ガンバの差し脚
FC東京といい浦和といい、ゴール前で脚を止め、インを開けてくれる感じ。そこを図ったように差してくる長谷川ジョッキー騎乗のガンバ。中3日で決勝とは、最後まで強行日程。
TV観戦だったが、埼スタでも2階席上方は空席がかなりあった。こんな試合でも満員札止めにならないのか。
ヒートテックの長袖シャツとタイツに衣替えの11月28日。
FC東京といい浦和といい、ゴール前で脚を止め、インを開けてくれる感じ。そこを図ったように差してくる長谷川ジョッキー騎乗のガンバ。中3日で決勝とは、最後まで強行日程。
TV観戦だったが、埼スタでも2階席上方は空席がかなりあった。こんな試合でも満員札止めにならないのか。
ヒートテックの長袖シャツとタイツに衣替えの11月28日。
アジア歴史資料センターの検索ウィンドウを「俘虜 蹴球」で検索すると、以下の3件にヒット。
1)
件名標題(日本語):西密第772号 交戦各国に於ける俘虜の取扱等目録の件(4)
階層:防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>日独戦役>日独戦役>陸軍省 講和条約
>自大正7年至同11年 欧受第466号其他53件 平和条約国際連盟関係書類 其3 審案添付 陸軍省
所蔵館における請求記号:陸軍省-日独戦役平和条約-T7-21-73(所蔵館:防衛省防衛研究所)
組織歴/履歴:陸軍省
内容:第十一章娯楽 俘虜収容所ニ於テ俘虜ニ娯楽ヲ許ス所以ノ者ハ其主上日決シテ俘虜ヲ優遇スルニアラサルコト列国ノ斉ンク認ムル所ニシテ俘虜ノ戦調ナル生活ノ為メ笙々不逞ノ企図ヲテシ其結果ハ取締上ニ影響ヲ来シ或ハ逃走謀叛等ノ事ナシトセス宜レク彼等ノ精神ラ他方面ニ誘致シ此害ヲ避クルト共ニ一方各俘虜ノ保健並ニ精神的ノ慰籍ヲ与ヘントスルニアリ従テ各国共其娯楽概ネ其軌ラ一二ス以下其二三ヲ詳述セン 第一、独逸国 一、室外ノ運動遊戯等娯楽的ニ許可セルモノハ「テニス」踏躍蹴球「ベースボール」「クリツケット」所内ノ散歩拳闘(殊ニ英人)菜園家畜、館養等其他非戦闘員小児ノ為ニ遊戯場ノ設備 二、室内ノ娯楽トシテハ舞踏(殊二露人)
防衛省防衛研究所が所蔵する旧陸軍省文書で、第一次世界大戦の交戦各国の俘虜の取扱に関する文書。室外遊戯として許可されているものに「蹴球」が含まれている。
2)
件名標題(日本語):3月13日(水曜日)
階層:防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>陸軍省雑文書 兵部省陸軍省雑>陸軍省雑>大正
>大正7年自1月至6月 日誌8
所蔵館における請求記号:陸軍省-雑-T7-3-87(所蔵館:防衛省防衛研究所)
組織歴/履歴:陸軍省
内容:送付スヘキモノヲ誤送セシモノニ付其ノ妻女ニ交付方瑞西公使宛願出ノ信書)並金員転送取計方照会アリシヲ以テ信書並金員(価格表記)ヲ公使宛転送セリ 一、「シーメンス」会社ハンス、ドレンクハーンヨリ防衛省防衛研究所が所蔵する旧陸軍省文書で、海兵エミール、ロート宛毎月特別救恤金六円大分収容所俘虜ヘ蹴球一個外二点(直接)及静岡収容所俘虜ヘ「マヨラン」二対度外四点(直接)寄贈方願出シヲ以テ許可シ其ノ旨収容所ヘ通牒セリ 三月十三日(水曜日) 一、独逸国伯林海軍省内俘虜情報局ヘ左記ノ電報(英文)ヲ発ス 左記 日本海軍軍人ニシテ貴局ニ俘虜トナリ居ル者ノ階
防衛省防衛研究所が所蔵する旧陸軍省文書で、シーメンス社のハンス・ドレンクハーンが第一次世界大戦の大分収容所俘虜へ「蹴球一個外二点」を寄贈したことを許可した記録。
3)
件名標題(日本語):5月13日(月曜日)
階層:防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>陸軍省雑文書 兵部省陸軍省雑>陸軍省雑>大正
>大正7年自1月至6月 日誌8
所蔵館における請求記号:陸軍省-雑-T7-3-87(所蔵館:防衛省防衛研究所)
組織歴/履歴:陸軍省
内容:五月十三日(月曜日) 一、当局第四十二回月報ヲ陸軍大臣ニ報告ス 一、似島収容所ヨリ共謀逃走罪ニ依リ禁銅二年六月ニ処セラレ広島監獄収禁中ナリシ俘虜兵卒マツトエーセルス、ストールハ五月十一日仮出獄ヲ許可サレンニ付収容セシ旨通牒アリ 一、名古屋収容所ヨリ没収信書六通端書四葉送付シ来ル 一、当局経費実額調書自大正七年一月一日至同三月三十一日ヲ陸軍東京経理部ヘ送付ス 一、「シーメン」会社ハンス、ドレンクハーンヨリ静岡収容所俘虜ヘ蹴球一個直接寄贈方願出シヲ以テ許可シ其旨収容所通牒セリ 一、日本赤十字社ヨリ在「シユ子ーウ」俘虜救恤中央事務局ノ依頼ニ基リ俘虜ノ安否取調ニ対シ回答セリ
防衛省防衛研究所が所蔵する旧陸軍省文書で、シーメンス社のハンス・ドレンクハーンが第一次世界大戦の静岡収容所俘虜へ「蹴球一個」を寄贈したことを許可した記録。
陸軍省は第一次世界大戦交戦各国の捕虜処遇を研究して、室外遊戯として蹴球が認められていたことを認識していたようだ。日本国内のドイツ捕虜が使用したサッカーボールはシーメンス社員が寄贈したものだった。いずれも大正7(1918)年の文書である。
1泊朝食付き4,500円の朝食。ご飯はおいしい。
新潟行きバスに乗車。
ビッグスワン。
本日宿泊するホテルは万代バスターミナルと道一本隔てただけ。荷物を預けて。
リバークルーズの乗船まで時間があるので、万代橋を渡って。
本町商店街。露天(といってもアーケードの下)で野菜を売ってる。
古町商店街の水島新司『ドカベン』のブロンズ像。
岩鬼がくわえている葉っぱはよく取られるので、朝設置して夕方撤去してるそうだ。
世田谷区桜新町商店街の波平の髪の毛も、何度も同様の被害にあってる。
万代橋西詰の乗船場。
橋の下をくぐるので、船高が低い。
「アナスタシア」とはロマノフな船名w
かなり上流までさかのぼります。
市街地を洪水から守るため、放水路が設けられ、水門が設置されている。
デッキ。
キャビン内。
万代橋をくぐって。
新潟大学ボート部の艇庫。
JR越後線の鉄橋。
川べりに建つマンション。老後は毎日釣りができていいかも。
魚はいるのかというと、葦があって。
カワウがたくさんいるので、魚は豊富にいそうな感じ。
川漁師?もいる。
新潟県庁。
関屋水門を通過。
放水路の向こうはすぐ海。
最上流の乗船場、ふるさと村。ここからUターンして下流方向へ。
万代橋を越えて、朱鷺メッセ。
最下流の乗船場、みなとぴあ。新潟の古い建物を集めた建築博物館。
対岸は佐渡汽船ターミナル。
佐渡汽船方向に入港中の船がいたが、佐渡汽船のフェリーではなさそう。
信濃川河口方面。
漁船。
消防船。
屋形船。
乗船した万代橋西詰で下船。2時間乗りっぱなし、1日乗船券で1,800円。
ホテルにチェックイン。窓からの心和む景色w
晩飯はホテルの隣のビル7Fにあった、新潟の寿司チェーン富寿司で。生ビールと突出し。
白子ポン酢。
刺し盛り。
旬の握り。
握りについてきたあら汁。
しめて4,406円。
ホテルに帰ってTVをつけたら、アルビレックスの今シーズンゴール集をやってた。
1泊朝食付5,400円にしては大変良かった朝食バイキング。ご飯も惣菜もおいしかった。
万代バスターミナルの立ち食い蕎麦屋。食べたことないけど、カレーが有名でレトルトパックまであるそうだ。
池袋行きバスは西武バスの夜行仕様3列シートで、窮屈な思いをしなくて済んだ。
新潟の天気は悪かったが、太平洋側は晴天。
富士山も見えた。
代々木駅のJR新宿バス・ターミナルから。
会津若松行きバスに乗車。
紅葉は終わり。
会津若松駅前。
駅前のビジホに荷物を預け。市内へ。道路の真ん中に融雪用水があるのが雪国の町らしい。
わっぱ飯の田季野のそばの・・・
栄安という蕎麦屋へ。
特製蕎麦600円冷。油揚げ、昆布、天かす、煮キャベツが乗った冷やし蕎麦。量たっぷり。
蕎麦湯がやかんで出てきます。
お城へ。
戊辰戦争で1か月籠城できたのは本丸のまわりの出丸が効果的だったから。
官軍は会津藩の防衛線をあっさり突破して出丸の線までは簡単に進撃できた。
出丸がある上に石垣も高く、官軍の砲撃にも死角があった。
天守閣はコンクリートの再建。
天守閣から東を。
南。
西。
北。
本丸と二の丸の間も深い濠が。
二の丸。
戊辰戦争の古戦場でもあるが、鈴木清順監督『けんかえれじい』で主人公南部麒六の喜多方中勢と会津中昭和白虎隊が決戦したのが会津若松城二の丸。映画も傑作だが、原作も大変面白い。
三の丸には県立博物館。
城のすぐ近くにあった家老西郷頼母邸跡。その養子が講道館四天王の一人で、『姿三四郎』のモデルといわれる西郷四郎。
桜鍋屋。
スーパーの肉売り場でも馬肉を売ってる。
会津若松のメインストリート神明通りにある神明社に。
狛猫がいた。
ホテルにチェックイン。
ホテルの中の中華料理屋でタダ券の生ビール、ムーシーロー、高菜チャーハン。1030円。
『サッカー静岡事始め 静岡師範、浜松師範、志太中、静岡中、浜松一中…』(静岡新聞社編 静岡新聞社 2006)に、静岡師範OBの小花不二夫氏について以下の記述がある。
“昭和五十一年一月、急性肺炎により七十三歳で亡くなったが、長男の公生氏は「父は多くを語らなかったが、とにかくサッカーの虫だった。師範時代は、学校の近くにドイツ人の捕虜が収容されていて、その人からサッカーを教えてもらったと話していた」という。”(p.10)
『大正三四年戦役俘虜写真帖』中の静岡俘虜収容所の「運動(其二)」にサッカーらしき運動をしている写真が掲載されている。
静岡俘虜収容所の住所は静岡県静岡市追手町。
静岡県庁のあるあたりが追手町一帯。静岡師範は同じ追手町の静岡中央署のところにあった。写真に石垣のようなものが写っているが、おそらく駿府城の石垣ではないだろうか。
サッカーミュージアムで開催されている
「デットマール・クラマーと日独サッカー交流展」を見学してきました。
展示内容(サッカーの日独交流)の始まりは、第一次世界大戦のドイツ俘虜収容所ではなく、慶應義塾体育会ソッカー部によるオットー・ネルツ『Fussball』の翻訳になってました。
『Fussball』の実物は初めて見ました。もっと重厚な本かと思っていたら、薄っぺらいパンフレット(定価1冊1マルク)のようで、意外でした。装丁にドイツ表現主義の影響が見受けられますw
長沼健氏がベッケンバウアーにもらった、ベッケンバウアーのサイン入りバイエルン・ミュンヘン・ビアジョッキ。聞くところによると、ドイツのビアホールでは「マイジョッキ」をキープできるとか。
クラマー氏の採用をめぐる、野津謙氏と成田十次郎氏の書簡。成田氏帰国後の進路を、野津氏と竹腰氏が相談したことまで書かれていて、興味深い。
クラマー氏のモットー。これの出典が謎。
すずらん通りの川府という四川料理店で麻婆豆腐丼(680円)を食って帰宅。
『大正三四年戦役俘虜写真帖』俘虜情報局編 (俘虜情報局, 1918)という資料が全文公開されている。第一次世界大戦で捕虜になったドイツ軍兵士の捕虜収容所における写真集である。書名および各ページの写真タイトルにすべてフランス語が併記されていることからわかるように、日本が国際法を遵守し、捕虜を人道的に扱ったことを国際的にアピールするために刊行された写真集である。そのため、写真には捕虜の日常生活が多い。「人道的扱い」を強調するためか、食事、医療衛生、娯楽、郵便などが撮影されている。
サッカーの写真は3件ある。
名古屋俘虜収容所
青野原(現・兵庫県加西市)俘虜収容所
徳島俘虜収容所
日独サッカー交流は広島県の似島俘虜収容所が有名だが、「蹴球」と題する写真が本書に3件あり、他の収容所でもサッカーが行われていたこと、第一次世界大戦の時点でサッカーがドイツ国民に広く普及していたことがわかる。
似島俘虜収容所の「運動」。器械体操してる写真の背後はサッカーしてるようにも見える。
似島俘虜収容所の全員集合写真。グラウンドにゴールポストらしきものが見える。
第一次世界大戦時のドイツ軍捕虜が日本に与えた影響としては、サッカーよりも音楽や演劇の方が著名であろう。それらの写真もある。
松山俘虜収容所
名古屋俘虜収容所
久留米俘虜収容所
徳島俘虜収容所の演劇。女優がいないので、「おやま」が活躍。
坂東俘虜収容所の炊事場、パン焼き、菓子製造、ソーセージ製造。パン、ソーセージやハム、ドイツ菓子の製法もドイツ人捕虜から伝わったことが知られている。
ジャン・ルノワール監督『大いなる幻影』は、第一次世界大戦時のドイツ軍捕虜収容所におけるフランス人捕虜の物語だが、監視するドイツ兵士よりもフランス捕虜の方がいい生活をしていたシーンがあったと記憶している。
松山市駅からはバスで今治駅へ。
観光バス仕様の特急バス。高速ではなく奥道後から山中の国道R317経由。
今治駅到着。
19:30発「小松経由東予港」は小松まで有料の路線バスで、終点の東予港フェリー・ターミナルまで乗れば無料。
当然ながら車体は普通の路線バス。壬生川からタクシーだと1500円はかかるので、船内でゆっくりできる19:30発の無料連絡バスはありがたい。
到着した時点で20時過ぎ。即乗船可能。
「7」なので、いつもながらの特等シングル。混まないうちに大浴場へ。
早速レストランへ。ビーフシチューがあったら注文するつもりだったが、なかった。レストランは、空いてる席を見つけるのが大変なほど混んでいた。
瀬戸内地魚らしい白身魚の煮つけ、焼きなす、冷奴の居酒屋メニューに瓶ビールでまずは一献。フェリーのレストランにCPの高い郷土料理?メニューがあって、「瀬戸内の居酒屋」気分になれるところが、オレンジフェリーのよいところ。
腹が減ってたので、かつ丼も注文したら、けっこうなボリューム。カツと玉子とじは完食できたが、ご飯はたべきれなかった。これだけ飲み食いしても合計2,410円。タクシー代を使わなかった分は、レストランで散財して船会社に還元するつもりだったが。
部屋に帰って、22:30の出航前にパタリと眠る。目が覚めるともう播州沖の気配(部屋は左舷)。
部屋の窓から明石海峡大橋を撮影。
神戸沖あたり。
5時を過ぎ、部屋を出てみると、レストランは大混雑。
朝の大阪南港。
デッキから煙突を。
大阪沖には船がいっぱい。
早朝のデッキ。
かもめフェリーターミナル。
大阪南港フェリー・ターミナルへ。
名門大洋フェリー「フェリーきたきゅうしゅう」。
着岸。
下船する人々。6:00到着で8:00まで在船可能なので、朝風呂に入る。
USJ連絡バスが7:30に出るので、それまで滞在してる客が多く、レストラン利用はあきらめて、フロントで販売しているモーニング・コーヒー200円を部屋で。
7:20ころ出発。
「フェリーで行かない?」
USJ連絡バスが見えた。
今日(10月31日)はハロウィン。
ニュートラムに乗車。
ボートの聖地。
四つ橋線に乗り換え。
終点の西梅田駅へ。
阪神梅田駅構内のカレーショップ「ミンガス」。ここは中学生のころから愛用。昔は「カレーショップ阪神」といってたはず。阪神電鉄経営陣にジャズファンがいるらしく、ブルーノート大阪は阪神電鉄グループ。
レギュラーカレー530円。モーニング時間帯は味噌汁、温泉卵つき。「早い、安い、旨い」の3拍子揃ったスタンド・カレーショップの名店だと思う。東京にもこんな店がほしい。大阪の夏はクソ暑いせいか、スパイシー系カレー店が多い。
地下鉄は高いので、JR各停で新大阪へ。
「ぷらっとこだま」利用なので、いったん改札を出ないといけない。551蓬莱に並ぶ人々。以前は新幹線改札内に蒸したてを食べられる売店があったが、なくなった。「臭害」の苦情で改札内を追い出されたのか? 新幹線車内で551臭害にあわないための最良の方法は、自分も豚まんを食っておくことである。
各停の「こだま」に乗車。
品川で下車。
山手線で渋谷へ。
まだ14:00なのに、スクランブル交差点方面は大混雑。田園都市線、世田谷線で帰宅。
高知駅バスターミナルから松山行き高速バスに乗車。まだ四国に高速道路がなかったころ、高知発松山行きの国鉄バスに乗車したことがある。高知県佐川から愛媛県久万に抜けるR33ルートで、4~5時間くらい7かかったような記憶がある。沿線は四国の秘境という感じだった。
高知道へ。
川之江JCTで松山道へ。
松山道はけっこう標高の高いところを通るので、厳冬期は凍結通行止めになることがある。一度オレンジフェリーの松山連絡バスを利用したら、松山道閉鎖で、シタミチの国道は高速からのトラックと通勤マイカーで大渋滞。松山まで2時間半かかったことがある。厳冬期の松山連絡バスは天候により要注意で、急ぐ場合は壬生川からJR利用の方が堅実かも。
スイスイ流れて高知から2時間半で松山へ。
市内の渋滞もなく。
松山市駅で下車。コインロッカーに荷物を預けて。
松山市駅の「四国唯一」の地下街。
カレー専門店でカレーを食べたら、スパイシーさの全然ないカレーで、久しぶりにウスターソースをカレーにかけて食べた。
松山市駅から伊予鉄高浜線高浜行きに乗車。
車内。
高浜駅で下車。
高浜・興居島は由良と泊の2航路ある。
泊行きが停泊中だった。
乗船。料金は240円で船内で徴収される。
『坊ちゃん』に出てくる「ターナー島」。
その反対側は松山観光港。
興居島・泊方面と小富士。
小高いところに厳島神社。
上陸。興居島案内図。
時刻表。出航まで1時間ほどある。
乗船した、ごごしま「えひめ2」の全景。「えひめ2」は双方向船。
小さな岬に寺院があって。
さらにその先に石灯籠が見えた。
船から見えた厳島神社に行ってみる。
本殿。
真正面。
高浜・由良航路のフェリー。
高浜・中島航路のフェリー。
泊の商店は奥の個人商店と生協のミニスーパーの2件だけ。飲食店はない。
復路は2Fで。
2Fから高浜方面を。
高浜停泊中の中島航路のフェリー。
中島航路は高速船もあり。
中島航路の高速船、「いそかぜ」。
同「あさかぜ」。
高浜港接岸。
駅近くにお好み焼き屋があった。ここで昼飯にすればよかった。
時間があるので、松山観光港まで歩いてみる。
呉・広島航路のフェリー「石手川」が入港中。
小倉航路の夜行便「フェリーくるしま」。
呉・広島航路の双胴型高速船「宮島」。松山観光港は現在この3航路しかない。
フェリー・ターミナルは新装されて、空港のように綺麗になったんだが。
昔からここで宇和島の野中蒲鉾のじゃこ天を販売している。表参道の高級スーパー「紀伊国屋」でみかけたことがあるが、「紀伊国屋、お主も悪よのう」という値段だった。
「手押してんぷら」3枚入り519円を購入。はらんぼ(ホタルジャコ)100%使用で、じゃこ天の最高峰。
テラスのあるカフェでコーヒーを。
「石手川」の出港と。
「宮島」の出港を見送る。
高浜駅に戻り、伊予鉄に乗車。
三津・柳井航路のフェリーが見えた。
まだ時間があるので、松山市駅で乗り換え、郡中線の終点郡中港まで行ってみる。
高浜線は梅津寺・高浜間を除いて複線だったが、こちらは全線単線。
沿線は住宅街で、海は見えない。終点の郡中港駅。
道路を隔ててJR伊予市駅がある。
案内図。
江戸時代末期、万延年間築の商家。
郡中港は漁港。
付近に島がないので、旅客船航路はない。
再び郡中港駅から松山市駅へ。
残るは横河原線だが、ここも郡中線同様、何もなさそう。
長浜渡船乗り場前から長浜バス停への道。遍路道でもある。
漁船の船溜まり。
長浜は高知中心街と桂浜の中間にあるので、種崎よりはずっとバス便が多い。
スーパーがあったので、のぞいてみた。
さすが漁港、地魚が新鮮で安い。
ぼらは刺身で食べられるのか。
室戸産赤むろあじは量もたっぷり、新鮮でメチャ安。
鯨肉が普通に置いてある。南氷洋捕鯨ってまだやってたのか。
鱧チリ食いたいが、東京ではこんなん売ってない。
長浜バス停は始発便もあり。
はりまや橋方面に出て昼食にする予定だったが、急に旧・高知港フェリー・ターミナルに行ってみることを思い立ち、桟橋通五丁目バス停で下車。
桟橋通五丁目は土佐電鉄桟橋線の終点でもある。高知港フェリー・ターミナルがあったころはすべて電車を利用していた。1985年の山口組分裂騒動時、電停近くに一和会系事務所ビルがあり、山口組系が重機特攻した傷跡が生々しかった。
わんぱーくこうちの下が旧・ブルーハイウェイライン乗り場。同右が大阪高知特急フェリー乗り場。
電停から海に沿って少し歩いたところに東京行きブルーハイウェイラインの「さんふらわあくろしお」(その前は「さんふらわあとさ」)乗り場があった。高知発は20:00だったと記憶している。2月の阪神タイガースの安芸キャンプ時、東京から金曜の夜行列車または土曜の羽田発始発便で朝のうちに高知到着、安芸キャンプ見学の後、夕方はりまや橋付近で飲んで東京行きに乗船すれば、日曜夕方17:00頃東京港フェリー・ターミナルだったような記憶がある。大浴場にサウナがあったので、高知で飲み食いした分は、長い乗船時間中に十分減量できたw
『鬼龍院花子の生涯』に出てくる「九反田(くたんだ)」はこの近所のようだ。
大阪高知特急フェリー乗り場は、さらに左に折れたところにあったはず。
当時フェリー待ち時間に利用したことがあるレストランがまだあった。
現在跡地は福山通運のトラック・ターミナルになっていた。大阪・高知特急フェリーは高知21:00発、大阪南港着6:30だったと記憶している。使いやすいダイヤで、高知、大阪とも公共交通の便が良かった。昔のフェリーには珍しく、一等特別室というバス・トイレ付きシングル個室があった。しかもバスタブは全身を伸ばせる洋風だった。レストランはなかったが、おでんなどが食べられるスナックがあり、自販機ともども高知の地酒の品揃えが豊富だった。大阪から乗船すると、船内は土佐弁が飛び交っていて、もう高知についた気分になった。高知発のBGMは『南国土佐を後にして』。出航時のテープ禁止の船会社が多かったが、高知はOK。「別離」のムード満点だった。
再び桟橋通りに戻り、電車ではりまや橋へ。
この路線は短いので、終点の高知駅まで200円均一。
レトロな車内。
はりまや橋で下車。帯屋町で昼食をとるところを探す。ひろめ市場は観光客で一杯。
フェリーに乗船する前、よく練り物を買っていた帯屋町の蒲鉾屋。高知は果物もおいしいので、果物屋でもよく買い物した。
結局、たこ焼き8個380円の昼食。
西原理恵子が退学になった土佐女子高。
日曜市の通り。
チェックインまでまだ時間があるので、高知城にも行ってみる。
板垣退助像。
寄せ手の歩幅が一定になって加速しないよう、幅に変化をつけた石段。
山内一豊妻像。
天守閣の迫力ある石垣。
本丸まで登ってくたびれたところに売店あり。
戦略にはまって、高知名物アイスクリン購入。
現存12天守の一つ。
書院造りの本丸御殿が天守に接続している。
その武者隠し。
高知城パノラマ。
天守閣頂上から東方向。
同南方向。
同西方向。
同北方向。
江戸時代の城下図。現在土佐電鉄が走る東西の道路は、堀川という運河で、そこにはりまや橋が架かっていた。
天守閣頂上内部。
陳列してあった、歌舞伎衣装みたいな山内容堂の陣羽織。
ホテルにチェックイン後、たっぷり風呂に入って飲みに出る。昔から高知の夕方に出現するムクドリの大群。
はりまや橋の明神丸本店。しばらく高知に来ないうちに、カツオの塩タタキというのが名物になっていた。それが売り物の店。
生ビールに突出しのドロメ(生シラス)。
本日のオススメという清水鯖の刺身。清水鯖は関鯖ほど有名ではないが、大変旨いのでメニューにあったら食うべし。
これが塩タタキ。従来はポン酢に浸して、ミョウガ、ニンニク、タマネギ、大葉、ネギなどの薬味をたっぷり添えて食べるのが主流だったが、素材の味そのままに塩だけで食べる趣向。これはこれで旨い。
生ビール2杯の後、阪神キャンプ地安芸に近い土佐鶴の季節限定酒、秋鶴1合。スッキリした飲み口のいい酒だった、
アオリイカのゲソ天ぷら。
昼スーパーにあった沖ウルメ。
清水鯖棒寿司。
勘定書き。しめて5,941円。
ホテルに帰ったら日本シリーズをやってた。あまりに実力差がありすぎて、ちっとも盛り上がらないシリーズだった。セリーグはどこが出ても同じような結果になったでしょうな。
泊まったスーパーホテルの部屋の鍵は暗証方式。前払いで鍵がないので、一時外出やチェックアウトにフロント要員不要の合理化されたシステム。部屋は清潔でベッド幅が広く、バスタブもそこそこ大きかった。
朝食バイキング。朝食付き4,700円なので期待してなかったが、丁寧に作ってあって、ルートインなんかよりずっとましだった。夕食はアラカルトのアテで生ビール2杯、日本酒1合飲んで、6千円弱だったから、1泊2食1,1000円弱で済んだ。高知では夜行フェリーに乗船することが多く、泊まることがあまりなかった。こういうのもアリだったかという感じ。
宇高連絡船があった当時の朝食は、もちろん連絡船うどん。瀬戸大橋開通後も、坂出駅下りホームに立ち食いうどん屋があった。麺(日の出製麺だったらしい)も出汁も旨いうどん屋だと思っていたが、消滅してしまった。
本当は途中下車できないそうだが、改札内に売店はなく、車内販売もないので、乗り継ぎの切符をみせたら改札外で買い物するのは大目に見てくれるようだ。JR四国系列のウイリーウインキーというパン屋で朝食。
高松発高知行きの特急「南風1号」に乗車。
先頭車両かと思っていたら・・・
宇多津駅で岡山始発列車を前に連結。
金比羅さん。
猪ノ鼻トンネルを抜けて吉野川流域に出たところ。このあたりの車窓は、故・宮脇俊三氏も絶賛していた。
吉野川を渡って。
親戚の家もそうだが、日の当たらない谷底は農作不適地なので、標高の高いところに家と畑がある。
阿波池田駅。
ダムができて、急流ではなくなったが、小学生のころはけっこう急流で、泳いでいて流されて死にかかったことがある。
大歩危付近。
高知駅到着。駅前のホテルに荷物を預けて。
はりまや橋へ。
はりまや橋バス停から。
種崎行きバスに乗車。
種崎渡船乗り場。ブルーハイウェイライン廃止後、代わって川崎・宮崎航路のマリン・エキスプレスが高知に寄港していたことがある。ただし、浦戸湾奥のフェリー・ターミナルでなく、湾外の高知新港だった。一度乗船したことがあるが、高知新港にはバス便はなく、タクシーすらいなかった。しかたなく、徒歩でここまで来て渡船に乗船、長浜からバスで中心街に出たことがある。
種崎の対岸が長浜。仁井田のあたりが高知新港。浦戸湾奥の桟橋通五丁目、わんんぱーくこうちあたりが旧・高知港フェリーターミナル。
時刻表。料金は無料。
津波対策のため、乗下船時以外はゲートが閉じられている。
32番札所禅師峰寺と33番札所雪蹊寺の間にあるので、歩き遍路道でもある。浦戸大橋経由または市街を回ると大回りになるので、歩き遍路は必ずこの渡船を利用することになる。
対岸の長浜方面。
浦戸湾の奥方面。
浦戸湾口方面の浦戸大橋。
長浜渡船乗り場。
長浜側から見た浦戸大橋。
浦戸湾を航行する貨物船。
長浜到着。
高知県営渡船「龍馬」全景。