンより正式発表、数日中にチュリッヒのF・I・F・A(国際蹴球協会)名誉主事シュリッカー博士宛申込む事となった。現在迄の申込は米国及び欧州十三ヶ国であるが、締切は来る十五日となってゐる。

  ◇

右の世界蹴球選手権大会勧誘状は去る三日国際蹴球連盟より大日本蹴球協会宛到着した。協会としては東京オリムピック大会の国内強化策として又国際交誼策として既に同大会出場論も出てゐた所であったから来る七日開かれる理事会にかけて可及的速やかにこれが賛否を決定する事となった。” 

『東京朝日新聞』1937年2月9日付

日本蹴球協会
東京大会の準備

来年六月パリへ進軍
 世界争覇戦に参加
   理事会代表派遣を決定

第三回世界蹴球選手権大会参加の可否を主容議題とする大日本蹴球協会理事会は七日午後六時から協会事務所において鈴木主事他六理事出席の上開催。明年六月四日から十九日までパリにおいて開催される世界選手権大会は第一回東洋選手権大会と時期を同じうしてゐるが球界の現状からすれば二代表チームを送り得る好条件の下にあり、しかも東京オリムピックの盛大をいたす上に重大なる関係を有するので対外政策の見地からまた国内振興発展策の立場から参加を妥当とすといふ意見の一致を見、来る二月十五日参加申込締切までに一切の手続を完了する事に決定し、八日午後三時協会事務所において発表した。当日の決定事項は次の通りである。

一、FIFAの加盟国として第三回世界選手権大会に対し参加する事は当然の義務であり、東京オリムピックに各国チームを多数招致する上からも効果的と信じ、参加を決定す

一、東洋選手権大会大阪開催に関し、準備委員として神田清雄、田邊治太郎、前田純一、高田正夫の四君を依頼す

一、FIFA会長ジュール・リメット氏から深尾会長あてクーベルタン男爵の慰問金として五千スヰスフランを応募する事に決定せる旨を通告し来れるを以て体協と協議の上これに応ずる事を決定

一、北支連合蹴球チームの四月上旬来征を承認し、相手チームとして早大、慶大、神戸商大、東京文大を決定す
一、次の理事会は来る十七日開催と決定

尚世界選手権大会は一九三八年(ママ)モンテビデオで第一回大会が行はれ、第二回大会は一九三四年ローマで開催、共にイタリアチームが優勝してゐる(ママ)。今回は参加十六チームを越えるときは予選を行ふ事になってゐる。因に第一回参加は四チーム、第二回は一躍三十一チームに及んでゐる。”

大日本蹴球協会機関誌『蹴球』5巻1号(1937年5月)同5巻2号(1937年7月)に、1937年2月7日の理事会に関する記事は見当たらない。

おそらく、プレスリリースを出したのであろう、東京日日、読売にも同日に同様の記事がある。

『東京日日新聞』1937年2月9日付

蹴球

世界選手権大会に
  日本発の出場
    きのふ理事会から発表

大日本蹴球協会理事会は七日午後六時から協会事務所で開催、明年六月パリで挙行される第三回世界選手権大会、東洋選手権競技大会と重要議事が多かったため同日は決定事項発表に至らず、八日午後三時事務諸項を大要左の如く決定発表した。

一、第三回世界蹴球選手権大会参加の件―同大会はFIFA(国際蹴球連盟)の主催で明年六月四日から十九日までパリで開催されるが、FIFA加盟国として日本の参加は当然であり、且つ東京オリムピック大会蹴球競技開催の場合FIFAの積極的な援助にまつことが多いのでこの諒解を得、且つまた東京オリムピック大会への各国の参加を勧誘するにも絶好の機会と認め、申込締切日二月十五日までに電報を以て申込をする。同大会への参加は殆ど同期日に挙行せらるる東洋選手権大会と双方に代表選手を要することとなるが、現在のわが蹴球界の実力としては十分可能なりと信じて参加申込をなすものである

一、東洋選手権大会準備員に神田清雄、田邊治太郎、前田純一、高田正夫の四氏を推す

一、FIFA会長ジュール・リメット氏より深尾大日本蹴球協会会長宛書簡の件―オリムピックの父クーベルタン男爵慰問金としてFIFAは五千スイス・フランを募集するが、大日本蹴球協会としても賛成の上募金されたしと深尾会長宛来信したものである。同協会としてもこれに賛成、但し金額は未定

一、既報の蹴球北支代表軍来征を承認―来征時期は四月上旬、相手チームは早大、慶應、文理大、神戸商大

なほ今夏招聘を交渉中の暹羅チームとの国際試合の件は来る十七日開催される次回理事会で決定する。”

『読売新聞』1937年2月9日付

蹴球=躍進

世界争覇戦参加
  正式に決定す
    四月に北支軍来征

オリンピックに次ぐ蹴球界の最大行事たる世界蹴球選手権大会が明年六月四日から十九日までパリに行はれるに際し、ベルリン大会で我が日本の実力を認めた国際蹴球協会から日本の参加方を勧誘して来たことは既報の通りであるが、大日本蹴球協会では七日午後六時から新橋同協会事務所で鈴木主事ほか六理事出席して理事会を開催、協議の結果日本は欣然これに参加することに決定、参加申込締切期日が本年の二月十六日で目睫に迫ってゐるため八日直ちにこの旨を国際蹴球協会宛打電した。代表銓衡その他の具体化は今後の理事会技術委員会で決定する筈である。右の外当夜の理事会決議事項は日去りの通り。

一、東洋大会蹴球準備委員に神田清雄、田邊治太郎、前田純一、高田正夫の四氏を推薦

一、国際蹴球協会長ジュール・リメット氏から申越したオリンピック創始者クーベルタン男に記念品を贈呈する五千スヰスフラン(約四千円)の日本蹴球協会分担を承諾

一、北支チーム来征を承諾。北支チームは本年四月上旬来征早大、慶應、神戸商大、文理大と対戦

一、シャム蹴球団の来朝は十七日の次回理事会で協議”

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オリンピックもプロ参加を公認 ③ 1986年IOC総会

『朝日新聞』1986年10月15日付

アイスホッケー・サッカー・馬術・陸上
   プロの五輪参加を容認
     IOC総会決定

 【ローザンヌ十五日=柳沢特派員】 オリンピックの「オープン化」問題で、国際オリンピック委員会(IOC)総会は十四日、テニスを除くアイスホッケー、サッカー、馬術についてプロの参加を認め、陸上でもアメリカンフットボールなど陸上競技以外のプロ選手の参加を容認することが決まった。この結果、アマチュアスポーツの祭典とされてきた従来のオリンピックは大きくその概念を変えることになる。

 総会後記者会見した参加資格委員会のダウメ委員長は、同委員会報告を説明したあと、完全オープン化を狙う「選手規定(競技者コード)改定」は、時期尚早であるとして、次回総会までに論議を詰めるよう勧告したことを明らかにした。しかし、八八年五輪に向けて懸案となっている五競技について協議した結果、アイスホッケーでは、北米のナショナル・ホッケーリーグ(NHL)加盟選手を含む国際アイスホッケー連盟傘下のすべての選手(プロを含む)を八八年大会から参加OKとし、サッカーは、南米と欧米(ママ)を除くすべての地域のプロ選手参加を認めることとした。南米、欧州の場合はワールドカップに出場していないプロ選手の出場は可能としている。このほか、馬術のプロも容認したが、残るテニスについて同委員長は、大筋でプロの参加は認められた、としながらも問題が多く、なお国内五輪委(NOC)や国内競技連盟(NF)と協議の必要がある、と述べ、決定は次回総会まで延ばすとした。このため八八年に限り商業宣伝、金銭授受の禁止などの条件を付けた上、実験的に実施するという。”

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オリンピックもプロ参加を公認 ② 1986年IOC理事会

『朝日新聞』1986年2月12日付夕刊

サッカー・アイスホッケー
   プロの参加規制排除を
   IOC委が勧告

 【ローザンヌ十日=UPI共同】 国際オリンピック委員会(IOC)の参加資格委員会は十日、IOC理事会に対し、サッカーとアイスホッケーの両競技連盟が行っているトッププロの五輪参加規制を排除するため、勧告するよう要請した。同委がまとめた勧告は、国際サッカー連盟(FIFA)にはことし開く総会で年齢やワールドカップへの出場にかかわりなく、すべての選手の五輪出場を認めるよう要求。また、国際アイスホッケー連盟(IIHF)には年齢制限と北米アイスホッケー・リーグ(NHL)の出場禁止を解くことを求め、「オリンピック大会は世界の最高の男女スポーツマンに開放すべきだ」と強調している。

大半の国で結論を保留

 ≪解説≫ IOCは、五輪オープン化のため五輪憲章の参加資格(第26条)を全面的に改めて「アスレチック・コード」とし、これまで参加を認めないとうたってきた「プロ、または過去にプロと契約した選手、コーチ」の参加を認める基本案をまとめる一方、各国際競技連盟(IF)や各国オリンピック委員会(NOC)の意見を集約、全世界的なコンセンサスをかためる作業を参加資格委員会(会長名からダウメ委員会と称される)で急いでいる。

 しかし、一月末、パリで開かれた各国オリンピック委員会連合(ANOC)理事会では、この改正案に対する世界百六十余カ国のNOCの意見を求めていたにもかかわらず、わずか三十余カ国が回答を寄せただけ。出席した日本リンピック委員会(JOC)の岡野俊一郎総務主事は「結論を出せるほど世界各国の考えはまだまとまっていない」と、問題のむつかしさについて述べている。

 これまで、オープン化の対象となっているサッカー、アイスホッケーは「二十三歳未満」のプロ選手のみ五輪参加OK、としているのに対し、八八年ソウル五輪で六十四年ぶり正式競技に復活するテニスは年齢制限などはせず、「世界のトッププレーヤーを一堂に参加させたい」との総意をまとめつつあるなど各競技によって異なる。

 そうした中で、ダウメ委員会の今回の勧告は、IOCの台所事情とも深いかかわりがある。八八年のカルガリ冬季五輪を全米に放送するABCテレビ局は、前回大会の三倍である三億九百万ドル(約六百十八億円)の契約を組織委との間で結んだ。その前提といわれているのが、アイスホッケーの完全オープン化による世界最高の大会になること。つまり、巨額なテレビマネーを得るためにこのような勧告が必要だったのである。

 とはいえ、完全オープン化にはいくつもの問題がある。サッカーのワールドカップ大会や北米アイスホッケー・リーグ(NHL)の選手の場合、それぞれが契約先があり、五輪参加に当たっての休業補償をだれが賄うのか。

 また、トッププロの参加に対してはソ連や東欧圏の反発が強く、場合によっては新たな紛争の火ダネとなる可能性も強い。”

『朝日新聞』1986年2月13日付

サッカー・テニス・アイスホッケー
 プロ参加案を承認
   年齢制限は設けず
   IOC理事会

 
 【ローザンヌ十二日=柳沢特派員】 国際オリンピック委員会(IOC)理事会は十二日、オリンピックへのプロ選手の参加を年齢制限なしに認める資格審査委員会(ダウメ委員会)の報告を全会一致で承認した。これは、五輪憲章改正と関連して韓国の形で十月ローザンヌで開かれるIOC総会に提出され、投票にかけられるが、理事会決定通りになることは確実と見られ、これまで「アマチュア」に支えられてきたオリンピックはオープン化に向け大きく変ぼうする見通しとなった。

 参加資格審査委員会の報告は、昨年以来、サッカー、テニス、アイスホッケーの三競技についてプロ選手のオリンピック参加の可能性について検討を進めた結果で、その内容は▽サッカー、アイスホッケー選手の資格については、国際競技連盟(IF)が認め、国内オリンピック委員会(NOC)に推薦したものとする▽テニスについては、プロ、アマの区別なく「選手」とする。ただ、プロ選手はオリンピック大会期間中、プロ契約を停止する―となっており、プロ選手について「二十三歳未満」とするサッカー、アイスホッケーの年齢制限もなくすとしている。

 プロが存在する競技はこのほかにもあるが、IOC事務局は説明で、これらはすべての種目に適用される、としており、他の競技でもプロ参加の道が開けるものと理解されている。

 理事会後記者会見したサマランチIOC会長はこの決定について、「あらゆる選手が差別なく参加できること、さらに最高レベルの選手を参加させることが目的だ」と述べた。さらに質問に対し「モスクワでもロスでも、サッカーではプロの選手が参加していたではないか」と答えて、五輪競技の実態がこの決定でも事実上変わらないとの見方を強調した。

 岡野俊一郎日本リンピック委員会総務主事の話 IOC理事会の意向は昨年からわかっていた。いくらIOCが決定しても各競技団体(IF)が承諾しない限り実行はできないので、これではっきり決まったとはいえない。サッカーに関していえば、二十三歳未満の条件付きでワールドカップとの差をつけたい国際サッカー連盟の主張との間に大きな開きがあり、どう決着するかは今後の折衝を見なければわからない。現在はJOCとしての意見を述べたり、対応を考える段階ではない。”

『朝日新聞』1986年2月14日付

プロ参加案承認
利益追い結論急ぐ
    「完全化」へなお難問

 国際オリンピック委員会(IOC)理事会が、五輪へのサッカー、テニス、アイスホッケー三競技のプロ選手の参加を年齢制限を設けずに認める決定をしたが、この時期、急いで決めたのは、今年十月にローザンヌで開く第九十一次IOC総会で正式決定に持ち込み、八八年カルガリ(冬季)、ソウル(夏季)両五輪でに実施のハラを固めているからである。

 今回、「完全オープン化」の方向が打ち出された裏には、世界最強のプロ組織、北米アイスホッケーリーグ(NHL)を持つアイスホッケーの動きが大きく影響していたという。アイスホッケーはNHLとの契約選手や過去に契約した選手の五輪参加を禁止しており、八四年サラエボ五輪でも違反したフィンランド選手らが処分された。

 ところが、次期カルガリ五輪開催国カナダのIOC委員であるディック・パウンド氏が、NHL選手の五輪参加を強く働きかけた。サマランチ体制のもとで最有力理事にのし上がり、参加資格審査委員会の主要メンバーでもあるパウンド委員が、ソ連やチェコスロバキアなど強敵を向こうに回して、地元でカナダチームに大暴れしてもらうには、NHL所属の自国のトップ選手を出場させるのがなにより手っ取り早い。

 冬季五輪の期間は、カルガリ大会から十六日間に延長される。これまで二度だった週末が三度含まれることになり、大会の目玉商品であるアイスホッケーが週末のテレビの黄金番組として高視聴率を稼ぐこと請け合いというわけだ。米国も同じ立場で、サラエボ大会ではNHL選手不在で決勝リーグにも勝ち残れなかった分を一気に取り返そうとしている。米ABCテレビ局がカルガリ組織委と三億九百万ドル(約六百十八億円)の高額で契約した裏では、このNHL選手参加が条件にされていたともいう。

 昨年十二月、ミュンヘン(西独)で開かれたテニスのデ杯戦の最中には、国際アイスホッケー連盟(IIHF)のサベツキー会長と、今回IOC理事会に勧告をした参加資格審査委員会のダウメ委員長、それにサマランチ会長の三者が密会、アイスホッケーを引き金とする「完全オープン化」を確認し合った、とうのが舞台裏のいきさつである。

 ともあれ、IOCの出方に対し、各IFやANOCがどこまで同調し、どう反発するか。四月ソウルで開かれるIOC理事会とANOCによる合同会議、九月の国際競技連盟連合(GAISF)会議で集中討議され、それぞれの態度決定をする段どり。この中で、焦点となりそうなのが国際サッカー連盟(FIFA)の対応。FIFAはワールドカップ大会を唯一最大の行事として、「五輪はそれに準じるもの」とする基本方針を変えていない。共産圏諸国の反発も含めて円実にはまだ、多くの難問が残されている。    (大高)”

国内の反応

   アイスホッケー 五輪予選からプロの排除を
   サッカー 職業化されて強くなるかも
   テニス 地区予選では有利に展開か

 IOC理事会の「オープン化」決定に、国内の競技団体や体協関係者は「日本は三競技のうち、テニス以外にプロがないので、あまり影響しない」としながらも、その反応は微妙な違いを見せていた。

 卓球はソウル五輪から正式種目となるが、国際卓球連盟は四月の理事会で、プロの五輪出場を禁じている現行制度を見直す。すでに世界選手権では欧州のプロが参加しており、国際連盟会長代行の荻村伊智朗日本卓球協会専務理事は「オープン化は時代の流れ。スポーツ界の自立への歩みともいえる」とみる。

 また、松平康隆・日本バレーボール協会専務理事は「従来から五輪大会はスポーツの世界で最高の大会であるべきだと考えてきた」と述べ、新たなスポーツの概念として「プロとアマではなく、スペシャリスト、レクリエーション、健康、教育の四つのカテゴリーに分けて考えた方が合理的」と主張する。

 ところで、現実にオープン化を迎える日本の三競技にはどう影響するのか。サラエボ五輪で予選敗退したアイスホッケーは「本大会に出場出来ないくらいの弱さだから、それほど影響は・・・・・」と遅塚研一・日本連盟理事。五輪予選を兼ねた世界選手権はプロの出場が認められている。「日本の立場では、むしろ五輪予選からプロを排除してほしい気持ちです」

 サッカーの平木隆三・日本協会理事も「現実には韓国のプロが怖いぐらいで、アジア地区予選にはほとんど関係ない」といい、テニスは「地区予選になった場合、往路の助けを借りられたら有利になりそう」と早くもソロバンをはじく。「日本もサッカーが職業化されて強くなるかも」(平木理事)との期待も。

 現在見直し作業を進めている体協アマチュア規定への影響も注目される。しかし、広堅太郎・体協アマチュア委員長は「IOCが風邪をひいたからといって、すぐに日本がクシャミする必要はない」と、世界の風潮をにらみながらも日本の風土を考慮した独自の改定作業を続けていく態度だ。”

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オリンピックもプロ参加を公認 ① 1984年ロサンゼルス大会

1980年代に日本サッカー協会がプロ化を容認する背景には、IOCによるオリンピックのプロ参加容認があった。オリンピックも高額な放映権ビジネスの対象となると、サッカーやアイスホッケーのような人気種目では、トッププロの参加が求められた。一方、オリンピックにトッププロが参加することによりワールドカップの価値を減損することを懸念するFIFAは、オリンピック参加プロ選手に制約を課した。オリンピック種目からプロ疑念のつきまとうサッカーを除外したがっていたアマチュア原理主義者のブランデージ会長時代とは、IOCとFIFAの立場が逆転する。IOCがオリンピックにトッププロの参加を欲するようになれば、体協のアマチュア規定の存在価値がなくなる。


『朝日新聞』1984年6月14日付

サッカーは全員プロ
     西独チーム IOCも承認

 【フランクフルト十三日=ロイター】西ドイツ・オリンピック委員会は十三日、ロサンゼルス五輪選手団の約半数に当たる十四競技、二百十八人を発表した。ウィリ・ダウメ委員長によると、西ドイツ選手団の総数は、地元で開催した一九七二年のミュンヘン五輪を九人上回る四百三十人を予定しており、二十七日に残りのメンバーが決定する。

 十三日に決まった中には、東ドイツに代わって出場することになったサッカーも含まれているが、十七人全員がプロ選手で固められ、ナショナルチームのメンバーも八人加わった強力チームである。

 【ローザンヌ十三日=ロイター】国際オリンピック委員会(IOC)のベルリュー事務局長は十三日、ロサンゼルス五輪サッカーの西ドイツ、イタリア両チームにフルタイムのプロが含まれていることにつき「参加資格に関する規定は前のモスクワ五輪と同じになる。従って問題はない」と語った。

 同事務局長は、モスクワではワールドカップに出場していなければ、プロといえども五輪出場が認められた。今回もそれに倣う、としている。

 昨年七月のIOC、国際サッカー連盟(FIFA)の暫定的協定では、ワールドカップに出場した欧州、南米の選手やフルタイムのプロとして生計を立てている選手は、五輪出場の資格がない、と規定している。

出場資格問題再びもめそう

 ≪解説≫ モスクワ五輪は、プロ・サッカー選手を抱える西側諸国がほとんどボイコットしたため、選手の出場資格騒ぎは起こらなかった。今回のロス五輪は「プロ選手も出したい」という国の参加が多く、選手のプロ、アマ資格問題が再燃していた。

 一九七八年、アルゼンチンで開かれたFIFAの総会は「欧州と南米に限り、ワールドカップ(W杯)の予選および本大会に出場した選手の五輪出場は認めない」と決議した。そして昨年七月、チューリヒでのIOCとFIFAの合同会議では「欧州と南米のW杯出場者は五輪参加を認めないが、それ以外の選手は各国オリンピック委員会(NOC)にプロかどうかの判断を一任する」という取り決めをした。

 また、フルタイムのプロ、つまりサッカーを職業として南米や欧州で活躍している選手でもW杯に出場していなければ五輪出場OKとなる。ただし、FIFAの規約により、テレビなどの商業宣伝活動をしている有名プロの出場は認められない。

 五輪のサッカーは、これまで西側や南米などのプロがでられなかったため、プロはなくとも選手を国家丸抱えのハンガリーやポーランドなど東欧圏が圧倒的に強かった。そこで八〇年にIOC会長となったサマランチ氏は、西側からも強いチームを出場させて五輪サッカーの内容を充実させ、ひいては観客の動員とテレビ放映権料の増収をはかることを狙い、機会あるごとに「真のプロを除いて、参加資格の範囲を広げたい」と述べていた。”

西ドイツ代表メンバーは、

1 Bernd FRANKE
2 Manfred BOCKENFELD
3 Roland DICKGIESSER
4 Dieter BAST
5 Bernd WEHMEYER
6 Guido BUCHWALD
7 Juergen GROH
8 Rudi BOMMER
9 Dieter SCHATZSCHNEIDER
10 Andreas BREHME
11 Frank MILL
12 Walter JUNGHANS
13 Alfred SCHOEN
14 Peter LUX
15 Uwe RAHN
16 Christian SCHREIER
17 Dieter SCHLINDWEIN

10番はアンドレアス・ブレーメ。

イタリア代表は、

1 Franco TANCREDI
2 Riccardo FERRI
3 Filippo GALLI
4 Sebastiano NELA
5 Roberto TRICELLA
6 Pietro VIERCHOWOD
7 Salvatore BAGNI
8 Franco BARESI
9 Sergio BATTISTINI
10 Antonio SABATO
11 Beniamino VIGNOLA
12 Walter ZENGA
13 Pietro FANNA
14 Daniele MASSARO
15 Massimo BRIASCHI
16 Maurizio IORIO
17 Aldo SERENA

バレージやマッサーロがいたんですなあ。ワールドカップ代表になっても試合に出場していなければ、オリンピックには出られたもよう。

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1986年「プロ」「ノンアマ」採用 ③ 翌年から「ライセンスプレーヤー」に一本化

『朝日新聞』1987年6月19日付

プロの人数枠を撤廃
    サッカー協会「実質プロ」へ対応策

 日本サッカー協会は十八日開いた理事会で、「スペシャル・ライセンスプレーヤー(SLP=プロ)」の登録区分を「ライセンスプレーヤー(LP)」と名称変更し、「一チーム二人まで」の制限を撤廃することを決めた。

 同協会は昨年、それまでの「アマチュア」のみの選手登録規定を改め、「アマ」「ノンプロ」「SLP」の三つの登録区分にした。ノンプロは試合出場料や勝利ボーナスなどは受け取れるが、契約金や広告・宣伝活動は認めっれない。同協会の資格委員会で認定するSLP(プロ)は契約金をもらえ、広告・宣伝活動も出来る、と規定した。

 しかし、これまでにSLP登録したのは奥寺(古河電工)と木村(日産自動車)の二人だけ。読売クラブなど実質的にプロといえるサッカー専業の契約選手はノンプロ登録になっている。そんなノンプロとSLPの区別の不明確さを解消するため名称を変更し、制限枠を撤廃したもの。七月の登録申請では契約選手を中心にLPが多くなるものと見られる。”

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1986年「プロ」「ノンアマ」採用 ② 奥寺の帰国で「スペシャルライセンスプレーヤー」も追加

『朝日新聞』1986年4月16日付

サッカー協会 「ノンアマ」「プロ」容認へ
       選手登録、三段階に改正

 日本サッカー協会「アマ・プロ懇談会」(平木隆三座長)は、これまでアマチュアとしてのみ認めていた選手の登録制度を「アマチュア」から「ノンアマ」「スペシャルライセンスプレーヤー(プロ)」の三段階まで容認することを決め、十七日の理事会で報告、決定する。サッカーだけをやって企業から報酬を受け取る「契約選手」が日本リーグで五十三人にもふくれあがったことと、技術の高いプロ選手を入れて、日本サッカーの活性化を目指そうという狙いから、登録制度の改正に踏み切るもので、日本体協に加盟している競技団体の中で、「ノンアマ」「プロ」の登録を認めるのはサッカーが初めてである。

 プロチームのない、日本のサッカー界には、プロ選手は一人もいないことになっていた。しかし、数年前から一年ごとにサッカーチームのために働く契約をして給料を受け取っている「契約選手」が出てきた。年間百二十万円プレーヤーがいたかと思えば、一千百万円プラス決勝ゴールのボーナスプレーヤーまでいてアマの資格で容認するには限界となってきた。協会内にある「アマ・プロ懇談会」が昨年十一月以来「ノンアマを認める」方針で登録の改正見直しの作業を進めていた。ちょうど西独・ブレダーブレーメンで活躍した奥寺康彦選手の帰国が決まったため、一挙に登録の枠をプロの「スペシャルライセンスプレーヤー」までひろげたものである。

 今回の定義によって、「アマチュア」は所定の経費以外には、サッカーによってお金をもらうことのない選手。「ノンアマ」は契約選手。「スペシャルライセンスプレーヤー」は、外国プロでプレーした、名実ともにプロにふさわしい選手。ノンアマとスペシャルライセンスプレーヤーの違いは、ライセンスプレーヤーにコマーシャル活動が許されるのに、ノンアマはだめ、という点である。

 これまでプロ選手が日本でプレーするには「プロを辞めて一年を経過していなければならない」という規定があった。しかし、今回の「スペシャルライセンスプレーヤー」の新設で、奥寺選手が秋からの日本リーグでプレーする事に障害はなくなった。

 同協会のプロを容認する今回の制度改正は、日本体協のアマチュア規定委員会と連絡をとりあって制定された。”

『朝日新聞』1986年4月18日付

サッカー協会「プロ」登録を承認

 日本サッカー協会は十七日、東京・渋谷の岸記念体育会館で理事会を開き、「アマ・プロ懇談会」(平木隆三座長)から提出された選手登録改定案を審議、全会一致で、プロを含む「三区分」の選手登録制度を承認した。五月二十四日の全国評議員会で最終決定後、施行する予定だが、プロの導入は、学生と「企業アマ」で構成されてきた日本のアマスポーツ界にも大きな影響を与えそうだ。

 この日決まったのは、これまで承認していた「アマチュア」のみの登録に加え、「ノンアマ(企業契約選手)」、「スペシャルライセンスプレーヤー(仮称=プロ)」も認める登録制度。これにより読売クラブや全日空横浜クラブなどのように、会社の仕事は一切しないで、サッカー選手専門で契約した選手主体のチームが“認知”される。また、広告出演もOKのプロが、日本サッカー協会の一員としてプレーでき、西独一部リーグでプロとして活躍している奥寺康彦(ベルだ―・ブレーメン)の日本復帰も可能となる。

「契約選手」出現が契機
勧誘合戦など問題山積

≪解説≫ 今回の選手登録改定案は二つの狙いがある。一つはサッカーで報酬を得ながら、アマチュアで登録されていた五十人を超える「契約選手」の身分をはっきりさせること。そしてプロ選手を入れて、日本のサッカーを強くしたいというものである。

 また、今回の全日空六選手の造反事件は、選手登録制度に深くかかわっていた。六人はサッカーだけをやって報酬を受けとる、つまりアマチュア選手の枠をはみ出した「契約選手」だった。日本協会が選手たちの雇用契約の中で「保険はあるのか」「退職金は」といったことにまで踏み込んで、正しい指導をしていたら、あるいは今回の不祥事は起こらなかったかもしれない。

 サッカー界はこの数年、大きく変動してきた。新興チームのうち、読売クラブは欧州のようなプロ機構づくりの“先兵”をめざし、日産自動車や全日空横浜クラブは企業宣伝のため、短期強化策の選手集めに取り組んだ。これが従来の終身雇用制度でる「企業アマ」の枠から突出した「契約選手」を生むことになった。

 「契約選手」を認めることで、問題は多い。もっとも心配されることの一つに選手のスカウト合戦がある。今季の日本リーグで優勝したのは、全員「純粋アマ」の古河電工だったが、契約選手制度が認められると古河チームの有力選手に高い待遇の条件を出して引き抜くケースは十分考えられる。また、優秀な高校生に好条件を提示して勧誘する、スカウト合戦が過熱するだろう。

 では果たして、プロ化で日本サッカーは強くなるのかどうか。日本協会では、従来不可能だった「欧州や南米で通用する一流プロ」を招いて選手強化に役立てようとの考えを持っているが、ことは思惑通りに運ぶか。「企業アマ」の秩序に決別して踏み切ったサッカーの「プロ化路線」だが、結果はじっくり見守るしかないようだ。”

【注】:「全日空六選手の造反事件」とは、1986年3月22日の全日空横浜クラブ対三菱重工戦で、解雇通告を受けた全日空のベテラン6選手が試合開始直前に出場をボイコット、全日空は8人で試合を始め、1-6で大敗した。1部昇格1年目の全日空は2勝したのみで2部陥落、ベテラン選手を切って若手に切替えを図った。全日空横浜クラブは、もともと市民クラブだった横浜サッカークラブの成年部門をとりこんでスタート。切られた選手は旧・横浜サッカークラブ以来の契約選手だった。協会は、6選手に対して無期限登録停止処分(永久追放)、全日空横浜クラブに対して3か月間の公式戦出場禁止処分とした。

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1986年「プロ」「ノンアマ」採用 ① まずは「ノンアマチュア」を提言

『朝日新聞』1985年11月22日付

「ノンアマ」採用へ動く
    日本サッカー協会

 日本サッカー協会は二十一日定例理事会を開き、現在のサッカー選手の登録に新たに「ノンアマチュア」(ノンアマ)の選手資格を設ける方向で制度の見直しをはかることを決めた。プロではないが、公然と報酬を受けとれる「ノンアマ」制度の採用は、将来のプロ選手登録制度導入への第一歩でもあり、同協会は来年秋の日本リーグ開幕までに制度などを整備する意向だ。

 同協会では二年前から「アマ・プロ問題懇談会」(座長・平木隆三理事)を設けてこの問題を検討。一方、日本サッカーリーグでも、「選手問題研究会」を設け実情を調査した結果、現在、日本リーグの読売クラブ、日産自動車などと契約している約四十人のサッカー専業選手がいることがわかった。”

『朝日新聞』1985年11月23日付

この人に聞く

サッカーの「ノンアマ」提言
  平木隆三理事

専門契約選手認知へ

 日本サッカー協会はこのほど「アマチュア」一本やりだった選手登録制度に「ノンアマチュア」の資格を認める方針を決めた。これまでこっそり行われていた、「サッカー専業社員」を「ノンアマ」として公に認知しようというわけだ。が、この「ノンアマ」は何のことかもう一つわかりにくい。同協会アマ・プロ懇談会の座長平木隆三理事に聞いてみた。

 ―ノンアマチュアとは何か。

 「国際サッカー連盟(FIFA)の規定では選手は①プロ②アマチュア③ノンアマチュアに分類される。サッカーの場合、FIFA加盟国が約百五十もあり、社会主義国もあれば、アラブ諸国のような王制もあり、それぞれ社会制度が違う。実際問題として、各国の選手をいちいちプロか、アマかと見分けることは不可能に近い。そこで、実費以外、一切の報酬を受けないアマチュアと、完全に競技で報酬を受けるプロとの中間を『ノンアマ』と呼んでいる。FIFAの現実主義がつくった概念で、いわば限りなくプロに近いアマ」

 ―それではプロ選手と同じか。

 「試合に出て報酬を受ける、という意味ではプロの端くれ、といえるが、技術的には本当のプロというにはおこがましい。そんなレベルが日本の『ノンアマ』だろう。いずれ、プロとの一線をどこで画すかも検討しなければならないが、例えば国際オリンピック委員会の参加資格に、コマーシャルに出演してはいけないことになっているようなので、そのへんがメドか」

 ―ノンアマはオリンピックに出場できるのか。

 「FIFAの規定ではできないと書いてある。だが、すでにロサンゼルス五輪では本物のプロ選手が出ているし、ソウル五輪もロスと同じ条件でやると通知が来ている。アジア大会はプロもOKになったし、FIFAの規定そのものが形骸(けいがい)化している。目下、FIFAに問い合わせているところだ」

 ―日本協会は将来プロ制度をつくるのか。

 「今後の成り行き次第だろう。しかし、そのためには本当にヨーロッパのプロ並みの技術を備えた選手が輩出し、ファンが来てくれるようでなければ。選手の人件費も出ないような現状では、とても・・・・・」

 ―体協のアマチュア規定との関係は。

 「現在、規程見直しを進めているアマチュア委員会の意向も聞きながら進めてきた。選手の資格はそれぞれの競技団体が決めること、という方向のようだ。それなら、うちは上部団体のFIFAの規定に基づいて、これまでアンダー・ザ・テーブル(机の下)で行われてきたサッカー専門の契約選手を公に認知すべき時期では、と判断した。懇談会の報告を受けた理事会では採用の方向で検討を続けることにした。今後、登録や移籍など様々な問題を討議、素案を作ったうえで、また体協とも相談していきたい」”

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代表の活躍で日本リーグの観客急増

『朝日新聞』1985年10月9日付

サッカー日本リーグ 雨ニモ負ケズ観客倍増

W杯予選での健闘が好影響

各チームもきめ細かい動員作戦

 日本サッカーリーグの観客が倍増している。日本サッカーリーグ運営委員会が八日まとめたところによると、六日の五節、三十試合を消化したところで観客は十三万九千五百人。前年同期の六万九千六百人に比べ二倍強。試合の集中した日曜日が四週続けて雨となったのに、なぜ、と同運営委事務局は首をかしげている。

 サッカー人気は、一九六八年のメキシコ・オリンピックで日本が銅メダルを獲得したころの「釜本、杉山時代」が最高だった。杉山・三菱-釜本・ヤンマー戦で四万人が一回、三万五千人二回と、プロ野球のパ・リーグも顔負けというほどだった。今回、そこまではいかないが、東京・国立競技場での読売クラブ-全日空横浜クラブに二万八千人、日立製作所-読売戦も二万二千人の観客が詰めかけ、秋田市での日産自動車-ヤンマーディーゼルと大分市でのヤンマー-日立の地方試合にも一万二千人が集まる盛況だった。

 この異変はどうして起こったのだろうか。加盟チームのきめ細かい観客動員作戦と、ワールドカップ予選で健闘している日本代表チームの影響らしい。関東甲信越と静岡のホンダ、ヤマハのオートバイ屋さんの店頭、日立製作所の各営業所、事業所には、それぞれのチームの日程が入ったポスターが掲載されている。本田技研が本拠を置く浜松市内の路線バスにも本田のポスターがあるほどだ。グラウンドに足を運んだファンにチーム名入りのTシャツを抽選で配るのもうけている。日産が本もののサッカーボールをスタンドに投げ込むことも子供たちの人気の的。

 昨年八位と不振だった日本鋼管、若手をそろえた本田が力をつけ、激しい首位戦線に首を突っ込んでいる、リーグそのものの面白さももちろんある。「観客が倍増したのはだんごレースへの興味と、各チームの観客動員への営業努力。しかし、何といってもワールドカップの最終関門までたどりついた日本代表チームの影響が大きい。サッカーでも見にいこうか、という気にさせるもの。日本代表が強いというのはいいことです」と運営委員会の木之本事務局長はにっこり。”

『朝日新聞』一九八六年12月26日付

86年の明暗 9

プロ容認のサッカー

華麗さ求めて観客が大幅増
闘争心不足、期待にこたえず

 今年、サッカー界の大きな出来事といえば、海外では「熱狂のW杯メキシコ大会」、そして国内では「プロ」「ノンアマ」を解禁して船出した、日本サッカーリーグだろう。

 プロとノンアマ、つまりサッカー専業選手が生まれて、何が一番、どう変わったか。木之本興三・日本サッカーリーグ事務局長は「そりゃあ、何てたって観客が大幅にアップしたことです」という。十二チームの各六回戦が終わったところで、日本リーグの観客は十九万七千人。一試合平均五千五百人(昨年は三千六百人)。これはサッカーの本場南米ブラジル・サンパウロのプロリーグと肩を並べる一試合平均の観客動員数、といったら驚く人が多いだろう。

 どうして観客がふえたのだろうか。西独プロ帰りの奥寺(古河)、フリーキックの名手木村和(日産)を含む“プロ軍団”の華麗なプレーを求めて、ファンがグラウンドへ詰めかけた結果である。では“プロ軍団”は、そうしたファンの期待にこたえただろうか。答えは「ノー」である。

 まずプロ軍団のプレーは闘争心不足。ファンの心をつかむ荒々しさ、「さすがプロ」と納得させるような華麗なプレーが極端に少ないのだ。リーグの宣伝ポスターで「サラリーマンサッカーは終わった」と宣言しておきながら、フィールドの中では「アマチュア時代」とほとんど変化がなかった。

日本サッカー狂会の常任幹事で「サッカージャーナル」誌の編集長をしている後藤健生さんは「試合の中身はこれまでと少しも変わっていない」と前置きして「どうしたら、ファンにアピールするか、監督も含めて真剣に考えるときだ。そりゃプロの妙技が売り物になれば一番だ。でもそれ以外でも何かある。W杯でメキシコのウーゴ・サンチェスがゴールを奪うたびにトンボ返りをやり、観客にやんやの喝采(かっさい)を受けたでしょう。何でもいいから、とにかくファンの心をつかむことです」。

 プロ、ノンアマ解禁になって、選手の引き抜きが潜行しだした。アマで一緒に入部した高卒がレギュラー、大卒が控えでも給料は大卒が上。サッカーの優秀な高卒選手は、日本の学歴社会の中で矛盾を感じながらプレーしている。そこが「付け目」とばかり、こっそり声がかかる。例えば、月給二十万円の高卒選手が「年棒千二百万円払うから、ノンアマ選手として来ないか」と誘われたらどうだろうか。

 すでに水面下の引き抜き合戦の情報しきりだ。ある大物DFが、別のチームから破格の条件で誘われた。すったもんだの末、もとのもくあみに。全員アマチームのある高卒選手が、他のチームから引っぱられた。高卒選手に辞表を出されたチームは大あわて。日本リーグ運営委員会に「一年(移籍後一年間はプレー出来ないという規程)を三年に延長してくれ」と泣きついたという、笑えぬ話もある。

 今後、こうした場外の戦いはさらにエスカレートしそう。そのとき、日本協会とリーグ運営員会はどう対処するのだろうか。木之本事務局長はすでに研究を始めた。早急に規定を明文化して混乱防止にあたる」というのだが。
     (瀬下)”

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東京湾フェリー「かなや丸」乗船記(3回目)

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品川駅から津田沼行に。

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東京駅で千葉行きに乗り替え。

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千葉からは木更津行きに。

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木更津で館山行きまで30分あるので、船でたべるはずだった駅弁を開く。

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とんかつ弁当500円なり。

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乗り換えが多かったが、やっと浜金谷到着。

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東京湾フェリー名物、浜金谷港内でのターンの舞。

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無事接岸。

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さあ、乗船。

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鰯唐揚げ(160円)とビール。

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本日は船が少ないような・・・ 貨物船も釣り船もシエスタ中?

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成果の少ない東京湾シップ・ウオッチング。

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久里浜港到着。

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いつもは徒歩だが、この天候なので京急バスで。JR久里浜駅から直帰。

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スポーツの商業化と電通

『朝日新聞』1985年6月25日付

アマスポーツはいま ⑤

世界戦略「冠大会」とりしきる代理店

 数億人、という地球規模のファンを持ち、オリンピックと並ぶサッカーのワールドカップ(W杯)大会。これを長年とりしきったのは、スポーツ界の世界的な“仕掛け人”として知られるウエスト・ナリー社(本部・英国)である。

 前回のW杯は三年前にスペインで開かれたが、そこへ梅垣哲郎副社長が陣頭指揮する電通の「代表団」が乗り込み、五、六百人を集めた大パーティーを二度開いた。

 サッカーで初興業

 招待されたのは国際サッカー連盟(FIFA)のジョアン・アベランジェ会長(ブラジル)ら全役員、参加国団長、それにすべてのスポンサー。キッシンジャー元米国務長官も顔を出し、「カネにまかせた豪華なパーティーにみなびっくりしていた」と出席者の一人。

 “異変”は大会一カ月後に起こった。FIFAが公認の代理店であるウエスト・ナリ―社をけって、電通とフランス・アディダス社が五〇%ずつの資金を出し合ってつくった国際スポーツ・レジャー社(ISL)と契約を結んだのである。ウエスト・ナリ―社にいわせれば「乗っ取られた」ということになるが、国際スポーツ界のイベント参加に後れをとった電通が「世界戦略」へ踏み出した第一歩であった。

 電通が国内のアマチュアスポーツの“事業”を手がけたのは、八年前の世界フィギュア選手権大会が初めて。「赤字が出たら半分ずつ負担しよう、という約束だった」と、日本スケート連盟の当時の目黒清忠事務局長。ところが、大会後の決算のあと「もうけたから、連盟にカネを振り込む」との連絡。そのころ、スポーツ大会といえば競技団体の持ち出し、と相場は決まっていた。それが本当に連盟の口座へ三千五百万円もの入金があり、「腰を抜かさんばかりに驚いた」(目黒さん)

 これがきっかけとなったのだろう。同年秋、日本サッカー協会と電通が開催した「ペレ・さようなら・イン・ジャパン」。電通がアマスポーツ団体と組んだ最初の興業であり、これで六千万円もらったサッカー協会は、この年初めて黒字決算を出した。以来冠(かんむり)大会がアマスポーツ界で大手を振って歩きだした。

 次々に対象広げる

 今年、日本の企業が協賛する国内、海外のスポーツ大会は陸上競技、テニス、サッカー、バスケットボール、バレーボールなど十一競技にのぼり、対回数は百八十二。うち三分の一を電通が手がけている。スポーツイベントに関係する協賛企業が八十八社。一年間で三百億から三百五十億円の金が動いているという。

 「日本全体の広告費は年間三兆円。スポーツイベントの占める割合はわずか一%」(服部庸一電通ISL室長)とはいうものの、ライバル社の幹部は「『世界の電通』がここまでスポーツイベントに全力をあげて乗り込んでくるとは思わなかった」と驚く一方、「近い将来、ISLの息のかからない大会は開けなくなるかもしれない」と不安をもらす。

 そのISLが、このほど国際オリンピック委員会(IOC)と五輪マーク使用の独占契約を結び、世界中から注目を集めている。電通と手を結んだアディダス社のダスラー社長はユダヤ系のドイツ人で、国際スポーツ界の“政商”ともいわれるやり手。八八年のソウル・オリンピックを実現させた黒幕でもある。そして、ISLはサッカーに続き、陸上競技の世界選手権を含む国際陸連主催のイベントを根こそぎものにしたほか、新体操、テニス、自転車、スキー、バレーボールなどへ、どん欲に対象を広げている。

 黒字喜ぶ競技団体

 今回とアンケート調査では冠大会の開催について「必要だ」というのが七六・五%もあり、「やめるべきだ」の五・八%を大きく上回った。日本陸連のように昨年度、一億余円の協賛金を得て基金を五億五千万円へふやし、「目標は十億円。冠さまさま」と笑いが止まらないところも含め、競技団体の中にすっかり定着した形。だが、苦々しい思いで見つめる二十人に一人の“目”があることも忘れてはならない。”

ISLのその後については「ISLの黄金時代、そして破綻」(nikkei BPnet)を参照されたい。

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1985年、契約選手公然化へ動き出す

『朝日新聞』1985年6月25日付

アマスポーツは今 ②

プロ化
実力次第の「契約」ふえる

 今月十一日、日本サッカー界の第一線に立つ日本リーグ関係者十余名が「選手問題研究会」をスタートさせた。狙いは、ずばり「契約選手」公然化のための移籍や諸規定の基盤づくり。いわば日本サッカー史上初の“プロ研究会”の発足である。

 日本リーグの勢力図はこの二年余りでガラリと変わった。かつての名門で“丸の内ご三家”と呼ばれた日立製作所、三菱重工、古河電工をはじめとする「終身雇用制・素材産業型のチームが地盤沈下したのに対し、リーグ二連覇、天皇杯を制した読売ク、二年連続リーグ二位の日産自動車、わずか一年で二部リーグを突破した全日空横浜のような「PR重視・他州消費型」企業をバックにしたチームが急上昇した。

 勝てばボーナスも

 これらのチームは大半が契約選手、つまり会社の仕事は全くせず、サッカー専業の非常勤嘱託社員から成る。元西ドイツ・プロサッカーの監督だった読売のグーテンドルフ監督は「日本型の終身雇用制度はビジネスの世界では西欧が学ばねばならない優秀なシステム。だが、国際サッカー界で勝つためには決して役に立たない」ときっぱり。

 日産は今春から契約選手の大量採用に踏み切った。同じレギュラー選手でも正社員だと十五、六万円の月給が、契約選手だと一挙に五十万円から七十万円。その上、契約選手は公式戦で勝てば一試合につき十万円、引き分けても五万円のボーナスが出る。一年ごとに契約を更新するが、選手生活ができなくなれば当然のことながら、はい、サヨウナラ。

 ご三家は悩み深し

 もちろん、年収約一千万円前後の契約選手は与那城、戸塚(読売)、木村(日産)らほんのひとにぎり。読売から全日空横浜へ移った大淵竜介選手(二八)は二年前、読売を去る時は退職金なし、ビデオデッキ一台をもらっただけ。「やめるときのクラブは冷たい。でも、ボクはサッカー好きだし、企業で不向きな仕事を一生続けるよりも」という。

 「サッカーはやりたいが会社人間はごめん」の傾向は“ご三家”にとっても悩み。リーグ四位と頑張る古河電工の清雲監督(三四)は「ウチの永井(元日本代表、三十三歳)なんか、高校生時代に古河の選手から古いサッカー靴をもらっただけで感激してチームにきた。ところが、いまの若い連中ときたら・・・・・」。昭和九年創部の名門。午前中は完全に仕事。休日の試合はその時間だけ休日出勤手当がつく。新人は月給で税込み約十二、三万円、十年社員が二十四、五万円では「スカウトにいっても、金のことを尋ねられるとギブアップ」とか。

 疑問多いクラブ制

 だが、日本のスポーツ土壌の中で、クラブや契約選手制度が多くの選手の生活に有利かどうか疑問も多い。西独留学後、一時、読売のコーチも務めた宇野勝・東海大監督は「華やかに見える欧州だって下の方には食えないプロがゴロゴロしている。ある程度学問がある日本の選手は企業人としても働けて素晴らしい、という評価も忘れてはいけない。それに、汚いプレーをしてでも勝てばいい、との雰囲気になりやすいクラブには教育的に問題が多い」と指摘する。

 それでも、サッカーのプロ化への動きは加速的に進むだろう。それが読売をはじめ、各親企業の戦略であり、選手たちも望んでいるからだ。日本代表の加藤久主将(読売=早大講師)はいう。「どんなスポーツも年齢や学歴は関係がない実力の世界。自信のある選手はプロの道を選べばいいし、そうでなければアマにとどまればいい。すべて本人の責任でやること。ただ、そのためにはプロが出来なければ・・・」”

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日本サッカーリーグ20年目の現状

『朝日新聞』1984年4月20日付

本記事は、日本代表がロサンゼルス・オリンピックのアジア・オセアニア地区最終予選で1984年4月15日にタイに2-5、4月18日にマレーシアに0-2で敗退。本大会出場が絶望視されていた時点で掲載された。

20年目迎え日本サッカーリーグ“斜陽”

観客と視聴率が激減
    愛好者三倍に増えたが

 日本リーグの草分け、日本サッカーリーグが二十年目を迎え、台所が火の車になっている。スター不在や低調な試合続きで、ファンに背を向けられたのが主な原因。再建策として、冠大会が真剣に検討されたほどの急落ぶりである。企業が、宣伝効果に目をつけて、他の競技でも日本リーグを、と乗り出したほどの、あの人気はどこへ? かつての勢いをとり戻す“クリーンシュート”はあるのだろうか。折しもロス五輪アジア・オセアニア地区予選は二敗を喫し五輪出場は絶望となる有り様。五月十二日の開幕を控え、岐路に立つ同リーグの現状をみた。
                              (瀬下真男記者)

 ≪冠大会は“破談”≫

 広告会社の博報堂が昨年秋、日本サッカーリーグ運営委員会の要請で冠大会の協賛企業を探す、九人編成のプロジェクトチームを結成した。が、「リーグ加盟の企業と同じような業種は困る」という運営委の壁にぶち当たって難航。それでも、ある健康飲料販売会社を見つけた。この会社が提示した金額は年間三千五百万円。運営委の希望額と差があり過ぎたため、結局“破談”になった。

 ≪今は昔の三局放映≫

 日本サッカーリーグの人気は日本が四十三年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得したころが頂点だった。ヤンマー-三菱重工戦の、いわゆる「釜本、杉山対決」には、東京・国立競技場に四万人が押しかけて二人のプレーに熱狂した。四十三年の観客動員数は一試合平均七千五五百人。プロ野球のパ・リーグが七千七百人だったから、いかにブームだったかわかろうもの。「一つのカードをテレビ三局が競ったほどでした」と寺尾皖次テレビ東京スポーツ局プロデューサー。

 人気があったのは四十七年までの八年間。このあと坂を転げ落ちるように衰退していく。杉山ら有名選手の引退。ストライカー釜本のプレーにかげりが出てきたころだ。日本が戦術面で世界の主流である守備的なフォーメーションをまねして、0-0の引き分け試合がふえたことも観客減少に拍車をかけた。

 当然テレビの視聴率も下がる。バレーボール七%、ボウリングが八%を記録しているのに、サッカーは三、四%でしかなくなった。

 ≪本場志向が裏目に≫

 日本リーグが駄目なら外国があるさ。日本リーグの放映に熱心だった東京12チャンネル(現、テレビ東京)が英BBC放送から人気番組の「マッチ・オブ・ザ・デー」のフィルムを買い、週一回本場のプレーの放映を始めた。人気ばん回策にと日本協会がペレやベッケンバウアー、クライフを連れて来たのも裏目に出た。世界最高のプレーを目と耳から見せつけられたファンは、レベルの低い日本リーグに魅力を失った。

 ≪企業におんぶ≫

 リーグ運営は五十六年までリーグ運営委員会が入場料、広告、テレビ収入をプールしてまかんってきた。五十六年でみると、広告六百十八万円、テレビ三百八十六万円、入場料四千七百七十万円など約五千九百万円が運営費。支出は審判員や役員の遠征費に二千万円、グラウンド借用料と事務局人件費一千万円、雑費一千万円が主で、加盟十チームの遠征費として支出できたのは千五百万円だけ。赤字分は各チームにおんぶした格好。

 二年前からチームの自主運営に切り替え、例えば古河が西が丘でヤンマーを呼んで試合をする時、古河がグラウンドの借用と観客の動員を行い、入場料は古河のものとなる。しかしヤンマーは西が丘までの交通費と宿泊代を負担しなければならない。

 ≪見るよりプレー≫

 たった一つの救いは少年チームを中心にサッカー愛好者が三倍に増えたという事実だ。

 メキシコ五輪の翌年(四十四年)、全国の登録チームは五、九一六でしかなかった。それが昨年は一五、二一六チームで四一二、三〇〇人。だが、これも痛しかゆしで、最近のファンは見るよりも自分たちがプレーするのに熱心。日本リーグのある土、日曜日に、観客席に座らずグラウンドで汗を流すから、リーグの観客増には一向に結びつかないのだ。

 ≪プロ化の声も≫

 人気ばん回策はないのだろうか。

 熱心なファンで世界の大きな試合をほとんど見て回り、熱心なファンの集まり日本サッカー狂会の常任幹事をしている後藤健生さん(三一)は「根本原因は企業チームの大会だからですよ。選手は冒険しなくても、給料日がくれば給料もらえるもの。プレーがサラリーマン化しちゃってる」と手厳しい。

 そして「改革するにはプロ化が絶対の条件。プロ化しない限りスターは生れません。とりあえず前、後期のチャンピオン同士のプレーオフ制度の採用などかんがえてはどうだろうか」と提案している。

日本リーグの1試合平均観客動員数とテレビ放映回数

年   観客数(人)   テレビ放映回数
40   2,400        5
42   6,100       17
43   7,500       18
44   5,900       15
48   2,900       18
52   1,800        8
57   2,150       12
58   2,770       16

【注】昨年のテレビ放映16回のうち、東京のテレビ局の放映は2回だけ。残りはローカル局放映。

レベルアップしかない

 打開策を高橋英辰・日本サッカーリーグ総務主事=写真=に聞いた。

―二十年目のツケにしては厳し過ぎますね

 「観客動員という点ではね。しかしリーグ発足当時よりも子どもを中心に愛好者が三倍にふくれあがった。この子どもたちが自分でボールを蹴るのが忙しく、リーグを見に来てくれないという皮肉な結果が出たけど、普及という点では役に立てたと思う」

―冠大会に頼らなければ、窮状は救えませんか。

 「チームもリーグも台所は苦しい。負担を少しでも軽くしようと考え、広告会社に頼んでみたが、この話はもうやめた」

―ファンを呼び戻せますか。

 「選手の色紙配布など小手先の人気取りではだめだ。要は選手個々のレベルの向上以外にない。今後、チームに力をつけさせて人気回復をはかりたい」

―プロ化のうわさがあるが。

 「九チームが企業チームですからね。それにわれわれはアマチュアの日本体協に加盟している。日本リーグがオリンピックを卒業、ワールドカップというならいいですよ。しかし現実はまずオリンピックの関門の前で、四苦八苦しているのですから。現状ではプロなんて無理ですよ」”

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1940年幻の東京オリンピックと1964年東京オリンピックにおける強化策の比較

わが国に限らず、世界的に見ても、代表の強化策はどこも同じようなものだ。

1) 外国に遠征して国外のチームと強化試合をする。
2) 国外のチームを自国に招聘して強化試合をする。
3) 強化合宿を行う。
4) 外国から優秀なコーチを招聘する。

自国でコーチをまかなえるサッカー最強国でも、1)~3)は行っている。従って、1940年と1964年の東京オリンピックの強化策に共通点が多くても、驚くほどのものではない。

1) ヨーロッパ長期遠征は1940年東京オリンピックでも計画されていたが実現せず、1964年東京オリンピック準備期間(1960年以降)に実現した。

2) 国外(ヨーロッパ)チームの自国招聘は1938年のイズリントン・コリンシャンスで実現した。戦後、民間航空の発達により往来が容易になり、1951年のヘルシングボリを皮切りに1964年東京オリンピック決定以前に複数のヨーロッパのチームが来日している。

3) 特定国際大会直前ではなく、常時代表候補を選抜して強化合宿、強化試合を行う方式は、実はわが国では1940年東京オリンピックを契機に定着したものであり、これが1940年幻の東京オリンピックがサッカー界にもたらした最大の遺産ではないだろうか。ご存じのように、この方式は現在に続いている。

4) ドイツからのコーチ招聘は1940年東京オリンピックの際にも計画されていたが実現せず、1964年東京オリンピック準備期間中に実現した。

こうしてみると、1964年東京オリンピック強化策は1940年東京オリンピック強化策とほとんど同じだったのである。人的な面でも、1940年東京オリンピック強化の中心人物であった竹腰重丸、野津謙、小野卓爾といった人物は1964年東京オリンピック準備期間中も協会の中枢に位置していたのであり、強化策が似通っているのは、むしろ当然といえる。

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1983年、読売クラブ初優勝、2位は日産、マツダは2部降格

『朝日新聞』1983年11月28日付

「階層別指導」で選手を育成

 読売クの選手たちは、応援団席へかけ寄り、汗だらけのジャージーを脱いで投げ込む。裸の選手たちが肩を抱き合って喜んだ。後期は土つかずの快進撃で栄冠を勝ちとった。

 与那城、ラモス、都並、加藤・・・・・。彼らのドリブルは群を抜いていた。が、その技術におぼれるあまり、組織プレーに穴があき、オープン攻撃がまずい。昨年は五位と振るわなかった。

 今年の後期はどうだ。うるさいヤマハを破って以来、ドリブル突破でチャンスの足場を切り開くや、スピード豊かな両サイドからの攻撃で突っ走った。ライバルの釜本(ヤンマー)、内野(古河)両監督が、読売の個人技プラス連係プレーの変身ぶりに驚いたものだ。

 読売クは十五年前、読売新聞、日本テレビなどの全面的なバックアップで東京・稲城市にあるグラウンドを本拠地に発足した。企業チーム全盛の中で、欧州や南米のクラブ制度をとる運営。「ベレーザ」と呼ばれる女子二十人のクラスを含め、ユースA(高校生)、B(中学生)、C(小学生)、ジュニアの各階層ごとに指導が行われている。日本リーグに出ているトップの二十四人は、約三百人の同クラブ代表だ。主将の松木、攻撃陣の都並、戸塚は小学生、小見は高校生クラスから育った選手である。

 読売イレブンの職業はばらばら。松木がうなぎ屋、小見が家政婦あっせん業、都並が父親のスナック手伝いで、与那城は翻訳業。一日二時間、週六日の練習で、欠陥を克服してのうれしい初Vだった。    (瀬下)”

順位は以下の通り。

①読売ク
②日産
③フジタ
④ヤマハ
⑤ヤンマー
⑥三菱
⑦古河
⑧本田
⑨日立
⑩マツダ

1位から4位までを日本リーグ「非・オリジナルチーム」のリーグ創設後の昇格組がしめ、優勝5回を誇るマツダが2部降格。日立も入れ替え戦へ(結果は残留)。三菱、古河は下位に沈んだ。1983年は新旧交代の節目の年だった。

また、マツダが降格して日本鋼管が昇格したので、西日本のチームはヤンマーだけ、という極端な東高西低の構成になった。 

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1906(明治39)年5月27日私立高千穂小学校運動会で3・4年女子がフットボール

1906(明治39)年5月27日私立高千穂小学校運動会で3・4年女子がフットボールをした、という新聞記事を見つけたので、紹介したい。

『東京朝日新聞』1906年5月29日付

“●高千穂小学校春季運動会

五月二十七日正午から、同校講堂で紀念式がありまして、時間正しく式を終へ、午後一時に運動会が始まりました。其時、見ましたところを、ざっとお話申し上げませう。

<中略>

五、フットボール・・・・・第三四女

女の子が、フットボールをするのですから、学校全体の元気があります事がよく分りますので、それに足を取られたり、倒れたりしても、少しも泣かぬ事などは、よい気性にしつけられました。紅も白も、両方自分の陣の門の中にまりを蹴り入れられた方がまけとなるのであるのです。

<後略>”

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「紅も白も、両方自分の陣の門の中にまりを蹴り入れられた方がまけとなる」とあるので、サッカーに近いフットボールだったようである。高千穂小学校は現・高千穂大学となっている高千穂学園の小学校。高千穂学園は小学校から始まったが、後に大学以外の小・中・高は廃校となって、現在は大学のみが現存。→「高千穂大学 歴史と沿革

当時の小学校は4年制。なお、記事全体を読んでも、男子種目に「フットボール」がない。

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坪井玄道の留学同期生

『元文部省外国留学生一覧』(1909)によれば、坪井玄道は1900(明治33)年、1カ年の年限で英、独、仏に体操研究を目的として留学している。

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坪井と同ページには瀧廉太郎、夏目金之助(漱石)、黒田清輝がいる。

1875(明治8)年の初年度の最初のページは以下の通り。

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鳩山和夫、小村寿太郎らの名が見える。法学、工学、化学、鉱山学のような「国家枢要」の分野ばかりである。

さすがに、1900年ともなると、体操、音楽、文学、美術のような「非国家枢要」の分野にも留学の順番が回ってきたようだ。

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諏訪でうなぎ

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武蔵溝ノ口駅から18切符で。

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立川から高尾へ。高尾始発の小淵沢行きに乗車。

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小淵沢で途中下車。

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舞茸そば400円。

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松本行きに乗車。

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かつてはすべてセミクロスシート車だった中央線もロングシートが主流に。

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上諏訪駅で下車。

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来年は御柱。

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ルートイン上諏訪にチェックイン。

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上諏訪のビジホにはたいてい温泉大浴場がある。

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東京と違って夕方になると多少は涼しくなる。ホテルの真ん前が片倉館。

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そしてその向こうが諏訪湖畔。

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関西風地焼きの「うな藤」さんへ。

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肝焼きは昼で売切れとのことで、特上、生ビール、野沢菜を注文。

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生ビールに。

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野沢菜。信州は蕎麦屋もうなぎ屋も一品料理の量が多い。汗をかいているので、野沢菜の塩分が身に染みる。

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うな重到着。

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特上は2段4切れで、4,550円。

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ご飯のない上段に2切れ。

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ご飯の上にも2切れ。蒸さない地焼きなので、皮が固く、川魚の香りがします。諏訪では東京風の蒸す店(古畑)とうな藤のような地焼きの店を選べます。この暑さなので、ワイルドなうな藤を選択。

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ホテルに帰ってテレビを見ているとフェリー火災のニュースが。他人事じゃない。実は太平洋フェリーの苫小牧航路チケットを購入済み。

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朝食。東京と違ってさすが信州。朝は全然涼しい。そのまま18切符にて直帰。

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1982年、攻撃型チームの増加と混戦、観客サービスにより日本リーグ観客動員数反転

『朝日新聞』1982年5月26日付

サッカー混戦リーグ
観客離れ足止め

得点も上昇ムード
  碓井の「9」、若手に刺激

 「混戦はいいことだ」―。二十四日に前期を終了した日本サッカー・リーグは、最終戦で首位に立ったヤンマーディーゼルを先頭に集団でUターン。勝ち点1差で追うグループに古河、日立、読売クの三チーム。そして九位の日本鋼管までゲーム差はわずかに二・五。この大混戦は得点、観客増にもつながり、下降気味の日本リーグも、ちょっぴり上昇ムードのきっかけをつかんだといえそうだ。
  
 昨年の前期は0-0の無得点試合が八試合。「点のはいらないサッカーなんて面白くない」と酷評を買ったものだが、今期は三試合。総得点も110点で、昨年の同時期より16点増となっている。トップは攻撃的なサッカーを展開している古河電工が17得点。つづいて日立の15得点、読売クの14得点。残り二試合で7得点を稼いだヤンマーが12得点で四位に浮上した。

 個人的には碓井(日立)の頑張りが目立っている。第一節の本多戦でいきなりハットトリックを記録し、9得点。「もう一度、日本代表に復帰しますか」と二十八歳のベテランは二年ぶりの得点王に色気たっぷり。通算でも70得点となり、202の釜本(ヤンマー)、81の松永(日立)に続き、三位に躍り出た。

 この碓井を追うのは、昨年の得点王の吉田と前田(ともに古河)で、6得点。四年目の長谷川(ヤンマー)と三年目の松浦(鋼管)も、其の特徴を活かしたプレーで5得点と気を吐いている。

 長谷川は大黒柱の釜本欠場のあとの二試合で、3点を奪うなど、精神面での成長がうかがえる。松浦は一九〇センチの長身。後期もその“高さ”が威力を発揮しそうだ。アシストではベテランの永井が6をマーク、古河のエンジン役を見事にこなしている。

 今季から入場料収入がホームチームにはいる自主運営方式に変更され、各チームともファン集めに趣向を凝らしているが、混戦も手伝って、前期の観客動員数は九万七千九百五十人。昨年より二万六百五十人増となった。チーム別では読売クが一試合平均四千三百人でトップ、日立とフジタが三千人台を記録するなど上々のスタート。反面、ヤンマーが千三百五十人、マツダ千百五十人、日産は九百十七人で、チームによっては、その台所が逆に苦しくなりそうなところも出ている。    (伊藤)

チーム別観客動員 [カッコ内はホームゲーム数]

                 一試合平均
読売ク  21,500人 (5)  4,300人  
日立   13,000  (4)   3,250
フジタ  12,500   (4)   3,125
古河   14,000  (5)   2,800
三菱   11,500  (5)   2,300 
ヤンマー  8,100  (6)   1,350
鋼管    4,700  (4)   1,175
マツダ   4,600  (4)   1,150
本田    5,300  (5)   1,060
日産    2,750  (3)   917

『朝日新聞』1982年11月4日付「風」欄

努力実り観客3万人増

 十九万三千六百五十人―。

 この数字は、三菱重工の逆転優勝で幕を閉じた第十八回日本サッカー。リーグの観客動員数である。全部で九十試合だから、一試合平均では約二千百人余り。広いスタンドに、まばらといったところだが、それでもこの数字にサッカー関係者は、ほっと胸をなでおろしている。

 なぜなら、ことしのリーグは年々減少する観客に歯どめをかける目的で、入場料収入はホームチームに入り、そのかわり、観客集めに努力しなさい、という「自主運営方式」に踏み切った。ちょっぴり強引ともいえるこの方式は、一部のチームには負担増につながるとの声もあったが、観客動員数では昨年の十六万三千人を三万人も上回った。リーグの高橋総務主事は「後期の盛り上がった時期に台風と雨にたたられたが、これがなければ二十万人台に乗っていた」と、気をよくしている。

 サッカーの人気は、メキシコ五輪の銅メダルを頂点に、年々下降線をたどってきた。リーグでも四十三年には一試合平均七千四百九十一人を集めたが、昨年はわずか千八百人台に落ち込んでいる。

 ことしは各チームとも、ゴムボールの蹴(け)り入れ、サイン入り色紙の配布、さらに試合のPRや、社内に応援団を結成するなど、ささやかながら観客集めに積極的な姿勢を見せた。結果的には、これが「プラス三万人」につながった、といえる。しかし、この三万人を引きつけ、さらに増やすのは、面白い試合を見せることが何より大切だろう。
          (伊藤)

<チーム別観客動員数> 

                 1試合平均
①読売ク   35000人   (3888人)
②日立    26800     (2977 )     
③フジタ    26400     (2933 )  
④三菱    22500     (2500 )
⑤古河    20250     (2250 )
⑥マツダ   15400     (1711 )
⑦ヤンマー  15100     (1677 )
⑧日産    13850     (1527 )
⑨本田    10800     (1200 )
⑩鋼管     7550     ( 838 )

計      193650     (2151 )” 

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