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1905(明治38)年の東京市小学校運動場公開

「フートボール」が小学校に備え付けられるべき運動用具として公的に認識されていたこと、その値段は1個5円だったことがわかる。

『東京朝日新聞』1905年6月28日付

“●小学校運動場公開

東京市教育会は一昨日午後一時より市会議事堂に於て学校事業研究会を開き頃日市長より発布せられたる小学校校舎及運動場開放方法に付討議し運動場開放の方法は左の如く決定したり

一、 小学校の運動場に於て遊ぶは他の場所に於て遊ぶよりは教育上左の利益あることを保護者に知らしむること

 イ、小学校の運動場は馬車電車等の危険なく頗る安全なり
 ロ、運動場には常に一人の教師ありて児童を監督し愉快に活発に遊戯せしむ故に嬉戯の間に多少の教育を施さるべし
 ハ、悪童の入場を許さず故に彼の恐るべき悪友の影響を避くるを得べし
 ニ、運動場には種々の遊戯用具ありて児童に使用せしむべし

二、運動場には少くとも左の運動用具を備ふべし
  ブランコ二組、ローンテニス一組、フートボール一組、固定円木二組

三、便所一ヶ所を設くべし

四、運動場に児童監督一名を置く 児童監督は宿直の教員をして兼務せしむ
  児童監督には若干の手当を給す

運動場開放に要する経費は凡そ左の如し

一、設備費
  ブランコ二組取附費         二十円
  ロンテニス用具一組(ボール共)  十七円
  フートボール一個            五円
  固定円木二組             六円
  便所                  五十円
  計                   九十八円

一、経常費(一ヶ年分)
  児童監督手当             六十円
  小使手当                十二円
  運動用具修繕費            二十円
  計                   九十二円

(参考)開放したる運動場には差支なき限り子守又は父兄等の児童に同伴するを許すものとす”    

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岩城島・尾道・鞆の浦紀行 ③ 福山市営渡船「第二べんてん」乗船記

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ホテルを出て尾道水道沿いの遊歩道を駅方面へ。

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尾道駅から山陽線に乗車。

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福山駅で下車。

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鞆港行きバスに乗車。

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仙酔島行き渡船乗り場。

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「第二べんてん」。運賃は往復で240円。

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後で行く対潮楼。

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円福寺夾明楼。

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弁天島。

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弁天島の背後に仙酔島。

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仙酔島に到着。

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展望台への坂道。

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仙酔島展望台から弁天島、鞆の浦を。

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展望台から見た対潮楼。

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再び渡船に乗船して鞆の浦へ。

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対潮楼の説明。

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対潮楼から見た弁天島、仙酔島。

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江戸時代に朝鮮通信使がここの景色を「日東第一形勝」と誉めた。

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朝鮮通信使が詠んだ漢詩。

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対潮楼から見たさきほど登った仙酔島の展望台。

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鞆の町並みを散策。古い商家。

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名産の保命酒屋。

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海援隊の船「いろは丸」の沈没をめぐって、ここで海援隊と紀州藩が交渉したとのこと。

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菱形の窓がある建物。

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船着き場方面へ。

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フェリーが出航するところ。昔、福山-多度津間にフェリーがあって乗船したことがある。

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狭い道。

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杉玉があるのは保命酒屋。

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江戸時代そのままという感じ。

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鞆のシンボル、常夜灯。

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再びバスで福山駅へ。福山駅は福山城を削って作った。

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「のぞみ」に乗車。

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福山駅弁の焼きあなご飯。1150円。旨かった。

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岩城島・尾道・鞆の浦紀行 ② 芸予汽船「つばめ」乗船記(復路)・尾道渡船「にゅうしまなみ」乗船記

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芸予汽船でも、海況が悪いと東海汽船みたいに航路変更・抜港があるそうで、大三島友浦港を抜港、大三島の西岸に航路変更したとのことで、10分遅れて到着。3船が就航しているが、昨日と同じ「つばめ」に乗船。

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昨日はスルーした佐島港にも着岸。

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尾道行きバスに乗車。因島大橋上から昨日とは逆方向の西側を。

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向島の東西橋というバス停で下車。

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渡船乗り場を目ざします。

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尾道渡船の乗り場に到着。

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狭い尾道水道なのであっとゆう間に到着。運賃100円は乗船中にオッチャンに払います。

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本日宿泊するホテルが尾道側桟橋のすぐ近くにあった。

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乗船した「にゅうしまなみ」。ホテルに荷物を預け身軽に。

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ホテルの前にあるお堂。

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石灯籠。

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この石灯籠は小津安二郎監督『東京物語』の冒頭シーンに出てくるものでは。

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力石。

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小津がロケ時に宿泊した高級旅館「竹村」。『東京物語』のセリフ中にも出てきます。尾道の高級旅館や料亭は尾道水道に面している。

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昨日通った尾道大橋を下から。

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浄土寺の参道は線路の下をトンネルでくぐります。

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浄土寺山門(重文)。

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同本堂(国宝)。

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同阿弥陀堂(重文)。

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同多宝塔(国宝)。

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山門から尾道水道を。

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浄土寺の脇から石畳の古寺散策路が続きます。

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港町らしい・・・

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『姿三四郎』のモデルといわれる講道館四天王の一人、西郷四郎はここで亡くなったとのこと。

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道端の石仏。

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西郷寺。

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雨が激しくなってきたので、商店街のアーケードに避難。尾道ラーメンの有名店朱華園があったが、休業日。

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商店街のカフェでしばし休息。

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雨が小降りになったので、千光寺山ロープウェイへ。

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ロープウェイ車中から。

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千光寺山展望台から。尾道水道を西から東へ。

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本日乗船した尾道渡船。

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乗船した「にゅうしまなみ」。

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別の渡船のフェリー。

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バスを下車した向島の東西橋あたり。

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尾道大橋。

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展望台から千光寺へ下ります。

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巨岩の間にある千光寺。

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三重塔。

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狭い階段の千光寺参道。

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参道にいた猫。

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参道と山陽線の交差は踏切。

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昼食はお好み焼き。シーフードミックスそば入り。850円。粉モンのミヤコ生まれなので、鉄板からコテだけで食べるのが好き。

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駅前方面へ。駅周辺は再開発されて昔の面影なし。しまなみ海道開通以前の駅前はすぐ芸予諸島・四国連絡の桟橋があって、一膳飯屋が並ぶ瀬戸内港町情緒満点だったが。変にスッキリして無機的になった感じ。高松もすっかり再開発されたし、今でも昔の情緒が残るのは今治くらいか。

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商店街の有名蒲鉾屋「桂馬」。

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宿泊したホテルの近くのラーメン屋は平日15時前なのに大行列。

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ホテルにチェックイン。6F尾道水道側の部屋。一度尾道水道に面した宿に泊まってみたいと思っていたが、ようやく実現。

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部屋の前に博多・玄海島航路の船が停泊中。ドック入りか?

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部屋か撮った尾道水道を往く貨物船。

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6Fの部屋から目の前の堤防越しに大きな魚影が見えたので、近寄って撮ってみた。数十センチありそうな魚がゆうゆうと泳いでいた。

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夕食はホテルの近くの居酒屋で。

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生ビールと。

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焼きあなご定食。2200円。

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焼きあなご。

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天ぷら盛り合わせ。

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部屋から見た尾道水道の夜景。

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尾道水道を眺めながら朝食。

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朝の尾道水道を往く貨物船。

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NHK広島ローカルのライヴカメラに同じ船が。

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岩城島・尾道・鞆の浦紀行 ① 芸予汽船「つばめ」乗船記

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品川駅でコーヒーとフィッシュカツサンドの朝食

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7:17発「のぞみ9号」で。

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富士山が見えた。

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福山駅で下車。在来線に乗り換え。

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尾道駅で下車。

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因島の土生港行きバスに乗車。

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尾道大橋上から。

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因島大橋上から。

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生口大橋の下をくぐって。

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土生港着。960円、約1時間の路線バスの旅。

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尾道ラーメンの昼食。560円。

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岩城島まで片道470円。

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往復だと900円。4日間有効。

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土生(はぶ)港は文字通りhub port。

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乗船するのは芸予汽船の高速船「つばめ」。

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高速船だがオープン・デッキあり。もちろん、ここにいた。

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内海造船、ジャパンマリンユナイテッドの因島工場が並んでいる。

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土生の対岸にある生名島はもう愛媛県。

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弓削島航路の船。

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佐島と生名島に架かる生名橋。

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弓削港。

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生名橋をくぐって。

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佐島港はスルー。

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岩城港着。

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下船。

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まだ午後2時なので、時間潰しに灯台へ。

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多島海の風景。

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外来入浴できるらしい温泉ホテルがあるので行ってみる。

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景色のいいところに建ってる。

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ホテルと温泉棟は別になってる。
14:00~16:00は営業時間外。トホホ・・・

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帰り道の途中にレモンの木があった。中学生のころラジオで『Lemon Tree』というフォークソングをよく流していた。

“Lemon tree very pretty and the lemon flower is sweet
But the fruit of the poor lemon is impossible to eat. ”

というリフレインは今でも覚えているが、レモンの木の実物を初めて見たのは社会人になってから。レモンの花が咲いているのはいまだ見たことがない。

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海に面して建つ公営住宅? 家賃はいくらかな?

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岩城港の待合室兼物産館兼ティールーム。

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意外といっては失礼だが、本格的で旨かった。

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水槽があったが、活魚を販売してるわけではない。

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温泉ホテル以外に渋い旅館2軒と宿泊する民宿が1軒。

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民宿にチェックイン。風呂。

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夕食。先付。

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刺身。アコウ(キジハタ)の姿造り、鯛、鰆タタキ、サザエ。

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翌日尾道のデパ地下で売ってたアコウ。

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煮物はタモリ(セトダイ)の煮つけ。

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同タモリ。

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土瓶蒸し。具は松茸、鱧、海老、鶏肉。

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鮑ステーキ。

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オコゼ唐揚げ。

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焼き物は海老と蛸の焙烙焼き。

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酒はビールと広島の白牡丹冷酒。

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鯛めしの釜めし。

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味噌汁。

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デザート。

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朝起きると土砂降り。愛媛県の一部に大雨洪水警報。

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朝食。昨晩のアコウが味噌汁に。


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ビックリ!

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ローマ・オリンピック予選に勝っていたら・・・

日本サッカー史に絶大な影響を与えたデトマール・クラマー氏が亡くなった。

クラマー氏の招へいは、1964年東京オリンピック開催決定後、1959年12月のローマ・オリンピック予選対韓国戦に敗れたことがきっかけになっている。しかし、敗戦といっても2戦して1勝1敗、12月13日の第1戦0-2、12月20日の第2戦1-0、得失点差わずか1でのきわどい敗戦だったのだ。

敗戦2日後の12月22日、朝日は大谷四郎氏、読売は牛木素吉郎氏、毎日は岩谷俊夫氏、後年いずれも日本サッカー殿堂入りするサッカー・ジャーナリストが対韓国戦の論評と再建策を書いている。

大谷四郎氏によるローマ・オリンピック予選対韓国戦の総評
牛木素吉郎氏によるローマ・オリンピック予選対韓国戦の総評
岩谷俊夫氏によるローマ・オリンピック予選対韓国戦の総評

大谷氏はコーチングの刷新、牛木、岩谷氏はさらに具体的にプロ・コーチの採用を提言している。岩谷氏(当時協会理事でもあったはずだと思う)は、

“日本のコーチは理論的にはすぐれているが、みっちりコーチできる環境の人は一人もいない。そこでようやく協会もプロ・コーチの招請に真剣になりだした。二十日の理事会ではインドネシアをA級に仕上げたユーゴのコーチをこのさい呼んでみては、というところまで話が出た。”

と記しており、敗戦当日に開催された協会理事会でもプロ・コーチの採用が議論されていたようだ。

今からみると、ローマ・オリンピック予選対韓国戦に僅差とはいえ敗戦したことが、クラマー氏来日となって日本サッカーの興隆につながったが、仮に韓国戦に勝ち、さらに「運よく」2次予選も通過してローマ・オリンピック出場がかなったとしたら、日本サッカー史はまったく異なった展開になったはずである。

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1918年以前のサッカー大会 関西聯合蹴球大会

1918年大阪毎日新聞社主催の日本フートボール大会、東京蹴球団主催の関東蹴球大会(東京朝日新聞後援)、新愛知新聞主催の(東海)蹴球大会が日本最初のサッカー大会であるというのが定説だが、『兵庫県御影師範学校創立六十周年記念誌』(兵庫県御影師範学校同窓義会 1936)の「蹴球部」の項によれば、1914(大正3)年度に第1回関西聯合蹴球大会が開催され、御影師範も参加していることが記されている。

“大正三年度東部長時代は大きな大会もなく、選手各自の猛烈な努力と甲陽四百の健児の熱誠なる応援とによって我が蹴球部は時々刻々進歩し発展していった。<中略>東部長時代に第一回関西聯合蹴球大会が開催されたが去年来の怨敵京都に敗れ、又もや恨みを呑んで退場す。”

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1915(大正4)年度第2回関西聯合蹴球大会は第3学期に御影師範で開催され、1回戦対奈良師範2-0、2回戦対明星1-0、決勝対姫路師範1-0、で優勝し、

“之我が部が優勝旗を手にした最初のものであらう。”

と記されている。また、この年度中に京都遠征し、3連敗していた京都師範に初勝利している。御影師範は1915年ころから関西屈指の強豪サッカー・チームとして台頭したようだ。

第1回関西聯合蹴球大会は1914年11月22日京都師範で開催されたと、『大阪毎日新聞』記事にある。

『大阪毎日新聞』1914年11月23日付

“▲蹴球大会 近府県各師範学校アッソシエーション式蹴球大会は二十二日午前八時より京都府師範学校校庭に於て挙行したるが得点左の如し。

 ▲第一回 御影対京都(御影零、京都一)
 ▲第二回 滋賀対姫路(滋賀三、姫路一)
 ▲第三回 天神対京都(天神一、京都三)
 ▲第四回 滋賀対御影(滋賀零、御影四)
 ▲第五回 姫路対京都(姫路零、京都二)”

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「天神」は京都なら北野、大阪なら天満を意味するが、あるいは「天王寺師範」の誤記であろうか。第1回は師範学校のみの参加だったようだが、第2回には明星商業も参加しているので、中等学校の大会に拡大している。

1916(大正五)年度の第3回関西聯合蹴球大会は再び御影師範で開催され、決勝で後のライバル、神戸一中を破り、御影師範が連続優勝している。優勝旗は丸善が提供したようだ。師範学校、商業学校に加えて尋常中学の参加も確認できる。

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関西聯合蹴球大会は1917、1918年度の第4、5回大会まで、『兵庫県御影師範学校創立六十周年記念誌』に記述があり、第2回から第5回まで御影師範が4連覇している。

師範学校へのサッカー普及は関東の青山、豊島、埼玉、等の方が早いので、関東でも師範学校中心のサッカー大会が1918年以前に開催されていても不思議ではない。

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野球統制令新聞社陰謀説を裏付ける記事

1932年の野球統制令について、朝日、毎日の選手権、選抜大会は無傷で残り、両紙の全国制覇の邪魔になる地方紙主催の野球大会が全廃される不公平な結果となったことは、「中等学校に関する野球統制令 新聞社戦争としての野球統制令」にすでに記した。このことについて、広島の中国新聞社に属するペンネーム鯉城散史が『野球界』22巻6号1932年5月 p.172-175に「球界時評-野球浄化規定評 あけてくやしや玉手箱」という記事を寄稿しているので紹介したい。

球界時評-野球浄化規定評 
   あけてくやしや玉手箱
     中国新聞社 鯉城散史

 折角期待した野球統制案も、明けて口惜しや玉手箱。宛でいびつな目鼻がついてしまって、中学野球万能の関西地方では、頓と当惑して気抜けの態とある。もう少し何とかなりさうなものを、採長補短なんて文字は、唐人の寝言だとでも思ったか、短所弊害ばかりを目の上の瘤に、捏っちあげられたのが、この統制案だ。体育審議会とかの答申案を基礎に、わが野球界の大先達によって、色々討議されたらしいが、少く共関西斯界の事情に精通して、有力に代弁を勤める人物に乏しかったことは、我等関西人士として、遺憾至極な気がしてならない。野球といはず、さなきだに中央集権的なわが国だけに、我等は遅蒔きながら、関西野球界のモンロー主義を提唱するものだ。鳩山スポーツ文相なんかも、楽天的過ぎて苦労が足らないともいへよう。イソップ物語の中に、沢山の蛙が小池の中で愉快に遊んでゐると、悪戯っ児が頻りに石を投げるので、『君達には遊戯であることが、我等に取っては死だ』と、哀訴した話があるが、およそこの場合、哀れな無力な蛙を中学野球ばかりだと思ったら、それこそ飛んだ認識不足に過ぎない。実際我等としても、従来の中学野球界の無統制、無秩序、乱脈振は知り過ぎる程知ってゐたから、何とかした方がいいといふ意見だったので、今度の統制案なんかも、斯界の浄化廓清の意味で、寧ろ双手をあげて、大歓迎してゐた訳だが、なんのこっちゃい、野球統制といふドサクサ紛れに、全国各地の地方新聞の諸大会なんか、火事泥式に一遍に掻っ攫はれてしまったんだから、大抵のお人好しでも、カンカンになって、悲憤慷慨せざるを得んぢゃないか。

 勿論世の中のすべての物事に、裏の裏があることは、我等と雖も十分知ってゐるが、かうも巧みに権力を正義化されると、いい加減もう嫌になって来る。我等をして今度の中学野球統制案を、一言の下に批評させるなら、大毎、特に大朝を背景として作り上げられた反動的且つ官僚的、而も事大主義の権化ともいふべき、変態決議だとさへ喝破し得る。そのすべての条項なるものが偶然的の暗合か、それとも意識的な計画あってのことか、大朝の全国優勝大会、大毎の全国選抜大会に、何と都合よく出来上ってゐることよ。我等ヂャーナリズム界の二大潮流として、陰に陽に、大なる貢献をなし来った事実を、認識するのに決して吝かなるものではなく、単にこれだけのことなら、別に物いひなどつける邪心を持たない。併しながら野球統制の美名に隠れ、文部当局をさし挟んで、全く行き掛けの駄賃式に、地方新聞の諸大会を廃絶し、以て自社主催の大会のみによって、わが中等野球界を壟断せんとするが如き、時代錯誤の非違を抱くにおいては、断じてこれを黙過することが出来ない。我等は斯る推測をすることそれ自体さへが、不愉快千万な事柄に違ひないが、而も所謂大新聞なるものの、手を替え品を替えての地方新聞圧迫が、かくの如く清純明朗なるべきスポーツに関して迄、忌むべき魔の手を拡げつつあることを、現代ヂャーナリズム界の風潮より考察して、十分信じて差支へないことを悲しむものだ。我等のかうした推断や論旨には黒い眼で睨んで動かない根拠があるが、若しかうした非違を、文部当局が両大新聞に迎合する意味で、敢えてしたのだとすれば、我等は更に断々固としてこれが論難攻撃の火の手をあげねばならない。

 一昨年の春だったか、スポーツ界の某有力者が、偶々座談の席上で、我等に語って曰く、「大阪朝日なんて実際偉大な勢力を持ってゐるものですなあ。何でも今度は文部省を動かして、各府県毎に野球大会を行はせ、それを統制して従来の各地方予選に結びつける運動をしてゐるらしいですが、十分それが出来るといってましたよ」―このスポーツ界の某有力者や、大朝幹部の人名は、我等に累の及ばんことを恐れて、故意に茲では匿して置くが、「ハハア、朝日らしい大野望を抱いて、盛んに暗中飛躍やってるらしいな」と、当時の我等は雲煙過眼視してゐた所、それが何と今度の統制案では、美事に食ひ込んで、野望を逞うしてゐるではないか。即ち今夏の山陽予選なども、従来広島、山口、岡山の県下の二十数チームが、抽選で勝ち抜いた大会様式を、今度は根本的に変改して、各剣毎に第一次予選を行ひ、その優勝校にペナントを授けると共に、一県から二校宛(但し持ち廻りの主催地だけ四校)の代表チームを出て、第一次予選を八校で行って、その優勝校を甲子園に送ることになったらしいが、そこには幾多の矛盾があって、参加校自身の間にも、色々な非難や不服が早くも火の手をあげてゐる。そんなことは余談だからいいやうなものの、我等をして忌憚なくいはしめると、過去の山陽予選の唯一の特徴なる熱度といふものが、根本的に減殺され、広島の内相旗楯争奪選抜野球や、西日本選抜野球、長府の首相旗争奪選抜野球、倉敷や宇野の近県選抜野球など、ファン興味の焦点だった大会が廃絶されるだけに、ファンは益々あがったりの有様だ。

 我等は今茲で統制案の煩瑣な内容に立ち入って、一々これを解剖することをやめるが、唯地方大会の項に関しては、本文の大眼目として、是非共これを書かねばならない。即ち地方大会は関係府県の体育団体共同主催の下に、同一地方に関し年一回に限り、全国中等学校野球協会の公認を得て開催し得る―とあるが、更にその公認すべき場合の基準として、試合は休暇中に行はるること、全国的優勝大会と時期を同じうせざること、選抜の方法、大会の管理等適当なること、関係の府県団体において、参加校の出場に同意あること、こんな細則が加へられてゐるのだ。これでは仮令従来通り地方新聞の諸大会が開催され得るとしても、殆んど開催の余地のないことは、少し球界の事情に通じたものだったら、一目瞭然たるものがあるのだ。即ち休暇中の字句が祟って、冬休暇は勿論シーズンオフだし、春の休暇は大毎選抜野球を控へて、多分大阪時事の首相旗争奪野球が許されるのだらうし、錚々たる強チームは或はその方に出場し或は大毎選抜野球のため自重して出場せず、広島なんかで従来通り権威ある内相旗争奪野球でも開催しようとしたら、全然望みの綱が切れてゐる訳だ。夏休暇はといへば、七月下旬から八月三四日頃迄は、全国各地の予選で駄目だし、同月十二三日頃から少くとも十日間は全国優勝大会で駄目だし、結局残る時日は八月上旬の一週間ばかりと、同月下旬の十日間といふことになるが、およそかうした野球試合の食傷期に、大会の効果をあげんとするには寧ろ木によって魚を求むるにも等しく、我等としたら最初からそんな時期は放棄してしまふだらう。

 この点だけからいっても、大新聞の横車か、将又統制委員の阿諛迎合か、それとも両者の意気投合か、余りといへば傍若無人ではないか。抑々何が故に全国大会と地方大会とが、時期を同じうすることが出来ないのか。これ等から見ても、わが中学野球に貢献するもの、唯大新聞社だけの気構へが判るが、広島の内相旗争奪野球についていって見ても、大朝の山陽予選が、玉成混淆のチームを掻き集め、二十数試合中十四五回もコールド・ゲームを生ずるが如き興味散漫さに反して、いかに名実共に地方球界の精華と誇り、山陽幾十万ファンの熱狂と讃仰とを集めてゐるか、さうした人気や日頃の貢献からいへば、山陽地方だけにおいては、少く共大朝も我等の後塵を拝する状態ではないか。かうしたことは例へば名古屋の新愛知および名古屋新聞、朝鮮の京城日報、その他神戸新聞、福岡日日、大分新聞、徳島毎日、関門日日、中国民報、河北新報、北海タイムス、秋田魁新聞等、々、々全国各地に散在する有力新聞についてもいひ得ることであって、折角これ等の地方有力新聞が、幾多の歳月と苦心と、而して経費と努力を傾注し来った野球大会の伝統を、一朝にして廃絶の運命に陥れる理由、果して何れにありやと借門したいのだ。従って若し大新聞に全国大会を公認するならば、何が故に地方新聞の地方大会が公認出来ないのか。憐れむべき事大思想の錯誤、嗤ふにたえたりといふ外はない。

 勿論地方新聞の諸大会にも、随分いかがはしい幾多の朦朧大会が存在したことを否定はしない。併しさうした泡沫的なものを整理する巻き添えに、万人が認めて権威ある地方大会を迄、同様廃絶の悲運に陥れて顧みないなど、認識不足も甚だしいものではないか。入場料徴収に非難があれば、これが管理費途に府県体育団体を介在させ、中学チームの試合過多なれば全国大会を除く県外遠征五六回に制限とか、もう少し知恵袋の絞り方を知らないのか。而も我等の関知する限り、従来の諸大会でも、すべて学業に支障なきやう、日曜祭日等に行ひ来ったものだが、普通の野球大会なら今後はそれ等の日に許し、大会に限り今後は休暇中に行はしめんとする真意や、果していづこにあるのか、大毎選抜野球の如き、昨年でも四月の新学期が開かれたのに、平気で大会を続行し、夏の渡米見学にも七月七日頃から出発して、九月二十日過に帰朝するなど、その間殆んど三十数日にわたって、学業を放擲された訳だが、「但し地方の実情によりて、この期日に行ふことを得ざるものは、その実情につき中央団体の承認を得た上、他の日においてこれを行ふ」とする一項を、大新聞なりとて、よもや適用は出来兼ねるだらう。我等地方新聞に巣食ふものは、既得権擁護の猛運動を起し、あく迄目的貫徹に向って邁進することを誓っておかう。”

中国新聞社から見た野球統制令とは、

野球統制といふドサクサ紛れに、全国各地の地方新聞の諸大会なんか、火事泥式に一遍に掻っ攫はれてしまったんだから、大抵のお人好しでも、カンカンになって、悲憤慷慨せざるを得んぢゃないか。

我等をして今度の中学野球統制案を、一言の下に批評させるなら、大毎、特に大朝を背景として作り上げられた反動的且つ官僚的、而も事大主義の権化ともいふべき、変態決議だとさへ喝破し得る。そのすべての条項なるものが偶然的の暗合か、それとも意識的な計画あってのことか、大朝の全国優勝大会、大毎の全国選抜大会に、何と都合よく出来上ってゐることよ。

併しながら野球統制の美名に隠れ、文部当局をさし挟んで、全く行き掛けの駄賃式に、地方新聞の諸大会を廃絶し、以て自社主催の大会のみによって、わが中等野球界を壟断せんとするが如き、時代錯誤の非違を抱くにおいては、断じてこれを黙過することが出来ない。

而も所謂大新聞なるものの、手を替え品を替えての地方新聞圧迫が、かくの如く清純明朗なるべきスポーツに関して迄、忌むべき魔の手を拡げつつあることを、現代ヂャーナリズム界の風潮より考察して、十分信じて差支へないことを悲しむものだ。

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1964年東京オリンピック各競技の強化策をまとめた資料

『東京オリンピック選手強化対策本部報告書』(日本体育協会, 1965)

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「蹴球」はpp.298-310

Ⅰ. 総括(野津謙)
Ⅱ. 強化の記録(竹腰重丸)
   [1] 強化目標
    (1) 年度別強化計画のねらい
     ① 1960年度(大きなイメージを)
     ② 1961年度(徹底的に、基礎技能からやり直す)
     ③ 1962年度(さらに一段の基礎固めを)
     ④ 1963年度(より多い試合体験を)
     ⑤ 1964年度(本格的チームづくり=長期合宿と遠征)
    (2) 強化対象選手
   [2] 強化の施策
    (1) コーチ制度
     ① コーチ名簿
    (2) 国際交流
     ① 年度別コーチ交流の実績と評価
      A 招へい
      B 国外派遣
Ⅲ. 反省と将来の問題(竹腰重丸)
   [1] 反省
    (1) 強化5ヵ年の総括的反省
   [2] 将来の問題


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『野球界』v.9 1919~v.20 1930収載サッカー記事索引

「御影師範大会」 v.9 no.3 1919.2 p.85

竹內廣三郞 ​「アツソシエーシヨン蹴球に就いて」 v.9 no.12 1919.10 p.27-29

ウィリアム・フェーゲン「ア式蹴球講話(三)」 v.12 no.1 1922.1 p.43-44

新田純興(帝国大学蹴球部選手)「蹴球片語」 v.12 no.3 1922.2 p.58-60

峰岸春雄(東京タイガース)「日本蹴球界総まくり(一)」 v.12 .no.3 1922.2 p.113-114, 116

城戸生(御影師範学校)「関西蹴球界のために」 v.12 .no.3 1922.2 p.115-116

峰岸春雄(東京タイガース)「日本蹴球界総まくり(二)」 v.12 .no.4 1922.3 p.32-33

新田純興(帝大蹴球部)「一九二一年国際ア式蹴球戦」 v.12 no.4 1922.3 p.68

名古屋支局「全国蹴球大会記」 v.12 no.4 1922.3 p.80

ウィリアム・フェーゲン(東京タイガース)「ア式蹴球講話(四)」 v12 o.5 1922.4 p.60-61

原島好文(東京蹴球団幹事)「関東蹴球大会記」 v12 o.5 1922.4 p.108-116

新田純興(帝国大学蹴球部選手)「フェーゲン君に答を求む」 v.12 no.6 1922.5 p.36-37

井染道夫(東京蹴球団幹事)「蹴球界に寄す(一)」 v12 no.8 1922.6 p.8-10

井染道夫「本年度最初の蹴球国際試合」 v12 no.8 1922.6 p.114-115

井染生(東京蹴球団幹事)「東海蹴球大会」 v12 no.8 1922.6 p.116-117

井染道夫(大日本東京蹴球団幹事)「蹴球界に寄す(二)」 v12 no.9 1922.7 p.18-20

ウィリアム・フェーゲン(東京タイガース)「ア式蹴球講話(五)」 v12 no.9 1922.7 p. 72-73

「慶應ア式蹴球部の活躍」 v12 no.9 1922.7 p.20

ウィリアム・フェーゲン(東京タイガース)「新田君の質問に就て」 v.12 no..11 1922.8 p.52-53

ウィリアム・フェーゲン(東京タイガース)「蹴球協会と台覧試合」 v.12 no..11 1922.8 p.132-133

井染道夫(大日本東京蹴球団幹事)「蹴球界に寄す(三)」 v12 no.12 1922.9 p.11-12

ウィリアム・フェーゲン(東京タイガース)「ア式蹴球家と暑中休暇中の心得」 v12 no.12 1922.9 p.13

ウィリアム・フェーゲン(東京タイガース)「ア式蹴球銀盃戦関東予選に就て」 v12 no.15 1922.12 p.95

好文生「東京蹴球団合宿練習の記」 v12 no.15 1922.12 p.144-145

ウィリアム・フェーゲン(東京タイガース)「ア式蹴球銀盃戦関東予選に就て(二)」 v13 no.3 1923.2 p.10-11

井染道夫「蹴球選手の御幣かつぎ」 v13 no.3 1923.2 p.27

「小学ア式蹴球争覇戦」 v13 no.3 1923.2 p.57

寂庵生「第二回全国蹴球選手権大会を終へて」 v13 no.3 1923.2 p.119 

TK生「蹴球争覇戦余談」 v13 no.3 1923.2 p.120-121

井染道夫「全国高等学校蹴球大会記」 v13 no.3 1923.2 p.152-153

石田鉄一郎(名古屋蹴球団員)「電球に和す蹴球戦」 v.13 no.4 1923.3 p.100-101, 114

T.K.生「チャレンヂ戦記」 v.13 no.4 1923.3 p.102-103

寂庵生「蹴球チャレンヂを視る」 v.13 no.4 1923.3 p.103

井染道夫「東京蹴球団主催第六回関東蹴球大会記」 v13 no.5 1923.4 p.117-124

井染道夫「ア式蹴球リーグ戦に就いて」 v13 no.5 1923.4 p.124

K・I生「中学ア式蹴球界」 v.13 no.6 1923.5 p.48 

ウィリアム・フェーゲン(東京タイガース)「ア式蹴球講話」 v.13 no.10 1923.8 p.48-51

井染道夫「アソシエーションフットボールの見方(一)」 v13 no.14 1923.11 p.44-46

井染道夫「ア式蹴球講話(三)」 v.14 no.3 1924.2 p.46-49

「東京蹴球団主催ウィリアム・ヘーク氏追悼蹴球大会」 v.14 no.3 1924.2 p.151-152

井染生「第一回全国インターカレヂエート大学専門高等学校ア式蹴球大会」 v.14 no.3 1924.2 p.152-153

K生「ア式蹴球関西予選を見て」 v.14 no.4 1924.3 p.70-71

K生「全日本ア式蹴球選手権大会各代表チームの決する迄」 v.14 no.4 1924.3 p.72-74

井染道夫「ア式蹴球の見方(三)」 v.14 no.4 1924.3 p.86-88

「ア式蹴球大戦小戦」 v.14 no.4 1924.3 p.121 

井染道夫「ア式蹴球の見方(完)」 v.14 no.6 1924.5 p.46-48

一記者「少年蹴球大会」 v.14 no.9 1924.7 p.82-83

「オリンピック大会 廿二箇国も参加のア式蹴球」 v.14 no.9 1924.7 p.129

生野閑人「大阪府立生野中学校蹴球部評判記」 v.14 no.13 1924.10 p.39

「神宮競技観戦記 ア式蹴球」 v14 no.15 1924.12 p.153-155

一記者「第二回全国大学専門学校ア式蹴球大会記」 v.15 no.3 1925.2 p.126-127

「早高対一高ア式蹴球戦」 v.15 no.3 1925.2 p.145 

「ア式蹴球戦」 v.15 no.4 1925.3 p.123-124

井染生「今冬ア式蹴球界回顧」 v.15 no.5 1925.4 p.46-47

ミチヲ生「名古屋地方に於ける蹴球籃球界」 v.15 no.8 1925.6 p.23

「極東大会フットボール(ア式)」 v.15 no.9 1925.7 p.71

チャーリー・ロバーツ「フットボールの新練習法」 v.15 no.14 1925.11 p.62
 
「明治神宮競技総まくり ア式蹴球」 v.15 no.15 1925.12 p.149

ジェー・エー・エッチ・カントン(述)、巣鴨山人(訳)「蹴球界の大問題は何ぞや 取るにも足らぬ問題の流行する世なる哉」 v.16 no.3 1926.2 p.92-94

広瀬謙三(時事新報記者)「今冬ア式蹴球界総まくり」 v.16 no.5 1926.4 p.32-33

「明治神宮大会記 ア式蹴球」 v.16 no.14 1926.12 p.99

「明治神宮大会記 ア式蹴球」 v.17 no.14 1927.12 p.131

松平照男「ア式蹴球王国東京帝大の連勝 対早大戦三対一の記録を中心として」 v.19 no.3 1929.2 p.120-121

藤原京之助「奉天東北大学ア式蹴球戦評」 v.19 no.4 1929.3 p.132-135

佐野二郎「ア式蹴球昨シーズンの総評」 v.19 no.5 1929.4 p.87-89

「東京中学ア式リーグ日割」 v.19 no.8 1929.6 p.12

佐野二郎「ア式蹴球界総展望」 v.20 no.4 1930.3 p.82-83

鯉城散史(中国新聞社)「球界時評-野球浄化規定評 あけてくやしや玉手箱」 v.22 no.6 1932.5 p.172-175

「運動雑誌往来・バックネット裏の新聞記者展望」 v.24 no.10 1934.8 p.180-183

太田襄「新聞社スポーツ戦線展望」 v.24 no.12 1934.10 p.174-176

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総合スポーツ誌だった『野球界』

『運動界』(1920年創刊)、『アスレチックス』(1922年創刊)、『体育と競技』(1922年創刊)、『アサヒスポーツ』(1923年創刊)と、1920年代前半は総合スポーツ誌の創刊ラッシュだった。では、それまで総合スポーツ誌がなかったかというと、そうではなく、1911年創刊の老舗野球誌『野球界』が、野球に限らず、総合スポーツ誌的な役割を果たしていた。同誌の版元野球界社は明治のガリバー出版社博文館と同住所であり、実質博文館の発行する、影響力のある雑誌だった。

上記スポーツ誌創刊前の1919年4月号(9巻4号)の目次は、

Yakyukai9519194

野球記事が多いのは当然ながら、「ボートの歌」、「ラグビー式蹴球の見方」、「今春の競漕界」、「今春の帝都庭球界」もあって、ラグビー、ボート、テニスの記事も掲載している。当然ながら、サッカー関係記事も多数あるので、記事索引を作成中である。



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1966年日本蹴球協会には女性登録者がいた

1966(昭和41)年日本体育協会はスポーツ人口調査を実施した。

『スポーツ人口調査』(日本体育協会)の競技別統計表(一般)(p.11)の「蹴球」は、

男:25才以下:13516、26~30才:5131、31~35才:1949、36~40才:704、41~45才:323、46~50才:227、51才以上:232、計:22082
女:25才以下:1、計:1

Supojin

同競技別都道府県別表「蹴球」(p.25)によれば、その女性登録者は「山口県」にいたことになっている。

Supojin2

いったい、誰だったのだろうか。

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 その他 ③ クラブ・リーグ戦の開始

関東蹴球協会では、クラブ、実業団のリーグ戦は同時に計画された。

『東京朝日新聞』1936年11月3日付

“蹴球倶楽部リーグ戦を

 我が蹴球界の飛躍を目指す関東蹴球協会は二日午後六時半から協会事務所で理事会を開催、学生チームの充実と相俟って倶楽部チームの実力向上に意を注ぐ事を決議。これが実現を期して先づ従来試合に恵まれなかった倶楽部チームにその機会を与へるべく倶楽部リーグ戦を開催、同時に従来大会開催にのみ留って居た実業団蹴球界にも可及的速かにリーグ戦を設定する事となった。尚関東蹴球協会常例理事会は毎月第一火曜日に開く事に変更した。”

実業団リーグは1936年暮れに発足したが、クラブ・リーグは翌年に持ち越された。

“蹴球倶楽部連盟
   リーグ戦二組

 関東蹴球協会が肝煎りで倶楽部蹴球連盟結成の段取となった事は既報の如くであるが、十九日午後七時から協会事務所に協会側は、本多、清水、小野、小長谷の四理事、倶楽部側YCAC(エー・ジー・ステヴンス)、アラン会(三宅)、東京蹴球団(山口)、豊島サッカー倶楽部(尾佐竹、須貝)、アストラ倶楽部(吉原)の五倶楽部代表が会合の上、関東倶楽部蹴球連盟結成を申合せ、来る二十三日選手の登録、組合せ、その他を決定する。

 他に埼玉蹴球団の参加も予想されてゐる。尚リーグ戦は加盟倶楽部を二組に分ち、それぞれ優勝倶楽部を決定し、改めて決勝戦を行ふ筈である。”

『東京朝日新聞』1937年2月24日付

“関東倶楽部蹴球戦
   十四日から試合開始

 関東蹴球協会の肝煎りで結成が急がれつつあった関東倶楽部蹴球連盟は二十三日午後七時から協会事務所に各倶楽部の代表が参集の上協議を進めた結果予期通り順調に進み、

 東京倶楽部、東京蹴球団、オールブラックス、豊島サッカー倶楽部、アラン会、アストラ倶楽部、YCAC

の七チームを以て発会式を挙げ、来る十四日から左の如き日割を以てリーグ戦を行ふ事になった。尚アストラ、YCACは選手の都合で本シーズン試合は放棄するが(以下略)”

日中戦争中にもかかわらず、参加チームは増え続け、1939年にはA、B2組に分けてリーグ戦が行われた。

『東京朝日新聞』1938年12月29日付

“関東倶楽部蹴球参加チーム

 関東蹴球協会主催第三回関東倶楽部蹴球リーグ戦は明春一月十五日から約一月半に亘り行はれるが、今回は参加チーム激増の為全チームを抽籤に依りA、B両組に分け、各組の優勝チームを以て決勝戦を行ふ。参加チーム左の通り。

【A組】 東京蹴球団、Y・K・T(武蔵高倶)、K・F・S・E(慶医OB)、アストラ、青蹴会(青学中等部OB)、Y・C・A・C
【B組】 オール・ブラックス、成城蹴球倶楽部、アラン会、埼玉蹴球団、豊島サッカー、国際学友会、M・T・R(東高OB)” 

さらに、1939-40年シーズンにはA,B、C3組になる盛況だった。

『東京朝日新聞』1939年11月11日付

“蹴球倶楽部の蹴球戦組分け

 関東蹴球倶楽部リーグは来る十九日を第一日として明春二月下旬に至る長期間に亙って各組毎にリーグ戦を行ひ、その優勝チームにより改めて決勝リーグ戦を行ふが、組分けは抽籤の結果左の如し。

【A】 YCAC、埼玉蹴球団、豊島サッカー倶、国際学友会、 東京倶楽部 
【B】 三菱倶楽部、オールブラックス、成城倶、アストラ倶、青蹴会
【C】 FSB、アラン会、綱町倶、東京蹴球団、YKT”

太平洋戦争中もクラブ・リーグは続行していたようで、以下の記事がある。さすがに参加チーム数は減少している。

『東京朝日新聞』1942年12月20日付

“倶楽部蹴球の試合方法決る

 関東倶楽部蹴球連盟では、十九日代表委員会を開き、明年度試合方法は紅、白両組それぞれリーグ戦を行ひ、両組の勝者間で優勝決定戦を行ふこととし、期日は一月より五月までと限定した。なほ、紅白の区分は左の通り。

△紅組 暁星、東蹴、埼蹴、豊島、駿台、綱町、稲門
△白組 成城、湘南、青山、向蹴会、法友、東倶

 なほ大日本体育会蹴球部関東支部の十二月下旬執行予定の関東府県対抗中等学校蹴球大会は都合により一時延期と決定した。” 

各年度リーグ戦の結果については、「戦前の関東倶楽部蹴球リーグ戦結果」を参照されたい。結果の要約は以下の通り。

第1回1937年3~4月 優勝:東京倶楽部
第2回1937年11月~1938年3月 優勝:YCAC
第3回1939年1月~3月 優勝:埼玉蹴球団
第4回1939年11月~1940年2月 優勝:東京倶楽部
第5回1940年11月(?)~1941年3月(3月の試合はディビジョン昇降のための順位決定戦) 優勝:東京倶楽部

東京倶楽部は代表クラスのみを集めたオールスター・チームで、東京六大学の主将クラスを集めた同名の都市対抗野球の東京倶楽部に先例があった。外国人クラブのYCAC、戦後の国体サッカーの強豪埼玉教員の前身、埼玉蹴球団も優勝している。

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 その他 ② 実業団リーグ戦の開始

関東蹴球協会主催のトーナメント戦、関東実業団蹴球大会は1932年に第1回が開催、1941年第10回まで続いた。→「戦前の関東実業団蹴球大会(関東蹴球協会主催)結果

ベルリン・オリンピック後の1936年11月、関東蹴球協会はクラブチーム、実業団チームの試合機会を増やすため、倶楽部リーグ、実業団リーグを設定することとした。

『東京朝日新聞』1936年11月3日付

蹴球倶楽部リーグ戦を

 我が蹴球界の飛躍を目指す関東蹴球協会は二日午後六時半から協会事務所で理事会を開催、学生チームの充実と相俟って倶楽部チームの実力向上に意を注ぐ事を決議。これが実現を期して先づ従来試合に恵まれなかった倶楽部チームにその機会を与へるべく倶楽部リーグ戦を開催、同時に従来大会開催にのみ留って居た実業団蹴球界にも可及的速かにリーグ戦を設定する事となった。尚関東蹴球協会常例理事会は毎月第一火曜日に開く事に変更した。”

東京実業団蹴球リーグが1936年12月に発足した。

『東京朝日新聞』1936年11月26日付

東京実業団蹴球リーグ

 関東蹴球協会の肝煎りで東京実業団蹴球リーグが結成され、愈来る十二月六日からリーグ戦が開始されることになった。加盟十三チームを三クラスに分ち、首位三チームを以て改めて決勝リーグ戦を行ふが第一次リーグ戦は左の如し。
◇十二月六日 東京火災対日本鋼管(A)日本徴兵対慶応病院(A)東京ガス対航研(B)航技対第一生命(B)浅野対興銀
◇十三日 東京火災対慶応病院(A)日本徴兵対三共(A)マツダ対浅野(A)
◇二十日 日本鋼管対三共(A)東京ガス対第一生命(B)航研対航技(B)マツダ対興銀(C)
◇二十五日 東京ガス対航技(B)マツダ対千代田(C)
◇一月九日 千代田対浅野(C)
◇十日 日本徴兵対東京火災(A)慶応病院対日本鋼管(A)第一生命対航研(B)
◇十七日 日本鋼管対日本徴兵(A)慶応病院対三共(A)
◇二十三日 千代田対興銀(C)
◇二十四日 東京火災対三共(A)” 

日中戦争の泥沼化にもかかわらず、関東実業団蹴球連盟加盟チームは1936年の13チームから1941年には36チームに増加、6部制となる。

“実業団蹴球の加盟チーム

関東実業団蹴球連盟では十六日午後六時から本社会議室で春季総会を開き左記のとほり決定、十七日発表した。

△シーズンを四月末から十月までとす△チームの都合による延期は一回だけ認め、二回延期する場合は棄権と見なす△日立亀戸、桜星倶、東京海上火災、横川電機、三菱倶(横浜ドック)の加盟を承認、更に中島、太田は全試合を東京で行ひ得る場合に加盟承認すること

右の結果加盟チームは三十六チームに達したので各部を従来の五チームから六チームにとして一部から六部まで左のごとく決定した。なほスケジュールは近日決定する。

◇第一部-第一生命、日本鋼管、マツダ、日本光学、千代田生命、朝日東京本社◇第二部-東京火災、興銀、東京ガス、日本銀行、日本徴兵、三共◇第三部-明菓、新潟鉄工所、航技倶、東京計器、日立亀有、浅野セメント◇第四部-石川島造船、北辰電機、日立本社、勧銀、日本曹達、古河電工◇第五部-日清生命、中島飛行機、日本油脂、立川飛行機、日鉱、日本水産◇第六部-日立亀戸、桜星倶、東京海上、横川電機、三菱倶、中島太田”

群馬県の中島太田まで新規加入している。下部にいる新規参入組では、戦争中で景気の良かった軍需関係企業が目立つ。

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1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 その他 ① 6人制サッカー

1937年2月27日、3月1日理事会決定の総合強化策以外にも、ベルリン・オリンピック後、1940年東京オリンピック準備期間中に新たな取り組みがあった。それらは関東蹴球協会が実施した、地域的に限定されたものであったが、ベルリン・オリンピック代表がほとんど関東選抜であったように、「日本協会=関東協会」という面もあったので、これらにも注目する必要がある。

その他 ① 6人制サッカー

6人制サッカーは、現在のミニ・サッカーと同様、1人あたりのボール・タッチ数を増やして個人技の向上を図るのが主目的であった。関東蹴球協会主催、東京朝日新聞後援で第1回関東六人制蹴球選手権大会は、1937年5月30日~6月13日に27チームが参加して開催、早大Aチームが優勝した。機関誌『蹴球』5巻2号(1937年7月)に「六人制の効果-関東大会評(小野卓爾)」 p.45-47 という記事が掲載されている。その末尾は、

“六人制蹴球に対して次の様な成果を期待している。

(イ) 個人技の拡充、急速なテンポに適応する個人技の調和点の上昇
(ロ) 正確なパスワーク。ポジションの対位、瞥見、予見の能力の進展
(ハ) 耐久力の養成。死点の遅来とその消散の遅速
(ニ) 消極的には対照に於正規の蹴球に於ける場合の欠陥の暴露”

と結ばれている。東京朝日新聞は1937年6月15日~17日に3回にわたる「6人制蹴球座談会」を掲載している。出席者は、【関東協会】朝生要人、小長谷亮策、小野卓爾、竹内悌三、乗富丈夫、本多秀治、工藤孝一、福田剛一【プレイヤー代表】竹腰重丸【本社側】山田、三宅、大橋 であった。それぞれの見出しは「重点は正確なパス」「誤魔化しが利かぬ」「認められた効果 だが野望が足りぬ」であった。

第2回は1938年4月26日~5月1日に開催された。大会の目的を明確化するために3部制とし、第1部:大学・高専・倶楽部、第2部:実業団、第3部:中等学校とし、それぞれ20、9、12チーム、合計41チームが参加した。優勝は、第1部:早大A、第2部:第一生命、第3部:豊島師範、であった。機関誌『蹴球』6巻1号(1938年6月)に「関東六人制大会」 p.21-22 が掲載されている。

第3回は1939年4月23日~30日に、第1部26チーム、第2部11チーム、第3部12チーム、合計49チームが参加して開催され、第1部:東大OB、第2部:慶應病院、第3部:豊島師範、が優勝した。機関誌『蹴球』に記事は見当たらない。

第4回は1940年4月7日~21日に、第1部20チーム、第2部14チーム、第3部14チーム、合計48チームが参加して開催され、第1部:東京倶楽部、第2部:千代田生命A、第3部:青山師範A、が優勝した。東京倶楽部の決勝出場メンバーは、GK:中垣内、BK:立原、竹内、FW:高山英、川本、加茂、と全員日本代表経験者であった。機関誌『蹴球』に記事は見当たらない。

第5回は1941年5月10日~6月1日に、第1部29チーム、第2部15チーム、第3部14チーム、合計58チームが参加して開催され、第1部:明大A、第2部:第一生命A、第3部:青山師範武組、が優勝した。機関誌『蹴球』に記事は見当たらない。

太平洋戦争開始後の1942年にも第6回が開催されている。1942年8月1日~3日に、第1部8チーム、第2部11チーム、第3部12チーム、合計31チームが参加して開催され、第1部:早大WMW、第2部:千代田生命A、第3部:豊島師範龍組、が優勝した。この第6回を最後に、関東六人制蹴球選手権大会は終了した。


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『アスレチックス』誌のメダル・カップ広告

大正年間における中・高等教育の拡大、鉄道網の発達、新聞社の成長はスポーツ発展のインフラとなり、さまざまのスポーツ・イベントが開催された。その結果、参加賞、優秀選手、優勝メダル・カップ類に対する需要が生まれた。大日本体育協会(体協)機関誌『アスレチックス』2巻7号1923年7月には、以下のメダル・カップ広告が掲載されている。

Medal1

Medal2

Medl3

Medal4

これは伝統的な作品だけでは飯が食えない工芸作家にとって、「新天地」の分野であり、目端の利く人はいちはやくこの方面に進出したようだ。後にJFAの八咫烏のエンブレムを制作することになる日奈子実三もその1人。東京美術学校彫刻科で朝倉文夫に師事した彫刻家だった日奈子は1918年同校を首席で卒業、1925年師朝倉と決別し、翌1926年には構造社を設立、日米対抗水上競技大会メダルを制作してこの分野に進出した。

→「日本サッカー協会のエンブレムと日名子実三


 

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1923年ミカド商会のサッカー・ボール広告

Mikado

『アスレチックス』2巻7号 1923年7月 掲載


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1922年美満津商店のサッカー・ボール広告

Mimatsu

『アスレチックス』1巻5号 1922年8月 掲載


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函館朝獲れイカは不発の記 ③ 太平洋フェリー「きたかみ」乗船記

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ルートインの朝食バイキング。

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18切符で長万部行きに乗車。

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新幹線新駅は函館駅とかなり離れている。

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大沼付近。

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窓が開くので風を入れる。

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快晴で駒ヶ岳もくっきり。

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森駅で30分近く停車。

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跨線橋から駒ヶ岳を背景に。

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潮風が入ってくる。

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次の東室蘭行きまで2時間近くあるので、長万部駅でいったん下車。

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海岸に行くとすごい強風。

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北寄貝らしき貝殻があるだけ。

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かにめしの金谷もあるが。

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そばの合田で。

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ざるそば570円。

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東室蘭行きに乗車。

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東室蘭でも30分ほど待ち。長大な貨物列車。

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元ガンバの稲本がポスターに。

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東室蘭から先は電化されてるが、またもや気動車。

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窓が汚いので写りが悪いが社台ファーム。

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北海道らしい牧草ロール。

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苫小牧に到着、フェリー・ターミナルへ。「きたかみ」。

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「さんふらわあさっぽろ」。

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「シルバープリンセス」が三役揃い踏み。

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フェリー・ターミナルのレストランで「きたかみ」を眺めながらほっきカレー(950円)。

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特等ツイン。

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豹の絵がかけてあった。

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バスタブはシティ・ホテル並み。先代「いしかり」、「きそ」もこうだったのに・・・

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トイレはシャワー・トイレ。

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コーヒー・スタンド。

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レストラン入口。

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インフォメーション。

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バーの名残。昔はここでカクテルなんかが飲めた。

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プロムナード。

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階段。

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ミニ・シアター。

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大浴場入口。

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脱衣室。

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フォワード・ラウンジとそこからの船首の眺め。

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売店。この他のパブリック・スペースとしてショー・ラウンジがあるはずだが、撮るの忘れたw

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売店で購入した酒とつまみは冷蔵庫へ。

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BSで阪神戦をやってて、藤浪が3安打完封、9対0で完勝したので、ショーは観ず。

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4:00頃、三陸魹ヶ埼沖あたりでイカ漁船。恨めしや~

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クルーズ・パックという朝食付きプラン。

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金華山。高校の修学旅行で女川から上陸した。関西の高校生(それも男子校)が修学旅行に行くところではない!

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到着前にコーヒー・スタンドでコーヒーを。

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なぜか仙台港に「ぱしふぃっくびいなす」が。

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定刻少し前に到着。

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雨が降ってるのでタクシーで多賀城駅へ(990円)。

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仙石線の車両はクロス・ロングシート転換可能。初めて乗車。

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「こまち」で帰京。

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