« 「フェリーびざん」に乗って眉山へ ⑥ オーシャン東九フェリー「フェリーびざん」乗船記(復路)  | Main | 梅雨近し »

1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策

はじめに

1936年ベルリン・オリンピックでオリンピック初参加、スウェーデン戦に勝利してベスト8入りした大日本蹴球協会は、地元開催の1940年東京オリンピックには、かつてない強化策を準備した。強化策は1937年3月2日に発表され、翌1937年3月3日付各紙に掲載された。→「大日本蹴球協会の1940年東京オリンピック準備に関する資料集 ② 1937年2月27日、3月1日理事会決定の総合強化策」なお、この強化策は協会機関誌『蹴球』には未掲載である。

1964年東京オリンピック強化策として、日本サッカー史上初めて実現した代表の海外遠征や外国人コーチの招請などは、1940年東京オリンピックの強化策としてすでに計画されていた。また、全国レベルではなく、地方レベル(関東蹴球協会)ではあるが、6人制サッカー・リーグ、実業団リーグ、クラブ・リーグの開催も、1940年東京オリンピック強化策の一環として、ベルリン・オリンピック後に実現している。

1. 東京オリムピック蹴球準備委員会設置

1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策は、1937年3月2日に発表され、翌日の新聞に掲載された。『東京日日』には「体協オリンピック委員会に提出すべき東京大会準備の国内強化策」とあり、体協が各競技団体に強化策の提出を求め、それが公表されたもののようである。

まず、協会内に「東京オリムピック蹴球準備委員会」が設置された。メンバーは以下の通り。

【会長】深尾隆太郎
総務部【部長】鈴木重義【次長】小野卓爾、小長谷亮策
財務部【部長】田邊治太郎【次長】岸本武夫
外事部【部長】野津謙【次長】中島健蔵
宣伝部【部長】山田午郎【次長】中島道雄
設備部【部長】野村正二郎【次長】朝生要人
審判部【部長】濱田諭吉【次長】竹内悌三
技術部【部長】竹腰重丸【次長】市橋時蔵

会長の深尾隆太郎は蹴球協会会長。部長7名は当時8名いた協会理事。残る1名は関西在住(阪神電鉄勤務)の前田純一。総務部長鈴木重義はベルリン・オリンピック代表監督で協会主事、早大OB。次長の小野卓爾はベルリン・オリンピック代表チームのマネージャーで中大OB、小長谷亮策は文理大OB。財務部長の田邊治太郎は田辺製薬オーナー、大阪商大(現・大阪市大)OB、次長の岸本武夫は東大OB。外事部長野津謙は東大医学部OBでアメリカ留学経験者、中島健蔵はフランス文学者で東大OB、東大仏文講師。宣伝部長の山田午郎は東京朝日新聞運動部次長、青山師範OB、次長の中島道雄は東大OB。設備部の野村正二郎は航空研勤務、早大理工学部OB、次長朝生要人は東大OB。審判部長濱田諭吉は慶應ソッカー部初代主将、次長の竹内悌三はベルリン・オリンピック代表主将で東大OB。

注目されるのは技術部で、東京オリンピックが実現していたら、部長竹腰重丸が監督で、次長市橋時蔵がコーチになったであろう。両人とも1930年第9回極東大会優勝経験者。東大OB竹腰はベルリン・オリンピック代表コーチ。慶大OB市橋はベルリン・オリンピック代表候補に選出されたが、当時関西在住(神戸一中OB)で、神戸一中OB大谷一二代表候補落選にともなう関西・関東の対立に巻き込まれ、辞退。当時慶大の黄金時代で、代表には慶大の現役・OB(神戸一中OBも多い)が多数選出されたはずなので、慶大OB市橋の技術部役員選任は妥当と思われる。

総じて、各理事の得意とする分野が割り当てられ、さらに関東・関西の地域的バランスにも一定の配慮が感じられ、協会の総力を結集する意気込みが伝わる人事といえる。

2. 北支チーム招聘

これは実現した。

協会はオリンピック強化策と位置付けているが、1937年4月に来日しているので、すでにスケジュール決定済みのものを、とってつけたようにオリンピック強化策にねじこんだ印象。

北支チームとは、北寧鉄路局足球隊という天津の鉄道系社会人チーム。なかなかの強豪チームで対戦成績は以下の通り。

1937年4月8日 対文理大(東大球場) 6-2
1937年4月11日 対早大(神宮) 1-0 早大イレブンのうちFW加茂(正)、西邑、加茂(健)、HB金、GK佐野はベルリン・オリンピック代表
1937年4月14日 対慶大(神宮) 4-1
1937年4月18日 対全関西(南甲子園) 3-2

北寧鉄路局足球隊はアウェーで4戦全勝。新聞記事によれば、BKからロング・フィードが正確だったが、例によってラフプレーが多かったとのこと。蹴球協会の招聘試合にもかかわらず、機関誌『蹴球』に試合記録がないのは全敗だったからであろうか。

3. 第三回ワールドカップ出場、英・独遠征、世界学生大会出場

これは実現しなかった。日本代表のヨーロッパ遠征は1964年東京オリンピック準備期間中に実現した。世界学生大会への参加は1964年東京オリンピック開催決定以前に実現した。

3.1. ワールドカップ

ワールドカップ出場については、1937年2月7日の協会理事会で決定した。→「大日本蹴球協会の1940年東京オリンピック準備に関する資料集 ① 1938年第3回ワールドカップ・フランス大会参加

その後の『東京朝日新聞』関係記事は、

1937年3月16日付

日本蘭印と顔合せ

【パリ十五日発同盟】 一九三八年度世界蹴球選手権大会は明年六月四日からパリにおいて開催されるが、参加三十五ヶ国に上る盛況さでこの結果実行委員会は予選ラウンドに極東ゾーンを設定、これが勝者を決勝ゾーンに進出せしめる事となり一回戦で日本対蘭領インドチームの顔合せとなった。”

本大会出場16チームに対して35か国が出場希望したため、予選が行われることになった。日本はオランダ領東インド(現・インドネシア)と極東地区予選を争うことになった。

1937年5月22日付

世界蹴球極東予選試合
   来年一月上海で
     我が選手団・八月合宿

大日本蹴球協会改選後初顔合せの理事会は二十日午後六時から駒場ビル協会事務所で鈴木、竹腰、野村、野津、山田の各理事出席の下に開会、参加三十五ヶ国の多数を擁して明年六月四日からパリにおいて開かれる第三回世界蹴球選手権大会が参加国過剰のため既報の如く予選を行ふ必要に迫られ、極東ゾーンが新たに設けられて蘭領東インドと極東代表権を争ふ事になったので、この対策につき慎重協議を進めた結果、左の如く決定し外事委員会の手により蘭領インド蹴球協会にあて打電提案する事となり二十一日午後これを発表した。

一、極東ゾーンの代表決定試合は一九三八年(昭和十三年)一月に行ふ

一、予選地は上海を選ぶ

而して我が代表選手は近く銓衡委員会が結成され同委員会に置いて全国より約四十名の候補者を挙げ八月東京において合宿練習を行ひこの中より二十名の精鋭を選出派遣する事と決定した。”

予選会場は中立地の上海で、1938年1月に予選を行うことを日本側から提案した。

1937年12月13日付

世界守旧選手権に
  我国出場を中止
     東亜の情勢に鑑み

大日本守旧協会理事会は十二日午前十時から協会事務所において深尾会長をはじめ野村、濱田、竹腰、前田、野津、田邊、山田の各理事、小野、藤井の二委員の出席の上開会。明年パリにおいて開かれる筈の千回蹴球選手権大会に初登場を目指して着々準備を進めてゐたが、東亜の情勢は東洋区予選地上海の会場を変更するに立ち至り、同時に予選期日も変更される事となったので、世界選手権大会出場を見合せる事に決定し、左の理由書を発表した。

本協会は世界蹴球選手権大会東洋区に於ける対蘭印戦の予選を上海に於て行ふ希望を有し右を根本原則の一として交渉中なりしも、現在に於ける情勢は到底予選を上海に於て遂こ行する事は不可能なる結果となり、他方FIFAは仏領印度支那サイゴンに於て行ふ様斡旋ありしも、一月サイゴンに於て予選を行ふ事は地域的に且又我が選手が学生を中心とするチームなる以上これまた種々の困難を予想せららるるが故に、今回は出場を見合す事に決定の旨FIFAより之を確認する旨の通告に接す

尚この他の決定事項は次の通りである。

一、東西選抜対抗戦は一月二十三日午後二時南甲子園に於て行ふ”

1937年12月12日ワールドカップ出場断念を正式決定。

1937年7月7日盧溝橋事件が勃発して日中戦争が始まる。同年8月には上海事変が起こり、上海は戦場となって、上海での予選開催は不可能となる。FIFAはフランス領インドシナ(現・ベトナム)のサイゴンでの開催を斡旋したが、日本はこれを拒否、予選不出場を決定した。この結果、オランダ領東インドが本大会に出場、1回戦で準優勝したハンガリーに0-6で大敗した。、オランダ領東インドのメンバーの名前から判断すると、オランダ人、インドネシア人、華僑の混成チームだったようである。

日本のワールドカップ予選初出場は1954年スイス大会、本大会初出場は1998年フランス大会となる。

3.2. 英・独遠征

日本代表のヨーロッパ長期遠征は、1964年東京オリンピック決定後の1960年に実現し、ドイツには遠征したが、イングランド遠征はなかった。

日本代表は1936年ベルリン・オリンピックですでにドイツ遠征を経験している。イギリスでは戦後しばらく対日感情が悪かったせいか、欧州遠征の頻度のわりには日本代表のイングランド初遠征は遅く、メキシコオリンピック後の1971年が初めて。1971年8月4日対ハル・シティ0-5、同8月7日対サザンプトン2-6、同8月10日対グリムスビー・タウン2-7、と完敗続きの3連敗であった。

3.3. 世界学生大会

1964年東京オリンピックとは関係なく、日本学生選抜が1953年に西ドイツ、ドルトムントで開催された世界学生大会に出場した。このチームは渡英しており、1953年9月2日にロンドンで英国学生選抜と対戦、0-2で敗退している。この遠征は、テクニカル面の成果よりも、メンバー中に後に日本サッカーの中枢となる長沼健、岡野俊一郎、平木隆三がいたことで知られている。 

4. 東洋大会に出場

これは実現せず。東洋大会自体が開催されなかった。

『東京朝日新聞』1937年2月9日付に「一、東洋選手権大会大阪開催に関し、準備委員として神田清雄、田邊治太郎、前田純一、高田正夫の四君を依頼す」とある。関西在住の協会関係者が準備委員になっている。

満州国参加問題をめぐって、1934年第10回マニラ大会で幕を閉じた極東選手権に代わる大会として東洋大会を1938年大阪で開催する計画であったが、フィリピンが参加に難色を示し、開催されなかった。大阪が開催地になっているのは、極東選手権が1923年以降日本で開催する際、大阪と東京交互で開催する取り決めがあったからである。1923年第5回は大阪開催、1930年第9回は東京で開催され、極東選手権が継続していたなら、次の日本開催地は大阪になるはずであった。

5. 英国チーム招聘

これはイズリントン・コリンシャンスの来日として実現。

『東京朝日』記事では、「十三年十月役員選手二十名、東京四試合、大阪三試合、名古屋一試合」となっているが、1938年4月7日対全関東1試合(神宮)のみが行われ、4-0で全関東が完勝した。サッカーの母国英国チームの初来日とあって、日本側の期待が大きかったが、拍子抜けの態であった。協会機関誌『蹴球』6巻1号1938年6月号は「日英国際試合特輯」号であるが、「期待外れ」の感想を記している人が多い。コリンシャンスは超長期遠征で疲弊し、コンディションが悪かった上、来日前後の試合でもマニラなどで敗戦しており、本来の実力もそれほどではなかったようである。

戦後のイングランド・クラブチームの初来日は1968年のアーセナル。イングランドの名門プロチームの初来日とあって「興行」として大成功した。→「観衆は一足先に南米化 1968年対アーセナル戦第3戦」 国立競技場で行われた第1戦は5万8千人、第3戦はなんと6万8千人を動員した。当時のアーセナルは現在と違って守備的な地味なサッカーをするチームで、派手なスタープレーヤーはいなかったにもかかわらず、この大人気。ド派手なジョージ・ベストを筆頭に、ボビー・チャールトン、デニス・ローらのスーパースターがいたマンUが来日していたらどうなったことやら。→牛木素吉郎「すばらしかったアーセナル」『サッカーマガジン』1968年7月号

試合結果は1968年5月23日(国立)対日本代表3-1、同5月26日(福岡・平和台)対日本代表1-0、同5月29日対日本代表(国立)4-0で、アーセナルの3戦全勝。日本代表はその年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得したので、代表強化策としても成功だったといえよう。

アーセナル招聘はその後の協会財政強化策の先駆となった。

6. ドイツからコーチ招聘

これは実現しなかった。1964年東京オリンピック準備期間中に実現。

ドイツからのコーチ招聘計画はこれが初めてでなく、1933年に1934年第10回極東選手権マニラ大会強化策としても計画が協会内にあったことが、読売新聞記事にある。

『読売新聞』1933年9月29日付

独逸から蹴球の
   名コーチ招聘
     ―極東大会出征前に

大日本蹴球協会ではかねて外国の優秀チーム或は権威あるコーチを招聘する意向あり昨春ドイツチーム招聘の計画をたてて交渉したところ、同国では種々の都合上第二軍の如き選抜チームの組織を見たのみで、有力なる選手を欠く有様だったので遺憾ながら中止するに至ったが、これが縁となって協会理事鈴木重義氏は非公式にドイツ蹴球界の権威オットー・ネルツ氏の来朝を交渉中であるが、予ねてから日本来遊の意志を持つ同氏の事であるから快諾するものと見られてゐる。

氏はドイツ体操協会のコーチであり、蹴球界の権威としてその著書は日本にも五六種来てゐるが、慶應チームの如きはかねてから同氏の著書によって練習してゐる有様で、氏が明春極東大会遠征前に来朝してわが代表チームを親しくコーチすることは比支両国に必勝を期するわが蹴球チームにとって非常な貢献をなすべく斯界から期待されてゐる。”

オットー・ネルツは専任(フル・タイム)化したドイツ代表初代監督で、その著書『Fussball』(Weidmann, 1926)は慶應義塾体育会ソッカー部が翻訳し、同チームの指針となった。慶應OBの島田晋著『アソシエーション・フットボール』(往来社,1931)の序文では「僕はこの本を殆ど独逸の国際代表ティームコーチ、オットウ・ネルツの著 “Fussball”に依って書いた。」と述べられている。 →「戦前の日本サッカー関係者が参考にした洋書

ネルツはベルリン・オリンピックドイツ代表監督だったが、勝利が確実視され、ヒットラーをはじめとするナチスお歴々の御前試合(ヒットラーが確実に観戦した唯一のサッカー試合)であった、1936年8月7日(同日日本の対イタリア戦があった)の準々決勝対ノルウェー戦でまさかの0-2で敗北、代表監督を退任した。代わって代表監督に就任したのがゼップ・ヘルベルガーなので、ドイツからのコーチ派遣が実現していたら、ヘルベルガーが人選したのではないだろうか。いうまでもなく、ヘルベルガーは1954年ワールドカップスイス大会優勝監督。剛健さとテクニックを併せ持つドイツ代表の伝統を築いた人物。

東京日日新聞記事では「コーチ、トレーナー各一名を昭和十三年十一月ドイツから招聘し翌年二月まで滞在せしめて後述の全日本選抜チームのコーチ並に講習会による一般のコーチ委嘱する」となっていて、さらに代表強化合宿計画では「第一次本年七月十五日-同廿九日、第二次昭和十三年三月廿五日-四月七日、第三次同年十二月廿五日-昭和十四年一月十日(コーチ招聘の時期に合致せしめる)、第四次昭和十四年四月一日-同十五日」とあり、4カ月の滞在期間中に第3次合宿で日本代表をコーチする計画になっていた。

さらに注目すべきは「講習会による一般のコーチを委嘱する」で、1964年東京オリンピック後の1969年クラマー氏による第1回FIFAコーチング・スクールとして実現したのと同様の計画が、1940年幻の東京オリンピック時にすでに存在していたのである。

ドイツからのコーチ招聘が実現したのは、1964年東京オリンピック決定後の1960年、デットマール・クラマー氏であった。ヘルベルガーのアシスタント・コーチだったクラマー氏の人選もヘルベルガーによるものであり、日本サッカーとドイツ代表監督の縁は深い。

7. 米国大学チーム招聘

これも実現しなかった。1964年東京オリンピック開催決定前に実現。

東京日日新聞記事では「米国大学チーム招聘―米国の蹴球はベルリン・オリムピックで優勝チームイタリーと1-0の善戦をなしわが好敵手たり得るので東京大会前年の昭和十四年十一月-十二月の期間に選手十七名、役員三名の大学チームを招き東京で四回、関西で散会の手合せを行ふ」となっていて、おそらくベルリン・オリンピックでイタリアに0-1と善戦したアメリカ代表に注目した関係者のアイデアであろう。日本の対スウェーデン戦はその翌日だったので、スカウティング可能であった。日本は準々決勝でイタリアに0-8で大敗

サッカーでの日米交流はなかったが、野球では日米チームが盛んに往来しており、ヨーロッパよりも安価かつ短期間で交流できた。

日本代表がアメリカ・チーム(代表でもあった)と初対戦したのは、メルボリン・オリンピック直前の1956年10月25日(後楽園競輪場)で、3-5で敗戦。アメリカ代表はメルボルンに行く途中、日本に立ち寄ったもので、10月27日大阪球場特設グラウンドで全関西とも対戦、6-0で大勝している。

8. 代表(候補)合宿

これは実現した。

8.1.第1次合宿(1937年)

東京日日新聞では「代表選手養成練習会―前年度の戦績により日本代表選手銓衡委員会で廿二名を選抜し二週間の合宿練習を行ふ。期日左の通り。第一次本年七月十五日-同廿九日、第二次昭和十三年三月廿五日-四月七日、第三次同年十二月廿五日-昭和十四年一月十日(コーチ招聘の時期に合致せしめる)、第四次昭和十四年四月一日-同十五日」となっていて、期日まで決定していた。

現在では代表候補合宿など「当たり前」のことだが、当時は画期的なことであった。極東選手権、ならびにオリンピック代表の決定法は、1930年以前は代表決定予選会方式で、優勝チームが補強選手を加える形で代表となった。1930年第9回極東選手権東京大会では、1シーズンを通して大学リーグ戦で候補選手を選抜、さらにその中から代表選手を決定した。1934年第10回極東選手権マニラ大会では、すでに始まっていた東西対抗試合を代表選考参考試合とする方法で選考。1936年ベルリン・オリンピックでは、あらかじめ単独チーム主体にすることを決定した上で、さらに参考試合を指定して選抜したが、この方法は関東・関西、さらに朝鮮・内地の軋轢を残す結果となった。→「日本サッカー通史の試み(33) ベルリンへ」「日本サッカー通史の試み(34) オリンピック選手銓衡委員会」「日本サッカー通史の試み(35) 代表候補選考に関西側不満爆発

特定大会の直前ではなく、毎年代表候補を選考して合宿を行う方式は、当時「常備軍」と称された。

第1次代表候補合宿は1937年7月10日~7月19日、慶大山中湖合宿所で実施された。

指導委員と候補選手名は機関誌『蹴球』5巻2号(1937年7月) p.21-22 に掲載されている。

指導委員:竹腰重丸(東大OB)、市橋忠治(時蔵)(慶大OB)、濱田諭吉(慶大OB)、田邊治太郎(大阪商大OB)、工藤孝一(早大OB)、手島志郎(東大OB)、川本泰三(早大OB)、大谷一二(神戸商大OB)

候補選手
FW:右近徳太郎(慶大OB)、川本泰三(早大OB)、大谷一二(神戸商大OB)、増田正純(慶大)、播磨幸太郎(慶大)、二宮洋一(慶大)、篠崎三郎(慶大)、加茂健(早大)、加茂正五(早大)、渡辺操(東大)、前川有三(神戸商大)、林信二郎(関大)、小野礼年(京大)、田中元一(関学)、野沢幸四郎(関学)、裵宗鎬(全普成)
HBおよびFB:石川洋平(慶大)、松本見(慶大)、笠原隆(慶大)、関野正隆(早大)、吉田義臣(早大)、末岡圀孝(早大)、金容植(早大)、種田孝一(東大)、屬義雄(東大)、菊池宏(東大)、木下勇(神戸商大)、吉江経雄(神戸商大)、三田英夫(関学)、森正夫(京大)、前川光男(神戸高商)、康基淳(全普成)、朴奎禎(全普成)、李裕宝(延禧専門)
GK:津田幸男(慶大)、佐野理平(早大)、不破整(早大)、中垣内勝久(文理大)、上吉川梁(関大)

ベルリン・オリンピックで代表候補に落選し、関東・関西の対立の原因となった大谷一二が指導委員兼選手として復活。候補選手39名中慶大9名、早大9名、東大4名、文理大1名、神戸商大・高商5名、関学3名、関大2名、京大2名、全普成3名、延禧専門1名であり、所属チーム地域別では関東23名、関西12名、朝鮮4名と、早大と関東に偏ったベルリン・オリンピック代表からかなり変化した。指導員・候補選手とも関東・関西混成で、朝鮮からもベルリン・オリンピック時よりも多く候補選手を選抜し、来るべき東京オリンピックでは、地域対立を越えたオールジャパン体制で選手選抜を行うという意思が感じられる。

体調不良や兵役のため、右近、川本、前川、加茂正、康、不破、上吉川が参加せず、残り32人が参加した。

合宿の内容については、機関誌『蹴球』5巻3号(1937年9月)で、以下のように詳述されている。

指導練習会の効果(竹腰重丸) p.1-3
審判員報告(竹内悌三) p.4-8 .
国際代表選手候補所感 裨益する所は大きい(笠原隆) 完全に捉へた(田中元一) 偶感二項(裵宗鎬) 先づ自粛自戒(松元一見) 捨石の気構へ(石川洋平) 進境を見出す(朴奎禎) 3FBの実戦化(木下勇) 精神的の収穫(林信二郎) 明日を約束した(金容植) 日本独特のシステム(津田信男) 効果を讃ふ(前川光男) 練習は意識の上に立つ(篠崎三郎) 飛躍への緒(野沢幸四郎) 一歩抜け出た(中垣内勝久) 手堅い道を選べ(李裕宝) p.8-19
合宿日誌 p.20-28

合宿の重点はベルリン・オリンピックで遭遇した3BKシステム(WMシステム)の習熟に置かれた。

8.2. 第2・3次合宿(1938年)

第2次代表合宿については、機関誌『蹴球』5巻7号(1938年3月)に「全日本代表二十五選手 国際試合への常備軍」(p.25)という記事があり、「尚右代表選手の一段の強化を期して来る二十三日から四月七日迄甲子園又は日吉台に於て合宿練習を行ひ今春最強チーム編成の必要あれば即応し得る次第であります。」と記されている。この合宿について、機関誌『蹴球』に記事がないが、『東京朝日新聞』1938年3月25日付に以下の記事がある。

外人何者ぞ
   蹴球代表の初練習

合宿を開始した日本代表選手の練習初日二十四日は予定の勧銀グラウンドを都合のため本郷東大グラウンドに変更して竹腰養成委員長指導の下に午後二時半軽い練習から開始、第一日のこととて基本的技術のみにて簡単に終った。尚練習に先立って竹腰委員長は語る。

昨年合宿では個人技術やスリー・バックの理論を主として研究したので今度はこれを実践に移すことを主眼にし又練習試合は相手を身体の大きく、そして硬い外人選手と仮定してこれに対応する激しいプレーを会得させて行きたい考へです。”

第3次候補合宿は1938年7月10日~7月24日、再び慶大山中湖合宿所で実施された。この合宿については機関誌『蹴球』6巻2号(1938年8月)に以下の記事がある。

精鋭総動員 山中夏の合宿鍛錬 p.8
合宿感想(田中元一、渡辺吉郎、岡本純一、二宮洋一、小畑実、加藤嗣男、津田幸男、笠原隆、篠崎三郎、播磨幸太郎、三田英夫、岡村二郎、松浦利夫、室山知、小野禮年、大山政行、三宅恒好) p.9-15

竹腰委員長談として「技術方面では先づ今秋の日、独、伊三国競技会を目標にベストチームを編成し得るやうに訓練する」と記されている。候補選手は49名に増加。指導委員は指導委員長:竹腰重丸、同委員:濱田諭吉、工藤孝一、手島志郎、田邊治太郎、市橋時蔵、大谷一二、松丸貞一、高山英華。

この合宿中の1938年7月15日、東京オリンピック開催返上が決定したので、第3次合宿をもって1940年東京オリンピックを目的とする強化合宿は終了する。

しかし、特定の大会直前でない「常備軍」方式の代表候補強化合宿に手応えを感じたのか、戦後未だFIFA未加盟で国際試合などありえなかった1948年に代表強化合宿が復活され、戦前ピーク時の技術と経験を次世代に伝える試みがなされている。 機関誌『Soccer』復刊1号(1948年8月)に「全日本合宿練習回顧 練習記録の部(岩谷俊夫)」 p.23-28 には、

“吾々はいつ国際試合が行われても応じ得る力を備え、しかも漸く頭をもたげて来た学生選手たちがその昔国際試合を自ら体験し見聞して高度の技術並びに理論をそなえた人々から急速に吸収しつくして、新しき日本サッカーの国際的地位確立に役割を受持つべき技術を体得し、その大いなる基盤を作らねばならぬ必要に迫られている。”

と、記されている。戦後初の代表合宿は、1948年7月の10日間、静岡県三島の日大三島予科寮で行われた。

特定国際大会直前ではなく、常時代表候補を選抜して強化合宿、強化試合を行う方式は、実はわが国では1940年東京オリンピックを契機に定着したものであり、これが1940年幻の東京オリンピックがサッカー界にもたらした最大の遺産ではないだろうか。ご存じのように、この方式は現在に続いている。

9. 一般指導者講習会

機関誌『蹴球』にはそれらしい記事は見当たらないので、実現したかどうか不明。

読売新聞には「一般指導者講習会毎年八月開催 札幌、函館、仙台、富山、横濱、名古屋、京都、大阪、神戸、廣島、高松、熊本、東京」とあり、場所まで具体的に記されている。

機関誌『蹴球』5巻1号(1937年5月)に「中国協会岡山支部報告 講習会開催(加藤正信)」 p.43-44 があり、協会理事会で強化策が決定する以前の1936年12月26~27日に岡山で講習会が開催されたことが記されている。参加者は2組に分けられた。A組:各学校蹴球部員、一般愛好者、すなわち現役選手で、講師は田辺治太郎、市橋忠治(時蔵)、ベルリン・オリンピック代表の西邑、右近の4名、会場は六高。B組:県下中等学校、小学校教員で、講師は岡山県体育主事・関西蹴球協会理事の岩野次郎、会場は岡山師範。「B組参加者は中国山脈の山奥から駆けつけた小学校の先生等百数十名」の盛況だった。

機関誌『蹴球』5巻2号(1937年7月)の「北海道春季雑感(斎藤斉)」中に、

“◎五月十五日
  第三回蹴球講習会
  場所 北大グラウンド
  講師 堀江氏、補助員、北大蹴球部
 講習科目
  一、基本技術其の他一般
  二、ルール研究
  三、オリムピック講話”

とあって、1937年5月15日に札幌で講習会があったが、これも「第三回」とあり以前から北海道協会が開催していたもので、オリンピック強化策とは関係なさそうである。

岡山、札幌ともベルリン・オリンピック体験談が盛り込まれている。

10. その他 ① 6人制サッカー

1937年2月27日、3月1日理事会決定の総合強化策以外にも、ベルリン・オリンピック後、1940年東京オリンピック準備期間中に新たな取り組みがあった。それらは関東蹴球協会が実施した、地域的に限定されたものであったが、ベルリン・オリンピック代表がほとんど関東選抜であったように、「日本協会=関東協会」という面もあったので、これらにも注目する必要がある。

その他 ① 6人制サッカー

6人制サッカーは、現在のミニ・サッカーと同様、1人あたりのボール・タッチ数を増やして個人技の向上を図るのが主目的であった。関東蹴球協会主催、東京朝日新聞後援で第1回関東六人制蹴球選手権大会は、1937年5月30日~6月13日に27チームが参加して開催、早大Aチームが優勝した。機関誌『蹴球』5巻2号(1937年7月)に「六人制の効果-関東大会評(小野卓爾)」 p.45-47 という記事が掲載されている。その末尾は、

“六人制蹴球に対して次の様な成果を期待している。

(イ) 個人技の拡充、急速なテンポに適応する個人技の調和点の上昇
(ロ) 正確なパスワーク。ポジションの対位、瞥見、予見の能力の進展
(ハ) 耐久力の養成。死点の遅来とその消散の遅速
(ニ) 消極的には対照に於正規の蹴球に於ける場合の欠陥の暴露”

と結ばれている。東京朝日新聞は1937年6月15日~17日に3回にわたる「6人制蹴球座談会」を掲載している。出席者は、【関東協会】朝生要人、小長谷亮策、小野卓爾、竹内悌三、乗富丈夫、本多秀治、工藤孝一、福田剛一【プレイヤー代表】竹腰重丸【本社側】山田、三宅、大橋 であった。それぞれの見出しは「重点は正確なパス」「誤魔化しが利かぬ」「認められた効果 だが野望が足りぬ」であった。

第2回は1938年4月26日~5月1日に開催された。大会の目的を明確化するために3部制とし、第1部:大学・高専・倶楽部、第2部:実業団、第3部:中等学校とし、それぞれ20、9、12チーム、合計41チームが参加した。優勝は、第1部:早大A、第2部:第一生命、第3部:豊島師範、であった。機関誌『蹴球』6巻1号(1938年6月)に「関東六人制大会」 p.21-22 が掲載されている。

第3回は1939年4月23日~30日に、第1部26チーム、第2部11チーム、第3部12チーム、合計49チームが参加して開催され、第1部:東大OB、第2部:慶應病院、第3部:豊島師範、が優勝した。機関誌『蹴球』に記事は見当たらない。

第4回は1940年4月7日~21日に、第1部20チーム、第2部14チーム、第3部14チーム、合計48チームが参加して開催され、第1部:東京倶楽部、第2部:千代田生命A、第3部:青山師範A、が優勝した。東京倶楽部の決勝出場メンバーは、GK:中垣内、BK:立原、竹内、FW:高山英、川本、加茂、と全員日本代表経験者であった。機関誌『蹴球』に記事は見当たらない。

第5回は1941年5月10日~6月1日に、第1部29チーム、第2部15チーム、第3部14チーム、合計58チームが参加して開催され、第1部:明大A、第2部:第一生命A、第3部:青山師範武組、が優勝した。機関誌『蹴球』に記事は見当たらない。

太平洋戦争開始後の1942年にも第6回が開催されている。1942年8月1日~3日に、第1部8チーム、第2部11チーム、第3部12チーム、合計31チームが参加して開催され、第1部:早大WMW、第2部:千代田生命A、第3部:豊島師範龍組、が優勝した。この第6回を最後に、関東六人制蹴球選手権大会は終了した。

11. その他 ② 実業団リーグ戦の開始

関東蹴球協会主催のトーナメント戦、関東実業団蹴球大会は1932年に第1回が開催、1941年第10回まで続いた。→「戦前の関東実業団蹴球大会(関東蹴球協会主催)結果

ベルリン・オリンピック後の1936年11月、関東蹴球協会はクラブチーム、実業団チームの試合機会を増やすため、倶楽部リーグ、実業団リーグを設定することとした。

『東京朝日新聞』1936年11月3日付

蹴球倶楽部リーグ戦を

 我が蹴球界の飛躍を目指す関東蹴球協会は二日午後六時半から協会事務所で理事会を開催、学生チームの充実と相俟って倶楽部チームの実力向上に意を注ぐ事を決議。これが実現を期して先づ従来試合に恵まれなかった倶楽部チームにその機会を与へるべく倶楽部リーグ戦を開催、同時に従来大会開催にのみ留って居た実業団蹴球界にも可及的速かにリーグ戦を設定する事となった。尚関東蹴球協会常例理事会は毎月第一火曜日に開く事に変更した。”

東京実業団蹴球リーグが1936年12月に発足した。

『東京朝日新聞』1936年11月26日付

東京実業団蹴球リーグ

 関東蹴球協会の肝煎りで東京実業団蹴球リーグが結成され、愈来る十二月六日からリーグ戦が開始されることになった。加盟十三チームを三クラスに分ち、首位三チームを以て改めて決勝リーグ戦を行ふが第一次リーグ戦は左の如し。
◇十二月六日 東京火災対日本鋼管(A)日本徴兵対慶応病院(A)東京ガス対航研(B)航技対第一生命(B)浅野対興銀
◇十三日 東京火災対慶応病院(A)日本徴兵対三共(A)マツダ対浅野(A)
◇二十日 日本鋼管対三共(A)東京ガス対第一生命(B)航研対航技(B)マツダ対興銀(C)
◇二十五日 東京ガス対航技(B)マツダ対千代田(C)
◇一月九日 千代田対浅野(C)
◇十日 日本徴兵対東京火災(A)慶応病院対日本鋼管(A)第一生命対航研(B)
◇十七日 日本鋼管対日本徴兵(A)慶応病院対三共(A)
◇二十三日 千代田対興銀(C)
◇二十四日 東京火災対三共(A)” 

日中戦争の泥沼化にもかかわらず、関東実業団蹴球連盟加盟チームは1936年の13チームから1941年には36チームに増加、6部制となる。

“実業団蹴球の加盟チーム

関東実業団蹴球連盟では十六日午後六時から本社会議室で春季総会を開き左記のとほり決定、十七日発表した。

△シーズンを四月末から十月までとす△チームの都合による延期は一回だけ認め、二回延期する場合は棄権と見なす△日立亀戸、桜星倶、東京海上火災、横川電機、三菱倶(横浜ドック)の加盟を承認、更に中島、太田は全試合を東京で行ひ得る場合に加盟承認すること

右の結果加盟チームは三十六チームに達したので各部を従来の五チームから六チームにとして一部から六部まで左のごとく決定した。なほスケジュールは近日決定する。

◇第一部-第一生命、日本鋼管、マツダ、日本光学、千代田生命、朝日東京本社◇第二部-東京火災、興銀、東京ガス、日本銀行、日本徴兵、三共◇第三部-明菓、新潟鉄工所、航技倶、東京計器、日立亀有、浅野セメント◇第四部-石川島造船、北辰電機、日立本社、勧銀、日本曹達、古河電工◇第五部-日清生命、中島飛行機、日本油脂、立川飛行機、日鉱、日本水産◇第六部-日立亀戸、桜星倶、東京海上、横川電機、三菱倶、中島太田”

群馬県の中島太田まで新規加入している。下部にいる新規参入組では、戦争中で景気の良かった軍需関係企業が目立つ。

12. その他 ③ クラブ・リーグ戦の開始

関東蹴球協会では、クラブ、実業団のリーグ戦は同時に計画された。

『東京朝日新聞』1936年11月3日付

“蹴球倶楽部リーグ戦を

 我が蹴球界の飛躍を目指す関東蹴球協会は二日午後六時半から協会事務所で理事会を開催、学生チームの充実と相俟って倶楽部チームの実力向上に意を注ぐ事を決議。これが実現を期して先づ従来試合に恵まれなかった倶楽部チームにその機会を与へるべく倶楽部リーグ戦を開催、同時に従来大会開催にのみ留って居た実業団蹴球界にも可及的速かにリーグ戦を設定する事となった。尚関東蹴球協会常例理事会は毎月第一火曜日に開く事に変更した。”

実業団リーグは1936年暮れに発足したが、クラブ・リーグは翌年に持ち越された。

“蹴球倶楽部連盟
   リーグ戦二組

 関東蹴球協会が肝煎りで倶楽部蹴球連盟結成の段取となった事は既報の如くであるが、十九日午後七時から協会事務所に協会側は、本多、清水、小野、小長谷の四理事、倶楽部側YCAC(エー・ジー・ステヴンス)、アラン会(三宅)、東京蹴球団(山口)、豊島サッカー倶楽部(尾佐竹、須貝)、アストラ倶楽部(吉原)の五倶楽部代表が会合の上、関東倶楽部蹴球連盟結成を申合せ、来る二十三日選手の登録、組合せ、その他を決定する。

 他に埼玉蹴球団の参加も予想されてゐる。尚リーグ戦は加盟倶楽部を二組に分ち、それぞれ優勝倶楽部を決定し、改めて決勝戦を行ふ筈である。”

『東京朝日新聞』1937年2月24日付

“関東倶楽部蹴球戦
   十四日から試合開始

 関東蹴球協会の肝煎りで結成が急がれつつあった関東倶楽部蹴球連盟は二十三日午後七時から協会事務所に各倶楽部の代表が参集の上協議を進めた結果予期通り順調に進み、

 東京倶楽部、東京蹴球団、オールブラックス、豊島サッカー倶楽部、アラン会、アストラ倶楽部、YCAC

の七チームを以て発会式を挙げ、来る十四日から左の如き日割を以てリーグ戦を行ふ事になった。尚アストラ、YCACは選手の都合で本シーズン試合は放棄するが(以下略)”

日中戦争中にもかかわらず、参加チームは増え続け、1939年にはA、B2組に分けてリーグ戦が行われた。

『東京朝日新聞』1938年12月29日付

“関東倶楽部蹴球参加チーム

 関東蹴球協会主催第三回関東倶楽部蹴球リーグ戦は明春一月十五日から約一月半に亘り行はれるが、今回は参加チーム激増の為全チームを抽籤に依りA、B両組に分け、各組の優勝チームを以て決勝戦を行ふ。参加チーム左の通り。

【A組】 東京蹴球団、Y・K・T(武蔵高倶)、K・F・S・E(慶医OB)、アストラ、青蹴会(青学中等部OB)、Y・C・A・C
【B組】 オール・ブラックス、成城蹴球倶楽部、アラン会、埼玉蹴球団、豊島サッカー、国際学友会、M・T・R(東高OB)” 

さらに、1939-40年シーズンにはA,B、C3組になる盛況だった。

『東京朝日新聞』1939年11月11日付

“蹴球倶楽部の蹴球戦組分け

 関東蹴球倶楽部リーグは来る十九日を第一日として明春二月下旬に至る長期間に亙って各組毎にリーグ戦を行ひ、その優勝チームにより改めて決勝リーグ戦を行ふが、組分けは抽籤の結果左の如し。

【A】 YCAC、埼玉蹴球団、豊島サッカー倶、国際学友会、 東京倶楽部 
【B】 三菱倶楽部、オールブラックス、成城倶、アストラ倶、青蹴会
【C】 FSB、アラン会、綱町倶、東京蹴球団、YKT”

太平洋戦争中もクラブ・リーグは続行していたようで、以下の記事がある。さすがに参加チーム数は減少している。

『東京朝日新聞』1942年12月20日付

“倶楽部蹴球の試合方法決る

 関東倶楽部蹴球連盟では、十九日代表委員会を開き、明年度試合方法は紅、白両組それぞれリーグ戦を行ひ、両組の勝者間で優勝決定戦を行ふこととし、期日は一月より五月までと限定した。なほ、紅白の区分は左の通り。

△紅組 暁星、東蹴、埼蹴、豊島、駿台、綱町、稲門
△白組 成城、湘南、青山、向蹴会、法友、東倶

 なほ大日本体育会蹴球部関東支部の十二月下旬執行予定の関東府県対抗中等学校蹴球大会は都合により一時延期と決定した。” 

各年度リーグ戦の結果については、「戦前の関東倶楽部蹴球リーグ戦結果」を参照されたい。結果の要約は以下の通り。

第1回1937年3~4月 優勝:東京倶楽部
第2回1937年11月~1938年3月 優勝:YCAC
第3回1939年1月~3月 優勝:埼玉蹴球団
第4回1939年11月~1940年2月 優勝:東京倶楽部
第5回1940年11月(?)~1941年3月(3月の試合はディビジョン昇降のための順位決定戦) 優勝:東京倶楽部

東京倶楽部は代表クラスのみを集めたオールスター・チームで、東京六大学の主将クラスを集めた同名の都市対抗野球の東京倶楽部に先例があった。外国人クラブのYCAC、戦後の国体サッカーの強豪埼玉教員の前身、埼玉蹴球団も優勝している。


|

« 「フェリーびざん」に乗って眉山へ ⑥ オーシャン東九フェリー「フェリーびざん」乗船記(復路)  | Main | 梅雨近し »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 「フェリーびざん」に乗って眉山へ ⑥ オーシャン東九フェリー「フェリーびざん」乗船記(復路)  | Main | 梅雨近し »