壱岐・関門紀行 ⑤ ハンター坂と旧・ハンター邸
タクシーによる無料送迎はアイランド北口駅まで。
六甲ライナーで阪神魚崎駅に移動。短距離なのに250円のボッタクリ。うっかり六甲アイランドなんかに住むと、通勤手当の出る現役時代はいいとしても、老後は不便で金もかかりそう。
阪神魚崎駅で乗車したのは近鉄車両。
三宮で下車。
徒歩でハンター坂へ。
坂のとば口ににしむら珈琲本店がある。並びに老舗パン屋のフロインドリーブがあったはずだが、移転したようだ。
京都のイノダ同様、新聞をもってきてくれるサービスあり。
店内。
サラダセット(800円)。パンはいまでもフロインドリーブなのかな。
再び三宮へ。今度は阪急で。
王子公園で下車。
王子動物園は小学校の遠足以来。半世紀ぶりw
その一画にハンター坂のてっぺんにあったハンター邸が移築されている。
国指定重要文化財。神戸異人館中最大規模の建築。
説明文。
エドワード・ハズレット・ハンター氏はアイルランド生まれの英国人。来日して神戸小野浜のキルビー氏経営の造船所(神戸鉄工所)で造船業を修行。独立して、大阪に日本3大造船所といわれた大阪鉄工所(現・日立造船 跡地は現・USJ)を創業。『現代兵庫県人物史』(県友社 1911)によれば、現・山手通開通のため私有地を無償で寄付し、条約改正に際して横浜居留地の英国人が反対したのに対し、神戸居留地を条約改正賛成でまとめ、日本人にも一目置かれた人物だった。官需が大きい造船業経営のため、子息を日本に帰化させ、範多姓を名乗らせた。長男、範多竜太郎氏は『全国五十万円以上資産家表』(時事新報社 1916)では、住友、藤田、久原、鴻池などの「財閥」に続いて、大阪府第6位の資産家となっている。
今は移築された建物しか残ってないが、ハンター邸の門や塀はかなり離れたところにあって、広大な敷地の大邸宅だったようだ。中央の緑色がハンター坂。その東西に広大な土地を所有していた。
10月は内部公開されている。
ハンター坂、ハンター邸にこだわったのは、範多家からサッカー史に関連する人物がいるからだった。その人は範多龍平。範多竜太郎氏の長男で、ハンター氏の孫にあたる。
神戸一中蹴球部大正6(1917)年度主将。3年後輩の主将に、吉田茂の側近として著名な白洲次郎がいる。『神戸一中蹴球史』より。
同中を1918年卒業、慶應義塾入学。大正10(1921)年創立の大日本蹴球協会が同年開催した日本最初のサッカー公式戦第1回全日本選手権(現・天皇杯)東部予選会に慶應義塾アッソシエーションフットボール倶楽部主将として参加。『大日本蹴球協会会報大正十年度』より。この時代は体育会ソッカー部となる前なので、大学グラウンドが使えず、芝公園で練習してたとか。いわば、慶應サッカーの祖といえる人物。
また、ハンター氏の次男、龍平の叔父にあたる範多範三郎は、日本におけるフライ・フィッシングの創始者で、中禅寺湖にあったトーマス・グラバーの別荘を買収、東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部を創設。倶楽部のメンバーは加藤高明首相が会長、副会長鍋島直映、岩崎小弥太、理事長が彼自身、会員は華族や在日外交官など。範三郎夫人は犬養内閣書記官長(官房長官)森恪の姉妹で、趣味や閨閥によって、日本の上流社会と結ばれていた。ハンター(範多)一族は経済的に日本に同化しただけでなく、フットボールやフライ・フィッシングのようなイギリス文化の紹介者でもあった。
せっかく動物園に来たので、動物も見てきました。
ハンター邸の横はカバ舎。見てると癒されるが、ペットにするのは無理。
カバ舎にあった。範多機械は動物サポーター。
昔、栗林公園のショボイ動物園に「日本唯一」と銘打ったナマケモノがいた。それ以来。
目玉のパンダ。名は「タンタン」。四川の産とはいえ・・・ 花椒でも食って、目を覚ませ!
歩いてるコアラがいた。
灘駅からJRで新大阪へ。
尼崎市内のJR線路沿いに、日本サッカーリーグ時代のヤンマー練習場が今も残ってる。釜本や吉村はここで練習してた。カルロスという同リーグ初の黒人選手がヤンマーにいて、電車からでも目立ってた。
新大阪駅「ピッコロ」でビーフカレー(680円)
ぷらっとこだまで帰京。
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