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1950年代田辺製薬の経営危機とお家騒動

田辺製薬は全日本実業団サッカー大会を1950年~1955年に6連覇、1957年にも優勝し、1950年代に7回も優勝、日本代表の主力を形成していた。選手として鴘田正憲賀川太郎の両氏、そして社長だった田辺五兵衛氏、五兵衛氏の「サッカー人事」で入社し、常務を務めた手島志郎氏が日本サッカー殿堂に掲額されている。

そのまま経営が順調であれば、1964年東京オリンピック代表の主力も田辺製薬だったであろうが、1954年に増資、2割配当、賃上げしたあげく無配に転落という乱脈経営で経営危機に陥り、サッカーも新人補強できずに衰退してゆく。田辺製薬の経営危機は、日本サッカー史にも影響したと考えられるので、関連文献を紹介したい。三鬼陽之助「御曹子社長の放漫経営 田辺五兵衛・田辺製薬会長」 も同主題を扱っている。

経営評論誌『財界』の1959年2月号。この時点で田辺は経営危機を脱しており、田辺五兵衛氏は代表権を返上していた。このため、田辺が社会的に指弾された、後年のスモン薬害事件には無関係でいることができたわけで、人生何が幸いするかわからない。篠島秀雄氏の田辺製薬入・退社のいきさつも興味深い。田辺五兵衛氏の「サッカー人事」が経営破たんをもたらしたのではなく、田辺ではとても採用できないようなとてつもない人材を釣り上げていたのだった。むしろ、そうした人材を活用できなかったのが、田辺五兵衛氏の悲劇だったようである。

水木秀「名門・田辺製薬はこうして立直った」『財界』7巻2号(1959年2月) pp.56-58

名門田辺製薬はこうして立直った

代表権のなくなった五兵衛社長

 代表権のない社長が現われた。代表権は専務にだけあるのである。しかもそれが、二百五十年連綿と続いた田辺製薬で行われたのだから財界の注目を集めたのも無理はない。その真相をたずねて、世に数多い世襲社長の他山の石としたい。

 大阪の道修町(どしょうまち)は、いわずとしれた古くからの薬屋の町である。船場の糸へん問屋が軒並み衰えてゆく中にあって、この町はいわゆる「のれん」を守り抜いてきた町として、大阪でも特異部落に属している。

 道修町に君臨する薬屋として、武田、塩野義、田辺の三社があり、通称道修町の御三家といわれている。しかし御三家と一口にいわれるが、その内容には相当の隔りがある。昨年九月期(田辺は十月決算)の売上高をみると、武田百八億円、塩野義五十二億円、田辺十九億円となっており、この額からみると、塩野義は武田の五割、田辺は武田の二割という比率になり、格段の差があることがわかる。

しかし第三者は、田辺がよくもここまで回復し、とにも角にも、御三家の一隅を維持していることに、同情と賞賛の言葉を述べている。何故か。こうした言葉の裏に代表権を辞任しなければならなかった田辺製薬社長田辺五兵衛氏の経営者失格の原因が流れているのである。

 田辺五兵衛氏が先代のあとをつぎ、十四代社長に就任したのは昭和十六年であった。

 彼は船場育ちの「ぼんぼん」ではあるが、大阪商大を出たインテリであり、現在五十歳という男盛りなのである。齢でいえばこれからの人である。

 五兵衛氏の意図

 五兵衛氏は、封建的な道修町問屋の一つであった田辺製薬の近代化に一つの構想を持っていた。それは学校出身者の採用による学問智識の導入であり、逆にいえば番頭政治の追放であった。また副社長当時、先代五兵衛社長の反対を押し切って大福帳を改め、複式簿記による計算組織を確立したことなどは、それが戦時中という時代からみれば当然のこととはいえ、その近代構想の一端であったといえよう。学校出身者としては大阪商大の関係者を引き入れたが、これによって現在専務の平林忠雄氏、常務の黒山貞雄氏が入り、また、学生時代以来のサッカーマンとしての関係から現在常務の手島志郎氏(東大出身)が入ったのである。

 しかし、これが本心からの近代化構想であったのかどうか、極めて疑わしいことが、後になって漸次はっきりしてきた。それは、この近代化に五兵衛氏のブレーンとして腕をふるった専務篠原(ママ)秀雄氏を戦争末期クビにし、再び番頭政治に逆行したことが第一の現象であった。

 篠島氏は三菱鉱業に勤務していたが、サッカーの関係から五兵衛氏に請われて田辺に入ったし、大学生の採用に当っても、五兵衛氏の相談役となって、人事の強化に努力した人である。ところが篠島氏に社内の人望が集まるとともに、五兵衛氏は身の危険を感じはじめた。そして追しょう組が輪をかけて御注進に及ぶにおよんで、五兵衛氏は、ばっさりと篠島氏のクビを切ったのである。篠島氏はそのため、三菱化成に平社員として入り、勤労部長から取締役、常務、さらに最近では専務に就任したが、このことは立派な力量を持っていることを示している。

 この事件によって、五兵衛氏の近代化構想なるものは、側近固めが目的であったのか、と噂されるようになった。つまり、三十を越したところで、古いのれんを継ぐべき地位にあった彼としては、力のある番頭勢力に対抗する意味での学生登用であり、五兵衛勢力の養成であったのではないかと、みられたわけである。

 「お家を守れ」これが五兵衛氏の頭を常に支配していたと事情通はいう。実際問題として、五兵衛氏は二百五十年も続いた田辺製薬を、自分の代で人に乗っとられることがあっては、先祖に対して申訳がないと思ったであろうし、一面そういう環境の人が、そう思うのは無理からぬ点もある。とくに、戦後のように、激しい民主主義旋風が吹きまくるような時代にあっては、尚更であろう。

 それが、インテリという共通の場を変えて、番頭という家族的な場に乗りかえる根本的な動機となったようである。

 ところが、インテリであろうと、番頭であろうと、サラリーマンとしての本質に変りがない以上、依然として「お家大事」の思想を求めるのは無理であった。第一に時代が変わっているのであり、とくに田辺の場合は、一度冷飯を喰わされた番頭たちだけに、「わが身かわいさ」の考えが強く表面に出た。これは全く五兵衛氏の思惑はずれであった。

 戦前の学士登用で、当時の番頭は、住みなれた田辺の店をかなり去っていった。従って再び脚光を浴びた番頭たちは、このチャンスを永遠に放したくはなかった。しかも、当時は米さえ満足に得られない混乱時代であった。全ては統制であり、五百円限りの新円生活であった。従って主導権を握った人の多くは、その地位を利用して、ヤミ経済の中で私腹をこやしていったのである。

 しかし、こうした上の方だけでいい目をみることを社内は黙って見逃すものではない。昔の「お店」ならともかく、当時はうぶ声をあげた労働組合という新しいお目付け役が気勢をあげてきたところである。田辺の労組はこの点を指摘し、首脳者の責任を追及、ついに版当政治は組閣以来一年有余年で倒閣してしまった。同時に田辺製薬は、戦後の第一次危機に陥ったのである。

 「五円のゴエン」

 このころから、現専務平林忠雄氏の活躍が始まる。平林氏は大阪商大で五兵衛氏と同級生であるが、五兵衛氏と違って苦学生であった。彼は一度、五円を五兵衛氏から借りたことがあった。ところが、これを返却したことが五兵衛氏の記憶に強く残っていたようである。五兵衛氏は何分のお金持であり、友人に金を貸しても、めったに反してくれるのはいなかったためであろう。そのために五兵衛氏の学士登用政策の際に平林氏の名前が思い出されたというのだから、まさしくこの五円は「ゴエン」があったということになる。

 平林氏は、五兵衛氏が最初番頭排撃政策をとった時、断乎としてこれに反対した。これには五兵衛氏が一番びっくりしたらしい。戦後、番頭政治が復活した時、会社の新しい組織、組織の立案を行ったが、これは番頭が平林氏の考え方と力量を信頼したためである。そして番頭政治が崩れた時、いわゆる戦後の第一次の危機に、この打開策の立案を依頼されたのもまた平林氏であった。

 何といっても、五兵衛氏に対する不信が、社内に深まったのが最大の難点であった。誰を再建の中心人物にするか。もにもんだ結果、高田氏を専務とし、平林氏は副総理格として再建に乗り出したが、業績の立ち直りとともに、またも五兵衛氏は「お家思想」を発揮し出した。その結果、二十八年から二十九年にかけて、田辺製薬は倒産寸前にまで追い込まれてしまったのである。

 約二億五千万円の決算資金のメドが全くつかなく、不渡り寸前にまでなってしまった。平林氏は詳細な再建策を作成して、主力銀行である三和銀行に日参した。名門田辺製薬が「のれん」をおろさねばならないかどうかの瀬戸際である。三和としても、これをどう処理するかに随分悩んだ。腐っても鯛であるとはいえ、十年以上も続いた人事の葛藤が、うまくおさめられるかどうかが最大の眼目となった。その結果、一度この平林という男にやらせてみよう。ということになり、遂に全額を無担保で貸すという破天荒の融資が決定したのである。

 抜けぬ「お家思想」

 この頃、常務となった平林氏の奮闘がこのとき以来、開始された。一日睡眠三時間という日が】続き、疲れ果てた肉体を「田辺製薬のために―」という精神力で補って再建に尽力し、とうとう復配にまで持っていったのである。

 平林氏の人事政策は「会社は仲よく仕事をする場所であり、仕事の出来る人はデッチ上りであろうと、大学出身であろうと履歴には関係なく尊重する。」ということであった。

 こうして合理化が進み、有能者の登用、養成が進んでゆくと、社内の信望が集ってくるのは已むを得ない。そこで、またもや、五兵衛氏の「お家思想」が動き始めたのである。

 三十二年秋から三十三年春にかけ、平林氏への攻撃が社の内外から行われた。一体、誰の差し金なのであろうか。黒幕は誰なのか。調査の結果、それが社長である五兵衛氏であったことがわかったのである。

 しかし、今度は五兵衛氏の「わがまま」は通らなかった。第一に金融機関が憤慨した。「銀行は人を信用して金を貸すのだ。一体平林氏を除いて、誰が田辺を盛りたててゆくことが出来るのか。」さらに社内が動揺の兆しをみせた。「社業の向上を願って努力すればするほど会社を離れる日が近くなるのか。」

 当事者の平林氏は最も苦悩した。「自分は田辺をやめたって構わない。娘一人だし、大学の講師でもやれる(大倉高商教授や関西大学講師の経歴を持っている)のだから食うのには困らない。しかし、会社関係者が苦しい歴史を何度も繰り返すことは見るに忍びない。多くの従業員や株主、取引先に迷惑をかけることは、もうこれ以上許されない。自分としては、社会の公器としての田辺製薬を守るためのタテとなる義務がある。」

 平林氏は、五兵衛氏にはっきりと諫言した。学友関係ということだけでなく、平林氏は五兵衛氏の経営者としての成長のために、随分と力を入れた。二十九年の春、彼は五兵衛氏と二人だけで米国に赴き、近代的経営者の精神や在り方を、じゅんじゅんとして説いたこともある。

 五兵衛氏は、観念的に知ることは知ったが、実行されるものは依然として脱皮したものがなかった。五兵衛氏の頭には「お家思想」がこびりついているためだ。そこで二人の間には激論がかわされたが、解決されるはずがなかった。

 ノレンの悲劇

 三十三年六月に取締役会で会長制をとることがきまったが、当時、五兵衛氏が社長を退いて会長になるのではないかという噂がとんだ。しかし、取締役会では、五月に、すでに五兵衛氏の代表権が実質上活用できないようにきめていたため、一挙に会長に引退させる方法はとらないことになっていた。

 思わぬハネ返りを受けた五兵衛氏は財界有力者に援助を頼んだ。彼は、五兵衛氏の話を聞いて平林氏が社長のイスをねらっていると見、平林氏に面会を申し込んだ。「五兵衛氏と協力すべきだ」というのが彼のいい分である。平林氏は事情を詳細に説明し「田辺家と、田辺製薬とを両立させるための最良の方法は、五兵衛氏に代表権のないのがよい」と述べた。又別の財界人の事情通は「五兵衛氏がしっかりする外手がない」とツッパねた。社長のままで代表権はない形にすることに決まったのはその後のことである。「お家思想」は遂に五兵衛氏を「象徴となったお当主様」に追いこんだのである。      (水木秀)”

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