道後・広島・別府紀行 ② 石崎汽船「翔洋丸」・似島汽船「第十こふじ」乗船記
松山観光港到着。小倉行きの「フェリーくるしま」。
呉経由広島行きの「翔洋丸」に乗船。
椅子席。
桟敷席。
1F上に靴を脱いで上がるサロン風席。ブリッジの真下。
松山観光港の売店で買った鯛めし、宇和島野中かまぼこのちくわとビールで昼食。
タグボート。
漁船。
高速船。
僚船「四万十」との反航。
本航路のハイライト、音戸瀬戸が見えてきた。
音戸瀬戸へ。
音戸渡船。
ミシュランに掲載された戸田本店。
音戸大橋を通過。
造船の町には製鉄所も。日新製鋼。
護衛艦。
甲板上で儀式?
ヘリ空母?
戦艦大和を作った旧・呉海軍工廠、現・ジャパン・マリン・ユナイテッド。
海自基地の前を通過。
呉港の前には。
大和ミュージアムと。
鉄のくじら館が並んでます。
軍港「呉」と兵学校の島「江田島」を結ぶフェリーの船名は・・・
旧・帝国海軍の名巡洋艦の船名と同じ。
『仁義なき戦い』で菅原文太が演じた人物のモデルが経営していたホテル。
サンダーバードの基地?みたいな島。
江田島を過ぎて、似島が見えて来たら。
終点の広島宇品港は近い。
宇品港での乗り換え時間が10分しかなく、大急ぎで似島行き「第十こふじ」へ。船内で船賃440円を払う。「第十こふじ」船内。約20分の短距離航路。
船内図。
牡蠣とサッカーが似島のシンボル。牡蠣養殖は今でも盛んだが、「サッカーの島」だったのは昔の話。サッカーとの因縁は、1) 第一次世界大戦のドイツ人捕虜収容所が似島にあり、捕虜にサッカーを教わった広島高師の生徒が広島や神戸にドイツ流サッカーを広めた。 2) 似島中学校教師だった渡部英麿氏が同中を日本有数のサッカー強豪中学に育てた。 3) 似島にあった原爆孤児収容施設、似島学園長森芳磨氏の子息に森健兒(Jリーグ総務主事、Jリーグ創設の立役者の一人)・森孝慈(メキシコオリンピック銅メダリスト、日本代表監督、日本サッカー殿堂入り)兄弟がいた。
ドイツ人捕虜にカール・ユーハイム氏がおり、似島は日本におけるバウム・クーヘン発祥の地でもあった。
船名の「こふじ」は似島の最高峰「小富士」に因む。松山観光港の前にある興居島の最高峰も「小富士」。
似島港が近づく。島らしく、建て込んでいる。
似島に上陸1分。再び乗船。
復路は似島学園経由で宇品港へ。
牡蠣養殖筏の間をかき分けるように進む。
似島学園。現在は精神障害児福祉施設。サッカー史研究会で森健兒氏のお話を拝聴したことがあるが、森家は浄土真宗の高僧を出している安芸門徒の家系で、そのことが原爆孤児救済活動につながっているとのこと。
似島学園桟橋。
「本土」から似島小学校にフェリー通学しているらしい小学生がワラワラと乗船してきた。
教育委員会が過疎の島に小学生を「誘致」しているもよう。大きくなったら、船好きに?
TV放映してた選抜野球に私の地元、長田高校が21世紀枠で出てた。守備がお粗末で、投手の自責点0で敗戦。旧制神戸三中でOBが多く、「被災地」の学校ということで選ばれたんだろうが、一定以上の実力がないと他の出場校に失礼では。
宇品港で下船後に撮影した「第十こふじ」の全景。
広島港駅にいた旧・京都市電車両。
広電に乗車。
翌日に乗車する紙屋町の広島バスセンターの位置を確認、バス乗車券を入手。
再び紙屋町電停から広電に乗車。
広島駅前へ。
本日は代表のアフガニスタン戦があるので、チェックイン前にまず駅ビル2Fの居酒屋で。
生ビールと小いわし刺し。
めばる煮付でまずは一献。
続いて、同じ階のお好み焼き屋で。
イカ天そば入りの夕食。
駅前のビジホにチェックインして。
代表のアフガニスタン戦をTV観戦して就寝。
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