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高知・松山紀行 ① サンライズ瀬戸乗車記

もう廃止になったが、大阪・高知間に大阪高知特急フェリー、東京・高知(那智勝浦経由)にブルーハイウェイラインがあって、阪神タイガースが高知県安芸市で1軍キャンプをしてたころ(現在も2軍は安芸)、よく高知に行ってた。航路が廃止になった後、ぱったり高知に行かなくなったので、久しぶりに高知に行ってみることにした。

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東京駅22:00発のサンライズ瀬戸に乗車するため、帰宅後入浴、夕食を済ませ、薬を飲んで、歯を磨き、「後は寝るだけ」にして家を出発。しょっぱなから「山手線内回りダイヤ乱れ」とのこと。

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安全策をとって、赤坂見附経由丸の内線で東京駅へ。

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瀬戸大橋ができる前のブルトレ「瀬戸」宇野行きにも何回も乗車したことがある。瀬戸大橋開通後、「瀬戸」が高松行きになってからも乗車した。

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子供のころ、阿波池田の親戚へ行くのに、通常は大阪発宇野行き急行「鷲羽」を利用するが、裏ワザで大阪から東京発の「瀬戸」にヒルネ乗車することもあった。東京発四国連絡寝台特急の利用歴は古い。

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サンライズシングル2階個室席。

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ミニデスクがあって、コップ付き。

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コンパクトによくできてると思う。シングル・デラックスにも乗車したことがあるが、椅子付きデスクやミニTVモニターなんかに大金はばからしい。

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さっそく一献。

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遠路の通勤、ご苦労さんですw

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シャワー・カード(320円)は3号車自動販売機で購入。

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大阪駅運転停車あたりで目が覚めた。

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「故郷」西宮市武庫川あたり。

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三ノ宮駅通過。

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混雑する前、早めにシャワー・ルームへ。部屋の鍵は暗証方式。

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サンライズ・シングル(2号車)の廊下。

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シャワー・ルームのドア。

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脱衣室。

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カードを挿入して。

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6分間使用できる。

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満月の夜。

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岡山県に入ったあたりでトワイライト。

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岡山駅停車。早朝の通勤、ご苦労さんですw

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瀬戸大橋線に入って、日の出。

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児島湾干拓地なので、縦横にクリークが走る独特の風景。

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児島駅停車。

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瀬戸大橋へ。

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ハイライト。

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四国上陸。

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瀬戸大橋を通過すると。

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あっとゆう間に坂出駅到着。


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クラマー氏来日直前の日本サッカー 3人の殿堂入りジャーナリストによるローマ・オリンピック1次予選韓国戦の総括と再建策

日本サッカーは、1958年東京開催のアジア競技大会グループリーグでフィリピン、香港に完封負けし、どん底を味わった。翌1959年5月26日、1964年オリンピックの東京開催が決定、1959年12月のローマ・オリンピック1次予選の対韓国戦2試合が、来るべき東京オリンピックの試金石となった。

2試合ともホームの後楽園競輪場で開催され、結果は12月13日が0-212月20日が1-0、総得失点差で日本は敗退、日本サッカーは「どん底」かつ「崖っぷち」に追いこまれた。

敗退2日後の12月22日、朝日、読売、毎日の3紙は同時に韓国戦の総括と再建策に関する記事を掲載した。いずれも署名入り記事で、朝日は大谷四郎氏、読売は牛木素吉郎氏、毎日は岩谷俊夫氏が執筆している。新聞の論調も、日本人コーチの限界と外国人コーチ招聘の方向を示しているように思われる。

・【大谷四郎氏】

大谷氏は外国人コーチに言及はしていないが、見出しに「経験主義”のコーチはダメ」とあるようにコーチングの刷新を主張している。当時国内に「経験主義でないコーチ」は存在しないので、直接言及はしていないものの、実質的に外国人コーチの採用を主張しているのと同じであろう。

『朝日新聞』1959年12月22日付

日韓サッカー総評

“技はあちらが上”
 東京五輪へ 合理的指導を

経験主義”のコーチはダメ

ローマ・オリンピックのサッカー予選日本対韓国、日本は第二戦を飾ったけれども得点計で敗れてローマとの縁は早くも切れた。二回戦では日本は一応力を発揮した。あるいはもう一点とれたかも知れない。そうなれば延長戦へお希望が継ながったわけだ。国際試合ともなれば、冷静なはずの新聞記者も自国を応援するのが普通だ。そして、もう一点を熱望した。しかし、すべてが終わったいまは、やはり二試合の末に日本が負けたという事実とその内容が教えるものを率直に認めて東京オリンピックへのカテにした方がよい。東京大会では開催国として無条件に出場するのだ。

◇・・・こんどの第二戦は確かに勝った。第一戦に欠けていた気力も満ちていて、いまの実力、あの悪コンディションのもとでは、その試合に関する限りほとんどいうこともない。しかしまた、細かいパス・ワークのような技術の使えない、また使う必要もないあのコンディションだから勝てたのだ、と意地悪いかもしれないがいわざるを得ない。だからわれわれのサッカーを評価するのはやはり第一戦である。そのとき、調子が悪かった、FWの選手が欠けていたなどの条件の悪さがあったにしても、なお彼我の差の明らかだったことはたれも認めるだろう。

 竹腰監督も「技はあちらが上だ」というが、そのあとに「勝てない相手ではない」とつけ加える。すでに何回となく聞かされてきた言葉だ。あるいはその通りだろうが、勝負よりもいまの日本の水準で大切なのは「技はあちらが上だ」という事実の方だ。

◇・・・日本のサッカーの最大の弱点は何か。すべてここから出発するわけだが、それはすでに十年近く、国際試合をするたびにいわれてきたことなのでいまさらという感じだ。ただここでは簡単に“ボール・コントロールのサッカー”とだけいっておこう。世界のヒノキ舞台はもちろん、アジアも完全にその潮流にのっているのだ。

 こんどの韓国を通じてみるのもその潮流が背後にあることだ。協会の指導陣もこの点は十分に知っているだろうからいまさら・・・ということになる。すると問題は何か。その次にくるその“ボール・コントロールのサッカー”をどうして教え、どうして浸透させるかの「方法」なのである。この数年間、その浸透がいかに遅々としていたか、協会は何をして来たか。

◇・・・竹腰技術委員長以下の指導陣がサッカーをよく知っていることに疑いはない。またいまの貧弱な材料で力一杯戦おうとする熱意と誠意には頭をさげるほどだ。だが出来上ったチームの旧態依然たるをみると、どうしても教え方に問題があるとしかいえないのだ。この問題にも二つのポイントがある。一つは、統一されたサッカー像を浸透させるのに、協会が組織として講じる着眼と努力である。もう一つはコーチが個々の選手をコーチする指導方法である。後者は前者のさらに基礎になるだろう。端的にいえば、コーチの指導法はすでに行き詰っているのだ。だからその点でまず現代的であり将来に通ずる考えを確立しておかねばならない。もしその考えがまだまとまっていなければ、この際徹底的に検討してみることだろう。

 陸上のハンマー投げの話だが、古い人は「フィニッシュにもっとひっぱれ」などの教え方をよくするが、いまではこんな教え方はダメだそうだ。最後にひっぱるためにはその前、さらにスタートからどういう姿勢でこうしなければならないという風に分解しながら、こうしてゆけば最後にひっぱれるのだと納得のゆく教え方をしなければならないとのことである。

 もう経験主義のコーチはだめだともいえよう。いまでは一つのキックも、走り込むときからの正しい動作、さらに必要な筋肉作りから積み上げて教える時代である。カンといわれるものさえ合理的な練習で作り出そうというときである。サッカーの強い国はそういうコーチ法が普及している国なのである。日本のサッカーはいまなお経験主義的な風潮を多分に残しているがための混迷期といいたい。

                           (大谷)”

・【牛木素吉郎氏】

牛木氏は「日本サッカー界全体の体質改善」の必要性を指摘している。敗戦当日の12月20日の協会理事会で「ヨーロッパからプロ・コーチを招くこと」が議論されたことが紹介されている。

・『読売新聞』1959年12月22日付

日韓サッカーの教訓
若返りをあせらず
 競技界の体質改善はかれ

 日本のサッカーは、とうとうローマ・オリンピックには行けないことになった。日本オリンピック委員会(JOC)は、5年さきには東京オリンピックがあるので、その準備のために全競技を来年のローマ大会に参加させる方針を決めている。日本スポーツ史上最大の選手団がはなやかにローマに向けて出発するのをサッカーだけが指をくわえて見送らなければならないとは―。13日と20日に東京後楽園競輪場で行なわれたオリンピック予選で、韓国に一歩をゆずったことはやはり日本サッカー界にとり大きなショックであろう。

なぜ負けたか

 十三日の日韓サッカー第一戦に0-2で敗れると、第二戦をまたずにはやくも日本のサッカーを非難する声が起きた。「日本のサッカーはなぜ弱い」「中盤作戦の誤りだ」など・・・。そのほとんどが単純な結果論であり、あるいは技術上の批判であって、日本のサッカー界の体質のカタワな点をついた建設的なものは少なかった。それに第二戦では日本が終始優勢で1-0で勝ったところから、これらの非難がやや色あせたものになっている。

 だが1勝1敗の結果、二試合の得点合計1-2で、ローマへの出場権を失ったことは冷たい事実だ。日本サッカーへの批判は真剣に検討されなければならない。まず第一戦のあとに現われた非難の主なものをとりあげてみよう。

選手起用の誤りだという説】日本のコーチ陣、とくに戦後ずっと指導し続けている竹腰監督が選手のえりごのみをする、そのために選手が大きく伸びないというのである。しかし、いまのオリンピック選手のほかに、どんな人材が埋もれているというのか。問題は川渕(早大)八重樫(古河電工)が負傷すると、もう代わるものがいないという選手層の薄さにある。

中盤作戦を誤ったという説】やはり結果論であろう。ボール扱いは韓国の方が断然うまいのだから、日本は速攻をきめ手とするほかはなかった。第一戦はFW不調で中盤がひどすぎたが、根本はボール扱いの基礎技術をたたきこむこと。そのためには中学、高校のチームや地方チームの下の方からサッカー界の体質改善を図らなければならない。

コンディション調整を誤ったという説】十二月一日からの最後の合宿で、高橋コーチの鍛え方がきつ過ぎて、疲れが残った―といわれた。しかし飛行機で着いた翌日から一時間半みっちり練習した韓国にくらべ、日本の練習量は決して多過ぎなかった。ただ、韓国選手はほとんど軍人でふだんからセミ・プロのような練習をしている。日本は実業団のサラリーマン選手で、コーチでさえ会社をさぼって合宿へ来なけれなならない。そういう社会環境の違いは大きい。

 こうしてみると技術面、作戦面のことは枝葉末節であって、再建策は、日本サッカー界全体の体質改善、つまり行政的な面に頼らなければならない点が多い。

今後の再建策

 ではどうすればいいか。日本蹴球協会は二十日、さっそく理事会を開いて対策を協議した。目標は五年先の東京オリンピック、それまでにぜひアジアのNO1の地位を確保したい。ヨーロッパからプロ・コーチを招くこと、高校生のころから国際試合の経験をつませ、国際試合に通用する技術を体得させること、などが話題になった。

 高校生以下を対象とした強化策は、すでに今年のはじめから実行されはじめて、目に見える成果をあげている。高校選抜チームのアジア青少年大会派遣と、その選手を選ぶための高校地域選抜大会の開催である。地域選抜大会は、高校選手のかくれた素材をこまかい網の目ですくうように拾い上げようというもの。中学校での正課体育への採用と、この海外遠征のための選抜大会が刺激となって、地方の高校のサッカー熱はこの一年に急上昇しつつある。

 協会では、他の競技団体にさきがけて全国指導者講習会を開いているし、ことしから将来学校の指導者となる人たちのための全国教育系大学大会もはじめられた。遅ればせながらではあるが、この方向はサッカー界の体質改善のために、どんどん推進されるべきだ。

 もう一つ、高校生を対象にするあまり日本代表の若返りをあせってはならない。オリンピックに勝つためには、やはり代表選手の年齢は二十五歳前後、技術も体力も円熟したころが最適であろう。従って社会人のチームを育成し、学校で鍛えられた選手が実業団で安心してプレーできるような社会環境を作る必要がある。

 これまでの協会は、大学リーグ中心の色彩が強く、サロン的な空気で仕事のやりいい面もあったが、組織や人間を動かす力は乏しかった。「グラウンドの確保」「年間スケジュールの再検討」などこまかいことで手をつけるべき問題も多い。

 外国ではサッカーの国際試合が興行としてなりたつので、海外武者修行の機会は多い。それだけに国内の対策が軌道にのれば、長い目で見た見通しはむしろ明るいとさえいえよう。 (牛木)”

・【岩谷俊夫氏】

岩谷氏は、さらに具体的で、「日本のコーチは理論的にはすぐれているが、みっちりコーチできる環境の人は一人もいない。そこでようやく協会もプロ・コーチの招請に真剣になりだした。二十日の理事会ではインドネシアをA級に仕上げたユーゴのコーチをこのさい呼んでみては、というところまで話が出た。もう一つ芝生のグラウンドがないからボールを意識しないボール・コントロールがうまくならないという理由もある。一度に手をつけるわけにもゆくまいが、このさいまず思い切ってプロ・コーチを雇ってみてはどうだろうか。」とまで記している。

また、「韓国の“サッカーの神様”金容植コーチは「我々はこの五ヵ年地をはうような短いパスをやり続けてきた。第二戦で日本のすばらしい出足と雨の中のキック力には参った。しかし習慣として韓国は雨に有効な弧を描くようなキックがもうできなくなっていますよ」と語った。

昭和二十九年、雪中の世界選手権極東予選で日本をキック・アンド・ラッシュ攻めで破った韓国にしてこの表現である。」とも述べていて、かつて日本のお家芸だったショート・パスは韓国のスタイルになり、日本がかつての韓国のようなキック・アンド・ラッシュになって、テクニカル面で日韓が逆転したとの記述も興味深い。

『毎日新聞』1959年12月22日付

日韓サッカー戦の教えるもの
    第二戦の勇気と闘志で

日本対韓国のローマ・オリンピック・サッカー予選は1勝1敗、得点合計で韓国の勝となったが、試合ぶりからみて第一戦が韓国の完勝、第二戦が日本の完勝と両極端をゆく結果に終った。「やりさえすれば勝てるじゃないか」が第二戦の興奮に接した人々の印象だったようだ。たしかにアジアで一位か二位の韓国を優勢のうちに破ったのは画期的なことだ。しかしこの試合をめぐって残された問題は多い―。

【第二戦に日本はなぜ勝ったか】二十日夜の日韓お別れパーティーで、韓国の“サッカーの神様”金容植コーチは「我々はこの五ヵ年地をはうような短いパスをやり続けてきた。第二戦で日本のすばらしい出足と雨の中のキック力には参った。しかし習慣として韓国は雨に有効な弧を描くようなキックがもうできなくなっていますよ」と語った。

昭和二十九年、雪中の世界選手権極東予選で日本をキック・アンド・ラッシュ攻めで破った韓国にしてこの表現である。

「キック・アンド・ラッシュもいいけれど、問題はボール・コントロールなんですよ」ともいった。聞きなれたお説教だが“神様”が、その後輩である筆者(金コーチは早大出、ベルリン日本代表)にさとすようにいうだけにそのひびきが違う。日本の選手を一人一人とってみた場合、浮き球の処理力、速いシュート、すべてみた目ではどこへ出してもヒケをとらぬ。しかし、そのボール・コントロール力が「対敵動作」でかけひきまでいかぬところにまだ重大なものが欠けている。

この不足分を第二戦に「根性」と「覇気」で補ったわけで、そこに「やればできる」という結果が出たのだ。

【プロ・コーチか芝生か】日本のコーチは理論的にはすぐれているが、みっちりコーチできる環境の人は一人もいない。そこでようやく協会もプロ・コーチの招請に真剣になりだした。二十日の理事会ではインドネシアをA級に仕上げたユーゴのコーチをこのさい呼んでみては、というところまで話が出た。もう一つ芝生のグラウンドがないからボールを意識しないボール・コントロールがうまくならないという理由もある。一度に手をつけるわけにもゆくまいが、このさいまず思い切ってプロ・コーチを雇ってみてはどうだろうか。

ボール・コントロールのうまいチームが一つでもできそのチームに勝つためにはボール・コントロール以外にないことが、他のチームに及べば成功だ。ただし、この決断は日本が国内だけのものに甘んじないで、国際入りしようとしているのかどうかの政治力にかかっている。いまはその瀬戸際といってよい。

【キック・アンド・ラッシュが先きではない】日本の活動力、勇気、勝魂すべては第二戦のキック・アンド・ラッシュで証明された。これだけの出足のきく民族であることが再認識されたわけだ。しかしそれはキック・アンド・ラッシュがよかったのではなく、ある程度国際級に近づいた「足技」があのせっぱつまった瞬間にものをいったまでだ。今後は平静なおりでも相手あってのサッカーという「対敵ボール・コントロール」へ引上げることが肝心なのである。

勇気が証明された以上、日本のフットボーラ―たちはまたはじめから「球扱い」をやり直してもらいた。それ以外国際サッカーに通ずる近道はない。「やればできる」では現状から一歩も出ない。
   
                                 (岩谷)”

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戦後日本サッカー史のどん底、1958年第3回アジア競技大会東京大会

1951年第1回アジア競技大会ニューデリー大会では、日本は鴘田正憲、二宮洋一、賀川太郎、岩谷俊夫 など戦前の神戸一中OB、すなわち旧制中学・大学サッカー経験者の「遺産」で3位入賞することができた。1954年第2回アジア競技大会マニラ大会では、彼らベテランが30歳前後に「高齢化」し、対インドネシア3-5、対インド2-3と全敗した。

1958年第3回アジア競技大会は、地元東京開催で、大会自体は大変盛り上がったが、日本サッカーの後退はとどまるところを知らず、対フィリピン0-1対香港0-2と、1得点もできず敗退した。1950年代前半の経営不振により日本代表の主力を形成していた田辺製薬サッカー部が衰退、代わって1955年にサッカーを社技にした古河電工サッカー部の長沼健、八重樫茂生、平木隆三、内野正雄ら、旧制中学から新制高校への世代交代は実現したが、実力は戦前問題にしていなかったフィリピンにホームで敗退するまでに低下した。朝日、読売、毎日の試合評は以下の通り。

日本代表のサッカーは、戦前完成されたショート・パスから、縦パスを中心としたロングキックのキック・アンド・ラッシュに変貌していたようである。

【対フィリピン戦の試合評】

・『朝日新聞』1958年5月27日付夕刊

“▽予選リーグC組

フィリピン 1(0-0 1-0)0 日本

【評】日本FWは不振だった。球を離す時機が悪く、相手の陣形に応ずる頭の働きも無かった。前後半を通じて八分二分から、九分一分くらいまで圧倒的に押しまくりながら得点出来ない弱さが完敗の形に終らせた。判断の良い突込み、棄て身のたくましい切り込みが全然無かったといっていい。フィリピンは闘志に満ち、逆襲のオープン攻撃、CKの時は明らかに一発勝負をねらっていた。後半10分フィリピンのRWが25メートルあたりからロング・シュート、球は勢いが弱かったがコースが良かった。古川がセービングするところをCFが突込んで均衡が破れた。日本はその後少しは果敢に攻めたが、最後までいい切れ味を見せなかった。大事な試合とあって固くなっていたふしも見られはしたが、もう少し系統立った意欲的な攻め方をしてもらいたかった。 (中条)”

・『読売新聞』1958年5月27日付

“フィリピン 1(0-0 1-0)0 日本

【評】後半10分フィリピンのORビリャレルのロングシュートをGK古川がはじき、ゴール前に転々とするボールをCFアルデゲルがきめたのが両軍を通じて唯一の得点となった。この得点を追って日本は中盤近くフィリピン・ゴールをしばしば脅かしたが、ついに得点出来ず、決勝トーナメント進出は難しくなった。日本は終始押し気味に試合を進めながらチャンスに持ち過ぎや無用のパスが多かった。 (大塚)”

・『毎日新聞』1958年5月27日付

“◇予選リーグCグループ(小石川)

比国 1(0-0 1-0)0 日本

日本は固くなったのか動きが小さく、球を味方でキープしようとして神経を使いすぎていた。フィリピンの動きも単調だったが、バックがよく下がってゴール前に壁のように立ちふさがり、その攻撃力には不気味さがあった。後半10分フィリピンはRWビリャレルが鋭く持ち込んでシュートし、GK古川がはじいたところをCFアルデゲールがシュートして決勝点を奪った。 (岩谷)”

【対香港戦の試合評】

・『朝日新聞』1958年5月29日付

“▽予選リーグC組

香港 2(2-0 0-0)0 日本

【評】フィリピンに敗けた日本はFWを編成替えしたが試合運びの安定性、パス・ワークの確実さで香港が一枚上だった。香港はチャンスのつかみ方がうまく前半27分IRが一点目を挙げ、33分にはORが二点目を挙げた。この二点目はゴール前をOLからORへ大きくゆさぶっての見事なボレー・シュートだった。日本は後半ロング・パスで一挙に殺到しようと試みたが、個人技の差から必死になればなるほど乱暴なプレーが多かった (大谷)”

・『読売新聞』1958年5月29日付

“香港 2(2-0 0-0)0 日本

【評】日本は三人の故障者でFWの布陣を一新、大きなパスで積極的に攻めた。きわどいロングシュートが前半20分までに四本香港ゴールに飛んだが、バーをかすめて惜しくもゴールはできなかった。20分過ぎからは、香港が正確なパスでジリジリ反撃、25分、RIラウ、31分RWチュのシュートがきまった。いずれもLIホーが日本のバックスを巧妙にひきつけて抜いてからのパスによる得点。

後半は捨身の日本が縦パスを集めて突進、押気味を続け特に終了10分前ごろからは連続的にシュートを浴びせたが、いずれもわずかに決まらなかった。 (原田)”

・『毎日新聞』1958年5月29日付

“◇予選リーグCグループ

香港 2(2-0 0-0)0 日本

日本は対フィリピン戦にくらべて攻撃に重点をおいた。一見威勢よく見えたがこれは香港の試合なれた足技につうじなかった。しかも攻めようとしただけ守備は薄くなり前半26分RI、33分はRWにうまくゴール前をゆさぶられて得点を許した。日本は攻撃をあせってボールのコントロールにミスが加わった。この点確実にプレーした香港が一枚上だった。 (岩谷)”

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スプラトリー(南沙)諸島付近を航行したミサイル駆逐艦「ラッセン」(USS Lassen DDG-82)

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2014年7月28日横須賀にて撮影。

http://www.lassen.navy.mil/ には接続できず。

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萩・世田谷 幕末維新祭り

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今年もやってきた地元松陰神社前商店街の「萩・世田谷 幕末維新祭り」。

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お祭りはどうでもいいが、萩から村田蒲鉾店が出店。他のブースはテントだが、ここだけ商店街の店舗を借りての営業。

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これが旨い!「ごぼう巻き」。しかし、1個540円もする。

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こちらは3点1000円とお値打ち。

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松陰神社は大混雑。用もないのに神社に行ったのは・・・

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2千円以上お買い上げで抽選券1枚をもらえたので。

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ハズレなしで、5等賞はふりかけ「しそわかめ」。

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渋谷に用があったので、松陰神社前駅に戻ったら、お祭りの行列に遭遇。

ガンバはベガルタに勝って年間順位3位。ゴール前直線に入ってのたたき合いに強いガンバ。

そういえば北島三郎の持ち馬が菊花賞馬。見事にインを強襲した乗り役の勝利やね。

という10月25日(日)であった。


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『神戸一中蹴球史』(1937)における市橋時蔵氏の住所

Ichihashi

「大阪市東区道修町五丁目二十」になっている。市橋氏は神戸一中・慶應OB、優勝した1930年第9回極東選手権日本代表でベルリン・オリンピックの代表候補にも選出された。1940年東京オリンピック強化対策のため協会に設けられた技術部次長(部長は竹腰重丸氏)でもあった。→1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策 ① 東京オリムピック蹴球準備委員会設置

薬業の町、道修町に住んでいたのは、

1) 市橋家も薬業関係だった。市橋時蔵氏には忠治という別名があった。田辺製薬の十四代田辺五兵衛(治太郎)氏のように、旧家で、本名と別に当主名乗りがあったのか。

2) 単純に勤務先が薬業関係だった。例えば田辺製薬。田辺製薬の住所は「道修町三丁目二十一」。

3) それ以外。

のどれだったんでしょうね。

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1950年代田辺製薬の経営危機とお家騒動

田辺製薬は全日本実業団サッカー大会を1950年~1955年に6連覇、1957年にも優勝し、1950年代に7回も優勝、日本代表の主力を形成していた。選手として鴘田正憲賀川太郎の両氏、そして社長だった田辺五兵衛氏、五兵衛氏の「サッカー人事」で入社し、常務を務めた手島志郎氏が日本サッカー殿堂に掲額されている。

そのまま経営が順調であれば、1964年東京オリンピック代表の主力も田辺製薬だったであろうが、1954年に増資、2割配当、賃上げしたあげく無配に転落という乱脈経営で経営危機に陥り、サッカーも新人補強できずに衰退してゆく。田辺製薬の経営危機は、日本サッカー史にも影響したと考えられるので、関連文献を紹介したい。三鬼陽之助「御曹子社長の放漫経営 田辺五兵衛・田辺製薬会長」 も同主題を扱っている。

経営評論誌『財界』の1959年2月号。この時点で田辺は経営危機を脱しており、田辺五兵衛氏は代表権を返上していた。このため、田辺が社会的に指弾された、後年のスモン薬害事件には無関係でいることができたわけで、人生何が幸いするかわからない。篠島秀雄氏の田辺製薬入・退社のいきさつも興味深い。田辺五兵衛氏の「サッカー人事」が経営破たんをもたらしたのではなく、田辺ではとても採用できないようなとてつもない人材を釣り上げていたのだった。むしろ、そうした人材を活用できなかったのが、田辺五兵衛氏の悲劇だったようである。

水木秀「名門・田辺製薬はこうして立直った」『財界』7巻2号(1959年2月) pp.56-58

名門田辺製薬はこうして立直った

代表権のなくなった五兵衛社長

 代表権のない社長が現われた。代表権は専務にだけあるのである。しかもそれが、二百五十年連綿と続いた田辺製薬で行われたのだから財界の注目を集めたのも無理はない。その真相をたずねて、世に数多い世襲社長の他山の石としたい。

 大阪の道修町(どしょうまち)は、いわずとしれた古くからの薬屋の町である。船場の糸へん問屋が軒並み衰えてゆく中にあって、この町はいわゆる「のれん」を守り抜いてきた町として、大阪でも特異部落に属している。

 道修町に君臨する薬屋として、武田、塩野義、田辺の三社があり、通称道修町の御三家といわれている。しかし御三家と一口にいわれるが、その内容には相当の隔りがある。昨年九月期(田辺は十月決算)の売上高をみると、武田百八億円、塩野義五十二億円、田辺十九億円となっており、この額からみると、塩野義は武田の五割、田辺は武田の二割という比率になり、格段の差があることがわかる。

しかし第三者は、田辺がよくもここまで回復し、とにも角にも、御三家の一隅を維持していることに、同情と賞賛の言葉を述べている。何故か。こうした言葉の裏に代表権を辞任しなければならなかった田辺製薬社長田辺五兵衛氏の経営者失格の原因が流れているのである。

 田辺五兵衛氏が先代のあとをつぎ、十四代社長に就任したのは昭和十六年であった。

 彼は船場育ちの「ぼんぼん」ではあるが、大阪商大を出たインテリであり、現在五十歳という男盛りなのである。齢でいえばこれからの人である。

 五兵衛氏の意図

 五兵衛氏は、封建的な道修町問屋の一つであった田辺製薬の近代化に一つの構想を持っていた。それは学校出身者の採用による学問智識の導入であり、逆にいえば番頭政治の追放であった。また副社長当時、先代五兵衛社長の反対を押し切って大福帳を改め、複式簿記による計算組織を確立したことなどは、それが戦時中という時代からみれば当然のこととはいえ、その近代構想の一端であったといえよう。学校出身者としては大阪商大の関係者を引き入れたが、これによって現在専務の平林忠雄氏、常務の黒山貞雄氏が入り、また、学生時代以来のサッカーマンとしての関係から現在常務の手島志郎氏(東大出身)が入ったのである。

 しかし、これが本心からの近代化構想であったのかどうか、極めて疑わしいことが、後になって漸次はっきりしてきた。それは、この近代化に五兵衛氏のブレーンとして腕をふるった専務篠原(ママ)秀雄氏を戦争末期クビにし、再び番頭政治に逆行したことが第一の現象であった。

 篠島氏は三菱鉱業に勤務していたが、サッカーの関係から五兵衛氏に請われて田辺に入ったし、大学生の採用に当っても、五兵衛氏の相談役となって、人事の強化に努力した人である。ところが篠島氏に社内の人望が集まるとともに、五兵衛氏は身の危険を感じはじめた。そして追しょう組が輪をかけて御注進に及ぶにおよんで、五兵衛氏は、ばっさりと篠島氏のクビを切ったのである。篠島氏はそのため、三菱化成に平社員として入り、勤労部長から取締役、常務、さらに最近では専務に就任したが、このことは立派な力量を持っていることを示している。

 この事件によって、五兵衛氏の近代化構想なるものは、側近固めが目的であったのか、と噂されるようになった。つまり、三十を越したところで、古いのれんを継ぐべき地位にあった彼としては、力のある番頭勢力に対抗する意味での学生登用であり、五兵衛勢力の養成であったのではないかと、みられたわけである。

 「お家を守れ」これが五兵衛氏の頭を常に支配していたと事情通はいう。実際問題として、五兵衛氏は二百五十年も続いた田辺製薬を、自分の代で人に乗っとられることがあっては、先祖に対して申訳がないと思ったであろうし、一面そういう環境の人が、そう思うのは無理からぬ点もある。とくに、戦後のように、激しい民主主義旋風が吹きまくるような時代にあっては、尚更であろう。

 それが、インテリという共通の場を変えて、番頭という家族的な場に乗りかえる根本的な動機となったようである。

 ところが、インテリであろうと、番頭であろうと、サラリーマンとしての本質に変りがない以上、依然として「お家大事」の思想を求めるのは無理であった。第一に時代が変わっているのであり、とくに田辺の場合は、一度冷飯を喰わされた番頭たちだけに、「わが身かわいさ」の考えが強く表面に出た。これは全く五兵衛氏の思惑はずれであった。

 戦前の学士登用で、当時の番頭は、住みなれた田辺の店をかなり去っていった。従って再び脚光を浴びた番頭たちは、このチャンスを永遠に放したくはなかった。しかも、当時は米さえ満足に得られない混乱時代であった。全ては統制であり、五百円限りの新円生活であった。従って主導権を握った人の多くは、その地位を利用して、ヤミ経済の中で私腹をこやしていったのである。

 しかし、こうした上の方だけでいい目をみることを社内は黙って見逃すものではない。昔の「お店」ならともかく、当時はうぶ声をあげた労働組合という新しいお目付け役が気勢をあげてきたところである。田辺の労組はこの点を指摘し、首脳者の責任を追及、ついに版当政治は組閣以来一年有余年で倒閣してしまった。同時に田辺製薬は、戦後の第一次危機に陥ったのである。

 「五円のゴエン」

 このころから、現専務平林忠雄氏の活躍が始まる。平林氏は大阪商大で五兵衛氏と同級生であるが、五兵衛氏と違って苦学生であった。彼は一度、五円を五兵衛氏から借りたことがあった。ところが、これを返却したことが五兵衛氏の記憶に強く残っていたようである。五兵衛氏は何分のお金持であり、友人に金を貸しても、めったに反してくれるのはいなかったためであろう。そのために五兵衛氏の学士登用政策の際に平林氏の名前が思い出されたというのだから、まさしくこの五円は「ゴエン」があったということになる。

 平林氏は、五兵衛氏が最初番頭排撃政策をとった時、断乎としてこれに反対した。これには五兵衛氏が一番びっくりしたらしい。戦後、番頭政治が復活した時、会社の新しい組織、組織の立案を行ったが、これは番頭が平林氏の考え方と力量を信頼したためである。そして番頭政治が崩れた時、いわゆる戦後の第一次の危機に、この打開策の立案を依頼されたのもまた平林氏であった。

 何といっても、五兵衛氏に対する不信が、社内に深まったのが最大の難点であった。誰を再建の中心人物にするか。もにもんだ結果、高田氏を専務とし、平林氏は副総理格として再建に乗り出したが、業績の立ち直りとともに、またも五兵衛氏は「お家思想」を発揮し出した。その結果、二十八年から二十九年にかけて、田辺製薬は倒産寸前にまで追い込まれてしまったのである。

 約二億五千万円の決算資金のメドが全くつかなく、不渡り寸前にまでなってしまった。平林氏は詳細な再建策を作成して、主力銀行である三和銀行に日参した。名門田辺製薬が「のれん」をおろさねばならないかどうかの瀬戸際である。三和としても、これをどう処理するかに随分悩んだ。腐っても鯛であるとはいえ、十年以上も続いた人事の葛藤が、うまくおさめられるかどうかが最大の眼目となった。その結果、一度この平林という男にやらせてみよう。ということになり、遂に全額を無担保で貸すという破天荒の融資が決定したのである。

 抜けぬ「お家思想」

 この頃、常務となった平林氏の奮闘がこのとき以来、開始された。一日睡眠三時間という日が】続き、疲れ果てた肉体を「田辺製薬のために―」という精神力で補って再建に尽力し、とうとう復配にまで持っていったのである。

 平林氏の人事政策は「会社は仲よく仕事をする場所であり、仕事の出来る人はデッチ上りであろうと、大学出身であろうと履歴には関係なく尊重する。」ということであった。

 こうして合理化が進み、有能者の登用、養成が進んでゆくと、社内の信望が集ってくるのは已むを得ない。そこで、またもや、五兵衛氏の「お家思想」が動き始めたのである。

 三十二年秋から三十三年春にかけ、平林氏への攻撃が社の内外から行われた。一体、誰の差し金なのであろうか。黒幕は誰なのか。調査の結果、それが社長である五兵衛氏であったことがわかったのである。

 しかし、今度は五兵衛氏の「わがまま」は通らなかった。第一に金融機関が憤慨した。「銀行は人を信用して金を貸すのだ。一体平林氏を除いて、誰が田辺を盛りたててゆくことが出来るのか。」さらに社内が動揺の兆しをみせた。「社業の向上を願って努力すればするほど会社を離れる日が近くなるのか。」

 当事者の平林氏は最も苦悩した。「自分は田辺をやめたって構わない。娘一人だし、大学の講師でもやれる(大倉高商教授や関西大学講師の経歴を持っている)のだから食うのには困らない。しかし、会社関係者が苦しい歴史を何度も繰り返すことは見るに忍びない。多くの従業員や株主、取引先に迷惑をかけることは、もうこれ以上許されない。自分としては、社会の公器としての田辺製薬を守るためのタテとなる義務がある。」

 平林氏は、五兵衛氏にはっきりと諫言した。学友関係ということだけでなく、平林氏は五兵衛氏の経営者としての成長のために、随分と力を入れた。二十九年の春、彼は五兵衛氏と二人だけで米国に赴き、近代的経営者の精神や在り方を、じゅんじゅんとして説いたこともある。

 五兵衛氏は、観念的に知ることは知ったが、実行されるものは依然として脱皮したものがなかった。五兵衛氏の頭には「お家思想」がこびりついているためだ。そこで二人の間には激論がかわされたが、解決されるはずがなかった。

 ノレンの悲劇

 三十三年六月に取締役会で会長制をとることがきまったが、当時、五兵衛氏が社長を退いて会長になるのではないかという噂がとんだ。しかし、取締役会では、五月に、すでに五兵衛氏の代表権が実質上活用できないようにきめていたため、一挙に会長に引退させる方法はとらないことになっていた。

 思わぬハネ返りを受けた五兵衛氏は財界有力者に援助を頼んだ。彼は、五兵衛氏の話を聞いて平林氏が社長のイスをねらっていると見、平林氏に面会を申し込んだ。「五兵衛氏と協力すべきだ」というのが彼のいい分である。平林氏は事情を詳細に説明し「田辺家と、田辺製薬とを両立させるための最良の方法は、五兵衛氏に代表権のないのがよい」と述べた。又別の財界人の事情通は「五兵衛氏がしっかりする外手がない」とツッパねた。社長のままで代表権はない形にすることに決まったのはその後のことである。「お家思想」は遂に五兵衛氏を「象徴となったお当主様」に追いこんだのである。      (水木秀)”

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豪徳寺沖縄祭で五島・福江のばらもん揚をゲット

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天気が良いので、近所の豪徳寺の沖縄祭に行ってみた。

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豪徳寺と沖縄がどうつながるのかは?

出店の中に五島・福江のばらもん揚があった。福江・博多間のフェリー「太古」に乗船したとき、福江のフェリー・ターミナルにあった浜口水産で買って昼食に食べ、大変美味しかった記憶があるので、即購入。

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聞けば、世田谷線山下駅下車徒歩数秒のところに浜口水産豪徳寺店が開店したとのこと。さっそく行ってみると、練り物のほかにも、五島うどん、干物、あご出汁なども販売していた。

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店頭ではなく、祭の出店で買った千円の詰め合わせ。

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2週後の地元松陰神社のお祭りには萩の蒲鉾屋が毎年出店する。

「練り物」の秋が来た。


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ミニトリップ 京急大師線

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東急世田谷線、田園都市線で溝の口へ。JR南武線武蔵溝の口駅から。

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川崎行きに乗車。

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川崎駅で下車。

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京急川崎駅へ。

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地上にある大師線ホーム。小島新田行きに乗車。

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川崎大師では下車せず。

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終点の小島新田駅で下車。

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東へ向かうと多摩川に出る。

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羽田空港はすぐ近く。

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下流には橋がないので、上流に向かうと橋があった。

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歩道もある。

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最下流なので川幅が広い。

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橋の真ん中から上流方面を。

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下流には産業道路。

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展望台みたいな出っ張りがあった。

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屋形船。

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再び上流方面を。

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東横インがあるので、たぶん駅があるはず。

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渡ったのは「大師橋」という橋だった。

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京急空港線穴守稲荷駅から。

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逗子行きに乗車。

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車両の端っこはクロスシート。

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京急蒲田駅で下車。

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JR・東急蒲田駅へ。

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東急池上線。

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東急大井町線経由で二子玉川から再び田園都市線・世田谷線で帰宅。

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埼玉県児玉町(現・本庄市)サッカーの功労者

埼玉サッカーといえば埼玉サッカー発祥の埼玉師範のある浦和だが、浦和とはかなり離れた児玉町も浦和と並ぶ大正時代からサッカーの有力地域だった。その功労者についての東京朝日新聞記事。

『東京朝日新聞』1939年12月27日付

街の体育運動功労者(14) 埼玉の巻

“学童蹴球の児玉”育ての親・浅見さん

【熊谷電話】 武蔵野の片隅群馬、埼玉県境に児玉といふ町があるといってもおそらく“埼玉県の児玉町ですか”といふ人は余りなからうが“学童蹴球の児玉”といへば多少なりとスポーツに関心を持つ人々ならば判る程学童蹴球では有名だ。関東蹴球協会が町を挙げての熱心さに感激し中古ボールを贈って感謝の意を表してゐるが全国広しと雖も他にその例がないだらう。この“蹴球の児玉”の産みの親、蔭の功労者は同町体育会長浅見好雄氏(四六)である。同氏が蹴球に関心を持ち始めたのは今から十数年前、同町に師範学校を出て間もない今は故人となった白面の一教員四方田先生が来任私費を投じて普及に努めたがその熱意に感激したのが浅見氏である。

 同氏は上田高等蚕糸在学中野球選手として活躍した運動に理解を持つ人だけあって早速“これは町で費用を支出してやらなければ・・・・・”といふので音頭をとって町の体育会を組織し二百余名の会員から集る会費と不足を補ふ私費で懸命の後援を続けたのが今日の蹴球児玉建設の第一歩である。“鳥が鳴かぬ日はあっても児玉校で球を蹴らぬ日はない”といふのは今日の児童の姿である。

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 学童の体位がメキメキ向上するのを見た町の人達じゃ一層力を入れ田舎町によくあり勝な町民同士の啀み合ひなどといふものは素っ飛び町は全く明朗化した。百五十円の体育奨励費は健康の町明るい町の糧で町には五、六組の蹴球チームがある。四方田先生の蒔いた種、浅見氏の熱心な培養は立派な町の体位向上の花を咲かせ実を結びつつある。

 毎年八月を期して行ふ八百屋のトマトクラブ、床屋のバリカンクラブ、飲食店のアルコールクラブ、洋服屋のダイヤクラブ、大工さんのサシガネクラブ、役場吏員のペンクラブ等々の出場する職業別野球試合を筆頭に字別児童蹴球試合、字別児童野球試合、字別町民継走大会、男女青壮年を中心とするスキークラブ、男女青年を中心とする庭球と卓球、籠球の各試合が賑やかに催されてゐる。

 運動関係のクラブが実に十余を算し、定期試合のみで年卅余回に上ってゐる。同氏の涙ぐましい努力がここに導いたが同氏は他に向って奨励するだけでなく自らもラヂオ体操にも野球試合にも率先して出場するし、長女の久子さん(二一)はピンポン、慶大に在学中の長男俊郎君(二〇)は元本庄中学時代蹴球選手、本庄中学在学の二男武夫君(一六)も又小学校四年の三男篤郎君(一〇)も全部蹴球の選手といふ範を垂れるに足るスポーツの家でもある。

 尚同氏は一週間少くも四、五日学童の蹴球練習振りを見て激励し声援を送ってゐる。”

なお、上田高等蚕糸学校OBの浅見好雄氏の本職は養蚕業で、『春夏秋蚕一代雑種飼育要訣 : 附・営業案内』(蚕玉館浅見蚕種部 1918)という著作があり、無料全文アクセス可能。奥付は以下の通り。

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